《12》
その日、クーロンが局地的な地震に見舞われた。
時間にして一〇秒にも満たなかった揺れは、轟々と地獄の叫びをあげながら地面に亀裂を走らせ、街を闊歩していた多くの者が足を取られ亀裂の中に呑まれていった。
悲鳴があがり、幼子が泣く声や獣の咆哮は、地響きに掻き消された。
悲痛の声をあげたのは人や獣だけではない。建物や道や風さえも声をあげ、ガラス製品の割れる音が街のあちらこちらから鳴り響き、街中の点けてもいない電気が勝手に点き、蛍光灯や電球が弾け飛んで割れた。
魔導炉からのエネルギー供給は一時的にストップし、電気系統のトラブルや二次災害による事故や火災が起きた。そして、多くの場所で被害が出るとともに死傷者も出てしまった。
これが自然災害ではなく、あるモノによって引き起こされた地震であることを知っているのは五人のみだ。その五人は今、クーロンの地下にいる。
銀色の箱は凄まじい輝きを放ち、リリスが部屋の中心から少し離れると、その床から鳴り響くモーター音とともに煙が立ち昇り、筒状の物体がせり上がってきた。荘厳とさえ言えるその登場は、神の光臨を思わせたほどだ。
激しい揺れによって壁に叩き付けられていたセレンだったが、やっと揺れが治まり、光も治まってきたところで、自然と部屋の中心に向かって足を運ばせていた。そう、部屋の中心に現れたモノに惹き付けられるように、足が勝手に動いてしまったのだ。
部屋の中心に現れた筒状の物体は、直径一・五メートル、高さ二メートルほどの液体が満たされた硝子ケースで、中には人型をした物体が入っていた。
硝子ケースに片手をつけたセレンは、中に入っている物体に魅了されていた。
「……綺麗」
表現力の乏しい言葉だが、そうとしか言えなかった。
中に入っていたのは可憐な〝少女〟だった。
硝子ケースの中に入っていたのは十三、四歳の〝少女〟で、衣服などはまったく身に付けていなかったが、その代わりに白と紅の翼が身体を包み込み、膝を抱えるようにして〝少女〟は安らかに眠っていた。その表情はまるで天使のように安らかで、世の中の穢れを知らぬ純粋無垢な顔をしていた。
腕組みをしながら〝少女〟を見るトッシュが、難しそうな顔をした。
「これがエネルギープラントか?」
トッシュの横でライザも難しい顔をしていた。
「人型とは聞いていたけど、ただのキメラにしか見えないわ」
キメラとは獅子の頭を持ち、山羊の胴に蛇の尾を持つ怪物ことで、異なった遺伝子型が身体の各部で混在する生物のことも指し示す。
誰にも気づかれずに、ローブを纏った老婆の姿になっていたリリスが、硝子ケースの中にいる〝少女〟を懐かしい眼差しで見つめていた。
「人型エネルギープラントのゼロ号機じゃ。これが最初で最後の人型エネルギープラントじゃよ」
「開発が打ち切りになったということか?」
トッシュがそう尋ねると、リリスは深く頷いた。
「そうじゃ。あまりにも強大な力を持つがゆえに、造られたのはこれ一機のみ。そして、この子の存在は歴史から抹消され、地下深くに厳重に封印されたのじゃ」
そんなものをなぜリリスは今更封印を解く気になったのか?
リリスは深い皺の刻まれた顔で哀愁を浮かべた。
「この子を永遠の眠りに就かせたのはわしらの勝手じゃ。この子が望むようにしてやるのもよいじゃろう。たとえ世界が滅びようとわしには関係ないからの、ほほほっ」
硝子の中で眠る〝少女〟に世界を滅ぼすほどの力があるのか。だとしたら、この〝少女〟は、天使ではなく悪魔だ。
四人が硝子ケースの近くに集まる中、ただひとり遠く離れた場所で壁にもたれ掛かっている者がいる――アレンだ。
歯車の音は鳴り続け、アレンは額から冷たい汗をかいていた。
「わけわかんねえ……」
それはアレンにも理解しがたい、今までに経験したことのない現象だった。
近づけば近づくほど〝身体〟が苦しくなる。けれど、アレンは硝子の中で眠る〝少女〟に呼ばれていた。アレンは今、矛盾という壁に板ばさみにされている状態だった。
蒼ざめた顔をしているアレンに気が付いたセレンは、少し慌てた表情をしてアレンの元へ駆け寄ってきた。
「アレンさん大丈夫ですか、顔色が悪いですよ」
「腹が減っただけ」
「はい?」
不思議な顔をしたセレンは不思議な音を聞いた。それは腹の虫が鳴く音ではない。もっと奇妙な音だ。その音が歯車の回転する音だということをセレンは知る由もない。
セレン以外のものはアレンを気にすることなく、硝子ケースの前で話を続けていた。
「中から出して平気か?」
と聞きながらトッシュはリリスに視線を向けた。
「出してもいいのじゃが、そのときは子のが目覚めるときじゃ」
「俺様に装置全体を運ぶ術はない。となると、中味だけを運ぶしかないな」
「おぬし、本当にこの子を目覚めさせる気かい?」
「もちろんだ。でなきゃ、ここまで来た甲斐がないだろう」
「ちょっと待ってくださらない、アタクシのことをお忘れかしら?」
二人の会話にライザが割り込んだ。
「アタクシ――いいえ、帝國側としても、このエネルギープラントの所有権を主張するわ」
「ちょっと待て、〈扉〉を最初に発見したのも、この部屋に入ったのも、俺様が先だ」
少し声を張り上げたトッシュの眼前に、長く伸びた人差し指が立てられ、ライザが舌を鳴らしながら人差し指を横に振った。
「残念だけど、この土地は帝國が買収したわ。だからこの土地から出てきたものは、帝國のもの」
「それは地上の空き地の話だろう。おそらくこの上は街の中心部、空き地から遠く離れた場所だ。それでも権利を主張するか?」
「だったら、この場で殺り合うかしら?」
ライザの手は白いコートの内側に差し込まれ、トッシュもそれに応じて腰に手を掛けようとしたときだった。〝少女〟の口から小さな泡がシャボン玉のようにいくつも吐き出されたのだ。
思わずライザとトッシュは〝少女〟に目を向けた。
〝少女〟の安らかな表情はなにひとつ変わらない。ただ、小さな口から泡が吐き出されただけだ。けれど、誰もがそれを予兆と感じた。
歯車が鳴っている。
――呼ばれている。
セレンはゆっくりと歩くアレンの背中を追っていた。
硝子ケースの前に立っていた三人は、なぜかアレンに道を空けた。それは本能的なものだったに違いない。
〝少女〟を包んでいた白と紅の翼が水の中で揺れ動き、閉じられていた瞳が微かに動く。そして、リリスの瞳が妖しく輝いた。
「ほほほっ、共鳴しているようじゃな。わしが目覚めさせんでも、この子が目覚めるようじゃぞ」
その言葉はすぐに実現した。
アレンと〝少女〟の距離が一メートルを切ったとき、〝少女〟を包んでいた硝子ケースが、シャボン玉が弾けるように跡形もなく割れた。それはまるで儚い夢が弾けたように。
〝少女〟を優しく包み込んでいた溶液は、壁を失い外に流れ出し、七色に輝いた。そして、すぐに蒸発して消える。すべてはおぼろげな記憶と化したのだ。
白翼が開かれ、紅翼が開かれ、そこに現れた一糸纏わぬ清らかなる〝少女〟の裸体は、瑞々しさを放ち輝いていた。まさにその姿は狂い無き創造物。神ですら創らなかった美を、古のヒトが創り出していたのである。それは果たして神をも畏れぬ大罪か?
静かに開かれた〝少女〟の瞳が、目の前にいる〝少年〟を寝ぼけ眼で愛くるしく見つめた。
「私と……同じ……」
小さな声を漏らした〝少女〟は赤子のような無邪気な笑みを浮かべた。
純粋過ぎるが故の不自然と底知れぬ恐怖を感じたライザが微笑んだ。
「いいわ、最高よ。この子はアタクシが預かるわ」
素早くライザが〝少女〟の腕を掴むが、掴まれた当の本人は自分の置かれている状況が理解できないのか、きょとんとした表情をしながら真ん丸の瞳でライザを見つめている。
〝少女〟を我が物にしようとするライザに対して、トッシュが〈レッドドラゴン〉の銃口を向けた。
「可愛い子の独り占めはよくないな」
「あら、早い者勝ちじゃなくて?」
「四対一だ」
この言葉に対して、すぐにセレンが声を荒げた。
「わたしを数に入れないでください!」
「わしも入れないでもらおうかの」
セレンとリリスに嫌な顔をされ、頭を掻いたトッシュはアレンに視線を移した。するとアレンは、今までにないほどの真剣な顔をしているではないか。
「その子を外に出しちゃいけない……よーな気がする」
と、そのままリリスに視線を移して言葉を続けた。
「あんたはやっぱ糞婆だ。なんで封印を解いたんだよ!」
「わしは自由気ままに生きているだけじゃ」
「糞婆!」
リリスを罵ったアレンはライザに視線を戻して、〈グングニール〉を構えた。
――これで二対一。ハンドガンを構える〝少年〟と〝暗黒街の一匹狼〟、〝少女〟を人質に捕った〝ライオンヘア〟。互いに対峙し一歩も動かない。
ライザの身体が霧の中にいるように霞んだ。だが、すぐになにごともなかったように輪郭がシャープになり、ライザが舌打ちをした。
「ここじゃ無理みたいね」
いったいなんのことを言っているのか? それに気づいたのはリリスとアレンだった。しかし、声に出したのはアレンのみだ。
「空間転送か!」
いつかの市場でアレンの前からライザが突如姿を消したあの現象。だが、この白銀の箱の中ではその効果を発揮できなかったのだ。
〝少女〟の腕を強く掴んだライザが床を力強く蹴り上げる。
出口へ走るライザの背中を追いながらトッシュが叫んだ。
「攻撃するな、〝少女〟を無傷で奪還しろ!」
「言われなくてもわっかってらーっ!」
逃げるライザをトッシュとアレンが素早く追う。しかし、ライザの勝ちだ。
白銀の箱を出たライザは後ろを振り返り妖しく微笑んだ。
「では、御機嫌よう」
ライザの身体とともに〝少女〟の身体が霞んだ。
「セレン捕まえろ!」
それはアレンの叫びだった。
アレンの視線の先にはトッシュが居り、その先には出入り口付近で突っ立っているセレンがいた。この距離ならセレンが一番近いとアレンは判断したのだ。
突然のことにセレンはびっくりしながらも、すぐに自分のするべきことに気づき、〝少女〟に手を伸ばした。
――そして、消えた。
ライザと〝少女〟が空間に解けるように消え。〝少女〟の腕を掴んだセレンもまた、空間に呑み込まれるようにして姿を消してしまったのだ。
三人もの人間が消えてしまうという不可解な現象を前にして、トッシュは口を半開きにしながらアレンとリリスに顔を向けた。
「なんだありゃ、人が消えたぞ?」
それはトッシュにとってはじめて見る光景だった。魔導というものが、この世に存在していることを理解しながらも、人が消えるなどという現象は信じがたいことだったのだ。
床に胡坐をかき頭を抱えるトッシュのもとにリリスが歩み寄った。
「あれは空間転送じゃな」
「空間転送ってなんだ?」
「人を瞬間的に移動させる手段じゃよ。とは言っても、決まった場所にしかいけないうえに一方通行じゃ。街の外に飛空挺が停まって居ったことを考えると、あの中に移動したのかのお?」
手に顎を乗せて考え込みはじめたトッシュの前にアレンが座った。
「仕事どーすんだよ。あの〝少女〟を奪還しに行くのかよ?」
「行かない」
「はぁ!?」
それはアレンにとっても予想だにしなかった返事だった。
「行かないと言ったんだ。ミッションは失敗、おまえへの支払いは半額の五〇〇〇イェンだな」
「はぁ? ちゃんと全額支払えよ」
「仕事に失敗したんだから、半額だけでも払ってもらえるだけ感謝しろ」
「もういらねぇーよ。あんたから一銭ももらわねえ。だから今後一切俺にかかわるなよ糞オヤジがっ!!」
顔を真っ赤にしたアレンが、のっしのっしと大股開きで出口に向かって行く。そんな怒りを露わにするアレンの背中に、飄々とした声でリリスが声をかける。
「どこに行くのじゃ?」
リリスの呼び止めに、アレンは顔を蛸みたいな真っ赤にして振り返り、大声で怒鳴った。
「あんたも今後一切俺と関わるなよ! あんたらと組むとロクなことがないっつーことに気づいた。……糞っ!」
アレンは独り坑道の奥へと消えていった。
待遇としては牢屋に入れられなかっただけマシだろう。それが自分を慰めるセレンの考えだった。
部屋は一人でいるには広く、床には金糸と銀糸の刺繍がされた赤絨毯が敷かれ、テーブルや椅子といった家具にはこみいった曲線模様の細工がされ、部屋は華やかな色彩を放つロココ様式にまとめられていた。
豪華絢爛なこの部屋にもてなされるのは、普段であれば一流の貴族に違いないが、今この部屋にいるのは、汚れた僧服を着た十五歳の小娘だ。釣り合いが取れていないのが目に見えて明らかだ。
こんな部屋に入れられている以上は、立派な客人として迎えられていると思いきや、どうやら違うらしい。ドアは鍵が掛けられておらず開きっぱなしになっているが、その先には見張り役の男が立っており、窓はもとから開かぬように嵌め殺しの窓になっている。これでは逃げようがない。
セレンは部屋中を意味もなく歩き回った。やることがないのだ。
窓の外に広がる光景は、朱色に染まったクーロンの街だ。朱色に染まった空へ街から吐き出される黒い煙が伸び、街はすでに地震から立ち直り、二十四時間眠らぬ街にふさわしい活気を取り戻している。
セレンはクーロン地下坑道からここ――〈キュクロプス〉艦内への空間転送に巻き込まれてしまった。そして、すぐにこの部屋で軟禁状態にされ、〝少女〟がどこに連れて行かれたか知らない。
部屋は今セレンがいる場所の他に寝室とシャワールームがある。なに不自由ない部屋だが、それは囲いの中の自由だ。こんなところにいられない――というのが、セレンの気持ちだった。
どこでどう運命を見誤ってしまったのか。アレンと出会わなければ、もっと平凡なシスターとして一生を終えていただろう。いや、アレンと出会う前の時点で、裏路地に入ってさえいなければ、あの時間にあの道を、買い物を――運命の鎖を辿れば尽きることない。
部屋を歩き回っていたセレンはシャワールームに足を運んだ。シャワーを浴びるためではない。逃げ道を探すためだ。
天井を見上げた視線の先に、通気孔の入り口が見えた。蓋が閉まっているが、簡単に外せそうで、小柄なセレンならば中に入れるくらいの大きさだ。
天井までの高さはそれほど高くないが、セレンが両手をめいいっぱい上げてジャンプしても届きそうもない。
部屋の外の見張りに悟られぬように、セレンはそっと椅子を一つ運んで来ると、通気孔の真下に置いた。
椅子に乗ったセレンが両手を上に伸ばすと、楽々と天井に手がついた。これで上に登れる。
通気孔の蓋を開けたセレンは、暗闇の中に恐る恐る手を入れ、縁に手を掛け、肘を掛け、踵が少し浮いた。
ぐっと細い腕に力が入り、踵がゆっくりと椅子の上に降りた。
「登れない」
肘を掛けたところで足が浮いてしまい、それ以上動けない。筋力のないセレンには、とても通気孔までよじ登ることができないようだ。
小さな口元から、ゆっくりと息を吐いたセレンは、心の中で数を数えた。
三、二、一――。
椅子を踏み台にしてセレンが勢いよく飛び上がった。
片足が椅子の背もたれに引っかかり、椅子が大きな音を立てて床に倒れた。
通気孔の中に両肘を掛けられたのはいいが、足場を失い、力も入らず、セレンは足をバタつかせながら、その場から動けなくなってしまった。
やがて部屋の外から物音を聞いて駆けつけて来た見張り役の兵士に、ライフルの銃口を向けられてしまった。
「そこでなにをしている? 早く降りて来い!」
セレンからは下にいる兵士の顔が見えなかった。顔を通気孔の中に突っ込んでいる。
声に命じられるままにセレンは降りようとしたが、下が見えないために床までの距離が掴めず、
「すみません、降りるの手伝ってくださいませんか?」
と暗い通気孔の中に声を響かせた。
どこからかため息を吐くような声が聞こえ、セレンの両足が抱きかかえられるように掴まれた。
「ゆっくりと手を放して降りて来い」
「ありがとうございますぅ」
床の降ろされたセレンは、そのまま腕を掴まえれ、リビングまで歩かされると、銃口を向けられ椅子に座らされた。
「じっと座っていろ」
「はい」
力ない声でセレンは返事をした。
状況は完全に悪化した。
手足を縛られることはなかったが、椅子から一歩も動けず、常に自分に銃口を向ける兵士が凛とした態度で立っている。セレンは目を伏せ、重いため息を吐いた。――逃げ出そうなんて考えなければよかった。
そもそもセレンひとりで逃げられるわけがない。それに逃げる途中で銃弾に晒される可能性は大いにある。そう考えると、セレン身体をゾクゾクとさせて身震いをした。
最初から殺す目的なら、こんなところに閉じ込めておくはずがない。じっとしていれば殺される心配はない。そう思ったセレンは運命に身を任せることにした。
だが、しばらくしてセレンは足をムズムズと悶えるように動かしはじめた。
妙な動きをするセレンに対してライフル銃を構え直した兵士が聞く。
「どうした?」
「あの、えっと……トイレに行きたいのですが?」
顔を真っ赤にしたセレンは恥ずかしそうに言った。そう言えば、ずっとゴタゴタに巻き込まれ、トイレに行く暇などなかったのだ。
尿失禁しそうな強い尿意を催し、寒気がして鳥肌が立ったセレンは、相手の承諾を得る前に立ち上がった。
「ごめんなさい、我慢できません!」
「仕方ない、俺の前をゆっくり歩け」
背中に銃口を突きつけられ、トイレに向かってゆっくりと歩き出した。速く歩きたいのは山々だが、ゆっくり歩けと命令されている上に、走りなどしたら恥ずかしいことになってしまいそうだった。
「扉は開けたままにしろ」
トイレの前に来たところで、兵士がとんでもないことを言い、セレンは顔を真っ赤にして眼を剥いた。
「な、なんでですか!?」
「可笑しな真似をしないとも限らない」
「窓もない密室から逃げられるわけないじゃないですか!」
「わかった、ドアは閉めていい。その代わり早く済ませろよ」
ドアを閉めて密室の中でひとりになったセレンは、僧服の裾を巻く仕上げパンティを下ろすと便座に腰掛けた。
「はぁ」
自然と安堵のため息が漏れ、セレンはふと天井を見上げて、大きな目をいつも以上に大きく開けた。
トイレの外で待っている兵士はライフルの銃口を天に向けて構え、微動だにせずセレンのことを待ち続けていた。
三分の時間が流れ、五分を過ぎた。
なにか可笑しいと思った兵士はトイレのドアを強く叩いた。
「早く出て来い!」
少し強い口調で言ったが、応じる答えはなく、しーんと静まり返っている。まるでなかに人がいなようだ。と、ここで兵士ははっとした顔をしてドアノブに手を掛けて、壊れんばかりに強く廻した。
「返事をしろ!」
返事はない。ドアも開かない。――してやられた!
兵士は足を上げてドアを蹴破ろうとしたが、足跡が付いただけでびくともしない。
已む無く兵士はライフル銃を構えた。艦内での銃の使用は基本的に制限があるが、これは緊急事態だった。
ドアノブに三発の銃弾を喰らわせ、ドアを蹴破り中に突入した兵士は辺りを見回した。
一般人には不必要と思える大きな個室には、洗面台が設置され、便器の蓋は閉められ誰も座っていない――もぬけの殻だ。ただ、びゅうびゅうと風の音が鳴っている。天井の通気孔が開いていた。そこからセレンは逃げたのだ。
通信機でどこかに連絡をした兵士は、閉まっている便器の蓋に足を掛けて、すぐに通気孔の中に入っていた。
そして、少し経ったところで、洗面台の下に設置されていた棚の蓋が内側から開かれ、セレンがひょっこり顔を出した。彼女はずっとトイレの中で息を潜め、じっと兵士が通気孔に入ってくれるのを祈っていたのだ。セレンの作戦にまんまと敵は嵌ったわけだ。と言いたいところだが、これは不幸中の幸いがもたらした出来事だった。
本当は通気孔から逃げようとしたのだが、またしても背が足りなかったのだ。セレンが右往左往していると、外から兵士の怒鳴り声が聞こえ、慌てて彼女は棚の中に隠れたのだ。そして、運は彼女を味方した。
だが、これから先、セレンはこの敵陣の中からどうやって脱出する気なのだろうか。運もそうは味方してくれないだろう。そして、セレン自身も自分の運が、人よりも悪いことを身に沁みてわかっていた。
頭を抱えたセレンは重い足取りで歩きはじめた。