Remake Episode 10

第10話 夢殿の眠れる神

第三幕 裁きの門とタルタロス

 夢殿は、帝都エデンの中心にある。

 そう言えば、市民の誰もが頷くだろう。

 行政中枢。
 魔導炉制御施設。
 ヨムルンガルド結界の監視塔。
 女帝ヌルの聖域。
 帝都政府の心臓。
 そして、女帝信仰における最大の神殿。

 だが、そのどれもが正しく、同時に足りなかった。

 夢殿は、帝都の中心にあるのではない。

 帝都そのものが、夢殿から伸びている。

 ホウジュ区の裏通りも、カミハラ区の研究棟も、湾岸区の防潮魔導壁も、アツギ中枢区の白い塔も、魔導炉も、空中歩道も、地下に眠る旧鉄道跡も、女帝信仰の祭壇も、すべて夢殿へつながっている。

 帝都エデンという巨大な封印都市の、いちばん深い場所。

 そこに、眠れる神がいる。

 シグレたちがその場所へ向かったのは、セーフィエルが裁きの門の座標を特定した翌日の夜だった。

 ホウジュ区の雑貨店《時雨堂》は、またしても閉店していた。

 店の扉には、ハルナの手書きで《本日、店長が危険な場所へ行くため臨時休業です》と貼られている。

「ハルナちゃん」

 シグレはその貼り紙を見て、眠たげな顔のまま言った。

「これは、お客さんが見たら心配するんじゃないかなぁ」

「心配してほしいんです」

 ハルナは黒いマフラーをシグレの首に巻きつけながら、きっぱり言った。

「最近のテンチョは、危険な場所へ行く頻度が高すぎます。怪異の出る倉庫、封鎖研究棟、封鎖資料棟、旧月相観測塔、旧湾岸貨物駅跡。次は夢殿ですか」

「観光名所みたいに並べると、ちょっと楽しそうだねぇ」

「全然楽しくありません」

「夢殿って、市民見学ツアーもあるらしいよ」

「テンチョが行くのは絶対それじゃないです」

「鋭い」

「鋭くなくてもわかります!」

 ハルナは、シグレのコートの内側へ護符を入れた。

 いつもの《早く帰れ》ではない。

 今日の護符には、《テンチョはテンチョ》と書かれていた。

 シグレはそれを見て、少しだけ目を細める。

「これ、効く?」

「効きます」

「何に?」

「夢殿とか、女帝様とか、ノインさんとか、シオンさんとか、そういうすごそうなもの全部にです」

「大ざっぱだねぇ」

「大ざっぱでも効きます」

「最強?」

「最強です」

 ハルナの声は強かった。

 けれど、指先は少し震えていた。

 シグレはその指先を見て、軽い冗談を飲み込んだ。

「ハルナちゃん」

「はい」

「ただいまの予約」

「受け付けました」

「キャンセル不可?」

「不可です」

「厳しい」

「絶対です」

 シグレは頷いた。

「じゃあ、帰ってくる」

 ハルナはようやく、少しだけ笑った。

「はい。行ってらっしゃい、テンチョ」

 夢殿へ向かう方法は、正面からではなかった。

 正面から入れば、白い大階段、女帝信仰会の参拝区画、行政受付、結界認証門、ワルキューレ監視塔、夢殿広報局、そして市民向けの神殿見学コースがある。

 もちろん、シグレたちの目的は見学ではない。

 シオンの封印記録。
 ヌル本体の所在。
 セーフィエルが裁きの門を開く前に、夢殿側が何を知り、何を隠しているのかを確認すること。

 そのためには、夢殿の奥へ行く必要があった。

 シンが用意した侵入経路は、夢殿地下の旧軍事搬入口だった。

 厚木基地跡地。

 トキオ聖戦後、ヌルたちが制圧し、その上に夢殿とヴァルハラ宮殿を築いた場所。地上は白い神殿のように整備されているが、地下には旧基地の骨格がまだ残っている。軍用通路、格納庫跡、通信管制室、燃料搬入口。それらは現在、魔導炉補助設備や夢殿外郭メンテナンス路として使われていた。

 夜のアツギ中枢区は、帝都のどの区よりも静かだった。

 ビルは少ない。

 代わりに、白い塔が多い。

 夢殿を中心に、行政塔、結界観測塔、女帝信仰の礼拝堂、ワルキューレ宿舎、魔導炉制御棟が円を描くように並んでいる。街路樹の根元には白い光が流れ、空中には小さな監視魔導眼が浮かんでいた。

 神聖で、清潔で、息苦しい。

 ホウジュ区の雑多な光とは違う。

 ここでは、街そのものが姿勢を正しているようだった。

 シグレは地下搬入口の影から、夢殿の塔を見上げた。

「観光で来たかったなぁ」

 マナが隣で短杖を握る。

「観光で来ても、たぶん同じ感想になるわよ」

「どんな?」

「息苦しい」

「マナは鋭いねぇ」

「今日は褒めても慎重にはならないわよ」

「慎重になってほしいなぁ」

 アリスは二人の後ろに立っていた。

 淡い灰色の外套を羽織り、胸元に手を当てている。そこには、前回から時折浮かぶようになった蛇の円環――ヨムルンガルド結界と同型の未登録回路の紋様がある。

 今夜、その紋様は静かに光っていた。

「アリスちゃん、大丈夫?」

 シグレが聞く。

「大丈夫、という状態を定義中です」

「怖い?」

「はい」

「夢殿が?」

「はい。私の内部未登録回路が、夢殿の認証層に反応しています。歓迎されているようにも、検査されているようにも感じます」

「嫌な歓迎だねぇ」

「はい。嫌な歓迎です」

 マナがすぐにアリスの肩に手を置いた。

「無理だと思ったら言う」

「はい」

「怖いままでいい」

「はい」

「でも勝手に前に出ない」

「条件付きで了解します」

「条件をつけない!」

「マナ様が危険になった場合、条件は破棄されます」

「成長の方向が私に似てきた……」

 マナは頭を抱えた。

 シグレは少し笑ったが、その笑いは長く続かなかった。

 ムラサメが震えている。

 夢殿へ近づくほど、胸の奥の残響が強くなる。

 ノイン。
 シオン。
 裁きの門。
 タルタロス。
 闇の子。

 そして、女帝ヌル。

 全部がここへ集まっている。

 地下搬入口の扉は、古い軍用鋼材でできていた。

 その上から夢殿の白い封印符が貼られている。シンが遠隔で認証を偽装するはずだったが、扉はシグレたちが近づく前に、音もなく開いた。

 マナが足を止める。

「開いた」

「開いたねぇ」

「シンがやった?」

 通信端末から、シンの声が聞こえた。

『僕じゃない。むしろ、こっちはまだ認証を噛ませる前だった』

 マナの顔が険しくなる。

「罠?」

『夢殿で勝手に扉が開いた時点で、罠じゃなかったとしても罠だよ』

「便利な結論ね」

『逃げるなら今』

 シグレは開いた扉の奥を見た。

 地下通路。

 白い光。

 奥へ伸びる床。

 そして、遠くから聞こえる低い鼓動。

 都市の鼓動。

 夢殿の奥で、何かが眠っている音。

「行くよ」

 シグレは言った。

「帰るなら、今じゃない」

 地下通路へ入る。

 最初の区画は、まだ施設だった。

 旧基地のコンクリート壁を白い魔導材で補強した廊下。床には旧軍事番号と新しい夢殿管理コードが並んでいる。壁面には配管が走り、その中を青白い液体光が流れていた。魔導炉から送られるエネルギーだ。

 マナが端末をかざす。

「魔導炉出力線。都市電力用じゃないわ。結界制御用の高圧線」

「触ったら?」

「たぶん蒸発する」

「たぶん禁止って言われたけど、今のは許されそうだねぇ」

 アリスが壁面を見つめる。

「この線は、夢殿中枢を経由して死都東京方面へ送られています。封印圧制御。タルタロス接続補正。裁きの門座標固定。複数の用途が混在しています」

「読めるの?」

「はい。読めてしまいます」

 その言い方が、少し不安そうだった。

 アリスの内部にある未知回路が、夢殿の言語を理解している。

 それは便利で、同時に怖い。

 マナはアリスの横顔を見た。

「あなたが悪いわけじゃない」

「はい」

「怖くても、あなたはアリス」

「はい」

「よし」

「よし、ですか」

「よし」

 通路の先に、第一認証門があった。

 白い円環の門。

 中央には女帝ヌルの紋章。

 本来なら、夢殿職員、ワルキューレ、結界技師、行政官のみが通れる門だ。

 だが、門はシグレのムラサメに反応した。

 青白い光が走る。

 次に、アリスの胸元の円環が応答する。

 門の認証表示が揺れた。

《ワルキューレ系統反応》
《旧第九位座標残響》
《セーフィエル系列補助端末反応》
《認証矛盾》
《上位判断待機》

「待って」

 マナが顔をしかめる。

「今、シグレとアリスで認証が通りかけた?」

「嫌な通り方だねぇ」

 アリスが静かに言う。

「私とシグレは、夢殿の封印制御において、例外的な参照対象として認識されています」

「例外的って?」

「通常の入館者ではなく、封印構造の一部、または不具合として」

「ますます嫌だなぁ」

 シグレは門を見上げる。

「不具合扱いは慣れてるけど、封印構造の一部扱いは初めてだね」

 その瞬間、門が開いた。

 奥へ進む。

 第二層は、行政施設だった。

 広いホール。

 壁面に並ぶ巨大な端末。

 夢殿職員が働いていた痕跡。

 帝都各区の監視図。
 魔導炉出力表。
 市民向け広報予定。
 女帝信仰会の祭礼日程。
 ワルキューレ出動記録。
 都市治安指数。
 死都東京観測ログ。

 だが、人はいなかった。

 端末だけが動いている。

 無人の行政室。

 それなのに、都市は機能している。

 マナが低く言う。

「職員を避難させた?」

 シンの声が通信から返る。

『表向き、夢殿中層は結界調整のため一時閉鎖。職員は外郭へ移動済み。君たちが入れるように空けられてる』

「誰が?」

『聞きたい?』

「聞きたくないけど聞く」

『ヌルだと思う』

 沈黙。

 シグレは肩をすくめた。

「潜入っていうより、招待だねぇ」

「招待状がなかったわ」

 マナが言う。

「ワルキューレの襲撃よりは親切かな」

「親切な罠って最悪よ」

 行政室の奥には、夢殿の都市制御中枢があった。

 巨大な円形の部屋。

 中央に浮かぶ帝都エデンの立体図。

 ホウジュ区、カミハラ区、アツギ中枢区、湾岸区、外縁結界、死都東京。

 都市の全景が、蛇の円環に巻かれている。

 ヨムルンガルド結界。

 その線の一部が赤く脈打っていた。

 裁きの門座標。

 D∴C∴の儀式で一瞬だけ浮上し、セーフィエルが掴んだ地点。

 マナが息を呑む。

「もうここにも出てる」

「夢殿が知らないわけないよねぇ」

 シグレは立体図を見た。

 裁きの門の座標は、死都東京の中心ではない。

 正確には、死都東京の中心へ至るために現世側へ投影される門の位置だった。旧東京と帝都の境界、結界の重なり、タルタロスの圧力、シオンの楔、セーフィエルの血筋、シグレの残響。それらが一致する一点。

 そこへ、月光の細い線が伸びていた。

 セーフィエルの術式。

 すでに準備が始まっている。

 アリスの胸元が強く光る。

「裁きの門座標に、外部召喚準備反応。セーフィエル系列。進行率、七十二パーセント」

「七十二!?」

 マナが叫ぶ。

「早すぎる!」

「セーフィエルは、ずっと準備していたのだろう」

 知らない声がした。

 シグレたちが振り向く。

 部屋の入口に、ズィーベンが立っていた。

 ワルキューレ第七位。

 長い髪。静かな目。白と青の戦乙女装束。
 派手な武装はない。だが、彼女の周囲には幾重もの防御結界が薄く重なっている。女帝ヌルのそばに立つ者の気配だった。

 マナが短杖を構える。

 シグレもムラサメの柄に触れる。

 アリスは胸元を押さえたまま、ズィーベンを見ている。

 ズィーベンは、攻撃しなかった。

「剣を抜く必要はない」

「それ、こっちの台詞じゃない?」

 マナが言う。

「あなたたちが通路を開けたの?」

「陛下のご意向だ」

「ヌルの?」

 シグレが聞く。

 ズィーベンの視線がシグレへ向く。

「そうだ。シグレ。ノインの残響を宿す者。陛下は、あなたと話すことを望まれている」

「話す?」

「そうだ」

「アインは斬りかかってきたけど」

「アインは剣だ。私は扉だ」

「フィーアは?」

「声だ」

「ワルキューレ、役割分担がわかりやすいねぇ」

 ズィーベンは微動だにしない。

「軽口を叩けるなら、まだ飲まれてはいないようだ」

「何に?」

「ノインの残響に」

 シグレの胸が痛む。

 ズィーベンは、その反応も見ていた。

「この先は、夢殿最深部。眠りの座。陛下本体が安置されている」

 マナが目を見開く。

「本当に、ヌル本体がここに?」

「そうだ」

「それを私たちに見せるの?」

「見せるのではない。あなたたちは、すでに見なければならない位置まで来ている」

 ズィーベンは歩き出した。

「ついてこい」

 シグレはマナを見る。

 マナは短杖を下ろさないまま頷いた。

「行くしかないわね」

「観光ツアー、奥深いねぇ」

「シグレ、黙って歩いて」

「はい」

 第三層へ入ると、夢殿は施設ではなくなった。

 壁が消えたわけではない。

 床も、天井もある。

 だが、素材が変わっていく。

 白い魔導材は、いつの間にか骨のような光を帯びた結晶へ変わっていた。壁の中には血管のように金色の線が走り、床の下には水ではなく、思念の流れのようなものが揺れている。

 通路の両側には、女帝信仰の聖画が並んでいた。

 女帝ヌルが死都東京の黒霧を払う絵。
 魔導炉に光を与える絵。
 避難民へ手を差し伸べる絵。
 ワルキューレたちを従える絵。
 闘神義体で基地を制圧する絵は、描かれていない。
 シオンも描かれていない。
 闇の子も描かれていない。

 救済だけが描かれている。

 犠牲は描かれていない。

 マナが小さく言う。

「きれいね」

「うん」

 シグレは答える。

「きれいに、隠してる」

 ズィーベンは振り返らずに言った。

「帝都の民が、すべての真実に耐えられるとは限らない」

「またそれ?」

 マナの声が鋭くなる。

「フィーアと同じことを言うのね」

「フィーアは市民を恐怖から守る。私は陛下を危険から守る。言葉は似ても、立場は違う」

「隠された人は?」

 シグレが聞く。

 ズィーベンが足を止めた。

「シオンのことか」

「うん」

「彼女は、忘れられるべきではなかった」

 その答えは、予想外だった。

 シグレもマナも黙る。

 ズィーベンは、わずかに横顔だけを見せる。

「だが、記録に残せば、セーフィエルが必ず取り戻しに来る。信徒が知れば、女帝信仰は揺らぐ。人間政府が知れば、帝都の正当性を攻撃する。D∴C∴が知れば、闇の子信仰に利用する。だから消した」

「正しいと思ってる?」

「必要だったと思っている」

「違いは?」

「罪の自覚が残るかどうかだ」

 ズィーベンは再び歩き出した。

 その背中に、シグレは言葉を失った。

 夢殿の奥へ進むほど、音が消えていく。

 最初は足音が聞こえた。

 次に、呼吸音だけになった。

 やがて、自分の心臓の音さえ遠くなった。

 代わりに、別の鼓動が聞こえる。

 ゆっくりとした、巨大な眠りの鼓動。

 夢殿の鼓動。

 ヌル本体の鼓動。

 最後の扉は、扉ではなかった。

 巨大な花の蕾のような構造物。

 白い花弁が幾重にも重なり、その隙間から金色の光が漏れている。花弁の根元には無数の魔導管が接続され、夢殿全体、ヴァルハラ宮殿、魔導炉、ヨムルンガルド結界、死都東京観測層へ伸びていた。

 ズィーベンが膝をつく。

「陛下。お連れしました」

 花が開いた。

 そこに、眠りの座があった。

 巨大な生命維持装置。
 封印制御装置。
 思念送信装置。
 そのすべてを兼ねた、白と金の棺。

 棺ではない。

 玉座でもない。

 ゆりかごでもある。

 処刑台でもある。

 その中心に、少女が眠っていた。

 女帝ヌルの本体。

 シグレは、息を忘れた。

 市民が見る女帝義体よりも、ずっと静かだった。

 小柄な少女の姿をしている。白い肌。閉じた瞳。長い髪。薄い衣。人間ならば眠っているだけに見えただろう。

 だが、その身体から無数の光の糸が伸びている。

 額から夢殿へ。
 胸から魔導炉へ。
 指先からワルキューレの指令系統へ。
 背中からヨムルンガルド結界へ。
 足元から死都東京の封印層へ。
 そして、もっと深い場所――タルタロスへ。

 ヌルは眠っていた。

 死んでいない。

 だが、生きているとも言い切れない。

 世界を支配しながら、世界に縛られている。

 マナが小さく呟いた。

「これが……本体」

 アリスは言葉を発しなかった。

 彼女の胸元の円環が、眠りの座に反応して明滅している。

 シグレは、なぜかシオンを思い出した。

 タルタロスの鎖につながれた少女。

 目の前のヌル本体は、鎖には見えない。

 光に包まれている。

 花の中に眠っている。

 だが、動けないという意味では同じだった。

「ヌルも」

 シグレの声がかすれる。

「眠ってるんだ」

 その時、部屋の奥に別の光が生まれた。

 女帝義体だった。

 ヴァルハラ宮殿にいるはずの統治用義体。

 白と金のドレスをまとった小柄な少女が、光の中から歩いてくる。実体ではない。思念投射。だが、その存在感は本体の眠りを揺らすほど強い。

 ヌル義体は、退屈そうに笑った。

「そうだよ、人の子」

 シグレは振り向く。

 マナが短杖を構える。

 ズィーベンが静かに頭を下げる。

 ヌル義体は、そのすべてを見て、軽く手を振った。

「いいよ、ズィーベン。今は昔話をする時間だから」

「承知しました」

 ズィーベンは下がるが、警戒は解かない。

 ヌルはシグレを見た。

「来たね、シグレ。ノインの残響を連れて」

「招待された気もするけどねぇ」

「招待したよ。潜入気分を味わわせてあげたんだから、感謝してほしいな」

「趣味が悪い」

「神はだいたい趣味が悪いものだよ」

 マナが一歩前に出る。

「あなたが、ヌル」

「そう。市民が祈る女帝ヌル。魔導炉を動かす光の子。人間の軍隊を黙らせた闘神。夢殿で眠る怠け者」

「怠け者って」

 シグレが思わず言う。

 ヌルは笑った。

「だって、眠ったまま帝都を動かしてるんだよ。怠惰の極みでしょ?」

「ボクと気が合いそうで嫌だなぁ」

「アタシはこたつには入らないけどね」

「入ればよさがわかるよ」

「帝都の女帝がこたつから神託を出すのは、威厳に問題がある」

「少し見たい」

 マナが低く言う。

「シグレ。相手、女帝」

「うん。忘れかけた」

「忘れないで」

 ヌルは楽しそうに目を細めた。

「人の子って、ほんと面白いね。夢殿の最深部で、アタシの本体を前にして、こたつの話をする」

「緊張をごまかしてるんだよぉ」

「知ってる」

 その一言で、シグレの軽口は止まった。

 ヌルは見透かしている。

 眠たげな顔の奥にある恐怖も、胸の痛みも、ノインの残響も、シオンの顔も。

 すべて見えている。

 シグレは本体の眠りの座を見る。

「どうして、眠ってるの」

 ヌルの笑みが少しだけ薄くなった。

「いい質問だね」

「答えてくれる?」

「そのために呼んだ」

 ヌル義体は、眠る本体のそばへ歩く。

 本体は目を開けない。

 義体だけが話す。

「アタシは完全には目覚められない。闇の子がタルタロスで眠っているから」

 マナが息を呑む。

「闇の子と、あなたは」

「半身だよ」

 ヌルはあっさり言った。

「双子、と言う人の子もいる。間違いではないけれど、正確でもない。もともと一つだったものが、光と闇に分かれた。アタシは形を作る。秩序を編む。都市を築く。名前を与える。保存する。支配する」

「闇の子は?」

 アリスが静かに聞いた。

「形にならないものを抱えている。怒り、痛み、未完成、喪失、忘れられた声。光が都市を作るなら、闇は都市からこぼれるものを全部持っていく」

 ヌルは、少しだけ退屈そうに見えた。

 けれど、その声の奥には、わずかな嫌悪と、さらにわずかな寂しさがあった。

「アタシはあれを憎んでいる。同時に、あれはアタシだ。殺せない。切り捨てられない。でも解き放てば、世界が壊れる」

「だから、封じた」

 シグレが言う。

「そう」

「シオンを使って?」

 部屋の空気が止まった。

 ズィーベンの視線がわずかに動く。

 マナが息を詰める。

 アリスの胸元の円環が震える。

 ヌルは、シグレを見た。

 笑わなかった。

「そうだよ」

 認めた。

 あまりにも静かに。

「シオンを楔にした。ワルキューレ第九位ノイン。セーフィエルの娘。封印適性が高く、剣が強く、責任感があり、あの時、あの場所にいた」

 シグレの胸が痛む。

「人柱にしたんだね」

「そうだよ」

「どうして」

「世界を壊さないため」

 ヌルの声は揺れなかった。

「死都東京だけの話ではなかった。裁きの門の向こうにはタルタロスがある。タルタロスの奥には闇の子がいる。あれが完全に現世へ接続すれば、帝都だけでは済まない。リンボ全体が揺らぐ。人間の都市も、国も、歴史も、夢も、名前も、全部が黒い海に落ちる」

「だから、一人を犠牲にした」

「そう」

「それでいいと思ったの」

「よくはない」

 ヌルは即答した。

 その答えもまた、予想外だった。

「よくはないよ。シオンを楔にしたことは、綺麗な話じゃない。聖なる犠牲でもない。帝都信仰会の聖画に描けるような救済でもない。必要だった。だからやった。ただ、それだけ」

 マナが怒りを抑えきれずに言う。

「必要なら、何をしてもいいの?」

「いいわけがない」

 ヌルはマナを見た。

「でも、何もしなければもっと多くが壊れた。人の子は、よく正しさを秤にかけたがるね。ひとりと全員。少数と多数。母と都市。命と世界。まるで、重い方を選べば罪が軽くなるみたいに」

 マナは言葉を失った。

 ヌルは続ける。

「軽くならないよ」

 その声には、神の傲慢ではなく、長く封印を維持してきた者の疲労があった。

「アタシの秤は、いつだって血で汚れている。シオンを楔にした。セーフィエルから娘を奪った。ワルキューレから第九位を消した。帝都の民には光だけを見せた。死都東京の声を結界の向こうへ押し込めた。闇の子を眠らせた。そして、その闇の眠りに引かれて、アタシもここで眠っている」

 シグレは、眠りの座の本体を見た。

 光の糸に縛られた少女。

 ヌルは支配者だ。

 神だ。

 帝都エデンの女帝だ。

 だが、自由ではない。

 彼女もまた、封印の一部だった。

「ヌルを倒せば、全部解決するわけじゃない」

 シグレは呟いた。

 ヌルが笑った。

「ようやく、そこに気づいた?」

「気づきたくなかったなぁ」

「アタシを倒せば、帝都の支配者は消える。人の子は喜ぶかもね。だけど夢殿の制御は落ち、魔導炉は乱れ、ヨムルンガルド結界は解ける。死都東京は溢れ、裁きの門は開き、タルタロスは現世に触れる。闇の子も、アタシも、無事では済まない」

「じゃあ、セーフィエルを止めれば?」

「シオンはそのまま」

 その答えが、いちばん痛かった。

 シグレは拳を握る。

「どっちも最悪じゃない」

「そうだよ」

 ヌルは軽く言った。

「世界は、たまにそういう形をしている」

 アリスが一歩前に出た。

「質問があります」

「どうぞ、セーフィエルの小さな未練」

 マナが即座に短杖を向ける。

「アリスにそういう言い方をしないで」

 ヌルは少し目を細めた。

「いい保護者だね、魔導士マナ」

「褒められても嬉しくない」

「褒めてない。観察しただけ」

 アリスは胸元に手を当てた。

「私は、封印システムの一部として設計されていますか」

 ヌルはアリスを見た。

 その視線には、先ほどまでとは別の冷たさがあった。

 物を見る目ではない。

 だが、人を見る目とも違う。

 未知の機構を見る神の目。

「セーフィエルは、賢い」

 ヌルは言った。

「そして、愚かだ。キミをただの人形として作ったのではない。シオンの代わりでもない。正確には、シオンを救い出した後、封印を完全崩壊させないための補助鍵として設計したのでしょう」

 マナの顔色が変わる。

「アリスを、楔にするため?」

「違う」

 ヌルは首を振った。

「楔ではなく、橋。タルタロスと現世、ノインの残響とセーフィエルの血筋、裁きの門とヨムルンガルド結界。その間に一時的な通路を作るための端末。うまく使えば、シオンを永遠の人柱から外すことができる」

「じゃあ、いいことじゃない」

 マナが言う。

 ヌルは笑った。

「うまく使えば、ね」

「失敗したら?」

「帝都が落ちる。タルタロスが漏れる。闇の子が目覚める。アリスも壊れる。シグレも、ノインの残響に引きずられる」

 アリスは静かに聞いていた。

「私は、壊れる可能性が高いのですね」

「高い」

「セーフィエルは、それを知っていますか」

「知っている」

「それでも、使うのですね」

「母親は、時に世界より娘を選ぶ」

「マナ様は?」

 アリスがマナを見る。

「マナ様は、私を選びますか」

 マナは言葉に詰まった。

 問いがあまりにもまっすぐだった。

 彼女はアリスの肩を掴む。

「選ぶ」

 声が震えていた。

「私はあなたを選ぶ。でも、あなたを道具にはしない。あなたが壊れる道なんて選ばせない。絶対に」

「絶対、ですか」

「絶対」

「記録しました」

 アリスは頷いた。

「私も、マナ様が壊れる道は選びません」

「アリス」

「約束です」

 マナは泣きそうな顔で、アリスを抱きしめた。

 ヌルはそれを見て、退屈そうに、しかしどこか眩しそうに笑った。

「人の子と人形は、面白いね」

 シグレはヌルを見る。

「シオンは」

「何?」

「シオンは、まだ助けられる?」

 部屋の光が、わずかに揺れた。

 ヌル義体の顔から、軽さが消える。

「助ける、という言葉の意味による」

「苦しみから解放する」

「可能性はある」

「人柱から外す」

「危険を伴う」

「普通に生きる」

「それは、もう無理だ」

 シグレは目を伏せた。

 わかっていた。

 けれど、聞かずにはいられなかった。

 ヌルは静かに言う。

「シオンは長く楔でありすぎた。肉体はない。魂は削れた。時間も、人間の形も、戻らない。セーフィエルが求めているのは、昔の娘をそのまま取り戻すことではない。少なくとも、彼女の一部はそれをわかっている」

「じゃあ、セーフィエルは何を」

「永遠の苦痛から救い出したい」

 ヌルの声は、低かった。

「それだけなら、アタシも理解できる」

「なら、どうして」

「闇の子がいるから」

 その名が出た瞬間、眠りの座の奥で黒い影が揺れた。

 ヌル本体の指先が、ほんの少し動く。

 アリスが息を呑む。

「タルタロス方向から思念波」

 シグレの胸が痛む。

 闇の子の声が、また聞こえる気がした。

 ――聞こえた。

 ――やっと、聞こえた。

 ヌル義体の目が鋭くなる。

「シグレ」

「なに」

「キミは、闇の子の声を聞いた」

「うん」

「返事をしたね」

「少し」

「人の子は、本当に懲りない」

「よく言われる」

「それが、封印にとってどれほど危険かわかっている?」

「わからない」

「正直だね」

「わからないことだらけだから」

 シグレは、ヌル本体を見る。

 それから、ヌル義体を見る。

「でも、君たちが全部わかっててこうなってるなら、わからないボクが動いた方が、まだ変わるかもしれない」

 ズィーベンがわずかに眉を動かした。

 マナがシグレを見る。

 アリスも見る。

 ヌルは、しばらく黙っていた。

 やがて、笑った。

「アタシにそれを言うんだ。面白いね」

 その笑みは、今まででいちばん神らしかった。

 傲慢で、冷酷で、少しだけ楽しそうだった。

「いいよ、シグレ。キミがどう動くか、見ていてあげる」

「止めないの?」

「止める時は止める。殺す時は殺す。でも今は、キミの中のノインの残響と、キミ自身の選択を見ている方が価値がある」

「物騒だなぁ」

「神様だからね」

「神様って、もっと優しくない?」

「信仰会の絵の中ではね」

 その時だった。

 眠りの座の周囲にある結界観測装置が、一斉に赤く染まった。

 低い警報音が鳴る。

 最初は眠りの座の中だけ。

 次に、夢殿最深部。

 さらに中層、外層、行政区画、結界制御室、女帝信仰の礼拝堂、夢殿全体へと広がっていく。

『警告』
『裁きの門座標、現世投影準備』
『外部召喚術式、進行率九十六パーセント』
『セーフィエル系列血統反応』
『ノイン残響座標、照合中』
『アリス補助鍵反応、微弱共鳴』
『ヨムルンガルド結界外層、臨界接近』

 マナが叫ぶ。

「セーフィエル!」

 アリスの胸元の円環が激しく光る。

「裁きの門召喚準備、完了間近です」

 シグレのムラサメが勝手に光刃を伸ばした。

 青白い刃が、眠りの座の光に照らされる。

 ヌル義体は、赤い警報の中で笑った。

 退屈そうではなかった。

 怒ってもいなかった。

 ただ、長いあいだ予見していた最悪が、ついに形になった者の顔だった。

「セーフィエル」

 彼女は、遠い月を見るように言った。

「本当に、キミは昔からそうだ。大事なもののためなら、世界の秩序なんて平気で壊す」

 ズィーベンが膝をつく。

「陛下、ご命令を」

「アインを待機から上げて。フィーアには市民統制。アハトは死都観測を最大。魔導炉は封印圧優先。闘神義体は――まだ起こさない」

「承知しました」

 マナが叫ぶ。

「まだ、って何よ!」

 ヌルはマナを見た。

「次で必要になるかもしれない、という意味だよ」

 シグレは、眠りの座の前に立った。

 夢殿全体の警報が鳴り響いている。

 帝都エデンの地下で、巨大な蛇が身じろぎしている。

 死都東京の中心で、見えない門が呼吸を始めている。

 タルタロスの底で、闇の子が耳を澄ませている。

 セーフィエルは、娘を迎えに来る。

 ヌルは、帝都を守ろうとしている。

 シオンは、まだ鎖につながれている。

 そしてシグレは、誰の代わりでもないまま、そのすべての中心に立っていた。

「行くよ」

 シグレは言った。

 マナが頷く。

「当然」

 アリスも頷く。

「同行します」

 ヌルは笑った。

「いいね。人の子らしい無謀さだ」

「褒めてる?」

「少し」

「珍しい」

「今だけだよ」

 夢殿の警報が、さらに強くなる。

 赤い光が、白い聖域を染めていく。

 眠りの座の中で、ヌル本体の瞼が、ほんのわずかに震えた。

 それは目覚めではない。

 だが、眠れる神が、夢の底で世界の崩れる音を聞いた瞬間だった。