魔剣士

《1》

「くしゅん!」
 時雨[シグレ]の可愛らしいくしゃみが部屋に木霊する。
 鼻をすすり辛そうな顔をする時雨の顔をハルナがまじまじと覗き込んできた。
「だいじょぶですか、テンチョ」
「完全に風邪だよコレ、くしゅん!」
 2月もあと残すところ数日、四季は春に移ろいつつある。この時期注意しなくてはいけないことの一つに風邪の予防があげられるだろう。
 『いつのボクはお茶飲んでるから平気だよ』と自信満々に言っていた時雨だったのだが、ついに風邪の間の手が彼に襲い掛かった。しかも、時雨は季節の変わり目には必ずと言っていいほど風邪を引いているらしい。
 時雨は顔を真っ赤にして虚ろな瞳をしている。
「あ~頭がガンガンするよ」
「こたつに入りながらアイスなんて食べてるからいけないんですよ~」
「だってぇ、こたつに入りながらアイス食べのっておいしいんだよぉ」
 寒い地方の中には冬にアイス屋さんがまるでやきいもを売るようにアイスを売り歩いて地域もある。人々はそのアイスを買い、暖房の効いた部屋でそれを食べながら至福の時を満喫するらしい。
 時雨の風邪は彼の中で限界を越えていた。こんなに酷い風邪を引いたのは本人も数年ぶりだと言っていた。
「もうダメだ、死ぬ~、くしゅん!」
「だったらそんな〝とこ〟いないで、ふとんで寝てくださいよぉ」
 そんな〝とこ〟とは"こたつ〟のことである。時雨は冬場大抵家に居るときはこの中で一日を過ごしている。しかも、こたつの周りには無駄な動きをしなくて済むようにありとあらゆる生活雑貨が置かれている。
 こたつに入りながらも時雨は身体をぶるぶると震わせている。
「寒いよぉ~、寒いよぉ~、くしゅん!」
「病院に行って来たらどうですかぁ~」
「ここから、出たくない」
「ばかぁ、もういいです!」
 そう言ってハルナはほっぺたを膨らませ、ぷいっと後ろを向いてちょっと怒ったようすでどこかに行ってしまった。
「あ~待ってよぉ、ハルナちゃん」
 時雨はハルナに救いの手を伸ばしたが、あっさりと無視されバタンと力尽きた。
「ダメだ……死ぬ、くしゅん!」
 ――帝都の天使とまで呼ばれる時雨が負けた。今、ここに時雨に対する史上最強の強敵が現れた――風邪である。帝都の天使も風邪には勝てないらしい。
 まあ、それも仕方ないことだった。今年の冬は外回りの仕事が多かった。外回りの仕事は副業のことなのだが、例えば帝都史上まれに見ない大雪の日に外にいたり、この街で一番高い帝都タワーの屋上で一夜を過ごしたり、冬の海を泳ぐハメになったりといくら時雨といえど風邪ぐらいひいてしまうのが当然であると言える。
 部屋に春の陽気を持った歌うような声が響いた。
「……お茶入れてきましたよ」
 時雨が頭を上げるとそこにはなんと、湯気の立ち上るお茶を乗せたお盆を持った女神様が立っていらっしゃるではありませんか。
「め、女神様、どうしてこんな所に?」
 思わず時雨は女神に問いかけた。
「何いってるんですか、テンチョ?」
「……あっ」
 時雨の前に立っているのは女神ではなくハルナであった。時雨は高熱のため意識が朦朧として、幻覚が見えたに違いない。
「お茶入れてきましたから、冷めないうちにどーぞ」
 ハルナは時雨にお茶を差し出した。
「あ、どうも」
 恐縮しながら片手を頭の後ろに乗せ苦笑いを浮かべた時雨は、ハルナにお茶を手渡されると、ふーふーと何度も口で冷ましてから一口頂いた。お茶好きのくせして猫舌なのである。
「はぁ~生き返るぅ」
ちなみにこのお茶は100グラム5000円の高級玉露である。雑貨店の経営だけでは到底一日に何杯も飲めない代物である。
 そんな高級茶を飲んでいた時雨に不幸が襲い掛かってきた。
「時雨ちゃ~ん!」
 どすっ!! ぶはっ!! どすっ!!(後ろからどつかれた時雨、思わずお茶を吹き出す時雨、こたつに頭をぶつけた時雨)。
「……痛い」
 時雨はゆっくりと頭を上げ、ぎこちない動きで後ろを振り向いた。
「マナ……かな?」
 マナっぽい人物が時雨の前に立っているのだが、どうも違うような気もする?
「風邪引いちゃったのよ」
 彼女は特大マスクを付けていて、顔を見ただけでは誰だか識別できない。時雨が彼女だと気づけたのは、彼女特有の服装のおかげだった。
 時雨は溢したお茶をティッシュで拭きながら聞いた。
「どうしたのたかが風邪でそんな大きいマスク付けて?」
「そうね、時雨ちゃんは知らないのね。あたしの風邪がどんなものか……」
「普通の風邪じゃないの?」
「お話中申し訳ありません、お茶入れて来たんですけど」
 ハルナ嬢がお茶をマナに差し出した。
「ありがとう、ハルナちゃん」
 マナは差し出されたお茶を飲もうとマスクを外したとたん。
「くしゅん!!」
 その瞬間、マナがくしゃみをしたとたん信じられないことが起こった。
 どーん! という音と共に家の屋根が天高く舞い上がったのだ。
「……あっ」
 時雨は上空を見上げ口をぽか~んと空けそのまま硬直した。
「あらん、また、やちゃったわん」
 時雨は首を元に位置に戻すと『……?』という表情をした。
「また?」
「風邪を引いてると魔力のコントロールがうまくできなくなっちゃうのよ」
 目を丸くしたままのハルナが聞いた。
「それで屋根が飛んじゃったんですかぁ?」
「そうみたいねぇん」
 その言葉を聞いた時雨はあまりいい顔をしていない。
「そうみたいって、どういうこと?」
「くしゃみをすると魔力が一時的に開放されちゃうんだけど……」
「「だけど……?」」
 時雨とハルナが声を合わせて同時に聞いた。
「何が起こるかわからないのいねぇん」
「まるでパル○ンテみたいだなぁ」
「パル○ンテってなんですかぁ?」
「パル○ンテはねぇ、ドラ○エってゲームに出てくる魔法なんだけど、何が起こるかわからない魔法で、魔人が出てきたり、会心の一撃だけになったり、まぁそんなとこかな」
「テンチョの説明よくわからないですぅ~」
「まぁいいよそんなこと」
「よくないですよぉ~」
「あっ、それより新しいお茶入れてきてくれる?」
 時雨は湯飲みをハルナに手渡すと満面の笑みを浮かべた。この笑顔は誰をも魅了する魔力を持つと言われる魔性の笑みなのだが、ハルナには効かなかった。この必殺技は身内には効いた試しがない。
「お茶なら自分で入れてください」
「しょうがないなぁ」
 時雨はしぶしぶ重い腰をゆっくりと上げると、『よいしょ』というじじくさいかけ声と同時に立ち上がり、手を上に伸ばしながら伸びをしてあくびをした。
 こたつから出た時雨はばっちりいつもの黒いロングコートを着込んでいた。そこまで寒がりなのか、このコートにはなにか重大な秘密があるのだろうか?
「時雨ちゃ~ん、あたしにもお茶」
 マナは時雨に湯のみを差出し、時雨はそれを受け取ると重い足取りで台所に向かおうとしたのだが――。
「くしゅん!!」
 ゴン! 時雨は部屋を出ようとした瞬間、見えない壁によってそれを遮られた。
「……何?」
 頭を押え彼は何が起こったのかわからないまま、空[クウ]を叩いてみた。すると、何か壁のような手ごたえがある。
「あらん、またやっちゃったみたいねぇん」
「窓はだいじょぶみたいですよぉ~」
 ハルナは事態をすぐに把握して、窓から外に出られるかチェックをしたらしい。
「マナさぁ、病院行ったの?」
「まだ、だけどぉ」
「早く行った方がいいよ、〝帝都病院〟に」
 時雨は帝都病院というところを強調した。
 なぜ、彼が帝都病院というところを強調したかというと、帝都病院では特別な患者の診療もしているからだ。特別な患者とは普通の病院では扱っていない、魔術などの類で受けた傷などの治療や亜人の治療から、その他普通の病院では治療不可能の患者を受けつけている。


 早朝の帝都は気象調査を始めてから史上2番目に濃い霧に見舞われ、朝早くから交通整備が帝都警察によって行われていた。
 常葉商店街のその先にある、1000年以上の古き歴史を持つ由緒正しい神威神社。帝都の重要文化財にも指定されている神社だ。
 神威神社の境内も濃い霧に包まれ、その中に溶けるようにしてこの神社の美人神主の命[ミコト]が静かに佇んでいた。
 しばらくして、白い世界に黒衣を纏った眠気眼の時雨[シグレ]が大きな欠伸をしながら現れた。帝都の天使と呼ばれる彼は朝に弱かった。
「ふぁ~、おはよう命。大事な話って何?」
「相も変わらず時雨は朝に弱いのかえ? それはまあよいとして、時雨も気づいておるであろう、3日前からこの帝都に起きている不穏な空気に?」
 命の言う不穏な空気とは何か?
 この3日の間に帝都で起きた事件と言えば、連続した局地型地震の発生が上げられるだろう。この原因は帝都地下巨大下水道に棲む大海蛇リヴァイアサンが暴れたためであると推測されているが、それが原因とは考えられない地震も起きていた。
 この神威神社も地震の直撃を受け御神木だけが倒れるという異常事態が発生していた。神威神社地下には大下水道は通っておらず、リヴァイアサンが起こした地震ではない。調査団が昨日大勢押し寄せたが、地震の原因は結局わからなかった。
 時雨は未だ夢うつつで、重いまぶたは今にも閉じてしまいそうだった。
「今のボクは思考能力に欠けるから、話の結論だけ言ってくれるかな?」
「あそこにある御神木が倒れた元凶の駆除を頼む」
 命ははっきりと『元凶の駆除』という言葉を使った。つまりそれは、御神木が倒れた地震は自然発生のものではなく、何者かの仕業であると命は確信しているのだ。
 眠そうだった時雨のまぶたが少しだけ上げられた。
「つまり、それは〝依頼〟だよね」
「そうじゃ、料金は規定の2割増でどうかえ?」
「その話乗った。じゃ、ボクは帰る」
 用件を済ませて時雨はそそくさと歩いていってしまった。その後姿を見て命は、
「あ奴に頼んで良かったものかのお……」
 朝に弱い帝都の天使だが、そのトラブルシューターとしての実力は帝都一と言われている。だが、普段の時雨はのほほ~んとしていて、さして喧嘩が強そうにも、運動神経が良さそうにも見えない。ただひとつ良く見えるのは〝顔〟くらいなものだった。

 神威神社から出た時雨は家に帰るべく足早に歩いていた。
 霧はより一層濃くなり、不気味さを増している。もうすでに、5m先などは全く見ることができない。だが、時雨はその霧の先に何者かの気配を感じた。
 殺気に満ちた誰かががすぐそこにいる。時雨の身体に突き刺さるような殺気が押し寄せてくる。その殺気は確実に時雨に向けられたものだった。
 人影が時雨のすぐ横を通り抜けた。横を通り抜ける男の顔は美しく中性的な顔――それは時雨の雰囲気と酷似していた。そして、そいつは時雨の耳元で何かを呟き霧の中に消えた。
 謎の男が消えるまで全く動くことができなかった時雨。普段見せない恐ろしい表情をした時雨がそこに立っていた。そう、すれ違う寸前に耳元で囁かれた言葉――それが時雨の胸に突き刺さった。
 喪失されていた時雨の過去の記憶の一部が蘇った。あいつの名は殺葵[サツキ]。だが、そいつが誰なのか、時雨には思い出せないでいた。
 霧に紛れて血の香が時雨の鼻に届いた。大量の血だ。
 前の見えない霧の中を己の感覚を研ぎ澄まし、時雨は前に進んだ。血の香のする方角へ。
「警察官か……可哀想にね」
 大量の血を地面に垂れ流しながら横たわる警官の死体。それも身体を二つに割られている死体だ。
 しゃがみ込んだ時雨は傷口をまじまじと見つめる。普通のものなら吐き気を催してしまいそうな死体だが、時雨は無表情無感情で死体を見つめている。
 滑らかな切断面は刃物によるものに違いない。時雨にはその凶器がなんであるか、誰がその犯人なのか、すでにわかっていた。
 この警官は朝っぱらから刀を持ってうろついていた〝あいつ〟に職務質問をしようとして斬られたのだ。
 時雨は少し考えた後に警察に連絡することにした。これは一般人の取るべき行動だが、時雨を一般人と言っていいものか、それは疑問である。
 商店街内にある交番に時雨は足を運んだ。あの警官はここに勤務している警官だということを時雨は知っている。
 交番には人の気配はなかった。誰もいないのは明白だ。
「いつもは二人いるのになぁ」
 仕方なく時雨は交番の電話を借りて警察に電話をすることにした。が、そんな時雨の後方から誰かが慌てたようすで声をかけてきた。
「お、おまわりさん、ひ、ひとが」
「あの、ボクはおまわりさんじゃないんだけど……」
 時雨の視線の先に立っているのは中年のサラリーマン風の男性少し酒の匂いがすることから、朝まで飲んでいたことが伺える。
 最初はふらついて交番に駆け込んで来た男だが、そこにいたのが警官ではなく時雨だということに気がつき、目を大きく開けて酔いを覚ました。
「あ、あんたは!」
「今、ここの人出払ってていないんです、代わりにボクが聞いて伝えましょうか?」
「ああ、あんただったら……」
「では、お話を」
 近くにあった椅子を指差し、時雨は男を座らせて落ち着かせることにした。
 話し出した酔っ払いはすでにただの中年サラリーマンに戻っており、口調もしっかりしていた。
「あれは、ほんの数分前のことだったんだが、人がいきなり消えちまったんだ」
「よくわからないです、もっと詳しくお願いします」
 男の説明はあまりにも簡潔過ぎる内容のない話だったので時雨は頭を抱えてしまった。時雨は悩んだ表情も絵になる。
 男は息を呑み、もう一度頭を落ち着かせて、ゆっくりと話しはじめた。
「俺が路上で倒れこんでたら、二人組の白衣を着た男が来て……」
 時雨の眉が少し上がった。そして、時雨は話を理解し、それに関心を持った。
「白衣の? ……あのぉ~、特徴をもっと詳しく言ってもらえませんか?」
「遠くからでよくはわからなかったが、ひとりは長い黒髪の奴でもうひとりは不気味な仮面を顔につけてやがった」
「それでその二人がどうしたんですか?」
「それがよぉ、いきなり俺の目の前で消えちまったんだ、まるで空間に吸い込まれるようにスーっとよぉ、本当だぜ信じてくれよ」
 先ほどまで酔っていた男の戯言かも知れない。しかし、時雨にはこの話が真実の話であると確信があった。時雨の脳裏に浮かんだ名――紅葉と蜿
「信じます、たぶんその二人はボクの知り合いですから……」
「じゃあ、俺は家に帰んねぇとカミさんに怒られんで帰るわ」
「しっかり、伝えときます」
 中年男は足早に交番を後にしていった。それをちゃんと見届けてから時雨はこう呟いた。
「はぁ……ここの人が生きてればだけどね」
 時雨はため息とともに肩を落とした。そして、再び電話の受話器に手をかける。
「あのぉ~、もしもし、常葉商店街で警官が死んでます」
 ガチャっと時雨はすぐさま受話器を置いた。今ので警察には電話の発信場所もわかるだろうし、トラブルシューターとしての時雨の声は警察署のライブラリーに保存されていて、今の少しの声で身元が判明しているに違いないが、それでも時雨は余計なことを言うのが嫌で電話をすばやく切った。
 仕事以外の事件には巻き込まれたくない。だが、時雨にはわかっていた。この事件が自分にかかわってくることを――。

 自宅に帰宅すると、ハルナが時雨を迎えてくれた。
「テンチョ、朝食できてますよぉ」
「うん、ありがと」
 このハルナという女性は時雨が自宅の1階で経営している雑貨店で働く定員兼時雨の身の回りの世話役である。年のころは10代後半から20代前半らしいが、見た目はもっと若く見える。眼鏡とツインテール、そして、メイド服常時着用の可愛らしい女の子だ。
 ダイニングからハムの焼けるいい匂いがしてくる。今朝の朝食はハムエッグとトーストだった。
 ハルナはテーブルに乗せられたトーストを掴み、イチゴジャムをつけて時雨に手渡す。至れり尽くされだが、この二人は断じて付き合ってはいない。この二人には特別な事情があるのだ。
「テンチョ、そろそろ新しい店員を増やそうと思うんですけどぉ、どうですかぁ~?」
「別にハルナちゃんの好きにすればいいのに」
「だって、テンチョはテンチョなんですからぁ」
 時雨は急に沈黙してお茶を飲み干した。トーストにお茶という取り合わせは少し変なように思われるかもしれないが、時雨はお茶好きで飲み物といったらお茶だった。
 黙りこんでしまった時雨の顔をハルナは綺麗に澄んだ大きな瞳で覗き込んだ。
「テンチョ、どうしたんですか?」
「……いや、あのさ、そろそろ、テンチョ交代しない?」
「ダメですよぉ、交換条件なんですから」
「……はぁ」
 年老いた老人のように時雨は大きなため息をついた。時雨が雑貨店の店長をやっている理由には深い意味がありそうなのだが、この話はすぐに止められ他の話題に移ってしまった。
 TVリモコンを手にとって、時雨は電源ボタンを入れた。
 高画質の液晶ディスプレーに女性キャスターの顔が映し出された。地上波の番組はこの時間、ニュース番組が多い。
 TVをつけたが時雨は特に見たい番組があるわけでもない。そこでハルナはTVリモコンを時雨の手から取り上げ、チャンネルを回す。ハルナが見たいのは子供向け番組だ。
 朝放送されている子供向け番組でハルナが一番おもしろいと思っているのは、ローカルTV局である〝TVT(テレビ帝都)〟で放映中の昔のアニメの再放送である。
 TVの画面には〝うりゅっちゅ〟と呼ばれる奇怪な容姿をしたキャラクターが描かれている。このうりゅっちゅの容姿はカバに白い天使の羽を生やしたような生物で、時雨はちっとも可愛いと思わないが、このうりゅっちゅは幼児に大変な人気がある。
 うりゅっちゅは画面上で『うりゅっちゅ!』と鳴いているだけである。それ以外の行動はしない。だが、そんな映像をハルナは食い入るように見ている。
 うりゅっちゅの人気の秘密は催眠効果によるものだという。映像のBGMや『うりゅっちゅ!』という鳴き声のテンポから強弱、至るところに催眠術が使われている。そして、極めつけは、画面をコマ送りにするとわかるのだが、ある一定の間隔でうりゅっちゅの関連商品の広告が画面に混じっているのだ。人は知らない間に商品の情報を脳に焼き付けられているというわけだ。
 うりゅっちゅの映像が突然消え、男性の顔が映し出された。それは臨時ニュースだった。
《臨時速報をお伝えします。今朝未明、1000年以上もの歴史を誇り、帝都の重要文化財に指定されています神威神社が何者かによって破壊されました。この事件による――》 ニュースを聞いていた時雨の顔が蒼ざめた。
「さっき行ったばっかりだよ」
「ニュースで命さんが重症だって言ってますよ! どうしましょう!?」
「あいつか……」
 あいつ――それは殺葵のことを指していた。これは時雨の大きな誤算であった。まさか、神威神社が襲われるとは思っても見なかった。
 霧の中、殺葵が時雨の前に現れたこと――その理由まではわからないが、だが、まさかあの後に神威神社が襲われようとは。
 殺葵――それは時雨の古い友人の名。ある日忽然と姿を消してしまった殺葵の名を時雨は今日まで忘却していた。
 すれ違う寸前、時雨の耳元で殺葵が囁いた言葉、それは『私は還ってみせる』の一言のみであった。その言葉は時雨の心を戦慄させるに十分な内容だった。だが、自分はなぜその言葉に強く反応してしまったのか、重要な部分を時雨は思い出せずにいた。
 今ここにいる時雨。その過去を知るものは誰もない。本人自身もだ。
 時雨の記憶は帝都でハルナと出逢ったところからはじまっている。それ以前の記憶が時雨には全くないのだ。だから、殺葵があの後、神威神社を襲うとは思いもしなかったのだ。だが、神威神社を破壊したのが殺葵だということを時雨は本能的に悟った。
 時雨の過去の記憶の鍵を握る人物に、自称時雨の妹と名乗る夏凛という人物がいるが、本当の妹なのかはわかっていない。その夏凛が言うには、長い間消息を絶っていた兄が突如帝都に帰って来たのだと語る。
 夏凛に昔話を散々聞かされた時雨であるが、それでも記憶は戻らなかった。だが、時雨は殺葵と出逢い、何かを思い出そうとしていた。まるでそれは殺葵が時雨の記憶を解く唯一の鍵だったように時雨の記憶を呼び覚ましつつある。
 普段あまり見せない厳しい形相をした時雨は、朝食を摂り終らぬまま外に駆け出して行った。向かう場所は神威神社だ。

《2》

 すでに神威神社の前には人ごみができていた。報道陣や警察に騒ぎを駆けつけて来た野次馬が大勢いる。だが、神社は完全封鎖され中には入ることができない。
 遠くから神社のようすを見るが、それは酷い有様だった。全壊という言葉が相応しいように思える。本殿が瓦礫の山と化しているのだ。
 時雨はどうしても命と話がしたかったのだが、どうにもこうにもいかない。人が多すぎて神社に近づけないうえに、完全封鎖されているので近づけたとしても入ることはできないだろう。
 困り果てている時雨のもとに銀色をしているソフトボール程の大きさの物体が飛んで来た。それは金属でできておりスピーカーとカメラが取り付けてある。これは情報屋と呼ばれる職業の実力者である真[シン]の偵察用カメラだった。
 宙に浮いたカメラは時雨の前で止まった。このカメラの動力は社会的にも認知されている〝魔法〟の力で動いている。
 帝都にある有名な大学では魔導学と呼ばれる魔法を学ぶ学問を教える学部が存在するが、魔法は知識の上では誰もが学ぶことができるが、実践となると特別な天性の才能が必要らしく、魔法を使う職業である魔導士の数は少ない。
 カメラのスピーカーから男の声が聞こえて来た。これが真の声だ。
《中に入れないで困っているようだな。料金を払ってもらえれば、あ~んなことやこ~んなことの極秘情報を教えてやるが?》
「自分で調べるからいい」
 時雨はカメラを掴むと、遠くに投げ飛ばした。情報は欲しいが、あの情報屋の料金は通常よりだいぶ高い。時雨は商人根性を持っており、金にはなかなかうるさいのだ。
 人ごみをかき分け時雨は強引に最前列に向かった。そこには黄色いテープが張られており、恐い顔をした警察官も立っている。どうがんばっても中には入れてもらえそうもない。
 ここで時雨は得意技を使うことにした。それは子犬のような潤んだ瞳で相手にお願いをすること。これがなかなか効果のあるのだ。
「あのぉ~、中に入れてくれないかなぁ?」
 子犬の瞳で警官を見つめる時雨。この帝都で一番美しいと言われる時雨に見つめられた警官は我を失いそうになった。この警官は男であったが、時雨の美しさは性別を越えるものなのだ。
 警官が時雨の誘惑に負けそうになったその時、警官の後ろから法衣を身に纏った女性が現れた。
「警官を誘惑してもらって困りますわ、帝都の天使さん」
 鈴のような声の持ち主。この女性は帝都政府直属の魔導士軍団ワルキューレのひとりで、通称フィーアと呼ばれている。
 帝都の重要文化財が破壊されただけでもただ事ではないというのに、そのうえ、帝都政府が直々に動いているとなると、この事件の陰には大きな何かがあると断言できる。
 報道陣の前に姿を見せたファーアにカメラのフラッシュが大量に浴びせられる。そして、質問の嵐が巻き起こるが、フィーアは少し笑みを浮かべただけで、事件について何も語らずに姿を消してしまった。
 時雨は黄色いテープを無理やり越えて中に入ろうとしたが、それが無理なことをすぐに悟って止めた。
 この黄色いテープには魔法による特殊な加工が施されているために、内側からテープを外すまでは何人も入ることができないのだ。いわゆる、このテープは結界の役目をしているということだ。
 しぶしぶ帰ろうとする時雨であったが、そんな彼に報道陣たちの視線が向けられた。もしかしたら、時雨がこの事件に関わっているのではないかと、報道陣は考えたのだ。
 時雨の周りに群がる報道陣。
「ボクは事件と何の係わり合いもないですから」
 そう言って時雨は報道陣の間をかき分け逃げた。
 走る時雨が向かう場所は自宅ではなかった。時雨が向かっている場所は駅だ。そこからある場所に行こうとしているのだ。
 帝都を走る鉄道のほとんどは地下鉄であり、地上を走る鉄道も2年後には全て地下鉄になるという。
 今時雨が向かっている駅を走る鉄道は地上を走っている。そのため、天災に弱く、去年の年末に大雪が降ったときは、駅は完全封鎖されてしまった。
 駅で切符を購入する券売機のほとんどはキャッシュカード対応で、最近は硬貨を使って切符を買うものは少ない。その少ない中に時雨は入っている。
 コートのポケットを探るように時雨は1枚の硬貨を取り出した。彼は財布というものを持ち歩いていないようだ。
 帝都の鉄道は200円でほとんどの場所に行くことができる。だが、それは普通列車だ。特急や急行電車は別料金となっている。
 電車に揺られ、時雨が到着した駅は『ツインタワービル前』。ツインタワーと呼ばれる二対のビルが近くにあることからその名前がつけられた駅だ。
 この駅は多くの人々が利用するためにいくつかの路線が通っている。この駅からであれば乗り換えなしに帝都の主要な場所に行くことが可能だ。
 駅から出るとすぐにバスステーションがある。そこを横切って横断歩道を渡った先には帝都公園と呼ばれる帝都一の公園があり、ツインタワーはその一角にある。そう、時雨の向かう先はそのツインタワービルだった。
 高く聳え立つ二対のビルの階層数は共に100階。時雨の用があるのは2対のうちイーストビルと呼ばれるビルの46階にオフィスを構える情報屋。そこは真と呼ばれる男のオフィスだった。
 時雨がオフィスの中に入ると受付嬢がニッコリと微笑み軽く会釈をした。
「おはようございます、時雨様。今日は何の御用でしょうか?」
 春爛漫の歌うような声がロビーを優しく包み込む。いつもならここで時雨は笑顔を返すところだが、今日は違った。
「真くんに用がある」
 険しい表情をした時雨は受付嬢と顔も合わせずに部屋の奥に足早に向かって行こうとした。
「時雨様! お待ちになってください!」
 受付嬢の静止に構うことなく時雨は真の部屋に入った。
 ネズミ色の金属の壁に囲まれた部屋。部屋には無数のモニターと、床には無数のプラグ、そして何に使うのかまったく見当のつかない機械がゴロゴロとしていた。
 身体と椅子を無数のプラグにより繋いでいる男――この男が真だ。
 真は変な機械を頭から目元まですっぽりとかぶっている。そして、部屋の上空にはソフトボール位の金属製のボールが二つ、忙しなく動き回っている。これで真は外部の情報を見ているのだ。
「やはり来たか、時雨。何の情報が欲しいのかね?」
「ワルキューレが動いているみたいだけど、事件の背景は?」
「ぶりゅちゅ、ぴょーんと、うりゅたりほー!」
 真は突然奇怪な言葉を発した。彼は現実を逃避するために完全にトリップ状態に入ったのだ。
「真くん、今日のボクはマジだよ」
 真剣な顔をしている時雨の顔が〝見えて〟いないのか、真は頭をガクガクと揺らし、どこかに飛んでいる。
 揺れが止まり、真は深く息を吐いた。
「答えてもいいが、料金はいつもの二倍だ」
「いいよ」
「では、私にもわからん」
「……ふ~ん」
 殺意が湧いた。口は笑っているが時雨の腹は煮え繰り返っている。
「帝都の中枢コンピューターにも情報がないのだよ。つまり、この情報は完全に口伝や文書で動いている。用意周到なことだ」
 真はこの帝都の情報を全て手に入れられると豪語している。その真に情報が掴めないということは、あの事件はトップシークレット中のトップシークレットとなる。
「真くんのわかる範囲でいいから」
「帝都にいるワルキューレは女帝の警護を除いて全員動いていている。そして、エージェントも動いているな。それから、帝都タワーとメビウス時計台とイスラフィールの塔が異様なまでの警護下に置かれたようだ――シークレットにしては公な政府の動き、隠しきれないほどの大事ということだな。――おっ、新たな情報が今入った。特殊エージェントのひとりファウストとマナが一緒に動いているな。しまった、見つかりそうだ!」
 突然停電が起きた。真の身体がぐったりとなる。そして、すぐに予備電源に切り替わった。
「にゃばーん! ……危なかった」
「情報はそれだけ?」
「途中で妨害にあった。誰の仕業かはわかっているがな」
「じゃあ、料金は規定通りだね」
「1.5倍だ」
「1.2」
「仕方ない、1.3倍の料金だ」
「じゃあ、ボクは行くよ」
 時雨は足早に部屋を後にして行った。その後、部屋からは奇怪な声が聴こえた。

 帝都タワービル――帝都の観光パンフレットにも載っている帝都の観光名所の一つで、帝都一の高さを誇る30年前に建設された建造物である。
 そのタワーの屋上にはビヤガーデンがあり、夜になると仕事帰りのサラリーマンやOLで賑わいを見せる。のだが、今日はビル内には人ひとりいない。その代わりビルの周りには警察などで埋め尽くされている。
 封鎖されているのは帝都タワーだけではない。帝都タワーから半径1キロメートル全てが封鎖されている。こんなこと前代未聞だ。
 地上、空中、地下、結界が張られておりどこからも侵入できない。もし、進入したとしてエージェントにすぐに発見されてしまうだろう。
 時雨は警察の検問はこっそりと抜けることに成功した。問題はこの後の結界をどう抜けるかだ。
 コートのポケットを探り、時雨は筒状の物体を取り出した。これは時雨愛用の剣であった。しかし、この剣には柄しかない。
 時雨の手から激しい光が弾け飛ぶように出た。剣に刃が出たのだ。その刃は光が集合してできているようだ。
 妖刀村雨――古の名刀からその名を取ったこの剣は、魔導具と呼ばれる魔法で創られた剣なのだ。
 華麗に舞い風を斬る。時雨の斬撃は空[クウ]を切り裂いた。いや、そこにある見えない壁を切ったのだ。
 結界が破られた。その隙間から時雨は中に進入する。
 このままだとすぐにエージェントが時雨を捕らえに来るだろう。だが、どこに隠れようと結界の中に入れば意味がない。
 時雨はふたりの人影に囲まれた。それの二人は豪華絢爛な法衣で見を包んでいる。
「結界を抜けて忍び込むとは誰かと思えば、君か」
 美麗な容姿を持った男は銀色の長い髪を風に揺らしながら時雨を見ていた。そして、時雨を取り囲んだもうひとりの人物はマナであった。
「あらん、時雨ちゃん。こんなところに何の用かしらぁん?」
「ファウスト久しぶりだね。でも、マナが何でここにいるの?」
「質問を質問で返さないでくれるかしらん」
 風が乱れる。ファウストは空間から蒼い魔玉の付いた杖を取り出した。
「残念だが、時雨君の質問を答える権利を私たちは与えられていない。だが、侵入者を駆除しろとは言われたが、見逃してはいけないとは言われていない。早々に出て行ってもらえると私たちは助かるのだが?」
「ヤダ」
 はっきりとした口調で時雨の一言だけを述べた。それだけで十分だった。
 蒼い魔玉が妖しい光を放った。
「おもしろい、このファウストと戦う気か?」
 二人の間に殺伐とした空気が流れ、マナはその間に強引に割り込んだ。
「時雨ちゃん、ここであたしたちに掴まったらトラブルシューターのライセンスを取り消されちゃうわよぉん」
「……それは困る」
 あっさりと時雨は剣を納め、ポケットの中にしまい込んだ。トラブルシューターのライセンスが取り消されると生活ができなくなる。時雨は経済的な人間だった。
 ファウストが不適な笑みを浮かべた。
「魔法通信が入ったぞ。敵が来たとのことだ」
 魔法通信とは魔導士が連絡手段に使う方法の一つで、魔法にとって通信を行い、機械などでは傍受が不可能とされている。
 目には見えなかったがここにいた3人は感じることができた。結界が硝子のように弾け飛んだことを。
 法衣を煌かせながらファウストは時雨に背を向けた。
「優先事項により、君の排除は保留だ。行くぞマナ」
 空を飛び行ってしまったファウストを追うようにしてマナも飛んで行ってしまった。すぐに時雨はその後を追う。
 空を飛ぶ二人のスピードは人間の足では到底追いつくことができず、姿を見失ってしまった。だが、どこに向かっているかはわかる――帝都タワーだ。
 帝都タワー周辺にはエージェントとワルキューレが集結している。一般人はマナと時雨しかいない。マナはファウストの弟子として、補佐役としてここにいるのだが、時雨は全くの部外者だ。
 すぐに時雨は声をかけられてしまった。その声をかけた人物は時雨に今日二度目も声をかけている。
「あらあら、またあなたですの、帝都の天使さん」
「仲間に入れてもらえるとうれしいなぁ~」
 惚けたようすの時雨に怒るでもなく、こちらも少し惚けたようすで言葉を返した。
「いいですわよ。でも、ライセンスは剥奪させていただきますけど」
「……それは困る。でも、仲間外れも嫌だな」
「では、仲間に入りますの?」
「うん、入れて」
「では、魔法通信でみなさんに伝えておきますが、わたくしたちの邪魔だけはなさらずように気をつけてくださいね」
 フィーアは妙にあっさりしていた。この裏には何かあるのかもしれない。
 微笑を絶やさずに時雨の応対をしていたフィーアの眉がぴくりと動いた。
「帝都の敵が来ましたわ」
 全員の視線が一点に集中される。そこにいたのは殺葵だった。
 時雨の妖刀に似ている剣を持ち、殺葵は優美な足取りでこちらに近づいて来る。その足取りはゆったりとしているが、進んでいる距離は妙に早い。普通の人間に成しえる業ではない。
 誰にも聞こえない声で殺葵は呟いた。
「私は還る――楽園に」
 次の瞬間、ワルキューレたちによる猛攻が始まった。

《3》

 現在ここにいるワルキューレの人数は3名、それに加えて帝都政府のエージェントが2名。女帝の護衛をしているひとりのワルキューレを除き、帝都にいるワルキューレ全員がここに集結している。
 ワルキューレに加えて、ここには帝都政府のエージェントも召集されている。エージェントの数は全員で13名、だがここにいるのは2名だけである。2名しか来られなかったのではなく、あえて2名しか呼ばなかったのであるその理由は相手と戦う気が帝都政府にはないからだ。
 帝都政府は殺葵のしようとしていることを止めようとしていないのだ。むしろ、協力しようとしているようにも思える。その真意は何か?
 魔人の如き禍々しい気を放ち散らしながら、殺葵は地面を踏みしめ帝都タワーに近づいて行く。その殺葵が通る道を作るようにして、ワルキューレたちやエージェントたちが左右に分かれる。
 時雨は激怒した。
「なんでみんな奴を止めないんだ!? あいつはこの帝都タワーを壊す気なんだろ!」
 村雨を構え、時雨は殺葵にひとり果敢にも立ち向かって行った。彼を止める者は誰一人としていなかった。皆、傍観者に徹しているのだ。
 光の粒子が村雨の切っ先からほとばしる。剣と剣が噛み合い光が弾け飛び、時雨と殺葵は互いを睨み合った。
 殺葵は剣を片手で持ち、時雨の放った剣技を受け止めたのだ。それに対して時雨は両手で剣の柄を力強く握り締め、腕が震えている。力の差は傍目からも歴然としていた。
 爆風が巻き起こり、時雨の身体が大きく後方に飛ばされた。殺葵が剣で時雨の身体を押し飛ばしながら舞ったのだ。
 地面に膝を付く時雨にマナが駈け寄ろうとしたが、マナの身体はファウストの手によって静止させられた。
「私たちは手を貸してはならない。上の許可が下りるまで見ていることしかできない」
 マナはファウストに反論しようと彼の顔を見上げた。すると、ファウストは歯を喰いしばりながら鋭い目で殺葵を見ていた。
「お師匠様……」
 小さく呟きマナはその場に押し留まった。ファウストもまた自分と同じように助けたいのを我慢しているのだから。
 が、ファウストは堪え性ではなかった。
「……敵を目の前にして、この大魔導士ヨハン・ファウストが黙っていられるわけがないだろう!」
 疾風の如く速さで低空飛行しファウストは殺葵に向かって行った。
「お師匠様!」
 マナの静止もファウストの耳には入らないようだ。
 光り輝く妖刀を構え直し時雨は殺葵に向かって行こうとしたのだが、その後ろから猛スピードでファウストが時雨を抜かして行った。
「ナイト!」
 大声を出したファウストの背中から白い蒸気が立ち上がり、それは甲冑を纏った半透明の騎士へと変わったファウストは体内に幾つもの精霊を封じ込めて置き、それをいつでも自由に操ることができるのだ。
 輝き煌くナイトはレイピアの切っ先を殺葵に向けて猪突猛進して行く。
 剣を振りかざし殺葵が舞うと同時に風の刃が巻き起こり、ナイトに向かってその刃を向ける。だが、風の刃は甲冑によって防御され、ナイトは臆することなく突き進む。
 殺葵の唇が少し緩んだ。
「妖刀殺羅の糧となれ」
 残像を残しながら殺葵が素早く動く。殺羅の切っ先は一直線にナイトに突きたてられた。
 殺葵の放った剣技は甲冑をも貫いた。だが、ナイトのレイピアもまた、殺葵の肩を貫いていた。
 レイピアを伝って紅い鮮血が地面に滴り落ちる。しかし、無表情な殺葵の口は嗤[ワラ]っている。
 ナイトの身体が突然ぐしゃりと潰れるように縮み、妖刀に吸収されてしまった。殺葵の言葉通り、ナイトは妖刀殺羅の糧となり、そして殺葵の力となった。
 レイピアによって空けられた肩の穴が見る見るうちに塞がっていく。傷口は完全に塞がってしまった。服が破れているくらいで傷痕は全くない。
 背後からの気配。殺葵は妖刀を横に振りながら後ろからの攻撃を防いだ。
「甘いな時雨。剣の腕が落ちたのではないか?」
「さぁ? 記憶喪失で昔のことなんて知らないよ」
 相手との間合いを取って再び攻撃を仕掛けようとした時雨を大声でファウストが静止させた。
「退け時雨!」
 巨大な翼を持つ半透明の女性。新たなファウストの精霊だ。
 伝説のセイレーンのような容姿を持ったその精霊は、声にならない咆哮を高らかにあげた。音の塊が空間を歪ませ波打たせ、殺葵に襲い掛かる。
 音の壁は円筒形の筒のように殺葵の身体を封じ込め、その壁は殺葵の身体を押しつぶそうとする。だが、殺葵は余裕だ。
 風が唸り声をあげ、妖刀殺羅の刃が音の壁を粉々に砕いた。その時に音はまるで硝子の壁が粉々に砕けるような音だった。
 精霊の次の攻撃が殺葵に襲い掛かる。
 翼をはためかせた精霊の翼から、幾本もの羽根が剣のように発射された。
 妖刀殺羅は唸り声をあげた。それはまるで妖刀が生きているかのような唸り声だった。そう、殺羅は自らの糧を欲しているのだ。
 放たれた羽根は全て妖刀によって防がれて、殺羅の糧となってしまった。
 精霊は怒りの感情を露にして殺葵に向かって行ことしたのだが、それが不意に止まった。止めたのはファウストの意志ではない。妨害者が現れたからだ。
 法衣を身に纏った女性――ファーアが精霊の前に立ちはだかったのだ。
「ファウスト、もう十分でしょう。お気がお済みなったのなら、これ以上相手に〝力〟を与えるようなまねはなさらないでください」
 精霊はファウストの身体に戻って行った。そのファウストの表情はとても悔しそうだ。だが、このまま戦っていても、あの妖刀をどうにかしない限りは、相手に力を与えるだけである。
 フィーアの身体が霞んだと思った刹那、フィーアはすでにファウストの横にいて、彼の耳元で小さく呟いた。
「エージェントのライセンスを一時的に剥奪いたします」
「…………」
 いつものファウストならば、ここで皮肉の一つも相手に言うのだが、今回はここで押し留まった。しかし、ファウストの頭の中ではある考えが浮かんでいた
 再び戦いは一対一の戦いになった。時雨VS殺葵、それは村雨VS殺羅の戦いでもあった。
 村雨が大きく殺葵の頭上に振り下ろされる。だが、殺葵の方が早かった。
 腕を上げ隙のできた時雨の腹に殺羅が突き刺さる。切っ先は柔らかい肌を突き、背中を貫いた。
「ぐはっ……」
「儚いな、時雨よ。おまえは何故そんなにも衰えてしまったのだ……」
 妖刀が抜かれ血が噴出し、時雨は地面に膝を付き倒れた。
 友を斬り、その力を吸収した殺葵は再び帝都タワーに向かって歩き出した。その歩みを止まる者は誰もいない。誰もが傍観者に徹しているのだ。
 殺葵の足が帝都タワーの目の前で止められた。帝都タワーを見上げ、そして、彼は殺羅を地面に突き刺した。すると、地面が大きく揺れ、コンクリートにひびが入り、帝都タワーが倒壊しだしたではないか!?
 殺羅は鍵の役目をしていた。その鍵を差し込むことによって、地脈のエネルギーに影響を与え、帝都タワーを倒壊させたのだ。
 ワルキューレたちはタワー倒壊の被害を最小限に留めるために、帝都タワー全体を結界によって封じ込めた。これで破片や煙が外に出ることはない。
 帝都タワーは瓦礫の山となり、殺葵はこの場から姿をくらませた。誰も殺葵を追うものはいない。だが、なぜ帝都政府は殺葵の横暴を見過ごすのか?
 殺葵の目的とは? 帝都政府の目的とは、いったい?
 ワルキューレたちが撤収する中、マナは地面に倒れている時雨のもとへ駈け寄った。
「時雨ちゃん、大丈夫かしらぁん?」
 声をかけても返事がない。揺さぶってみると、少し反応があった。
「ちょっと、キツイ……」
 声が出せるようであれば、重症ではあるが、時雨にしてみれば今までの経験上、軽い怪我に属すると言える。時雨はそれほどまでに修羅場をいくつも掻い潜って来たのだ。
「時雨ちゃん、あたしは仕事が残ってるから行くわねぇん」
「……薄情者」
「あらぁん、何か言ったかしら?」
「……いえ、別に」
 時雨を残しマナは本当にこの場を去ってしまった。普通の人間ならば取らない行動だが、マナは普通ではない。
 残された時雨は青空を見上げた。
「あはは、青いな。……ちょっと、意識が朦朧としてきた」
 腹を抑えながら時雨はよろめきながら立ち上がると、ふらふらと危ない足取りで歩き出した。そして、ぼやく。
「あいつら全員、薄情者だ」
 あいつらの中には帝都政府の人間も入っている。

 死の淵を彷徨いながらも時雨は自らタクシーを拾って、病院へと急いだ。車中での時雨の記憶はほとんどない。彼が覚えていることといえば、川の向こうの綺麗な花畑で金髪の美女が自分を呼んでいたくらいだ。
 タクシーは帝都一の異質な病院――帝都病院の前で止まった。
 時雨はタクシーの運転手に肩を借りながら病院の中に入り、ケチな時雨はチップを上乗せしてタクシー料金を払い、運転手と別れた。〝肩を貸して〟くれたタクシー運転手が、今の時雨には救いの神のように思えたのだ。ちょっとしたマナたちへの反発心である。
 担架に乗せられ、時雨は手術室へとすぐさま運ばれた。その手術室は特別な手術室で、この病院の院長のみが使用する手術室だ。
 手術台の上に乗せられた時雨にはひとりの看護婦が付き添っている。彼女は時雨に優しい態度で察してくれて、止血の処理を素早くやってくれた。今の時雨にはまさに白衣の天使に見えている。
 が、肝心の院長が来ない。時雨が普通の人間であれば、とっくに出血多量で死んでいるほど待たされている。実際は輸血をされているので血は減らないが、それでも傷口はまだ開いたままだ。
 あまりにも遅い院長に対して、時雨を小さな声で吐き捨てるように呟いた。
「……ヤブ医者」
「何か言ったか時雨?」
 ぎょっとした時雨の視線の先には院長が立っていた。
 この病院の院長の名は蜿。白衣と白いフードに身を包み、顔には仮面を被っている。この院長は素顔や素肌を人に見えることが全くないのだ。
 不気味な格好をした院長の仮面の奥からくぐもった声が聞こえる。
「少し体調が優れなくてな……」
 蜿の息は少し荒いように思える。それは仮面をつけて息がしにくいわけではなく、ここに来る前にあることをして来たからだ。
「医者が体調悪くて、どうするのさ?」
「うるさい、患者は黙ってやがれ」
 蜿の左手が時雨の腹にかざされた。この行為は通称〝スキャン〟と呼ばれており、蜿は左手を何かにかざすことにより、その内部を読み取ることができるのだ。
「綺麗な切り口だな」
 そう呟くと蜿は次に右手を時雨の腹にかざした。すると傷口は一瞬にして塞がってしまった。蜿の右手には傷を癒す力が宿っているのだ。
 大きな息をついて蜿は床にあぐらをかいて座り込んでしまった。
「身体がだるい、クソッ、あの程度の治療で立てなくなっちまった」
 〝右手〟による怪我の治療には体力を多く消費する。だが、普段の蜿ならば今と同じ治療を100回行ったとしても平気だ。今日はいつもと違うのだ。
「どうしたの、今日はだいぶ息が荒いけど?」
 体調を回復した時雨は手術台から飛び降りると蜿の顔を覗き込んだ。
「おまえには関係ないことだ」
「……ケチ」
「うるさい、健康な奴はさっさと病院を出てけ。さもないとメスで切り刻むぞ!」
 医者の発言としてはチグハグであるが、蜿とはこういう人間だ。
「はぁ、じゃあね」
 時雨は呆れた顔をして手術室を自らの足で出て行った。
 残された蜿は自らの足で立ち上がることもできなかった。
「おい、院長室まで肩を貸せ」
「はい?」
「肩を貸せと言ってるだろ、耳が悪いのかおまえは!」
 院長が他人の力を借りるなどそうあることではなかった。立ち上がれなくて看護婦を借りるなど前代未聞名ことである。
 あまりのことに看護婦は自分がなにを要求されているのか最初は呑み込めなかったが、すぐに慌てた表情をして蜿に肩を貸した。
 看護婦に肩を借りて歩く院長の姿を見て、この病院のスタッフは皆丸い目をして凝視してしまった。そして、誰もが思った、この帝都に何か大きな事件でも起こるのではないかと……。
 帝都に起きている異変。そのことに気づいている者はまだ少ない。
 神威神社と帝都タワーの全壊。このニュースは帝都民を震撼させるニュースではあるが、所詮は他人事であった。
 帝都では、生物兵器が逃げ出し帝都警察と大攻防戦をすることや、犯罪者たちが銃を乱射するなどよくあることだ。ビルが何者かの手によって破壊されることもある。それが今回は神威神社と帝都タワーで起きたに過ぎない。
 だが、これはまだ序章でしか過ぎない出来事であった。帝都は確実に闇に包まれようとしていた。

《4》

 病院から出るとすぐに時雨はコートのポケット探った。電話がかかってきたのだ。
 ケータイのディスプレイに表示された名は〝紅葉[クレハ]〟――帝都大学の教授の名である。
「もしもし、紅葉ぃ?」
《至急来い》
「……他に言うことないの、久しぶりとかさぁ?」
《久しぶりだ》
 全く感情のこもってない機械的な挨拶だった。
「ヤダよ~んだ、ボク忙しいんだから」
《いいから来い。場所は帝都地下遺跡だ》
「地下遺跡って、あの地下遺跡?」
《そうだ、君と以前行った遺跡だ。では、遺跡入り口で待っている》
 そこで電話は一方的に切られた。
 待っていると言われたら行かなくてはならない。これは強制的で、もし行かなかったらどんな目に遭わされるかわからない。
 紅葉の言っていた遺跡とは、今年の1月に帝都の地下で発見された古代遺跡のことだ。そこで時雨は行方不明者探しの依頼を受けたのだった。
 遺跡での事件は解決されたが、時雨はこの遺跡が何の遺跡なのか知らされていない。この遺跡の調査を帝都政府から依頼されていたのが紅葉で、彼は今日まで遺跡の調査を進めてきていたのだ。
 地下遺跡の入り口はビル街にあり、新たなビルを建てるために地下を掘り返したところ、偶然地下遺跡が発見されたのだ
 この遺跡は実際には帝都の地下にあるわけではなく、別の場所にあるのだと言われており。ここにある地上からの入り口は、空間のねじれによって地下の遺跡と繋がっているのだ
 広い空き地に時雨が到着すると、そこで紅葉が迎えた。
 白衣の麗人の長い黒髪が風に戯れて波を打った。
「遅いぞ」
「これでも早く来たつもりだよ」
 これは本当だった。タクシーの運転手に行って、ムリして車を飛ばしてここまで来たのだ。
「では、行くぞ」
「はぁ?」
 有無も言わさず紅葉はさっさと時雨に背を向け歩き出してしまった。
「はぁ」
 時雨はため息をつきながら紅葉の後を追った。
 この遺跡は帝都政府の厳重な警備下に置かれ、24時間体制で政府の人間が警護を行っている。
 遺跡の中には簡易巨大エレベーターで下りる。
 ガタガタと身体が小刻みに揺れ、最後にガタンと大きく揺れてエレベーターは止まった。
「おおっと」
 あられもない声を出しながら時雨はバランスを崩しまった。前回ここに来た時も同じことをして、紅葉にさっさと置かれて行かれてしまった。今回もそうだ。
「行くぞ」
 紅葉は時雨のことなど構いもせず足早に歩いて行ってしまった。
 遺跡の壁は魔法が施されているらしく、常にほのかな光を放っている。
 この遺跡には数多くのトラップが仕掛けられており、そのほとんどは解除せれているが、まだ解除されていないものがあるかもしれない。前回来た時は、解除せれているということになっていたが、実際はいくつかのトラップが残っていた。だから今回もあるかもしれない。
 1ヶ月以上もの調査により紅葉はこの遺跡の構造を熟知したらしく、迷うことなくある場所に向かって行く。そのある場所とは遺跡内に建てられている神殿である。
 石段を一歩一歩上がって行くと、そこには大きなオリハルコン製の門があり、その左脇には大鷲、右脇には大狼の石像があった。石像になっている大狼はこの神殿を守っていた者の彫像だ。
 神殿の中に入った二人を出迎えたのは、鷲の翼を生やした男だった。茶色い布を身に纏うこの男の腰には剣が装備されている。
「お待ちしていました。そちらが時雨様ですね。わたくしはこの神殿を守る〈名も無き守護者〉です」
 〈名も無き守護者〉は妖艶な笑みを浮かべた。この男、いつか出逢った〝大狼〟に雰囲気が似ている。
 警戒心を抱く時雨に対して、〈名も無き守護者〉はゆっくりとした歩調で近づいて来る。
「恐い顔をしないでください、危害を加えるつもりはありませんから」
「あのさぁ~、なんでボクはここに呼ばれたのかな、ねえ紅葉?」
 口調にも表情にも怒りはない。だが、時雨は少しご機嫌斜めだった。言うまでもないが、怒りの矛先は紅葉だ。
「彼が君に用があるそうだ」
 華麗に紅葉は責任転嫁をして、時雨の視線を名も無き守護者に向けさせた。
「申しわけありません。時雨様を紅葉様に呼んでいただいたのはわたくしです」
「だから、なんでさあ?」
「では、お話いたしましょう」
 〈名も無き守護者〉は神妙な面持ちで話しはじめた。
「この神殿は本来、ある者を封じるためのものでした。ですが、ある時、神殿をアポリオンという悪魔に乗っ取られてしまったのです。守護者としてわたくしは失格です」
 以前時雨がこの神殿を訪れた時、紅葉の身体を乗っ取ったアポリオンと戦っている。そして、強敵ではあったが、〝何故か〟倒すことができたのだ。
 突然〈名も無き守護者〉の身体に異変が生じた。〈名も無き守護者〉の身体が閃光に包まれ、その中から〈大鷹〉が現れた。そう、これが〈名も無く守護者〉の正体だ。
「これがわたくしの真の姿。そして、守護者はもうひとりいました」
「あの大狼でしょ?」
 時雨の予想は当り、〈大鷹〉大きく頭を頷かせた。
「その通りです。ですが、もうひとりの守護者はアポリオンに操られ、わたくしは罠に落ちて封じ込められてしまいました。そして、ここに封じ込めていた者が外の世界に出て行ってしまいました。その名を殺葵」
 この神殿はアポリオンの神殿ではなく、殺葵を封じ込めていた神殿だったのだ。
「わたくしは紅葉様によって封印を解かれ、どうにか外の世界に出て来れました。そして、これからわたくしのするべきことは殺葵の封印です。その手伝いを時雨様にはしてもらいたいのです」
「なんでボクが?」
「時雨様の身体にはもうひとりの守護者が宿っています」
「ボクの身体に?」
「そうです。時雨様、少しの間じっとしていてください」
「なんで?」
 答えは行動で示された。突然〈大鷹〉がその大きな翼を広げたかと思うと、時雨の身体を翼で包み隠したのだ。
 突然のことに時雨は抵抗しようとしたが、結局何もできなかった。翼には魔力がこもっており、時雨の意識を空にしてしまったのだ。
 〈大鷹〉の目が大きく見開かれ、時雨は翼から解放された。
「困ったことになりました」
 小さな声で呟いた大鷹の表情は曇りを浮かべている。これに対して紅葉はわかっていたように言う。
「やはりな。時雨の身体に溶けすぎていて、抽出できないのだな?」
「そのようです」
 〈大鷹〉のしようとしたこと――それはもうひとりの守護者〈大狼〉の抽出。時雨の身体に入り込んでいる〈大狼〉を抽出して復元するつもりだったのだ。しかし、〈大狼〉はすでに時雨に吸収されていて、抽出が不可能となっていた。
 ふらふらしていた時雨の意識が戻ってきた。
「何したの今?」
「君の中に入っていた守護者を取り出そうとして失敗したのだ」
「ふ~ん」
 理解したようで理解していない時雨。
 〈大鷲〉はまた人間の姿に戻った。
「時雨様の身体にもうひとりの守護者の力が宿っていることは確かなようです。ですから、わたくしと共に時雨様には殺葵の封印をしてもらいたのですが?」
「ええ~っ、めんどくさいなぁ。でも仕方ないか」
 仕方ないというのは紅葉の顔色を伺っての発言だ。紅葉は時雨を睨んでいたのだ。
「では、さっそく殺葵を封じに行きましょう、と言いたいところなのですが、殺葵を封じるための魔導書がこの遺跡から何者かによって盗まれてしまったのです」
 魔導書が盗まれた。この言葉に時雨と紅葉はある人物の名を同時に思い浮かべた。その名はマナ。
「その件については私が引き受けよう。時雨はこの守護者と共に殺葵のもとへ行け」
「紅葉様には何者が盗んだのか、心当たりがおありなのですか!?」
 紅葉は時雨と顔を見合わせて苦笑した。この二人はマナが魔導書を持ち去ったのを見ていたわけではないが、マナが持ち去ったという確信はあった。
 この後、三人は遺跡を出て、時雨と〈大鷹〉殺葵のもとへ、そして紅葉はマナを探しに行った。

 ファウストがエージェントの資格を一時的に剥奪されたため、ファウストの補佐として今回の事件に関わっていたマナも事件から身を引くことになった。
 帝都某所にある巨大な洋館がマナの住まいだ。ここでマナはメイドの機械仕掛けの人形とふたりで暮らしている。
「マスター、紅茶を御持ち致しました」
 ゴシック調のドレスを着た金髪の少女が紅茶を持ってマナの前に現れた。この少女が機械仕掛けのメイド――アリスだ。
「マスター、紅茶を御持ち致しました」
 返事がなかった。
 マナはテラスで椅子に座り、テーブルに突っ伏していた。そんなマナをアリスの魔力のこもった蒼い瞳がマナの顔を覗き込む。アリスの表情は普段は無表情なはずなのだが、この時は少し、不機嫌そうな顔をしているような気がする。
「紅茶をお持ち致しました」
「適当なところに置いておいてくれるかしらぁん」
 テーブルに突っ伏しながら、マナはくぐもった声でやっと返事をした。
 自分の方を見向きもしない主人に反抗心を抱いたのか、アリスは主人に言われたとおり〝適当〟なところに紅茶を置いて去って行った。
 少し経ってマナは紅茶を飲もうと顔をあげた。だが、紅茶が見当たらない。適当な場所=テーブルの上にあるはずの紅茶がないのだ。
 紅茶は床の上に置いてあった。アリスは主人の言いつけどおりに〝適当〟な場所に置いたのだ。
「……後でいびって差し上げるわぁん」
 アリスはマナに対して反抗的であり、マナもアリスをねちねちと苛めるのを趣味としていた。この二人の仲は最悪だった。
 紅茶を飲みながらマナが読書をしていると、再びアリスが現れた。
「マスター、御客様で御座います」
「誰かしらぁん?」
 黒いドレスを着た少女の後ろには白衣の男がいた。そう、紅葉だ。
「君の所有している本に用があって参上した」
「あらぁん、紅葉ちゃん久しぶり」
 アリスはマナの前の席の椅子を引いて、
「紅葉様、どうぞ御座り下さいませ」
「ありがとう」
 席についた紅葉にすぐさまマナは疑いの眼差しで凝視された。
「どうかしたのかしらぁん?」
「盗んだ魔導書を返してもらおう」
「あらぁん、あたし、紅葉ちゃんから何も盗んでいないわ。そんな言いがかりよしてくれないかしらぁん」
「私の所有物ではない。現所有者は帝都政府ということになっているが、本来の持ち主がそれを火急的に必要としている。帝都地下遺跡で盗んだ魔導書を出したまえ」
「……記憶にないわねぇ~」
 マナは完全にとぼけるつもりだった。何せ証拠がないのだから。だが、紅葉は確信で動いている。
「記憶になくとも、君が盗んだことは事実だ」
「だったら、家中探して見つけたらぁん?」
 不適な笑みを浮かべるマナ。魔導書が絶対見つからないという自信があるのだ。魔導書は異空間に保存されおり、普通の方法ではマナ以外の人間には取り出せないようになっているからだ。
「その表情から察するに、私には到底探せない場所にあるということだな? つまり、君の異空間にその魔導書はあると考えるのが自然だろう」
「ギクッ……さぁ、どうかしらぁん?」
 紅葉の鋭い指摘にマナは明らかに慌てた。マナは嘘をつくのが苦手なのだ。
 魔導書がどこに保管されているのかはわかったが、紅葉には何の手立てもなしに魔導書を手に入れることは、現時点では不可能だった。
「私は君の異空間からものを取り出す手立てはない」
 マナは紅葉の言葉に安堵の表情を浮かべた。
「――だが、できないこともない」
 これは紅葉の言葉ではなかった。第三者の言葉である。
 第三者の顔を見たマナの表情を曇る。
「紅葉君、久しぶりだ」
 そこに立っていたのはマナの師匠であるヨハン・ファウストだった。
「ここで二人の話は失礼だが立ち聞きさせてもらった。私ならば、マナの異空間からものを取り出すことが容易くできるが?」
「お師匠様、立ち聞きなんて下品なことなさらないでくださいますか?」
 マナの口調は師に対しては変わる。いつもより丁重になるのだ。
「我が弟子として、私がここに立っていたことにも気づかない方が問題だ」
 相手を見下すような笑いを浮かべるファウスト。これに対してマナは全く反論できなかった。
 師が近くにいたことに気づかなかったのは事実である。ファウストはマナよりも高位の魔導士であると共に、弟子であるマナにも計り知れない魔力秘めていた。
 飲みかけの紅茶を飲み干したマナは急に立ち上がった。
「そうだったわ、急用があったんだったわ。ねえアリス?」
 この場から逃げるべく、マナは片隅でじっと立っていたアリスに助けを求めた。だが、アリスは無表情な顔で冷たく言い放った。
「何も御予定は御座いません」
 仲の悪さがこんな時に仇となった。
 逃げようと走ったマナの前に紅葉が立ちはだかる。
「何も予定はないそうだが?」
「ちょっと、トイレに……」
 素早く後ろを振り返り逃げようとしたマナだったが、そこにはファウストが立っていた。
「魔導書を出したまえ。さもないと、お仕置きだ」
 観念したマナは両手を上げ、自分の周りに大量な魔導書を異空間から出した。
「あの遺跡から持ち出したのはこれだけよぉん」
 おそらく30冊くらいだろう。この中に探している魔導書がある。
 魔導書を一瞥したファウストは次に紅葉に視線を向けた。
「ところで紅葉君。なぜ魔導書が必要なのかな?」
「殺葵とやらを封じるために必要なのだ」
「ほほう、それはおもしろい」
 不純な笑みを浮かべるファウスト。マナも殺葵という名前に反応して眉をひそめた。
 数ある魔導書の中から紅葉は一冊の魔導書を手に取った。その分厚い魔導書の表紙には狼と鷹が描かれていた。
「どうやらこれのようだ。ところでマナはこの中身を読んだのかな?」
 紅葉の問われたマナは首を横に振った。
「読まなかったわ、表紙すら開けられなかったのよ」
 遺跡から持ち出した魔導書で唯一マナが読むことができなかった魔導書。魔導書には封印が架けてあり、マナの力では開くことができなかったのだ。
 目当ての魔導書は見つかった。後はこれを時雨たちのもとへ届けるだけだ。

《5》

 帝都第二の大きさを誇るエデン公園。この公園は帝都の中心に位置し、その公園の東にはメビウス時計台という建物が立っている。
 今、エデン公園は帝都政府による厳戒な警備が行われていた。
「また、あなたですか――帝都の天使さん」
 ファーアはにっこりと笑った。彼女の目の前に現れたのは時雨と〈大鷹〉だった。
「仲間に入れてくれないかなぁ?」
 ふあふあした惚けたような口調の時雨にフィーアはうなずいて見せた。
「いいでしょう。ですが、今回はわたくしどもも戦います」
 前回は殺葵の襲来を見ているだけであった帝都政府だが、今回は殺葵と戦うというのだ。前回と今回、いったい何がそうさせたのか?
「ボクには連れがいるんだけど、この人も一緒に戦っていいかな?」
「殺葵を封印していた神殿の〈名も無き守護者〉です」
 頭を深々と下げ挨拶をした〈大鷹〉だが、ファーアはこの人物が何者なのかすでに知っていた。
「存じておりますわ。殺葵の封印されし神殿の守護者ですね?」
「わたくしのことをご存知なのですか?」
「ええ、全て知っております」
 不適な笑みを浮かべたフィーア。その心の奥底には何か秘めていた。
「ですから、帝都政府は時雨さんとこの方のバックアップをいたします。がんばって殺葵を封じてくださいね」
 封じる――それは端から殺葵を抹殺する気が帝都政府にはないということ。世界最強と謳われるワルキューレたちでも殺葵を倒すことは難しいのか、それとも別に……?
 フィーアに連れられ時雨たちは巨大な時計台の前まで来た。このメビウス時計台の前で殺葵を向かい撃つのだ。
 メビウス時計台の警護をしているのはファーアを含めてワルキューレが三人だけであった。時雨と〈大鷹〉を加えても全員で五名にしか満たない。相手は神威神社と帝都タワーを全壊された相手なのにだ。
「ヤル気ないでしょ?」
 思わず時雨はフィーアに聞いてしまった。だが、フィーアは首をゆっくりと横に振った
「滅相もありませんわ。これで十分です」
 ワルキューレが三人もいれば心配ないという自信の現れか、それとも別に策があるとでもいうのか。
 一瞬にして辺りを凍りつかせる禍々しい殺気が立ち込めた。殺葵が近づいて来ているが、見なくとも誰にでもわかった。
 封印を解かれた魔剣士殺葵。彼は妖刀を構え、風と共に現れた。
 ワルキューレたちは時計台を守るように立ちはだかり、その前方には時雨と〈大鷹〉が立ちはだかった。
 魔導書はまだ届いていない。どうする時雨よ?
 剣を抜くのみであった。妖刀村雨が辺りを照らし、時雨は正眼の構えを取り、相手の目の高さに剣先を向けた。
 二人が風を切り走る。光がほとばしり、閃光がぶつかり合う。
 妖刀同士の戦い。村雨が勝つか、殺羅が勝つか。時雨が勝つか、殺葵が勝つか?
 帝都タワー前では殺葵に全く歯が立たなかった時雨だが、今度は違う。
 二人の剣士は交じり合う互いの剣を同時に押し離し、後方に飛んだ。
 村雨を横に振りながら時雨が宙を舞う。光の粒が辺りに飛び散り殺葵を襲うが、殺羅がそれを力強く受け止める。剣は武器であり楯でもあるのだ。
 〈大鷹〉は翼を大きく羽ばたかせ風の刃を発生させた。その刃の先には時雨と向かい合殺葵がいる。
 後ろから風の刃が迫り来るが、殺葵は時雨と対峙しており動くことができなかった。だが、殺葵は動いた。
 足が蹴り上げられ時雨の顔を掠めた。殺葵は相手の剣を自らの剣で防ぎながら、蹴りを相手に喰らわそうとしたのだ。
 蹴りを避けた時雨に隙ができる。その間に殺葵は風の刃に向かって走った。いや、違う風の刃の先にいる者に剣を向けるつもりなのだ。
 風の刃が殺葵の肩を切り裂き血が流れるが、彼は何事もないように走り続ける。
 妖刀が地面を擦りながら上に斬り上げられた。風が唸る。
 〈大鷹〉は間一髪のところで上空に舞が立ったが、殺葵は逃がさない。
 上空15mの距離を殺葵は地面を蹴り上げ軽々と飛翔した。
 地面から襲い掛かってくる殺葵に〈大鷹〉は翼を大きく動かし爆風を浴びせる。それによって殺葵に身体は急激に地面に吸い込まれるように落ちていった。
 地面を砕き、膝を付き、手を付き、殺葵は見事地面に着地をした。
 殺葵には休む暇などなかった。膝を付いている殺葵に時雨の剣技が炸裂する。
 輝く光が殺葵の頭上に振り下ろされるが、これで仕留められるほど殺葵は弱くはない。殺葵は防御するでもなく、頭上に振り下ろされる剣よりも早く、自らの剣を横に振るった。
 妖刀殺羅の切っ先が時雨の腹の辺りの布を切り裂いた。それだけで、妖刀に力を持っていかれてしまったような気がする。
 飛来する〈大鷹〉の手には大剣が握られていた。このまま殺葵を串刺しにするつもりなのだ。だが、なんと殺葵は空いている手でそれを受け止めてしまったではないか!
「このような鈍[ナマク]らでは、私は仕留められん」
 大剣握る手からは鮮血が滲み出し、地面に滴り落ちていた。
 体制を立て直すべく、剣を殺葵に向けていた時雨の後方から大声が浴びせられた。
「受け取れ時雨!」
 分厚い魔導書が投げられた。それは見事時雨の後頭部に命中。
「痛いっ! 紅葉、ボクを殺す気!」
 頭を押さえながらしぐれが振り向いたその先には紅葉、そして、マナとファウストが立っていた。
「時雨ちゃ~ん、助けに来てあげたわよぉん」
 腰に手を当てて仁王立ちするマナ。必要以上に彼女の態度はデカイ。
 魔導書を手に取った時雨であったが、開けない。ページが開けなかった。
「これって、どうして?」
「時雨様、こちらに投げてください!」
 〈大鷹〉はそう言うが、彼は今殺葵と対峙していて、投げても受け取れるとは到底思えなかった。
 殺葵の気をこちらに向けなくてはいけない、と考えた時雨は剣を構えて走り出そうとしたのだが、戦いがはじまってだいぶ経って、時雨はある重大なことに気がついた。帝都政府は誰ひとり動く気配がない。
 時雨は村雨を構えながら後ろを振り向いて声をあげた。
「戦うって言ってたの嘘だったわけ!?」
「いいえ、嘘ではありませんわ。メビウス時計台もしくは帝都政府に危害が及ぼされた場合は戦います」
 ファーアの言葉を聞いてファウストは悪魔の笑みを浮かべた。
「エージェントの資格を一時剥奪されたこと、それは帝都政府の狙いなのだと私は解釈した」
 凄まじい魔力がファウストの身体の周りで渦を巻き、爆風を巻き起こす。彼は全力で殺葵を叩きのめす気だ。
 空間から取り出された杖に取り付けられた蒼い魔玉が妖しく輝く。
「ダークドラゴン!」
 高らかに声をあげたファウストの背中から霧が立ち上がり、それは巨大なドラゴンと化した
 怒号の咆哮をあげるドラゴンの牙は鋭く輝いていた。そのドラゴンが大きく羽ばたくと激しい風が巻き起こり、ここにある全てのものが大きく吹き飛ばされそうになった。
 足を踏ん張りながら時雨はドラゴンが殺葵に襲い掛かるのを見た。それを確認した後、すぐさま〈大鷹〉のもとへと疾走した。
 〈大鷹〉の手に渡った魔導書はついにその表紙を開けた。開かれたページには何も書かれていなかった――否、人間の目には見えないだけだ。
「時雨様、わたくしと共に呪文の詠唱をお願いします」
「呪文ってどんな?」
「ここに書いてある呪文です」
「……どこに?」
 時雨には白紙のページを指差しているようにしか見えなかった。
「よく目を凝らしてご覧下さい。時雨様にも見えてくるはずです」
 言われたとおりに時雨はよ~く目を凝らして白紙のページを〝視た〟。すると、字が少しずつ浮き上がってくるではないか?
 だが、時雨には読めない言語であった。
「この字読めないんだけど?」
「……わたくしが暗唱しますので、真似してください。それでは――NAREAK、NIOS、AHETEBUS……」
「ちょっと、待った。発音できない」
 〈大鷹〉の発した言語は人間には発音できないものであった。状況は完全に混迷を深めた。
 時雨たちが悪戦苦闘する後ろでは、ファウストVS殺葵の戦いが激化していた。
 煌くドラゴンが白銀の炎を吐く。それを避けて殺葵は飛翔するが、ドラゴンの尾が殺葵を地面に叩きつける。
 地面に着地した殺葵にレイピアが襲い掛かり、その後ろからは煌く大蛇が口を空けて殺葵を喰らおうとしている。
 四方八方から襲い掛かって来る精霊たちをなぎ払うべく、殺葵は身体を回転させながら剣を振り、そのまま回転しながら高く飛翔した。
 上空にはドラゴンが待ち構えていたが、殺葵の剣戟がドラゴンの腹を裂いた。重傷を負ったドラゴンはそのまま霧と化し、妖刀殺羅の糧となった。
 新たな精霊を呼び出そうとしたファウストの身体が光の楔によって拘束され、現時点で外に出ている精霊が強制的にファウストの身体に戻された。
「私の邪魔をするのは誰だ?」
「ファウスト、もう十分でしょう。あちらの準備が整ったようですよ」
 フィーアの手からは輝く鎖が伸びており、それがファウストの身体を拘束していた。
 殺葵の前に時雨が立ちはだかった。だが、それは時雨であって時雨でないものであった。
《封印する》
 時雨の口から時雨の声と〈大鷹〉の声が同時に発せられた。
 封印の呪文はふたりの守護者が声を合わせて唱えなければない。だから、〈大鷹〉は時雨の身体に入り、時雨を操ることにしたのだ。
《NAREAK、NIOS、AHETEBUS》
 呪文の一節を唱えただけで殺葵は動きを拘束された。
《UBOY、OWEROS》
 透明な柱が地面から地響きを立てながら突き出て、殺葵の身体を取り込んだ。
 妖刀が唸り声をあげた。
 爆発音と共に柱が壊され、殺葵が舞った。
 柱の破片が割れた硝子のように輝く中、殺葵の剣が時雨の身体を貫いた。が、刺されたのは〈大鷹〉であった。
 刺される瞬間に〈大鷹〉は時雨から分離して、時雨を守ったのだ。
 唸る妖刀殺羅に身体の力を吸い込まれていく〈大鷹〉はミイラのように干からびていき、やがては塵を化して殺羅の糧をなった。
 封印は失敗した。それは時雨の身体に残る〈大狼〉の力では不足だったのか。違う、殺葵は最初に封じ込まれた時よりも力を増幅させていたのだ。
 今の殺葵には以前と同じ封印では封じることはできない。
 封印が失敗に終わり、ワルキューレたちの顔にも陰が差したと思いきや、これは計算内のことだった。
 フィーアは全てを知っていたように言った。
「新たな封印が必要なようですね」
 この言葉に紅葉は何かに気がつき、小さく呟いた。
「メビウス時計台……」
 メビウス時計台――ここは普段から一般人の立ち入りが規制されている。その理由は時計台の周辺に強力な魔力が発生しているからだと言われている。
 傍観者に徹していたフィーアの腕が天高く上げられた。
「封印は完璧でなくてはいけません。あちらの準備が整ったようです」
 フィーアの腕が下げられた。それは合図だった。
 三人のワルキューレが同時に動き、時雨ともろとも殺葵を取り囲んだ。その陣形は正三角形になっている。
 時雨の目の前で殺葵の表情が苦痛に歪んだ。殺葵の身に何が起こったのか、そのようなことを考える暇もなく、次の瞬間には殺葵が命に代えても手放すはずのない妖刀殺羅を手から滑り落としてしまった。
 妖刀が地面に落ちたのと同時に見えない何かに殺葵は腕や足を拘束されて、空間に張り付けにされてしまった。
 時雨の顔から表情が消えていた。そして、時雨は地面に落ちた妖刀殺羅を拾い上げ、両手で柄を強く握り締めた。
 紅い花が散る。血を欲する妖刀は殺葵の腹を貫いた。時雨の手によって――。
「ぐはっ……呪が自らの魂をも喰らうか……」
 吐血する殺葵であったが、その表情には苦痛の色はない。彼はやすらかな顔をしているのだ。
 妖刀を掴む時雨の手と腕がわなわなと震える。それは妖刀の力か、それとも……?
 震える身体を抑えながら時雨は吐き出すようにやっとの思いで口を開いた。
「なぜ殺葵はこの世界に出て来た、いや、なぜボクの前に現れた?」
「私は外に出る気などなかった、封印は破られたのだ。この都市は、いや、この世界全体は奴の手のひらの上で躍らされているのかもしれない……」
「ボクもそう思うよ、親愛なる友人――殺葵」
 殺葵の後方の空間が地獄の唸り声をあげて裂けた。そして、空間の裂け目から二本の雪のように白く美しい手が突き出ると、そのまま殺葵の身体を抱きしめるようにして掴んだ。
《僕と共に永久を逝きよう》
 次の瞬間、白い手に力が込められ殺葵の身体を闇の中へ引きずり込んでいってしまった。空間の裂け目に大量の風が流れ込み、そして、裂け目は消えた。何ごともなかったように――。
 立ち尽くす時雨の手には妖刀殺羅が残っていた。

 魔剣士 完


 †あとがく†

 今回のエデン、謎あり過ぎ。
 まず、ラストの誰? って感じですが、よく読めば予想はつくと思います。
 殺葵が言っていた発言にいくつかの謎が、『私は還ってみせる』、どこにだよ?
 『奴の手のひらで躍らせれているのかもしれない……』、誰だよ?
 予想はできるので答えは先延ばしです。
 次回のエデンは『時雨』という作品です。謎の美青年とハルナとの出会いの話です。



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