夢幻郷の楔

 何処までも果てしなく続く花畑。
 死人花が揺ら揺らと風に弄ばれる。
 花畑の中心で雪兎[ユキト]は蒼々たる空を見上げていた。何を想うでもない。ただ、見つめているだけ。
 永い刻の中を雪兎は独りで過ごした。しかし最近、この場所にある人物がやって来た。 妖艶たる美貌の魔剣士――殺葵[サツキ]。
 雪兎は殺葵と一言も言葉を交わしていない。殺葵から話しかけられるまで雪兎は殺葵と話をしようと思わなかった。だが、殺葵が雪兎に話しかけることなど一生ないだろう。
 ここにいる人は二人だけだ。雪兎と殺葵。二人ともここから自らの意思で出ることはできない。しかし、外部からはここに来ることができるのだ。
 殺葵は殺羅[サツラ]という神刀を持っていた。今はない。その神刀が在ったならば、彼はこの空間を切り裂き、外に出ることが可能だった。しかしながら、その刀が手元に在ったとしても、彼はここから出ようと考えるか?
 風が激しく舞い上がり、永遠の朝が続くこの世界が闇に染まった。あり得ないことだった。この世界に夜が訪れるなどあり得ないことだったのだ。
 殺葵がここに来て初めて鋭い目つきをした。そして、雪兎は春風駘蕩な表情をしていた。
 ――最近はこの場所も来客が多くなった。
「こんばんは、わたくしの名はセーフィエル」
 ロングドレスにも似た喪服を着た黒髪の女性――夜魔の魔女セーフィエル。
 少しの怪訝の表情をしない雪兎は春風のような声でセーフィエルを迎えた。
「こんにちはセーフィエルさん。わざわざここに来るということは僕の名前もご存知かな?」
「ええ、存じておりますわ。あちらの世界では神隠しに遭ったのだと、ニュースにもなったわね――神威雪兎[カムイユキト]さん」
「それで、僕に何の用でしょうか?」
 雪兎は表情一つ変えることなかったが、遠くにいた殺葵の全身からは鬼気が発せられていた。
 ちらりと殺葵を一瞥したセーフィエルは、静かな笑みを浮かべながら雪兎に視線を戻した。
「お二人とも外に出たくないかしら?」
 このセーフィエルの提案に先に答えたのは雪兎ではなかった。
「断る」
 そう、ここに来て一言も発していなかった殺葵が言葉を発したのだ。これには雪兎も驚いた。
「おや、殺葵くんがしゃべりましたね。思っていた以上に素敵な声でしたね。ああ、セーフィエルさん、僕も答えは否です。僕はここから出る気はありませんよ」
 セーフィエルは静かに笑って見せた。
「代わりの楔を用意して、あなたに自由が与えられるとしてもかしら?」
「僕は向こうの世界に疲れているのですよ。人と関わることに疲れた。だから、僕はここから出ない」
「あら、でも本当はここを出たいのでしょう? いいえ、違ったわ。あちらの世界に逢いたい人がいるのではなくって?」
 一瞬だけ雪兎の表情が崩れたような気がした。それを察したのは雪兎本人しかいない。そして、雪兎は頷いて見せた。
「ええ、いますね……ひと目逢いたい者が……」
「では、わたくしが連れて参りましょう、妹御を」
 セーフィエルは全てを承知していた。雪兎が逢いたい人物は他にはいない――彼の妹ただひとりだ。
 もはや雪兎は驚きもしない。
「僕の妹を連れて来ると言うのですか?」
「ええ、それが創られる運命ですわ」
 セーフィエルがこの言葉を発した直後、彼女の背後に人の感覚では感知できぬほどの業で殺葵が立った。
「貴様は何を知ってるのだ?」
 静かな問いだった。――いや、脅迫であった。殺葵はセーフィエルが不穏な動きをすれば殺す気でいた。しかし、なぜ殺葵がセーフィエルを殺す?
 静かに微笑んだセーフィエルは殺葵に背を向けながら話をした。
「抽象的な質問をされても困るわ。具体的にわたくしが何を知っているとお思いで?」
 殺葵は口をつぐんだ。迂闊なことは口にしない。もし、殺葵が口にしたことをセーフィエルが知らなかったら?
 沈黙が流れる。セーフィエルはこの沈黙を楽しんでいるようだった。
 セーフィエルは何を知る?
 殺葵は何を知る?
 そして、雪兎も多くを胸に秘めていた。
 誰もが語らない。それを壊す者は誰か?
「わたくしが知ることは多い。雪兎さんがここにいる理由も、殺葵さんが封印を解かれた理由も……時雨さんのこともですわ」
 セーフィエルの言葉に殺葵の表情が明らかに変わり、鬼気を纏った殺葵がセーフィエルに襲い掛かった。雪兎はそれを止めようとした。しかし、セーフィエルの方が早い。殺葵は動けなかった。
 殺葵の眼前に突きつけられる切っ先。その刃を握っているのはセーフィエル。そして、この刃を殺葵はよく知っていた――いや、違うものであった。
「私の刀に似ているが、違う……それはなんだ?」
「わたくしが修復した神刀――月詠[ツクヨミ]。これを修復するのに村雨と殺羅のデータを取らせてもらったわ」
 静かに輝く光の刃は柄の中に消え、セーフィエルは雪兎を殺葵に差し向けた。雪兎はなにも訊かずに月詠を受け取ると、柄を握り直し刃を出した。
「神刀月詠は僕の家の家宝だったはずだけど?」
 雪兎は神刀月詠をまじまじと眺めながらそう言った。
 神威神社に伝わる三種の神器のひとつ――神刀月詠。鏡、勾玉、そして刀が神威神社には安置されていた。そのうち二つは神威神社倒壊後に神主である命[ミコト]によって保護された。しかし、刀だけは見つからなかったのだ。その刀をセーフィエルが持っていたのだ。
「雪兎さんは神威神社がこの殺葵さんによって破壊されたのはご存知かしら?」
「ええ、知っていますよ。ですが、神刀月詠が紛失していたとは……。他の二つもお持ちですか?」
 雪兎の問いにセーフィエルは首を横に振った。
「いいえ、残る二つは妹御の命さんが手元に持っているわ。その神刀については貴方が持っているべきだと思ってお持ちしたわ」
「僕が持つべき……なぜ?」
「いつの日か、自らの意思でここを出たくなった時のためですわ」
「僕には必要ないものです」
 そう言いながら雪兎が神刀月詠をセーフィエルに手渡そうとしたのだが、セーフィエルの身体が漆黒の闇に溶け、静かな笑い声と共に夜が明けた。この世界に朝が戻ってきたのだ。
 死人花が風に揺られ、花びらが天に舞がる。
 雪兎は神刀月詠の刃を消して懐にしまうと、依然、鬼気纏う殺葵に顔を向けた。
「殺葵くん、僕になぜ質問をしない? 君が望むことを答えることはできなかもしれないが、僕は聞かれれば話すつもりだよ」
「訊くことはない」
「そうですか、じゃあ僕も話してあげません」
 殺葵は雪兎を見つめていた。何も言わずじっと見つめているのだった。雪兎も殺葵から目を離さない。
「僕に言いたいことがなるなら、言えばいいのですよ。殺葵くんは素直じゃないですね」
「訊きたいことがある」
「最初からそう言えばいいのに」
 春風駘蕩の笑みを雪兎は浮かべた。
「ここはいったいなんだ?」
「ここはある御方が見ていらっしゃる夢の中ですよ。そして、僕はここの番人というわけですね。僕がここを放れれば〝彼女〟は夢から醒めます」
「……ここが我が君」
 殺葵はここが何処なのか理解すると共に、ある人物を思い浮かべた。
「殺葵くんは察しが早い。あの御方は〝あれ〟を封じるために眠りに堕ちた。けれど、〝あれ〟の力が徐々に外に影響を及ぼしはじめた」
「やはり、私は奴の掌の上で踊らされているのだな」
「どうしますか、あの御方を眠りから醒ましますか? そうすれば殺葵くんの我が君も目覚めますよ」
「私は疲れた……」
 それ以上何も言わず、殺葵は雪兎のもとを離れて空を見続けるだけだった。
 雪兎は独り言を呟いた。しかし、それは明らかに殺葵に聞こえる声だった。
「ひとりの女性に仕えていた二人の騎士はある事情によって敵同士となりました。戦いはあの御方が"あれ〟を封じることによって終結し、あの御方によって二人の騎士は封印されました。しかし、〝あれ〟は封印されている敵の騎士を抹殺しようとしたのですよ。その時に一人目の騎士の封印は不本意な形によって破られてしまいました。その後、〝あれ〟はもう一人の騎士の封印を解き、先に復活した騎士を殺させようとしました。殺葵くん、君の我が君は、今でも君にとって我が君なのですか?」
 殺葵は答えなかった。雪兎の声が聞こえてないように、何も反応を示さない。そこで雪兎は言葉を続けた。
「君は封印されたままの方がよかったのではないかい? 復活したばかりの君は明らかに〝あれ〟に精神を支配されていたからね。でも、今は違うのだろう?」
 やはり殺葵は何も答えない。
 息を吐いた雪兎は殺葵と同じく空を仰いだ。
 この場所は平和だ。不変が続く。二人を除いては……。
「殺葵くん、さっきのセーフィエルという女性はどちらの味方だと思うかい? 僕が思うにどちらでもないね。それだけに目的が不明だよね。ああ、ところで時雨くんの話だけど……」
 殺葵の顔つきが変わる。雪兎はそのまま話を続けた。
「時雨くんは記憶喪失らしいけど、どこまで記憶は戻ってるんだろうね。あと、どこまでが偶然で、どこまでが必然なんだろうね?」
「私が感じるに、時雨は完全に記憶を取り戻している」
「あと、時雨くんが再び封印されない理由はわかるかい?」
「…………」
「あの御方は〝あれ〟の復活が近いと考えていてね。〝あれ〟の影響が外に出ているんだよ。それを無意識のうちに時雨くんは解決または排除しているわけだよ」
「ひとつ訊きたいことがある」
「なんだい?」
「貴様はどこから情報を仕入れている?」
「外の情報はあの御方から聴いているんだよ。あの御方は眠りながらも外と通じているからね。あの御方はたまに僕の前に姿を現してくれるんだよ。殺葵くんが来てからは一回も姿を現してないけどね」
 殺葵が素早い動きで後ろを振り返った。そこに人の気配を感じたのだ。
 煌びやかな法衣を纏った童女はニッコリと笑いながら両手を元気よく振った。
「お久しぶりぃ~っサッちゃん」
 童女を見て怪訝な顔をする殺葵。
「……女帝」
 童女は女帝と呼ばれた。そう、彼女こそが帝都エデンの女帝。しかし、その姿は一般に知られているものではなかった。人々の前に姿を現す女帝は20代と思わし女性だった。
 殺葵とは対照的に、雪兎はニコニコしながら童女に手を振り返した。
「こんにちは女帝様。ちょうど女帝様の話をしてたところなんですよ」
「わざわざ説明することもないよ。ここはアタシの世界なんだから全部知ってるよ。セーフィエルの進入を許したのはアタシだし。あの子が何をしようとしてるのか見定めようとしたんだけどね、わかんない」
 姿も物腰も口調も、誰も思い描いていた女帝とは違う存在だった。しかし、これが本物女帝なのだ。人前に姿を現してした女帝は魔導でつくられた幻であったのだ。
 女帝はその場に立ち尽くしていた殺葵の正面に立ち、顔を上げてニッコリと笑った。
「アタシの側に付く気ない?」
「私はもうどちらの味方にもならないと決めた」
「ふ~ん、アタシの敵になんないだけマシか」
 考え深げに頷いた女帝は二人に向かって手を振って背を向けた。その小さな背中に雪兎が声をかける。
「もう行くんですか?」
「ちょっとサッちゃんの顔見に来ただけだし。現実世界はいろいろと忙しいんだよね。うんじゃ、ヒマができたらまた来るよ」
 女帝は姿を消し、殺葵が呟いた。
「何もお変わりないな……」
「僕らもここにいる限りは変わらないよ。でも、もしかしたら……」
 雪兎は言葉半ばに口をつぐんで、殺葵もそれに対して何も言わなかった。
 二人は沈黙する。また、誰かがここに来るまでどちらも口を開かないだろう。
 ここは刻の狭間の夢幻郷。
 夢が醒めるまでは不変と永遠が続く。二人が刻むこころ以外は何もかもが不変だった。

 完


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