Remake Episode 13

第13話 帝都エデン

終幕 帝都エデン

第一場 闇の子、帝都へ触れる

 帝都エデンに、夜が落ちていた。

 ホウジュ区の商業灯はまだ消えていない。空中歩道の下を魔導バスが滑り、ビル壁面の広告が女帝ヌルの緊急退避案内へ切り替わり、カミハラ区の研究塔群は赤い警告灯を滲ませている。アツギ中枢区では夢殿の白い塔が夜空へ光を放ち、ヴァルハラ宮殿の尖塔が雲よりも高く、都市全体を見下ろしていた。

 湾岸区の向こうには、死都東京を覆う結界がある。

 それは普段なら、遠い水平線にかかる青白い膜にすぎなかった。帝都市民にとって死都東京は、地図の向こう側にある禁域であり、ニュースで語られる過去であり、学校の授業で習う災厄であり、女帝ヌルが封じてくれていると信じられている傷跡だった。

 だが、その夜。

 傷跡が、息をした。

 最初に異変を感知したのは、夢殿の深層観測盤だった。

 アツギ中枢区、夢殿最深部。眠りの座に安置されたヌル本体の周囲で、無数の魔導管が同時に脈打つ。白と金の光を流していた管の一部が、墨を一滴落とされた水のように黒く濁った。

 ズィーベンは、観測盤の前に立っていた。

 彼女の顔色は変わらない。

 だが、指先だけがわずかに動いた。

「タルタロス深層より、思念接続」

 夢殿の壁に走る女帝紋が、ひとつ、またひとつと反転していく。白い紋章の内側に、黒い影が走る。まるで光の裏側から、何かが爪を立てているようだった。

「裁きの門外縁、再閉鎖中。邪柩封印、再構成中。シオン=ノイン人柱負荷、低下。アリス記録核、過負荷。シグレ残響座標、変動」

 ズィーベンは、眠りの座を見た。

 ヌル本体は眠っている。

 閉じた瞼は動かない。白い肌は静かで、少女のように脆く見える。だが、その身体から伸びる光の糸は、夢殿、ヴァルハラ宮殿、魔導炉、ヨムルンガルド結界、死都東京観測層、そして裁きの門の向こうへと伸びている。

 その糸の一本が、黒く震えた。

 ヴァルハラ宮殿。

 玉座の間に座していた女帝義体が、目を開けた。

 小柄な少女の姿をした女帝ヌルは、しばらく何も言わなかった。背後に控えるワルキューレたちの端末が一斉に警告を上げる。死都観測を担当するアハトの通信が途切れ、再接続され、また途切れる。フィーアの広報回線が緊急優先へ切り替わり、アインの戦闘通信にはタルタロス漏出体の殲滅記録が並んでいる。

 ヌルは、玉座の肘掛けに指を置いた。

「……届いたか」

 その声は、退屈そうではなかった。

 苛立ちでもない。

 どこか遠く、長い長い眠りの底で、自分の半身が初めて名前を呼んだのを聞いたような声だった。

 次の瞬間。

 帝都エデン全域に、黒い光が走った。

 光なのに、暗かった。

 ホウジュ区の空中歩道を、黒い稲妻のような線が横切る。魔導灯が一斉に明滅し、明るい商業街の看板が一瞬だけ文字化けする。飲食店のメニュー表示には、存在しない旧東京の駅名が混じった。

《新宿》
《渋谷》
《東京》
《上野》
《品川》
《池袋》

 それらは、今の帝都では使われない案内だった。

「な、何だよ、これ」

 空中歩道にいた会社員が足を止める。

 彼の影が、半拍遅れて止まった。

 本人が右を向いた後、影だけがまだ正面を見ていた。次に、影はゆっくり顔を上げるように伸び、歩道の透明床の下を覗き込んだ。

 そこには、線路があった。

 本来なら、下にはホウジュ区の道路と魔導車両の流れが見えるはずだった。だが、今だけは違う。空中歩道の下に、古い鉄道の線路が重なっている。錆びたレール。薄暗いホーム。白いタイル。広告の剥がれた壁。誰もいないはずの駅に、電車の接近音だけが響いていた。

 子どもが泣き出した。

 母親が抱き寄せる。

「見ちゃだめ!」

 だが、母親自身も目を逸らせなかった。

 ビルの窓に、海が映っていたからだ。

 東京湾ではない。

 タルタロスの硫酸の海。

 黄色と緑と黒が混ざった液体が、ガラスの向こうで泡立っている。波が立つたび、泡の中に人の手のようなものが浮かび、すぐに溶ける。ビルの中にいた人々は、窓の外に映ったそれを見て、自分たちが地上ではなく、どこか別の地獄の底に吊るされているような錯覚に襲われた。

 カミハラ区では、帝都大学の研究塔群が悲鳴を上げた。

 封鎖研究棟の中で、保管されていた機械人形たちが一斉に停止する。目の奥に灯っていた魔導光が消え、膝から崩れ落ちる。実験用の自動腕は空中で固定され、魔導観測機は同じ数値を繰り返し表示し続けた。

《未登録思念接続》
《タルタロス深層》
《受信対象不明》
《神格未分類》
《闇の子》

 研究員の一人が、その文字を読んで腰を抜かした。

「闇の子って……」

 隣の教授が否定しようとして、声が出なかった。

 カミハラ区の空は、普段なら研究塔の魔導照明で青白い。だが、今は黒い脈動が雲の底を走っている。理論上、空に脈があるはずはない。それでも、見た者は全員、そう感じた。

 空が、生き物のように脈を打っている。

 帝都大学中央観測室では、クレハが端末を睨んでいた。

 白衣は汚れ、髪は乱れ、手元には封印解析用の端末が三台、壊れた魔導計測器が五つ、冷めきった珈琲が一杯置かれている。

「……来たか」

 通信越しにシンの声が飛び込む。

『クレハ教授、聞こえてる!? 都市情報網が黒いノイズに食われてる。いや、ノイズじゃない。これ、意味がある。意味がありすぎる!』

「落ち着け、シン」

『落ち着ける情報量じゃないよ! ホウジュ区の歩行者用案内に旧東京路線図が混ざってる。湾岸区の防潮壁にタルタロス海面反射。アツギ中枢区の夢殿回線が全部女帝権限でロック。しかも市民の端末が勝手に同じ音声を受信してる!』

「闇の子の思念だ」

『今までは断片だった! D∴C∴が拾ってたのは壊れたラジオの雑音みたいなものだった! でも今のは違う。これは――』

 シンの声が途切れた。

 代わりに、都市全体が静かになった。

 ホウジュ区の商業音も、カミハラ区の警報も、湾岸区の防潮壁の唸りも、アツギ中枢区の祈りの声も、一瞬だけ遠のいた。

 そして、声が降りた。

 女帝ヌルの神託ではなかった。

 フィーアの認識誘導でもなかった。

 D∴C∴が叫んでいた歪んだ祝詞でもなかった。

 ノイズ混じりではない。

 低く、暗く、しかし確かに誰かの声だった。

『わたしも、ここにいる』

 帝都エデンのすべての灯りが、黒く瞬いた。

 市民たちは、誰もすぐには動けなかった。

 それは命令ではなかった。
 救済でもなかった。
 呪いでも、祈りでも、宣戦布告でもなかった。

 存在証明だった。

 ここにいる。

 見えない場所に押し込められ、ノイズとして扱われ、信徒には都合よく解釈され、女帝の光には封じられ、夢殿の記録には観測対象としてしか残されなかったものが、初めて帝都の空気を震わせ、自分の存在を告げた。

 それだけだった。

 だが、それだけで十分だった。

 ホウジュ区の交差点で、一人の老人が膝をついた。

「なんだ……今のは……」

 彼はトキオ聖戦の避難民二世だった。東京を知らない世代だが、両親から死都の話を聞かされて育った。女帝ヌルを救世主と信じ、夢殿へ何度も祈りを捧げてきた。

 その老人が、泣いていた。

 自分でもなぜ泣いているのかわからない。

 恐怖なのか。
 悲しみなのか。
 誰かに気づいてしまった痛みなのか。

 隣では、女帝信仰の少女が母親の腕にしがみついていた。第2話で時雨堂から小さなヌル聖像を買った少女だった。彼女は胸元にその聖像を抱え、震えながら空を見上げている。

「お母さん」

「大丈夫。女帝様が守ってくださるわ」

 母親はそう言った。

 だが、声が震えていた。

 少女は、聖像を抱きしめる力を強める。

「でも、今の声、女帝様じゃない」

 母親は答えられなかった。

 湾岸区。

 防潮魔導壁が黒く濡れていた。

 海からではない。

 死都東京方面の空から漏れた闇が、防潮壁に波のように打ちつけている。湾岸警備隊の隊員たちは、重装魔導盾を展開しながら後退していた。壁面に映るのは東京湾ではなく、タルタロスの硫酸の海。波の中から、鎖に絡まった何かがこちらを見上げている。

「第三区画、黒潮圧上昇!」

「黒潮じゃない、タルタロス漏出だ!」

「分類なんて後でいい! 壁を支えろ!」

 機動警察の装甲車両が次々と展開する。魔導砲の砲身が湾岸へ向く。だが撃てない。敵がどこにいるのか、誰にもわからない。海なのか、空なのか、死都東京なのか、それとも帝都そのものの下なのか。

 アツギ中枢区では、信徒たちが夢殿前の広場に集まり始めていた。

 退避指示は出ている。

 だが、一部の者たちは祈るために来た。

 白い広場に膝をつき、女帝ヌルの名を呼ぶ。高齢者も、学生も、会社員も、女帝信仰会の祭服を着た者もいた。彼らの祈りは、いつもより必死だった。救いを求める祈りではなく、今まで信じてきた世界が壊れないよう押さえるための祈りだった。

 その祈りの声に、黒い声の残響が混じる。

 わたしも、ここにいる。

 信徒の一人が耳を塞いだ。

「聞こえない。聞こえない。聞こえない……女帝様以外の声なんて、聞こえない……!」

 だが、聞こえていた。

 聞こえてしまった。

 帝都エデンは、女帝ヌルの光だけでできているわけではない。

 その事実が、市民の耳に、心に、影に、窓に、足元の線路に、刻まれてしまった。

 ヴァルハラ宮殿の玉座の間で、フィーアは緊急会見の準備を終えていた。

 ワルキューレ第四位。

 帝都政府の声。

 彼女はいつも完璧だった。

 政府発表を行うとき、フィーアは決して声を震わせない。事件を「軽微な魔導炉のゆらぎ」と言い換え、怪異を「一時的な現象」と整え、死都東京の残響を「制御済みの観測事象」と分類する。彼女の言葉は、市民の不安を管理可能な形へ押し込める。

 それが彼女の役割だった。

 声で都市を縫う。

 恐怖を名前で閉じる。

 女帝ヌルの秩序を、言葉として市民へ届ける。

 だが、今夜だけは、その言葉が足りない。

 フィーアは、鏡面端末に映った自分の顔を見た。

 穏やかな笑み。
 整えられた髪。
 白と金の公的装束。
 完璧な姿勢。

 そこに、わずかな迷いがあった。

 通信担当官が言う。

「フィーア様、全市回線、開きます。市民感情指数、恐慌域へ接近。ホウジュ区、カミハラ区、湾岸区で局所的な避難混乱。アツギ中枢区では信徒集結。夢殿広報局からは、従来文言による鎮静発表案が届いています」

 フィーアは目を通した。

《現在発生している事象は、ヨムルンガルド結界の高位調整に伴う一時的な魔導場変化です。市民の皆様は、夢殿および女帝陛下の秩序を信じ、冷静に行動してください》

 嘘ではない。

 完全な嘘ではない。

 ヨムルンガルド結界は確かに調整中だ。魔導場も変化している。夢殿は帝都を守ろうとしている。女帝ヌルの秩序は、まだ帝都を覆っている。

 だが、市民はもう聞いてしまった。

 女帝ではない声を。

 フィーアは、発表文を閉じた。

「差し替えます」

 通信担当官が硬直する。

「しかし、承認文言が」

「私が承認します」

「夢殿広報局の文言と異なる場合、認識誘導効率が」

「効率だけで恐怖は消えません」

 自分で言ってから、フィーアは少しだけ目を伏せた。

 らしくない言葉だった。

 だが、今夜の帝都は、いつもの言葉では足りない。

 全市回線が開く。

 ホウジュ区の壁面広告。
 カミハラ区の研究塔モニター。
 湾岸区の避難端末。
 アツギ中枢区の夢殿前広場。
 各家庭の魔導通信機。
 機動警察の車内端末。
 女帝信仰の祭壇。
 時雨堂の棚に置かれた古い黒電話の横の小型画面。

 そこに、フィーアの姿が映った。

 彼女は、いつものように微笑んでいた。

 だが、その微笑みは、いつもより少しだけ硬かった。

『帝都の民の皆様へ。こちらは帝都政府、ワルキューレ第四位フィーアです』

 声が都市を包む。

 認識誘導術式が乗る。

 呼吸を整えさせる声。
 足を止めさせる声。
 恐怖を暴走させない声。

 だが、闇の子の声の残響は完全には消えない。

 わたしも、ここにいる。

 その一言が、市民の心の奥に残り続けている。

 フィーアは、それを力で塗りつぶさなかった。

『現在、帝都エデン全域において、封印級災害に伴う高位魔導異常が発生しています。市民の皆様は、最寄りの建物内、地下避難区画、または帝都警察の誘導する安全区域へ退避してください』

 ホウジュ区の交差点で、人々が動き出す。

 母親が少女の手を引く。

 老人が若い警察官に支えられて立ち上がる。

 カミハラ区では研究員たちが封鎖扉を下ろし、学生たちを講堂へ誘導する。

 湾岸区では機動警察の車両が避難経路を開く。

 フィーアは続けた。

『夢殿は帝都を守ります。ヴァルハラの光は消えません』

 それは、いつもの言葉だった。

 だが、その後が違った。

 フィーアは、一拍置いた。

 その一拍を、通信担当官たちは聞いた。

 ワルキューレの声が迷うなど、あってはならない。

 けれど彼女は、迷ったうえで言った。

『けれど、今夜だけは、恐れることも許されます』

 帝都の空気が変わった。

 それは大きな変化ではなかった。

 魔導灯はまだ明滅している。
 空中歩道の下には旧東京の線路が重なっている。
 ビルの窓には硫酸の海が映っている。
 死都東京方面の空は割れ、黒い光が漏れている。

 何も解決していない。

 だが、市民たちの中で、何かがほどけた。

 恐れてもいい。

 帝都の民として、女帝の秩序を信じる者として、強く冷静でいなければならないのではなく、今は恐れていい。

 泣いている子どもを叱らなくていい。
 足が震える自分を恥じなくていい。
 女帝ではない声を聞いてしまったことを、なかったことにしなくていい。

 フィーアは画面の向こうで、まっすぐ市民を見た。

『恐れてください。けれど、立ち止まらないでください。隣にいる人の手を離さず、指示に従い、屋内へ退避してください。帝都警察、機動警察、夢殿防衛局、ワルキューレが対応にあたっています』

 彼女の背後で、ヴァルハラ宮殿の光が一度大きく瞬いた。

 闘神ヌルが、帝都上空で翼状兵装を展開している。

 白と金の光が、黒い空へ突き立つ。

 フィーアは、その光を背負うように立っていた。

『帝都エデンは、まだ落ちていません』

 その言葉は、嘘ではなかった。

 だが、勝利宣言でもなかった。

 まだ。

 その二文字を、市民は聞き逃さなかった。

 まだ落ちていない。

 つまり、落ちる可能性がある。

 それでも、まだ立っている。

 フィーアは最後に、いつもの完璧な笑みではなく、少しだけ人間に近い表情で言った。

『どうか、生きて朝を迎えてください』

 通信が切れた。

 ヴァルハラ宮殿の広報室に沈黙が落ちる。

 通信担当官は、すぐには何も言えなかった。

 フィーアは、自分の手がわずかに震えていることに気づいた。

 彼女はその手を握り込む。

 ワルキューレ第四位。

 帝都政府の声。

 統制装置。

 秩序の代弁者。

 それでも今夜、彼女は知ってしまった。

 声で覆えない恐怖がある。

 そして、その恐怖を認めなければ届かない言葉がある。

 夢殿の最深部では、ヌル本体の指先がもう一度震えた。

 ヴァルハラ宮殿の玉座で、女帝義体が小さく笑う。

「フィーア、勝手をしたね」

 ズィーベンの投影が控えている。

「処分なさいますか」

「今はしない」

 ヌルは、帝都の空を見た。

 黒い光がまだ走っている。

 闇の子の声は、深層へ戻りきっていない。

 裁きの門の向こうでは、シグレたちが封印再構成の中心にいる。

 アリスの記録核は悲鳴を上げている。

 シオンの魂は、まだ邪柩から完全にはほどけていない。

 セーフィエルは泣いているだろう。

 マナは怒っているだろう。

 シグレは、きっとまた無茶をする。

 ヌルは、退屈そうに、しかし少しだけ疲れたように呟いた。

「人の子も、ワルキューレも、ほんと懲りない」

 死都東京方面の空が、さらに割れた。

 亀裂の向こうから、タルタロスの気配が濃くなる。

 硫酸の海の臭い。
 溶岩の熱。
 凍土の冷気。
 死者の声。
 鎖の音。
 そして、闇の子の存在。

 帝都エデンは震えていた。

 だが、まだ立っていた。

 ホウジュ区の雑貨店の窓には、黒い空と白い女帝の光が同時に映っている。カミハラ区の研究塔では、クレハが新しい解析式を走らせている。湾岸区では機動警察が防潮壁を支え、アツギ中枢区では信徒たちが泣きながら祈っている。ヴァルハラ宮殿ではフィーアが次の声明文を組み直し、夢殿ではズィーベンが封印の数値を追っている。

 そして、裁きの門の向こう。

 タルタロス最深部で、闇の子の声を聞いたシグレたちが、まだ戻らない。

 帝都エデンの夜は、終わっていない。

 けれど、女帝ヌルの光だけでは照らせなかったものが、この夜、初めて街に触れた。

 闇は、街を壊すためだけに来たのではなかった。

 それは、長いあいだ封じられ、名前を奪われ、ノイズとして片づけられてきた半身が、ただ一度、帝都のすべてへ告げた声だった。

 わたしも、ここにいる。

 その言葉は、消えない。

 魔導灯が再び白く点いた後も。
 空中歩道の下から線路が消えた後も。
 窓に映った硫酸の海が消えた後も。
 フィーアの声が市民の呼吸を整えた後も。

 帝都エデンは、もう知らないふりをできなかった。

第二場 ホウジュ区のハルナ

 ホウジュ区の夜は、いつもなら眠らない。

 魔導看板は昼より派手に輝き、空中歩道には買い物帰りの人々が流れ、屋台の蒸気と香辛料の匂いが裏通りまで漂ってくる。帝都エデンの中でも、ホウジュ区は雑多で、騒がしくて、少し胡散臭くて、それでも人間の生活がいちばん近い場所だった。

 シグレの雑貨店《時雨堂》も、その雑多さの一部だった。

 呪われているかもしれない中古鏡。
 女帝ヌルの家庭祭壇用聖像。
 旧東京復刻地図。
 魔導炉記念メダル。
 蛇型風鈴。
 怪しいお札。
 誰が買うのかわからない人形。
 そして、店長がすぐ潜り込むこたつ。

 そのどれもが、いつもなら少しだけ間抜けで、少しだけ愛嬌があった。

 だが今夜は違った。

 棚が揺れている。

 地震ではない。

 時雨堂の床板は古いが、基礎にはシグレが適当に貼った魔導補強札と、ハルナが真面目に貼り直した耐震護符が重ねられている。多少の揺れなら、店ごと軋んでも棚の商品までは落ちないはずだった。

 それなのに、棚が揺れている。

 女帝ヌルの小さな聖像が、白く光っていた。

 最初は淡い光だった。信仰会公認品なので、祈祷日や祝日に反応して発光する機能がついている。ハルナはその仕組みを「ありがたさ演出機能」と呼んでいた。

 しかし今、その聖像の光はおかしかった。

 白いはずの光の内側に、黒い筋が混じっている。

 まるで、女帝の聖像の中で、別の影が目を開けようとしているようだった。

「……やめてください」

 ハルナはカウンターの内側で、両手に護符を持っていた。

 眼鏡の奥の目は、恐怖で潤んでいる。ツインテールは少し乱れ、メイド服のエプロンには、お茶の染みと、避難用に出した毛布の埃がついていた。

「テンチョがいない時に、そういう本格的な怪奇現象はやめてください。営業妨害です。あと、わたしはそういう担当ではありません」

 言いながら、護符を聖像の台座に貼る。

 護符には、ハルナの字でこう書かれていた。

《とりあえず光りすぎない》

 聖像の光が、ほんの少しだけ弱まった。

「効きました!?」

 ハルナは自分で驚いた。

 次の瞬間、店の奥で、ばさりと音がした。

 旧東京復刻地図が勝手に広がっていた。

 普段は丸めて紐で縛ってある商品だ。観光客や古地図マニアにたまに売れる。死都東京へ行けるわけではないが、旧世界の地名に妙な憧れを持つ人は少なくない。

 その地図が、床いっぱいに広がっている。

 しかも、紙の上で線が動いていた。

 山手線。
 中央線。
 京浜東北線。
 総武線。
 地下鉄。
 存在しないはずの路線が、黒い血管のように脈打ちながら、ホウジュ区の現在地図へ重なろうとしている。

「駄目です! ここはホウジュ区です! 東京駅ではありません!」

 ハルナは地図の上に膝をつき、両手で押さえた。

 地図の端から、黒い文字が浮かぶ。

《次は――》
《終点――》
《裁き――》

「読ませません!」

 ハルナは、近くにあった値札シールを引っ掴み、文字の上に貼った。

《特価・三割引》

 黒い文字が、値札に押されるように薄くなる。

「よし!」

 自分でも何がよしなのかわからない。

 だが、今は理屈より手を動かすしかない。

 蛇型風鈴が鳴った。

 ちりん。

 ちりん。

 ちりん。

 風はない。

 店の扉は閉まっている。窓も閉めた。空調も切っている。それなのに、風鈴だけが鳴っている。硝子の蛇が自分の尾を噛み、薄く青白い光を帯びていた。

 ヨムルンガルド結界の形。

 ハルナはそれを見て、喉を鳴らした。

 深い設定は知らない。

 死都東京。裁きの門。タルタロス。闇の子。シオン。ノイン。

 最近、店の奥でシグレやマナやアリスやクレハが話していた言葉は、いくつか聞こえていた。聞こえてしまっていた。けれど、それを全部理解できるほど、ハルナは魔導士でも研究者でもない。

 それでも、ひとつだけわかる。

 今、帝都エデンはおかしい。

 そして、シグレはそのおかしい場所の中心へ行っている。

「テンチョ……」

 名前ではなく、いつもの呼び方が漏れた。

 シグレ。

 帝都の天使。
 ノインの残響を持つ者。
 裁きの門の鍵。
 シオンの魂に触れた人。

 そういう難しい肩書きが、最近どんどん彼に貼りついていく。

 でも、ハルナにとっては違う。

 こたつから出ない店長。
 開店時間を守らない店長。
 お茶を淹れると嬉しそうにする店長。
 怪我を隠して帰ってきて、すぐバレる店長。
 面倒だなぁと言いながら、誰かを助けに行ってしまう店長。

 テンチョ。

 それが、ハルナの知っているシグレだった。

 店の壁にかけた中古鏡が、突然黒く染まった。

「ひっ」

 ハルナは肩を跳ねさせる。

 その鏡は、最初から少し怪しかった。

 商品札には《呪われているかもしれません。返品不可》と書かれている。シグレは「呪われているかどうか曖昧なところが売りだよぉ」と言っていたが、ハルナは最初から売りたくなかった。

 その鏡の中に、空が映っていた。

 店内ではない。

 ホウジュ区の夜空でもない。

 死都東京の空だった。

 朝焼けのない空。

 ずっと夜明けを拒んでいるような、濁った黒と灰色の空。折れた高層ビルの輪郭。崩れた鉄道橋。地面から立ち上る黒い霧。遠くで、何か巨大な門の影が揺れている。

 その空の下には、人影がなかった。

 いや、影だけがあった。

 人をなくした影が、街を歩いている。

 鏡の中の死都東京が、こちらを見ていた。

 ハルナは震えながら、鏡の前に立った。

「見ません」

 自分に言い聞かせる。

「わたしは見ません。テンチョにも見るなって言われた気がします。言われてないかもしれませんけど、こういうのはだいたい見ない方がいいって、最近学習しました」

 ハルナは布を取った。

 カウンターの下に置いていた予備のテーブルクロスだ。時雨堂のロゴが刺繍された、少し古い布。

 それを鏡にかぶせる。

 布越しに、黒い光が滲んだ。

「透けないでください!」

 さらにその上から、護符を貼る。

《見たら駄目》

 少し考えて、もう一枚貼る。

《本当に駄目》

 黒い光が、少し弱まった。

 その時、外で悲鳴が上がった。

 ハルナは振り向いた。

 時雨堂のガラス扉の向こう。

 ホウジュ区の裏通りが混乱している。

 人々が走っていた。会社員、買い物客、子ども連れ、学生、屋台の店主、女帝信仰の祭服を着た老人。空中歩道から降りてきた人々が、行き場を失って路地へ流れ込んでいる。

 魔導灯が明滅している。

 その明滅のたびに、通りの姿が変わる。

 一瞬、ホウジュ区。
 次の瞬間、旧東京の地下通路。
 またホウジュ区。
 次に、タルタロスの硫酸の海を映す黒い路面。

 人々の影が遅れて動く。
 誰かの足元から、切符のような黒い紙が湧く。
 遠くで、電車の接近音がした。
 この通りに線路などないのに。

 ハルナは、扉の前で立ち尽くした。

 怖い。

 とても怖い。

 彼女は戦えない。
 魔導士ではない。
 トラブルシューターでもない。
 ワルキューレでもない。
 機動警察でもない。
 アリスのような未知の回路もない。

 持っているのは、護符と、モップと、シグレに叱られながら整えた店の棚と、淹れ方だけは上達したお茶と、テンチョは帰ってくるという根拠のない確信だけだった。

 外で、子どもが転んだ。

 母親が抱き上げようとする。

 その母親の影が、足元から半分だけ剥がれ、別の方向へ歩き出そうとしていた。

「……っ」

 ハルナは、扉の鍵を開けた。

 からん。

 呼び鈴が鳴る。

 いつもと同じ音だった。

 それだけで、少しだけ勇気が出た。

「ここ、入ってください!」

 ハルナは店の外へ身を乗り出して叫んだ。

「避難できます! たぶん! いえ、できます! ここ、結構変な店なので、変な現象には多少強いです!」

 通りの人々が、驚いた顔でこちらを見る。

 ハルナは両手を振った。

「早く! こっちです! 足元の切符は拾わないでください! あと、聞こえてくる電車には乗らないでください! テンチョがそういうのはだいたい駄目って言ってました!」

 会社員が戸惑いながら走り込んでくる。

 続いて、子どもを抱えた母親。屋台の店主。学生二人。老人。信徒の女性。警備員。知らない犬のような魔導ペット。

 店内が一気に狭くなる。

 棚が揺れる。

 聖像が光る。

 地図がまた広がろうとする。

 鏡の布がふくらむ。

 ハルナは叫んだ。

「そこ、棚に触らないでください! それはたぶん呪物です! その箱は開けないでください! 中身がわたしもわかりません!」

 子どもが泣きながら、女帝ヌルの聖像へ手を伸ばす。

 母親が慌てて止める。

「触っちゃだめ!」

「いいです!」

 ハルナはすぐに言った。

「その聖像は触ってもいいです! たぶん守ってくれます! ただし、落としたらテンチョが泣きます!」

 子どもが涙で濡れた顔を上げる。

「テンチョ?」

「この店の店長です! すぐ死にかける人です!」

 母親が目を丸くする。

「それは、頼っていい方なんですか?」

「帰ってくる人です!」

 ハルナは即答した。

 自分でも不思議なほど、迷わなかった。

「だから、頼っていいです!」

 店内にいた人々は、何をどう受け止めればいいのかわからない顔をした。

 けれど、外よりはましだった。

 外には、線路が見える。
 黒い光が走る。
 空には女帝ヌルではない声の残響がある。

 この店の中には、混乱はある。呪われているかもしれない鏡もある。よくわからない聖像もある。店員は妙なことを言っている。

 だが、誰かが「入ってください」と言った。

 それだけで、人は中へ入れる。

 ハルナは、カウンターの上にあった茶器をどけ、救急箱を出した。

「怪我した人、こっちです! 足元の影が遅れてる人は、壁際に座ってください! 影に名前を呼ばれても返事しないでください! えっと、たぶん! 絶対!」

 学生の一人が震えながら言う。

「これ、何なんですか……? 女帝様の結界、破れたんですか?」

「わかりません!」

 ハルナは正直に言った。

 学生が絶望的な顔をする。

 ハルナは慌てて続けた。

「でも、わからないからって、今ここで終わりってことにはなりません! とりあえず座って、息をしてください! あと、棚の上の瓶は吸わないでください! 眠くなるやつです!」

「何でそんなものが店に……」

「テンチョの趣味です!」

「店長さん、大丈夫なんですか!?」

「大丈夫じゃないですけど、大丈夫にして帰ってきます!」

 自分で言って、ハルナは胸が痛くなった。

 大丈夫じゃない。

 たぶん、本当に大丈夫じゃない。

 シグレは今、裁きの門の向こうにいる。マナもアリスも一緒にいる。セーフィエルもいる。タルタロス。シオン。闇の子。女帝ヌル。全部、自分の手の届かない場所だ。

 ハルナにできることは、何もないのかもしれない。

 いや。

 ある。

 ここを開けること。

 ここに人を入れること。

 シグレが帰ってきた時に、店があるようにすること。

 それだけは、できる。

 呼び鈴がまた鳴った。

 からん。

 今度入ってきたのは、見覚えのある少女だった。

 女帝ヌルの小さな聖像を抱えている。

 第2話で時雨堂に来た、女帝信仰の少女。

 あの時より顔色が悪い。髪も乱れている。隣には母親と、足を引きずる祖母らしき女性がいた。祖母は肩で息をしている。少女は両手で聖像を抱き、店内へ入った瞬間、ハルナを見つけた。

「あの……ここ、入ってもいいですか」

「もちろんです!」

 ハルナは駆け寄った。

「おばあさん、こちらへ! 椅子あります! いえ、椅子の上の商品どけます! すみません、そこに置いてある頭蓋骨っぽい置物をどかしてください! 本物かどうかは聞かないでください!」

 近くにいた会社員が、顔を引きつらせながら置物をどける。

 祖母を椅子へ座らせると、少女はようやく少し息を吐いた。

 だが、聖像を抱く手は震えている。

「女帝様の声じゃ、ありませんでした」

 少女が呟いた。

 店内にいた人々が、少しだけ静かになる。

「あの声……夢で聞いた声とも違いました。もっと、はっきりしていて……でも、怖くて」

 ハルナは、少女の前にしゃがんだ。

 目線を合わせる。

「怖かったですね」

 少女は小さく頷く。

「女帝様は、助けてくれますか?」

 その問いは、店内の誰もが聞いていた。

 母親も。
 祖母も。
 会社員も。
 学生も。
 屋台の店主も。
 泣いていた子どもも。

 女帝ヌルは、帝都を守ってくれるのか。

 いつもなら、答えは簡単だった。

 はい。
 女帝様は帝都を守ります。
 夢殿は揺らぎません。
 ヴァルハラの光は消えません。
 ヨムルンガルド結界は死都東京を封じています。

 フィーアなら、そう言うだろう。

 信仰会の司祭なら、もっと美しい言葉で言うだろう。

 だが、ハルナは言えなかった。

 彼女は女帝の真相を知らない。

 ヌルが本体ではなく義体で統治していることも、夢殿の眠りの座のことも、闇の子と半身であることも、シオンを犠牲にしたことも、断片しか知らない。

 女帝が助けてくれるかどうか。

 そんな大きな問いに、答えられるはずがなかった。

 ハルナは、喉を詰まらせた。

 誤魔化すことはできる。

 「大丈夫です」と言えばいい。

 「女帝様を信じましょう」と言えばいい。

 けれど、その言葉は、今の少女には軽すぎる気がした。

 少女はもう、女帝ではない声を聞いてしまった。

 帝都が光だけでできていないことを、耳で知ってしまった。

 だから、ハルナは正直に言った。

「女帝様のことは、わかりません」

 母親が息を呑む。

 少女の目が揺れる。

 ハルナは続けた。

「わたしは、夢殿の人じゃありません。ワルキューレでもありません。魔導士でもありません。テンチョみたいに、変な刀で怪異を斬ったりもできません。正直、女帝様が今どうしているのかも、闇の子っていうのが何なのかも、ちゃんとはわかりません」

 店内が静かだった。

 外では、まだ黒い光が走っている。

 だが、時雨堂の中だけは、ハルナの声を待っていた。

「でも」

 ハルナは、少女の聖像にそっと手を添えた。

「テンチョは帰ってきます」

 その言葉だけは、迷わなかった。

「テンチョは、いつも面倒だって言います。眠いって言います。ついてないって言います。怪我しても隠します。お店の開店時間も守りません。こたつから出ません。困った人を見つけると、文句を言いながら出ていきます」

 少しだけ、店内の空気が緩んだ。

 ハルナの声は震えていた。

 でも、止まらなかった。

「でも、帰ってきます。怒られるために帰ってきます。お茶を飲むために帰ってきます。ただいまって言うために帰ってきます。だから」

 ハルナは立ち上がった。

 店の中にいる全員を見る。

「ここも朝まで持たせます」

 外で、また黒い光が走った。

 時雨堂の窓が震える。

 棚の上の聖像が強く光る。

 旧東京地図が床で蠢き、鏡の布の向こうから死都の空が滲み、蛇型風鈴が激しく鳴る。

 ちりん。

 ちりん。

 ちりん。

 ハルナはモップを握り直した。

 護符袋を腰に結ぶ。

 エプロンのポケットには、値札シールと、ハルナ手書きの即席護符。
 カウンターには救急箱。
 こたつには、避難してきた子どもたちを座らせた。
 女帝信仰の少女は、聖像を抱えたまま、少しだけ呼吸を整えている。

 ハルナは扉の前に立った。

 戦えない。

 けれど、閉めない。

 外にはまだ、逃げている人がいる。

 時雨堂は雑貨店だ。

 怪しい商品ばかりの、売上が心配な、店長がすぐ寝る、小さな店だ。

 でも、シグレの帰る場所だ。

 だから今夜だけは、帝都エデンの片隅にある小さな避難所でもある。

「次の人、入ってください!」

 ハルナは、黒い光の走るホウジュ区の通りへ向かって叫んだ。

「ここ、まだ開いてます! 呪われてるかもしれないものは多いですけど、たぶん外より安全です! たぶんじゃなくて、安全にします!」

 外から、また人が走ってくる。

 ハルナは扉を押さえ、呼び鈴の音を聞いた。

 からん。

 からん。

 からん。

 その音が鳴るたび、誰かが店へ入ってくる。

 その音が鳴るたび、時雨堂はまだ時雨堂でいられる。

 ハルナは、心の中で小さく呟いた。

 テンチョ。

 早く帰ってきてください。

 でも、帰ってくるまで。

 ここは、わたしが守ります。

 女帝ヌルの光と、闇の子の声がぶつかる夜。

 帝都エデンの片隅で、戦えない少女は扉を開け続けていた。

第三場 闘神ヌル、闇を焼こうとする

 帝都エデンの空は、白く焼けていた。

 夜なのに、夜ではなかった。

 ホウジュ区の商業灯も、カミハラ区の研究塔群も、湾岸区の防潮魔導壁も、アツギ中枢区の夢殿の光も、すべてがひとつの白へ飲み込まれている。

 その中心に、女帝ヌルがいた。

 市民が聖像で見る小さな女帝ではない。
 夢殿の玉座で退屈そうに笑う少女でもない。
 式典で手を振り、信徒たちへ光を落とす統治用の義体でもない。

 闘神ヌル。

 戦うために作られた女帝の姿。

 白と金の戦闘外殻が、少女の身体を覆っている。背後には巨大な光輪が浮かび、何層にも重なった輪が互いに逆向きへ回転していた。回転するたびに、空間が固定され、死都東京から漏れ出す黒い歪みが押し返される。

 翼状兵装が、帝都の空を覆っていた。

 翼と呼ぶにはあまりにも硬質で、兵器と呼ぶにはあまりにも神聖で、聖具と呼ぶにはあまりにも破壊的だった。一本一本の翼の内側を、魔導炉直結の光が走る。夢殿から送られる封印制御光、ヴァルハラ宮殿の戦闘管制、ワルキューレの補助権限、そして帝都全域の魔導インフラから吸い上げられた出力。

 帝都エデンという都市そのものが、闘神ヌルの背に接続されていた。

 ホウジュ区の空中歩道では、市民たちが建物の中へ逃げ込みながらも、思わず空を見上げていた。

 白い女帝が、黒い夜を撃っている。

 その光景は、信仰画のようだった。

 だが、信仰画よりもずっと怖かった。

 闇の子の思念が触れた空の裂け目から、黒い腕が伸びる。

 腕と言っても、人間のものではない。溶けた鉄と骨と影を混ぜ合わせたようなものだ。手のひらには古い改札口が開き、指先には死都東京の駅名が刻まれている。腕がホウジュ区へ向かって垂れ下がると、空中歩道の下に一瞬だけ旧東京の線路が重なった。

 悲鳴が上がる。

 次の瞬間、闘神ヌルの翼状兵装が一枚、角度を変えた。

 光が走った。

 黒い腕は、触れる前に消えた。

 爆発ではない。

 燃焼でもない。

 白い光に意味を削り取られ、存在そのものを否定されたように崩れた。腕に刻まれていた駅名が一文字ずつほどけ、黒い雨となって降る。しかし雨は地上へ届く前に、ヨムルンガルド結界の細い蛇光に呑まれた。

 市民たちが息を呑む。

「女帝様……」

 誰かが祈った。

 その祈りはすぐに周囲へ広がる。

 怖いから祈る。
 助かったから祈る。
 見上げた先に、祈る以外の言葉がないから祈る。

 闘神ヌルは、それらを聞いていないように見えた。

 いや、聞こえてはいるのだろう。

 帝都全域に張り巡らされた信仰場、聖像、祭壇、夢殿通信網を通じて、市民の祈りはすべて女帝へ届いている。だが、今のヌルにとって、それは慰めでも栄光でもなかった。

 ただの入力値だった。

 祈りは、認識圧となる。
 認識圧は、女帝義体の神格を補強する。
 神格は、闘神義体の出力安定へ回される。
 出力は、黒い漏出体を焼く。

 帝都の信仰は、今、都市防衛の燃料になっていた。

 カミハラ区の上空に、骨の翼を持つ獣が現れる。

 獣は、タルタロスの硫酸の海から這い上がってきたもののようだった。身体の半分は溶岩で、もう半分は凍土。背中の翼には、死者の顔が張りついている。口を開くと、D∴C∴が聞いたような壊れた神託が漏れた。

『ヌル……』
『返せ……』
『シオン……』
『ひとつに……』

 闘神ヌルは、表情を変えなかった。

 右手を上げる。

 巨大な光輪の一枚が停止する。

 停止した光輪の中心に、魔導炉直結の出力が収束する。

 白い槍が生まれた。

 それは、帝都大学の研究塔よりも長く、湾岸区の防潮壁よりも太く、夜空を貫く聖槍のように輝いた。

「タルタロス漏出体、第十一群」

 闘神ヌルの声が、戦闘管制回線へ冷たく落ちる。

「焼却」

 白い槍が放たれた。

 骨の翼を持つ獣は、叫ぶ暇もなかった。翼が消え、胴体が消え、死者の顔が浮かんだ凍土の皮膚も、溶岩の心臓も、すべてが白い光へ呑まれる。

 カミハラ区の研究塔群が、遅れて衝撃波に揺れた。

 非常シャッターが軋み、研究員たちが床へ伏せる。帝都大学中央観測室では、クレハが端末にしがみつきながら笑った。

「凄まじいな。美しいほど最悪だ」

 通信の向こうでシンが叫ぶ。

『教授、感想がおかしい! 今ので都市情報網の三系統が一瞬白飛びした!』

「闘神義体だ。都市が女帝の兵装になる。想定通りではある」

『想定したくなかったよ!』

「同感だ」

 クレハは戦闘記録を保存しようとして、端末が熱で落ちかけたため、舌打ちした。

 湾岸区では、防潮魔導壁を越えようとしていた黒い波が焼かれていた。

 波と言っても、水ではない。

 タルタロスの硫酸の海の影。そこに死都東京の地下通路、錆びた線路、切符、剥がれた影、名前をなくした死者たちの残響が混ざり、黒い潮となって帝都へ押し寄せている。

 機動警察の装甲車両が並ぶ。魔導盾を展開した隊員たちが歯を食いしばる。

「壁、持ちません!」

「後退するな! 市民避難完了までここで支える!」

 その頭上を、白い光が通った。

 闘神ヌルの翼状兵装から放たれた横薙ぎの光撃が、黒い波の上層を削り飛ばす。硫酸の海の臭いが、焼けた鉄の匂いへ変わる。波の中から伸びていた無数の手が、一斉に消えた。

 隊員たちは、声もなく空を見上げた。

 破壊神が、帝都を守っている。

 救いと恐怖が、同じ形で空にあった。

 だが、闘神ヌルが光を放つたび、夢殿の最深部では別のものが軋んでいた。

 眠りの座。

 白い花のような神格生命維持装置の中心で、ヌル本体は眠っている。だが、その眠りは穏やかではなかった。閉じた瞼がかすかに震え、白い指先が硬く曲がる。身体から伸びる魔導管の一部が黒く焦げ、制御符が焼け落ちる。

 ヌル本体の胸元に、黒い筋が浮かんだ。

 傷ではない。

 だが、傷に見えた。

 闇の子の現世接続を焼くたび、その反動はヌル本体へ戻ってくる。光と闇は分かれているが、根は同じ。闇を焼けば、光の奥にも痛みが走る。

 ズィーベンは観測盤の前に立ち、次々と流れる数値を見ていた。

「眠りの座、第五制御花弁に亀裂。魔導管二十七番から三十四番、逆流。闘神義体出力、七十四パーセント。魔導炉側補助出力、限界域へ接近」

 夢殿の技術官たちが走る。

「本体保護結界を増設!」

「第七層まで展開済みです!」

「闇の子思念波、再接近!」

「タルタロス側から黒潮圧、上昇!」

 ズィーベンは、戦闘管制回線へ接続した。

「陛下」

 帝都上空の闘神ヌルは、次の漏出体群へ照準を向けたまま答えた。

『何?』

「本体負荷が限界です。これ以上、闇の子の接続を直接焼けば、眠りの座にも反動が」

 ヌルの光輪が回る。

 その向こう、死都東京方面の空の裂け目から、黒い光がまた伸びていた。

 今度の黒い光は、怪物の形をしていない。

 腕でも、獣でも、波でもない。

 ただの声だった。

 闇の子の声が、光の筋として帝都へ伸びている。

『ヌル……』
『聞こえる……』
『わたしも……』
『ここに……』
『返して……』

 市民にはもう聞かせられない。

 もう一度あの声が帝都全域に響けば、認識誘導では抑えきれない。女帝信仰は揺らぎ、ヨムルンガルド結界はさらに不安定化し、D∴C∴の残党が再び動く可能性もある。

 闇の子の存在証明は、帝都にとって危険すぎる。

 だから、ヌルは撃とうとした。

 黒い声そのものを焼くために。

「知ってる」

 闘神ヌルは答えた。

「でも、ここで止めなければ帝都が落ちる」

「陛下が落ちれば、帝都も落ちます」

「アタシはまだ落ちない」

「本体負荷は予測値を超えています」

「なら、予測を直して」

「陛下」

「ズィーベン」

 ヌルの声が低くなった。

「今、アタシが止まれば、あれは帝都に触れる。ホウジュ区の避難民も、カミハラ区の研究員も、湾岸区の警察も、アツギの信徒も、全部聞く。声だけじゃない。タルタロスの海も、死者の影も、邪柩の奥の痛みも流れ込む」

 彼女の翼状兵装が広がる。

「アタシは女帝だ。帝都を守る。守るためなら、闇でも半身でも焼く」

「闇の子そのものを焼くおつもりですか」

「焼けるならね」

 ヌルは、空の裂け目を見た。

 その奥にいるものを見ていた。

 かつて一つだったもの。

 光と闇に分かれた半身。

 殺せないから封じた。
 切り捨てられないから眠らせた。
 眠らせるために、シオンを楔にした。

 ヌルは小さく笑った。

 それは、市民が聖画で見る優しい笑みではなかった。

「でも、焼けないなら、焼けるところまで削るだけだよ」

 夢殿の観測盤が一斉に赤く染まった。

『警告』
『闇の子接続核への直接攻撃準備』
『ヌル本体反動、危険域』
『眠りの座、同期崩壊リスク』
『ヨムルンガルド結界外層、連鎖破断リスク』
『シオン=ノイン封印再構成中』
『アリス記録核、過負荷』
『シグレ残響座標、タルタロス深層』

 ズィーベンの表情が、初めてわずかに崩れた。

「陛下、お待ちください。今、接続核を焼けば、タルタロス側の再構成にも反動が及びます。シグレたちも――」

「それでも帝都を落とすよりましだ」

 ヌルは言い切った。

 その判断は冷酷だった。

 そして、支配者としては正しかった。

 帝都エデンを守るために、タルタロスへ落ちた数人を切り捨てる。
 闇の子の現世接続を焼く。
 封印再構成が失敗しても、最悪の崩壊だけは防ぐ。

 それは合理だった。

 かつて、シオンを楔にした時と同じように。

 闘神ヌルの光輪が、完全な攻撃態勢へ入る。

 帝都全域の魔導灯が一瞬だけ暗くなった。

 都市の光が、空へ吸い上げられていく。

 女帝信仰の聖像が一斉に発光し、魔導炉が低く唸り、夢殿の白い塔が夜空へ刺さるように輝く。ヴァルハラ宮殿の尖塔からは、戦闘管制用の金色の線が闘神義体へ伸びる。

 ヌルの掌に、白い太陽のような光が生まれた。

 それが放たれれば、闇の子の接続核は焼かれる。

 帝都は、ひとまず守られる。

 ヌル本体には反動が来る。
 シグレたちも巻き込まれるかもしれない。
 シオンの封印再構成も壊れるかもしれない。

 それでも、都市は残る。

 ヌルは撃とうとした。

 その瞬間。

 白い光の中心に、青白い刃が触れた。

 とても細い光だった。

 闘神ヌルの光撃に比べれば、糸のようなものだ。

 だが、その糸のような青白い光は、ヌルの照準をわずかにずらした。

 ムラサメ。

 裁きの門の向こう、タルタロス最深部から伸びた、シグレの剣の響きだった。

 ヌルの瞳が細くなる。

「シグレ」

 空と地獄が、一瞬だけつながる。

 帝都上空にいる闘神ヌル。
 タルタロス最深部、邪柩の前にいるシグレ。

 二人の間には、死都東京がある。裁きの門がある。ヨムルンガルド結界がある。シオンの残響がある。アリスの記録核が悲鳴を上げ、セーフィエルが泣き、マナがアリスを支えている。

 それでも、声は届いた。

「叩き潰したら駄目だ」

 シグレの声は、ひどく疲れていた。

 だが、眠たげな響きだけは残っていた。

 こんな時でも、彼はシグレだった。

 ヌルの表情に、苛立ちが浮かぶ。

「人の子、今それを言う?」

 黒い亀裂から、また闇が伸びる。

 ヌルは片手を向け、反射的にそれを撃ち落とした。白い光が黒い影を焼く。帝都の外縁結界が揺れ、遠くで市民の悲鳴が上がる。

「あれを放っておけば帝都が壊れる」

「わかってる」

「わかってない。闇の子は怪物の群れじゃない。タルタロスの海でもない。あれはアタシの半身だ。現世に触れれば、世界の根に触れる。帝都だけで済む保証はない」

「わかってる」

「なら、邪魔をしないで」

「邪魔するよ」

 シグレの声は低かった。

「君が闇の子を壊せば、君も壊れる」

「アタシの心配?」

「少し」

「優しいね」

「たぶん」

「今それを言えるところ、本当に腹が立つ」

 ヌルの光輪が低く鳴る。

 彼女の怒りに反応して、翼状兵装の出力が上がった。

 だが、シグレは引かなかった。

「光が闇を押し潰すだけなら、また誰かが楔にされる」

 ヌルの表情が、わずかに止まる。

 シグレは続ける。

「シオンの次は、ボクか、アリスちゃんか、別の誰かだ」

 その言葉は、闘神ヌルの装甲を貫いたわけではない。

 光輪を止めたわけでもない。

 戦闘出力を落としたわけでもない。

 ただ、ヌルの中にある古い傷を、正確に指で押した。

 シオン。

 ワルキューレ第九位ノイン。

 帝都を守るために、人柱にされた少女。

 合理の果てに、永遠の苦痛へ落とされた者。

 ヌルは、彼女の名を忘れていない。

 記録から消した。
 聖画から消した。
 市民の記憶から消した。
 ワルキューレの正式序列から欠番にした。

 だが、ヌル自身は忘れていない。

 忘れられるはずがなかった。

「……必要だった」

 ヌルは言った。

 誰に言い訳をしているのか、自分でもわからない声だった。

「世界を壊さないために」

「うん」

「帝都を残すために」

「うん」

「死都東京から、闇を溢れさせないために」

「うん」

「それでも駄目だと言うの?」

「駄目っていうか」

 シグレは、少しだけ息を吐いた。

「もう、同じやり方は嫌だ」

 その声は、神に逆らう英雄の声ではなかった。

 ただ、疲れた人間が、それでも譲れないものを言う声だった。

「シオンは、もう一人で眠らなくていい。アリスちゃんも、誰かの代わりに楔にならなくていい。ボクも、ノインの残響だからって門の部品になりたくない」

 遠く、タルタロスの奥でアリスの声がかすかに混じった。

「私は、アリスです」

 それは通信ではない。

 記録核を通じて漏れた、彼女の自己定義だった。

 ヌルは、その声も聞いた。

 次に、マナの声。

「アリスを壊す道なんて、私は認めない!」

 セーフィエルの泣き声。

「シオン……!」

 そして、シオンのかすかな声。

「母さん」

 すべてが、闘神ヌルの光の中へ届く。

 ヌルは、空の亀裂を見た。

 黒い光が伸びている。

 闇の子が、こちらへ手を伸ばしている。

 それは危険だ。

 間違いなく危険だ。

 帝都を壊し、世界を揺らし、ヌル自身をも引き裂く可能性がある。

 だから、焼くのが正しい。

 正しい。

 正しいはずだ。

 だが、その正しさの先に、また誰かの名前が消える。

 ヌルは、自分の白い手を見た。

 闘神義体の手。

 厚木基地を制圧した手。
 死都東京を封じた手。
 シオンを楔にした手。
 帝都を守り続けてきた手。

 その手が、また同じ形を作ろうとしている。

 ヌルは初めて黙った。

 帝都上空に、沈黙が落ちる。

 光輪は回っている。
 翼状兵装は展開されている。
 魔導炉直結の光撃は、まだ撃てる。
 黒い接続核は、まだ焼ける。

 だが、撃たなかった。

 夢殿最深部で、ズィーベンが観測盤を見る。

「闘神義体、主砲出力低下。照準、闇の子接続核より逸脱。本体負荷、上昇停止」

 技術官の一人が、信じられないように呟く。

「陛下が……止めた?」

 ズィーベンは答えなかった。

 彼女は眠りの座のヌル本体を見た。

 閉じた瞳は、まだ開かない。

 だが、その指先の震えは止まっていた。

 帝都上空で、闘神ヌルは低く言った。

「シグレ」

「なに?」

「失敗したら焼くよ」

「うん」

「キミごと焼くかもしれない」

「できれば、そこは遠慮してほしいなぁ」

「努力はしない」

「ひどい女帝様だねぇ」

「今さら?」

 ほんのわずかに、ヌルの口元が歪む。

 笑みではない。

 怒りでもない。

 神が、自分以外の答えを一度だけ待つと決めた顔だった。

「時間をあげる」

 闘神ヌルは、空の亀裂へ向き直った。

 翼状兵装の照準は、闇の子の接続核から外れている。

 だが、帝都へ伸びる黒い漏出体には、迷わず光を撃ち込んだ。白い光が黒い影を焼き、ホウジュ区へ落ちかけた怪物の爪を消し飛ばす。

「帝都へ触れるものは焼く。闇の子そのものは、今だけ焼かない」

「ありがとう」

「礼を言うのは、成功してからにして」

「成功したら、お茶でも出すよ」

「神に粗茶?」

「ハルナちゃんのお茶はおいしいよ」

「……本当に、どこまでも人の子だね」

 闘神ヌルは、黒い空を睨んだ。

 闇の子の声が、遠くで震える。

『ヌル……』
『なぜ……』
『聞く……?』

 ヌルは低く答えた。

「黙っていて。今は、人の子の馬鹿げた答えを見ているところだよ」

 黒い光が揺れた。

 白い光が、それを帝都から遠ざける。

 焼き尽くすのではなく。
 押し潰すのではなく。
 時間を稼ぐために。

 帝都エデンの空では、破壊神が初めて破壊を保留した。

 それは赦しではない。

 改心でもない。

 勝利でもない。

 ただ、女帝ヌルの合理性に、ほんの小さな沈黙が生まれた瞬間だった。

 その沈黙の向こうで、タルタロス最深部のシグレたちは、まだ答えを探していた。

第四場 タルタロス最深部、封印再構成

 タルタロス最深部には、朝がない。

 空がないからだ。

 夜もない。

 時間も、ここでは人間の知る形をしていない。

 あるのは、硫酸の海が泡立つ音と、溶岩の山が凍土を焼きながら崩れる音と、死者の声と、鎖の軋みと、邪柩の鼓動だけだった。

 黒い柩が、世界の底で鳴っている。

 邪柩。

 タルタロス最深部に置かれた、闇の子の封印装置。
 そして、シオン=ノインを人柱として縫い止める柩。

 その前に、シグレたちは立っていた。

 シグレはムラサメを握っている。刃は青白く、だが今までのように鋭く伸びてはいない。斬るための光というより、何かをほどくための細い糸のようだった。

 マナはアリスの隣にいる。短杖を構え、片手でアリスの肩を支え、もう片方の手で防御術式を維持している。金色の術式陣は何重にも展開されているが、タルタロスの圧に押され、端から黒く焦げていく。

 アリスは胸元に両手を当てていた。

 そこに浮かぶ蛇の円環は、もう単なる紋様ではなかった。薄い青と白の光で回転し、内側に無数の文字列を抱えている。シオンの名。ノインの欠番。タルタロス封印履歴。ヨムルンガルド結界の蛇紋。夢殿の深層記録。女帝ヌルの承認印。セーフィエルの異議記録。消されたはずの言葉が、アリスの胸の奥で次々と復元されていく。

 セーフィエルは邪柩へ向かって膝をついていた。

 血で濡れた手を伸ばしている。

 その先に、シオンがいる。

 鎖につながれ、長い眠りから目を開けた少女。

 彼女の身体はまだ邪柩に縫い止められている。胸の中心から黒い鎖が伸び、背中から白い光の糸が伸び、足元からタルタロスの闇が絡みついている。だが、もう完全な人柱ではない。目が開いている。声がある。母を見ている。

「シオン……」

 セーフィエルの声は、かすれていた。

 泣きすぎた人の声だった。

 シオンは微かに笑った。

 だが、その笑みは長く続かない。邪柩が脈打つたび、彼女の身体が震える。鎖が食い込み、白い装束に黒い亀裂が走る。

 闇の子が、奥で暴れていた。

『ヌルを返せ』

 今度の声は、ノイズではなかった。

 完全に明瞭でもない。途切れは残る。音の端はまだざらつき、言葉の途中に黒い波のような揺らぎが混じる。それでも、以前のような接続不良の神託ではなかった。

 意味がある。

 意志がある。

 痛みがある。

『シオンを返せ』
『わたしを、わたしに戻せ』
『ひとつに』
『ひとつに』
『ひとつに』

 邪柩の表面に、黒い手形が浮かぶ。

 内側から、誰かが叩いている。

 いや、誰かではない。

 闇の子だ。

 ヌルの半身。
 タルタロスの底へ封じられた神格。
 光の子から分かたれ、都市の外へ押し込められた闇。
 痛みと喪失と回帰を抱えた、世界にとって危険すぎる存在。

 その手は、同時にいくつものものへ伸びていた。

 ヌルへ。

 自分と同じ根から分かれた光へ。

 シオンへ。

 自分を封じる楔であり、自分と同じように痛みの中へ縫い止められた少女へ。

 アリスへ。

 自分の声を初めて「ノイズ」ではなく「記録」として受け止め始めた機械人形へ。

 そして、シグレへ。

 自分に返事をしてしまった人間。
 ノインではないのに、ノインの残響を持つ者。
 シオンではないのに、シオンの痛みを知ってしまった者。

『シグレ』

 闇の子が呼んだ。

 シグレの胸が、強く痛む。

 ムラサメの刃が震える。

「……聞こえてるよ」

 マナが即座に振り向く。

「返事しない!」

「もう呼ばれてるし」

「そういう問題じゃない!」

「うん。ごめん」

 謝りながら、シグレは邪柩から目を離さなかった。

 闇の子の声を無視すれば、安全かもしれない。

 けれど、無視して封じ続けた結果が、今の帝都だ。

 シオン一人が楔になり、ヌルは眠り、セーフィエルは娘を取り戻すために帝都を壊しかけ、アリスは誰かの再現として作られ、シグレはノインの残響に引き寄せられてここまで来た。

 聞こえないふりでは、もう終わらない。

 シグレは、闇の子へ向けて言った。

「君を完全に外へ出すことはできない」

 邪柩が大きく震えた。

『いや』
『いや』
『くらい』
『いたい』
『ヌルを返せ』
『シオンを返せ』

「わかってる」

 シグレは低く答える。

「暗いのも、痛いのも、わかる。全部わかるなんて言わないけど、少しはわかる。でも、君がそのまま現世へ出たら、帝都が壊れる。ホウジュ区も、カミハラ区も、時雨堂も、ハルナちゃんも、みんな巻き込まれる」

『なら』
『また閉じるのか』
『また消すのか』
『また、声を、ノイズに』

「違う」

 シグレは首を振った。

「閉じる。でも、消さない。聞く。でも、全部は通さない。君を外へ出さない。でも、君がいたことをなかったことにはしない」

 マナが息を呑む。

 セーフィエルが顔を上げる。

 アリスの胸元の円環が、強く光る。

 シグレは、自分の中で言葉を組み立てた。

 神の言葉ではない。

 魔導理論の完全な定式でもない。

 けれど、今ここで決めなければならない。

 封印を、どう変えるのか。

「シオンを、邪柩の楔から外す」

 シグレは言った。

 シオンの瞳が揺れる。

 セーフィエルの肩が震えた。

「シオン一人に集まっている封印の重さをほどく。全部を誰かに移すんじゃない。ボクが代わりに眠るわけでもない。アリスちゃんを楔にするわけでもない」

 アリスが静かにシグレを見る。

「私を、楔にしない」

「うん」

「代替人柱にしない」

「しない」

「記録しました」

「今のは、していい記録だねぇ」

 シグレは少しだけ笑い、すぐに表情を引き締めた。

「シオンの存在記録は、アリスちゃんが保持する」

 マナが硬直する。

「待って」

 シグレは続ける。

「ノインの残響は、ボクが一時的に受け止める。ムラサメで門の座標暴走を押さえる。ヨムルンガルド結界は、人柱依存型から都市分散型へ切り替える。ヌルの光で外枠を支える。闇の子の思念は、完全遮断じゃなくて、観測できる深層へ落とす」

 言葉にすると、無茶だった。

 神の封印を人間が組み替える。

 タルタロスの邪柩からシオンの魂を外し、闇の子の完全覚醒を防ぎ、ヌル本体を壊さず、帝都全域へ負荷を分散し、アリスの記録回路へ消された存在を保持させる。

 成功する保証はない。

 むしろ失敗する方が自然だった。

 だが、今ある選択肢の中で、シオンを見捨てず、帝都を壊さず、アリスを身代わりにせず、闇の子をただ消さない方法は、それしかなかった。

 セーフィエルが、かすれた声で言う。

「そんなこと、できるの」

「できるかどうかは、わからない」

 シグレは正直に答えた。

「でも、シオン一人に押しつけるよりはいい」

 セーフィエルは笑った。

 泣きながら、怒りながら、祈るように笑った。

「あなた、本当にひどい子ね」

「よく言われる」

「娘を取り戻せるかもしれないと思って、ここまで来たのに」

「うん」

「あなたは、娘を眠らせるための方法を選べと言うのね」

「……うん」

 セーフィエルの唇が震える。

 彼女はシオンを見る。

 シオンは母を見ている。

 その目は、帰りたいと言っている。

 同時に、もう帰れないことも知っている。

 セーフィエルは、血に濡れた手で顔を覆った。

「本当に、残酷」

「ごめん」

「謝らないで。謝られたら、あなたを責められなくなる」

「責めていいよ」

「責めたら、シオンが怒るわ」

 セーフィエルは泣いた。

 それでも、邪柩へ向けて術式を伸ばす。

 血の赤い糸が、シオンの鎖へ絡む。

「……わかったわ。私は、シオンの魂を楔から外す術式を補助する。邪柩の母系認証は、私の血で開く」

 マナが叫ぶ。

「セーフィエル!」

「何」

「アリスを使うつもりなら、今ここであなたを止める」

 セーフィエルは、アリスを見た。

 長い沈黙。

 彼女の目には、シオンへの執着と、アリスへの悔恨と、魔導技術者としての冷たい計算が同時にあった。

 やがて、セーフィエルは首を振った。

「アリスを楔にはしない」

「信用できない」

「信用しなくていいわ。見張っていなさい」

「もちろん」

 マナは短杖を握り直した。

 その手が震えている。

 怒りだけではない。恐怖だ。

 アリスが、自分の意思で危険な役割を選ぼうとしていることへの恐怖。

 アリスは、マナの手にそっと触れた。

「マナ様」

「駄目」

 マナは即答した。

「まだ何も言っていません」

「言う前からわかる。駄目」

「判断が早いです」

「あなたがそういう顔をしてるからよ!」

 アリスは瞬きした。

「私は、顔に出ていますか」

「出てる」

「学習しました」

「学習しないで! 今はそういう場面じゃない!」

 いつもの掛け合いの形をしている。

 だが、マナの声は震えていた。

 アリスは、胸元に浮かぶ円環へ視線を落とす。

 光が回っている。

 そこには、今まで消されてきた記録が流れ込んでいる。シオンがいたこと。ノインが欠番にされたこと。セーフィエルの異議が削除されたこと。ヌルが承認したこと。闇の子が痛いと叫んでいたこと。D∴C∴がその声を誤読したこと。シグレがシグレとして選んだこと。

 それらを、アリスの中の未知回路が受け取ろうとしている。

 マナには、それが怖かった。

 アリスが便利な装置として扱われることが。

 誰かの娘の代わり、誰かの楔の代わり、誰かの記録装置として、また「アリス自身」ではない役割を押しつけられることが。

「アリス、それ以上やったら壊れる!」

 マナの叫びが、邪柩の前で響いた。

 死者の声が一瞬だけ止まったように感じられた。

 アリスは、マナを見た。

 その瞳は静かだった。

 だが、静かすぎて、マナには余計に痛かった。

「壊れたくありません」

 マナが息を止めた。

 アリスは続ける。

「私は、壊れたいわけではありません。人柱にもなりたくありません。楔にもなりたくありません。シオンの代わりに眠ることも望みません」

「じゃあ、やめて」

 マナの声が小さくなる。

「お願い。やめて。あなたがそんなふうに自分を使う必要なんてない。シオンのことも、闇の子のことも、ヌルのことも、帝都のことも、あなた一人が背負わなくていい」

「はい」

「だったら」

「背負いません」

 アリスは言った。

 マナが顔を上げる。

「記録します」

 その言葉は、静かだった。

 だが、タルタロスの底で、はっきりと響いた。

「何も記録されなければ、また誰かが消されます。シオンがいたことも、闇の子が痛かったことも、ヌルが選んだことも、セーフィエルが泣いたことも、シグレがシグレとして選んだことも、消されます」

 アリスの胸元の円環が、さらに開く。

 光が内側へ向かって広がっていく。

「私は、それを保持します」

「そんなの、あなたが背負わなくていい!」

 マナの目から涙が落ちた。

 アリスは、その涙を見た。

「背負いません。記録します」

「同じじゃない!」

「違います」

 アリスの声は、珍しく強かった。

「背負うとは、私が代わりに苦しむことです。楔になることです。人柱になることです。私の人格を停止し、封印維持の部品になることです」

 彼女は、自分の胸に手を置いた。

「記録するとは、何があったかを消さないことです。誰かの痛みを、なかったことにしないことです。私がアリスであるまま、覚えていることです」

 マナは、何も言えなくなった。

 アリスは、さらに続ける。

「マナ様は、私をアリスだと言いました」

「言った」

「シグレも、私は私だと言いました」

「うん」

「セーフィエルも、私は失敗作ではないと言いました」

 セーフィエルが目を伏せる。

「はい」

「なら、私はアリスとして選びます。誰かの再現ではなく、誰かの代替品ではなく、封印の部品でもなく、記録者として」

 マナは、アリスの手を握った。

 強く。

 壊さないように、でも離さないように。

「戻ってきなさい」

「はい」

「機能停止しても、絶対戻ってきなさい」

「努力します」

「努力じゃなくて約束!」

「約束します」

「本当に?」

「はい。約束、記録しました」

 マナは泣きながら笑った。

「こういう時だけ、記録って言葉が少し嫌い」

「申し訳ありません」

「謝らないで。怒るから」

「はい」

 シグレは二人を見ていた。

 胸が痛む。

 でも、その痛みはシオンだけのものではなかった。

 アリスの選択。
 マナの恐怖。
 セーフィエルの涙。
 ヌルの光。
 闇の子の声。

 全部がここにある。

 誰か一人に押しつけるには、多すぎる。

 シグレはムラサメを構えた。

「始めよう」

 邪柩が震える。

 闇の子の声が荒くなる。

『いや』
『外へ』
『ヌルを返せ』
『シオンを返せ』
『わたしを、わたしに戻せ』

「戻すんじゃない」

 シグレは言う。

「変えるんだ」

 セーフィエルが血の術式を展開する。

 赤い糸が邪柩の母系認証へ触れる。
 シオンの鎖の一部が、わずかに緩む。

 シオンが苦しげに息を吐いた。

「っ……」

「シオン!」

 セーフィエルが叫ぶ。

 シオンは、母へ微かに首を振る。

「大丈夫……では、ないけど……まだ、いける」

「そういうところ、本当に嫌いよ……!」

「母さんに、似たの」

 セーフィエルは泣きながら笑った。

 アリスが記録回路を開く。

 彼女の背後に、薄い光の書架のようなものが立ち上がった。魔導文字でできた棚。そこに、消された記録が一行ずつ刻まれていく。

《シオン》
《ワルキューレ第九位ノイン》
《セーフィエルの娘》
《タルタロス封印楔》
《人柱状態解除処理中》
《消去禁止》
《存在記録保持》

 マナがアリスを支える。

 金色の防御術式が、アリスの周囲に重なる。
 だが、記録圧は防げない。
 アリスの身体が震え、瞳の光が乱れる。

「アリス!」

「記録圧、上昇。人格領域への干渉、発生。ですが、継続可能です」

「無理なら止める!」

「無理です」

「じゃあ止める!」

「無理ですが、止めません」

「アリス!」

「私は、アリスです」

 その一言で、マナは歯を食いしばった。

 シグレは、ムラサメの刃を邪柩へ向ける。

 斬るのではない。

 壊すのではない。

 ほどく。

 シオンの魂へ食い込んでいた楔の負荷を、一本ずつ外していく。

 最初の鎖に触れた瞬間、シグレの中へ痛みが流れ込んだ。

 シオンの痛み。

 長い長い時間、タルタロスの底で闇の子を押さえ続けた痛み。
 母に会いたかった痛み。
 帝都を守りたかった誇り。
 ヌルを許せなかった怒り。
 それでも自分が逃げれば誰かが壊れると知っていた恐怖。

 シグレの膝が折れかける。

「っ……!」

 マナが叫ぶ。

「シグレ!」

「大丈夫……じゃないけど、大丈夫」

「どっち!」

「今は後者で」

 シグレは無理に笑う。

「ボクは、シオンじゃない」

 ムラサメの刃が、青白く震える。

「ノインでもない」

 鎖の一本が、音を立てて緩む。

「でも、彼女が痛かったことは、なかったことにしない」

 闇の子が叫ぶ。

『痛い』
『痛い』
『わたしも』
『ここに』

「君も」

 シグレは息を吐く。

「君が痛かったことも、なかったことにしない」

 その瞬間、闇の子の声がわずかに揺らいだ。

 暴れる力が消えたわけではない。

 だが、叫びの中に、ほんの少しだけ別のものが混じった。

 聞かれている。

 そう理解したような揺らぎだった。

 門の外から、闘神ヌルの光が差し込む。

 白い光は、邪柩の外枠を押さえる。焼くためではない。崩壊を止めるために。

 ヌルの声が届いた。

『シグレ。長くは持たないよ』

「わかってる」

『アリスの記録核も限界が近い』

「それも、たぶん」

『たぶん禁止、って魔導士の子が言ってたんじゃない?』

 マナが怒鳴る。

「今それ言う場面!?」

 ヌルが少しだけ笑った気配がした。

『人の子たちは、緊張している時ほどくだらないことを言うんでしょう?』

「女帝様まで学習しないで!」

 ほんの一瞬だけ、タルタロス最深部に妙な間が生まれた。

 その間が、全員を少しだけ現実へつなぎ止める。

 シグレは、ムラサメを持ち直した。

「いくよ」

 誰に言ったのか、自分でもわからなかった。

 シオンに。
 アリスに。
 マナに。
 セーフィエルに。
 ヌルに。
 闇の子に。
 そして、自分に。

 ムラサメの刃が、邪柩の中心へ触れる。

 アリスの記録回路が完全に開く。

 セーフィエルの血の術式が、シオンの鎖へ絡む。

 ヌルの光が外枠を支える。

 ヨムルンガルド結界の蛇紋が、タルタロスの闇の中へ細く伸びる。

 旧構造が軋む。

 シオン一人に集中していた封印負荷が、初めて動き始める。

 邪柩が轟いた。

 タルタロスの硫酸の海が波立つ。

 溶岩の山が崩れ、凍土の大地に亀裂が走る。

 死者の声が、一斉に叫ぶ。

 闇の子が、泣くように笑うように叫んだ。

『わたしを』
『わたしに』
『戻せ』

 シグレは、歯を食いしばって言った。

「戻すんじゃない」

 青白い刃が、鎖をほどく。

「君がいたことを、消さない形に変える」

 アリスの瞳から、涙のような光がこぼれた。

「記録、開始します」

 マナが彼女を支えた。

「戻ってきなさい、アリス」

「はい」

 アリスは、震える声で答えた。

「私は、アリスです」

 その言葉を最後の鍵にして、封印再構成が本格的に始まった。

第五場 セーフィエルとシオン

 封印再構成が始まった瞬間、邪柩の内側で世界が反転した。

 タルタロス最深部に響いていた硫酸の海の音が遠ざかる。溶岩の山が崩れる音も、凍土が裂ける音も、死者たちの声も、闇の子の叫びも、すべてが水の底へ沈んでいく。

 代わりに、風が吹いた。

 ありえない風だった。

 タルタロスには空がない。風もない。季節もない。花の匂いなど、あるはずがない。

 それなのに、セーフィエルは花の匂いを感じた。

 白い花。

 月明かりに似た、淡い匂い。

 彼女は顔を上げた。

 そこは、邪柩の内側だった。

 けれど、黒い柩の内壁はなかった。鎖もない。闇の子の声も遠い。代わりに広がっていたのは、小さな庭だった。

 白い花が咲いている。

 背の低い草が揺れている。

 遠くには、まだ建設途中の白い塔が見えた。夢殿ではない。ヴァルハラ宮殿でもない。もっと古い、帝都が帝都になる前の、計画図の中にしかなかったような塔。

 空は薄い金色をしていた。

 朝焼けにも、夕焼けにも見える。

 だが、太陽はない。

 ここは現実ではない。

 封印再構成の途中、シオンの魂と、セーフィエルの血と、邪柩に刻まれた記録が一瞬だけ重なって生まれた精神領域だった。

 セーフィエルは、自分の手を見た。

 血に濡れていない。

 タルタロスで裂けた袖も、焦げた指先も、術式で焼けた皮膚もない。そこにあるのは、ずっと昔の、まだ娘の髪を梳いていた頃の手だった。

「……」

 声が出ない。

 彼女は、庭の中央を見た。

 白い花の向こうに、少女が立っていた。

 シオン。

 ワルキューレ第九位ノインではない。

 タルタロス封印の楔でもない。

 邪柩に縫い止められた人柱でもない。

 ただの、シオンだった。

 白い服を着ている。ワルキューレの礼装よりも簡素で、戦いのための装束ではない。髪は少し乱れている。昔からそうだった。訓練の後も、書類仕事の後も、眠る前も、彼女は髪を整えるのが苦手だった。

 セーフィエルは一歩踏み出した。

 足元の花が揺れる。

 シオンは、母を見ていた。

 笑っていた。

 泣きそうに、でも、安心したように。

「母さん」

 その一言で、セーフィエルの胸が壊れた。

「シオン」

 彼女は走った。

 魔女としての気品も、危険魔導士としての警戒も、セーフィエルという名に積み重ねてきた冷静さも、全部捨てて走った。

 手を伸ばす。

 娘へ。

 ずっと伸ばし続けていた手。

 夢殿の記録から消されても。
 ワルキューレの欠番にされても。
 タルタロスの底に閉じ込められても。
 帝都政府に追われても。
 アリスを作っても。
 裁きの門を開いても。
 帝都を危機に晒しても。

 ずっと伸ばしていた手。

 その手が、シオンの肩へ届く直前で止まった。

 触れられなかった。

 指先は、シオンの輪郭をすり抜けた。

 水面に触れたような感触だけが残り、シオンの姿が淡く揺れる。

 セーフィエルは硬直した。

 もう一度、手を伸ばす。

 触れられない。

 何度も。

 何度も。

 指先は、娘の頬を通り抜ける。

 髪に触れることも、肩を抱くことも、額にキスすることもできない。

「……嘘」

 セーフィエルの声が震えた。

「そんなの、嘘よ」

 シオンは悲しそうに笑った。

「母さん」

「待って。待って、シオン。まだ術式が安定していないだけよ。封印再構成の途中だから、干渉位相がずれているの。大丈夫。母さんが直す。あなたの魂の輪郭を固定して、母体認証を通して、仮の器を――」

「母さん」

 シオンは、もう一度呼んだ。

 その声は、優しかった。

 優しいから、セーフィエルは言葉を失った。

「シオン、帰りましょう」

 セーフィエルは、それでも言った。

「今度こそ、母さんが連れて帰る」

 シオンは、静かに首を振った。

「母さん。わたしは、もう帰れない」

 世界が止まった。

 白い花が揺れる。

 遠くの塔が、霞む。

 セーフィエルの表情が、ゆっくりと崩れていく。

「……何を言っているの」

「わたしは、もう帰れない」

「駄目」

 即答だった。

「そんなの、駄目よ」

 セーフィエルは首を振る。

「だって、私は来たのよ。裁きの門を開いた。夢殿の監視を抜けた。ヌルに追われても、アインに斬られかけても、帝都中を敵に回しても、ここまで来たの。あなたを迎えに来たの。あなたを返してもらうために、ずっと」

「うん」

「だから、帰るの。時雨堂でもいい。帝都の外でもいい。死都東京の外縁でも、月の裏側でも、どこでもいい。器が必要なら作る。時間が足りないなら盗む。魂の損傷があるなら修復する。記録が壊れているなら、私が書き直す。できるわ。できる。私は、あなたの母親で、魔導士で、セーフィエルよ」

 シオンは、母の言葉を遮らなかった。

 ただ、聞いていた。

 セーフィエルは、さらに一歩近づく。

「シオン、帰りましょう。今度こそ、母さんが連れて帰る」

 同じ言葉を繰り返す。

 祈りのように。

 命令のように。

 自分自身へかける呪文のように。

 シオンは、また首を振った。

「帰れないの」

「嫌」

 セーフィエルの声が幼くなった。

 長い年月を生き、禁忌を犯し、帝都政府に危険人物として追われてきた魔女の声ではなかった。

 娘を失った日のまま、立ち止まっていた母親の声だった。

「そんなの、嫌よ。そんな救い、認めない」

 白い花が、彼女の足元で揺れる。

「私はあなたを抱きしめたかった」

 言葉が、堰を切ったように溢れた。

「あなたにご飯を食べさせたかった。温かいスープを作って、熱いから気をつけなさいって言いたかった。あなたが訓練で無茶をして帰ってきたら怒りたかった。怪我を隠しているのを見つけて、薬を塗りながら、どうしていつもそうなのって叱りたかった」

 シオンの瞳が揺れる。

「あなたの髪を梳きたかった。ワルキューレの礼装を着る前に、襟が曲がっているって直したかった。あなたが大人ぶって、でも本当は怖がっているのを見抜いて、何も言わずにお茶を出したかった。あなたの誕生日を、もう一度祝いたかった」

 セーフィエルは、両手で顔を覆いそうになって、やめた。

 シオンを見ていたかったからだ。

「ケーキを焼きたかった。失敗して焦がして、あなたに笑われたかった。母さん、魔導式は完璧なのに料理は下手なのねって言われたかった。喧嘩したかった。くだらないことで言い合って、次の日には何でもなかったみたいに朝食を食べたかった。あなたが誰かを好きになったら、少し嫌な顔をして、それでも祝福したかった。あなたが疲れて眠ってしまったら、毛布をかけたかった」

 声が震える。

「私は、あなたの母親を続けたかった」

 シオンは、泣いていた。

 静かに。

 涙が頬を伝っている。

 この精神領域で流れる涙が本物なのか、魂の記憶なのか、セーフィエルにはわからない。

 でも、そこにある悲しみだけは本物だった。

「うん」

 シオンは言った。

「わたしも、帰りたかった」

 セーフィエルの呼吸が止まる。

 シオンは、母を見つめた。

「母さんのスープ、飲みたかった。焦げたケーキも食べたかった。髪を梳いてほしかった。怒られたかった。ちゃんと怒って、それから許してほしかった。ワルキューレになんてならなければよかったって、思ったこともある。剣なんて握らなければよかったって、思ったこともある」

 彼女の声は、震えていた。

「怖かった。タルタロスは暗かった。闇の子の声はずっと痛かった。ヌル様の光も、最初は温かかったのに、だんだん鎖みたいになった。わたしの名前が消えていくのがわかった。ノインって呼ばれることすらなくなって、欠番になって、記録から消されて、母さんの声も遠くなって」

 シオンは、自分の胸に手を置いた。

「帰りたかったよ、母さん」

 その一言で、セーフィエルは完全に崩れた。

 膝をつく。

 白い花の中で、手を伸ばす。

 触れられない娘へ、何度も、何度も手を伸ばす。

「なら、帰りましょう」

「母さん」

「帰りたいなら、帰ればいいでしょう。まだここにいる。声が届く。私がいる。シグレがいる。アリスが記録している。ヌルだって、外で封印を支えている。帰れる。帰れるはずよ。帰れないなんて、誰が決めたの。ヌル? 夢殿? 邪柩? タルタロス? そんなもの、私が全部壊す」

「壊したら、帝都が落ちる」

「落ちればいい!」

 セーフィエルの叫びが、庭を震わせた。

 白い花びらが舞う。

「あなたのいない帝都なんて、私にはいらない!」

 言ってから、セーフィエルは自分の言葉の重さに気づいた。

 それは、彼女がずっと抱えてきた本音だった。

 帝都の市民。
 ホウジュ区で避難している人々。
 女帝信仰の少女。
 マナ。
 アリス。
 シグレ。
 皆、生きている。

 それでも、娘を奪われた母親にとって、世界は娘のいない形で続いてしまった。

 それが許せなかった。

 シオンは、母を責めなかった。

 ただ、悲しそうに言った。

「でも、わたしはそう思えなかった」

 セーフィエルは顔を上げる。

「わたしは、帝都も壊したくなかった」

「シオン」

「母さんのところに帰りたかった。ヌル様を許せなかった。闇の子が痛いのも、聞こえていた。全部、嫌だった。でも、わたしが逃げたら、たくさんの人が壊れるのもわかっていた」

「そんなもの、あなたが背負うことじゃなかった!」

「うん」

 シオンは頷いた。

「背負うことじゃなかった。今なら、そう思う。でも、あの時のわたしは逃げられなかった。逃げないことを、正しいと思いたかった。怖かったから。自分の痛みに意味があるって思わないと、耐えられなかったから」

 セーフィエルは、声を出せなかった。

「母さん。わたしは、もう昔のわたしには戻れない」

「……」

「身体はない。魂は削れた。時間は戻らない。わたしが帰って、母さんの作ったスープを飲んで、怒られて、眠って、明日の朝を迎えることは、もうできない」

「やめて」

「言わなきゃ」

「やめて、シオン」

「言わなきゃ、母さんはわたしを探し続ける」

 セーフィエルは、唇を噛んだ。

 血は出ない。

 ここは精神領域だから。

 それでも、痛みだけはあった。

 シオンは、母の前にしゃがんだ。

 触れられない距離で、目線を合わせる。

 昔、セーフィエルが幼いシオンにそうしていたように。

「母さん。わたしを取り戻すためじゃなくて」

 シオンの声は穏やかだった。

「わたしを眠らせるために、手を貸して」

 セーフィエルは、壊れそうな顔でシオンを見た。

「それが、救いなの」

「わからない」

 シオンは正直に答えた。

「でも、もう痛いのは嫌」

 その言葉は、幼かった。

 ワルキューレ第九位ノインではない。
 タルタロス封印の楔ではない。
 帝都を守った英雄でも、夢殿が消した欠番でもない。

 ただ、長い痛みに疲れ果てた娘の言葉だった。

「もう、暗いところで一人で眠るのは嫌。闇の子の痛みを一人で押さえ続けるのも嫌。ヌル様の光を鎖みたいに感じるのも嫌。母さんの声が遠くなるのも嫌。誰かがわたしの名前を忘れるのも嫌」

 シオンは、泣きながら笑った。

「でも、母さんが来てくれた。シグレが、わたしの代わりにならないって言ってくれた。アリスが、わたしがいたことを記録してくれる。マナが、アリスを守ろうとしてくれる。ヌル様も、外で止まってくれている。だから」

 彼女は、そっと目を伏せた。

「もう、眠れると思う」

 セーフィエルは、何度も首を振った。

「嫌」

「母さん」

「嫌よ」

「うん」

「私は、あなたを救いに来たのよ」

 セーフィエルの声は、細く、震えていた。

「母さんは、あなたを救いに来たのよ」

 シオンは微笑んだ。

「うん」

 その笑顔は、セーフィエルがずっと探していたものだった。

 幼い頃、失敗したケーキを食べて笑った時。
 訓練で負けて悔し泣きしながら、それでも立ち上がった時。
 ワルキューレの礼装を着て、少しだけ誇らしげに振り返った時。
 そして、最後にタルタロスへ向かった時。

 あの子は、いつもそうやって笑った。

 怖い時ほど、笑った。

「来てくれた」

 シオンは言った。

「だから、もう大丈夫」

 セーフィエルは、泣いた。

 声にならない声で泣いた。

 魔女としてではなく。
 設計者としてでもなく。
 反逆者としてでもなく。
 ただの母親として。

 白い花の庭が、ゆっくり崩れていく。

 精神領域の時間が終わろうとしていた。

 タルタロス最深部の音が戻ってくる。

 硫酸の海。
 鎖。
 邪柩。
 闇の子の声。
 アリスの記録回路。
 マナの叫び。
 シグレのムラサメ。
 闘神ヌルの光。

 シオンの姿が薄れていく。

 セーフィエルは手を伸ばした。

 やはり触れられない。

 だが、今度は無理に掴もうとはしなかった。

「シオン」

「うん」

「母さんは、あなたを帰してあげられない」

「うん」

「あなたを抱きしめられない」

「うん」

「ご飯も作れない。怒れない。髪も梳けない。誕生日も、もう」

「うん」

「でも」

 セーフィエルは、涙で濡れた顔を上げた。

「あなたを、この痛みから出す」

 シオンの瞳が揺れる。

「母さん」

「あなたを取り戻すためじゃない。あなたを眠らせるために」

 セーフィエルは、自分の胸に手を当てた。

 そこに、血の術式が浮かぶ。

 母系認証。

 邪柩へ触れるための、最後の鍵。

「手を貸すわ」

 シオンは、泣きながら笑った。

「ありがとう」

 庭が消える。

 最後に、シオンの声が届いた。

「母さん」

「なに」

「わたし、生きたかった」

 セーフィエルの表情が歪む。

 だが、シオンは続けた。

「でも、母さんが来てくれたから、わたしは、消えるんじゃなくて眠れる」

 その言葉を最後に、精神領域は砕けた。

 タルタロス最深部。

 邪柩前。

 セーフィエルは現実へ戻った。

 膝をついている。
 顔は涙で濡れている。
 血の術式はまだ手の中にある。
 邪柩の中心では、シオンが鎖につながれたまま、こちらを見ている。

 シグレが息を切らしていた。

 ムラサメの刃が、シオンの封印鎖をほどこうとしている。
 アリスは記録回路を開いたまま震えている。
 マナはアリスを支えながら、セーフィエルを見ている。
 門の外からは、闘神ヌルの白い光が差し込んでいる。

 闇の子が、邪柩の奥で呻いた。

『シオン……』
『返せ……』
『ヌル……』
『ひとつに……』

 セーフィエルは立ち上がった。

 足元はふらついている。

 それでも、立った。

 マナが警戒する。

「セーフィエル」

「わかっているわ」

 セーフィエルは、マナを見た。

 その目には、もう先ほどまでの狂気じみた執着だけではない。

 喪失がある。
 痛みがある。
 そして、選んでしまった者の覚悟がある。

「私は、シオンを取り戻す術式を閉じる」

 マナが息を呑む。

 シグレがセーフィエルを見る。

 セーフィエルは、邪柩へ向き直った。

「母系認証を、解放用へ切り替える。シオンの魂を、邪柩の楔から外すために使う」

「いいの?」

 シグレが聞いた。

 セーフィエルは、笑った。

 泣きながら。

「よくないわ」

 正直な答えだった。

「よくなんてない。私はまだ、あの子を連れて帰りたい。抱きしめたい。温かいものを食べさせたい。誕生日を祝いたい。全部、諦めたくない」

 彼女は、血に濡れた手を邪柩へ伸ばす。

「でも、あの子はもう、痛いのは嫌だと言った」

 セーフィエルの血が、赤い糸となってシオンの鎖へ絡みつく。

「母親が、それを聞かなかったことにはできない」

 シオンの鎖が、大きく震えた。

 邪柩が抵抗する。

 闇の子が叫ぶ。

『返せ』
『シオンを』
『返せ』

 セーフィエルは、涙の跡を拭わなかった。

 そのまま術式を展開する。

「シオン」

 彼女は言った。

「母さんは、あなたを救いに来たのよ」

 シオンは、邪柩の中心で微笑んだ。

 淡く、今にもほどけそうな笑みだった。

「うん」

 声は小さかった。

 けれど、はっきり届いた。

「来てくれた。だから、もう大丈夫」

 セーフィエルは、術式を反転させた。

 娘を取り戻すために組み上げた魔導式が、娘を眠らせるための式へ変わっていく。血の赤い線が、鎖を締め上げるのではなく、一本ずつほどいていく。シオンの魂に食い込んでいた母系認証が、所有の鍵ではなく、解放の鍵へ変わる。

 その瞬間、セーフィエルの胸の奥で、何かが音を立てて砕けた。

 きっと、それは希望だった。

 娘を連れて帰れるかもしれないという、長い長い希望。

 砕けた希望の奥から、別のものが残った。

 母としての願い。

 どうか、この子がもう苦しまないように。

 それだけだった。

 白い花の匂いが、一瞬だけタルタロスの底に漂った。

 シオンの鎖が、また一本、ほどけた。

第六場 シグレの創言的宣言

 邪柩が、シグレを呼んでいた。

 声ではない。

 名でもない。

 もっと古い、もっと冷たい、装置の奥に刻まれた識別だった。

《ワルキューレ系統反応》
《第九位残響検出》
《ノイン照合中》
《裁きの門座標鍵》
《タルタロス封印楔補助権限》
《代替楔候補》
《識別名――》

 黒い文字が、邪柩の表面に浮かんでは消える。

 シグレの胸の奥で、何かが軋んだ。

 ノイン。

 シオン。

 ワルキューレ第九位。

 欠番。

 人柱。

 門の鍵。

 タルタロスの残響。

 それらの名前が、まるで鎖の輪のようにシグレへ絡みついてくる。

 ムラサメの刃は、邪柩に触れたままだった。

 青白い刃が震えている。

 斬るための震えではない。
 拒絶するためでもない。
 まるで、剣そのものが昔の名前を思い出してしまい、今の持ち主の手を見失いかけているようだった。

 シグレは歯を食いしばる。

 痛みが流れ込んでくる。

 シオンの痛み。

 タルタロスの暗闇。
 邪柩の内側。
 闇の子の声。
 ヌルの光。
 セーフィエルの泣き声。
 帝都の祈り。
 ワルキューレとして剣を握った手。
 人柱として眠り続けた時間。

 全部が、自分のもののように流れ込む。

 違う。

 そう思う。

 でも、違うだけでは足りなかった。

 シグレの中には、確かにシオンの残響がある。

 ムラサメを握る手が、知らない剣筋を覚えている。
 裁きの門は、彼の胸の奥の響きを鍵として認識する。
 邪柩は、彼を封印構造の部品として見ている。
 闇の子は、彼をノインの向こう側から呼ぶ。
 ヌルは、彼を危険な例外として見ている。
 セーフィエルは、彼の中に娘の痛みを見る。

 それは全部、事実だった。

 だからこそ、ただ否定するだけでは足りなかった。

 自分で定義しなければならない。

 シグレは、顔を上げた。

 邪柩の前で、セーフィエルが血の術式を反転させている。

 彼女の赤い糸は、シオンを取り戻すための鍵ではなく、シオンを邪柩からほどくための鍵へ変わっていた。泣きながら、震えながら、それでも母親の手で娘の鎖を外そうとしている。

 アリスは記録回路を開いている。

 胸元の円環から、白と青の光が溢れていた。そこには消された記録が流れ込んでいる。シオンの名、ノインの欠番、セーフィエルの異議、ヌルの承認、闇の子の声、シグレの選択。あまりにも多すぎる情報が、小さな機械人形の中へ押し寄せている。

 マナは、アリスを支えていた。

 泣きそうな顔で、それでも短杖を握り、アリスを守るための防御術式を張り続けている。魔導陣の端は黒く焦げ、指先は震えていた。それでも離さない。

 門の外からは、闘神ヌルの光が届いている。

 焼くためではない。

 今だけは、支えるために。

 そして、邪柩の中心で、シオンがシグレを見ていた。

 鎖に縛られたまま、けれどもう完全な人柱ではなく、自分の名前を取り戻し始めた少女が、静かに彼を見ていた。

「シグレ」

 シオンが呼んだ。

 その声は、ノインのものではなかった。

 欠番の声でも、楔の声でも、ワルキューレの声でもない。

 シオンの声だった。

「あなたは、わたしではない」

 シグレは頷いた。

「うん」

「だから、わたしの痛みを全部持っていかなくていい」

「うん」

「でも」

 シオンは、少しだけ微笑んだ。

「覚えていて」

「うん」

 シグレは、ムラサメを握り直す。

「覚えてる」

 その瞬間、邪柩が吠えた。

 黒い文字列が、一斉に乱れる。

《識別矛盾》
《ノイン残響保持者》
《代替楔適性あり》
《封印安定化のため、残響座標固定》
《個体名不要》
《役割優先》
《役割優先》
《役割優先》

 シグレの足元から、黒い鎖が伸びた。

 鎖は、彼の影へ食い込もうとする。

 彼を、名前ではなく機能で固定しようとしている。

 ノインの残響。
 門の鍵。
 封印の補助楔。
 シオンの代替。

 シグレは、息を吐いた。

「しつこいなぁ」

 声は、いつもの調子だった。

 眠たげで、少しだけ間延びしている。

 だが、その奥には低い芯があった。

「ボク、そういう押し売りは嫌いなんだよねぇ」

 マナが、アリスを支えながら叫ぶ。

「シグレ、足元!」

「見えてる」

「なら避けて!」

「避けるより、言った方が早そう」

「何を!?」

 シグレは、黒い鎖を見下ろした。

 次に、邪柩を見た。

 その奥にいる闇の子を見た。

 さらにその向こう、門の外で光を支えるヌルを感じた。

 そして、最後に自分自身を見た。

 ホウジュ区の雑貨店。

 カウンターの向こうで怒るハルナ。
 こたつ。
 お茶。
 よくわからない商品棚。
 呪われているかもしれない鏡。
 女帝ヌルの小さな聖像。
 旧東京地図。
 蛇型風鈴。
 開店時間を過ぎても寝ていた自分。
 「テンチョ!」と怒る声。

 あそこに帰る。

 そのための名前が、自分にはある。

 シグレは口を開いた。

「ボクはノインじゃない」

 その言葉が、タルタロスの空気を震わせた。

 黒い鎖の動きが止まる。

 邪柩の文字列が、瞬間的に乱れる。

《ノイン否定》
《識別矛盾》
《残響あり》
《残響あり》
《残響あり》

「シオンでもない」

 今度は、シオンの胸に食い込んでいた鎖の一本が、小さく鳴った。

 セーフィエルが顔を上げる。

 シオンが、静かに目を閉じる。

 シグレは続けた。

「女帝様の道具でもない」

 門の外で、闘神ヌルの光がわずかに揺れる。

 ヌルの声が届いた。

『人の子、アタシを前にそれを言う?』

「言うよ」

『いい度胸だね』

「怖いけどね」

『そこは黙って格好つけるところじゃない?』

「ボクにそれを期待するのは間違いだよぉ」

 ほんの一瞬だけ、マナが息を漏らした。

「この状況で、よくそんな会話できるわね……!」

「緊張してるから」

「言い訳になってない!」

 シグレは、セーフィエルへ目を向けた。

「セーフィエルの娘でもない」

 セーフィエルの顔が歪んだ。

 だが、彼女は目を逸らさなかった。

 泣いたまま、シグレを見ている。

「ええ」

 セーフィエルは言った。

 声は震えていた。

 けれど、確かだった。

「あなたは、シオンじゃない」

「うん」

「私の娘じゃない」

「うん」

「でも、あの子の痛みを知ってくれた」

「それは、知ってる」

 セーフィエルは、唇を噛んだ。

「ありがとう、とはまだ言えないわ」

「いいよ。言われたら、ちょっと困る」

「本当に、困る子ね」

「よく言われる」

 シグレは、邪柩の奥へ向き直った。

 闇の子の声が、彼を呼んでいる。

『シグレ』
『ノインではない』
『でも、ひびき』
『声を通す』
『聞こえる』
『聞かせて』
『外へ』
『外へ』

 黒い光が、彼の胸へ伸びる。

 それは、攻撃というより、縋る手だった。

 だが、縋られたまま外へ引きずり出せば、帝都が壊れる。

 シグレは静かに言った。

「闇の子の声を通す受信機でもない」

 黒い光が震えた。

『いや』
『聞いて』
『聞いて』
『聞いて』

「聞くよ」

 シグレは答えた。

「でも、通すだけじゃない。君の声をそのまま帝都へ流したら、みんな壊れる。D∴C∴みたいに、都合よく神託にされる。怖がってる人たちが、もっと怖くなる。だから、聞くけど、選ぶ。記録するけど、全部をそのまま外へ出さない」

 闇の子は、理解しきれないように揺れた。

『選ぶ』
『人の子が』
『選ぶ』

「うん」

 シグレは頷く。

「人の子が選ぶ」

 邪柩がさらに強く軋む。

 タルタロスの底で、言葉が形を持ちはじめていた。

 創言。

 名前を与えることで、存在を固定する力。
 言葉によって、世界の側の解釈を変える力。

 シグレがそれを理論として理解していたわけではない。

 クレハなら、後で「極めて興味深い創言的現象だった」と言うかもしれない。
 シンなら、記録できなかったことを悔しがるかもしれない。
 ヌルなら、人の子にしては面白いと笑うかもしれない。

 だが、今のシグレにとって、それは理論ではなかった。

 ただ、自分の名前を言うことだった。

 自分が何者かを、邪柩にも、闇の子にも、ヌルにも、セーフィエルにも、シオンにも、そして自分自身にも聞かせることだった。

 シグレは、息を吸った。

 タルタロスの空気は冷たく、硫酸の海の臭いと死者の声が混じっている。

 それでも、彼は言った。

「ボクは、ホウジュ区の雑貨店《時雨堂》の店長、シグレだ」

 その言葉は、派手な光を放たなかった。

 雷も落ちなかった。

 天使の翼も生えなかった。

 けれど、邪柩の文字列が止まった。

《ノイン残響保持者》
《代替楔候補》
《封印鍵》
《役割優先》

 それらの文字が、ひとつずつ罅割れていく。

 代わりに、新しい文字が浮かんだ。

《識別名:シグレ》
《個体定義:本人》
《ノイン残響:保持》
《同一視:否定》
《代替楔化:拒否》
《自律選択:確認》

 ムラサメの刃が、強く光った。

 青白い光は、今までのようなノインの冷たい剣筋ではなかった。

 柔らかい。

 少し頼りない。

 けれど、確かにシグレの手に馴染む光だった。

 シグレは、初めてムラサメが自分の剣になったように感じた。

 シオンの剣技を借りているのではない。
 ノインの残響に動かされているのでもない。
 ワルキューレの封印術式をなぞっているのでもない。

 自分で握っている。

 自分で選んでいる。

 シオンが微笑んだ。

「いい名前」

「前にも言われた気がする」

「うん。言った」

「じゃあ、もう一回覚えておいて」

「覚えているわ」

 アリスの記録回路が光る。

「識別名、シグレ。ホウジュ区雑貨店《時雨堂》店長。ノイン残響保持者。ただし、ノイン本人ではありません。シオン本人ではありません。記録しました」

 マナが涙ぐみながら笑う。

「こういう時、あなたの記録癖って便利ね」

「ありがとうございます」

「褒めてるけど、無理はしないで」

「努力します」

「約束!」

「約束します」

 セーフィエルは、シグレを見ていた。

「シグレ」

「なに?」

「あなたは、あの子じゃない」

「うん」

「でも、あの子の名を消さないでくれるのね」

「うん」

「それなら」

 セーフィエルは、血の術式を強めた。

「私は、あなたの名前も間違えないわ」

「それは助かる」

「シグレ」

「うん」

「シオンを、お願い」

 シグレは、少しだけ目を伏せた。

「お願いされるのは、重いなぁ」

「重いわよ」

「だよね」

「でも、あなた一人には背負わせない」

 セーフィエルの赤い術式が、シオンの鎖を包む。

「これは私の娘の痛みでもある。私の罪でもある。ヌルの罪でもある。帝都の罪でもある」

 アリスが言う。

「記録します」

 マナが続ける。

「そして、もう誰か一人に押しつけない」

 門の外から、ヌルの声が落ちる。

『人の子にしては、言うね』

「女帝様も手伝ってるでしょ」

『手伝ってあげている、だよ』

「はいはい」

『雑だね』

「今、余裕ないんだよぉ」

『それでいい』

 ヌルの光が、邪柩の外枠を強く支えた。

 闇の子が唸る。

『シグレ』
『シオン』
『ヌル』
『アリス』
『記録』
『声』
『ひとつに』

「ひとつには戻さない」

 シグレは言った。

「でも、ばらばらのまま、なかったことにもさせない」

 ムラサメの刃を、シオンの胸へ伸びる黒い鎖へ当てる。

「だから、シオンの痛みをなかったことにしない」

 鎖が震える。

「帝都に住んでる人たちの明日も壊さない」

 ホウジュ区の時雨堂が、脳裏に浮かぶ。

 ハルナが怒っている。
 きっと今も、誰かを店に入れて、棚を守って、聖像に変な護符を貼っている。

 あそこへ帰る。

「君たちの神話に、ボクの帰る場所を勝手に使わせない」

 その言葉と同時に、ムラサメが鳴った。

 高く、澄んだ音だった。

 タルタロスの死者の声が、一瞬だけ静まる。

 邪柩の文字列が、シグレの定義に従って再配列されていく。ノインの残響は消えない。シオンの痛みも消えない。だが、それらはもうシグレを上書きするものではなく、彼が自分の名で受け止める記録へ変わっていく。

 青白い刃が、黒い鎖へ入った。

 斬らない。

 断たない。

 ほどく。

 シグレは、もう一度言った。

「ボクはシグレだ」

 ムラサメの光が、彼の手の中で安定した。

 ノインの残響が、暴走ではなく、彼自身の剣になった瞬間だった。

第七場 封印再構成の完了

 ムラサメの光が、邪柩の中心へ入っていく。

 斬るための刃ではなかった。

 裁くための刃でもない。

 青白い光は細く、静かで、まるで絡まった糸を一本ずつほどく針のようだった。

 邪柩に巻きついていた白い鎖が、音を立てる。

 これまで、その鎖は神聖に見えた。

 ヌルの光で編まれ、ワルキューレの権限で固定され、ヨムルンガルド結界によって補強され、夢殿の眠りの座から絶えず力を送られていた。白く、強く、美しく、帝都を守るための鎖。

 だが、その白は清らかさではなかった。

 長すぎる時間の中で、シオンの痛みを覆い隠すために塗り重ねられた白だった。

 ムラサメが触れるたび、白い鎖の表面に罅が入る。

 罅の奥から、黒い痛みが漏れた。

 タルタロスの闇。
 闇の子の声。
 シオンの長い眠り。
 消された名前。
 欠番になった階位。
 母へ届かなかった叫び。

 シグレは、そのすべてを受け止めながら、歯を食いしばった。

 膝が笑う。

 腕が痺れる。

 胸の奥で、ノインの残響が暴れようとする。

 自分をシオンへ近づけようとする。

 ワルキューレ第九位として、楔として、剣として、役目として、邪柩に従えと囁く。

 けれど、もう飲まれない。

 シグレは、先ほど口にした名前を胸の奥で繰り返した。

 ホウジュ区の雑貨店《時雨堂》の店長、シグレ。

 その名前が、彼の足を地面につなぎ止めていた。

 地面と言っても、ここはタルタロスだ。

 足元にあるのは黒い鎖の橋であり、その下には硫酸の海が泡立っている。遠くの溶岩の山は白い光と黒い闇の衝突で崩れ、凍土の大地に亀裂が走り、死者の声が風のように渦巻いている。

 それでも、シグレは立っていた。

「シグレ!」

 マナの声が飛ぶ。

 彼女はアリスを支えながら、金色の防御術式を展開している。術式はもう何度も破られ、張り直され、そのたびにマナの手首から血が滲んでいた。

「無理しないでって言っても、どうせ聞かないんでしょうけど!」

「聞くだけなら聞くよぉ」

「実行しなさいよ!」

「今、それやったらたぶん全部落ちる」

「だから腹が立つのよ!」

 マナは怒鳴りながら、もう一枚、防御陣を重ねた。

 そのすぐ隣で、アリスの身体が震えている。

 胸元の円環は、完全に開いていた。

 光でできた書架のようなものが、彼女の背後に立ち上がっている。そこには、消された記録が次々と刻まれていた。

《シオン》
《ワルキューレ第九位ノイン》
《セーフィエルの娘》
《タルタロス封印楔》
《人柱状態》
《記録削除》
《永久欠番》
《異議記録:セーフィエル》
《承認記録:女帝ヌル》
《封印再構成処理中》
《消去禁止》
《存在記録保持》

 文字が増えるたび、アリスの瞳の光が乱れた。

 記録は重い。

 ただ覚えるだけではない。

 帝都という巨大な封印都市が、長い時間をかけて隠し、消し、塗り替えてきたものを、アリスは小さな身体の中へ受け入れている。

 シオンがいたこと。
 痛かったこと。
 消されたこと。
 それでも帝都が残ったこと。

 その矛盾を、矛盾のまま記録している。

「アリス!」

 マナが彼女の肩を支える。

「返事!」

「はい……マナ様」

「意識は?」

「保持しています。人格領域、揺らぎあり。記録核、過負荷。ですが、まだ……私は、アリスです」

「そうよ。あなたはアリス。だから、勝手に消えるの禁止」

「禁止事項として記録しました」

「記録するだけじゃなく守って!」

「努力します」

「約束!」

「約束します」

 マナの声は怒っているのに、泣いていた。

 アリスは、その涙を見て、ほんの少しだけ表情を変えた。

 微笑んだ、と言うには淡い。

 でも、確かに彼女自身の表情だった。

 セーフィエルの赤い術式が、シオンの鎖へ絡んでいる。

 その赤は、娘を取り戻すための所有の色ではなくなっていた。

 血の術式は、今、解放の鍵として働いている。

 セーフィエルの指が震える。

 術式の一本一本は、彼女自身の血で編まれていた。身体の血だけではない。長い執着、怒り、喪失、娘を抱きしめたかった願い、そのすべてが魔導式へ変換され、シオンの魂に食い込んだ封印の結び目をほどいていく。

「シオン」

 セーフィエルは、何度も娘の名を呼んだ。

「シオン……シオン……」

 呼ぶたびに、シオンの輪郭が淡く光る。

 邪柩の中心で、シオンは目を開けていた。

 鎖はまだある。

 胸には黒い杭が刺さっている。

 その杭こそが、邪柩とシオンの魂を結び、闇の子の完全覚醒を押しとどめてきた中心楔だった。

 黒い杭は、長い時間の中で彼女の一部になりかけていた。

 痛みがあることすら、痛みとして感じられなくなるほど深く、魂に食い込んでいた。

 ムラサメの光が、その杭へ触れる。

 シグレの手が震えた。

 シオンの痛みが、直接流れ込んでくる。

 叫びそうになる。

 だが、叫んだのはシオンではなかった。

 邪柩の奥で、闇の子が叫んだ。

『いや』
『シオンを返せ』
『楔を外すな』
『外せ』
『痛い』
『離せ』
『帰せ』
『ヌル』
『シオン』
『わたしを、わたしに戻せ』

 矛盾した声だった。

 返せと言い、外すなと言い、外せと言う。

 闇の子自身も、自分が何を望んでいるのか完全にはわかっていないのだ。

 シオンがいなければ封印は緩む。

 だが、シオンの痛みは闇の子にも流れ込んでいた。

 シオンを求める。
 シオンを憎む。
 シオンを離したい。
 シオンを返してほしい。

 それらが同時に存在している。

 シグレは、闇の子の声へ向けて言った。

「シオンは返す」

『返せ』

「でも、君が飲み込むんじゃない」

『ヌルを返せ』

「ヌルも返さない」

『ひとつに』

「今は戻れない」

 闇の子の黒い光が、邪柩の奥で膨れ上がる。

 シグレの身体が押される。

 ムラサメの刃が軋む。

 門の外から、闘神ヌルの光が差し込んだ。

 白い光が、邪柩の外側を包む。

 焼く光ではない。

 支える光。

『シグレ』

 ヌルの声が届く。

『外枠は持たせる。長くは無理だけどね』

「十分」

『人の子の十分は信用できないなぁ』

「女帝様の十分も怖いよ」

『言うね』

 ヌルの光が、さらに強くなる。

 タルタロスの黒い空に、ヨムルンガルド結界の蛇紋が浮かび上がった。

 帝都全域を覆う蛇の結界。

 これまで、死都東京と裁きの門とタルタロスを封じるため、外から押さえつける檻として働いてきたもの。その結界線が、タルタロス最深部にまで細く伸び、邪柩へ絡んでいく。

 シオン一人に集中していた封印負荷が、少しずつ外へ流れ始めた。

 ホウジュ区の地脈へ。
 カミハラ区の研究塔群へ。
 湾岸区の防潮魔導壁へ。
 アツギ中枢区の夢殿へ。
 魔導炉の出力線へ。
 ヴァルハラ宮殿の戦闘管制へ。
 女帝信仰の聖像へ。
 そして、帝都全域を巡るヨムルンガルド結界へ。

 都市が、封印を分け合い始めた。

 旧構造は、ひとりの少女の魂を中心楔としていた。

 シオン一人が、邪柩とタルタロス封印の中心に縫い止められていた。

 その周囲に、ヌルの光があり、夢殿があり、魔導炉があり、結界があった。

 だが中心には、いつもシオンがいた。

 彼女の痛みが、帝都の繁栄を支えていた。

 新しい構造は違う。

 ヨムルンガルド結界が、負荷を都市全体へ分散する。
 魔導炉が、その維持出力を担う。
 夢殿とヌル本体が、外枠を支える。
 アリスが、シオンの存在記録と封印履歴を保持する。
 シグレのノイン残響が、裁きの門の座標暴走を抑える一時鍵になる。
 闇の子の思念は、完全遮断ではなく、深層観測対象として固定される。
 ワルキューレは、ノインの欠番をなかったことにするのではなく、秘匿記録として保存し直す。

 誰か一人に、すべてを押しつけない。

 それは完全ではない。

 危うい。

 継ぎ接ぎで、無茶で、帝都という都市全体に新しい傷をつける。

 だが、もうシオン一人だけが痛む形ではなかった。

 夢殿深層。

 ズィーベンは観測盤の前で、その変化を見ていた。

「封印負荷、移行開始。中心楔依存率、低下。ヨムルンガルド結界、都市分散型へ位相転換。魔導炉、維持出力を自動補正。アリス記録核、シオン存在記録保持。シグレ残響座標、裁きの門暴走抑制へ接続」

 彼女の背後で、ワルキューレの秘匿記録庫が開いた。

 消されていた第九位の空白に、文字が戻っていく。

《ワルキューレ第九位》
《コードネーム:ノイン》
《本名:シオン》
《状態:人柱》
《状態更新:解除処理中》
《記録削除指定:解除不可》
《秘匿保存:最上位》

 ズィーベンは、しばらくそれを見つめた。

 そして、低く言った。

「ノイン」

 その声には、祈りではなく、記録者の責任があった。

「戻しました」

 タルタロス最深部で、シオンの胸に刺さっていた黒い杭が震えた。

 セーフィエルの術式が杭の根元へ絡む。

 アリスの記録回路が、杭に刻まれていた封印履歴を吸い上げる。

 ヌルの光が、杭を抜いた後に崩れないよう邪柩を支える。

 シグレのムラサメが、杭とシオンの魂の境目をなぞる。

 シオンが息を吸った。

 それは、何十年、あるいは何百年ぶりの呼吸のように見えた。

「……痛い」

 シオンが呟いた。

 セーフィエルの顔が歪む。

「シオン」

「痛い、って……言える」

 シオンは、泣きながら笑った。

「痛かったんだ、わたし」

 その言葉が、場にいる全員の胸を裂いた。

 痛みはずっとあった。

 だが、長すぎる封印の中で、彼女は痛いとさえ言えなくなっていた。

 楔は痛みを訴えない。
 人柱は泣かない。
 記録から消された者に、声はない。

 でも今、シオンは痛いと言った。

 それは苦しみであり、同時に人間へ戻る最後の証だった。

 シグレは、ムラサメを押し込む。

「行くよ」

 シオンは頷いた。

「うん」

 セーフィエルが叫ぶように言う。

「シオン、怖かったら言いなさい!」

 シオンは、母を見る。

「怖い」

「うん」

「でも、大丈夫」

「大丈夫じゃない時に大丈夫って言うところ、母さんは嫌いよ」

「母さんに似たの」

「本当に、嫌な子」

「ごめんね」

「謝らないで」

 セーフィエルは泣きながら、血の術式を強めた。

「母さんが、ちゃんと聞いているから」

 シオンは、目を閉じた。

「うん」

 ムラサメの光が、黒い杭の根元をほどいた。

 杭が抜ける。

 音はなかった。

 代わりに、タルタロス全体が深く息を吐いた。

 シオンの胸に刺さっていた黒い杭は、外へ抜ける途中で形を変えていく。黒い影がほどけ、内側から白い光が滲み、最後には小さな光の粒になった。

 それは消滅ではなかった。

 変換だった。

 シオン一人を貫いていた負荷が、記録と結界と都市の循環へ散っていく。

 邪柩に巻きついていた白い鎖が、一本、また一本とほどける。

 鎖は砕けない。

 消えない。

 それぞれが細い光の糸になり、ヨムルンガルド結界へ、魔導炉へ、夢殿へ、アリスの記録回路へ、シグレのムラサメへ、ヌルの眠りの座へと分かれていく。

 封印は残る。

 タルタロスは閉じられる。

 闇の子は完全には解放されない。

 だが、シオンはもう、中心に刺された楔ではない。

 シオンの身体が軽くなった。

 鎖がほどけるたび、彼女の輪郭が淡くなる。

 セーフィエルが息を呑む。

「シオン……?」

 シオンは、母を見る。

「大丈夫」

「大丈夫じゃないでしょう」

「うん」

 シオンは笑った。

「でも、もう痛いだけじゃない」

 彼女の身体は、光にほどけ始めていた。

 肉体ではない。

 魂の輪郭が、長い痛みから外れていく。

 セーフィエルは手を伸ばした。

 やはり、触れられない。

 けれど、さっきより近かった。

 指先に、ほんの少しだけ温度のようなものが触れた。

 セーフィエルの目が見開かれる。

「シオン」

「母さん」

 シオンは、シグレへ向き直った。

 その姿はもう、ワルキューレの少女ではなく、白い花びらでできた光のようだった。

「ありがとう」

 シグレは、ムラサメを下ろせなかった。

 下ろせば、今にも崩れそうだったからだ。

「まだ終わってないよ」

「うん。でも、言わせて」

 シオンは微笑んだ。

「ありがとう。わたしの代わりにならないでくれて」

 シグレの胸が詰まった。

 自分が何かをしてあげたとは思えなかった。

 むしろ、ずっと彼女の痛みに引っ張られ、セーフィエルに責められ、ヌルの合理性に揺らぎ、アリスに支えられ、マナに怒られながら、ここまで来ただけだった。

 それでも、シオンは礼を言った。

 代わりにならないでくれて、と。

 シグレは、少しだけ笑った。

 疲れた、眠たげな、いつもの笑いだった。

「うん。君も、もうボクの中で眠らなくていいよ」

 シオンの目が、ゆっくりと細められる。

「うん」

 その一言で、シグレの中のノインの残響が静かになった。

 消えたわけではない。

 シオンの痛みも、剣筋も、記憶の断片も、完全にはなくならない。

 だが、それはもう彼を上書きしようとはしなかった。

 残響は、残響としてそこにある。

 シグレの中に、シオンの存在が記憶として残る。

 それだけになった。

 シオンは、セーフィエルへ向き直った。

 セーフィエルは立っていられなかった。

 膝をつき、手を伸ばし、泣き続けている。

 魔女としての顔はもうない。

 母親の顔だけがあった。

「シオン」

「母さん」

「嫌よ」

 セーフィエルは、首を振った。

「やっぱり嫌。わかっていても、嫌。あなたを眠らせるなんて、母さんは嫌よ」

「うん」

「帰ってきて」

「うん」

「帰ってきてよ」

 シオンの顔が歪む。

 それでも、彼女は笑った。

「帰りたかった」

「なら」

「でも、母さん」

 シオンは、首を横に振る。

「来てくれたから、もう帰らなくても大丈夫」

 セーフィエルは、声を失った。

 シオンは、ほんの少しだけ手を伸ばした。

 触れられない手。

 でも、セーフィエルはその手に自分の手を重ねた。

 何も触れない。

 それでも、そうしたかった。

「母さん。おやすみ」

 セーフィエルは、顔をぐしゃぐしゃにして泣いた。

 長い長い間、言えなかった言葉が、喉の奥で何度も引っかかる。

 娘を眠らせる言葉。

 それを言えば、本当に終わってしまう気がした。

 でも、シオンは待っている。

 痛みから解放され、ようやく眠ろうとしている娘が、母の言葉を待っている。

 セーフィエルは、震える息を吸った。

 そして、言った。

「おやすみ、シオン」

 シオンは、微笑んだ。

 白い光が広がる。

 彼女の姿が、花びらのようにほどけていく。

 完全に消えるのではない。

 砕けるのでもない。

 燃えるのでも、闇に呑まれるのでもない。

 長く長く張り詰めていた魂が、ようやく力を抜き、眠りへ落ちていくようだった。

 アリスの記録回路が、その光を受け止める。

《シオン》
《状態:人柱解除》
《状態:魂眠移行》
《苦痛継続:終了》
《存在記録:保持》
《消去禁止》

 アリスの瞳から、また光の涙がこぼれた。

「記録……しました」

 マナが彼女を抱きしめる。

「うん。もういい。もう、少し休んで」

「まだ……保持処理が」

「休んでって言ってるの!」

「……努力します」

 門の外から、ヌルの光が静かに揺れた。

 夢殿の眠りの座で、ヌル本体の指先がかすかに動く。

 ヴァルハラ宮殿の女帝義体は、遠い空を見上げるように目を細めた。

『ノイン』

 ヌルの声が、タルタロスへ落ちる。

 軽くはなかった。

 戯れでも、命令でもなかった。

『長い役目だったね』

 シオンの光が、最後に一度だけ揺れた。

 それが返事だったのかどうかは、誰にもわからない。

 闇の子が、邪柩の奥で低く呻いた。

『シオン』
『いない』
『痛み』
『軽い』
『でも』
『まだ』
『ここに』

 シグレは、闇の子へ言った。

「うん。君はまだそこにいる」

『消すのか』

「消さない」

『閉じるのか』

「閉じる」

『聞くのか』

「聞く」

 闇の子は、しばらく黙った。

 その沈黙は、初めて聞く沈黙だった。

 怒りだけではない。

 痛みだけでもない。

 考えているような沈黙。

 自分が完全には解放されないことを理解しきれず、それでも、完全に消されるわけではないことを、どこかで感じている沈黙。

 邪柩の表面に、新しい封印式が刻まれていく。

 白でも黒でもない。

 青白いムラサメの光。
 アリスの記録の光。
 ヌルの外枠の光。
 セーフィエルの血の赤。
 ヨムルンガルド結界の蛇紋。
 そして、シオンの眠りの光。

 それらが混ざり、旧い邪柩の上に、新しい封印構造を編んでいく。

 シグレは、ようやくムラサメを少しだけ下ろした。

 腕が震えていた。

 膝も限界だった。

 それでも、まだ倒れない。

 終わっていないからだ。

 シオンは眠った。

 人柱ではなく。

 楔ではなく。

 欠番ではなく。

 娘として、少女として、シオンとして。

 苦痛から解放された魂として、眠りについた。

 セーフィエルは、その場に崩れ落ちた。

 声もなく泣いている。

 マナはアリスを抱えている。

 アリスは記録回路を開いたまま、かすかに震えている。

 ヌルの光は、まだ外枠を支えている。

 闇の子は、まだ邪柩の奥にいる。

 帝都エデンは、まだ夜の中にある。

 それでも、シオンの苦痛は終わった。

 邪柩の周囲に、白い花びらのような光が舞っていた。

 その光は、タルタロスにはありえないほど静かで、優しかった。

 シグレはそれを見て、小さく呟いた。

「おやすみ、シオン」

 返事はなかった。

 けれど、光は一度だけ、穏やかに瞬いた。

第八場 アリスの機能停止

 シオンの光が、タルタロスの底に舞っていた。

 白い花びらのような光。

 それは、燃え尽きた灰ではなかった。砕けた魂の破片でもなかった。長い長い痛みから解放されたものが、ようやく眠りへ向かう時に残す、静かな余韻だった。

 邪柩に巻きついていた鎖は、もう以前の形ではない。

 白い鎖はほどけ、細い光の糸となり、ヨムルンガルド結界へ、魔導炉へ、夢殿へ、ヌル本体の眠りの座へ、シグレのムラサメへ、そしてアリスの記録回路へ分かれていった。

 闇の子の声も、少しだけ遠くなっている。

 完全に消えたわけではない。

『ここに……いる』
『まだ……いる』
『ヌル……』
『シオン……』
『聞こえる……』

 その声は、まだタルタロスの奥にあった。
 だが、帝都全域へ黒い光となって溢れようとする勢いは薄れていた。
 暴風のようだった思念は、深い井戸の底から響く声へ変わりつつある。

 閉じ込める。

 だが、なかったことにはしない。

 その新しい封印構造が、少しずつ形を取り始めていた。

 シグレは、ムラサメを握ったまま膝をついた。

「……っ、は」

 呼吸がうまくできない。

 身体中が重い。骨の内側にタルタロスの砂を詰め込まれたようだった。ノインの残響は静かになったが、シオンの痛みの記憶はまだ胸の奥で熱を持っている。

 それでも、先ほどまでとは違う。

 引きずり込まれるような痛みではない。

 自分を上書きしようとする痛みでもない。

 誰かがそこにいたことを知ってしまった痛みだった。

 シグレは、シオンが消えた場所を見る。

 白い光が一枚、彼の頬に触れた気がした。

「……おやすみ」

 小さく呟く。

 返事はない。

 けれど、それでよかった。

 眠る者に、返事を求めるものではない。

 少し離れた場所で、セーフィエルが崩れ落ちていた。

 彼女は両手を胸に抱き、ただ泣いていた。魔女の仮面も、反逆者の意地も、設計者としての冷たい知性も、今は何も残っていない。娘を眠らせた母親だけが、タルタロスの底で声もなく泣いている。

 マナはアリスを抱えていた。

 最初、マナはシオンの光を見ていた。

 泣きそうな顔で、しかし唇を噛んで、セーフィエルを見て、シグレを見て、そしてようやく胸の中のアリスへ視線を落とした。

 その瞬間、マナの顔色が変わった。

「アリス?」

 アリスの身体が、軽すぎた。

 機械人形である彼女は、人間の少女よりもわずかに重い。内部骨格、魔導核、記録回路、補助駆動系。抱えれば、そこには確かに人工の重みがある。

 だが今、マナの腕の中のアリスは、まるで中身の熱が抜けた人形のようだった。

 胸元の円環は消えていない。

 むしろ、封印再構成前よりもはっきり残っている。

 ただし、もう光の紋章ではなかった。

 肌の上に薄く刻まれた傷跡のように、円環が残っている。蛇が自分の尾を噛む形。ヨムルンガルド結界の符号。シオン存在記録の保持印。闇の子深層観測の識別痕。

 薄く、青白く、痛々しい。

 アリスの瞳は開いていた。

 だが、焦点が合っていない。

「アリス」

 マナの声が震える。

 返事がない。

「アリス、返事して」

 アリスの唇が、少しだけ動いた。

 だが、音は出なかった。

 マナは短杖を放り出し、両手でアリスの頬を包んだ。

「アリス! 返事して!」

 タルタロスの底で、その声だけがやけに人間らしく響いた。

 シグレが顔を上げる。

「アリスちゃん……?」

 セーフィエルも、涙に濡れた顔を上げた。

 アリスの胸元の円環が、微かに点滅する。

 一度。

 二度。

 不規則に。

 まるで、遠い場所から途切れかけた信号を返しているようだった。

「アリス!」

 マナがさらに強く呼ぶ。

 その声に応えるように、アリスの瞳の奥で、薄い光が戻った。

 けれど、戻り方がおかしい。

 普段のアリスの光は静かで、安定していた。無垢で、礼儀正しく、少し不器用な少女の光だった。

 今の光は、深すぎた。

 その奥に、膨大な記録が積み重なっている。

 シオンの名。
 ノインの欠番。
 セーフィエルの涙。
 ヌルの承認。
 夢殿の隠蔽。
 タルタロス封印履歴。
 闇の子の声。
 帝都全域の結界負荷。
 ヨムルンガルドの新構造。
 シグレの宣言。

 それらが、アリスの通常人格領域のすぐそばまで押し寄せていた。

 マナには、魔導士としてそれがわかった。

 わかってしまった。

 アリスは、封印の部品にはならなかった。
 人柱にもならなかった。
 楔として眠ることも拒んだ。

 けれど、記録者として開いた回路は、あまりにも大きなものを受け取ってしまった。

 少女型機械人形の小さな人格領域に、帝都エデンの罪が流れ込んでいる。

「いや……」

 マナの声が、掠れた。

「駄目。そんなの駄目。アリス、戻って。戻ってきなさい。あなた、約束したでしょ」

 アリスの目が、ほんの少しだけ動く。

 マナを見ようとしている。

 でも、焦点が遅れる。

 声も遅れる。

「マナ……様……」

 マナの表情が歪んだ。

「そう、私。マナ。わかる? わかるわよね? アリス、返事して」

「記録……保持……しました……」

 その声は、いつものアリスの声だった。

 けれど、遠い。

 深い水の底から、薄い通信線を通じて届いているような声だった。

「シオン……存在記録……保持……ノイン……封印履歴……保存……闇の子……深層観測対象……固定……ヨムルンガルド……都市分散型……」

「そんなことより、あなたは!」

 マナが叫んだ。

 アリスの頬に涙が落ちる。

「記録なんて後でいい! シオンのことも、封印のことも、闇の子のことも、全部後でいい! あなたは? アリスはどこにいるの!?」

 アリスの唇が止まる。

 胸元の円環が、弱く光る。

 青白い傷跡のような紋様が、一瞬だけ白くなる。

「私は……」

 マナが息を止める。

 シグレも、セーフィエルも、聞いていた。

 門の外から届くヌルの光も、ほんの少しだけ揺れた。

 アリスは、長い長い処理時間を挟んで、言った。

「私は……アリス……です……」

 マナは、アリスを抱きしめた。

 強く。

 強すぎるほどに。

「そうよ」

 声が震えていた。

「そう。あなたはアリス。アリスよ。誰かの代わりじゃない。封印の部品じゃない。記録装置だけでもない。あなたはアリス。私の」

 そこまで言って、マナは言葉に詰まった。

 保護対象。
 相棒。
 妹のような子。
 友達。
 家族。

 どの言葉も合っているようで、足りない。

 マナは、泣きながら笑った。

「私の、大事なアリスよ」

 アリスの瞳が、わずかに細められる。

 微笑もうとしたのかもしれない。

 だが、その表情は最後まで形にならなかった。

 彼女の身体から、力が抜けていく。

 マナが慌てて支える。

「アリス? アリス!」

「通常……人格領域……保護のため……機能……低下……処理へ……移行……」

「移行しないで!」

「記録核……保持優先……魔導核……低出力……維持……」

「勝手に決めないで!」

「マナ様……」

「何!?」

「怒って……いますか……」

「怒ってるわよ!」

 マナは涙でぐしゃぐしゃになりながら叫んだ。

「当たり前でしょ! 怒ってる! すごく怒ってる! あなたが自分で選んだことだってわかってる。わかってるけど、怒ってる! 怖かった! 今も怖い! あなたが戻ってこなかったら、私はどうすればいいのよ!」

 アリスは、少しだけ瞬きした。

 処理が遅れている。

 それでも、彼女は言葉を探していた。

「申し訳……ありません……」

「謝らないで!」

「はい……」

「でも、戻ってきたら説教するから!」

「説教……記録……しました……」

「記録しなくていいの!」

 シグレは、二人を見ながら立ち上がろうとした。

 だが、身体が言うことを聞かなかった。片膝をついたまま、ムラサメを杖のようにして、どうにか倒れずにいる。

「アリスちゃん」

 アリスの目が、わずかにシグレへ向く。

 遅れている。

 けれど、届いている。

「シグレ……」

「うん」

「シグレは……シグレ……です……」

 シグレは、喉の奥が詰まった。

「うん。アリスちゃんも、アリスだよ」

「はい……記録……済み……」

 その言い方が、あまりにもアリスらしくて、シグレは笑いそうになった。

 けれど、笑えなかった。

 セーフィエルが、ゆっくりと近づいた。

 マナが反射的にアリスを抱える腕に力を込める。

「触らないで」

 セーフィエルは、足を止めた。

 その顔は、先ほどまでシオンを眠らせた母親の顔のままだった。涙は乾いていない。けれど、そこに別の痛みが加わっている。

 アリスを作った者としての痛み。

 アリスを、何かのために作った者の痛み。

 そして、アリスが自分の設計を超えて、自分自身として選んだことへの痛み。

「触れないわ」

 セーフィエルは言った。

「今のあの子に触れる資格は、私にはない」

 マナは、何も言わない。

 セーフィエルは、アリスを見つめる。

「アリス」

 アリスの瞳が、わずかに動く。

「セーフィ……エル……」

「あなたは、失敗作じゃない」

 セーフィエルの声が震えた。

「誰かの再現でも、代用品でも、私の未練の器でもない」

 マナが息を呑む。

 セーフィエルは、続けた。

「あなたは、私が作ったものよりも、ずっと遠くへ行った」

 アリスの円環が、微かに光る。

「評価……記録……」

「記録しなくていいわ」

 セーフィエルは、涙を拭わずに笑った。

「いえ、あなたは記録するのよね」

「はい……」

「なら、記録して。セーフィエルは、アリスをアリスとして認識した」

 アリスの唇が、少しだけ動く。

「記録……しました……」

 その言葉の後、アリスの目の光がまた弱くなった。

 マナが叫ぶ。

「アリス!」

 胸元の円環が、最後に一度だけ大きく光った。

 そこに刻まれた蛇の紋様が、肌の奥へ沈んでいく。

 消えるのではない。

 薄い傷跡のように残る。

 触れれば痛むかもしれない。

 ふとした時に光るかもしれない。

 帝都の封印が揺らげば、また熱を持つかもしれない。

 でも、それはアリスが誰かの楔になった証ではない。

 彼女が自分の意思で記録者になった証だった。

「アリス、寝ないで」

 マナが言う。

「まだ駄目。ここで寝ちゃ駄目。あなた、約束したでしょ。戻ってくるって」

 アリスの瞼がゆっくり下がる。

 マナが必死に頬を叩こうとして、できなかった。

 壊れそうで、触れられなかった。

「約束したでしょ……戻ってくるって……」

 声が、泣き声になった。

 アリスの唇が、最後に微かに動いた。

「約束……記録済み……」

 それは、かろうじて聞こえる声だった。

 けれど、確かにアリスの声だった。

「マナ様……」

「いる。ここにいる」

「戻り……ます……」

「絶対よ」

「はい……」

 アリスの目が閉じた。

 マナの呼吸が止まる。

 次の瞬間、アリスの魔導核が、胸の奥でかすかに光った。

 弱い。

 とても弱い。

 けれど、消えていない。

 完全停止ではない。

 低出力状態。
 人格領域保護。
 記録核保持。
 機能低下。

 彼女は眠っている。

 あるいは、深い深い処理の底へ潜っている。

 マナは、アリスを抱きしめたまま、膝をついた。

「馬鹿……」

 声が震える。

「本当に、馬鹿。私に似なくていいところばっかり似て……」

 シグレが、小さく言った。

「マナちゃん」

「何」

「アリスちゃん、戻るって言ったよ」

「言った」

「じゃあ、怒る準備して待ってよう」

 マナは、シグレを睨んだ。

 涙でぐしゃぐしゃの顔だった。

「あなたも怒る対象だからね」

「ボクも?」

「当たり前でしょ! 全員よ! シオンも、セーフィエルも、ヌルも、あなたも、アリスも! 何でみんな、自分を削る方向へ進むのよ!」

「うーん」

 シグレは、返す言葉を探して、見つからなかった。

「ついてないねぇ」

「それで済ませるな!」

 マナの怒鳴り声が、タルタロスの底に響いた。

 その声に、ほんの少しだけ現実味が戻る。

 セーフィエルは、アリスを見ていた。

「……アリス零式」

 彼女が、ほとんど声にならないほど小さく呟いた。

 マナが反応する。

「何それ」

「深層機能の名称。私が、いずれ必要になるかもしれないと、封じていた領域」

「まだ何か仕込んでるの!?」

「仕込んだのは昔の私よ。今の私なら、もっと慎重に……いえ、言い訳ね」

 セーフィエルは首を振った。

「アリスは、通常の状態では戻らないかもしれない」

 マナの顔が凍る。

「どういう意味」

「記録核が開きすぎた。封印履歴とシオン存在記録、闇の子深層観測の一部まで保持している。元の人格領域をそのまま起動すれば、記録圧に押し潰される可能性がある」

「じゃあ、どうすればいいの」

「再構築が必要になる」

「再構築?」

「でも」

 セーフィエルは、アリスの閉じた瞳を見た。

「それを決めるのは、私ではない」

 マナは、アリスを抱く腕に力を込めた。

「当たり前よ」

「ええ」

「この子は、アリスよ。あなたの実験でも、封印の端末でもない」

「わかっているわ」

「わかってなかったら、ここで殴ってる」

「今は殴らないのね」

「アリスを抱えてるからよ」

 セーフィエルは、少しだけ笑った。

 疲れた、悲しい笑みだった。

「そう」

 門の外から、ヌルの声が落ちてきた。

『アリス記録核、低出力で維持確認。完全停止ではない』

 マナが顔を上げる。

「本当?」

『嘘をつく理由がないよ』

「女帝様は、理由がなくても嘘をつきそう」

『ひどい評価だね』

「今は信用しきれないの!」

『正しい』

 ヌルの声は、珍しく怒らなかった。

『彼女は生きている。機械人形にその言葉を使うのが適切かどうかは、ゼクスなら議論するだろうけど』

 マナが即座に言う。

「生きてる」

『そう。なら、そういうことにしておこう』

 アリスの魔導核が、もう一度だけ微かに光った。

 マナは、それを胸に抱きしめる。

「聞いた? アリス。女帝様まで認めたわよ。あなた、生きてるって」

 返事はない。

 けれど、光は消えない。

 シグレは、ようやく立ち上がった。

 身体は限界だった。

 だが、まだ倒れるわけにはいかない。

 シオンは眠った。
 アリスは深い処理の底へ落ちた。
 封印再構成は完了しつつある。
 だが、裁きの門はまだ閉じていない。
 闇の子はまだタルタロスの奥にいる。
 帝都エデンはまだ夜の中にある。

 それでも、ひとつだけ確かなことがあった。

 アリスは消えていない。

 誰かの犠牲として消費されたのではない。

 彼女は自分で選び、記録し、約束を残して眠った。

 それは、人柱とは違う。

 楔とは違う。

 次へ続く眠りだった。

 マナは、アリスを抱きしめたまま、震える声で言った。

「戻ってきたら、まず説教。次に休息。次にご飯。次に検査。次にまた説教」

 シグレが小さく笑う。

「説教多くない?」

「足りないくらいよ」

 セーフィエルが静かに言う。

「その時は、私も呼びなさい」

 マナが睨む。

「あなたも説教される側よ」

「でしょうね」

「長いわよ」

「長い説教は嫌いではないわ。相手が生きている証拠だから」

 マナは、何も言えなくなった。

 アリスの魔導核が、胸の奥で淡く光っている。

 タルタロスの底に、静かな光がひとつ残った。

 それは、シオンの眠りを記録し、闇の子の声を深層に留め、帝都エデンの罪を消さずに保持するための光。

 そして、マナが待ち続けるための光だった。

 アリスは眠っている。

 だが、約束は記録済みだった。

第九場 ヌルの選択

 帝都エデンの空で、黒い亀裂が閉じかけていた。

 完全に閉じたわけではない。

 死都東京方面の夜空には、まだ裂け目が残っている。そこから漏れるタルタロスの臭いは薄くなったが、消えてはいない。硫酸の海の泡立つ気配も、溶岩の熱も、凍土の冷気も、遠い死者の声も、まだ細い糸のように帝都の夜へ絡みついていた。

 だが、さっきまでとは違う。

 闇の子の思念は、もう帝都全域へ黒い光となって広がってはいなかった。

 ホウジュ区の空中歩道の下に重なっていた旧東京の線路は薄れている。
 カミハラ区の研究塔群の窓に映っていた硫酸の海は、黒い残光を残して消えつつある。
 湾岸区の防潮魔導壁に打ちつけていたタルタロスの黒潮は押し戻され、壁の表面に焦げた蛇紋だけが残った。
 アツギ中枢区の夢殿前広場では、信徒たちがまだ祈っている。けれど、その祈りは先ほどまでの恐慌ではなく、震えながら夜明けを待つ呼吸に変わりつつあった。

 帝都は、まだ落ちていない。

 そして、闘神ヌルは空にいた。

 巨大な光輪は、なお回転している。
 翼状兵装は展開されたまま、帝都上空を覆っている。
 魔導炉直結の光撃は、いつでも放てる状態にあった。

 白と金の破壊神。

 帝都の守護者。

 帝都を壊しかけた者を、帝都ごと焼き払える女帝。

 その瞳は、死都東京方面の亀裂の奥を見ていた。

 闇の子の現世接続核。

 封印再構成によって深層へ押し戻されつつあるそれは、いま、最も不安定な状態にあった。

 外へ出ようとしているわけではない。
 完全に封じられたわけでもない。
 深層へ落ちる途中で、まだ現世との接点を残している。

 そこを撃てば、焼ける。

 完全には滅ぼせないかもしれない。

 それでも、接続核を焼き潰せば、当面の脅威は消える。闇の子の声は再び遠くなり、帝都の市民がそれを聞くことはなくなる。D∴C∴の残党が利用する断片も減る。夢殿は記録を整理し、フィーアは発表を整え、ワルキューレは新たな封印体制を管理できる。

 合理的には、それが最も安全だった。

 夢殿最深部。

 眠りの座の周囲で、警告灯が赤から琥珀へ変わっていた。

 危機は去っていない。
 ただ、即時崩壊からは遠のいた。

 ヌル本体は、まだ眠っている。

 白い花のような装置の中心で、少女の姿をした神が静かに横たわっている。閉じた瞼は動かず、髪は光の水に浮かぶように揺れ、胸元にはまだ黒い筋が薄く残っていた。

 闘神義体の連続使用による反動。

 闇の子へ直接干渉した反動。

 封印再構成を支えた反動。

 ヌルは帝都の空で戦っている。
 だが、同時に夢殿の底で傷ついている。

 ズィーベンは眠りの座のそばに立っていた。

 彼女の表情は静かだった。だが、静かすぎた。長く女帝に仕えてきた者だけが知る緊張が、その肩にあった。

 観測盤には、複数の表示が並んでいる。

《闇の子現世接続核:深層移行中》
《邪柩封印再構成:暫定安定》
《シオン=ノイン人柱状態:解除》
《アリス記録核:低出力保持》
《シグレ残響座標:門暴走抑制中》
《ヨムルンガルド結界:都市分散型へ暫定移行》
《闘神義体:高負荷継続》
《ヌル本体:反動蓄積》

 ズィーベンは、戦闘管制回線へ接続した。

「陛下」

 帝都上空の闘神ヌルが、微かに目を細める。

『何?』

「闇の子の現世接続核が、深層移行中です」

『見えてる』

「今なら、焼けます」

 その言葉は、夢殿の空気を凍らせた。

 技術官たちも、ワルキューレの補助端末も、一瞬だけ沈黙する。

 ズィーベンは続けた。

「陛下。今なら、闇の子の現世接続核を焼けます」

 帝都上空で、闘神ヌルの光輪がゆっくりと回転を止めかけた。

 止まったのではない。

 照準のために、速度を落としたのだ。

 翼状兵装の先端が、死都東京方面の亀裂へ向く。

 白い光が集まる。

 それは、先ほどまで漏出体を焼いていた光とは違った。

 都市防衛用の光撃ではない。

 封印深層へ突き刺すための、神格戦用の光。

 撃てば、闇の子の現世接続は断たれる。

 少なくとも、今夜の帝都は救われる。

 ズィーベンは、眠りの座のヌル本体を見た。

「ただし、本体への反動は避けられません。闇の子本体を損壊させるほどの攻撃ではありませんが、根源同期に逆流する可能性があります」

『知ってる』

「シグレたちが構築した新封印にも負荷が戻ります。アリス記録核は、再度の高圧干渉に耐えられない恐れがあります」

『それも知ってる』

「それでも、帝都の当面の安全は確保できます」

『だから言っているんでしょう、ズィーベン』

 ヌルの声は、静かだった。

 怒っていない。

 苛立ってもいない。

 ただ、女帝として判断する声だった。

 ズィーベンは目を伏せる。

「はい」

 闘神ヌルは、空の亀裂を見た。

 黒い接続核が、深い水の中へ沈むように揺れている。

 その向こうに、闇の子がいる。

 かつて一つだったもの。
 切り離された半身。
 殺せず、封じるしかなかった闇。
 シオンを楔にしてでも眠らせ続けた存在。

 闇の子の声が、微かに届いた。

『ヌル……』

 ヌルは答えない。

『まだ……聞こえる』
『まだ……ここに』
『シオン……眠る』
『わたしは……』

 声は、もう帝都全域には響いていない。

 深層へ落ちている。

 それでも、ヌルには聞こえる。

 聞こえてしまう。

 半身だからだ。

 闘神ヌルは、白い手を上げた。

 光が集まる。

 撃てる。

 焼ける。

 合理的には、撃つべきだった。

 焼けば、当面の脅威は消える。
 市民は朝を迎えられる。
 フィーアは発表文を整えられる。
 夢殿は隠蔽と修正を進められる。
 ワルキューレは封印監視へ戻れる。
 帝都エデンは、女帝の都市として続く。

 だが。

 その先には、また同じ構造がある。

 危険なものを押し込める。
 声を遮断する。
 痛みを見えない場所へ送る。
 記録を秘匿し、都市を維持する。
 必要なら、誰かを楔にする。

 シオンの次に、誰を。

 シグレの声が、タルタロス境界から届いた。

「女帝様」

 疲れ切った声だった。

 だが、まだ軽さが残っている。

 それが妙に腹立たしい。

 こんな場面で、まだ彼はホウジュ区の雑貨店店長の声をしている。

「帝都は、君の船だけじゃないよ」

 ヌルは、笑った。

 短く。

 白い光の中で、少女の女帝が口元を歪めた。

「人の子が、アタシの都市を語るんだ」

 声には嘲りがあった。

 だが、完全な嘲りではない。

 どこか、本当に面白がっている響きもある。

「この帝都は、アタシが築いた。死都東京を封じ、魔導炉を回し、夢殿を中枢にして、ヴァルハラの光で守ってきた。人の子たちが瓦礫と恐怖の中で泣いていた時に、形を与えたのはアタシだ」

 シグレは、タルタロス境界の向こうで息を整えている。

 ムラサメの光は細い。
 身体は限界に近い。
 マナはアリスを抱え、セーフィエルはシオンの消えた場所で泣き尽くし、闇の子は深層へ押し戻されている。

 それでも、シグレは答えた。

「うん」

 ヌルの目が細くなる。

 シグレは続けた。

「君が築いた。君が守ってきた。君がいなかったら、死都東京もタルタロスも、とっくに溢れてたかもしれない。それは、わかってる」

「なら」

「でも、住んでるのは君だけじゃない」

 ヌルの光が、わずかに揺れた。

 シグレは、静かに言った。

「帝都は、君がソエルへ帰るための船なんでしょ」

 ヌルは黙る。

 その沈黙が、肯定だった。

「夢殿も、魔導炉も、ヨムルンガルド結界も、ヴァルハラ宮殿も、帝都の全部が、君たちがリンボから帰るための装置。そういう側面があるんだよね」

「よく勉強したね」

「クレハさんとシンがうるさかったから」

「なるほど。人の子の知性も、たまには役に立つ」

「でも」

 シグレは、そこで一度息を吐いた。

 胸が痛い。

 シオンの痛みも、アリスの停止も、闇の子の声も、まだ身体の中に残っている。

 それでも、言わなければならなかった。

「ハルナちゃんは、そこに住んでる」

 ヌルの光輪が、微かに回る速度を落とす。

「マナちゃんも、アリスちゃんも、クレハさんも、シンも、ホウジュ区の人たちも、女帝様の聖像を買いに来た女の子も、湾岸区で壁を支えてる警察の人も、カミハラ区の研究員も、夢殿の前で祈ってる人たちも、みんなそこにいる」

 シグレの声は、少しずつ強くなる。

「帝都が君の船なのは、たぶん本当なんだと思う。でも、同時に、みんなの街なんだよ」

 ヌルは、夜空の下で笑った。

「綺麗事だね」

「そうだね」

「帝都が街であるためには、封印がいる。封印を維持するには、力がいる。力の足りない場所には、楔がいる。人の子は、そういう仕組みを見ないふりして、街だとか明日だとか言う」

「うん」

「だから、アタシみたいな支配者が必要になる」

「それも、わかる」

「わかった上で、まだ言う?」

「言うよ」

 シグレは、疲れた顔で笑った。

「だって住んでるから」

 その一言が、帝都上空に届いた。

 派手な魔導式ではなかった。

 創言のように世界を書き換える強制力もない。

 だが、ヌルには届いた。

 住んでいる。

 それは、ヌルには遠い言葉だった。

 彼女にとって帝都は、築いた都市だった。
 統治する領域だった。
 封印機構だった。
 魔導炉と夢殿とヴァルハラを接続する帰還装置だった。
 リンボからソエルへ戻るための船だった。

 住む場所ではなかった。

 少なくとも、自分にとっては。

 だが、人の子は住む。

 ホウジュ区の小さな雑貨店でお茶を飲む。
 カミハラ区の研究棟で夜更かしをする。
 湾岸区で防潮壁を支える。
 アツギ中枢区で祈る。
 女帝ヌルの聖像を買って、部屋の棚に置く。
 呪われているかもしれない鏡を売る。
 空中歩道で転び、屋台で食べ、学校へ行き、店を開け、叱り、泣き、怒り、朝を待つ。

 それらは、ヌルの計画のための部品ではない。

 そう言い切るほど、ヌルは愚かではない。

 だが、それを都市の中心に置くほど、人間的でもなかった。

 闘神ヌルの掌に集まっていた光が、揺れる。

 撃てる。

 まだ撃てる。

 今なら、闇の子の接続核を焼ける。

 ズィーベンの声が届く。

「陛下」

 夢殿の眠りの座では、ヌル本体の指先がかすかに震えている。

 ズィーベンは、静かに問う。

「ご命令を」

 撃つか。

 収めるか。

 女帝の判断を待っている。

 ヌルは、空の亀裂を見た。

 闇の子が深層へ沈んでいく。

『ヌル……』
『聞こえる……』
『まだ……』
『ここに……』

 声は弱い。

 今撃てば、もう長くは聞こえないだろう。

 少なくとも、市民には。

 ヌルは、少しだけ目を閉じた。

 長い時間、彼女は正しいことをしてきた。

 正しいことは、時に残酷だった。

 残酷でも、必要なら選んだ。

 シオンを楔にしたことも、帝都を封印都市として築いたことも、女帝信仰を利用したことも、死都東京を都市の外へ押し込めたことも、闇の子の声をノイズとして扱ったことも。

 それらは、都市を守るための合理だった。

 そして今、シグレはその合理の隙間に、店の名前を差し込んできた。

 時雨堂。

 ホウジュ区の小さな雑貨店。

 帝都を語るには、あまりにも小さい。

 だが、その小ささが、ヌルの秩序では拾えなかったものだった。

 ヌルは、ゆっくりと目を開けた。

「いいよ」

 光が止まる。

 ズィーベンが息を呑む。

 ヌルは、闘神義体の掌に集めた白い太陽を、ゆっくりと収束させた。

 撃たない。

 焼かない。

 闇の子の接続核を、今は壊さない。

「今回だけ、人の子の答えに乗ってあげる」

 翼状兵装が、攻撃態勢から封印補助態勢へ移行する。

 光輪の回転が変わる。

 白い光は、槍ではなく環になった。

 死都東京方面の亀裂を撃ち抜くのではなく、包み込み、押し戻し、深層へ落ちる流れを支える形へ変わる。

 闇の子の声が、さらに遠くなる。

『ヌル……』
『なぜ……』

 ヌルは答えた。

「気まぐれ」

 その声は、いつもの少女の軽さを取り戻していた。

「それと、あの人の子が失敗したら、後で思い切り馬鹿にできるから」

 シグレが疲れた声で返す。

「それは嫌だなぁ」

「だったら失敗しないことだね」

「もうだいぶ成功寄りだと思いたい」

「思うだけなら自由だよ」

 マナの声が、遠くタルタロス側から飛んでくる。

「女帝様! アリスが寝てるんだから、嫌味は小声で!」

「聞こえているんだ」

「聞こえてます!」

「元気だね、魔導士の子」

「怒ってるんです!」

「それは見ればわかる」

 ヌルは少しだけ笑った。

 だが、その笑みは長く続かなかった。

 彼女は再び帝都の空を見た。

 ホウジュ区。
 カミハラ区。
 湾岸区。
 アツギ中枢区。
 夢殿。
 ヴァルハラ宮殿。
 死都東京。
 裁きの門。
 タルタロス。

 それらを結ぶ光と闇の線が、新しい形で編み直されていく。

 不安定だ。

 危険だ。

 管理には膨大な労力がかかる。

 今までのように、シオン一人を中心楔にする方がずっと簡単だった。

 けれど、もうそれはできない。

 少なくとも、今夜は。

 ヌルは、シグレへ向けて言った。

「でも忘れないで」

 声が変わる。

 軽さが消え、女帝の響きが戻る。

「アタシは帝都の女帝だ。秩序を壊す者がいれば、次は焼く」

 その言葉に、冗談はなかった。

 闇の子であれ、D∴C∴であれ、セーフィエルであれ、シグレであれ、アリスであれ。

 帝都を壊すなら焼く。

 ヌルはそういう存在だ。

 彼女は改心したわけではない。

 人間を対等と認めたわけでもない。

 帝都を完全に人々の街として譲り渡したわけでもない。

 彼女はまだ女帝であり、光の子であり、支配者であり、封印管理者であり、帝都をソエルへ還るための船として見ている。

 ただ今夜、一度だけ、人の子の答えに乗った。

 それだけだった。

 シグレは、タルタロス境界の向こうで疲れた顔のまま笑った。

「次がないように頑張るよ」

「頑張る、で済む話じゃないよ」

「じゃあ、ものすごく頑張る」

「急に頼りなくなったね」

「もともと頼りないよぉ」

「自覚があるなら直しなさい」

「ハルナちゃんみたいなこと言うね」

「誰?」

「ボクの店の、すごく怖い店員さん」

「へえ」

 ヌルは、帝都のどこか小さな雑貨店へ意識を向けた。

 ホウジュ区。

 時雨堂。

 そこでは、眼鏡とツインテールの少女が、避難してきた市民たちに毛布を配りながら、呪われているかもしれない鏡に追加の布をかけている。

 ヌルの小さな聖像には、手書きの護符が貼られていた。

《光りすぎ禁止》

 ヌルは一瞬、何とも言えない顔をした。

「……人の子は、本当に不敬だね」

 シグレが笑う。

「でも、お茶はおいしいよ」

「覚えておく」

「来るの?」

「気が向いたらね」

「ハルナちゃん、たぶん怒るよ」

「女帝に?」

「うん。たぶん、靴を脱いでくださいって言う」

 ヌルは、今度こそ少しだけ笑った。

 その笑みは、神の慈悲ではない。

 ただ、面倒な人の子を面白がる女帝の笑みだった。

 夢殿の眠りの座で、ヌル本体の黒い筋が少しだけ薄くなる。

 ズィーベンは観測盤を見た。

「闇の子接続核、深層固定へ移行。直接焼却、未実行。闘神義体、主攻撃系統を停止。封印補助へ移行」

 彼女は、ほんのわずかに息を吐いた。

「陛下」

『何?』

「ご判断、承りました」

『不満?』

「いいえ」

『嘘が下手だね』

「主に似ました」

『それは不敬』

「失礼いたしました」

 ズィーベンは、わずかに微笑んだ。

 それは誰にも見えないほど小さな変化だった。

 帝都上空で、闘神ヌルは翼を閉じ始める。

 完全には畳まない。

 まだ裁きの門は閉じていない。

 まだタルタロスとの境界は不安定だ。

 だが、破壊の姿から、封印を支える姿へ変わっていく。

 白い光は、死都東京方面の亀裂を包み、闇の子の現世接続を深層へ押し戻す流れを支えた。

 闇の子の声が、遠くなる。

『聞こえる……』
『まだ……』
『ここに……』

 シグレが答える。

「聞こえてるよ」

 ヌルが即座に言う。

「不用意に返事をするな」

「はい」

「今、返事をしたばかりでしょう」

「つい」

「本当に焼くよ」

「次がないように頑張るって言ったばかりだから、勘弁してほしいなぁ」

 ヌルは、呆れたように息を吐いた。

 だが、撃たなかった。

 帝都エデンの空で、女帝ヌルは闇を焼くことを選ばなかった。

 それは救済ではない。
 赦しでもない。
 人類への愛でもない。
 完全な変化でもない。

 ただ、帝都を船としてしか見ていなかった神が、そこに住む者の言葉を一度だけ聞いた。

 その一度が、今夜の帝都を変えた。

 白い光が、黒い亀裂を押し戻す。

 タルタロスの境界が、ゆっくりと閉じていく。

 ヌルは、最後に小さく呟いた。

「シグレ」

「なに?」

「人の子にしては、悪くない答えだったよ」

 シグレは、疲れ切った声で笑った。

「どうも。できれば、次はもう少し簡単な採点にしてほしいなぁ」

「考えておく」

「本当に?」

「考えるだけなら自由だよ」

「女帝様、そういうところだよ」

 ヌルは答えなかった。

 ただ、闘神義体の光を収め、帝都の空に残る黒い亀裂へ背を向けず、最後まで見届けた。

 焼けるものを焼かなかった神の沈黙が、帝都の夜に長く残った。

第十場 裁きの門が閉じる

 裁きの門が、閉じ始めた。

 最初に変わったのは、音だった。

 タルタロス最深部に満ちていた死者の声が、少しずつ遠ざかっていく。硫酸の海が泡立つ音も、溶岩の山が崩れる音も、凍土の亀裂が走る音も、すべてが深い井戸の底へ沈むように薄れていった。

 代わりに、現世の音が戻ってくる。

 遠くで鳴る警報。
 帝都警察の避難誘導。
 湾岸区の防潮魔導壁が低く唸る音。
 夢殿の戦闘管制回線。
 そして、ホウジュ区のどこかで鳴っている、壊れかけた店の呼び鈴のような、かすかな音。

 からん。

 シグレは、その音を聞いた気がした。

 幻聴かもしれない。

 タルタロスの底で、時雨堂の呼び鈴が聞こえるはずがない。

 けれど、聞こえた。

 帰る場所の音だった。

 邪柩の周囲に舞っていた白い光は、だいぶ薄れている。

 シオンの魂が眠りへ移った後も、そこには花びらのような光が残っていた。タルタロスには存在しないはずの静かな光。痛みが終わったことを知らせる、ほんのわずかな温度。

 その光も、裁きの門の閉鎖に合わせて、少しずつ深層へ沈んでいく。

 邪柩はもう、先ほどまでのように暴れていない。

 黒い柩の表面には、新しい封印式が編まれていた。白と黒だけではない。ヨムルンガルド結界の蛇紋、ヌルの外枠光、セーフィエルの血の赤、アリスの記録光、シグレのムラサメの青白い残響が、ぎこちなく、しかし確かに絡み合っている。

 完璧ではない。

 安定しているとも言い切れない。

 だが、シオン一人にすべてを刺し通していた旧い構造では、もうなかった。

 シグレはムラサメを支えに立っていた。

 膝が笑っている。腕は痺れ、指先の感覚は薄い。目を閉じたら、そのまま倒れてしまいそうだった。

 だが、まだ倒れられない。

 アリスは、マナの腕の中で眠っている。

 胸元の円環は、薄い傷跡のように残っていた。魔導核の光は弱いが、消えていない。マナはアリスを抱えたまま、絶対に落とすものかという顔で立っている。

 その顔には涙の跡があった。

 けれど、目には怒りが戻っていた。

 たぶん、アリスが目を覚ましたら、ものすごく長い説教をするのだろう。

 それは、良いことのように思えた。

 セーフィエルは、まだ動かない。

 シオンの消えた場所を見ていた。

 白い花びらのような光が沈んでいく、その中心を。

 彼女は膝をついたまま、手を伸ばしている。

 もう、そこには誰もいない。

 邪柩の中心に、シオンの姿はない。

 鎖もない。
 黒い杭もない。
 白い装束の少女もいない。

 ただ、光の余韻だけがある。

 セーフィエルは、その光から目を離せなかった。

 裁きの門の外縁が、軋む。

 タルタロスの空とも呼べない黒い天井に、白い亀裂が入っている。あれが現世へ戻る道だ。夢殿の外枠光と、ヨムルンガルド結界の蛇紋が重なり、門を閉じるための逆流を作っている。

 門は、シグレたちを押し戻そうとしていた。

 タルタロスは、もう彼らをここに留める必要がない。

 同時に、長居を許す場所でもない。

 足元の黒い鎖の橋が、端から崩れ始める。

 硫酸の海が下で泡立つ。

 遠くから、闇の子の声が微かに響く。

『まだ』
『ここに』
『いる』

 声は遠い。

 だが、消えてはいない。

 シグレは、セーフィエルへ歩み寄った。

 一歩目で膝が崩れそうになり、ムラサメを地面へ突く。

 マナが振り返った。

「シグレ、歩けるの?」

「歩けるよぉ」

「その声は歩けない人の声よ」

「じゃあ、気合で歩く」

「気合でどうにかするの、あなたたち全員やめなさいよ……!」

 マナは叫びながら、アリスを抱える腕を直す。

 自分も限界のはずなのに、アリスを抱いたまま一歩も膝をつかない。

 その方がよほど気合でどうにかしているように見えたが、シグレは言わなかった。今それを言えば、本気で怒られる。

 セーフィエルのそばに着く。

 彼女は気づいていないようだった。

 目は開いている。

 だが、視線はここにない。

 彼女はまだ、あの白い花の庭にいるのかもしれない。

 娘に触れられなかった場所。
 娘の声だけが届いた場所。
 娘から、おやすみと言われた場所。

「セーフィエル」

 シグレは呼んだ。

 返事はない。

「門が閉じるよ」

 セーフィエルの指先が、微かに動く。

 だが、彼女は立ち上がらない。

「……」

 シグレは息を吐いた。

 こういう時、何を言えばいいのか、まったくわからない。

 シオンは眠った。

 救われたのだと思う。

 少なくとも、痛みは終わった。

 けれど、それはセーフィエルにとって、娘を失うことでもあった。

 取り戻すために生きてきた。

 帝都を敵に回しても、夢殿を欺いても、アリスを作っても、裁きの門を開いても、彼女はずっと娘を取り戻すためだけに進んできた。

 その果てに、娘を眠らせることを選んだ。

 正しい。

 たぶん、正しい。

 でも、正しいからといって、すぐ立ち上がれるわけではない。

 シグレは手を伸ばし、セーフィエルの腕を掴んだ。

 その瞬間、セーフィエルが反応した。

「離して」

 声は低く、鋭かった。

 魔女の声だった。

 だが、その奥で、母親が泣いている。

「シオンが」

「シオンは、もうそこにいない」

 シグレは言った。

 セーフィエルの肩が震えた。

 空気が止まる。

 マナが息を呑む。

 シグレ自身も、言ってから胸が痛くなった。

 だが、言わなければならなかった。

 セーフィエルは、ゆっくりと振り向いた。

 その目には、怒りがあった。

 殺意に近いほどの怒り。

 けれど、その奥で、すでに答えを知っている悲しみが崩れていた。

「……知っているわ」

 声が、ひどく小さかった。

「知っている」

 セーフィエルは、自分で繰り返した。

「そこに、もうあの子はいない。邪柩の楔から外れた。人柱ではなくなった。苦痛は終わった。魂は眠りへ移った。全部、わかっている」

 彼女は、シオンの消えた場所を見た。

「でも」

 そこで声が途切れる。

「でも、目を離したら、本当にいなくなる気がするの」

 シグレは、何も言えなかった。

 セーフィエルは笑おうとして、失敗した。

「馬鹿みたいでしょう。さっき自分で、あの子を眠らせる術式に切り替えたのに。私が、あの子を解放したのに。私が、おやすみって言ったのに」

 彼女の頬に、また涙が流れる。

「まだ、帰りましょうって言いたい」

 門が軋む。

 足元の黒い鎖の橋が、さらに崩れる。

 マナが叫ぶ。

「シグレ! 急いで! 橋が落ちる!」

「わかってる」

 シグレはセーフィエルの腕を掴んだまま、少し強く引いた。

 セーフィエルは動かない。

 細い身体なのに、驚くほど重かった。

 立つ意思を失った人間は、こんなにも重いのかとシグレは思った。

「帰ろう」

 シグレは言った。

「君がここで眠ったら、シオンが怒る」

 セーフィエルが、瞬きをした。

「……怒る?」

「うん」

「シオンが?」

「たぶん」

「どうして、あなたにわかるの」

「うーん」

 シグレは少し考えた。

 そして、いつもの調子で言った。

「ボクもよく怒られるから」

 マナが遠くで怒鳴る。

「今ふざける場面じゃない!」

「割と本気なんだけどねぇ」

 シグレはセーフィエルを見る。

「ハルナちゃんに怒られる時って、だいたいボクが勝手に死にかけた時なんだよね」

「……」

「シオンも、きっと怒るよ。母さん、せっかく来てくれたのに、そこで一緒に眠ってどうするの、って」

 セーフィエルの顔が、くしゃりと歪んだ。

「本当に、あの子みたいなことを言うのね」

「ボクはシグレだよ」

 すぐに返した。

 弱い声ではなかった。

 疲れている。

 傷ついている。

 今にも倒れそうだ。

 それでも、その言葉だけはまっすぐだった。

「シオンじゃない。ノインでもない」

 セーフィエルは、シグレを見た。

 タルタロスの闇の中、青白いムラサメの光に照らされた彼の顔を。

 そこに、娘はいない。

 シオンの痛みを知っている。
 ノインの残響を持っている。
 同じ剣筋をなぞった。
 同じ門に呼ばれた。

 それでも、彼はシオンではない。

 ホウジュ区の雑貨店《時雨堂》の店長、シグレ。

 セーフィエルは、ゆっくりと息を吐いた。

「ええ」

 涙で濡れた顔で、彼女は言った。

「知っているわ」

 その一言で、彼女の腕から力が抜けた。

 抵抗が消える。

 シグレは、セーフィエルを引き上げようとした。

 だが、今度はシグレ自身の足がふらつく。

「っ、と」

 マナが即座に叫ぶ。

「もう! どっちが支えられてるのよ!」

「どっちだろうねぇ」

「冗談言ってないで立って!」

「立ってるつもり」

「つもりじゃ駄目!」

 マナはアリスを抱えたまま、短杖を浮かせて補助術式を飛ばした。金色の帯がシグレとセーフィエルの腰を支える。

 セーフィエルが、マナを見る。

「あなたも限界でしょう」

「限界でもやるの!」

「若いわね」

「そういう感想いらない!」

 ほんのわずかに、セーフィエルが笑った。

 疲れ切った、泣き腫らした顔のまま。

「シオンも、よくそうやって怒ったわ」

 マナは一瞬黙り、それから眉を吊り上げた。

「私は私です」

 シグレが思わず笑う。

「いいねぇ、それ」

「あなたのせいで、みんな自己定義が強くなってるんじゃない?」

「それは、いいことだと思うよ」

「状況による!」

 門の閉鎖が加速する。

 白い亀裂が狭まっていく。

 タルタロスの闇が、背後から押し寄せる。黒い鎖の橋が崩れ、硫酸の海が高く波打った。邪柩は深層へ沈み始め、その表面の新しい封印式だけが最後まで光っている。

 闇の子の声が、さらに遠くなる。

『シグレ』

 今度の声は、はっきりしていた。

 ノイズは少ない。

 不思議なほど静かだった。

 シグレは足を止めかけた。

 マナが即座に察知する。

「止まらない!」

「いや、今」

「聞こえたからって止まらない!」

 闇の子は、もう一度呼んだ。

『シグレ』

 その声には、怒りだけではなく、戸惑いがあった。

 痛みだけではなく、確かめるような響きがあった。

『また、聞こえる?』

 シグレは、裁きの門の光へ向かいながら、背後を見た。

 邪柩は深い闇へ沈んでいく。

 そこに闇の子がいる。

 完全には解放されず、完全には消されず、深層観測対象として固定された存在。

 帝都の表側には届かない。
 だが、誰にも聞こえないノイズでもない。

 シグレは、少しだけ笑った。

「たぶんね」

 マナが即座に叫んだ。

「そこで返事しない!」

「いや、だって」

「だってじゃない! 何で毎回、危ない存在に返事するのよ! 闇の子よ!? タルタロスの深層存在よ!? 女帝様の半身よ!? 軽く『たぶんね』じゃない!」

「でも、無視したらかわいそうかなって」

「優しさの出しどころを考えなさい!」

 セーフィエルが、呆れたようにシグレを見た。

「本当に、危なっかしい子」

「よく言われる」

「生きて帰ったら、あなたにも説教が必要ね」

「マナちゃんの説教で足りない?」

「母親の説教は別腹よ」

「母親じゃないでしょ」

 セーフィエルは、少しだけ目を細めた。

「そうね」

 その声は、もうシグレをシオンと重ねていなかった。

 痛みはある。

 残響もある。

 けれど、彼女はシグレをシグレとして見ていた。

「でも、年長者として説教する権利くらいあるでしょう」

「それは、ありそう」

「では予約しておくわ」

「説教の予約、嫌だなぁ」

 門の光が迫る。

 現世へ押し戻される力が強くなる。

 マナがアリスを抱きしめる。

 アリスの魔導核は、胸の奥で微かに光っている。

「アリス、揺れるわよ。絶対、落とさないから」

 返事はない。

 けれど、魔導核の光が一度だけ瞬いた。

 マナは唇を噛んで、それを返事として受け取った。

 シグレはセーフィエルの腕を掴み直す。

 セーフィエルは、最後にもう一度だけ振り返った。

 シオンのいた場所。

 邪柩の沈んだ深層。

 白い花びらの光は、もうほとんど見えない。

 でも、完全に消えたわけではない。

 どこか深い場所で、穏やかに眠っている。

「シオン」

 セーフィエルは、小さく呟いた。

 声は届かないかもしれない。

 それでも、言った。

「母さん、帰るわ」

 返事はない。

 だが、タルタロスの闇の底で、白い光が一度だけ微かに瞬いたように見えた。

 セーフィエルは、それ以上振り返らなかった。

「行きましょう」

 今度は、彼女の方から言った。

 シグレは頷く。

「うん」

 マナが叫ぶ。

「やっと!? 遅い!」

「ごめん」

「謝る気力があるなら走って!」

「走るのはちょっと」

「走れ!」

 金色の補助術式が三人と一体を包む。

 裁きの門の光が、彼らを呑み込んだ。

 背後で、タルタロスの深層が閉じていく。

 闇の子の声が、最後にもう一度だけ届いた。

『シグレ』

 今度は、呼ぶだけだった。

 問いではない。

 命令でもない。

 ただ、名前を確認する声。

 シグレは、返事をしようとして、マナにものすごい目で睨まれた。

「……」

「……」

「……心の中で返事するのも駄目?」

「顔に出すな!」

「難しいなぁ」

 セーフィエルが、かすかに笑った。

 次の瞬間、裁きの門が閉じた。

 音は、遅れて来た。

 世界の奥で巨大な扉が閉まるような、低く重い音。

 タルタロスの硫酸の海も、溶岩の山も、凍土も、死者の声も、邪柩の鼓動も、すべてが分厚い壁の向こうへ遠ざかる。

 白い光が弾ける。

 黒い闇が沈む。

 ヨムルンガルド結界の蛇紋が、最後に門の縁を縫い合わせる。

 裁きの門は、閉じた。

 完全ではない。

 永遠でもない。

 そこには新しい封印構造と、新しい観測記録と、消されなかった名前が残っている。

 だが、今夜、門は閉じた。

 シグレたちは、現世へ押し戻された。

 遠く、帝都エデンの夜明け前の空が、白く滲み始めていた。

第十一場 帝都の夜明け前

 裁きの門が閉じた後、帝都エデンにはしばらく音がなかった。

 静寂ではない。

 むしろ、音は多すぎた。

 遠くで鳴り続ける警報。
 魔導炉の緊急冷却音。
 湾岸区の防潮魔導壁から落ちる破片。
 機動警察の装甲車両が路面を踏む重い振動。
 ホウジュ区の裏通りで泣いている子どもの声。
 アツギ中枢区の夢殿前広場で、まだ途切れずに続く祈り。

 それらが重なりすぎて、都市全体が息を止めたように感じられた。

 夜は、まだ終わっていない。

 だが、タルタロスの匂いは薄れていた。

 帝都上空に浮かんでいた黒い亀裂は、ヨムルンガルド結界の蛇紋によって縫い合わされ、死都東京方面の空へ押し戻されている。空にはまだ傷跡のような黒い線が残っていたが、そこから硫酸の海が映ることはもうない。

 闘神ヌルの姿も、消えた。

 白と金の破壊神は、最後まで帝都の空に背を向けなかった。亀裂が深層へ沈み、黒い光が市民の目に届かなくなるのを確認してから、巨大な光輪をひとつずつ閉じた。

 翼状兵装が畳まれる。

 魔導炉直結の光が細り、ヴァルハラ宮殿へ戻る。

 最後に、闘神義体の輪郭が白い粒子へほどけた。

 市民たちは、それを見上げていた。

 誰も歓声を上げなかった。

 救われたのかどうか、まだわからなかったからだ。

 ただ、破壊神が消えた夜空の向こうに、女帝ヌルの白い紋章が一瞬だけ浮かび、それもまた薄れていった。

 夢殿最深部。

 眠りの座では、ヌル本体の周囲に走っていた黒い筋が少しだけ薄くなっていた。

 完全に消えたわけではない。

 胸元にはまだ、闇の子との連動で生じた反動の痕が残っている。魔導管のいくつかは焼け焦げ、制御符の一部は張り替えを必要としていた。眠りの座の外縁には、先ほどまでの戦闘と封印再構成の負荷で細い亀裂が入っている。

 ズィーベンは観測盤の前に立っていた。

「裁きの門、閉鎖確認。タルタロス深層接続、観測域へ後退。闇の子思念波、帝都全域への直接投影停止。邪柩封印、新構造で暫定安定。シオン=ノイン人柱状態、解除」

 彼女は、そこで一度だけ言葉を切った。

 観測盤の片隅に、新しい記録が刻まれている。

《ワルキューレ第九位ノイン》
《本名:シオン》
《状態:人柱解除》
《秘匿記録:保存》
《削除禁止》

 ズィーベンは、その文字をしばらく見ていた。

 そして、静かに次の報告へ移る。

「アリス記録核、低出力保持。シグレ残響座標、裁きの門暴走抑制から切断中。闘神義体、運用終了。女帝義体へ思念経路を戻します」

 ヴァルハラ宮殿。

 玉座の間で、女帝義体が目を開けた。

 小柄な少女の姿。

 白と金の装束。

 市民が画面越しに知る女帝ヌルの顔。

 先ほどまで帝都上空にいた破壊神とは違う。だが、その瞳の奥には、同じ古い光が宿っていた。

 ヌルは、玉座の肘掛けに頬杖をついた。

「……疲れた」

 周囲のワルキューレ補助官たちが、反応に困ったように沈黙する。

 ズィーベンの投影が現れる。

「陛下。本体反動は中度から重度の境界です。しばらく闘神義体の再起動は推奨できません」

「推奨されなくても、必要なら使うよ」

「存じています。ですので、推奨できませんと申し上げました」

「ズィーベン、今日は言い方が少し強いね」

「今夜は、帝都が落ちかけましたので」

「落ちなかった」

「はい」

「なら、発表の準備を」

「フィーアが進めています」

 ヌルは、わずかに目を細めた。

「彼女、また勝手に少しだけ本当のことを言うつもりかな」

「おそらく」

「止める?」

「止めますか」

 ヌルは少し黙った。

 玉座の間の窓からは、帝都の夜明け前の空が見える。黒い亀裂は消えつつあるが、完全には消えていない。白んでいく空に、細い傷のような線が残っている。

「……今夜は、完全な嘘だと逆に割れる」

「同意します」

「じゃあ、言わせておこう」

 ヌルは、退屈そうに見せかけた声で言った。

「ただし、名前は出さない。シグレも、マナも、アリスも、セーフィエルも。シオンの名も、まだ公には出さない」

「ノイン記録は」

「秘匿保存」

「削除ではなく」

「そう。削除ではなく、秘匿」

 ズィーベンは深く頷いた。

「承りました」

 帝都各区では、夜の後片づけが始まっていた。

 ホウジュ区。

 道路には黒い亀裂が残っている。

 アスファルトが割れたのではない。表面に、死都東京の線路の影が焼きついたような跡だった。魔導灯が照らすと、その亀裂の奥に、古いホームの白線が一瞬だけ見える。近づきすぎると、遠くで電車の接近音が聞こえるため、帝都警察が黄色い封鎖帯を張っていた。

 葛城警部補は、泥と煤で汚れたコートのまま現場に立っていた。

「ここ、絶対に踏むな。踏んだ奴から旧東京行きとか、冗談にならん」

 若い警官が顔を引きつらせる。

「本当に行くんですか」

「知らん。知らんが、今夜は知らんものを踏むな。見知らぬ切符を拾うな。影に呼ばれても返事するな。以上だ」

「警部補、それ、正式な指示ですか」

「今から正式にする」

 葛城はそう言って、時雨堂の方向を見た。

 あの小さな雑貨店には、まだ避難民が残っている。窓はひび割れ、看板は半分外れ、入り口には毛布と救急箱が積まれていた。店の中からは、眼鏡の店員が誰かを叱る声が聞こえる。

「その鏡は見ないでくださいって言いました! あと、その聖像は抱いていてもいいですけど、拝みすぎて光らせないでください! 今、店内の照明が不安定なんです!」

 葛城は、疲れた顔で笑った。

「……あそこ、避難所登録しとくか」

 隣の警官が真顔で聞く。

「呪物ありますよ」

「帝都の避難所なんざ、だいたい何かしらある」

 ホウジュ区の空は、少しずつ明るくなっている。

 しかし、朝焼けはまだ遠い。

 カミハラ区。

 帝都大学の研究塔群は、一部が封鎖されていた。

 第三研究棟の外壁には、黒い羽根のような焦げ跡が残っている。封鎖研究棟では、機械人形の一斉停止が続いており、復旧班が内部回路の検査を行っていた。観測室のガラスは半分割れ、床には魔導計測器の破片と、焦げた書類が散らばっている。

 クレハは、椅子に座ることもせず、端末の前に立っていた。

 白衣は煤けている。

 髪は乱れている。

 目の下には濃い疲労がある。

 それでも、彼女の目は輝いていた。

 隣の通信画面に、シンの顔が映っている。

 ツインタワー東棟の高層階から接続しているらしく、背後の窓には夜明け前の帝都が見えていた。シンもまた、いつもの余裕をかなり失っている。髪は乱れ、端末群は過熱し、部屋のあちこちに非常用電源ケーブルが伸びている。

『教授、生きてる?』

「質問の精度が低いな。見ての通りだ」

『見た目だけなら死にかけに分類されるよ』

「なら、生存している死にかけだ。そちらは」

『生存している情報屋。資産の三割が焼けて、バックアップの一割が女帝権限に持っていかれて、趣味の非合法観測ログがなぜか秘匿政府記録と同期しかけた』

「喜べ。前人未到の経験だ」

『喜べるか!』

 シンは頭を抱えた。

 すぐに顔を上げる。

『で、政府発表見た?』

「これからだ」

『絶対に隠すよ』

「隠すだろうな」

『でも、隠し切れない』

 シンは、そこだけ真面目な声になった。

『市民が聞いた。闇の子の声を。映像も残ってる。ホウジュ区の空中歩道下に旧東京の線路が重なった記録、カミハラ区の研究塔の硫酸海反射、湾岸区の黒潮、アツギ中枢区の祈り場で女帝様じゃない声に泣き崩れた信徒。全部は消せない』

 クレハは、壊れた計測器を一つ持ち上げた。

 その内部には、黒い結晶のようなものが付着している。

「消せないものが、ようやく増えたか」

『教授、何か嬉しそうだね』

「嬉しいわけではない。だが、完全隠蔽は構造を腐らせる。腐敗が見えた方が、解剖はしやすい」

『その言い方、研究者すぎる』

「褒め言葉として受け取る」

 その時、帝都全域の通信画面が切り替わった。

 フィーアの会見が始まる。

 ヴァルハラ宮殿の広報室。

 フィーアは、公的装束で立っていた。

 背景には女帝紋。隣には帝都政府危機管理局の紋章。画面下には、各区の避難情報、交通規制、封鎖区域、医療支援窓口の案内が流れている。

 彼女の顔は整っていた。

 声も、普段と同じく澄んでいる。

 だが、完全ではなかった。

 目の奥に、夜を越えた疲労がある。

 市民の恐怖を、ただ「軽微な結界調整」と言って押し流せなかった者の疲労が。

『帝都の民の皆様へ。こちらは帝都政府、ワルキューレ第四位フィーアです』

 ホウジュ区の時雨堂でも、その映像が流れていた。

 避難民たちが黙って画面を見る。女帝信仰の少女は、小さな聖像を抱いたまま、母親の隣に座っている。ハルナは、毛布を配る手を止めて画面を見た。

 カミハラ区の研究棟でも。

 湾岸区の装甲車両の中でも。

 夢殿前広場でも。

 ツインタワー東棟のシンの部屋でも。

 帝都中が、フィーアの声を聞いていた。

『昨夜、帝都エデンは封印級災害に直面しました』

 その一言で、市民たちがざわめいた。

 封印級災害。

 夢殿が、そう呼んだ。

 軽微な魔導炉のゆらぎではない。
 一時的な結界調整でもない。
 局所的な死都残響でもない。

 封印級災害。

 完全な真実ではない。

 だが、完全な嘘でもなかった。

 フィーアは続ける。

『女帝陛下、ワルキューレ、帝都警察、機動警察、そして名を公表できない協力者たちにより、都市機能は維持されています』

 時雨堂で、ハルナの眉がぴくりと動いた。

「名を公表できない協力者……」

 彼女は小さく呟く。

 避難民の誰も、その名が誰なのか知らない。

 だが、ハルナにはわかった。

 テンチョ。

 たぶん、マナさん。

 アリスさん。

 それから、怖い魔女の人。

 名前を出せない協力者たち。

 ハルナは、少しだけ唇を引き結んだ。

「帰ってきたら、絶対怒ります」

 女帝信仰の少女が見上げる。

「店員さん?」

「何でもありません。とても大事な業務連絡です」

 少女はよくわからない顔をしたが、聖像を抱く手を少し緩めた。

 フィーアの会見は続く。

『現在、ホウジュ区、カミハラ区、湾岸区、アツギ中枢区を中心に、道路損傷、魔導灯障害、結界壁損傷、研究施設封鎖、通信障害が確認されています。市民の皆様は、帝都政府および帝都警察の指示に従い、封鎖区域へ近づかないでください』

 画面には、被害地図が表示される。

 ホウジュ区の黒い亀裂。
 カミハラ区の封鎖研究棟。
 湾岸区の半壊した防潮壁。
 アツギ中枢区の夢殿前広場。
 死都東京方面の空の亀裂跡。

 いつもの発表なら、被害範囲はもっと曖昧にされていただろう。

 「一部区域」
 「管理下の事象」
 「市民生活への影響は軽微」

 そういう言葉で丸められていたはずだ。

 だが、今回は地図が出た。

 全部ではない。

 それでも、出た。

 フィーアは、少しだけ目を伏せた。

 次に顔を上げた時、その声はワルキューレのものだった。

『帝都エデンは、今後も女帝陛下の秩序の下にあります。夢殿は都市機能の復旧にあたり、ヴァルハラ宮殿は封印監視体制を継続します。市民の皆様は、流言、未確認映像、違法な神託配信に惑わされないでください』

 ここは、いつものフィーアだった。

 統制の声。

 恐怖を整理し、言葉で柵を立てる声。

 だが、そこで終わらなかった。

『ただし』

 帝都中が、静かになる。

『昨夜、市民の皆様が見聞きした事象の一部は、封印災害に伴う実在の現象です。恐怖を感じた方、異常音声を聞いた方、影の遅延、旧東京幻視、タルタロス海面反射を経験した方は、夢殿指定の医療・心理支援窓口へご相談ください』

 シンが、通信画面の向こうで口笛を吹いた。

『おお』

 クレハが腕を組む。

「踏み込んだな」

『だね。闇の子とは言わない。シオンとも言わない。タルタロスも、反射現象として処理。だけど、幻覚扱いにはしなかった』

「現象を実在と認めた。重要だ」

『隠してるけど、前より隠し方が雑だね。つまり、隠し切れなくなった』

 シンは、少しだけ笑った。

 疲労と興奮と、情報屋としての本能が混ざった笑みだった。

「これ、街の空気変わるよ。女帝様の神託じゃない声を聞いた人たちがいる。政府は完全否定できなかった。D∴C∴みたいなのもまた湧くだろうけど、逆に夢殿だけが全部を握る時代でもなくなる」

 クレハは、割れた窓の向こうを見た。

 カミハラ区の空は、白み始めている。

 夜明け前の色。

 だが、研究塔の壁には黒い焦げ跡が残り、封鎖区域の赤い灯りが点滅している。

「雑ではない」

 クレハは言った。

 シンが眉を上げる。

『何が?』

「隠し方だ」

『そこ?』

「雑になったのではない。構造が変わったんだ。完全隠蔽できる世界ではなくなった」

 シンは、少し黙った。

 クレハは続ける。

「シオンという人柱が外れた。封印負荷は都市へ分散された。アリスが記録を保持し、シグレが残響座標を一時鍵として通した。闇の子の思念は完全遮断ではなく、深層観測対象になった。つまり、旧構造のように、中心の犠牲を消して、外側だけを綺麗に見せることができなくなった」

『教授、それ、政府発表で言ったら即拘束されるよ』

「だから君に言っている」

『情報屋に?』

「口の軽い情報屋に」

『ひどい信頼だね』

「適切な評価だ」

 シンは肩をすくめた。

『でも、同意する。完全隠蔽できる世界ではなくなった。いいね。記事タイトルにしたい』

「やめろ」

『冗談だよ。半分』

「半分ならやめろ」

 フィーアの会見は、最後に近づいていた。

『復旧には時間を要します。帝都政府は各区の被害調査、医療支援、避難所運営、結界監視を継続します。市民の皆様は、どうか互いに手を取り、朝を迎えてください』

 フィーアはそこで一礼した。

 完璧な礼だった。

 だが、顔を上げる直前、ほんの一瞬だけ表情が揺れた。

 誰にも気づかれないほど短い。

 それでも、画面を見ていた一部の者は気づいた。

 彼女は、昨夜の恐怖を覚えている。

 統制する側の声でありながら、市民が恐れたことを、なかったことにはしなかった。

 会見が終わる。

 帝都全域の画面が、避難情報へ切り替わった。

 ホウジュ区。

 黒い亀裂のそばで、帝都警察が封鎖帯を張り直す。
 時雨堂では、ハルナが避難民へ温かいお茶を配り始める。
 女帝信仰の少女は、聖像を胸に抱きながら、窓の外の薄明かりを見ている。

 カミハラ区。

 封鎖研究棟の前で、研究員たちが損傷した機械人形を運び出す。
 クレハは、新しい解析ファイルに《封印再構成後の都市的記憶漏出について》という仮題をつけ、すぐに消して《後で》とだけ保存した。

 湾岸区。

 半壊した結界防潮壁の前で、機動警察の隊員たちが座り込んでいる。
 誰かが缶入りの甘い飲み物を配り、誰かが笑い、誰かが空を見上げる。
 海の向こうには、死都東京の黒い影がまだある。

 アツギ中枢区。

 夢殿前広場では、信徒たちが祈り続けていた。
 だが、その祈りは少し変わっていた。
 女帝ヌルだけに向けられたものではない。
 昨夜聞こえた、女帝ではない声をどう扱えばいいのかわからないまま、それでも朝を迎えるための祈りだった。

 ヴァルハラ宮殿。

 フィーアは会見室を出ると、誰もいない廊下で一度だけ壁に手をついた。

 深く息を吐く。

 そこへ、女帝ヌルの声が降ってきた。

『うまく嘘をついたね、フィーア』

 フィーアは姿勢を正した。

「ありがとうございます、陛下」

『褒めていないよ』

「存じています」

『でも、今回は許す』

「恐れ入ります」

『次は、もう少し上手に隠しなさい』

 フィーアは、少しだけ目を伏せた。

「完全に隠せるなら」

 沈黙。

 ヌルの声が、微かに笑う。

『キミまで、人の子に影響された?』

「私は、帝都政府の声です」

『答えになっていない』

「では、こう申し上げます」

 フィーアは、会見室の扉の向こうに広がる帝都の空気を思い出した。

 泣いていた市民。
 恐れていた子ども。
 女帝の神託ではない声を聞いた人々。
 それでも朝を待つ街。

「声は、聞こえた者の中に残ります」

 ヌルは少し黙った。

『そう』

 それだけ言って、通信は途切れた。

 フィーアは、もう一度深く息を吐いた。

 廊下の窓から、帝都の夜明け前が見える。

 空は白み始めている。

 だが、朝焼けはまだ完全ではない。

 帝都エデンの罪は消えない。

 死都東京は戻らない。
 闇の子は解放されない。
 女帝ヌルの支配も終わらない。
 シオンの失われた時間は返らない。
 アリスは眠ったまま。
 シグレたちも、まだ帰ってきていない。

 それでも、秘密はひとつ破れた。

 帝都が光だけでできていないこと。
 封印の底に、声があったこと。
 その声を聞いてしまった者たちがいること。
 そして、夢殿がそれを完全にはなかったことにできなかったこと。

 夜明け前の帝都で、魔導灯がひとつ、またひとつと通常色へ戻っていく。

 黒い亀裂の残る道路に、薄い朝の光が触れた。

 それは、傷を癒やす光ではなかった。

 ただ、傷がそこにあると照らす光だった。