Remake Episode 05

第5話 死都東京の夢

第二幕 女帝の都市と封印の罪

 帝都エデンには、見てはいけない映像がある。

 それは都市伝説ではない。

 帝都大学の封鎖資料棟。
 夢殿外郭記録室。
 帝都政府広報統制局の非公開アーカイブ。
 女帝信仰会の地下聖堂。
 そして、かつて日本政府が神奈川を失う直前まで保持していた旧防衛記録。

 それらの奥に、削除され、黒塗りにされ、閲覧権限を何重にも封じられた映像が眠っている。

 トキオ聖戦直後の映像。

 旧東京が死都となり、神奈川が帝都へ変わり、女帝ヌルが空から降り、ヨムルンガルド結界が世界を分けた日の記録。

 帝都市民の多くは、その映像を見たことがない。

 教科書には、整えられた写真だけが載っている。

 避難する人々。
 復興作業。
 魔導炉建設。
 女帝ヌルによる都市再生。
 夢殿の白い塔。
 ヴァルハラ宮殿の遠景。
 結界の向こうに沈む旧東京。

 それらは、歴史として安全に加工された過去だった。

 本当の映像は、もっと乱れている。

 光も、音も、叫びも、祈りも、死者の影も、すべてが混じっている。

 その映像を、シグレたちは見ることになった。

 帝都大学カミハラキャンパス、封鎖資料棟地下三階。

 資料棟と呼ばれてはいるが、そこは図書館ではない。壁は白く、床は黒く、空気は低温保存のために薄く冷やされている。廊下の両側には、通常の棚ではなく、縦に並んだ保管棺があった。魔導災害記録、旧東京観測記録、封印術式試験映像、夢殿提供資料、帝都政府黒塗り文書。すべてが個別の結界に収められている。

 ハルナが見たら「絶対に入ってはいけない場所です」と言いそうな場所だった。

 実際、入ってはいけない。

 少なくとも、シグレに正式な入室許可はない。

「クレハ」

 シグレは白い息を吐きながら言った。

「これ、合法?」

「定義による」

 クレハは白衣を揺らしながら先を歩いている。片手には端末。もう片手には、封鎖資料棟の入室カードらしきもの。

「帝都大学教授としての権限はある。封鎖資料閲覧権限も一部ある。同行者を連れてよいとは明記されていないが、禁止とも明記されていない」

「それ、怒られるやつじゃない?」

「怒られてから考える」

「研究者って強いねぇ」

「君もトラブルシューターだろう」

「ボクは怒られたくないトラブルシューターだよ」

 マナが後ろから呆れた声を出した。

「怒られたくない人は、死都東京とノインの記録なんて探さないの」

「探したくて探してるわけじゃないんだけどなぁ」

「でも来た」

「来ない方が面倒になりそうだったし」

「その判断は正しいけど、言い方がゆるい」

 マナは魔導士用コートの前を押さえながら、周囲を見回していた。彼女の足元には複数の感知術式が浮かんでいる。資料棟の結界に触れないよう、慎重に歩いているのがわかる。

 その隣を、アリスが歩いていた。

 白いワンピースではなく、今日はマナが用意した淡い灰色の外套を羽織っている。封鎖資料棟の低温環境に合わせたものだが、アリス自身は体温調整機能を持っているため、寒さを感じているわけではない。

 それでも、彼女は外套の襟を両手で軽く押さえていた。

 人間の真似なのか。

 それとも、マナが「寒い場所ではそうするもの」と教えたからなのか。

「アリスちゃん、寒い?」

 シグレが聞く。

「環境温度は低いですが、私の動作には支障ありません」

「じゃあ、外套は?」

「マナ様が、寒そうに見えると寒くなる、と仰いました」

「視覚的な寒さ対策だねぇ」

「はい。私は現在、寒そうに見えないでしょうか」

「うん。かわいい」

 アリスは瞬きした。

「かわいい、は寒さ評価ではありません」

「でも大事」

「マナ様も同じことを言います」

「マナは正しいねぇ」

「珍しく褒めたわね」

 マナが横から言う。

「珍しくってひどいなぁ」

「あなた、だいたい適当に褒めるじゃない」

「本気で適当に褒めてる」

「もっと悪い」

 そんな軽口の中でも、全員が緊張していた。

 理由は明白だった。

 数時間前、クレハが新しい断片を見つけた。

 古い映像記録。

 名称は黒塗り。

 登録分類は《死都東京形成期・非公開一次映像》。

 関連語句は、トキオ聖戦、厚木基地、女帝ヌル、結界展開、ワルキューレ第九位。

 第九位。

 ノイン。

 その名を見た瞬間、シグレのムラサメが反応した。

 反応した以上、放っておけない。

 シグレ自身は、できれば放っておきたかった。

 だが、ノインという名は、すでに彼の中で眠らせておける音ではなくなっていた。

 クレハが足を止める。

「ここだ」

 地下三階最奥。

 黒い扉。

 扉には、帝都大学の印ではなく、夢殿由来の封印印が刻まれていた。白い円環。蛇のように自らの尾を噛む紋様。その中心に、女帝ヌルの光を示す小さな点。

 ヨムルンガルド結界を象った印だった。

 マナが顔をしかめる。

「夢殿の封印印じゃない」

「そうだ」

「大学の資料棟なのに?」

「だから面白い」

「先生の面白いは、大抵危ない」

「その通りだ」

 クレハは当然のようにカードを差し込んだ。

 端末が赤く光る。

《閲覧権限不足》

「だろうな」

 クレハはもう一枚、黒い細片を取り出した。

 マナが目を細める。

「それ、何?」

「鍵だ」

「正規の?」

「昔は正規だったかもしれない」

「それ、違法って言うのよ」

「歴史的再利用だ」

「言葉でごまかさない!」

 シグレが小さく笑った。

「今日のマナ、ハルナちゃんみたい」

「それ褒めてる?」

「ボクを叱る才能があるって意味では」

「褒めてないわね」

 クレハが黒い細片を端末に差し込む。

 扉の封印印が、ゆっくりと回転した。

 白い円環がほどけ、蛇が尾を離す。

 扉が開いた。

 中は、小さな映像室だった。

 古い映画館のようでもあり、軍の作戦室のようでもあり、神殿の告解室のようでもあった。中央には四つの椅子。正面には黒いスクリーン。壁面には魔導記録媒体を読み取るための装置が並んでいる。

 空気が、さらに冷たい。

 アリスが小さく呟いた。

「記録密度が高いです」

「わかるの?」

 シグレが聞く。

「はい。この部屋には、映像だけではなく、感情残留、魔導場変化、音響記録、霊的圧力が保存されています」

「映画館としては最悪だねぇ」

「はい。観賞には適しません」

 マナが眉を寄せる。

「これ、見るだけで汚染される可能性ある?」

「ある」

 クレハは即答した。

「言い切らないでほしかった」

「だが、対策はしている。浅層視聴、感情遮断フィルター、死都魔気吸着符、強制覚醒符、アリスの記録補助。できる限りの準備はした」

「できる限り、ね」

 マナはシグレを見る。

「本当に見るの?」

 シグレはスクリーンを見た。

 黒い画面。

 何も映っていない。

 だが、そこにすでに何かがいるような気がした。

 死都東京。

 遠い過去ではなく、結界の向こうで今も息をしている場所。

 そして、ノイン。

 知らないはずなのに、胸が痛む名。

「見るよ」

 シグレは言った。

「ここまで来て、やっぱり帰るって言ったら、クレハが怒るし」

「怒りはしない。気絶させて椅子に固定するだけだ」

「ほら、見るしかない」

「先生、そういう冗談やめてください。冗談に聞こえないから」

「冗談ではない」

「もっと悪い!」

 アリスが手を上げた。

「質問があります」

「どうぞ、アリス」

「映像記録にセーフィエルの情報が含まれる可能性はありますか」

 クレハは一瞬だけ考えた。

「ある。少なくとも、夢殿関係者としての彼女が、この時期の封印構築に関わっていた可能性は高い」

「私は、それを見てもよいのでしょうか」

 マナの表情が変わった。

「アリス」

「マナ様。私は自分の設計者に関する情報を求めています。しかし、記録欠損によって参照できません。この映像が、その欠損と関係する可能性があります」

「それは、そうだけど」

「見たいです」

 アリスの声は静かだった。

 けれど、はっきりしていた。

 マナはすぐに止めようとして、言葉を飲み込んだ。

 あなたはアリス。誰かの道具じゃない。誰かの代わりじゃない。
 そう言ったのは、マナ自身だ。

 ならば、アリスが自分の過去を知りたいと言う時、ただ危ないからと閉じ込めることはできない。

 マナは深く息を吐いた。

「……無理だと思ったら、すぐに接続を切る」

「はい」

「怖かったら、言う」

「はい」

「怖いかどうかわからなかったら、それも言う」

「了解しました」

「よし」

 マナはアリスの手を握った。

「一緒に見る」

「はい、マナ様」

 シグレは二人を見て、少しだけ目を細めた。

 アリスには、マナがいる。

 それが少し羨ましいのか、安心なのか、自分でもよくわからなかった。

 クレハが装置を起動する。

 部屋の照明が落ちた。

 黒いスクリーンに、ノイズが走る。

 ざざっ。

 古い映像特有の揺れ。

 だが、そこに混じっているのは電気的ノイズだけではなかった。

 死者の声。
 魔導炉の始動音。
 遠い祈り。
 瓦礫が崩れる音。
 誰かが誰かを呼ぶ声。

 映像が始まった。

 最初に映ったのは、空だった。

 赤い空。

 夕焼けではない。

 炎と魔導光と、異界から漏れ出した黒い粒子が混ざった空だった。

 画面下部に、壊れたテロップが浮かぶ。

《旧東京湾岸・記録部隊視点》
《トキオ聖戦後、第■■日》
《音声欠損あり》
《死都化進行中》

 映像が揺れる。

 カメラを持つ者が走っている。

 瓦礫の街。

 折れた高速道路。
 倒壊したビル。
 水に沈んだ地下入口。
 焦げた街路樹。
 無人のコンビニ。
 割れた駅の案内板。
 道路に乗り捨てられた車の列。

 遠くで、何か巨大なものが吠えた。

 映像の端を、黒い影が横切る。

 マナが小さく息を呑む。

「これが……東京」

 教科書の写真ではない。

 観光用復刻地図の上の地名ではない。

 人が暮らしていた場所が、そのまま死にかけている映像だった。

 避難民が映る。

 小さな子どもを抱えた母親。
 血まみれのスーツ姿の男。
 リュックを背負った学生。
 杖をつく老人。
 警察官。
 自衛隊員。
 魔導士。
 泣く者。
 祈る者。
 振り返る者。

 誰もが、東京を捨てようとしていた。

 いや、捨てたかったわけではない。

 追い出されていた。

 背後から迫る黒い霧に。
 地面の下から聞こえる声に。
 空の裂け目から落ちてくる光に。
 死都化と呼ばれる、不可逆の変化に。

 画面の中で、避難誘導の声が飛ぶ。

『神奈川方面へ! 結界敷設予定区域外へ退避してください! 繰り返します、神奈川方面へ――』

 音声が途切れる。

 ノイズ。

 次の映像へ切り替わる。

《旧首都機能移転記録》
《神奈川臨時行政区》
《厚木方面》

 そこには、今の帝都エデンの原型が映っていた。

 仮設庁舎。
 避難キャンプ。
 魔導炉建設予定地。
 軍用車両。
 人々の長い列。
 旧日本政府と米軍の臨時司令部。
 そして、空に浮かぶ巨大な光。

 マナが呟く。

「首都機能が、こっちへ……」

「教科書だと三行で終わるところだねぇ」

 シグレの声は低かった。

 画面の中では、行政機能が移されている。書類箱。サーバー。記録媒体。避難者名簿。医療物資。通貨管理。戸籍記録。企業サーバー。学校の臨時登録。

 東京が死に、神奈川が新しい中心へ作り替えられていく。

 その過程には、無数の人間の生活があった。

 引っ越しではない。
 遷都でもない。
 避難であり、喪失であり、上書きだった。

 アリスが静かに言う。

「帝都エデンは、最初から都市として存在したのではないのですね」

「そうだな」

 クレハが答える。

「死にかけた東京の機能を、神奈川へ移植した。そこへ女帝ヌルと夢殿の魔導科学が重なり、今の帝都になった」

「移植」

 アリスはその言葉を繰り返した。

「では、帝都は誰かの代わりとして作られた都市でもあるのですね」

 その一言に、誰もすぐには返事をしなかった。

 シグレはアリスを見た。

 アリスも、自分で言った言葉の重さを測っているようだった。

 誰かの代わり。

 アリス。
 シグレ。
 帝都エデン。

 この街そのものが、失われた東京の代替物として生まれたのだとすれば。

 それは、あまりにも大きな代用品だった。

 映像がまた切り替わる。

 今度は、戦場だった。

《厚木基地跡地周辺》
《交戦記録》
《対高次存在戦闘》

 画面の中央に、厚木基地が映っている。

 まだ夢殿もヴァルハラ宮殿もない。滑走路。格納庫。管制塔。戦闘車両。対空兵器。日米の兵士たち。

 その上空に、光が降りた。

 最初は、小さな星のようだった。

 次の瞬間、空が白く裂ける。

 巨大な翼状兵装。
 円環の光輪。
 戦闘用外殻。
 人型の中心核。
 魔導炉に似た高出力の光。

 それは少女の形をしていた。

 けれど、人間の少女ではなかった。

 闘神ヌル。

 破壊神ヌル。

 女帝ヌルの戦闘義体。

 画面越しでも、部屋の温度が変わった気がした。

 人間の兵器が一斉に火を噴く。ミサイル、魔導砲、対空弾、結界榴弾。厚木基地の全火力が空の少女へ向かう。

 闘神ヌルは、避けなかった。

 光輪が回転する。

 放たれた弾頭が、空中で停止した。

 時間が止まったように。

 次に、すべてが白い光に飲まれた。

 音声はなかった。

 あるいは、大きすぎて記録できなかった。

 映像が復旧した時、基地の滑走路は沈黙していた。

 兵器は溶け、管制塔は半分消え、格納庫の屋根が吹き飛んでいる。

 だが、闘神ヌルは空にいた。

 無傷だった。

 マナが唇を噛む。

「これが……女帝ヌル」

「市民向け映像では、もう少し神々しい光に加工されている」

 クレハが言う。

「本物は、兵器だな」

「兵器というより、災害よ」

 マナの声は固い。

「人間側、勝てるわけがない」

「だから、帝都エデンが成立した」

 クレハは淡々と言った。

「人間側は神奈川を完全には取り戻せず、女帝側は帝都を築いた。以後、冷戦状態。市民向けには復興と救済の物語が語られ、軍事記録には制圧と敗北が残った」

 シグレは闘神ヌルの姿を見ていた。

 女帝ヌル。

 ニュースで見る小柄な少女の義体。
 信徒たちが祈る聖像。
 フィーアが仕える主。
 夢殿で眠る本体。
 そして、この映像の中で基地を沈黙させた破壊神。

 同じ存在なのか。

 そう思うこと自体が、すでに人間の尺度なのかもしれない。

 アリスが小さく言った。

「怖い、に該当する反応があります」

 マナがアリスの手を握る。

「うん。私も怖い」

 アリスはマナを見る。

「マナ様も怖いのですか」

「当たり前でしょ。あんなの見て怖くない方がおかしいわ」

「シグレは?」

 シグレは、少しだけ考えた。

「怖いよ」

「ですが、表情変化が小さいです」

「怖い時ほど、眠そうな顔になるのかも」

「便利な表情ですね」

「そうでもないよぉ」

 映像はさらに進む。

 神奈川の制圧。
 仮設行政機能と女帝側の交渉。
 魔導炉建設。
 夢殿の基礎。
 ヴァルハラ宮殿の外郭。
 女帝信仰の発生。
 祈る人々。
 抗議する人々。
 沈黙する軍隊。
 死都東京から漏れ出す黒い霧。

 そして、結界展開の日。

《死都東京外縁部》
《ヨムルンガルド結界初期展開記録》
《映像汚染注意》

 スクリーンに映ったのは、東京を囲む巨大な魔導陣だった。

 地上に引かれた光の線。
 空中に浮かぶ円環。
 海上へ伸びる封印杭。
 地下へ沈む結界柱。
 魔導炉から送られる膨大なエネルギー。
 夢殿から発せられる女帝ヌルの命令。
 ワルキューレたちの儀式陣。

 結界は、壁ではなかった。

 巨大な蛇だった。

 帝都と死都を、世界そのものを巻き込むように円環を作り、自らの尾を噛む封印。

 ヨムルンガルド結界。

 その光が空へ伸び、東京を覆っていく。

 黒い霧が押し返される。

 死者の声が遠ざかる。

 異形の影が、結界の内側へ封じられる。

 人々が、歓声を上げる。

 祈る。

 泣く。

 その光景は、救済のように見えた。

 同時に、巨大な棺に蓋をする瞬間のようにも見えた。

 シグレは、胸を押さえた。

 ムラサメが震えている。

 映像室の低温とは違う冷たさが、背骨に沿って上がってくる。

 クレハが端末を確認する。

「シグレ、反応が上がっている。大丈夫か」

「たぶん」

「その『たぶん』は信用できない」

「よく言われる」

 マナが身を乗り出す。

「きついなら止めるわよ」

「まだ……大丈夫」

 スクリーンの中で、結界儀式が最終段階へ入る。

 ワルキューレたちが映る。

 第一位らしき剣士。
 第二位の重装兵装。
 第四位の声による統制。
 第七位の護衛結界。
 第八位の観測陣。

 映像は古く、乱れている。

 多くの部分が黒塗りのようにノイズで潰れている。

 だが、その中で、一人だけ異様に鮮明な少女がいた。

 剣を持っている。

 白い装束。
 短く揺れる髪。
 細い身体。
 まっすぐな背筋。
 顔は横顔だけ。

 彼女は、結界陣の中心ではなく、少し外れた場所に立っていた。

 だが、なぜか視線がそこへ吸い寄せられる。

 彼女の周囲だけ、時間が静かだった。

 シグレの呼吸が止まる。

 少女が、振り向いた。

 一瞬。

 ほんの一瞬だけ、彼女の顔が映った。

 強い瞳。
 悲しそうな口元。
 誰かを守ろうとする顔。
 そして、どこかで見たような、見てはいけないような懐かしさ。

 画面下部に、壊れた字幕が走る。

《ワルキューレ第九位》
《個体識別:ノイン》
《本名:■■■■》
《封印適性:極大》
《タルタロス接続承認》

 シグレの中で、何かが切れた。

「――」

 声は出なかった。

 ムラサメの柄が、青白く燃えるように光る。

 スクリーンの中の少女が、こちらを見た。

 映像のはずだった。

 過去の記録のはずだった。

 だが、彼女は確かにシグレを見た。

 ノイン。

 その名が、胸の奥で鳴る。

 次の瞬間、映像室の床が消えた。

 シグレは落ちた。

 音もなく。

 光もなく。

 こたつも、ハルナも、時雨堂も、カミハラ区も、帝都エデンの魔導光も、すべてが遠ざかる。

 落ちていく。

 死都東京より深く。
 夢より暗く。
 結界の下へ。
 門の向こうへ。

 タルタロス。

 そう呼ばれる場所へ。

 そこには、空がなかった。

 大地も、海も、正しい形をしていなかった。

 黒い岩盤が浮かび、硫酸のような海が下で泡立ち、遠くの山は溶岩を吐きながら凍っている。熱いのか寒いのか、明るいのか暗いのか、感覚が定まらない。風が吹くたび、死者の声のようなものが混じる。

 ここは世界ではない。

 牢獄だった。

 誰かを閉じ込めるためだけに作られた、ひどく大きな牢獄。

 シグレはその暗闇の中に立っていた。

 足元はある。

 だが、地面ではない。

 巨大な鎖の上だった。

 鎖は遠くまで伸びている。何本も、何百本も、空間そのものを縫うように張り巡らされている。

 その先に、少女がいた。

 映像で見た少女。

 剣を持っていた少女。

 ワルキューレ第九位ノイン。

 だが、今の彼女は剣を持っていない。

 両手、両足、胸、喉、背中。あらゆる場所に鎖が絡みつき、彼女を宙に縫い止めていた。白い装束は汚れ、髪は静かに揺れ、目は閉じられている。

 眠っている。

 いや、眠らされている。

 彼女の周囲には、巨大な棺のような影があった。

 黒い棺。

 邪な柩。

 その奥で、何かが息をしている。

 シグレは一歩、近づこうとした。

 鎖が鳴る。

 少女が、目を開けた。

 その瞳は、映像で見た時よりもずっと近かった。

 青とも銀ともつかない光。

 シグレを見て、彼女は少しだけ目を細めた。

「……あなた」

 声は、かすれていた。

 長い眠りの底から、ようやく水面へ届いたような声だった。

「来てしまったのね」

 シグレは返事ができなかった。

 何を言えばいいのかわからない。

 君は誰。
 ここはどこ。
 ボクはなぜここにいる。
 ノインなのか。
 シオンなのか。

 問いはたくさんあるのに、口が動かない。

 少女は、シグレをじっと見た。

 そして、かすかに笑った。

 悲しい笑みだった。

「違う」

 シグレの胸が痛む。

「あなたは、わたしではないのね」

 その言葉は、刃ではなかった。

 むしろ、包帯のようだった。

 けれど、触れた場所が痛かった。

「ボクは……」

 ようやく声が出た。

「シグレ」

 少女は頷いた。

「シグレ」

 その名を、彼女は初めて聞いたはずなのに、どこか大事そうに呼んだ。

「いい名前」

「君は」

 シグレは喉を鳴らす。

「ノイン?」

 少女の目が、ほんの少しだけ揺れた。

「そう呼ばれていたこともあるわ」

「じゃあ、シオン?」

 鎖が鳴った。

 タルタロスの奥で、何かが蠢く。

 少女は目を伏せた。

「その名は、もう長いあいだ、誰にも呼ばれていない」

「ボクが夢で聞いた」

「そう」

「知らない名前なのに、胸が痛い」

「あなたのせいではないわ」

 少女は静かに言った。

「わたしの痛みが、あなたに触れているだけ」

「どうして?」

「わからない?」

「わからないよ」

 シグレは、少しだけ怒っていた。

 誰に対して怒っているのか、自分でもわからない。

 夢殿か。
 女帝ヌルか。
 セーフィエルか。
 この少女を縛る鎖か。
 それとも、何も知らない自分自身か。

「ノインって呼ばれるたびに、胸が痛い。シオンって言ったら、知らないはずなのに泣きそうになる。ムラサメは勝手に反応する。夢殿は調べるなって言う。フィーアはボクをただの雑貨店店長じゃないって言った」

 シグレは拳を握る。

「ボクは、何なの」

 少女は答えなかった。

 ただ、シグレを見ていた。

 その視線には、憐れみも、期待も、利用しようとする意志もない。

 ただ、確認している。

 あなたは、わたしではない。

 そのことを、大事に確かめている。

「シグレ」

 彼女は言った。

「あなたは、わたしではない」

「でも、関係あるんでしょ」

「あるわ」

「ボクの中に、君がいる?」

「残響がある」

 その言葉は、フィーアも使った。

 ノインの残響。

「わたしの魂の欠片。痛み。役目。未練。そういうものが、あなたに触れている」

「じゃあ、ボクは君の代わり?」

 アリスの問いが蘇る。

 あなたも、誰かの代わりなのですか。

 少女は、はっきりと首を振った。

「違う」

 その否定は、優しかった。

「あなたは、わたしの代わりではない」

「でも、夢殿はそう見てる」

「でしょうね」

「セーフィエルって人も?」

 少女の顔が変わった。

 ほんの一瞬。

 鎖に縛られた少女ではなく、誰かの娘の顔になった。

「……母さん」

 その呟きは、風に消えそうだった。

 だが、シグレには聞こえた。

「セーフィエルは、君の」

 言いかけた瞬間、タルタロスが揺れた。

 黒い棺の奥から、ノイズ混じりの声が漏れる。

『ノ……イ……ン』
『シ……オ……ン』
『かえ……せ』
『ひとつ……に』

 少女の身体が、鎖に引かれる。

「っ……!」

「ノイン!」

 シグレは駆け寄ろうとした。

 だが、足元の鎖が彼を阻む。

 少女は苦しげに目を閉じ、それでもシグレへ向かって叫んだ。

「来ないで!」

「でも」

「まだ来てはいけない!」

 彼女の声が、初めて強くなった。

 映像の中で見た剣士の声だった。

「ここは、あなたの眠る場所じゃない」

「君は」

「わたしは、ここにいるしかない」

「そんなの」

「でも、あなたは違う」

 鎖がさらに鳴る。

 タルタロスの闇が濃くなる。

 少女の姿が遠ざかる。

「シグレ」

 彼女は、もう一度彼の名を呼んだ。

「覚えていて」

「何を」

「わたしの顔を」

 シグレは息を呑んだ。

「名前ではなく、役目ではなく、欠番ではなく」

 少女は、少しだけ笑った。

「わたしが、ここにいたことを」

 黒い闇が、すべてを飲み込んだ。

 シグレは目を覚ました。

 最初に聞こえたのは、マナの声だった。

「シグレ! シグレ、聞こえる!?」

 次に、アリスの声。

「心拍変動、異常値から回復中。魔導汚染、浅層に留まっています。ただし魂反応が不安定です」

 それから、クレハの声。

「強制覚醒は成功した。だが、記録媒体が焼けている。映像を途中で切断された」

 シグレは、椅子に座っていた。

 映像室。
 黒いスクリーン。
 低温の空気。
 手元にはムラサメの柄。
 その柄が、まだ青白く光っている。

 マナが彼の肩を掴んでいる。

 アリスは真正面に立ち、瞳に解析光を宿している。

 クレハは端末を片手に、珍しく焦った顔をしていた。

「……ただいま?」

 シグレがかすれた声で言うと、マナの眉がつり上がった。

「ただいまじゃない! あなた、いきなり意識落ちたのよ! 瞳孔開いたまま、変な言葉呟いて、ムラサメが発光して、映像室の結界が三枚割れて、アリスが泣きそうな顔になって」

「マナ様。私は泣きそうな顔をしていましたか」

「してた!」

「記録にありません」

「私が見た!」

「では、後で表情ログを確認します」

「確認しなくていい!」

 シグレはゆっくり息を吐いた。

 胸が痛い。

 だが、さっきまでの痛みとは違う。

 輪郭がある。

 顔がある。

 白い装束。
 剣を持っていた少女。
 鎖に繋がれていた少女。
 強い瞳。
 悲しい笑み。

 ノイン。

 いや。

 シオン。

 その顔を、シグレは初めて覚えていた。

 名前だけではない。

 役目だけではない。

 欠番ではない。

 一人の少女として。

「見たんだね」

 クレハが低く言った。

 シグレは頷いた。

「タルタロスみたいな場所」

「みたい、ではなく、接続していた可能性が高い」

「鎖につながれた子がいた」

「ノインか」

「うん」

 シグレは目を伏せた。

「彼女は言った。ボクは、彼女じゃないって」

 マナが黙る。

 アリスも黙った。

 クレハの目が細くなる。

「それは重要だ」

「うん」

「夢殿やワルキューレが君をノインの残響として見る以上、君自身がノイン本人ではないと確認したことには意味がある」

「でも、関係はある」

「だろうな」

 シグレはムラサメの柄を見た。

「彼女は、ここにいたことを覚えていてって言った」

 映像室が静かになる。

 その言葉は、研究資料よりも重かった。

 アリスがそっと言う。

「それは、記録を求める言葉ですか」

「たぶん」

「では、私も覚えます」

 シグレはアリスを見る。

「アリスちゃんが?」

「はい。私は記録機能を持っています。ノインという方の顔を、あなたが覚えているなら、私はその証言を記録できます」

「でも、危ないかも」

「危険度は高いです。しかし、忘れさせられるよりは適切だと判断します」

 マナは何も言わなかった。

 言えなかった。

 アリスが自分で選んだ言葉だったからだ。

 クレハは壊れかけた記録媒体を取り出した。

 黒い結晶状の媒体は、半分ほど焼け焦げている。

「映像は途中で切断された。だが、ノインが映った直前までの記録は保存できている。問題は、その先だ」

「その先?」

 マナが聞く。

 クレハは端末画面を見せた。

 黒いノイズの中に、ひとつだけ識別名が浮かんでいる。

《外部干渉》
《封印映像への不正接続》
《月相系魔導》
《識別候補:セーフィエル》

 アリスの瞳が揺れた。

「セーフィエル」

 その名を口にした瞬間、映像室の温度が変わった。

 冷たいのではない。

 月光のように、静かで、白く、肌に触れる温度。

 スクリーンに、ノイズが走る。

 装置は停止しているはずだった。

 記録媒体も焼けている。

 それでも、黒いスクリーンに白い光が浮かび上がった。

 マナが短杖を構える。

「誰!」

 クレハが端末を叩く。

「外部から割り込まれている。映像回線ではない。夢層でもない。これは――」

 彼女の声が途切れた。

 スクリーンの中に、女が立っていた。

 月の光をまとったような姿。

 長い髪。
 白い指。
 柔らかな微笑み。
 優雅で、妖艶で、どこか芝居がかった佇まい。

 だが、その瞳だけが冷たい。

 アリスが一歩、後ずさる。

 マナが即座にアリスの前に出た。

「あなたが、セーフィエル?」

 女は微笑んだ。

「初めまして、と言うべきかしら。鳴海マナ。アリスを大切にしてくれているようね」

 マナの手に力が入る。

「アリスに何をしたの」

「名前をあげたわ」

「それだけ?」

「それだけではないけれど、今語るには早いわね」

 セーフィエルの視線が、アリスへ向かう。

 アリスは、マナの背後から彼女を見ていた。

 怖れている。

 だが、目を逸らさない。

「アリス」

 セーフィエルの声は、母のようにも、製作者のようにも、研究者のようにも聞こえた。

「少し大きくなったのね」

「私は成長機能を限定的にしか持ちません」

「そういうところは変わらないわ」

「私は、あなたをほとんど覚えていません」

「ええ。覚えていないでしょうね」

 セーフィエルは寂しそうに笑った。

 その寂しさが本物なのか、演技なのか、シグレにはわからなかった。

 ただ、その視線が自分へ向いた瞬間、胸がまた痛んだ。

 セーフィエルは、シグレを見た。

 優しく。
 痛ましく。
 そして、何かを取り戻そうとするように。

「あなたが、シグレ」

「そうだけど」

「会いたかったわ」

「ボクは、初対面の人にそう言われると少し困るタイプで」

「でしょうね」

 セーフィエルは笑う。

「あなたは、あの子ではないもの」

 シグレの呼吸が止まる。

「君は、ノインを知ってるんだね」

「ノイン」

 セーフィエルは、その名を口にした。

 フィーアや夢殿の記録とは違う。

 禁忌としてではなく、懐かしい傷として。

「ええ。知っているわ」

「シオンも?」

 その瞬間、セーフィエルの瞳の奥が揺れた。

 ほんの一瞬。

 だが、確かに。

「……その名を」

 彼女の声が低くなる。

「どこで聞いたの」

「夢で」

「会ったのね」

 シグレは答えなかった。

 答えなくても、セーフィエルにはわかったらしい。

 彼女は目を閉じる。

 長い長い時間、探していたものの手がかりに触れたような顔だった。

「そう」

 セーフィエルは囁いた。

「あの子は、まだ自分の顔を覚えていてほしかったのね」

 マナが叫ぶ。

「あなた、何を知ってるの! シオンって誰? ノインって何? アリスと何の関係があるの!」

「質問が多いわね、魔導士マナ」

「答えなさい!」

「まだ早い」

「みんなそればっかり!」

「本当に早いのよ」

 セーフィエルの声は柔らかい。

 だが、そこに揺るぎはない。

「夢殿が見ている。ワルキューレが動く。ヌルも、もう気づいている。今ここで全部を語れば、あなたたちは帰れなくなる」

「脅し?」

「警告」

「フィーアと同じことを言うのね」

「同じではないわ」

 セーフィエルは、静かに微笑んだ。

「フィーアは、帝都を守るために黙れと言う。私は、あなたたちをまだ壊したくないから黙る」

「信用できない」

「正しい判断ね」

 その素直さが、かえって不気味だった。

 セーフィエルは再びシグレを見る。

 その瞳には、はっきりとした執着があった。

 シグレ自身へではない。

 シグレの中にある何かへ。

 ノインの残響。

 シオンの痛み。

 彼女の失われたもの。

「シグレ」

「なに?」

「あなたは、あの子ではない」

「うん。本人にもそう言われた」

「でも」

 セーフィエルの声が、わずかに震えた。

「あなたの中には、あの子の痛みがある」

 シグレは黙る。

「その子を返してもらうわ。シグレ」

 映像室の照明が、一斉に点滅した。

 アリスが胸を押さえる。

「内部記録に、強制照合が発生しています」

「アリス!」

 マナが支える。

 クレハが端末を操作する。

「セーフィエル、アリスに干渉しているのか!」

「まだよ」

 セーフィエルは微笑む。

「今日は挨拶だけ」

「信じられると思う?」

「思わないわ。でも、覚えておいて」

 スクリーンの白い光が薄れていく。

「夢殿は、シオンをノインと呼んだ。女帝は、あの子を楔にした。ワルキューレは、欠番にした」

 セーフィエルの顔が、ノイズに揺れる。

「でも、私は」

 その声だけは、はっきり届いた。

「あの子を、娘と呼ぶ」

 白い光が消えた。

 映像室には、冷たい沈黙だけが残った。

 マナはアリスを抱き支えたまま、息を荒げている。

 クレハは黒くなった端末を見つめている。

 アリスは目を閉じ、自分の内部記録を確認しているようだった。

 シグレは、スクリーンを見ていた。

 もう何も映っていない。

 だが、彼の中には顔が残っている。

 鎖に繋がれた少女。
 剣を持っていた少女。
 ノイン。
 シオン。

 そして、月光のような魔女。

 セーフィエル。

 帝都エデンの光の下で、消された名前たちが、少しずつ目を覚まし始めていた。