Episode 01

第1巻 大魔王遣いヒイロ

大魔王遣いヒイロ

 ――二〇XX年、日本は鎖国した。
 そして、今や日本という国名はなくなり、『大日本帝國♪』と改名したのであった。
 通称は日本のままだから、普段の生活にはそれほど支障はないけれど。
 問題は国名が変わったことじゃない。別にあるのだ。

 ぴーちくぱーちくスズメがさえずり、せせらぎのように爽やかなそよ風、朝日がサンサン眩しい日差し、そして住宅街を駆ける爆走少女。
「遅刻遅刻ぅ~っ!」
 今朝も遅刻街道まっしぐらの華那汰。口にキツネ色のトーストをくわえ、ブレザーの袖に腕を通しながら走っていた。
 毎朝の強制的早朝マラソンを欠かさない華那汰だが、高校入学から早一ヶ月、今のところ一度も学校に遅刻したことがないのが、彼女のささやかなる自慢だ。
 なんせ彼女は、一〇〇メートル走を一〇・〇〇秒切ってしまう〝能力者〟だ。オリンピックに出れば金メダル確実といわれているが、特別地域の出身者や住民は公式の記録大会には出れないので、残念。
 亜麻色のツインテールまで走ってるときの手みたいに動かし、華那汰は最終コーナーを曲がろうとしていた。コーナーでも減速しないのが華那汰のポリシーだ。
 コーナーを曲がったところで、華那多の目に突然飛び込んできた人影!?
「危ない!」
 ドン!
 口にくわえていたトーストが宙に舞い、華那汰はアスファルトに尻餅を付いた。
「アイターッ!(ったく、いきなり飛び出して来たの誰よ!)」
 あられもない声をあげて、華那汰はお尻を擦りながら目の前にいる人影を見る。
 するとそこに立っていたのは、陽の光を背中に浴びる長身の青年。華那汰はこの青年を見て思った。
「(……ありえない)」
 長身の青年はバランスの取れた体躯で、顔もキリリとした華那汰好みのカッコ良さで、微妙に身体の内から燃える魂が感じられる青年だった。
 だが、しかし!
「(白いガクランって!)」
 思わず心の中でツッコミを入れてしまった華那汰。
 前ボタンを全開にして紺色のシャツを覗かせる白い学生服。しかも、裾が明らかに短くて、ヘソよりも高い位置にある。――特注に間違いない!
 こんな昔のヤンキーっぽい服装、でも今風にアレンジ……みたいな格好をしている学生は、同じ高校にはいない。華那汰はそう断言できる。てゆーか、日本のどこにもこんなやつ……たまにはいるかも。
 日本が鎖国しちゃってからというもの、各地で変人さん、もしくは〝能力者〟が増えてしまったのだ。その筆頭に挙げられるのが、現在大日本帝國♪を治めている〝黒猫〟だ。
 黒猫というあだ名かと思いきや、本当に黒猫の姿をした正体不明のナマモノなのだ。しかも、当人(当猫)の黒猫は自称華の女子高生を名乗り、人々からはこう呼ばれている――大魔王ハルカと。
 尻餅を付いている華那汰に、白い学ラン青年が手を差し伸べる。
 コレって運命の出逢い!?
 差し伸べられる手をつかもうと華那汰が手を出した瞬間、青年の手の形が変わった。それはまるで指を差すような形。
「パンツ見えてるぞ(白と水色のストライプか)」
「…………っ!?」
 M字開脚してしまっていた華那汰が急いでスカート押えながら立ち上がった。
 何事もなかったように歩き出す青年の背中を見ながら、華那汰の顔は見る見るうちに真っ赤なマグマになっていく。爆発寸前だ!
 通学鞄を地面から拾い上げた華那汰が走る。
 走る走る走る。
 一〇〇メートル七秒台で爆走!
 青年の背中に向かって華那汰は速攻を決める!
 華那汰、鞄を持った手を大きく振りかぶったぁっ!
「えっち、痴漢、変態!」
 ズゴーン!
 通学鞄の平らの部分が青年の後頭部にクリティカルヒット!
 至近距離でバズーカ砲を撃たれたみたな不意打ちを受けて、青年は前のめりになりながら地面に沈んだ。
 勝者、華那汰!
 勝利のゴングが鳴り響く……じゃなくって。
 身動き一つしなくなっちゃった青年を見て、華那汰の顔が蒼ざめる。
「殺っちゃった?」
 てへっ♪と笑う華那汰の表情は苦々しい。口元が微妙に痙攣している。内心かなり焦っているのだ。背中なんて汗ダラダラ。
 華那汰はローファーのつま先で、気絶もしくはご臨終しているナマモノのわき腹を突付いてみるが、反応ゼロ。こりゃヤヴァイ!
 右見て左見て、華那汰は辺りに人がいないことが確認すると、何事もなかったように走り出した。
「遅刻遅刻ぅ~♪」
 爽やかな笑顔で華那汰逃走。しかも鼻歌交じり。けれど全力疾走なのは言うまでもない。

 キーンコーンカーンコーン♪
 鳴り響く学校のチャイム。
 ざわめき立ついつもの教室の風景。
 そして、毎朝恒例の行事がはじまります。
 水泳の飛び込みのように教室のドアから入って来た華那汰。彼女が入って来たのは教室前方のドア。そこから華那汰が飛んだ!
 空中で回転しながら天井に足の裏を向け、華那汰はスカートを揺らしながら華麗に舞ったのだ。そして、教室最後列にある自分の席にストンと座る。
「おぉぉぉぉぉっ!」
 湧きあがる歓声。ほとんど男の唸り声。なぜって、今日は〝白と水色のストライプ〟だから!
 と、これがいつもの光景だ。
 近頃は男子生徒の間で〝パンティ占い〟なるものが流行っているが、華那汰はそのことを知らない。
 教室の前から後ろまで飛んで、自分の席に着地した華那汰は、実は運動神経が抜群なのだ。
 なんてレベルを凌駕しちゃってるのは明らかだろう。華那汰は普通の人間ではありえない距離を飛んだのだ。けれど、鎖国しちゃった最近の日本では普通なことになりつつある。
 着席した華那汰が、ふと横の席を見ると席が増えてる!?
 昨日までなかった席が明らかに一席増えている。
 ま、まさか!
「(みんなが知らないクラスの仲間がいる!?)」
 華那汰は急に背中に悪寒を感じて身震いした。
 そういえば、クラスで集合写真を撮ったりすると、必ず心霊写真が写るんです。青年の霊が(笑)
 ついにあの子もクラスの一員として認められ、席を設けられたんだね。
 華那汰が無人の席を見ながら妄想を馳せていると、教室のドアが開き生徒たちがさざ波を立てた。
 教室に毛皮のコートを着た二十代後半と思われる知らないお姐さんが入ってきたのだ。
 よくニュースで見る勝手に学校に入ってきて暴れまわる変質者!?
 お姐さんが教壇の前に立った。
「おーほほほほっ!」
 入ってきたお姐さんが突然の高笑い。やっぱり変質者だ!
 だって毛先が縦ロールしちゃってるお姉さんが一般人のわけがない!
 変質者じゃなかったらセレブだ。
「アタクシ、今日からこのクラスの担任になった美獣よ!(カッコよく決まったわ!)」
 そう名乗ったお姐さんが、黒板にデカデカと赤いチョークで『美獣』と書きなぐった。
 生徒一同フリーズ。
 格好と高笑いも衝撃的だったが、そんなことより『美獣』ってなんだよ。『美』が苗字で『獣』が名前なのか。ツッコミどころ満載だけど、美獣の発する変人オーラが強すぎて誰もが口を噤んでしまった。
 美獣の話によると前の担任は、トラックに撥ねられそうになった少年を助け、自分が代わりに轢かれて重症を負って入院ということらしい。素敵な美談だ。
 段取りがあるのか、一通り話を終えた美獣は教室のドアをあけた。すると廊下から白い影が教室に入ってきた。
 白い影=幽霊
 華那汰の予想が的中したのか?
「(やっぱり新しいクラスの仲間は、入学直前に病で亡くなった山田君なのね!)」
 白い影には足があった。今度こそ変質者!?
 だって特注の白い学ラン着てるよ。
 白い学ラン青年の顔を見て華那汰が席からジャンプした。
「あーっ、今朝の変質者!」
 ちょっとパンツを見られただけで、いつの間にか変質者にまでランクアップしていた。
 華那汰と目が合った青年も声を荒げる。
「あのときの暴力女かっ!」
「暴力女とはなによ!」
「いきなり俺様の後頭部を強打したのはどこの誰だ!(気づいたら人だかりに囲まれてて大変だったんだぞ!)」
「それはあんたがあたしのパンツ見て指差すから!」
 教室にいた男子生徒たちが沈黙。華那汰は〝パンティ占い〟のことを知らない。
「二人ともお黙り!」
 犬を叱り付けるように美獣が吠えた。
 怒られてない者まですくみ上がり、教室がしーんと静まり返る。
 命令を聞く生徒たちを見て美獣は満足そうな笑みを浮かべ、最後に横に立っている白い学ラン青年を見つめた。
「転校生君、自己紹介なさい」
「俺様の名前は覇道ヒイロ。夢は――」
「夢なんて聞いてないわよ」
 ヒイロは美獣に背中をど衝かれ、『おっとと』となりながら後ろの座席に移動させられた。
「覇道の席は、そこの空いている席よ」
 美獣に命令されるままヒイロは席に座った。その横の席では不満顔の華那汰。
「なんであんたがあたしの横なわけ?(サイテー)」
「俺様だってお前の横なんて願い下げだ(こいつの手の届く範囲にいたら、また殴られるかもしれん)」
 コソコソ話だが、二人の気迫は大ボリュームだ。
「そこは山田君の席なんだから、あんたが勝手に座らないでよ。汚れる」
「山田ってどこの誰だよ!」
「山田君は山田君よ」
 華那汰はまだ幽霊青年の話を引きずっていた。
「山田なんてヤツどうでもいいから、お前名乗れよ!(デスノートに名前を書いてやる)」
 デスノートとは、ヒイロが個人的にムカついたヤツを、リストアップしているノートのことである。
「あんたになんて教える名前ありませーん」
「名前くらい言えよ、俺様だってさっきみんなの前で名乗ったんだから、お前卑怯だぞ」
「卑怯ってなによ、卑怯って。加護華那汰、華那汰って名前好きじゃないから華って呼んで(華那汰って男の子みたいで嫌。男の子が欲しかったなら、もう一人生めばいいのに)」
 華那汰の名前を聞いて、ヒイロの顔が固まった。そして、ゆっくりと口が大きく開かれ、その中から拡声器使ったみたいに大声を出した。ツバもクシャミ並みだ。
「キサマが加護華那汰かっ!(ついに見つけたぞ!)」
 ヒイロが席を立ち上がりながら声を大きく出したところで、美獣の手からビシュッとチョークが投げられた。
「うるさいわよ!」
 スコーンと勢いよくチョークがヒイロの額にクリティカルヒット!
 脳内が真っ白になりながら、ヒイロは最後の力を振り絞って華那汰に言った。
「……昼休み、学校の裏庭で待ってる」
 完全に意識の途切れたヒイロは、机を巻き込みながら転倒してしまった。
 気絶したヒイロが美獣の命令された男子生徒によって保健室に運ばれていく。美獣はすでに王制を確立したらしい。
 情けなく運ばれていくヒイロを見ながら、華那汰の魂は闘志にメラメラ燃えていた。
「(裏庭に来いってことは果し合いね!)」
 華那汰の中では、『屋上=告白』と『裏庭=ケンカ』の図式が妄想されているのだ。

 ボロイ借家を叩きつける雨風。それだけで、この木造平屋建ては大きく揺れ、今にも壊れてしまうのではないかと思われた。ミシミシ鳴る音がそれを物語っている。
「母ちゃん、母ちゃん」
 まん丸で緋色の瞳を持つ幼児が、内職仕事をする母の袖口を引っ張った。
「母ちゃん、近所のまーくんが新しいオモチャ買ってもらったんだって。ぼくもオモチャ欲しいよぉ」
「うちにはそんなお金ないのわかってるでしょ!」
 母に怒鳴られションボリとする幼児だが、それでも畳を見つめながら母に頼んだ。
「超合金ニャンダバーZ買ってよぉ」
「うちは代々貧乏で、そんなオモチャを買うお金はないの。お父さんは過労で緊急入院するし、お祖父様のボケは年々ひどくなるし。こないだだって借金が返せなくて、怖いおじさんたちに酷いことをされて、夜に鬼ごっことかくれんぼしたばかりでしょ?」
 借金が返せず、毎日のように続く取立て屋の脅迫と暴力。つい先日も夜逃げしたばかりで、その辛さは幼心にはとても恐ろしく、全ては貧乏のためなのもわかっていた。
 それでも幼児は幼さゆえか、貧乏の裏返しか、母にいつものように物を強請るのだった。
「母ちゃん、ニャンダバーZ買ってよぉ」
「そんなに欲しいのなら、外で材料拾ってきて自分で作りなさい!」
「……わかった(母ちゃんのばか)」
 外で降る雨は天井を雨漏りさせ、天井ばかりか幼児の瞳と心まで濡らした。
 いじける幼児が部屋の片隅に移動しようとすると、襖越しに奥の部屋から老人の声が聞こえた。
「真知子さん、ご飯まだかのぉ?」
 それは幼児の祖父の声だった。
「さっき食べたばかりでしょ(最近はあれしか言わないんだから)」
 母はため息を付きながら、玩具をカプセルにつめる内職を続けていた。
 ちゃぶ台の上にばら撒かれた小さなプラスチック人形の山。あんなに近くにオモチャがありながら、幼児はそれで遊ぶことを許されなかった。たったひとつでもくすねたら、母にこっ酷く叱られる。
 幼児はちゃぶ台の上のオモチャを見ないようにして、祖父が横になっている部屋の襖をゆっくりと開けた。
 祖父は数日前の夜逃げの疲れからか、それ以来寝たきりだ。
 薄暗い部屋にそっと幼児が忍び込むと、年老いた祖父はゆっくりと眼を開けて、幼児に顔を向けた。
「雅人か、こっちにおいで」
 その名は幼児の父親の名前だ。それでも幼児はいつものことなので気にせず、祖父の枕元に歩み寄った。
 祖父は枯れ木のような手を伸ばす。
 昔は冒険家で世界各地を飛び回っていたらしい祖父。枯れ木の手からは、そんな片鱗はまったく感じられない。
「祖父ちゃん、またあの話してよ」
 幼児は強請ると、祖父は満面の笑みを浮かべた。
「うちの遠いご先祖様はヨーロッパの領主をしておってな」
「うんうん」
 幼児は眼を輝かせながら祖父の話に聞き入っている。遊び道具もなく、友達といえる友達もいない幼児にとって、祖父が聞かせてくれる話が楽しみの一つなのだ。
「王都から遠く離れた場所の領主だったが、それでも鉄が採掘できる鉱山のおかげで裕福な暮らしをしとったそうじゃ」
「そこはいいからマオーの話してよ」
「そうそう、ご先祖様は鋼の魔王と呼ばれておってな。魔術などにも長けていたらしい」
「強かったんでしょ?」
「だからご先祖様は数々の冒険をし、いつしか世界征服をしようと考えたのじゃ。じゃがな、世界征服はそう簡単にできるもんじゃない。ヨーロッパを追われ、中東を追われ、インド中国とご先祖様は代を重ねながら旅をしたそうじゃよ。世界征服の意思は親から子へと受け継がれ、わしもその意思を継いで世界征服をしようとした。だからお前にもわしの意思を継いで欲しいのじゃ」
 だが、幼児の父――雅人はその意思に叛き平凡な会社員になろうとした。
 しかし、歴代の先祖が夢を追うために積み重ねた借金は、平凡な暮らしを蝕んだのだ。安定した職に付くことができず、借金取りに終われる日々。
 その生活は今も変わっていない。
 祖父が先祖の話を続けようとすると、内職に精を出していた母が部屋に飛び込んできた。
「またそんなホラ話して、子供に変なこと吹き込まないでください!」
 幼児は母の笑った顔を一度も見た記憶がなかった。

 誰かに怒鳴られたような気がして、ヒイロは緋色の瞳を見開いてベッドから飛び起きた。
 鼻を突く消毒薬の臭い。
 辺りを見回して、そこが保健室だということがすぐにわかった。
「頭いてぇ(たしか白い物体が頭に当たって、気絶したような)」
 頭を押さえながら、ヒイロは覚醒しきってない頭で壁に掛けてあった時計を見る。
 長針と短針はともに十二時を通り越していた。
「しまった、もう昼休みだ!(こんなところで寝てる場合じゃない)」
 ベッドのスプリングを利用して華麗なるジャンプをしようとしたのだが――。
 ゴキッ!
「うっ(足ひねった)」
 ヒイロは片足を引きずりながら裏庭に向かった。
 裏庭にはニワトリが二羽飼われている飼育小屋や、校長が趣味で育てている花壇などがある。
 そこには、まだ華那汰の姿はなかった。
 前方から選手入場!
 頭に鉄鍋を被り、手には鍋蓋とおたまを装備したファイターが姿を見せた。――華那汰だった。
「な、なんだあの格好?(この学校で流行ってるのか?)」
 頭にクエスチョンマークがぶっ飛ぶヒイロの前に立ちはだかる華那汰。
「さあ、どこからでも掛かってきなさい!」
「はあ?(なに言ってんだこいつ?)」
「伝説の兜と伝説の盾、そして伝説のロッドを装備したあたしに勝てる者はいない!(伝説のフライパンじゃないが残念だけど)」
 へっぽこ装備をした華那汰はヤル気満々だった。裏庭に呼び出された華那汰は、相手がケンカのために呼び出したのだと妄想しているのだ。
「ちょっと待て、俺様はお前と戦う気なんてないぞ」
「じゃあ、どうして裏庭に呼び出したわけ?」
「話すからちょっとこっちに来い」
 不穏な動きでなにかを飛び越える動作をしたヒイロを確認した次の瞬間、膝カックンされたみたいに華那汰がバランスを崩した。
「なにっ!?」
 ズボッ!
 なにが起こったのわからぬまま、華那汰の身体は地中に落ちていた。落とし穴にはめられたのだ。
 穴に落ちて逃げ場のない華那汰を、太陽を背に勝ち誇った表情のヒイロが見下ろす。
「はーははははっ、掛かったな凡人!」
「なんなのこの穴!?」
「落とし穴に決まってるだろ」
 落とし穴に落ちるなんて経験、人生に一度あるかないかの貴重な体験だ。落とし穴なんかを掘るのも人生に一度あるかないかだろう。
 いつから準備していたのか、穴は三メートル以上の深さで、水平ジャンプじゃとてもじゃないけど登れない。――普通の人なら。
 スコップ片手に準備万端のヒイロがさっそく脅迫をはじめた。
「さて、俺様の言うことを聞いてもらおうか」
「聞かなかったら?(乙女にあたしにあ~んなことやこ~んなことをするんじゃ!)」
 不安な眼差しで上を見る華那汰にヒイロはニヤリと笑って返した。これは悪いことを考えてる顔だ。悪代官よりは下っ端の顔だ。
「俺様の言うことを聞かなかったら、土を被せて生き埋めにしてやる!」
「な~んだ、てっきりあたしはドジョウやカエルを流し込まれるんだと思っちゃった(焦って損した)」
 穴の中で華那汰は一回屈伸すると、次の瞬間、華那汰の身体はヒイロの頭上よりも高い位置をジャンプしていた。パンツ丸見えだ!
 逆光で眼が眩むヒイロに白と水色のストライプが襲い掛かる!
 ゴン!
 華那汰が被っていた鉄鍋でヒイロの頭を殴打した。本日三回目の脳天クラッシュだ!
 だが、ヒイロは耐えた。二回目までは失神してしまったが、今度は気を失わずに耐えたのだ。男の勇姿を見せてやる!
 ヒイロはよろめきながら地面に膝を付き、そのまま手も付き、おでこも付き、土下座した。
「すまん、俺様が悪かった、許してくれ!(謝るが勝ち、祖父ちゃんの教えだ)」
 いきなり土下座され、華那汰は困惑してしまった。こんな情けなくて、必死こいてる男にこれ以上は手を出せない。そこら辺は華那汰のポリシーに反する。弱いものいじめするべからず。
「まっ、許してあげてもいいけど、なんであたしのこと襲ったのか教えて(転校生に因縁つけられる覚えな……もしかしてあれ?)」
 華那汰の顔に冷や汗たらり。見ず知らずの人にいきなり因縁つけられる覚えがあるようだ。
「俺様の目的は大魔王ハルカの妹を探し出すことだ」
「あ~っ(……やっぱし)」
「ところでお前、大魔王ハルカの妹だろ?」
「違う」
 きっぱり、あっさり、さっぱり、即答だった。
「そんなハズない。だってお前の名前、加護華那汰だろ?(こんな名前滅多にいないぞ)」
「あたしの名前は山田花子(しまった、とっさに思いついた名前がこれだった)」
「顔を引きつってるぞ、嘘ついてるだろ(もっとマシな名前思いつかなかったのかよ)」
「わかった、わかったから、一〇〇〇歩譲ってあたしが加護華那汰だと仮定するでしょ。でもね、聞いて、大魔王ハルカって猫じゃん!」
「だから?」
「猫の妹が人間なわけないじゃん!」
「そうか!(今まで気づかなかった、盲点だ!)」
 盲点なのか?
 すっかり華那汰ペースで形成逆転、ヒイロは華那汰の話を鵜呑みしてしまった。
 あと一球ストライクを打てば華那汰の逆転勝利だ。
「ねっ、ねっ、猫と人間が姉妹なわけないでしょ?」
「それもそうだけど(なんか引っかかる)」
「それにあたしに姉がいたのは認めるけど、姉はあたしが中学生のときに行方不明になったっきり。だから誰がなんと言おうと、あんな猫あたしの姉じゃないからね!」
 ある日、異世界から突然やってきた大魔王ハルカは、恐ろしい魔法の力を使い、自衛隊や米軍とあーでもないこーでもないとケンカを繰り広げ、あっという間に日本国の主権をぶん取ってしまったのだ。と云われている。
 次に大魔王ハルカは向かってる来る敵をコテンパンにしたり、悪質な脅しをしたりなんかしちゃったりしつつ、在日米軍を強制里帰りさせちゃって、関東周辺を巨大結界で覆ってしまったのだった。と云われている。
 そして、異世界の力の影響なのか、各地で特殊能力に覚醒る者たちが現れたのだ。その者たちはニュータイプと呼ばれ、超人的な運動能力を得てしまった華那汰もそのひとりだったのだ。
 華那汰の力押しの説得に納得したのか、ヒイロは深くうなずいた。
「わかった、お前が大魔王ハルカの妹じゃないことを今のところ信じよう(なんか腑に落ちないが)」
「ありがとう、これであたしに用ないでしょ。サヨナラ、サヨナラ♪(さっさと逃げなきゃ)」
 猛ダッシュしようと振り上げた華那汰の手が強く捕まれた。
「ちょっと待て」
「なぁに? あたしはもう用ないんだけどー(変な電波出てる人たちと関わるとロクなことないの、うちの姉とか!)」
 ギコチナイ笑みで振り返る華那汰の顔を覗き込むヒイロは真剣そのものだった。真剣な表情をしていると、ヒイロはなかなかカッコイイ。土下座してるときはカッコ悪い。
「まだ話がある。俺様の子分にならないか?」
「はっ?(子分ってなに?)」
「俺様の夢は世界征服をすることだ。世界征服の暁にはお前を俺様の一番目の妻にしてやってもいいぞ!」
 一番目ってことは二番三番がいるのか!?
 日本国は一夫多妻制じゃないぞ!
 世界征服したら法律なんてどーでもいいけど。
 真剣な顔をしたヒイロとは対照的に、華那汰の眼差しは生暖かく、痛い人を見る目つきだった。
「世界征服だなんて、ばっかじゃないの(あーやだ、こんなの関わりたくない)」
 もう十分関わってしまっている。
「俺様に向かってバカとはなんだ、近い将来地球の覇者になる男だぞ!(クソーこうなったら俺様の超必殺技を見せてやる!)」
「世界征服なんて子供の夢じゃあるまいし、無理に決まってるじゃん」
「大魔王ハルカだって世界征服を狙ってるんだろ。現にあいつは日本征服をしただろ。人にできることは俺様にもできる!(じっちゃんの名にかけて!)」
「大魔王ハルカは、すっごい力持ってるからできるんで、あんたなんかできるの?(態度だけであんま強そうに見えないけど)」
 待ってましたとヒイロが笑う。
 一日に三回も脳天クラッシュを喰らう、あんま強そうじゃないヒイロだが、そんな彼にぴったりの超能力を持っていたのだ。
 ヒイロがカンフーみたいな構え――鶴のポーズをした。それを見た華那汰の感想は。
「な……なんて隙だらけなの!(普通に立ってもこんな隙できないのに、ある意味天才)」

 裏庭で対峙する二人の生徒を、何者かが影からこっそり見つめていた。
「……あんな構え見たことがないわ(隙がありすぎてどこから攻撃したらいいか迷うじゃない!)」
 人影はヒイロの構えに驚愕したようだ。
 ヒイロはエセ催眠術師風に手を動かすと、必殺技の名前を繰り出した!
「超スーパーミラクルクルクルパー!(なんて技の名前はなんでもいいんだけどさ)」
 しかも『超』と『スーパー』は重複だ。
 技の名前が唱えられた瞬間、華那汰はその声のデカさにビビッたが、なにも起きない。
 声が木霊しただけだった。虚しい。虚しすぎる。オチなら軽すぎる。
 だが、なにも起きないと決め付けるのは早い。ヒイロの指差す方向を見よ。そこには地面でせっせと働くアリさんの行列があるじゃありませんか。しかも、なんか変だ。
 なんとアリがアリ文字を作ってるじゃあーりませんか――『天才』って。
「はーはははっ俺様の能力を見たか!」
 高笑いは勝利の合図。けれど、華那汰はアリが作ったアリ文字を生暖かい眼で見ていた。
「見えるには見えるけど、見づらいというか、ちっちゃいというか(スケールが)。だからなに?」
 『なに?』と振り返られたヒイロは思わず凍り付いてしまった。そんな薄い反応されるなんて思ってみなかったのだ。
「なにって、スゴイだろ、超スーパーミラクルな感じするだろ?(俺様の超必殺技を見て驚かないとは、こいつやっぱりタダもんじゃない)」
「だからなに? アリが文字の形に動いただけじゃん?(これのどこがスゴイんだか)」
「アリが俺様の思うがままに動いたんだぞ、スゴイと思わんか?」
 たしかに他の生物を思うがままに操れるのはスゴイかもしれないが、そのスケールの小ささから驚くに驚けないのだ。
 ヒイロが再び念を込めると『天才』の文字に『ヒイロ』が付け足され『ヒイロ天才』となった。
「ほら、スゴイだろ。俺様って天才だろ?(やっとアリを操れるようになったんだから、スゴイって言ってくれよ)」
「あースゴイスゴイ」
 完全な感情ゼロの棒読みだった。華那汰は完全にヒイロを小ばかにしている。しかし、物陰に隠れる人物はヒイロの能力に驚きの色を隠せなかった。
「(なんて恐ろしい能力なの。あんな力に操られたら、どんな力も魔法も無力だわ)」
 物陰で驚く人物のことなんてまったく知らず、華那汰がヒイロに質問を浴びせた。
「それで、アリの他になにを操れるの?(まさかアリだけなんてことないでしょうね)」
「今はアリだけだ」
 スパパーンとヒイロは断言した。この発言を聞いた謎の人影はさっきの自分の考えを完全否定した。
「(アタクシの早とちりだったわ。あのガキ、マジ使えない)」
 生暖かい眼から白い眼に華那汰は変わり、自然と鼻で笑った。こういうのをあざ笑うというのだ。
 あざ笑われたー! ってな感じのヒイロはすぐに弁解する。
「待て、今はたしかにアリしか操れないが、いつかは大魔王を操るのが目標なんだ」
「へぇーそーですかー」
 まじめ気分ゼロな華那汰に、ヒイロはなおも熱い思いを語るのだった。胸の前で拳なんて握っちゃって。
「俺様は、俺様は……大魔王を影から操る〝大魔王遣い〟になる男だ!(カッコよく決まったぜ!)」
「あっそ」
 瞬殺!
 三文字でヒイロの心が硝子のように砕け散った。意外にヒイロは硝子の心を持った青年だったのね。
 地面に膝を付いてうな垂れるヒイロ。自分的にカッコよく決まったシーンを簡単に片付けられてしまったのが、かなりショックだったらしい。今のヒイロは服だけでなく髪の毛も真っ白に見えるから不思議だ。燃え尽きたぜヒイロ。
 ヒイロの夢も希望も心も身体も、とにかく全部砕けたところで、華那汰はさっさと帰ろうとする。だってもうすぐ昼休み終わっちゃうし。
 だが、帰ろうとする華那汰の前に謎の男子学生が立ちはだかったのだ。
 しかも目つきがイッちゃってるぞ!
 華那汰はこっそり一歩後ずさりをした。
 目の前にいる男子生徒の眼は半ば白目を剥き、舌なんて犬みたいに垂らしている。
「な、なんなのあんた!(まさか、変質者ごっこ!?)」
 果たして華那汰の予想は当たっているのか?
 答えはCMの後で!
 なんて感じでテレビだったらなるところだが、危機に直面しちゃってるっぽい華那汰に、そんなビックリ展開は訪れなかった。普段の生活でCMが入ったらビックリだ。
 腕をだらんだらん振り子のように揺らす男子生徒の手には、なんとカッターナイフが握られていた。ピンチがよりいっそう濃くなったぞ!
 でも心配ご無用(笑顔で親指立てる感じで)。華那汰の手には伝説の盾(鍋蓋)と伝説のロッド(おたま)、そして頭には伝説の兜が……な、ない!?
 鉄鍋はヒイロをぶん殴ったあと地面に放置されていた。その伝説のアイテムが落ちている場所は、なんとヒイロが体育座りでいじけているすぐ横だった。
「覇道なんたら君、鍋蓋を投げて!」
 華那汰が叫ぶ。
 ――しかし、反応ゼロ。ただの廃人のようだ。
 ヒイロは完全に戦意喪失ヤル気マイナス、地面でアリと戯れ現実逃避していた。使い物にならねぇ!
 思わず唇を噛み締める華那汰。
 男子生徒が華那汰に飛び掛ってくる。しかも、カッター持ってるの無視で普通に飛び掛かってきた。じゃあなんでカッター持ってるんだ!
 自慢の瞬発力で華那汰は疾風のごとく敵の攻撃を躱す。
 敵の攻撃を躱した華那汰は素早く体制を整え、おたまで敵の脳天を強打する。
 カツン!
 と軽い音がした。音は軽いが地味に痛いはずだ。
 おたま攻撃のあと、華那汰は間合いを取って敵の様子を伺った。
 殴られたはずの男子生徒はまったく痛がる様子を見せてない。まさかのノーダメージか?
 けれど、殴ったほうの華那汰が痛そうな顔をしているではないか?
「ありえない、ありえなーい。これは悪い夢」
 華那汰の目線の先を追ってみよう。その目線は空気中を突っ切り、男子生徒の頭に集中していた。ちょうど華那汰の殴った部分だ。その頭がなんとへこんでいたのだ。
「人間の頭があんなに簡単にへこむなんて、ありえない!(あたしは現実だなんて認めない!)」
 殴られた男子生徒の頭はまるで叩かれた粘土のようにへこんでいた。おたまの形がくっきりだ。
 男子生徒は怒ったのか怒ってないのか、その表情から伺えないが、とにかく男子生徒は頭の上でカッターをグルングルン回した。威嚇と言えば威嚇っぽいが、華那汰はある発見をしてしまった。
「まさか、カッターってただ手に持ってるだけ? てゆか、こいつ頭弱い?」
 そう言われてみれば、そうかもしれない。白目を剥いて舌をだらんとさせてる表情は、ちょっと頭が弱そうな感じがするではないか。華那汰ナイス悟り。
 そうとわかればカッターナイフなんて怖くない。赤信号、みんなで渡れば怖くない。でも、良く子のみんなは真似しちゃ駄目よ♪
 アタック!
 華那汰が赤信号を無視するようなダッシュで速攻を決める。
「ミラクルおたまアタック!(なんか思わず口にでちゃった)」
 コツン!
 またもや軽い音。今度こそ地味に痛いはずだ。
 だが、しかし!
 唖然とする華那汰のその視線の先には、頭に本日二個目のおたま型を作った男子生徒の頭。見た目的にはクリティカルだが、雰囲気的にノーダメージ?
 さすがにこれには華那汰も為す術なし。いくら超人的な運動能力があっても、物理攻撃が効かないのでは意味がない。RPGなんかで武道家がスライム系にダメージを与えずらいのと一緒だ。
 自慢の運動神経を活かすには、もうあの手しかない。
 華那汰は逃げの体制に入った。自慢の瞬発力で逃げる気なのだ。それにもうすぐ昼休み終わっちゃうし、遅刻しちゃう。
 逃げの体制に入り、背を向ける華那汰に男子生徒が襲い来る。
 そのときだった。いじけていたはずのヒイロが突然立ち上がったのだ。しかも、手には鉄鍋を持っている。
 ヒイロ選手、第一球振りかぶった。
 風を切り鉄鍋が飛んだ。
 ゴツーン!
 男子生徒の後頭部に改心の一撃。そして、言うまでもなく男子生徒の頭は鍋型に大きくへこんでいた。
 頭がへこむというビックリ現象よりも、ビックリすることが起きて、華那汰は思わず口をあんぐり凝視してしまった。
 後頭部を強打された次の瞬間、男子生徒の身体から骨が抜けてしまったように、ドロリと地面に溶け落ちたのだ。
 ゲル状になった男子生徒の目玉がギョロリと華那汰を睨み付ける。ケンカ売られた!
 華那汰は地面に転がっていた鉄鍋を拾い上げ、ゲル状超軟体人間を殴る殴る殴る!
 これでもかってくらい連続殴打して満足したところで、ヒイロが駆け寄ってきた。
「駄目だ、そんな攻撃じゃ意味がない。祖父ちゃんに聞いたことがある、スライム系のモンスターは打撃攻撃が効果ないって」
「じゃあ、どうやって倒せばいいの?」
「知らん(祖父ちゃんボケてて話が途中で飛ぶんだよな)」
 二人が隙を見せて会話しているところに、ゲル状超軟体人間の魔の手が襲い来る!
 ゼリーみたいにぷるるんした手がゲル状の身体の中から飛び出し、華那汰が掴まれてしまった。真夏だったらひんやりして気持ちよさそうだが、今はそんな場合じゃない。
 華那汰は腕を引っ張ってひんやり魔の手を引きちぎろうとするが、意外に相手の力が強くて、しかも伸縮性がいい。まったく引きちぎれない。
 ひんやり魔の手と華那汰が悪戦苦闘している最中、ヒイロはスコップを拾い上げていた。
「喰らえモンスター!」
 振り下ろされるスコップの一撃は、ひんやり魔の手を切断し、華那汰の腕は無事開放された。
 切断されて地面に転がるゼリー状の手はなかなかグロイ。
 そんなことを考えてる暇もなく、次のひんやり魔の手が華那汰に襲い掛かった。しかし、ゲル状超軟体人間の身体は突如宙に浮き、放物線を描きながら深い穴の中に落ちていった。ヒイロがあの落とし穴にゲル状超軟体人間を投げ込んだのだ。
 まだスコップを手に握っていたヒイロは、素早く穴の中に土を放り込み、落とし穴を埋め立ててしまった。なんという手際の良さ。
 手の甲で額の汗をぬぐい、ヒイロはスコップを地面に突き刺してひと休憩。
「これで一安心だ。モンスターを倒したから経験値がもらえたに違いない」
 思いがけぬヒイロの活躍に、華那汰のヒイロを見る眼差しが変わった。
「覇道なんたら君、ちょっと見直したかな(ただの使えないアリ遣いだと思ってたのに)」
「覇道なんたらじゃなくて、覇道ヒイロ」
「覇道ヒイロ……君、あたしのことは華って呼んで」
 華那汰からヒイロへ手が差し伸べられ、二人は固い握手を交した。
 ここで、華那汰が一言。
「覇道くん、今のって殺人?」
「……っ!? んなバカな話あるか、どーみても人間じゃなかただろ」
「そーだよね、えへへ♪(危うく殺人犯になるところだった)」
「人間だとしても正当防衛だ正当防衛だ。それに証拠は土の中だ。お前が黙ってればパクられる心配はない」
「覇道くんこそ黙っててね」
 二人は再び固い固い握手を交した。その顔は互いに強張っている。
 こうして二人は共有の秘密を持ち、絆が生まれたのだった。
 キーンコーンカーンコーン♪
 鳴り響く学校のチャイム。
「遅刻遅刻ぅ~っ!」

 コンコン!
 ノックをして校長室に美獣が入ると、デスクには初老の校長が座っていた。だが、その顔つきは普段の穏やかなものとは似ても似つかない。
 醜悪な顔がニタニタ嗤っている。白目を剥いているところがポイント高し。もはや、そこにいるのは校長とは異質の存在だった。
 美獣が校長の前に立つと、そこで怪異が起きた。取り巻く空気は狂気を孕み、咽返るほどの濃いなにかが宙を飛び交う。一瞬にして校長室は異界へと変貌を遂げたのだ。
 そして、怪異は続く。
 校長の身体に電気が走ったように一度痙攣し、口が大きく開かれ、喉の奥が波打つと、口の中から小さな老人の顔が吐き出されたのだ。ビックリ人間ショーも顔負けだ。人間ポンプで胃から金魚を吐き出すなんて、子供向けもいいところだ。
 鉤鼻を持った小さな老人の顔は、その顔に相応しいしゃがれた声音を喉から吐き出した。
「目的の子供は見つけたか?」
「おそらくは(デネブ・オカブ様の顔にワカメがついてるわ……ぷぷっ……笑っちゃ駄目よ笑っちゃ)」
 内心とは裏腹に、美獣の顔は重々しいものをしていた。
 小さな老人の顔――デネブ・オカブは顔にワカメが付いていることに気づいてない。美獣は必死に笑いをこらえながら、目線を伏せた。それをやましいことでもあるのかと思ったのか、デネブ・オカブは美獣を問い詰める。
「どうした? なにか不都合なことでも起きたのか?」
「いえ、その(……ぷぷっ)、目的の子供の実力を計るため、スライムと戦わせてみたのですが、本当にあの子供が目的の子供か疑問を覚えますわ(ワカメが……ワカメが……ぷぷっ)」
 唇を噛み締めながら美獣は完全に俯いた。限界も近い。
「わかった、お主はもう少しその子供の様子を伺っておれ、泳がせておけばおもしろ情報がわかるかもしれん」
「御意。ではアタクシは失礼いたしますわ」
 頭を下げ、美獣は猛ダッシュで校長室を飛び出した。
 廊下に出て、ワカメのことを忘れようと頭を振ると、廊下の先を歩く二人組みの生徒が目に入った。――目的の子供だ。

 放課後も二人は一緒に行動をしていた。ヒイロと華那汰だ。
「覇道くん、本当に化け物に襲われる心当たりないわけ?」
「ないっつってんだろ、モンスターの友達もいないからな」
「親類にいるとか?(もぉ、やっぱり狙われたのあたしなのかなぁ)」
「いるわけねーだろ。だが、あのモンスターは俺様を狙って来たに違いない!」
「どうしてそう思うわけ?(自意識過剰?)」
「俺様が世界制服を企んでるからに決まってるだろ(今後第二第三の刺客が襲ってくるに違いない)」
「あーそーですかー(こいつの頭の中どうなってるんだろう)」
 学校の廊下を歩きながら、二人は普段人の寄り付かない学校の奥へ進んでいた。
 人があまり来ないためか、廊下を照らす蛍光灯は点いたり消えたりチカチカと辺りを照らし、遠くにあるトイレから水音が微かに耳に届く。深夜の肝試しには持って来いの場所だ。
 廊下の行き止まりで華那汰は足を止めた。目の前には部屋があった。
 なんの変哲もないもない部屋といいたいところだが、こんな辺鄙な場所にある時点で可笑しい。しかも、背筋に吹き込む風が、氷のように冷たいのも気になる。
 華那汰が静かにドアをノックするが、返事はまったくない。そこで意を決してドアを開いた。
 ドアが開かれた瞬間、チリンチリンと鈴の音が鳴る。
「わっ!」
 ヒイロはすぐさま華那汰の背中に隠れた。
「ドアに付いてた鈴が鳴っただけじゃない(情けなんだからぁ)」
 部屋の中は闇に包まれ、辺りを照らす明かりは蝋燭の寂しい炎だけだ。
 ここは心霊研究部の部室。知る人ぞ知る忘れられた部活だ。
 人の気配がまったくしなかった部屋の奥から、蝋燭に照らされた白い顔がヌッと出た。
 怯えるヒイロは華那汰の後ろから出てこようとせず、華那汰も凍り付いて身動きが止まってしまっていた。
 蝋燭台を手に持った女の顔が華那汰の眼前に迫る。
「なにか御用かしら?」
 日本人形みたいな白い顔に光る目玉が浮かんでいた。
 呼吸を整え華那汰が目の前の顔を見直すと、光って見えた目玉は蝋燭の炎が眼鏡に反射したもので、そこには日本人形みたいな長髪の制服姿の〝人間〟が立っていた。人間という判断基準は足があったからだ。海外の幽霊には足があるけれど。
 すっと背中を吹き抜ける風が拭いたかと思うと、入ってきたドアが閉められていた。ガチャと鍵の掛かる音もして、閉じ込められた!?
 再びヌッと白い顔が華那汰の眼前に迫った。
「用がないなら早く帰って頂戴」
 と言うが、ドアを閉めたのは誰だよ!
「ええっと、あたしたちは月詠先輩にお話があって来たんですけど」
 さらに華那汰の眼前に白い顔が迫った。
「私にお話し?(大魔王の妹がなんの用かしら、うふふ)」
 月詠ミサは華那汰たちに背を向けて、部室の奥へと導いた。
「向こうの席でお話をしましょう。床の魔方陣を踏みつけないように、お気をつけになって」
 足を音も立てず、ミサがスーッと部屋の奥に消えていく。狭い部屋だが、暗がりのせいですぐにミサを見失いそうになる。
 目が慣れてくると、部屋の中を蝋燭の明かりだけで見渡せるようになってくる。
 どこかの教室から持ってきたのか、机が六つ班の形に並べられている。
 ミサがまず席に座り、次に華那汰が、最後にヒイロが座ろうとしたところでミサの静止が入った。
「そこは部員の席だから座らないでくださる?」
「それじゃ、俺様はこっちの席に」
「そこも駄目、そっちの席に座ってくださる?」
「こんな部活でもけっこう部員がいるんだな(こんなは余計か)」
 ヒイロが呟くと、その背筋に冷たいものが走り抜け、ミサが言う。
「幽霊部員が多いのよ……うふふ」
 どういう意味での『幽霊部員』なのか気になるところだが、ヒイロはあえて触れないことにした。触れてはいけないところだ。
 席に着くと目の前にティーカップが置かれた。ミサはまったく動いていない。人の気配は三人だけだ。
 出されたティーカップは謎の液体で満たされている。暗いので目は当てにならないが、匂いは紅茶っぽい。
 華那汰はカップに手をつけようとしたが、やっぱり手を引っ込めた。横を見るとヒイロはグビグビ飲み干している。出された物はもらっとけ、これがヒイロの生活信条だ。
「それで私にお話ってなにかしら?」
 場の雰囲気に押されてすっかり用事を忘れるところだった。ヒイロが慌てたように口を開く。
「俺様はもっと強くなりたいんだ!」
 話をかっ飛ばしすぎだった。
 途中説明を省くヒイロの代わって華那汰が席から身を乗り出した。
「違うんです、強くなりたいんじゃなくて、あたしたち昼休みに怪物に襲われて大変な目に遭っちゃって」
 このあと、華那汰は昼休みの出来事を克明に語り、それを聞き終えたミサは深くうなずいた。
「それで私に何を?」
「俺様はもっと強くなりたいんだ!」
「うるさい、あんたは黙ってて!」
 もぐら叩きみたいに華那汰はヒイロの頭を押し込めて、ミサに話の続きをした。
「あたしまた怪物に襲われるような気がして、襲われたらあたしみたいな普通の人間にはどうすることもできないし、それでミサ先輩ならあたしたちの力になってくれるかなぁ(みたいなことを考えて来たんですけど)」
「そう、普通の人間のあなたたちじゃなにもできないから私のところへ?(私の眼には、とても普通の人間には視えないけれど)」
 ヒイロや華那汰より一学年上の月詠ミサは、特殊能力者が増えたこのご時世でも飛びぬけた変わり者と学校では有名だった。心霊研究部の部長を務めるミサは、魔術や占術にも詳しいらしく、魔女の生まれ変わりだとか、母親が本物の魔女だなんて噂まである。
 ミサは自分の胸元からペンダントを取り出した。それはただの紐に石に飾りが付いた質素な物であったが、そこに付いた石がただの石ではないことは一目瞭然だった。
 石は蒼白い光を放ち、それは蝋燭の炎よりも明るく部屋を照らしている。その光を見ていると、不思議と身体の底から力が漲ってくるような、そんな不思議な石だった。
「ガイアストーンを知っているかしら?」
 ミサが尋ねると二人は首を横に振り、ミサは話を続ける。
「私が持っているこの石は小さな物だけれど、これが各地で突発的に現れた特殊能力者のニュータイプと関係があると云われている物質よ」
 それは二人にとってはじめて聞く話だった。
 大魔王ハルカが現れて以来、各地で覚醒たニュータイプたち。大魔王ハルカとの因果関係は取り沙汰されたが、その直接的な原因については知られていなかった。
 ミサがペンダントと服の中にしまうと、再び世界は闇に包まれ、心許ない蝋燭の明かりだけが残った。
「私はそれほど詳しくないのだけれど、大魔王ハルカの力の影響で、各地にガイアストーンと呼ばれるエネルギー結晶体が生まれたらしいわ。そのガイアストーンは地域に影響を及ぼし、その力によって各地でニュータイプが覚醒めたらしいわ」
 この話を聞いてヒイロが身を乗り出した。
「じゃあ、そのガイアストーンとかいうのから、もっと力をもらえば強くなれるってことか!」
「私はこの石をもらってから、能力があがったわ」
 胸に手を当て、ミサはその奥にあるガイアストーンの力を感じていた。
 実はこのとき、心霊研究部の部室の前で、何者かが中での会話に聞き耳を立てていた。
「そんな物があったなんて(はじめて知ったわ。その力を手に入れれば、仲間を、我が君をこちらの世界に召喚することも可能かもしれないわ)」
 美獣が今後の作戦を考えていると、突然部室のドアが開かれた。
「あれ、誰かの気配がしたんだけどなぁ(気のせいだったのかなぁ)」
 部室から顔を出したのは華那汰だった。
 華那汰は遠くの廊下まで見回すと、再び部室の中に戻っていった。
 そのとき美獣はというと、天井に張り付いて身を潜めていたのだ。もはや人間業ではない。
「(危なかったわ、もう少しで見つかるところだったじゃない)」
 美獣は軽やかに廊下に降り立ち、さっそく校長室に報告に向かったのだった。

 部室に戻ってきた華那汰は不思議な顔をしていた。
「絶対誰かいると思ったんだけど、誰もいなかったみたい」
 ミサが妖しく笑う。
「きっと獣がいたわ、もうどこかに逃げてしまったけれど」
「なんで獣が学校にいるんだよ?(野良猫か?)」
 ヒイロが頭の上にクエスチョンマークを飛ばすが、ミサは微笑んだままなにも答えなかった。
 華那汰が外の様子を見に行っている間、話は中断していたが、再び話がはじめられた。先陣を切ったのは、ガイアストーンに興味津々のヒイロだ。
「でさ、そのガイアストーンのこともっと詳しく教えてくれよ。それがある場所とかさ」
「ごめんなさい、私もそれほど詳しいわけではないのよ。ただ、特殊能力を持つ者には必ずクラスがあって、ガイアストーンの力によってより高いクラスにクラスチェンジすることが可能らしいわ」
「クラスチェンジ?(クラス替えのことかよ?)」
 ヒイロが思いついたクラスチェンジは、学校で学年が上がったときに行われる〝クラス替え〟のことだった。もちろん大外れだ。
 実は華那汰もなんのことか理解してなかったが、ヒイロと同レベルだと思われるのが嫌であえて黙っていた。
 黙っている華那汰をチラリと横目で見たミサは再び話を続けた。
「クラスは階位や等級、クラスチェンジは〝あなた方の持つ能力〟をパワーアップさせること。試しにお二人のクラスとレベルを視てあげるわ」
「あたしは結構です。どうせ普通の人間ですから!」
「嘘はいけないわ加護華那汰さん。あなたのクラスは〈爆走少女〉のレベル8よ。超人的な運動能力を持ち、鍛え方次第では数多くの格闘技や武器を物にするわね」
 〈爆走少女〉のレッテルを貼られた華那汰の顔をヒイロが覗き込む。
「お前もニュータイプだったのかよ、なんで教えてくれなかったんだよ!」
「だって聞かれなかったから(言ったら余計に変なことに巻き込まれそうだったし)」
「それで俺様のクラスとレベルは?(もちろん大魔王遣いレベル99だよな)」
 ミサはヒイロの顔を覗き込み、しばらくして顔を伏せて鼻で笑った。
「ふっ、〈アリ遣い〉レベル4(使えないスキルだわ……ふふ)」
「なんで笑うんだよ、俺様がレベル4ってどういうことだよ、なんで華よりレベル低いんだよ、そういうキサマはなんなんだよ!」
「超天才美少女魔法使いプリティーミサ、レベル99(嘘、自分のことは視れないの)」
「……ま、負けた(なんかアニメのヒロインっぽくてカッコいいぞ)」
 ミサの嘘を信じたヒイロは心を打ちのめされ、深い海の中に沈んでいきそうになったが、どっこい!
 ヒイロは思わぬ提案をミサにした。
「お前、俺様の仲間になれ!(パーティーに魔法使いを入れるのは基本だ)」
「私に勝負して勝ったらいいわよ(敵役が主人公に負けて、後に仲間になる。これ常識……うふふ)」
 二人とも思考が変なところに偏っているのは言うまでもない。その二人を生暖かい眼で華那汰は見つめているが、あえて突っ込まないし、止めようともしなかった。
 ミサが席から立ち上がり、部室の外へと歩き出した。
「ここは狭いし、部員のみんなに迷惑がかかるから、外で戦いましょう」
 ここにいるのは三人だけだというのを、念を押して言おう。
 ミサはドアを開け、ヒイロに先に出るように促した。
「ヒイロくん、さあ外に出て」
 自己紹介をまだし忘れていたのに、ヒイロが名前を呼ばれたことは完全にスルーされた。あまりにも自然な流れだったからだ。
 廊下に出たヒイロは隙だらけの構えを取り、声を張りあげる。
「さあ、どこからでも掛かってきやがれ!」
 そのときだった、部室のドアが勢いよく閉められ、ガチャっという鍵の閉まる音までした。
 ヒイロの数秒間シンキングタイム。
 3、2、1、締め出された!
 急いでドアを開けようとするが、押して引いてもビクともしない。
「おい、中に入れろよ!」
 ドアの向こう側からミサの小さな声が聞こえた。
「負けを認めたら開けてあげてもいいわよ(ふふふ……こんな手に引っかかるなんておばかさん)」
「卑怯だぞ、すぐに出てきて勝負しろ!」
「もう少ししたら出て行ってあげるわ(あと少しかしらね)」
「もう少しってなんだよ、すぐ出て来いよ!」
 ミサの言葉に引っかかりを感じながらも、その意味を深く考えるほどヒイロの頭脳は至らなかった。
 そして、しばらくすると鍵の開く音がして本当にミサが部室から顔を出した。
 すぐにヒイロは開ききっていなかったドアを力強く開け、ミサの胸倉に掴みかかろうとしたのだが――。
「な、なんだ……!?(身体が動かない!?)」
 ミサに伸ばしたヒイロの手は途中で止まり、意思を加えてもまったく微動だにしない。腕に痺れが走り、まるで自分の腕が自分のものではないように、いくら動かそうとしても動かないのだ。
「俺様になにをした!」
「うふふ、こんなこともあろうかと、さっきあなたが飲んだ紅茶に痺れ薬を入れて置いたの」
 こんなことなんて普通ねぇよ!
 こんなことを予想して罠を仕掛けて置くなんて、やはりミサはただものじゃない。
「(よかったあたしは飲まなくて)」
 ほっと胸を撫で下ろす華那汰。
 ヒイロの身体を襲う痺れは全身に達し、ついには立っていることもできず廊下に倒れてしまった。
 倒れるヒイロの真上には、異様に長いスカートのミサが立っていた。
 白い肌に日本人形みたいな長く美しい黒髪。ここまで来たら美少女と話が続きそうなところなのだが、なんとミサはいまどき珍しい真っ黒なサングラスをかけていた。さっきまで眼鏡だったのに、いつの間に掛け替えたんだ!?
「負けを認めたら、解毒剤を飲ませてあげるわ」
 なんて言われても、すでにヒイロは口を聞くことすらできない状態だった。
「負けを認めるなら瞬きを二回、嫌ならそのまま永久の眠りにつくといいわ(うふふ……うふふふふふ)」
 さすがは魔女だって噂されることはある。なんかそんな感じだ。
 死の危険を感じたヒイロは瞬きを二回どころか、何回も何回もした。それを見て取ったミサは妖しく笑った。
「二回ではないから、答えはノーね。そこで一生お眠りなさい」
「(ノーッ!)」
 ヒイロの心の叫びは届かず、ミサは部室の中に帰っていってしまった。
 ドアが閉められたときの音が虚しく廊下に響き渡る。
 部室に戻ったミサに華那汰がすぐさま駆け寄った。
「あの、本当にあのままなんですか?(あんなところで変死体になられたらキショイもん)」
「大丈夫よ、五分もすれば治るから」
「あーそーなんですかー(心配して損した)」
「それよりも華さん、私のこと雇わない?」
「えっ?」
「あなたが怪物に襲われたとき、私がいればなにかと心強いと思うわよ」
「一日これで雇われてあげるわ」
 これとミサが提示したのは人差し指一本だった。
「一日千円?」
「違うわ」
「一万円?(だったら高すぎ)」
「違うわ」
「一〇〇円?(なわけないよね)」
「近いわ」
「近い?」
「一日缶ジュース一本で雇われてあげる」
 二人が交渉をしていると、突然ドアが開かれ部室に強い光が差し込んだ。
「ちょっと待ったぁーっ!」
 なんとそれは、痺れ薬で倒れているはずのヒイロだった。
「(思ったより治りが早かったわね)」
 ミサの予想ではあと四分二六秒の間、ヒイロは身動きができないはずだったのだ。
 部室内に入ってきたヒイロはミサの前に立ちはだかったこう言った。
「一日一本は高すぎるぞ!」
「別に高くないと思うけど」
 と言った華那汰をヒイロはすぐに睨み付けた。
「一日ジュース一本は高いだろ。俺様が子供の頃なんて、缶ジュースが飲めたのは誕生日とお正月だけだったんだぞ!」
 ヒイロにとって缶ジュースは、華那汰とミサが想像もできないほど高級品だったのだ。
 こんなヒイロの話を聞いて、華那汰は突っ込まないわけにはいかなかった。
「覇道くんち貧乏だったの?(それも飛び切りの)」
「貧乏とか言うんじゃねぇ!(世間が裕福なだけだ!)」
 ここでミサがボソッと呟いた。
「貧乏ではないのならケチなのね」
 ガーン!
 ヒイロの心にクリティカルヒット!
 痺れ薬は抜けているはずなのに、ヒイロは再び動けなくなってしまったのだった。
 頑張れヒイロ、負けるなヒイロ!
 貧乏になんかぶっ飛ばしちゃえ!

 学校を出た不思議軍団三人衆。
 ヘソ出しかよ、とツッコミを入れたくなる裾の短い白い学ランを着た――〈アリ遣い〉ヒイロ。
 日本人形っぽい妖しさを持つサングラス少女――自称〈超天才美少女魔法使いプリティーミサ〉。
 どっからどうみても普通の女子高生――〈爆走少女〉華那汰。
 この三人組の中では、華那汰が浮きまくっていた。普通っぽいほうが浮く珍しい光景だ。
 三人は学校を出て、ミサの自宅に向かう途中だった。というのも、ミサの曾々々々……祖母がガイアストーンについて詳しいらしく、その生きた化石に会いに行くことになったのだ。とても怪しすぎる話だ。
 ミサの自宅に到着したヒイロと華那汰は唖然としてしまった。特にヒイロは打ちのめされてアスファルトに沈んだ。
「ありえん……俺様は認めないぞ……こんな不平等なことが許されるもんか」
 立派な門構えの奥に聳え立つ日本家屋の立派なこと立派なこと。間違えてどっかの高級料亭に来てしまったのかと思えるほどの、超お金持ちのご自宅がそこにはあったのだ。
 気にした風もなく家に中に入っていくミサのあとを、華那汰はヒイロを引きずりながら追った。
 正面の門を通ってから母屋までの距離が長いこと長いこと。家の中の移動にも関わらずリムジンを使い走り抜ける。松竹梅の全てが揃った庭や植物園、プール、テニスコート、ゴルフコース。人口の滝から川が流れ、その先の池には高そうな錦鯉が雑魚のように泳いでいる。
 家の中に上がると、すぐさま迎えの女中が出てきて、ミサに向かってこんなことを言う。
「お姫様、お帰りなさいませ」
 お姫様ってなんだよ。一般人とは次元が違う生き物だってことはたしかだ。
 放心状態で身体に発疹まで浮かび上がってしまった〝雑巾〟を引きずり、磨かれた長い廊下を進んで進んで進むと、やっとミサが足を止めた。
「お婆様、失礼いたします」
 襖を開けると、部屋の奥にある洋風の脚が長いダイニングテーブルが目に入った。注目すべきは、畳の上にそれが置かれていることだ。本当は畳が傷むからそんなことしちゃいけないのだが、そんなことお構いなしって感じだ。
 テーブルについていたのは、黒いナイトドレスを着た二十代後半と思われる女性だった。しかも、ティーカップ片手にせんべえを食べている。これがミサの言う曾々々々……祖母なのか?
 せんべえを食べるのをやめた東洋系の女性は、華那汰と目が合うと妖しく微笑んだ。
 一時思考停止の華那汰は、はっとして女性に駆け寄って叫んだ。
「な、なんでカーシャさんがここにいるんですかっ!?」
「我が家なのだからなんの不思議もあるまい。華こそなぜここにいるのだ?」
 華那汰とカーシャの会話を聞いて、ヒイロは不思議な顔をして華那汰の顔を覗き込んだ。
「知り合いなのか?(にしても曾々々々……祖母の割には若すぎるぞ)」
「知り合いもなにも、よくうちに遊びに来てるんだもん(意味もなく)」
 自宅に帰るといつものように、勝手に人の家で寛いでいる人物が、まさかミサの曾々々々……祖母だったなんて思いもよらなかった。
 カーシャは大画面ハイビジョン液晶テレビを見ながら、適当にヒイロたちに質問を投げかけた。
「お前たち、何用で妾を尋ねてきたのだ?(美人のカーシャお姐さまをひと目見たかったんです……なんてな、ふふ)」
 真面目に話す気のないカーシャとテレビの間にヒイロが立ちはだかった。
「ガイアストーンについて詳しく教えてくれ?」
「退け、テレビが見えんではないか」
「退いて欲しかったらガイアストーンについて詳しく教えろ」
「人に物を頼む態度ではないな小童が、退け(退かぬのなら、あ~んなことや、そ~んなことをするぞ……ふふふふふっ)」
「退くもんか!」
 あまり強くないくせして、こういうところは気が強い。
 が、ヒイロの強気もカーシャの前では通用しない。
 ヒイロの立っていた畳が突如として持ち上がり、ヒイロの身体は大きく飛ばされてしまったのだ。
 うまく受身を取れずヒイロは腹から畳にドスン。これはかなり痛くて、衝撃で呼吸もままならない。
「げほげほっ(な、なんだ今の力は)」
 カーシャはただテレビを見ているだけだった。そんな相手にやられたのだ。
 立ち上がるヒイロの瞳に、目の前にある掛け軸の字が飛び込んできた。
 ――根性。
 そう書かれた掛け軸は、明らかに太字ペンで書かれた文字だったが、それでもヒイロは内から湧き上がってくる根性を感じた。
 再びカーシャに挑もうとヒイロはしたのだが、その目に飛び込んで来たものは!?
 テーブルを囲みながら団欒してる三人の姿。楽しそうにおしゃべりして、テレビなんか見てやがる。ヒイロは完全に仲間はずれを喰らったのだ。
 やーい仲間はずれ。
 やーい仲間はずれ。
 やーい仲間はずれ。
 ヒイロの頭の中で『やーい仲間はずれ』がエコーする。この言葉はヒイロにとってトラウマワードだったのだ。
 撃沈。
 ヒイロは畳の上で力尽きたのだった。
 そんなヒイロのことは放置で、話はさっさと進められていた。
 カーシャはどこからかフリップボードを取り出し、図説つきでガイアストーンについて熱く語っていた。
「ガイアストーンとは、この世界に存在する全てのモノに宿る力、妾たちはマナと呼んでいたのだが、そのエネルギーが結晶となり目に見える形になった物を云う。マナもガイアストーンも妾のいた世界固有の物だと思っていたのだが、どうやら違うらしいな」
 気になる発言、其の一は『妾のいた世界』。実はカーシャは大魔王ハルカとともに異世界からやってきた人物なのだ。
 クリップボードを放り投げたカーシャは話を続ける。
「ハルカが向こうの世界でガイアストーンの力を大量に体内に溜め込んでこっちの世界に来てしまったせいか、こちらにあったマナが影響を受けて結晶化したのだろう。ガイアストーンは地脈、大気などのありとあらゆる万物のエネルギーを吸収し成長する。そのエネルギーは周りの環境にも影響を及ぼし、こちらの世界ではニュータイプと呼ばれる輩が多く出現することになったのだ」
 華那汰は感心したようにうなずき、カーシャの話に聞き入っていた。
「つまりあたしのお姉ちゃんがあっちの世界から帰ってきたせいで、あたしまで変な能力に覚醒めちゃったってことなんだ(あーもうやだ、日本征服だけじゃなくて、そんなことでも皆さんに迷惑かけてたのか、うちの姉は)」
 一年と少し前のこと、華那汰の姉――遙は学校からの帰り道、突如行方不明になってしまったのだ。家族や警察の懸命な捜索にも関わらず、姉は家に帰ることはなく、家族は悲しみにくれる日々を送っていた。しかし、そんなとき、一匹の黒猫が華那汰の家を訪れたのだ。それがなんと行方不明になっていた華那汰の姉――遙だったのだ。
 それからが大変だったのだ。思い出すだけでも頭が痛いので思い出したくもない、封印された華那汰の思い出だ。
 カーシャの説明は紙芝居を交えたものになっていた。
「妾のいた世界でもガイアストーンは重宝され珍しい物だったのだが、こちらの世界はマナの力をあまり使わないせいだろう、マナの循環が悪くひとつの場所に溜まりやすく結晶化されやすいようだ」
 だいぶ説明が進んだところでカーシャが立ち上がり、なにも言わず窓に向かって歩き出した。
 大窓を開け、カーシャは手入れの行き届いた庭を見渡した。外の空気が吸いたかったなんて軽いオチではない。カーシャは庭で何者かの気配を感じたのだ。
 石を敷き詰められた庭にある池で、鯉が水面を跳ねた。
「気のせいか……(あんな灯篭、庭にあったか?)」
 見慣れない灯篭を気にしつつも、カーシャは再びテーブルに戻っていった。

 広い庭にぽつんと立つ灯篭。
「(危なかったわ、こっちに近づかれたらアウトだったわよ)」
 忍者並みの変化の術で灯篭に化けていた美獣は、灯篭の中で冷汗だらだらだった。
 辺りに人がいないことを確認して、再び〝灯篭〟は窓に近づいて部屋の中に聞き耳を立てた。
「ガイアストーンの力を借り、クラスチェンジをするにはそれなりの器が必要だ。小僧、お前にその器はあるか?(……ないな、ふふっ)」
 カーシャに目を向けられたのは、未だ畳の上で打ちひしがれているヒイロだった。こんな姿じゃそんな器があるとは、見えない思えないありえなーい。
 だが、カーシャの声を掛けられたことにより、『やーい仲間はずれ』の呪縛から解き放たれたヒイロが立ち上がったのだ。それもかなり速い身のこなしで。
「はーははははっ、この覇道ヒイロ様に器がないだと!」
 ミサがボソッと呟く。
「なにをいう、〈アリ遣い〉レベル4(ふふ、プラス貧乏)」
「〈アリ遣い〉のなにが悪いんだよ。今は〈アリ遣い〉かもしんないけど、俺様は近い将来〈大魔王遣い〉になるんだ!」
 カーシャの眼がキラリーンと輝きを放った。
「小僧、今なんと言った?(〈大魔王遣い〉だと?)」
「俺様は近い将来〈大魔王遣い〉になるんだ! のところか?(なにか俺様マズイこと言ったか?)」
「ふふふっ、図の乗る出ないぞ小童が!(妾が何千年かかって、今の地位を手に入れたと思っているのだ……カーシャの波乱万丈……ふふっ)」
「図に乗ってなにが悪い、金はなくても夢を多く持ってなにが悪い!」
 大魔王遣いの〝遣い〟のあたり、人の力を遣って世界征服をしようとするところに小ささを感じるが、そのへんはこの際あんまり気にしないことにしよう。
 カーシャの指先が広い庭先に向けられた。
「小僧、現実というものを教えてやろう。妾と戦え、妾に勝てぬようでは大魔王遣いなど夢のまた夢」
「望むところだ!」
 意気込んだヒイロはカーシャよりも早く、庭に飛び出した。ところで、後ろでガシャと窓の閉まる音がした。この展開、前にもあったような?
 ヒイロが振り返ると、見事に窓を閉められ締め出しを喰っていた。
 今度はシンキングタイムなしで悟った。
 締め出された!
 急いで窓を開けようとするが、押して引いてもビクともしない。
 窓の向こう側では、相手を小ばかにしたような薄ら笑いをしたカーシャが立っていた。
「単純な小僧だ(ふふふ……こんな手に引っかかるなんて馬鹿だな)」
「おい、開けろ!(家族揃って同じ手使いやがって!)」
 窓ガスを叩いて喚くが、綺麗に拭かれた硝子に手の跡が付くだけだった。もっと強く叩いても、この硝子は防弾硝子なので、ヒイロの打撃程度じゃびくともない。
 ヒイロは今にも泣きそうな顔をして、中にいる裕福なやつらを恨めしそうに睨み、さっき庭に出たときに履き替えたサンダルをカッポカッポ鳴らしながら走り去ってしまった。
「わぁ~ん、貧乏人をバカにすんじゃねえ!」
 そう捨てセリフを吐いてヒイロの姿は完全に消えてしまった。過去に似たような経験をしたに違いない。裕福な家庭を窓の外から眺める、そんな幼き日の思い出とかが。
「覇道くん帰っちゃったし、あたしも帰ります(なんか結局なにしに来たんだろ)」
 そう言って華那汰もカーシャとミサに頭を下げて帰っていった。
「私も自分の部屋に戻りますわ(お婆様は悪戯がすぎるんだから)」
 ミサも部屋をあとにし、残されたカーシャはひとり庭に出て、灯篭に向かって強い口調で言った。
「そこに隠れているのはわかっている、出て来い!」
「……バレていたなら仕方ないわ」
 灯篭の中から声がした。カーシャの向いている方向とは明後日の方向にあった灯篭から。
「(……そっちだったか、ふふ)」
 美獣が灯篭を脱ぎ捨てた瞬間、煌く粒子が氷の結晶のように輝いた。それは汗だった。灯篭の中は通気性が悪く、かなり熱くて死にそうだったのだ。そのため、すでに美獣は息絶え絶えで、両膝に手をついてしまっている。
 毛皮のコートを着ているのもかなり悪条件だ。
 それでも美獣は頑張るのだ。
「おーほほほほっ、よくアタクシが隠れていると見破ったわね!(見つけてくれてありがとう、感謝するわ!)」
 正直、早く出たくてウズウズムズムズだったのだ。
「妾の家の庭でなにをしていた? 庭師には到底見えないが?(くのいちか?)」
「おほほ、アタクシの名は美獣アルドラ、さる高貴な大魔王様に仕える魔族の戦士よ!」
「大魔王か、それは奇遇だ。妾の知り合いにもハルカという名の大魔王がいるぞ」
「そんな偽者のなど我が君に比べたら、子供だましもいいところだわ!」
「子供だましとは失礼な。妾が手塩をかけて大魔王に仕立てあげたのだぞ」
「あなたが大魔王を?(なにを言ってるのかしらこの人間は?)」
 カーシャは瞳に静かな笑みを湛え、目の前の美獣を見つめていた。笑っているのに笑っているように見えない氷の微笑だ。
「大魔王ハルカを裏で操り、世界征服をしようとしているのはこの妾だ(ここまで漕ぎ着けるのにウン千年の紆余曲折を経てしまったがな……ふふっ)」
「あなたさっきカーシャって呼ばれていたわね。たしか大魔王ハルカの腹心の名前がカーシャとか言ったような気が……(ま、まさか!?)」
「腹心の部下は仮の姿。ハルカは大いなる力を得てしまったが、世界征服を企む頭は持ち合わせてはおらん(あっちの世界で挫折、こっちの世界でも挫折の連続、ついに妾は世界征服の足がかりを掴んだのだ。誰にも邪魔はさせぬぞ)」
「あなたがあのカーシャだとしたら、ここは引くわけにはいかないわ(この女の首を持ってて帰れば我が君はきっとアタクシのこと、いい子いい子してくださるわ!)」
 美獣はかなり気合が入っていた。君主への愛、忠誠心だ。
 地面に両手を付き、獣のように美獣は飛び上がりカーシャに襲い掛かる。
「アタクシの至福のために死んで頂戴!」
 少々動機が不純だ。
「世界征服の邪魔は誰にもさせん!」
 こちらの動機もなんともコメントがしずらい。
 鋭く尖った美獣の爪が振り下ろされ、カーシャの白い頬に一筋の紅い線が走った。
「ふふ、なかなかやりおるな。だが、妾の魔法を躱わすことができるか?」
 カーシャの手にエネルギー粒子の煌きが集まり、それは一気に開放された。
「アイスニードル!」
 ――呪文は虚しく木霊した。なにも起こらなかったのだ。
「脅かさないでよ、なにか凄い魔法でも飛んでくるのかと思ったじゃない!」
「うるさい、飛ぶ予定だったのだ!(やはり、こちら側の世界ではマナの波長が合わず魔法もろくに使えん。やはり近くにエネルギーソースのハルカがおらねば)」
 戦闘中なので簡単に説明するが、マナとは魔法を使うためのエネルギーソースのことである。
 相手がなにもできないと知って、美獣のヤル気はグングン鰻上りだった。
「おーほほほほっ、アタクシに手も足も出せないようね!」
「魔法が簡単に出るときと、出ないときがあるのだ!」
「そんな嘘、アタクシには通用しないわ!」
 美獣は足先を回転軸にして、腕を大きく広げながら身体を回転させた。
「円舞必殺撃!」
 回転速度の加わった美獣の鋭い爪がカーシャに襲い掛かる。
 ビュン!
 一撃目がカーシャの眼前を掠めた。だが、一撃では終わらない。回転する二撃目が襲い来る。
 ビュン!
 風を切りながら、鋭い爪はカーシャの着るナイトドレスの腹の部分を切った。
 ビュン!
 三撃目はカーシャの胸元を切り裂いた。ノーブラだったので下乳がチラリンしたが、それを見て喜ぶ者がこの場にいなかった。残念!
 美獣の円舞必殺撃は攻撃のたびに速度が上がり、躱わすのが難しくなっていた。
 しかし、この必殺技には致命的な欠点がある。
「ウェ~ッ、目が回ったわ(頭がクラクラするるぅ~)」
 回りすぎると目が回るのだ。ちょっと情けない弱点だ。
 頭の上で星を回し戦闘不能の美獣だが、カーシャもまた普段の怠け生活のため、息切れで動けなかった。もとよりカーシャは肉弾戦が苦手なのだ。
 ゼーハーゼーハー息切れする二人を観ながら、ミサは縁側に座り抹茶を飲んでいた。
「カーシャお婆様、力をお貸しいたしましょうか?」
「条件はなんだ?」
 必死な顔をしてカーシャはミサの方を振り向いた。
「これでどうかしら?」
 ミサは人差し指を立てて見せた。またジュース一本か?
「千円か?」
「違いますわ、一回壱百萬円でお助けいたしますわ」
 完全に人を選んでいた。必死なカーシャの足元を見ている。
「税込みで壱百萬円だろうな!(遠い孫とはいえ、こういうところが妾に似ておる)」
「現金でお支払いくださいませ、お婆様、うふふ」
 笑いのクセもカーシャ譲りだった。
「こやつを退治できたら払ってやる!」
「商談成立ですわね」
 ミサは首から提げていたペンダントをカーシャに向かって力強く投げた。エネルギーソースであるガイアストーンだ。
 緩い放物線を描きペンダントが宙を飛ぶ。
 美獣はすでに体制を整え、カーシャに襲いかかろうとしていた。
「円舞必殺撃!」
 懲りずにまたこの必殺技である。だが、威力は折り紙付きだ。もろに喰らえば肉を抉り取られてしまう。
 宙を舞っていたペンダントはすでにカーシャの手の内に握られていた。
「ふふ、儚く凍るが良い――ブリザード!」
 カーシャの手から高濃度のエネルギーが放出され、それは吹雪となって美獣に襲い掛かった。
 世界が恐怖とともに凍りつく。
 大地と空気を扇状に凍らせ、その先にいた美獣の半身までも冷たい氷へと変えてしまっていた。
「まさか、このアタクシが人間ごときに、このような屈辱を!」
 美獣の半身は脚を残し厚い氷で覆われてしまい、微かな振動により凍り付いていた腕が割れ落ち、地面で激しく砕け散った。
「妾が人間ごときだと?(あちら側の世界では氷の魔女王と呼ばれ恐れられていたのも昔、こちら側でインド、中国、日本と追われたのも昔のことか……笑えん思い出しかない……ふふっ)」
「カーシャお婆様、敵が逃げてしまいますわよ!」
 ミサの声が木霊し、ハッとしたカーシャが前を見ると、すでに美獣はカーシャに背を向けて逃げ去ろうとしているところだった。
「覚えてなさい!(こんな怪我を負わされて帰ったらデネブ・オカブ様にまた叱られるわぁん!)」
 割れた腕を地面に残し、美獣は去って行った。
 残されたカーシャの横にそっと近づくミサ。
「お婆様、手に握ってる私のペンダント、返してくださる? それと壱百萬円のことお忘れにならないでくださいね」
「……しっかりしているな(壱百萬円……どうやって踏み倒そうか)」
 カーシャはすでにトンズラの体制に入っていたのだった。

 ミサ邸から平凡な我が家に帰ってきた華那汰は、玄関で靴を脱ぎ捨てると、二階にある自分の部屋まで駆け上がろうとした。けれど、一歩上がった足は一歩下げられ、そのまま茶の間の前まで歩いてしまった。
 開いた襖から華那汰が顔を覗かせると、そこにはなんとさっき会ったばかりのカーシャが寛いでいるではないか!?
「また会ったな華(ふふ……妾のほうが一足早かったようだな)」
 どういう原理が働いたのか知らないが、とにかくカーシャのほうが早く家に着いたのだ。
 まるで自分の家の茶の間のように、テレビを独占し、台所で勝手に淹れてきたお茶を飲み、隠してあったお茶菓子まで食べている。
 そんなカーシャの横では、黒猫が脚を崩して丸くなっている。
 黒猫の耳はピクピクと揺れ、持ち上げられた黒猫の視線が華那汰を見つめた。
「お帰り華那汰」
 黒猫が女の子の声でしゃべった。超高性能ペットロボでも、中に小さな小人さんが入っているのでもない。黒猫自身が人語を発生したのだ。
「お姉ちゃんただいま」
 華那汰は黒猫に向かってそういった。そう、この黒猫こそが世間では大魔王と呼ばれている華那汰の姉――ハルカだった。
 姿かたちはどこからどう見ようと普通の猫と変わらない。人語をしゃべらなければ誰も気づかないだろう。
 ハルカは鼻をクンクンして台所から漂ってくる匂いを感じ取ると、カーシャに向かって尋ねる。
「今日もうちで食べてくんですかぁ?」
「夕飯はシチューらしいぞ(この家庭のシチューは牛の代わりに鳥が入っている……ふふ)」
 もう用はないと、華那汰は考えごとをしながら自分の部屋に戻ろうとした。
「(なんであたしよりうちの夕飯に詳しいわけ)」
 そんなことを考えて背を向けたときだった。
「受け取れ華」
「えっ?」
 振り返ると、カーシャの手から紐の伸びた物体が投げられた。それは蒼白く淡い光を放ちながら残像を残し、華那汰の手の中に受け止められた。
「これって、月詠先輩の?」
「うむ、うっかり持ってきてしまった。明日学校に行ったときにでも返しておいてくれ」
「自分で返せばいいじゃないですか」
「しばらく自宅に帰れんのでな(帰ったとしてもミサには会えん)」
 壱百萬円を踏み倒すために、カーシャはミサのもとからとんずらして来たのだ。
 再び自分の部屋に華那汰は戻ろうとしたが、また後ろを振り向いてカーシャに尋ねた。
「カーシャさん、ガイアストーンの話を聞かせてもらったじゃないですか?」
「うむ」
「ガイアストーンってどこにあるんですか?」
「お前が今手にもっておろう(ふふ……冗談)」
「そうじゃなくって、もっと大きくてみんなに影響を与えちゃうような」
「正確な位置は知らんが、検討なら付いておる」
「どこですか?」
 華那汰が尋ねると、カーシャは人差し指を立てて見せた。
「これでどうだ?」
「指一本……缶ジュース一本ですか?(違うか)」
「壱百萬だ」
「払えるわけないじゃないですか!」
「わかっている(言ってみただけだ)。だがな、払えぬなら教えてやらん」
「もういいです、さよなら(ひとんちに半居候してんだから、そのくらい教えてくれてもいいじゃん)」
 怒った華那汰は階段を駆け上り、自分の部屋に飛び込もうとドアノブに手を開けた。
 鈴の音が鳴る。
 階段を駆け上ってくる鈴の音。それは足音もさせず近づいてくる黒猫のハルカだった。
「ちょっと待ってよぉ、華那汰!」
「ん、なに?」
「ハルカ知ってるよ。たぶんだけどガイアストーンの場所」
「マジで?」
「たぶんね。こないだハルカが遠くまで散歩してて変な街に迷い込んじゃったんだけど、そこにあるような気がするよ」
 数日前のこと、散歩の途中でハルカが迷い込んでしまった不思議な街。本物の猫であれば行動範囲が決まっているので、そんな場所に迷い込むこともなかっただろう。しかし、ハルカは元人間だ。
 好奇心旺盛なハルカは散歩のたびにいろいろな場所を見て回る。
 高校に席を置いたままになってはいるが、猫のままでは通うこともできず、大魔王ハルカと自分の関係も必要以上にバレないようにそれなりに気を使っている。
 猫のままではできることも少なく、時間をもてあましてしまうことも多い。そのため、自然と趣味が散歩になった。
 首輪を付けて、どこにでもいそうな飼い猫として散歩に出る。
 その日は人の多いビル街まで足を運ばせた。
 雑踏を抜け、人の寄り付かないような細い裏路地を抜け、ハルカはなにかに導かれるように進んでいった。
 立ち入り禁止の立て札と結界が貼ってあったが、結界が貼り忘れてあった隙間を通ってハルカは中に入った。
 廃墟と化した街。
 放置されてまだ間もないビル郡の間に、ハルカは人影を見た。それはそこに住む者たちだった。
 スラム街と化したこの地域に住む者たちは、ビルの中に勝手に住み込み、その日暮しをしている者が多い。
 ハルカは狭い路地で遊んでいる子供たちの姿を見た。
 ひとりの子供が階段を上るように空を飛んだ。その横では動物や昆虫の形をしたシャボン玉を口から吐き出す子供がいた。
 遥か頭上では、ビルの側面をトカゲのように這って歩く人がいた。
 そう、ここはニュータイプたちが棲む街なのだ。
 ハルカはこの先に、大きな力を感じながらこの場をあとにしたのだった。
「あとでカーシャさんに聞いた話なんだけど、その場所ってハルカの名前を使って立ち入り禁止にした区域なんだって」
 ハルカの名前を使ってとは、つまり現在のこの国の主権を握っている最高責任者の名において、立ち入りを禁止した特別区域ということになる。
「でもでもお姉ちゃん、ガイアストーンを見たわけじゃないんでしょ?」
「うん、見てないよ。でもね、あるような気がするよ」
「そっか、教えてくれてありがとね♪(お姉ちゃんがあるような気がするんだから、あるのかな?)」
 ガイアストーンのありかの手がかりを掴んだ華那汰だが、これをヒイロに教えるかどうかは、今晩一晩かけてじっくりと考えることになるのだった。

 スズメの合唱団はどこかに消え、商店やデパートが店を開けはじめる頃。
「遅刻遅刻ぅ~っ!」
 今日は休日だと言うのに爆走する少女――華那汰。
 なんだかんだで、今日は駅前で待ち合わせ。まさかデートか!?
 待ち合わせの場所で男が華那汰に向かって手を振っている。
「遅いぞ、時は金なりって言葉知らないのかよ」
 待ち合わせの場所にいたのはヒイロだった。まさか、ヒイロとデートか!?
 だが、ヒイロの後ろからひょこっと影が顔を出した。
「一〇分の遅刻ね、うふふ」
 今日も外出時はサングラスのミサだった。
 ミサの姿は全身黒尽くめのロングスカートで、手には黒い手袋までしている。影が濃すぎて逆に人々の目を引いてしまう。夜でもきっと影が濃すぎて目立つような気がする。街灯やビル明かり、夜空の明かりに照らされた町のほうがよっぽど影が薄い。
 近くを往来している人々の目をもっと強引に引いているのはヒイロだった。
 休日だというのに、今日もあの白い学ランなのだ。
 これにツッコミを入れるのは礼儀だろう。礼儀というか、華那汰はツッコミを入れたくて、身体がうずうずしていた。
「覇道くん、私服は?(なんで、今日もこの格好なの???)」
「これが俺様の戦闘服だ!」
 なんだかよくわかんないけど、そーゆーことらしい。つまり、制服に袖を通した瞬間から、その職業に気持ちを切り替えるのと同じような、同じじゃないような感じだろう。
 ジップ付きのパーカとミニスカを合わせた、可もなく不可もない普通の格好をして華那汰が浮いている。
 この三人が集まったのは、もちろん遊びに行くのではなく、ガイアストーン捜索のためだ。
 昨日、学校で華那汰がヒイロにガイアストーンの情報を話したところ、さっそく休日の今日に捜索をすることに決まったのだ。ちなみにミサはジュース一本で華那汰に雇われた。
 戦闘を切って歩いているのは、情報を持ってきた華那汰ではなくミサだった。
「華ちゃん、帝国令第三号立ち入り禁止区域でいいのよね?(あの場所に行くのなら、重装備で来ればよかったかもしれないわ)」
「はい、そうです。ちゃんとお姉ちゃんに聞いてきましたから♪(じつはお姉ちゃん方向音痴だけど)」
 遠足気分の華那汰とは裏腹に、ミサはなにか不安を覚えていた。
「うわっ!?」
 ヒイロが声をあげ、すってんころりん。コケた。
「いてててっ、なんでこんなところにバナナの皮があるんだよ(俺様が子供の頃はバナナなんて誕生日と正月しか食えなかったんだぞ)」
 ヒイロがズッコケたことによって、すでにミサの不安は的中なのか?
 三人が向かっている帝国令第三号立ち入り禁止区域は、通称〈飽食街〉と呼ばれている。その名の由来は飲食街が並んでいるから、なんて生易しいものではない。
 裏路地を抜け、ビルとビルの合間にできた細い道を通り抜けると、そこには立ち入り禁止の札と結界用のロープが張られていた。
 ハルカに教えられたとおり、少し奥まった場所にある破れたフェンスから〈飽食街〉の中に入った。
 フェンスを潜るときから外に吹き出る異質な空気を感じたが、中に入るとそれがいっそう濃くなる。
 中に入るとミサはすぐに辺りを見回して声を潜めた。
「なるべく人に会わないようにいたしましょう、でないと――」
 三人に群がるように人が集まってきた。それは小さな子供たちであった。いつの間にか三人は子供に取り囲まれていたのだ。
 物欲しそうに華那汰の服を引っ張る少年。なにを言うでもなく、目だけでなにかを訴えている。
「月詠先輩、どうしま……えっ!?(センパイ!?)」
 華那汰が振り向くと、華那汰以上にミサは子供たちに取り囲まれていた。その一方でヒイロのところには、ひとっ子ひとりいない。
「なんで俺様のところには来ないんだよ(子供には好かれるほうなんだぞ)」
 答えは簡単だった。
 ミサが一番でヒイロが最下位のことな~んだ?
 飴玉をポケットから取り出したミサは、それを遠くの方へと放り投げた。
 ヨーイドンでもしたかのように、子供たちが一斉に飴玉にたかるように走っていく。
「二人とも早く逃げるわよ!」
 ミサが子供から逃げるように走り出し、ヒイロと華那汰がそのあとを追った。
 走りながらヒイロが尋ねる。
「なんで俺様のとこには来なかったんだよ?」
「私が飴玉を持っていたからよ」
「なるほどな、食べ物をいくらでも欲しがるから〈飽食街〉なのか!(俺様って天才)」
 だが、華那汰はどうやら腑に落ちないようだ。不思議そうな顔をしてミサを覗き込んでいる。
「(あたし食べ物持ってなかったけど)」
 そう、じつは食べ物を持っているかいないかなど関係ないのだ。〈飽食街〉の〝飽食〟とは本物の食物を示しているのではなく、比喩なのだ。
 華那汰に顔を覗かれ、ミサは妖しく笑った。
「ヒイロくんさすがね」
「だろだろ、俺様ってスゲエだろ」
「(ヒイロくんが納得すればいいのよ。本当は、彼らは貧富の差を見分ける能力を本能的に持っているからなのだけれど)」
 この秘密はミサの心のそっとしまわれたのだった。
 奥へと進むにつれて、〈飽食街〉を包む不思議な空気は濃さを増し、時折り人影も見えた。
 社会と隔離された地域に住む人々だが、その格好はそこらの街にいる人々と変わらない。中には外よりも豪勢な身なりをした者もいる。
 高級ブランド物の時計やバッグを持ち、身体中を宝石類で着飾る人々。そんな人々が多く出入りしている店があった。
 昼間だというのにネオンが喧しく騒ぎ、元はパチンコ店だったらしい店を改装したカジノ。
 顔を見合わせるヒイロと華那汰を他所に、ミサはその店へと平然として入っていくではないか!?
「ちょちょちょ、ミサ先輩待てよ!」
 ミサの肩に手をかけてヒイロは止めたが、ミサはその手を軽く振り払った。
「この街のことだったら、この街の首領に会うのが一番なのだけれど、やめる?」
 サングラスの奥の瞳がヒイロを見据えている。その瞳に見つめられたら、ノーとはいえない。そんな魔力のこもった瞳だった。
 見つめられたヒイロがイエスと言ってしまいそうになったとき、見つめられてない華那汰がノーと言った。
「こんなところ子供が入っちゃいけないんじゃないですか?(たしかパチンコ店は十八歳未満お断りだっけ?)」
「いいのよ、無許可のお店なのだから(私たちが賭博行為をしなければ関係ないわ)」
 スタスタと店の中に入っていくミサ。
 店の前にはタキシード姿の男が二人立っていたが、ミサのことには目もくれなかった。他の場所では立ち入りをストップされるだろうが、この街ではそんなことなどどうでもいいのだろう。まるでゲーセン感覚だ。
 ミサのあとに華那汰が続き、最後にヒイロが店内に入ろうとしたとき、タキシードの男たちが速やかに動いた。
「うわっ離せ!(なんで俺様だけ!?)」
 ヒイロは見事に男たちに捕まった。きっとヒイロの醸し出していたオーラが原因だったに違いない。隠しても隠し切れない貧乏オーラ。
 男たちに捕らえられ、足を空中でバタつかせるヒイロを華那汰はシカトして、代わりにミサが救いの手を差し伸べた。
「その人、私の連れなの。離してくださる?」
 男たちは機械的にサッとヒイロを開放した。きっとミサの醸し出しているオーラがわかるのだ。隠して隠し切れない金持ちオーラ。
 金持ちには絶対服従。わかりやすい社会のルールだ。

 店内は外よりも騒がしく煌びやかだった。
 天井を見れば、贅の極みとしか思えない、重圧感たっぷりで忌々しく輝く巨大シャンデリア。もちろん、ダイヤなどの宝石類が散りばめられている。
 床を見れば、ピカピカに磨かれた大理石を無駄にするように、ボロイマットが敷かれている。良い物を悪い物で潰すセンスが、一般人とは違うこの店のオーナーの贅沢センスなのだろう。
 そして、もっとも趣味が悪いと思われるのが、店の中央部分にある濁った水が噴出す噴水の中央にあるセンスの悪い黄金の豚像。その豚の瞳に真珠が埋め込まれているのはギャグか嫌味かだろう。
 カード、ルーレット、スロットと定番のギャンブルはもちろん、他にもいろいろなギャンブルが取り揃えてある。アンダーグラウンド過ぎて、ここでは言えないような過激なギャンブルが多数あったり、なかったり、やっぱりないかなぁ。みたいな感じだ。
 店内の奥へと足を運ばせるミサに、ヒイロと華那汰はオズオズ怯えながら付いていく。どっちかというと、ヒイロの方が怯えているようだ。場の空気に窒息死させられそうな青い顔をしている。
 奥へ奥へと入っていくと、途中なんども店員に静止させられそうになったが、ミサはその都度ティッシュ配りでもするように紙切れを配っていくのだった。
 紙切れをもらった店員は急にニヤニヤして、丁寧に頭まで下げちゃってくれて、ミサたちを奥へと通してくれた。きっとミサの配っている紙切れには、恐ろしい魔力がこもっているに違いない。
 不思議に思ったヒイロがミサにそっと耳打ちした。
「なに配ってるんスか?」
「うふふ、ヒミツ。水戸黄門の印籠みたいなものかしらね(ヒイロくんに教えたら、また落ち込みそうだもの)」
 オーナーの部屋の前には、体躯のいいプロレスラーみたいな男がドアの前で仁王立ちしていた。
 大男の前に立ったミサが首を大きく曲げて、それでも足りず上目使いをする。その光景は巨人と小人。一五二センチと小柄なミサだが、二メートルを優に超える巨人を前にしたら、誰でも小さく見えてしまうだろう。
「オーナーにお会いしたいのだけれど、取り次いでくださる?」
 ミサの要請に男は無言で答えた。シカトだ。
 数秒間の沈黙が廊下に降り、再びミサが口を開く。
「オーナーにお会いしたいのだけれど、取り次いでくださる?」
 男は微動だにしない。またシカトだ!
 二度のシカトにも涼しげな顔のミサ。目元はサングラスで隠れているのでわからないが……。
 ミサの口元が笑みを浮かべ、マジシャンもビックリの早業で手に両手に扇が!?
 扇状に広げられたそれは札束だった。しかも、御ロし立てのピン札だ!
 一度は誰もやってみたいと思う、札束による両手うちわ。顔をペチペチ叩かれたら言うことなし。それを今、ミサは惜しげもなく、なんの感慨もなく、あっさりとさっぱりとやって見せたのだ。
 だが、しかし!
 男はこれにも微動だいしなかった。
 そこで、ミサは奥の手を使ったのだ。
 サングラスを取り、相手の瞳の奥の奥まで覗き込むように見つめ、濡れた唇で静かに囁く。
「今晩、ホテルで待ってるわ……うふふ」
 なんという反則技!
 まさかミサがこんな裏ワザを使うなんて誰も考えなかっただろう。
 やはり男は無言のままだったが、顔をほのかに桜色に染め、サッとドアの横に退いた。効果があったのだ。
 サングラスを掛け直し、ミサは呆気に取られる華那汰たちのほうを振り返る。
「入れてくれるそうよ、入りましょう」
「は、はい(月詠の先輩の素顔、そういえばちゃんと見たことないや)」
 この間、ヒイロは床に沈んでいた。なぜって、ミサがビックリ発言をした――より前に両手に札束の光景を見せられてノックアウトしてしまったのだ。
 オーナー室に入っていくミサを追いかけて、華那汰が放心状態のヒイロを引きずりながら中に入った。
 豚だ!
 豚がいる!
 あの豚がバナナを食ってる!
 オーナー室のデスクにドッシリと座る豚。どっかで見たこの豚さん。カジノフロアの中央にあった黄金の豚像そのまんまの豚だ。――いや、人間だ。
 そこにいるのは列記とした人間だった。
 そのスタイルは、上半身裸にステテコパンツという珍妙なものだった。白くぶよぶよ肥えすぎだ肌にラード……もとい脂汗が浮かんでいる。チャームポイントは首の赤いリボンだ。
 ブヒブヒ鼻息を立てながら、豚男がブヒブヒとミサをブヒブヒ睨んだ。
「なんだキサマは、ぶひっ(どっかで見たことあるガキだな)」
「わたくし、月詠幻蔵の孫娘のミサと申します。あなたにお会いするのは、三度目だと思いますわ」
「ぶひっぶひっ、ぶひっ、あの月詠会長の孫か! そう言えば、二年ほど前にもパーティーでお前を紹介されたぶひっ(どえらい奴が尋ねて来たもんだ)」
 ミサの祖父のことを知っている豚男は脈拍数が急上昇、鼻息も一二〇パーセント増しだ。身体から出るラードもテッカテカだったりする。
「ぶひっ、ぶひっ、その孫娘がぶひっになんの用だ?」
「俺様は強くなりたんだ!」
 突然元気になって飛び出すヒイロ。話をぶっ飛ばしすぎだった。そんなヒイロは完全に無視。
 ミサが話を続ける。
「不思議な石が〈飽食街〉にあると聞いて来たのだけれど、そんな話を聞いたことないかしら?」
「ぶひっ? その石は高く売れるのか?(金儲けの臭いがするぞ)」
「あなたには関係ない代物だわ。関わるとトラブルに見舞われるわよ」
「トラブルはまっぴらごめんだぶひっ。ぶひっはここで静かに金儲けしてるのが性に合ってる、ぶひっ」
 この豚男は宝石を取り扱う会社の社長であったが、ある日、忽然と社会から姿を消してしまった。豚男は自分の意思で失踪し、惹かれるようにしてこの〈飽食街〉にやって来た。そして、底知らぬ欲望を満たそうとしながら、いつしかこの街の首領と言われるまでにのし上がったのだ。
 豚男の鼻から突風が吹いた。
「ぶひーっ、心当たりがあるぞ。だがもちろんタダじゃ教えられない」
 マジシャンも顔負けのワザでミサの手に各種クレジットカードが扇状に出された。
「カードでお支払いできるかしら?」
「だめだ、だめだ、ぶひっは現金か宝石類でしか取引しないぶひっ。払えないなら、そこにいる女と交換でいいぞ、ブヒヒ(元気そうで美味そうなガキだ)」
 雄豚に舌なめずりされて見られた華那汰は背中にゴキブリが走る思いだった。
「イヤ、イヤ、絶対ヤダからね。あんなのの女になるくらいなら、死んでやる!」
「ぶひっぶひっ、気の強い女がぶひっは大好きぶふぉ!」
 デスクから立ち上がった豚男が、お肉をぷるるんさせながら、のっしのっしと華那汰に近づく。豚男に通ったあとにはなぜか巨大な水溜りが(笑)
 嫌悪感を抱きながら、華那汰が後ずさりをする。顔が完全に硬直してしまっている。
「来ないで、来ないで変態!(こんな男に襲われたらお嫁に行けなぁーい!)」
「ぶひっぶひっ」
 鼻息が二〇〇パーセント増しで荒くなっている。華那汰絶体絶命だ。華那汰ピンチ!
 豚男のラードたっぷりの手が華那汰に伸ばされたとき、その間になんとヒイロが立ちはだかったのだ。
「華に手を出すな!」
 ベチョッ!
 脂ぎった巨大な手がヒイロの顔に直撃した。手を離されたヒイロの顔はもちろん油まみれで、ベットベト。
「うぇーっうぇうぇっ、キモチ悪い(しかも、なんか臭いぞ)」
 最悪だった。
 助けてもらった華那汰ですら、素早くヒイロと距離を置いている。薄情者だ。
「覇道くん近づかないでよ! 来たらコロスから」
 ガーン!
 ヒイロ的大ショック!
 後頭部をハンマーで殴られたみたいに、ヒイロは前のめりになって床に沈んだ。本当に情けない男だ。
 再び華那汰に襲い掛かろうと豚男が動き出した。その動き、豚というより、もはやナメクジだ。床に粘液を引きずるあたりが特に。
 だが、再び華那汰を守ろうと豚男の前に立ちはだかる勇敢な戦士――ミサだった。
「いくら出せば教えてくださるの?」
「三〇〇万で教えてやるぶひっ」
「一〇〇万円(いきなり吹っ掛けて来たわね)」
「二五〇だ(いきなり値切りやがったな)」
「一五〇万円(そんなだから肥えるのよ)」
「二〇〇でどうだ(やるなこのガキ)」
「やっぱり一〇〇万円ね」
「ぶひぃ!? 一〇〇万だと?」
「だって切りが悪いと数えるのが大変なんだもの」
「わかった、現金で一〇〇万だ、ぶひっ(見事に値切られちまった)」
 商談成立で、ミサは持っていた黒い小さなバックから、帯のついたままの札束を取り出した。
「ちょうど一〇〇万よ。信じられないなら早く数えて」
 一〇〇万円の札束が取り出された瞬間、どこかでバタンと力尽きる音がした。自力で立ち上がろうとしていたヒイロが、札束を見て再び後頭部をズシンと殴られたのだ。本当に使えない男だ。
 札束の厚さを視認した豚男は満足そうに頷いた。厚さで数がわかるのだ。
「ぶひぶひっ毎度。ぶひっの知ってる情報は、この店を出て3ブロック先に行ったところにあるビルで活動する新興宗教集団の話ぶひっ」
 豚男の話によると、この〈飽食街〉にはいくつもの宗教団体が存在していて、中でも大きな勢力を誇っているのが、モッチャラヘッポロ教といういかにも怪しい宗教団体らしい。
 モッチャラヘッポロ教は自分たちの信じる神を崇め、生贄をささげ、歌を歌い、不思議な石を囲んで踊るそうだ。その石には不思議な力が宿っているらしく、病を治したり、ときには不思議な能力を授けてくれたりするらしい。きっとその石がガイアストーンに違いない。
 華那汰たちは役立たずのヒイロを引きずりながら、カジノをあとにしていったのだった。

 カジノから3ブロック先にある八階建てのビル。
 見た目はどこにでもありそうなビルだが、その正面ゲートの前に立つ男たちの格好が変わっていた。
 ――頭に茶色い紙袋をかぶっている。
 上下は普通の服装をしているのだが、なぜか頭にはすっぽりと紙袋をかぶっている。目の部分だけ穴が開いているようで、夏場はきっと蒸すに違いない。
 ヒイロが先陣を切って考えなしにビルの入り口に駆け寄った。
「モッチャラヘッポコ教の本部か?」
「モッチャラヘッポロ教だ」
 案の定、しゃべるたびに口の周りの紙がボコボコ動いている。実にしゃべりづらそうだ。
「ヘッポコでもヘッポロでも変わんないだろーが」
「モッチャラヘッポロ様は我らが神。名前を間違えるなど言語道断!」
 急に雲行きが怪しくなってきた。
「こいつをイケニエに捧げろ!」
 信者が声をあげた。ヤバイ、かなりのトンデモ宗教だったらしい。
 ビルの中にいた信者まで外にゾロゾロと出てきた。が、その移動スピードの遅いこと、遅いこと。両腕をだらりと前に伸ばし、ゆっくりと揺れながらヒイロに襲い掛かってきた。
「こうなったら強固突破だ!(なんだよ、こいつらゾンビかよ!)」
 信者たちを押し倒しながらヒイロがビルの中に入っていく。
「覇道くん待って!」
 華那汰が叫ぶが、もうすでにそこにヒイロの姿はなかった。
「しかたありませんわね、私たちも乗り込みましょう」
 ミサが信者たちを掻き分けて、ビルの中に飛び込んでいった。
「もぉ、もっとマシな乗り込み方あるでしょ(月詠先輩も意外に強硬派なんだから)」
 自慢の俊足を生かして華那汰はビルの中に飛び込んだ。
 広いエントランスホールを見回して、華那汰はヒイロたちの姿を追う。
「華ちゃんこっちよ、早く!」
 廊下の向こういるミサを発見、すぐに華那汰はミサに追いついたが、そこにはヒイロの姿がない!?
「あれ、覇道くんは?」
「見失ったわ(もう捕まったのかも……うふ)」
「なにやってんのあいつもぉ」
「早く逃げましょう後ろから来ているわ」
「えっ?」
 華那汰が後ろを振り向くと信者たちがゾロゾロと襲い掛かってきていた。かなりの遅いペースなのは相変わらず。
 前を振り返ると、廊下の先からも信者たちが飛び出し――ゆったり出てきた。
「月詠先輩こっちにこっちに階段がありますよ」
「肉体労働は苦手だわ」
「こんなときになに言ってるんですか!(今になって温室育ちみたいなこと言い出すなんて)」
「ほら、早くに逃げないと捕まるわよ。おぶってくさる?」
「はいはい、わかりました!(なんでおぶらないといけないの!)」
 おぶるなんてめんどくさいことせず、華那汰は急いでミサをお姫様抱っこした。そこら辺の女子高生と変わらぬ腕の細さだが、華那汰は特殊能力により腕力もあるのだ。小柄のミサを持ち上げるなどお茶の子さいさいだ。
「……月詠先輩、意外に重たいですね(着痩せするタイプかな?)」
「これでも華ちゃんに比べて、胸が大きいものだから、ごめんなさいね」
 わざとらしくしか聞こえない『比べて』『ごめんなさいね』が華那汰の胸にブスっと刺さった。かなり胸が痛い。
 別の意味で胸がキュンとする青春の一ページなんてことをやってる間に、信者たちはすぐそこまで迫っていた。
「あーっもぉー早く逃げなきゃ!」
 ミサを抱っこしながら、『うおりゃーっ!』ってな感じで華那汰が階段を駆け上がる。とってもいい運動になるに違いない。筋肉痛にもなるかもしれない。
 階段を駆け上り、折り返し、上り、折り返し、上り、気づいたときには最上階、屋上一歩手前だ。
「もう追って来ないようね。降ろして頂戴(うふふ……華ちゃんの顔に死相が出ているわ)」
 ゼーゼー言いながら華那汰はミサを床に降ろすと、膝から崩れて地面にへたり込んだ。角度によってはパンツ丸見えだ。だが、死相を浮かべている華那汰にそんなことを気遣ってる余裕はなかった。ちなみに今日は薄いピンクだ。
「……死ぬ、さすがのあたしでも死ぬ(嗚呼、トキが見える)」
「もっと早く降ろしてくれればよかったのに。そうしたら自分で走ったわ」
「にゃー!(おぶれってあんたが言ったんでしょ!)」
 奇声をあげるが、文句を口に出す余裕すらなかった。
 華那汰はそのまま酸欠状態になって、階段の踊り場で大の字になって倒れてしまった。
 倒れた華那汰の横にミサが体育座りでちょこんと座る。
「華ちゃんの息が上がるのも無理はないわ。ここの空気変だもの、なにかに汚染されているわ。下のフロアはもっと空気が変だったけど(上に上がってきてしまったけれど、下になにかありそうね)」
「空気が変って毒物ですか?」
「なんていうのかしら、怨念や執念みたいなよくない気の濃度が高いとでもいうのかしら」
 突然モゾモゾとミサは自分の胸の中に手を突っ込んで、なにかを探しているような動きをした。
「華ちゃんも飲む?」
「はいっ!?(母乳!?)」
 んなわけない。
 なんと、ミサは自分の服の中から缶ジュースを出したのだ。
「丁度いい温かさになっているわよ、ポン太オレンジ」
「いりません!(なんか他にも隠し持ってそうだぁ)」
「そう(美味しいのに)」
 味がどうとかこうとかの問題じゃないような気がする。それに加え、ポン太は炭酸飲料だ。生ぬるい炭酸は夏コミだけで勘弁してください。
 休憩タイムをして、華那汰の体力が回復してきたところで、ある重大な事態に今更ながら気が付いてしまった。
「ああっ、月詠先輩! こんなことしてる場合じゃないですよ!(早くしないと追っ手が来ちゃう!)」
「急がば回れよ。それに、なんだか追ってくる気配がぜんぜんないんだもの(こんなに誰も来ないなんて変ね)」
「でもでも早く別の場所いきましょ?(同じ場所にずっといると不安)」
「そうね、なにも情報がないから、このフロアから探索いたしましょう(下になにかあるような気がするけれど、今下に行くと危険なような気がするわ)」
 飲み終わった缶を律儀に胸の中に再びしまい込みミサが立ち上がった。
「さあ、行きましょう」
「はーい」
 二人は踊り場をあとにして、八階のフロアへと足を踏み込んだのだった。

 息を潜めながら匍匐全身で廊下を進むヒイロ。
「……なんで(次から次へとゴキブリのように沸いて来るんだよ)」
 華那汰たちと当然なるようにして見事にはぐれてしまったヒイロは、そのあとも信者たちに追い掛け回され、四階の廊下でどうにか追っ手を巻けたらしい。
 人の気配がする。
「おい、知ってるか。今日から三日間、駅前のスーパー安売りセールだってよ」
「マジかよ、嘘だろ」
「マジマジ、閉店セールだってよ」
「不況かよ」
 いたって平凡な会話。だが、注目すべき点はそこではない。紙袋を被っているために、口のところがボゴボゴ動くとこがポイントだ。ツボにハマると笑えてくる。
 ヒイロは笑いを必死に無理やり堪えて、クシャミを寸止めしたような変な顔になりながら、辺りを見回して隠れる場所を探した。そのとき、ヒイロの目に赤い物体が飛び込んできたのだ。
 消火器だ!
 素早く消火器をゲットしたヒイロは、それを持って雑談をしている二人の信者に向かって飛び込んでいった。
「喰らえ!」
 突然現れた白学ラン青年に信者たちはビクついたが、ヒイロの動きのほうも怪しかった。
「あれ、出ないぞ、押したら出るんじゃないのか?」
 消火器と格闘する謎の青年を見て、二人の信者は顔を見合わせたが、不振人物と判断して飛び掛ってきた。紙袋を被っているほうもよっぽど不振人物だが。
「あー栓を抜いてから押すのか……うわあっ!?」
 ヒイロの持っていた消火器が突然白い粉を吐いた。暴れようとする噴射口をしっかり押さえているうちに、あたりはすっかり銀世界――じゃなくって真っ白けっけ。
 視界を奪われた世界に硬い音がゴツンと鳴り響いた。とてもリアルな音で嫌な感じだ。なんて思ってるヒマもなく、バタンという音が続けざまに鳴った。
「おい、どうした!?」
 信者の一人が叫んだ。
 ゴツン!
 またもや生温いような嫌な音。
 バタンと音がして、すぐに廊下をタッタッタッと駆ける音。
 音ばっかりでイマジネーションが大切だ。けれど、白い世界はすでに治まりはじめ、廊下を駆けるヒイロの姿が見えてきた。
 消火器を腕に抱え、手には紙袋を二枚持っている。さっきぶん殴った男たちが被っていた紙袋を素早く奪ったのだ。
 紙袋を頭から被って信者に変身!
 簡単に変装したヒイロは残った紙袋をポケットにしまい、消火器を適当にそこら辺に置いた。
「(これで完璧だ!)」
 ヒイロいわくだが。
 なにも恐れるものはなくなったヒイロは廊下を平然と闊歩し、ビルの散策をやっとはじめられた。
 このビルに来た目的はガイアストーンを見つけるためだ。さっきまでは鬼ごっこがメインだったが、これからは情報収集だ。
「(情報を制すものは世界を制す!)」
 ヒイロの祖父がよく言っていた口癖だった。
「(祖父ちゃん、ガイアストーンを見つけて強くなって見せるぜ!)」
 新たに誓いを立てながら歩いていると、慌てた様子の信者がスローペースで寄ってきた。
「おい、侵入者だそうだ。怪しい人物を見なかったか?」
 怪しい人物なら、ここにいる――紙袋を被った奴らが!
「いいや、見なかったぜ(俺様の変装が巧妙すぎてバレる気配もないな)」
 巧妙もなにも、ただ紙袋を被っただけだ。
「そうか、怪しい人物を見つけたら生け捕りにして地下に連れてけだそうだ」
「おう、不振人物なんて俺様がとっ捕まえてやるぜ」
「じゃあな」
「おう、またな!(地下になんかあるのか?)」
 地下に降りようと階段まで行くと、信者たちが溢れ出るように階段を上ってきた。思わずヒイロは壁のくぼみに隠れたが、変装していることを思い出して、信者のひとりに声をかけてみた。
「どうしたんスか?(俺様たちにこと探してるのか?)」
「大神官様が温泉めぐりの旅からお帰りなったらしい。屋上までお迎えに上がるところだ」
「なんで屋上?」
「屋上のヘリポートに降りてくるらしいぞ……風船に乗って」
「は?(風船ってなんだよ?)」
「お前知らんのか? ははーん、さては新人だな」
「はい、そうなんスよ(正体がバレると思って汗かいたーっ)」
「大神官様は登場にこだわる人でな、前回は隣のビルから人間大砲で、その前はパラシュートで登場(そのときは着地を誤って足を骨折したんだがな)」
 大神官という人物が、偉い人物だということは信者が総出で向かいに出ることからわかる。だが、人間大砲にパラシュートなんてする大神官と聞いて、人物像がはちゃめちゃになってしまった。サーカス団のピエロみたいな人なのか?
 地下に行こうとしていたヒイロだが、大神官のほうに興味を引かれ、信者たちについていくことにした。のはいいが、どうにもこうにも、信者たちの歩きは遅く階段を上って屋上に行くのには時間が掛かりそうだ。
 エレベーターを使ってもこんな大人数では順番待ちがあって時間がかかる。
 ヒイロは流されるままゆったりと屋上へと向かったのだった。
 屋上にやっとこさたどり着くと、そこはすでに信者でいっぱいで見渡す限り紙袋だった。屋上なので紙袋が強風に煽られ、大きな音を立てている。
 紙袋集団の首が一斉に動く。
 向こうの側のビルの近くを赤青緑、色とりどりの風船が固まって飛んでいる。その風船から伸びた紐の先端は謎の箱に固定されていた。
 徐々に近づいてくるにつれて、その箱がなんであるか漠然としてわかってきた。『歴史スペクタクルエジプトなんたらかんたらの謎』みたいな特集番組で見たことのあるアレだ。
 風船に乗ってやってきた箱は、ミイラを入れておく人型の棺だった。
 棺はビルの屋上の真上までくると、あっちこっちをふらふらしながら着地視点を定めているようだった。
 ビルの屋上にはヘリが着地する際に使う目印……じゃなくって。何重にも円が描かれ、点数が書き込まれた的が描かれていた。
 まさか!?
 風船の糸が切れて棺が急落下。
 落ちてくる落ちてくる、棺が落ちてくる。めったに見れない光景だ。
 ズシンとコンクリの地面を割りながら、棺が着地した地点はなんと一〇〇点と描かれた小さな赤丸。
 信者たちが唸り声にも似た歓声をあげた。
「うぉぉぉぉぉぉーっ!」
 歓声が鳴り止まぬ中、信者が棺にスローペースで近寄り、オープン・ザ・ドア!
 ドライアイスで焚かれたスモークとスポットライト浴びて、ついに大神官が姿を現した!
 ヒイロの第一印象。
「(ミイラ男かッ!)」
 ヒイロかカがツッコミを入れてしまったのも無理はない。どうみてもミイラ男なのだ、しかもちょっぴり斬新な。
 素肌に直接巻いていると思われる包帯の隙間から所々見える黒壇のような肌が生々しく、顔は包帯ではなく片目に眼帯をしているところがチャームポイントだ。しかも、その顔ときたら、肌の色とはミスマッチな若い白人系の顔立ちだった。どこか中性的な顔をしているのも不思議さを煽っているように思える。
「ブラック・ファラオ様の御前であるぞ、頭が高い控えおろう!」
 大神官ブラック・ファラオの左側の付き人Aが言った。
 ブラック・ファラオが杖を突きながら前へ一歩出ると、頭に被っていた帯状冠に装飾されていた鏡が眩いまでの輝きを放った。
 信者たちがいっせいに膝をついて頭を下げ、ヒイロもすぐに真似して頭を下げた。
「(あいつが大神官か……てか、大神官ってなにする人だよ)」
 神官とは神に奉仕し、神を祭ることを業とする者のことである。神官の歴史は古く、古代宗教や古代エジプトにもいた。
 ファラオとは古代エジプトの神権皇帝のことで、よく耳にしたことのあるような、ないようなツタンカーメンも古代エジプト王朝のファラオだった。
 ブラック・ファラオは信者たちを見回して人懐っこい笑みを浮かべた。
「いや~、箱根はいいところだったよぉ。芦ノ湖の観光船で本物の大砲まで撃たせてもらっちゃってさぁ。今度はみんなでお布施を積み立てて行こうね♪」
 顔立ちは思いっきり外国人なのに、思いっきり日本語だった。
「みんなにお饅頭とキーホルダーのおみやげ買ってきたので、あとで仲良く分けてくださいねぇ」
 信者が開けた道を通りながら、ブラック・ファラオは階段出入り口に足を運ばせていた。
 包帯の先を風になびかせ、ブラック・ファラオが跪いているヒイロのすぐ横を通り過ぎようとした、そのときだった。ブラック・ファラオの足が突然に止まったのだ。
「あぁ~そうそう、この中にうちの信者じゃない者が混ざってるよ。心当たりのある方、手をあげて名乗り出てくださ~い」
 ブラック・ファラオのつま先を見ながらヒイロは汗たらたらだった。自分のことを言ってるに違いない。けれど、自分で手をあげるアホがどこにいる?
 ココにイターッ!
 だが、それはヒイロではなかった。ヒイロとはだいぶ離れた場所に跪いていた信者が、手を上げながら立ち上がったのだ。紙袋を被るその下はどこかでみたことのある黒いロングスカートスタイル。
 立ち上がり紙袋を取って顔を見せたのは、なんとミサだったのだ。
「私が信者ではないわ。捕まえるなら早く連れて行ってくださる?」
 ブラック・ファラオがにっこりと笑い、奇声を発する。
「にゃはは、今日のイケニエは君に決めた♪」
 持っている杖をビシッとバシっとミサに向け、そのまま杖を出入り口へと向けた。連れて行けの合図だ。
 ミサはなんの抵抗もせず、おとなしく連れて行かれてしまったのだった。
 ミサが信者たちに連れて行かれ、ブラック・ファラオも姿を消してしまった。
 信者たちがまったりと階段に流れ込んでいく。
 ヒイロも帰ろうと波に乗ろうとすると、その腕を何者かに引っ張られてしまった。
「覇道くん、あたしよ」
 耳元で女の子の声がしてヒイロが振り向くと、そこにはやっぱり紙袋。だが、その下の服装はどっかで見たことがあった。パーカにミニスカ。
「ああっ華か!(こいつもここにいたのか!)」
 グフッ!
 ヒイロの腹に重いボディーブローが入った。
「しっ、声がデカイ」
「だからって殴ることないだろ」
 ヒソヒソ話で二人は話しはじめた。
「覇道くんがはぐれてから、あたしたち大変だったんだよ」
「お前らがはぐれたから、俺様も大変だったんだぞ」
 どちらも責任の擦り付け合いだった。
「月詠先輩はあたしを逃がすためにわざとおとりになって捕まっちゃうし」
「お前のせいでミサ先輩が捕まっちまうしな」
「覇道くんだってここにいたんなら、ミサ先輩にかばってもらったんじゃん!」
 ギュゥゥゥ。
 華那汰の腹の肉が抓まれた。
「しっ、声がデカイぞ(仕返しだ)」
「……わかってるって(仕返しか)」
 低レベルの子供のケンカだ。
「ミサ先輩捕まっちまったけど、どうする?(こいつと二人じゃ助けらんないだろ)」
「どうするって助けに行かなきゃ(……あたしたち二人でかぁ)」
「捕まったら地下に連れて行かれるって聞いたぞ」
「じゃあ早く地下に行こ」
「おう!(待ってろミサ先輩!)」
 こうして二人はミサが『なにかある』と感じていた地下に向かうのだった。
 果たして地下で二人を待ち受けているものとは?

 なに食わぬ顔をしてるかどうかは見えないが、紙袋を被った二人組みが地下に降りていった。
 地下世界は上の文明とはかけ離れた場所だった。
 岩壁に囲まれた巨大な地下洞。
 オレンジ色のランプが照らす内部は薄暗く、大きく開けた空洞に信者たちが集まっている。
 獣が唸るような重低音が反響した。それは呪文のように頭に鳴り響く、神に捧げる詩だった。
 ――神にイケニエを捧げる詩。
 十字架に四肢を繋がれ磔にされ、口枷を噛まされている少女の姿が見えた。信者たちに捕まってしまったミサだ。
 磔られている台座の下には焚き木の準備までしてある。これから焼き芋大会か!?
 なんて呑気な想像ができたらいいのだが、どう見たって中世の魔女裁判っぽい雰囲気がする。場合によってはもっとヒドイかもしれない。
 ドラムロールとスポットライトに照らされ、壇上にブラック・ファラオが姿を見せた。
「ちわーッス。今日もみんながお楽しみにしてた儀式の日がやってきたよぉ。みんなノッてるかーい?」
 軽い挨拶に、重い唸り声が返ってきた。
「うぉぉぉぉぉ!」
 飢えた野獣の雄たけびだ。
 ブラック・ファラオの手にはいつの間にかマイクスタンドが握られている。
「では、さっそくぼくの歌を聴いてください。呼ばれて飛び出てアブラハダブラ、スゥーっとそぉーっ、グヨぉんとスゥーっとザアザアー♪」
 なんとブラック・ファラオが突然歌いだした。しかも歌詞電波な香で意味がわからん。てゆーか、歌い方が小指を立てて内股のぶりっ子だ。しかし、なぜか心に沁みる歌だ。
 ノリノリで歌っていたブラック・ファラオの動きがピタッと止まった。
「うそでーす、ぼく白痴なんで歌いません。間違えましたぁ白痴じゃなくって音痴でしたぁ、にゃはは」
 頭の後ろを片手で抑えて笑うブラック・ファラオは大神官の威厳の欠片もなかった。
 壇上で寸劇をするネジが一本抜けた青年とは対照的に、信者の中に紛れ込んでいるヒイロと華那汰は笑っている場合じゃなかった。
「(ミサ先輩をどうやって助けたらいいんだよ)」
「(もぉどうしたらいいの、こんなにたくさんいたらあたしたちに勝ち目ないじゃん)」
 人気歌手のライブ会場みたいにギュウギュウ詰めの総立ちだ。スリ行為ぐらいしてもバレないけど、ミサを助けに行ったらバレちゃうぞ。
 助けに行こうにも行けない状況で、奇妙な儀式は先に進んでいく。
 マイク片手にブラック・ファラオがニヤリとした。これは合図だ。信者たちはゴックンと息を呑んでブラック・ファラオの次の言葉を待った。
「ついにみんなのお待ちかねの時間だよぉ。みんなーっ健康になりたいかーっ!」
「うぉぉぉぉぉぉ!」
「みんなーっ長生きはしたいかーっ!」
「うぉぉぉぉぉぉぉ!」
 信者たちの声に空気が激しく振動し、天井から砂埃が降って来た。
「我らが神の力により、今日もイケニエの心臓を喰らった者に永遠の命が与えられるよぉ!」
 ブラック・ファラオの声が高らかに鳴り響き、壇上の袖から紙袋を被ってウサギ耳のバニーちゃんが出てきた。
 その編みタイツのバニーちゃんの太ももやヒップに目が行ってしまうが、注目すべきはバニーちゃんの持ってきた抽選ボックスだ。
 ヒイロたちも会場に入るときに引かされた抽選札。そこには番号が書いてあった。豪華商品が当たる抽選会だったらいいのだが、どうやら雰囲気が違うと言っている。
「それでは抽選をはじめるよぉ!」
 ブラック・ファラオの手が抽選ボックスに突っ込まれた。固唾を飲み込む瞬間だ。
 どこからかドラムロールが聞こえる。よく見たら生演奏だ。変なところにこってるらしい。
 華那汰は自分の持っている札の番号を改めて見た。
「……一三番(なんか不吉な数字)」」
 横目でちらりと華那汰の札を見て、ヒイロも自分の札を見ることにした。
「よんじゅう……(四二番か!? 不吉すぎるぞ!)」
 ジャン!
 ドラムロールが鳴り止み、高らかに上げられたブラック・ファラオの手に握られた紙切れ。そこに書かれたナンバーはいくつだ!
「四二番の札を持っている方、見事当選でーす!」
 ブラック・ファラオに読み上げられた番号に、会場が一気に波立った。誰が当たったのかと信者たちがあたりを見回す。
 その中で、白い学ランの男が恐る恐る手を挙げた。四二番の札を幸運――不運にも持っていたのはヒイロだ。
 盛大な拍手の中に狂気の眼差しを含みながら、ヒイロはあれよあれよという間に磔にされているミサの前まで連れて行かれてしまった。
 磔にされているミサは、サングラスの奥から目の前の白い学ランに注目した。
「(ヒイロくんに間違いないわ。どうやって私のこと助けてくださるのかしら……楽しみだわ、うふふ)」
 口元を妖しく緩めるミサの表情を紙袋の中から見て、ヒイロは額と背中に脂汗をかいてしまった。言葉じゃない、妙なプレッシャーを感じたのだ。
 固まりつくヒイロの手に、錆びたナイフが握らされた。
 紙袋に開けたら穴から、信者たちの目玉がヒイロに注目する。
 ナイフを握らされたはいいが、ヒイロはそこから動くことができず、足元からブルブルと震えが上がってくる。
「(どうしたらいんだよ。ミサ先輩のこと殺せるわけないし、かといって殺らなかったら、俺様の身がどうなるか)」
 ヒイロを見る信者たちの眼は濁り血走っている。この場はすでに血に喝采でしか治めることができないのだ。
 躊躇っているヒイロにブラック・ファラオが声をかける。
「イケニエになる彼女も魂が滅ぶわけじゃありません。魂は冥府の神と同化し、いつの日か復活する日が来るのです。だからプスっとね♪」
 爽やか笑顔でサラッと言いやがった。
 永遠の命を得るために、イケニエの心臓を喰らう。しかし、イケニエは殺されても魂は不滅だという。なにかが矛盾しているような気がする。
 信者たちが地面を踏み鳴らし、リズムを奏ではじめる。
 そのリズムはまるでヒイロの心臓の鼓動を表しているかのように、だんだんとテンポが上がっていく。
 さっきはドラムロールだったが、今度は和太鼓がマッチングしそうだ。とか思ってたら本当に巨大和太鼓が叩かれているではないか!
 しかも、上半身裸でふんどしスタイルの漢の中の漢が汗水たらしながら叩いている。もちろん頭には紙袋。シュールだ。
 ヒイロはナイフを握り直し、大きく振り上げた。と思ったら下げた。と思ったら振り上げた。と思ったら下げた。
 踏ん切りがつかず度胸もない。
 だが、ついにヒイロがナイフで切り裂いた!
 スパッ!
 ミサの手首を固定していたロープが片方外された。
 信者たちの足踏みが止んだ。
 ヒイロは残り一方の手首を固定しているロープに素早く手をかけた。
「き、切れない(さっきは簡単に切れたのに)」
「自分でやるから短剣を渡して!」
 叫ぶミサにナイフを渡すと、続けざまにミサがしゃべった。
「切ってる間、その方たちのことは任せたわよ、うふふ」
 ミサのサングラスに反射して映し出される信者たちの姿をヒイロは見た。
「やばっ、マジか!」
 信者たちがスローペースで襲い掛かってきた。
 スローペースなのが幸いしてか、ミサは自分を捕らえていたロープを全て切り、自由の身になることができた。
 このままスローペースだったら、もしかしたら振り切れるかもしれない。だが、次のブラック・ファラオの言葉で状況は一変するのだった。
「この場は聖域だよ、少しくらい走っても肉体は崩れやしない。でも、張り切りすぎは注意だよぉ!」
 ゴーサインが出て信者たちが一斉に、雪崩のようにヒイロたちに押し寄せてくる。
 いち早く軍勢を抜け出して走ってきた信者がヒイロに襲いかかろうとした瞬間。
 悲痛な叫びが木霊し、ヒイロに手を伸ばした信者の足が泥のように崩れてしまった。
 足が崩れても、それでも信者の上半身はまだ動いている。
 崩れた信者を見てブラック・ファラオが呆れたように言う。
「だーかーらー、張り切ったら駄目って言ったのに、ぼくの話聞いてましたかぁ?」
 崩れた信者は息絶えることなく、ヒイロの足を掴もうとする。だが、その手もヒイロの足を掴む前に崩れてしまった。
 目の前で人が崩れるのを見て、ヒイロは青い顔をして足を一歩後ろに引いた。
 グズズグズズと泥人形が崩れるように、肉体が朽ち果てていく。
 仲間の信者が崩れるの目の当たりにして、他の信者は恐れをなして身動きができなくなってしまっていた。
 見かねたブラック・ファラオが叫ぶ。
「そのイケニエに心臓を喰らえば不死身になれる。さあ、殺せ、殺せ、殺せ!」
 恐れをなしていた信者の中から数人がミサに向かって駆け寄って来る。
 パニック状態でなにもできなくなっているヒイロの横を擦り抜け、信者がミサに飛び掛った。
 前から飛び掛ってきた信者をミサは紙一重で躱したが、後ろからも信者の魔の手が!
 腕を押さえられ、ミサは握っていたナイフを落としてしまった。
 後ろから羽交い絞めにされるミサに、ナイフを拾い上げた信者がゆっくりと近づく。
「さあ、殺して心臓を喰らうんだ。流れ出る血にも魔力があるから、全て飲み干せ!」
 ブラック・ファラオの表情には狂気が浮かんでいた。人間を逸脱した狂気の表情がそこにはあったのだ。
 信者の群れの中から華那汰が飛び出してきた。
「月詠センパーイ!」
 華那汰の叫びと同時に、ナイフを持った信者の身体がミサの身体を重なった。

「にゃははは、血の喝采だよぉ!」
 ブラック・ファラオの笑い声が天井を突いた。
 信者と重なるミサが後ろに一歩よろめく。
 衝撃的なできごとにヒイロが正気に戻り、紙袋を脱ぎ捨てた華那太が猛ダッシュでミサに駆け寄る。
 後ろにいた信者に支えられながら、ミサの口元は妖しく微笑んでいた。
 心臓を押さえながらミサは肩を震わせる。
「ふふふっ、うふふふ……カーシャお婆様譲りの悪運かしらね?」
 刺された胸から、黒い服よりも濃い染みが滲み出してきた。
 怒りに燃えるヒイロがミサを刺した信者を殴り倒し、華那太がミサの後ろに信者に蹴りかかった。
「ミサ先輩平気か!」
「月詠先輩死なないで!」
 信者を倒し華那太はミサの肩を抱きかかえ、ミサの体重を全て支えた。
「月詠先輩、月詠先輩……死なないで!(なんで、なんでこんなことに……)」
 ミサの口元は相変わらず妖しい微笑を浮かべている。
「もう一本がスチール缶で助かったわ」
 そう言ってミサは服の中からジュース缶を取り出した。胸の中に隠し持っていた缶だ。
 空き缶と中身の流れ出る穴の開いた缶を地面に置き、ミサは華那太の支えから自分の足で立ち上がった。
「せっかく紅茶は華ちゃんにあげようと取って置いたのに、残念だわ」
 なにはともあれ、ミサは命拾いをしたのだ。
 ミサが無事なことを知って、ブラック・ファラオが唇を強く噛み締めた。
「くそぉ~あと一歩のところで(運のいい人間だ)。我らが神はお怒りであるぞ、怒りの声が聴こえないかな?」
 なにも聴こえなかった。
 いや、耳を澄ませると風の音がする。
 熱風が唸るような音が徐々に大きくなっている。
 ヒイロは天井に気配を感じて見上げた。
 目線はすぐに落下し、大きな音と共に砂埃が視界を遮った。
「ぎゃぁぁぁぁぁっ」
 どこかで信者の悲鳴が呑まれ消えた。
 砂煙が晴れると、そこには全長三メートルを越す巨大な生物が鎮座していた。
 ミジンコのような、蚤のような、それでいて身体は黒光りし、ゴキブリのように触覚を世話しなく動かしている。珍妙な昆虫らしき生物が、信者の足を指先に似た口から出しながら、六つある眼で辺りの様子を伺っていた。
 これがブラック・ファラオたちが信仰している神なのか?
 だとしたら、人々が普段想像する神の姿とはかけ離れた存在だ。理性や他の生物とのコミュニケーション能力を持ち合わせているとも考えづらい。完全に異質な存在だ。
 怪物がバッタのように折れ曲がった脚で飛び上がった。
 黒い影は立ち尽くす信者たちのど真ん中に落ち、怪物に踏み潰された信者から短い悲鳴があがる。
 間を置いた次の瞬間、信者たちが一斉に出口に向かって殺到した。
 殺される。永遠の命や不死の身体を得る前に、こんな場所にいては殺されてしまう。
 逃げ惑う信者たちに怪物が噛み付き、崩れたパーツが宙を舞う。
 マネキンや蝋人形だったらよかったのですが、とても残酷な風景になってしまいました。自主規制。
 暴れまわる怪物の出現により、ヒイロ焦る、華那太慌てる、ミサ笑う。
「うふふ、どうしようかしらね、お二人さん?(ゲームのボスだったら逃げられないのが定番だったかしら?)」
「どうするもなにも逃げるだろ普通!(人間外のもんと戦えるかっ!)」
「早くあたしたちも逃げましょう!(お姉ちゃんが帰ってきてから、どんどんあたしの生活が現実から引き離されていくー!)」
「でも、お二人さん、ほら見て頂戴」
 ミサの指が伸ばされた方向は出入り口のドア。
 しまったーっ!
 閉まってる!
 閉じ込められた!
 多くの信者たちはすでに逃げ出し、外への扉は硬く閉ざされていた。
 残された信者も数人いて、扉を叩くが返事はない。もう扉の向こう側から遠くへ行ってしまったに違いない。
 怪物は残った信者たちを喰らいながらも、やっと落ち着いてきたのか、じっと動かなくなった。もしかしたらお腹いっぱいで眠くなっちゃったのかも!
 と、思ったらいきなり飛んだ!
 人間と異質すぎて思考回路がまったく読めない。
 怪物が落ち立ったのはヒイロたちがいるすぐ真横だった。
 六つ眼に映りこむヒイロたちの姿。
 ヒイロの眼に映りこむ怪物の姿。その視線がズームアップされていく。
 怪物の身体は短い毛で覆われており、よく見ると蠢いている。そしてもっと眼を凝らして見ると、小さなモノが蠢いている。
「ぐあぁぁぁっ!?」
 カチーン!
 ヒイロは見てはいけないモノを見て、石化したみたいに身体を強張らせてしまった。
 いったいヒイロはなにかを見たのか!?
 答えはすぐにやって来た。
 怪物が身体をブルブルと震わせると、それが、黒光りするGの大群が怪物の身体から、ササササッと逃げ出したのだ。毛だと思ったのはGの触覚だったのだ。
 恐怖のGがGが来るぞ!
 太古の昔から地球上に住んでいると云われるGたちは、地球上の生物がみんな絶滅してもGだけは生き残るといわれる脅威的な生命力を持つ。
 ときにGは地面を駆け、ときにGは空を飛び、ときにGは水の上を泳ぐ!
 Gこそ地球最強の戦士――昆虫戦士Gなのだ!
 大群のGは世話しなく足と触覚を動かしながら、ヒイロを避けるように足元を擦り抜けた。
「きゃっきゃーーーっ!?」
 誰が叫んだのか、Gを見た華那太とミサも硬直し、その足元をGが駆け抜けていった。
 体中に蕁麻疹が発症し、Gが姿を消したあとミサは気を失ってしなやかに倒れてしまった。ハンカチ片手におでこに手を当てて、倒れ方までお金持ちだ。
 横にいた華那太も硬直したまま再起不能。思考停止っていうか生命離脱だ。
 ヒイロたちは完全に戦闘続行不能状態に陥ってしまった。テレビゲームだったらゲームオーバーだ。
 壇上の段差に足を組んで座り、怪物の動向を今までずっと見守っていたブラック・ファラオが立ち上がった。
「その子のエサにしてもいいんだけどぉ、やっぱりノミなんかに殺されるよりちゃんとイケニエになったほうがいいよね」
 持っていた杖の先で床を確かめるように二回ほど叩き、ブラック・ファラオがジャンプした。
 人間とは思えぬジャンプ力。
 包帯の端をなびかせながら、ブラック・ファラオは優に一五メートル以上もの距離を飛空したのだ。
 空中でカエルみたいに脚を折り曲げたまま、ブラック・ファラオは両手で持った杖を頭の後ろまで振り上げた。
 グフォッ!
 緑色の体液が怪物から激しく飛び散り、ヒビが入った脳天から砕けるに割れた。その光景はまるでスイカ割りのスイカが、割れて飛び散った光景のようだ。今日からもうスイカは食えません。
 怪物を一撃で倒したブラック・ファラオは、ご丁寧に祈りのポーズで地面に横たわっているミサの横に跪いた。
「ぼくが殺したらおもしろみが薄れてしまうけど、この際仕方ないね。きみには死んでもらうよ(と、その前にサングラスの下の顔でも見ておこっと)」
 サングラスに手をかけた瞬間、ブラック・ファラオは自分の背後に強烈なプレッシャーを感じた。
「ミサ先輩に触れるんじゃねえ!」
 振り返ったブラック・ファラオの眼に映ったのは、拳を握り立つ緋色の瞳を燃やすヒイロだった。ちなみに紙袋は被ったままだ。
「ありり、人間にしては図太い神経してるねぇ」
「ガキの頃ゴキブリをペットにしてた時期があんだよ。さすがに今はそんな気起こらないけどな!(ゴキブリをコオロギだって言われて飼ってたんだよなぁ)」
 幼い頃のほろ苦い思い出に浸りながら、ヒイロは寒気で身震いをした。騙されてとは言え、幼い頃からゴキブリと身近な距離にいたヒイロは、それなりにゴキブリに対する免疫力があったのだ。そのため、パーティーの中でいち早く立ち直れたと言えよう。
 ブラック・ファラオとミサを見ていたヒイロだったが、その視線が横に移動したとき、モザイクを掛けないといけないような物体を見てしまった。
「なんじゃありゃー!?」
 そこにあったのは、グチョングチョンのゲチョンゲチョンになった怪物の死骸だった。ヒイロはブラック・ファラオが一撃で仕留めた瞬間を見ていないのだ。
「ぼくが片付けて置いたよ」
「うぇ……片付けたってうぇ……お前たちの神じゃないのかよ(キモチわりぃー)」
「はぁ? あれはぼくが仕える邪神の身体についてる寄生虫だよ。この世界でいうところのノミみたいなもんさ」
「あれがノミかっ!?」
 だとしたら、その邪神とやらの大きさは計り知れない。
 一七〇センチの成人男性と普通の蚤の大きさを二ミリと過程して比較すると、その倍率は八二〇倍にもなる。ということは、さっきの怪物の体長が三メートルほどだったから、な、な、なんと二四六〇メートルにもなっちゃう。○ルトラマンですら、五〇メートルいかないというのにだ。
 頭の中でマッチョの巨人を勝手に思い浮かべるヒイロを放置して、ブラック・ファラオはそそくさとミサのサングラスを外そうとしていた。
「おい、ちょっと待てミサ先輩に触れるんじゃねえ!(俺様が空想してる間に目の離せない奴だ)」
「ちょっとだけいいじゃないかぁ。別に服を脱がせてえっちなことしようとしてるんじゃないんだしさぁ(綺麗な子だったら、○○とか△△するつもりだったけどさぁ)」
「とにかく駄目だ。つーか、ここに残っているのはどうやら俺様とお前のようだな。俺様と勝負だ、勝負だ、勝負だ!」
「いきなり勝負だなんて血の気の多い人だなぁ」
「だってお前、大神官とかいうエライ奴なんだろ。お前を倒したらとにかく俺様の勝ちだ!」
 ブラック・ファラオはうんざり顔で、膝についた埃を払いながら立ち上がった。
「いいよ勝負しても。でも、きみ死ぬよ、にゃははは!」
「俺様が死ぬだと?」
「予言してもいいね、10秒とかからないよ(人間ごときに負けるぼくじゃないもんねぇ)」
「俺様を誰だと思ってるんだ。俺様は大魔王遣いになる男だ!(今日もカッコよく決まったぜ)」
「あっそ」
 文字数三でヒイロは拳を握りながらのポーズで、そのまま撃沈してしまった。自信があったときにぞんざいに扱われると弱いようだ。精神的ショックが大きい。
 地面に両手を付いて落ち込むヒイロに敵であるはずのブラック・ファラオが手を差し伸べた。
「ほら、立って。元気出しなよぉ(やっぱり人間の精神ってもんは弱いんだなぁ)」
 手を差し伸べるブラック・ファラオを見て、ヒイロの瞳がキラリーンと輝いた。これは悪事を考えてるときの鈍い輝きだ。
 出された手を掴むことなく、ヒイロの手は別の場所を掴んでいた。
「これがお前の弱点だ!」
 ヒイロが勢いよく引っ張られる。なんと、ヒイロはブラック・ファラオの身体から伸びていた包帯の端を掴んでいたのだ。
 素肌に直に巻いていた包帯を引っ張られ、ブラック・ファラオは『きゃーお代官様やめて、あれぇー』って感じの時代劇でよくあるシーンのように、グルングルンと身体をコマのように回しはじめた。
「あれぇ~(め、目が回るるぅ)」
 一本目の包帯が取られ露出度が高くなり、ヒイロはすぐさま次の包帯を引っ張りはじめた。
 引き締まった太ももが!
 小ぶりなヒップが!
 黒肌に浮かぶピンクの乳首が!
 ヒイロはどんどん包帯を引っ張っていき、ついには全ての包帯を取ってしまった。
「にゃ~ん(は、恥ずかしいよぉ)」
 大事なところを抑えながら、ブラック・ファラオは顔を沸騰させた。
「はーははははっ参ったか!(チラッとだけど……お、俺様より……デカかったな……)」
「にゃー! お、覚えてろよ!(この屈辱は忘れないからな!)」
 ブラック・ファラオは股間を抑えながらヒイロに背を向け、お尻をフリフリさせながら走って逃げて行った。
 な、なんとヒイロが勝利を収めたのだ!
 卑怯というか、カッコいい勝ち方ではなかったが、とにかく勝ったのだから良しとしようじゃないか。
「はーははははっ俺様に敵なし!(うぉー今の俺様って飛びぬけてカッコいいぞ!)」
 それはどうだかわからない。
 危機が去り、落ち着いたところで、ヒイロの視線が地面で気絶しているミサに向けられた。
「サングラスか……(ちょっと見てみたいな)」
 そーっとこそ泥のようにヒイロはミサに近づき、震える手でサングラスを掴もうとした。
 が、そのとき、ミサの口元が妖しく笑った。
「ヒイロくん、なにをするつもりかしら?」
「い、いや、気絶してるから起こそうかと(いきなり目覚めやがった)」
「キスならいつでもしてあげるわよ……うふっ」
 イヤらしく舌舐めずりされ、濡れた唇を目の当たりにしてヒイロはミサから飛びのいた。
「と、ととと、トンでもない!」
「ジュース一本でしてあげるわよ、うふふ(ヒイロくんったら意外にウブなのね……ふふ)」
「ノーサンキュー!(いや、でもジュース一本だったら)」
 顔を真っ赤にしながら手を顔の前で窓拭きするヒイロのことなどすでに放置で、ミサは辺りを見回して状況把握に努めていた。
「うーん、危機は去ったのかしら?」
「おう、俺様が大神官を追い払ってやったぜ」
「そう(怪物の残骸……誰がやったのかしら?)。それよりヒイロくん、そこで立ったまま動かない華那太ちゃんを起こしてくださる?」
「おう!」
「それから出口を探しつつ、ガイアストーンの捜索をしましょう」
「おお、ついにガイアストーンか!」
 このあと、ヒイロは親切で起こそうとした華那太に痴漢と間違われ殴られ、気絶したヒイロを華那太が苦笑しながら背負って移動したのだった。

「これがガイアストーンか(なんがスゲエ)」
 自然の物理法則ではありえない。その全長はヒイロの背よりも高く、二メートル半くらいだろうか。菱形をした半透明の物質が地面に立ち、煌く粒子を霧のように撒き散らしながら回転している。
 ヒイロたちは大空洞をあとにし、入り組んだ迷路のような洞窟を進み、別の大きな空洞でガイアストーンをついに見つけたのだった。
 呆然と立ち尽くすヒイロを押しのけ、華那汰が惹かれるようにしてガイアストーンに触れた。
 手を通して流れくるエネルギーは、華那汰の心を揺さぶり、大きな力を前に華那汰は怯えるように手を離してしまった。
「な、なに、よくわからないけど、力があたしの身体に流れ込んできて……(そのあと、またエネルギーが吸い取られるような)」
 後ろによろめきながら華那汰は地面にへたり込んでしまった。
「なにも心配はいらないわ(……たぶん)」
 ミサはまったく畏れたふうもなく、そっとガイアストーンに触れた。
 大量のエネルギーが弾丸のように連続して身体に流れ込んでくる。少し口元を苦しいものに変えながらも、ミサは引くことなくガイアストーンに触れ続けた。
 ミサの脚が微かに崩れた。
 体内のエネルギーが吸われる。
 その間にも、ガイアストーンから攻撃のようなエネルギーが身体の中に飛び込んでくる。
 地面が地響きを立てながら揺れた。
 砂埃とともに、小さな岩の破片が天井から剥がれ落ちて来る。
 エネルギー波は風となり、ミサのスカートや髪を大きく揺らす。
 ――二つのイメージ。
 靄のかかったような二つのイメージがミサの脳裏に浮かぶ。それは可能性だった。クラスチェンジの可能性。
「(……マジシャン……クレリック……)」
 突如ミサの身体が激しい閃光を放った。
 視界は白い輝きに奪われ、目を閉じても白い残像が残る。
 ゆっくりと華那汰が目を開けると、そこにはガイアストーンから手を離し、立ち尽くしているミサの姿があった。
 見た目ではなにも変わったように見えない。ミサは前のミサとなんの変化していないように思える。クラスチェンジは失敗してしまったのだろうか?
「華ちゃん、次はあなたの番よ」
 ミサは今まで以上に妖しく微笑み、なにかを考えるよう口元に手を当てて華那汰たちに背を向けた。後姿が妖しく震えている。こ、怖い。
「次は俺様の番だろ!」
 今までずーっと物陰に身を潜めていたヒイロが飛び出してきた。
「俺様、俺様、次は俺様が強くなる番だ!」
「あたしの番って月詠先輩が言ったんだから、あたしがやる!(なんかこいつに先越されるのヤダ)」
 二人はもみ合いになり、ヒイロの手が伸びる、華那汰の拳が飛ぶ。
 モニュ♪
 華那汰フリーズ。
 伸ばされたヒイロの手は、華那汰の小さな胸の膨らみを鷲づかみにしていた。
「えっち、痴漢、変態!」
 ズゴーン!
 華那汰のグーパンチが飛んだ。
 嗚呼、三途の川が見える。
 ヒイロは頬が抉られ、吹っ飛んだ彼の身体は夜空の星となり、新たな星座が生まれたのだった。
 キラリーン♪
「ぐはっ……殴ることないだろ(貧乳は触ったうちに入らん)」
 地面に潰れた蛙のように這いつくばるヒイロの心の声が聞こえたら、今度は確実にこの世から滅殺させられていただろう。
 ガイアストーンの前に立った華那汰は、そのまま畏れることなく手でそっと触れた。
 流れ込んでくるエネルギーと、出て行くエネルギー。ミックスジュースみたいに、二つのエネルギーが混ざり合う瞬間だった。
 足元がふら付く。
 それを堪えた先で、地面が唸り声を上げ揺れた。
 華那汰の髪の毛がエネルギー波によって暴れ、ミニスカートが舞い上がりチラリン♪
 今日は薄いピンクだ。だが、喜ぶ男はここにはいない。ヒイロは息絶え絶えで地面に這いつくばっている。
 華那汰の脳裏に浮かぶイメージ。それは長く細い線。いくつもの線が交差するイメージ。まるでそれは路のようだった。
「(なんなの、この、頭に流れ込んでくる映像は……あみだくじ!?)」
 そう、それはあみだくじだった。しかし、なぜにあみだくじ?
 あみだくじのスタート地点は①番と②番の二つだけ。それは可能性。クラスチェンジの可能性だった。
 なんでも一番が好きな華那汰が選んだのはもちろん①番!
 眩い閃光が世界に拡散する。
 静まり返る白。
 やがて光は治まり、光の世界から生まれたように華那汰は立ち惚けてした。
 ミサ同様、華那汰にも見た目の変化はない。
 手のひらや、肘や腕、華那汰は自分の体中を見回したが、自分でもその変化を知ることはできなかった。
 気づくと音も無く気配も無く、華那汰の前に微笑むミサが立っていた。
「おめでとう、華ちゃんのクラスは〈子供は風の子〉レベル10よ」
「はいっ?(〈子供は風の子〉ていったいなに?)」
「もう一度言うわね、〈子供は風の子〉レベル10よ」
「だから、それってなんですか?」
 前のクラス〈爆走少女〉のほうがなんとなくわかりやすかった。
「そのクラスの特徴は風邪を引かないことよ(ふふ……他の特徴もあるけれど、それは自分で見つけたほうがいいかしらね)」
 風邪を引かないから〈子供は風の子〉。とってもわかりやすいクラスだ。
 唖然とする華那汰の後ろのほうで、なにかが微かに動いた。――地面に這いつくばるヒイロの手だった。
「こ、今度こそ、俺様の番だな(真打ちはやっぱ最後でカッコよく決めないとな)」
 爬虫類のように動いてヒイロはガイアストーンに近づいた。待ち望んだ瞬間にしてはカッコ悪い。
 ズタボロにされたプロレスラーのように、リングサイドに立つ仲間にターッチ!
 した瞬間だった。
 ガイアストーンにヒイロが触れた瞬間、彼の身体は宙を舞っていた。華那汰にさっき殴られたときよりも滞空時間が長い。
 ドスン!
 背中から地面に落ちたヒイロが咳き込む。
「げほげほっ、な、なんだよ!?」
 急いで立ち上がったヒイロは、今度はちゃんと立ってガイアストーンに触れようとした。
 ガイアストーンに手が迫った瞬間、バチバチッと冬場の静電気のようものが手に感じられた。それでもヒイロは手を引っ込めることなく、ガイアストーンに力強く触れた。
 ヒイロの髪の毛が逆立ち、大波に流されるようにヒイロは後退させられてしまった。ガイアストーンに嫌われた!?
 地面に尻餅を付くヒイロの横にはミサが静かに立っていた。
「やっぱりレベルが足らないのね」
「どういうことだよ?」
「ヒイロくんはレベルが低すぎてクラスチェンジができないのよ」
「そんなわけねえよ!」
「そんなわけあるわ。だってヒイロ君のレベル、〈アリ遣い〉レベル7だもの。クラスチェンジにはレベルが10必要らしいの」
 やっとの思いでたどり着いたガイアストーン。念願の想いが叶ってクラスチェンジができると思ったのに。人生の困難、挫折、希望。
 人生の荒波に揉まれ、呑まれ、沈みながら歩んできたヒイロの人生。再び大きな荒波が立ちはだかったのだ。
 ヒイロの瞳を濡らす心の汗。
「俺様は俺様は、絶対強くなるんだ! うぁ~ん!(大金持ちになってみんなを見返してやるんだーい!)」
 ショックを受けたヒイロは、心の汗をボトボト目から流しながら、この場を去っていった。後姿がとっても情けない。
 人生の荒波を乗り越えろヒイロ!
 お前ならできる……たぶん。

 友達からもらったお菓子の空箱と、近所の林で拾った小枝。
 緋色の眼をいっぱいに開いて、幼児は一生懸命なにかを工作していた。
 空箱に穴を開け、枝を四本刺して手足を作った。
「やったー!」
 人形が完成した幼児は、それを誰かに見せたくて見せたくて家を飛び出したのだった。
 近くの小さな公園に子供たちが集まっている。普段なら絶対に近づかないが、今日は自ら進んで近づいた。
 緋色の瞳を持つ幼児が近づくと、同年代に比べて身体が一回り大きなリーダー格の子供が、緋色の幼児を一瞥して睨み付けた。
「俺たちニャンダバー人形で遊んでんだよ。お前どうせニャンダバー持ってねえだろ(こいついんち超貧乏だもんな)」
「ぼ、ぼくもニャンダバー人形くらい、も、持ってるよ!」
「本当かよ、見せてみろよ」
 からかうように言われ、緋色の瞳を持つ幼児は背中に隠していた人形を胸の前に出した。
 周りの子供たちは言葉を失い、少ししてどっと笑い出した。
「あははは、なんだよそダッセー」
「ダ、ダサイとか言うなよ、ぼくの作ったニャンダバーZは強いんだぞ、ニャンダバーミサイルだってできるんだぞ!」
「うそつくんじゃねぇよ!」
「ほ、本当だよ!」
 緋色の瞳を持つ幼児は、もともとお菓子の空き箱だった人形の中から、公園で拾ったドングリを取り出して、周りの子供たちに思いっきり投げつけてやった。
「ニャンダバーミサイル発射!」
「いてっ、なにすんだよ!」
 ドングリを当てられた子供は怒り出し、緋色の瞳を持つ幼児に殴りかかった。
 緋色の瞳を持つ幼児の頭上でキラキラ星がいくつも飛んだ。
 よろめいて倒れてしまった幼児の緋色の瞳に映し出されたものは、子供たちが寄って集って自分の作った人形を踏み潰す光景。
 お菓子の空き箱はいとも簡単に潰れ、手足だった枝は簡単に折れてしまった。一生懸命作った自分の人形が一瞬のうちに壊されてしまった。
 次に緋色の瞳に映し出されたのは、笑いながら去って行く子供たちの後姿。
 そのあとは、涙が滲んでなにも見えなくってしまった。

 緋色の瞳を持つ少年は暗い面持ちで畳に正座をしていた。
 周りには父と母が、同じように正座をして暗い顔をしている。その中心には布団に横たわる祖父の姿があった。
 ――もう長くない。
 誰もが感じていたことだった。
 度重なる夜逃げなどの疲労から、祖父の容態は日を増すごとに悪くなり、ついには一日中天井を相手にする生活を強いられた。
 祖父のことが好きだった少年はいつものように、祖父の話し相手になっていたが、ここ数日は口を開くことすらできなくなっていた。
 ここ数年は家族の重荷となり、ホラ吹き爺とまで嫁に怒鳴られていた。
 祖父の話は、話半分にも信じることができないものが多く。先祖はヨーロッパの領主だったとか、何代か前の先祖は竜と戦っただとか、ときには怪物に襲われる村を助けたことがあったとか。全て御伽噺にしか思えない内容だった。
 祖父の子である少年の父――雅人も幼い頃は祖父の話に胸を躍らせたものだ。しかしそれも大人になるにつれて、いつも家族を残して旅に出る父に怒りすら覚えるようになり、家族の関係は徐々に悪くなっていったのだった。
 若い頃に雅人は何度も家を飛び出そうと考えたが、代々先祖が背負わせれて来た借金による苦しい生活を体験してきたためか、長男であった雅人は家族を支えなくてはいけないという気持ちがあり、家を出ることを踏みとどまったのだった。
 少年が生まれた頃はまだ生きていた祖母も死んでしまい、その頃から祖父は家にこもるようになり元気もなくなっていった。家族を置いて旅に出るような人でも、やはりそれは帰る場所があってこそだったのだろう。それでも祖父は祖母について語ったことは一度もない。
 祖父との思い出は少年にとって父との思い出よりも多い。忙しく金策と仕事に追われる父の背中すら見ることなく、少年は育ったのだった。少年にとって父とは祖父のことを指すのだ。
 そんな祖父も今では寝たきりの枯れ木だ。しゃべることも、笑うこともできず、ただじっと天井を見つめている。祖父を嫌っていた父ですら、この姿を見てしまっては眼に滲むものがある。
 家族の見守る中、祖父の口元が動いた。もごもごと咀嚼するような動き、なにかをしゃべろうと懸命にもがいていた。
「……雅人……雅人……」
「なんだい父さん!?」
 雅人は枯れ枝のような祖父の手を握り締めた。
「……雅人は……雅人はどこじゃ?」
「父さんここにいるよ、僕が雅人だよ」
「雅人、雅人……」
 祖父の首がゆっくりと横に向けられた。そこに座っていたのは、雅人ではなく緋色の瞳を持つ少年だった。
「雅人、こっちにおいで……わしの頼みを聞いておくれ」
 少年はなにも言わず、祖父の口元に耳を傾けた。雅人はすでに祖父から手を離し、部屋の隅で家族に背を向け、肩を震わせながらしゃくり泣いている。
 ボケてしまった祖父には自分の子すらわからなくなってしまっていたのだ。
「雅人や、わしの頼みを聞いておくれ」
 少年は無言で頷いた。
「わしの頼みはたったひとつ……わしの代わりに世界征服を……」
 最後まで祖父はこんな人だった。
 そして、力を失った祖父は事切れたのだった。
 祖父のホラ話を嫌っていた母のすすり泣く声が、雨音にかき消された。

「……夢か」
 山奥の大きな木下でヒイロは目覚めた。
 目元を拭うと薄っすらと指先が濡れていた。
「祖父ちゃん、俺……絶対世界征服するからな」
 空を見上げると、枝葉の間から灰色の雲が顔を覗かせている。
 ポツリと雨粒が空から降ってきて、地面に小さな染みをつくった。
 ヒイロは目をいっぱい擦ると、もたれ掛かっていた木から背を起こし、腕をいっぱいに伸ばした。
 身体を伸ばすと、間接などの節々に痛みが走る。
 そのまま伸ばしすぎるとゴキッ!
 腰を抑えながらヒイロは地面に沈んだのだ。
 このせいで山を降りるのが遅れ、山の中で雨に打たれて風邪を引いて、遭難までしかけたのだった。

 爽やかな陽の光が差し込む午後の教室。昼休みあとの授業は昼寝には持ってこいだ。春の教室には眠りの妖精さんがたくさん飛んでいるに違いない。
 手に顎を置き、華那汰はぼんやりとした目つきで隣の席を見つめた。
 机の上には一輪の花が供えてあった。
 市内某所でヒイロが失踪してから早一週間以上。誰のイタズラか知らないが、ヒイロの机には花が手向けてあった。
 飾ってある花は黒百合。花言葉は『呪い』だ。
「(覇道くんどうしたんだろ、どこ行っちゃったのかな?)」
 事あるごとに華那汰はヒイロのことを考えていた。まだ知り合って間もないが、ちょっぴり不思議な体験や冒険をしたためか、昔からの知り合いのような気まで覚える。
 教室のドアが突然開かれ、寝ていた生徒たちが飛び起きた。
「はーははははっ俺様は帰ってきたぞ!(強くなってな!)」
 教室に飛び込んできたのはヒイロだった。
「遅れて来たんだから、静かに自分の席に着きなさい!(こんな時間に学校に来るなんて)」
 英語教師に怒られヒイロは頭を低くして後ろの自分の席に歩いて行った。
 自分の机に置いてある花瓶を慣れた手つきで退かし、ヒイロは席に着くとニヤニヤしながら華那汰を見つめた。
「俺様の変化がわかるか?」
「目つきがエロくなった?」
「違う、俺様のこの身体から発せられる漲る力を感じないのか?」
「ぜんぜん(前となんにも変わってないけど)」
 ガーン!
 ヒイロ的大ショック。
 自信満々だっただけあって、反作用でぶん殴られた衝撃はヒイロの心を打ち砕いた。
 でも、大丈夫。ヒイロの心はハンマーで砕かれても再生利用可能だ。辛い人生で培ってきた賜物と言えよう。
「俺様の変化がわからないってどういうことだよ」
「だって、ぜんぜん前と変わらないんだもん」
「俺様はな、山で修行して来たんだぞ!」
「へぇーそうなんだー(山で修行なんて現代人の発想じゃない)」
 クラスチェンジができずに涙を呑んだあの日の夜、ヒイロは山で修行することを決意し、ここ一週間ほど修行をしていたのだ。
 野草探しや狩りをしながら過ごし、生きるために理性を捨てて本能だけで生き延びた。空腹にも寒さにも人恋しさにも耐えた。それはすべてヒイロが人生で体験してきたことに比べれば楽なものだった。
 修行から帰ってきたヒイロはひと回りもふた回りも大きく成長した……はずだ。
「今の俺様ならクラスチェンジできるぜ(と思いたい)」
「まだ行ってなかったの?」
「今日の放課後、ミサ先輩を連れて行こうぜ」
「やーだ(めんどくさいし)」
「なんでだよ」
「なんであたしがあなたのことに関わらなきゃいけないわけ?」
 今更だ。かなり今更だが。
「なんでって、今までだって協力してくれたじゃんかよ」
「それはそうだけどぉ」
 華那汰はなんで目の前の変な奴に関わってしまったのか、一から思い出して頭の中で整理しようとした。
 初めての出逢いは、朝の通学風景からはじまる。
 その日、いつものように寝坊した華那汰は、口にトーストをくわえたまま住宅街を爆走していた。そして、曲がり角で覇道ヒイロとの衝撃的な出遭いをしたのだ。まだに衝撃的、顔面からヒイロに突っ込んだ。
 次の出会いはヒイロが転校生としてやってきたところ。
 展開は急展開もいいところで、いきなり学校裏に呼び出されてしまい、『大魔王遣い』なんかの話を聞かされた。そのあとだ、事件が起きたのは――。
 突然に現れたスライムの化け物に襲われ、どうにか撃退するが、また襲われるのではないかという恐怖を覚えた。どちらが狙われたのかは今でもわからない。二人とも自分が襲われたと思い込んでいる。
 過去のことをいろいろ思い出した華那汰は頭を抱えた。
「(そうだった、変な怪物に襲われたんだった。やっぱりあたしがお姉ちゃんの関係者だから襲われたのかなぁ)」
 キーンコーンカーンコーン♪
 授業が終わり、椅子を引きずりながらヒイロが華那汰に近づいてきた。
「行くんだろ?」
「どーしよーかなぁ(あたしどうしたらいいんだろ。月詠先輩と一緒にいたほうがいいのかな。そーすると、月詠先輩が覇道くんと一緒に行くことになったらあたしも行かなきゃいけないのか)」
「おい、行くんだろ?」
「月詠先輩が行くんだったら行く(あぁーいいのかなぁ、これで)」
「じゃあ決まりだな、あとでミサ先輩に会いに行こうぜ(ついにクラスチェンジか、はーはははははっ)」
 そんなこんなで結局、華那汰はヒイロと行動を共にするのだった。

「本当に大丈夫だよな、ミサ先輩?(またできなかったら恥ずかしいぞ)」
 不安そうにヒイロが後ろを振り向くと、ミサはコクリと頷いた。
「大丈夫よ、心配いらないわ。丁度レベル10だもの(一週間も修行したというのに、レベル10なのね……なにをしていたのかしら、うふふ)」
 放課後ガイアストーンの元を訪れた三人。今回は難なくガイアストーンまでの道のりを進み、前の苦労なんてどこ吹く風だった。
 前にこの地下洞がある上のビルで活動していた信者たちは、あの一軒以来姿をどこかに消してしまったのだ。
 ガイアストーンを考え深げに見つめるヒイロ。
「ついに俺様も……(できるのか?)」
 不安いっぱいのやっぱり小心者のヒイロであった。
 ゆっくりと伸ばされる指先が、軽くガイアストーンに触れる。今回は前のような指に走る痛みも、衝撃もなにもなかった。
 一気に手のひらを押し付けると、その瞬間に濁流のようなエネルギーがヒイロの身体に流れ込んできた。
 押し戻されそうになるが、ヒイロは足を踏ん張ってそれを耐えた。
 地面が揺れる。それも華那汰やミサのときよりも大きい。この場所が崩れてしまうかと思うほどだ。
 エネルギーが衝撃波となって暴れまわる。
 風が吹き荒れ、ヒイロの髪は逆立ち、緋色の眼が多く見開かれた。
 脳裏に飛び込んでくるイメージ。
 たった一つのイメージがヒイロに向かって飛び込んできた。
 それは重く腹にパンチを喰らわせ、思わずヒイロは地面に尻餅を付いてしまった。
 いや、それはイメージなどではなかったようだ。
 ヒイロの目の前に立ちはだかる黒い人影。
 妖しく微笑むその人影は、ミサの曾々々々……祖母の魔女カーシャだった。
「こんなところでお前たちに出会うとはな(ミサもおるのか、運が悪い……ふふ)」
 尻餅を付くヒイロに華那汰が駆け寄って肩を抱くと、華那汰は目の前のカーシャを睨んだ。
「なんてことするんですか!」
「無駄にガイアストーンの力を使われては困るのでな」
 華那汰の手を借りてヒイロがゆっくりと立ち上がる。
「……どういうことだよ?」
「昨日ふと思ったことがあってな。この力を我が物にすれば、大いなる力が手に入ることに気づいたのだ」
 この世界ではガイアストーンの第一人者とも言っていいカーシャが、かなーり今更だ。それほど世界征服に真剣ではないのかもしれない。さっすがは華那汰の家で毎日ダラダラしているだけのことはある。
 世界征服を夢見てウン千年、異世界ではあるがハルカを使って小さな島国を制圧した。今度は自らパワーを手に入れて、ハッスルしちゃう気なのだ。
「あちらの世界には強敵が多すぎた。こちらに来ても追い掛け回され、日本では変な陰陽師殺されかけて、岩に我が力を封じられてしまった。いつもいいところで邪魔が入るのだ。だがな、今回は誰にも邪魔はさせんぞ!」
 どこからか取り出した箒をカーシャが回転させると、それはプロペラのように風を発し、ヒイロと華那汰の身体を吹き飛ばしてしまった。
 足の裏を地面に引きずりながら後退するヒイロは、どーにかこーにか脚に力を込めてカーシャに向かって飛び込んだ。
「俺様のクラスチェンジはどうしてくれんだよ!(せっかく、せっかく強くなれるとこだったのに、コンチキショー!)」
「妾に歯向かうなど、百万年早い!」
 再びカーシャの箒から強風が吹き荒れ、ヒイロの身体を押し戻そうとする。
 しかし、ここでミサが一言。
「カーシャお婆様、壱百萬円はいつお支払いになってくださるのかしら?」
「ドキッ(覚えておったのか)」
 つい先日の話だ。覚えていて当然。
 ミサの不意打ちを喰らったカーシャの手は止まっていた。もちろん、箒を動かす手も止まり、風は静かに止んでいた。
 今だチャーンス!
 キラリーンとヒイロの眼が光る。
『拳に込めた思いを喰らいやがれ! バーニングなんとかかんとか』ってな具合でヒイロの拳がカーシャの顔面に向かって飛んだ。
 しかし、その拳はピタリと止まってしまった。
「正義の味方が女を殴れるわけないだろーっ!」
 というのが理由らしい。しかしそんなことより、世界征服をしようとしているヒイロが正義のヒーロー気取りだったとは意外だ。昔好きだった特撮ヒーローモノの影響かもしれない。
「甘いな小僧、自分の信念を貫くには時として汚いことにも手を染める覚悟が必要だ(妾の手は真っ黒けっけ……うふふ)」
 カーシャの重いパンチがヒイロの腹を抉った。さっき喰らったパンチなんて比べ物にならないほど、重くて腹にズッシリと沁みた。
 脚が崩れ、またもや地面に尻餅を付いてしまったヒイロを、上からカーシャが見下ろす。
「まだやるか小僧?」
 完全にカーシャペースでヒイロに勝ち目はない。
 遠くで二人はヒイロのことを見守っているが、動こうとはしなかった。
「(助けてあげたいけど、係わり合いになりたくない)」
「(ヒイロくんはどこまで頑張れるのかしら、楽しみだわ、うふふ)」
 前者が華那汰で後者がミサだ。
 カーシャを見上げ、歯を食いしばるヒイロ。なにか起死回生の手立てはあるのか?
「俺様が悪かったです、ごめんなさい、もうしません、許してください」
 土下座をして必死にヒイロは謝った。今までの人生経験のためか、この辺りのプライドはまったく持ち合わせてないのだ。
「わかればいいのだ(こうやってすぐに頭を下げる奴は信用ならんが)」
「なーんちゃって!」
 土下座の体制からヒイロが蛙ジャンプ!
 カーシャに飛び掛った。
「その程度の悪知恵が見抜けぬとでも思ったか!」
「ぐはっ!」
 箒の穂の部分がヒイロの顔面に直撃。まるでハエでも叩く勢いだ。
「小僧が一〇〇人束になったところで妾には勝てん。まだやるというのなら、他の者に相手をさせよう(ふふふ……ふふふふ……)」
「望むところだ!」
 地面を蹴り上げヒイロはマジで相手を殴る気で駆けた。だが、その前に突如伏兵が現れたのだ。
 カーシャの身体から大きなシャボン玉が発生したかと思うと、それはすぐに形を変化させ、ピンクのうさぎ人形に変化したのだ。
「ふふふふふ……この術は妾の知り合いが使っていた術を参考にして、改良に改良を加えた『うさぎしゃん大行進』だ!」
 その術の名のとおり、カーシャは体内エネルギーを排出し具現化し、大量のピンクのうさぎ人形を作り出す、なんとも可愛らしい術なのだ。
 作り出された人形は総勢二〇体ほど。それが横一列に並び、一糸乱れることなく敬礼のポーズをした。
 カーシャが箒を構え、柄の先をヒイロに向けてターゲッティングする。
「突撃!」
 突撃命令は発せられ、うさぎ人形がヒイロに襲い掛かる。なんとも緊迫感がかける可愛らしい光景だ。だが、襲われているほうはホラー映画のワンシーン、しかもB級ホラーの笑いなのか恐怖なのか、どっちかわかんないようなパニック状態に追いやられていた。
 ヒイロの場合は笑いだった。
「あひゃひゃひゃ、やめ、やめ……(ちぬ、死ぬぅ)」
 飴玉に群がるアリのごとく、うさぎ人形はヒイロを羽交い絞めにし、脇、腹、首筋、人間の敏感な部分を攻めていたのだ。
 なんて恐ろしい地獄絵図。
 これは拷問以外のなにものでもない。笑顔で死ねるなんて素敵ね、なんて綺麗ごと言ってる場合じゃない。このままじゃ本当に呼吸困難で死んでしまう。
「ひゃひゃひゃ、あひゃ、あひゃ、しむぅ、しぬぅ(こ、こんな死に方イヤだーっ!)」
 ちょっと情けない感じで生死の境を彷徨ってしまっているヒイロの眼に、眩く暖かい光が飛び込んできた。
 霞の掛かった光景。
 赤い曼珠沙華の花が咲く野原。
 リラックス効果があるといわれるf分の1のゆらぎを奏でる小川。
 その川の向こう側に立つ若く逞しい男の姿。
「まだお前が来るには早すぎる。ヒイロ、先祖代々の夢はお前に託したぞ!」
 若い男性の姿は突如として老人の姿へと変わったのだった。
 現実へと引き戻されたヒイロの瞼がカッと開かれ、緋色の瞳が揺らめいた。
「祖父ちゃん、俺様は世界征服をしてみせるぜ!」
 ヒイロの身体に張り付いていたうさぎ人形たちの動きが止まった。
 力強く立つヒイロの身体からうさぎ人形たちが離れていく。
 そして、奇跡は起きたのだ。
 うさぎ人形たちがヒイロの前に横一列に整列し、カーシャに向かって敵意を示したのだ。整列状況はまだまだ一糸乱れぬとはいかないが。
 可愛らしいピンクのうさぎ人形に見つめられ、カーシャは一歩後ろの後ずさりをした。冷や汗たらりだ。
 ヒイロがニヤリと口元を歪める。
「突撃だっ!」
 イエッサーとまでは言ってくれないが、うさぎ人形たちが一斉に、ともいかないが、とにかくうさぎ人形たちがカーシャに襲い掛かったのだ。
 自分の技でやられるなんて屈辱もいいところ、笑ってる場合じゃないが笑ってしまう。
「ふふ、うふふ、やめろ……私がお前たちの……ひひひ……(笑えん、笑えんぞ……ふふ)」
 だってくすぐられてるんだもん。
 一気に形勢は逆転した。この状況に驚いているのは、カーシャだけではない。華那汰もミサも眼を丸くして驚いていた。
「覇道くんがこんなことできるんなんて」
「うふふ、クラスチェンジは終わっていたのよ。ヒイロくんのクラスは〈お人形遊び〉レベル10」
 なんとヒイロのクラスチェンジは終わっていたのだ。クラスチェンジの途中でボディーブローを喰らって中断されたと思いきや、実はそれは新たなクラスのパワーがヒイロに注がれた瞬間だったのだ。
 勝ち誇ったヒイロの前で、笑いを必死に堪えながらカーシャは後退して行った。その背後に突如として人影が!?
 ガツン!
 鳴り響く金属音。
 バタン!
 後頭部を金属で殴打されたカーシャが前のめりで気を失って倒れた。
 いったいなにが起こったのか!?

 倒れたカーシャの真後ろに立つ人影。
「おーほほほほっ、仕返ししてやったわよ!」
 毛皮のコートにフライパンを装備した謎の女性。謎の女性なんてもったいぶるまでもなく、そこにいたのは美獣アルドラだった。
「なんで美獣先生が!」
 ヒイロが声をあげ、華那汰も口をあんぐりさせた。驚いていないというか、サングラスのせいでよけいに表情が読めないのはミサだけだ。
「この方、先生だったの? もしかして、うちの高校の?(うちの学校も変わった方を採用するのが好きね……うふふ)」
 ミサのご自宅――月詠邸でのカーシャと美獣のバトルの際、その場にいたミサだが、まさかカーシャが戦っている相手が、自分の高校の教師だったとは知らなかったらしい。美獣が赴任して来たのも間もなければ、他学年の教師の顔など意外に知らないものだ。
 フライパンを投げ捨てた美獣は、高らかに笑った。
「おほほほ、この女にやられた傷が完治するまで時間が掛かったけれど、どうにかこうやって仕返しができたわぁん!」
 前回の戦いで美獣は重症を負わされ、そのためにひと目を忍んで傷の静養をしていたのだ。つまり、学校に顔を見せたのは一日だけだったりして、ミサが知らないのも当然だったのだ。
 すっかり腕も身体も再生しちゃっている美獣は、近くにあったガイアストーンを見上げ微笑んだ。
「これがガイアストーン。なるほどねぇ、この力を使えば魔界のゲートを拡張できるわ(それでもまだまだだけれど)」
 美獣って変な名前から普通の人とは違うなとは思っていたが、まさかこんなとこにひょっこり現れるなんて、予想外も予想外で予想のしようもない事態だった。しかも、独り言のように呟くセリフがなにを言ってるのかさっぱりだ。
 突然だが、現在のみんなの立ち位置を整理しよう。ガイアストーンの目の前に立つ美獣、その足元で伸びているカーシャ(気絶中)、そのちょっと先にヒイロ、そのもっと先にミサ、そのもっともっと先に華那汰が立っていた。
 まとまり感のないバラバラの立ち位置からわかること、それは華那汰がみんなと係わり合いになりたくないってこと!
「あのぉ、あたし、用事も済んだしそろそろ帰ろうと思うんだけど?(これ以上巻き込まれるのはごめんなんだから)」
「美獣先生がなにをしようとしてるかわかんねえけど、悪いことする気なら俺様が食い止めてやるぜ!」
 ヒイロはヤル気満々だった。この間にも華那汰は後ろへ後ろへ下がっている。
「あたしは帰らせてもらいます。じゃ、みんな明日学校でね♪(早く逃げなきゃ!)」
「駄目よ!」
 獣が吠えるように美獣の声が辺りに反響した。
「残念だけれど、ここにいる者は全員始末させてもらうわ。悪事を見られたら処分するのは当然ではなくって?」
「そんなお決まりのパターンいいから、あたしを帰してーっ!」
 叫んでみるが、効果は言葉が木霊しただけだった。
 逃げ出そうと華那汰は後ろを振り返ったが、すでに出口からは人影がゾロゾロと溢れ出ていた。姿を消していたはずの紙袋を被った信者たちだ。
 今更になって出てこられても困る。
 往年のゾンビ映画のように、肩を横に揺らしながらゆっくりと信者たちが近づいてくる。気づいたときにはヒイロ、華那汰、ミサは背中合わせに追い詰められ立っていた。
 狭まってくる円陣の中にポツン浮島のように取り残され、逃げ場もどこにもない。
 華那汰がミサの耳音で囁く。
「月詠先輩、どうにかしてくださいよ」
「無理ね、絶体絶命(クラスチェンジを誤ったわ。ゾンビ相手ならあっちにしておけばよかったわね……ふふ)」
 服装も薄汚れてて、歩き方もゾンビっぽいが、この人たちはゾンビではない――とも言い切れない。たぶん。
 頼りにしていた人に『絶体絶命』と言われ、華那汰は頼りに思ってないほうを向いた。
「覇道くん、どうにかしてよ!」
「無理に決まってんだろ!」
「さっきのうさぎはどうしたの?」
「もういねぇよ!」
 さっきのうさぎ人形たちは、カーシャが気絶したの同時に姿を消してしまっていた。
 絶体絶命だった。
 そんなこんなでピンチを迎えている三人組をほっといて、美獣はガイアストーンを別の場所に移動させる方法を考えていた。
「こんな大きな物、どうやって運び出そうかしらね(ここにいる信者たちをまた言いくるめて運ぼうかしら?)」
 モッチャラヘッポロ教の信者たちは美獣の口車に乗せられ、美獣に裏に控える〝大魔王〟を新たな神として崇拝しはじめたのだ。
 大神官ブラック・ファラオが失踪してしまい、信仰する拠り所を失ってしまっていた信者たちを言いくるめるのは簡単だったのだろう。
 ヒイロたちを取り囲む信者たちは、その距離を残すところ三メートルほどで足を止めていた。飼い犬がご飯を前にして待ったされているみたいだ。しつけのなってない信者が飛び掛ってこないとも言えない。
 信者たちは美獣の合図を待っている。それに気づいた美獣は、指を差してこう言ったのだ。
「その子供は生きたまま捕らえて頂戴、あとはあなた方の好きになさい」
 美獣の長く伸びた爪で指されたその先にいたのはなんと!?
「俺様か!?」
 ヒイロだった。
 驚くヒイロを他所に、すぐ横で華那汰は内心ほっとしていた。
「(よかった、あたしじゃなかったのか)」
 なんて安心している場合じゃないこの状況。
 ノロノロ歩きで信者たちが距離を狭めてくる!
 ミサが二人を庇うように前に出て叫ぶ。
「父と子と精霊とその他いろいろな御名において誓ってみたり、邪を砕く力を我に与えたまえ、汝の呪われた魂に救いあれ、アーメン!」
 すっごい勢いでミサが言ったためか、信者たちはビクついて動きを止めたが、効果はそれだけだった。
 ボソッとミサが呟く。
「やはりクレリックでないと邪は祓えないのね。私クレリックではなくてマジシャンだもの」
 それはミサがクラスチェンジしたときの可能性だった。
 かなり大まかで大雑把に言うとクレリックとは神官系で、マジシャンとは魔法使い系のことだ。ミサはあのとき、マジシャンを選択していたのだ。
 ミサが再び動く。
「カーシャお叔母様には遠く及ばないけれど、風よ障壁を吹き飛ばせ!」
 圧縮された空気がミサの手から放たれ信者たちをなぎ倒した。ストライク!
 ボーリングのピンみたいに倒れていく信者たちを見て華那汰は目を真ん丸くした。よく見るとパーツも分解されて飛んでいる。首だけとか手だけとか。
「月詠先輩スゴすぎ」
「才能の違いかしらね(本当はお守りのおかげだけれど)」
 決して才能というのも間違いではないだろう。しかしそれよりも、ミサの持つガイアストーンのお守りが魔力を増幅させてくれたのだ。これは以前カーシャが美獣と戦ったときにも用いた方法だ。
「二人とも早く逃げて、風よ障壁を吹き飛ばせ!(早くこの呪文に名前をつけてあげないと使いづらいわね)」
 再び放たれる風の玉は信者たちを倒し、出口まで一直線の道を開けた。
 すぐさまヒイロが華那汰の手を引いて出口に走る。
「月詠先輩!」
 華那汰が振り返ったときには、すでにミサは信者たちに取り囲まれて見えなくなってしまっていた。
 ミサを犠牲にして、ヒイロと華那汰は出口の外へ出て行った。
「追わなくていいわ!」
 美獣の声が響いた。
「あの子供を捕まえるのは次の機会でもいいわ。今はこれが先」
 美獣の目の前には、輝きを放ち回転するガイアストーンがあった。
 その輝きが微かに曇って見えるのは気のせいだろうか?

 すでに日は落ち、最後まで遊んでいた朱が還り、蒼い闇が降りてくる。
 その蒼い闇は、ヒイロと華那汰の身体の中までも侵食しようとしていた。
 気が重い。
 突如として現れた美獣によって、カーシャが倒され、ミサまでも二人を助けるために犠牲になってしまった。あの二人が、あの後どうなったのかはわからない。考えたくもないが、考えなければいけない。けれど、混乱する頭ではなにも考えることができなかった。
 そして、生きているのなら助け出さなくていけない。
 昏い住宅街を歩きながら、二人は自然と華那汰の家の前まで来ていた。
 今まで会話のなかった二人は、ここではじめて口を開いた。
「あたしのうち、着いちゃった」
「ここがお前のうちか(やっぱ俺様んちよりデカイな)」
 ヒイロが視線を向けた先には、二階建ての平凡な一軒家があった。
「うん、覇道くんのうちは?」
「えーっと」
「ん?」
「なんも考えないで歩いてたから、とっくに通り過ぎてたっつーか」
「……馬鹿じゃないの」
 華那汰も別に意識をして歩いていたわけじゃない。気づいたら自分の家の前にいたのだ。
 なにも言わず、じっと立ってるヒイロに華那汰が言う。
「うち上がってくでしょ? 月詠先輩のこととか話したいことあるし」
「そうだな」
 二人は華那汰の自宅にあがった。
 玄関に入ると、すぐその廊下を歩いていた黒猫が華那汰たちに気づき、足を止め人語を話した。
「お帰り華那汰。そっちの人はお友達?」
「うん、同じクラスの覇道くん」
「ふーん、覇道くんかぁ。なんかすっごい名前だね。よろしく」
 黒猫に『よろしく』と言われ、ヒイロの脳が一時フリーズした。猫に話しかけられたのは人生ではじめてだった。一生に一度もない貴重な体験だ。
 が、問題はそんなことではなかった。
 黒くてしゃべる猫なんて、ちまたで有名なアレしかいない。
 それにもともとヒイロが華那汰に近づいた理由は、華那汰の姉がアレだという情報をどっかから仕入れたからだ。
 一度は華那汰に強引に言いくるめられたが、目の前に現物のしゃべる黒猫がいるのだから、こじつける気がなくても磁石みたいに情報同士が手と手を結ぶ。
「あーっ! やっぱ華、お前、俺様に嘘付いてただろ! こいつ、ここにいる、この、これ、これが大魔王、えーっとハルカだろ!」
「あはは、覇道くんったら冗談キツイなぁ(マ、マズイ、うっかり覇道くんのこと家に入れちゃった)」
 笑いながら華那汰はヒイロの背中をパシパシ叩いた。だが、その笑顔は目が笑ってない。
 誰が言ったか知らないけれど、ここで遭ったが一〇〇年目!
 そんな勢いでヒイロは廊下にダイブしてハルカの身体をキャッチ!
「捕まえたぞ!」
「にゃーっえっち、胸触らないで!」
 ハルカの鋭い爪が繰り出される。
 ガリッ!
「痛っ!」
 ヒイロは8ポイントのダメージを受けた。
 思わずヒイロはハルカから手を離してしまった。
 華那汰はすぐさまハルカを抱きかかえて、ヒイロの眼前に手のひらを突き出す。
「ストップ!」
「ストップじゃねえ! そいつが大魔王ハルカだろ!」
「違うって、これがあたしのお姉ちゃんだということは一〇〇歩譲って認めるけど、大魔王ハルカと同一人物だなんて認めないからね。お姉ちゃんの口からも言ってやってよ!」
 妹にパスされて困った顔をするハルカは、とりあえず頭をペコリと下げる。
「こんにちわぁ、この家の長女のハルカです。こう見えても華の女子高生です(今は休学中だけど)。どこかの大魔王さんとよく間違えられますケド、ただのそっくりさんなんですよぉ。(最近はひと段落して平穏な生活してたのになぁ)」
 まん丸で可愛らしい瞳がヒイロを覗き込む。こんな綺麗な瞳の可愛い猫さんが嘘を付くはずがない。なんて騙されるほどヒイロはおバカさんじゃなかった。
「嘘だ、しゃべる猫なんて他にどこにいるんだよ!(姉妹そろって俺様のことをうまく騙そうとしやがって)」
 もう単純な嘘は通用しない。
 どうする華那汰!
 華那汰は玄関先に飾ってあった猫の人形を指差した。
「あそこにいるキ○ィちゃんもしゃべるでしょ。青いネコ型ロボットだってしゃべるでしょ!」
「それは架空のキャラだろうが!(もう俺様だってそんなの信じる子供じゃないんだぞ)」
「だったらネズミーランドのネズミ男も架空のキャラだって言うわけ? ネズミ男はサンタさんと一緒で本当にいるのよ!(駄目だ、自分でもわけわかんないこと言っちゃってる)」
「そ、そうか! ネズミ男が本当にいるなら、世の中にしゃべる猫がいても不思議じゃないのか!(盲点だったぜ)」
 キ○ィちゃんとかネコ型ロボットは架空のキャラだと言うわりに、ネズミーランドのネズミ男の中に人が入ってるなんて夢ぶち壊しなことは知らないのだろうか?
 ヒイロは華那汰の意味不明な言い訳を信じそうになっていた。あと一押しだ。
「(もしかして覇道くん信じちゃった? よし、あと一息だ)ほら、大魔王とか言われるくらいの大物だったら、ネズミーランドのシンデレラ城みたいなお城に住んでるはずでしょ。こんな住宅街のど真ん中の中流家庭に大魔王なんかいるわけないじゃん」
「そうだな、大魔王って言ったらでっかい城に住んで、毎日美味しいご飯を食べてるんだもんな。こんな家にいるわけないよな」
「(こんな家で悪かったですねー)」
 どーにか一件落着で、ヒイロは無理やりな言い訳を信じたようだ。やっぱりヒイロは単純――というか、ズレている。
 三人は茶の間に移動することにして、畳の上に腰を下ろした。
 ヒイロの座った場所を見て、華那汰はいつもそこに居座っている人物のことを思い出してしまった。
「……カーシャさん」
 呟く華那汰の顔をハルカが見上げる。
「カーシャさんがどうかしたのぉ?(また事件でも起こしたのかにゃ)」
 ハルカが尋ねたときには、すでに華那汰の瞳は潤んでいた。
「お姉ちゃーん!」
 大粒の涙を落しながら、華那汰は小さなハルカに抱きついた。
「どうしたのぉ華那汰?(華那汰力入れすぎ、ちょっと苦しいかもぉ)」
「……ひっく……っ……ううっ……」
 肩を上下させて泣く華那汰の姿を見て、ハルカは困惑してしまったようだが、それよりもヒイロのほうが驚かされていた。
「(……華も泣くのか。こういうとき、なんて言ってやったらいいんだよ。わかんねー)」
 軽いツッコミでからかう雰囲気でもなかった。
 致命的なまでにヒイロは女の子の扱いに不慣れなのだ。
 泣きじゃくる華那汰を見ながら、ヒイロとハルカはなにもできないまま時間だけが過ぎていく。
 重たくて、歯痒い時間はとても長く、早く過ぎ去って欲しいと願う。
 なにも口を開けないことが、苦しくて胸を締め付ける。
 どんな言葉をかけたらいいのか、頭の中がグルグル回りすぎてなにも考えられない。
 ずっと泣いていた華那汰が顔をあげ、目を真っ赤に腫らしながらヒイロを睨む。
「見ないで、見られたくないの、出てって(こいつに泣いてるとこ見られたなんて最悪)」
 怒鳴るでもなく、低く淡々とした声で華那汰は言った。
 真剣な眼差しをしたヒイロは華那汰の顔を数秒ほど見つめ、なにも言わず部屋を出て行こうとした。その背中に微かに聞こえた小さな泣き声。
 ヒイロは足を止めることなく部屋を出てふすまを閉めた。
 廊下に出たヒイロは、すぐに辺りを見回した。
「(トイレどこだよ!)」
 じつはずっとトイレを我慢していたのだ。今までずっとチャンスを逃してしまって、華那汰は泣き出すしで、トイレに行くとは言えなかったのだ。
 右見て左見て、右は玄関、左はよくわからん。よくわからんなら、行ってみるしかない。いざ、冒険だ!
 廊下を左に進んだヒイロの鼻に、醤油の香ばしい匂いが漂ってきた。
 美味しそうな匂いに釣られて、ヒイロがやって来たのは、もうおわかりの台所だった。
 台所に顔を突っ込んだヒイロは、そこで料理をしていた人妻と目が合ってしまった。
 空を浮かぶ雲みたいな、可愛らしい声がヒイロの脳内を汚染する。
「あらぁ~ん、華那汰のお友達ぃ?」
「そうです、覇道ヒイロと言います。クラスメートってやつです(うちの母ちゃんより綺麗で若いぞ)」
 若いというより、小柄で童顔な女性だった。
「ヒイロくんって珍しいお名前ねぇ。苗字も名前も(華那汰の彼氏かしらぁ?)」
「はい、あー、えっと、トイレどこでっスか?」
「玄関のすぐ横の扉よ」
「はい、どーもありがとうございました」
 なぜか慌てるヒイロは逃げるようにして、台所をあとにしてトイレにダッシュした。
 ノックもせずにトイレに駆け込んだヒイロは、トイレの貯水タンクの上にあった置き時計を凝視してしまった。目が悪くて針が見えないのではない。時計がとあるキャラクター商品だったのだ。
「おーっ! なんでこんなところにニャンダバーZの時計があんだよ!」
 一〇数年前に発売されたニャンダバーZ時計。目覚ましをセットすると『おい起きるんだ。世界の平和を守るためキミの力が必要なんだ!』なんて音声が鳴り、大ヒット商品になった時計だ。当時のヒイロはもちろん買ってもらえるはずもなく、電気屋さんで物欲しそうにしていることしかできなかった。
 その憧れの時計が今ここに!
 ヒイロは盗もうかと頭に過ぎってしまったが、『つまみ食いはいいけど、盗みはしちゃ駄目よ』という母の言葉を思い出し、思いとどまった。
 ニャンダバーZ時計に魅入られて、トイレのことなどすっかり忘れていたが、激しい尿意を催してヒイロはさっさとトイレを済ませた。
 水を流し、手を洗い、ニャンダバーZ時計に後ろ髪引かれながらも、ヒイロは華那汰たちのいる居間の前までやって来た。
 襖をコッソリ開けて、一〇センチくらいの隙間から中の様子を伺う。
 どうやら華那汰は泣き止んだようで、ハルカは華那汰の膝の上で丸くなっている。もう中に入ってもよさそうだ。
「ただいま」
 と中に入ったヒイロを見た華那汰は事務的に聞いてきた。
「どうする?」
「はっ?(なにがだよ、いきなり)」
 意味がわかってないヒイロに華那汰が説明する。
「だから、月詠先輩とカーシャさんのこと。美獣先生が何者なのかわからないし、でも美獣先生を探さなきゃいけないと思うの(だってそれしか手がかりないし)」
 目は少し赤いが、華那汰は前向きに物事と向き合っていた。
 相手が元気を取り戻せば、自然と周り明るくなる。
 ヒイロはニッコリと微笑んだ。

 夜の学校は静まり返り、異様な雰囲気を醸し出している。
 すでに教員たちは仕事を終え岐路に着き、職員室にも教室にも人の気配はない。
 用務員や事務員の姿もなく、学校に残っているのは二人だけだった。
 ――校長室。
 辺りを包み込む空気は瘴気を孕み、普通の人間であれば咳が止まらなくなるだろう。そのまま居続ければ、肺を犯されるだけでなく、異界の物質の応用で身体に変異を来たすこともあるだろう。
 そんな密閉された校長室の中に二人の魔族はいた。
 美獣アルドラ、そして仮初の姿をしたデネブ・オカブ。
「あの石はすでに体育館に運び終えましたわ」
 目の前にいる校長の口から顔を出すデネブ・オカブに美獣は告げた。
 数日前から体育館の使用が禁止され、出入りすらできなくなっていたのだが、美獣の発言はそれと関係があるのだろうか?
 校長の口から吐き出された鉤鼻を持つ老人の顔――これがデネブ・オカブの顔であるが、本人はここにはいない。本人は魔界にいて、そこから人間界との交信を行っているのだ。つまり、校長の身体は通信機でしかないのだ。
「うむ、よくやった。これで今までのゲートよりも大きなゲートを開くことができよう」
「そうなれば、より大きな力を持つ仲間がこちらの世界に来ることができますわね」
「じゃが、まだまだ下級悪魔しか通ることはできん」
 遥か昔、人間界と魔界は決して遠い場所ではなかった。それは物理的な距離ではなく、隔てる壁がなにもなかったということだ。しかし、今では人間界と魔界の間には壁がある。その壁に穴を開けることによって、今は行き来をしているのだ。
 壁に穴を開けることは困難であり、今はまだ大きな穴を開けることができず、小さな穴しか開けることができない。その小さな穴を通れるのは、小さな力をしか持ってない下級悪魔だった。つまり、より大きな穴を開けることにより、より強大な力を持つ上級悪魔が人間界に来ることができるのだ。
 ガイアストーンのエネルギーを得ようとしたのもそのためだった。
 人間界に下級よりも位の高い悪魔がいないわけではないが、人間界に取り残された悪魔は数少ない。魔界にいる悪魔の数に比べれば氷山の一角、だからこそ人間界と魔界とのゲートを拡張する必要があるのだ。全ては魔族の野望と復習のために。
 ガイアストーンを奪うことに成功した。けれど、美獣がこの高校に赴任して来たのには別の理由がある。
 デネブ・オカブがしゃがれ声で尋ねる。
「あの子供の件はどうなっておる?」
「それが、あの石を見つけ出した際、あの子供もいたのですが、石を優先するために取り逃がしてしまいましたわ」
 それはヒイロのことだった。その現場には美獣たちが君主とする大魔王とは別の大魔王の妹もいたが、その者よりも重要とされた目的の子供はヒイロのことだったのだ。華那汰が大魔王ハルカの妹という事実を知らない可能性もあるが。
 目的の子供は逃がしてしまったが、ガイアストーンを持ち帰ったという功績は評価に値する。
「仕方あるまい、今回は多めに見よう。じゃが、あの一族の末裔は絶対に捕まえねばならん」
「しかし、あの子供が本当に魔眼の力を受け継いでいるとは限らないのではないですか?」
「それは捕まえてみればわかること。ゲート拡張が終わったら、引き続き子供の件を頼むぞ」
「御意」
「では、わしは忙しくなる向こう側を手伝いに行くとしよう。すぐにまたこの身体が必要になるじゃろう、保管を頼むぞ」
「御意」
 校長の口から出ていたデネブ・オカブの顔が胃の中に引っ込み、校長の首が折れたようにガクンを垂れた。
 デネブ・オカブが校長の身体から去ったことにより、〝屍体〟に供給されていたエネルギーが絶たれたのだ。動く屍体が動かぬ屍体になってしまった。
 上司がこの世界から姿を消したことにより、美獣は一気に全身の力が抜けてしまった。
「あぁーん! やっとクソジジイが帰ってくれたわ(この身体を保管しておけって言われたけど、夜だから放置しても誰も来ないわよね)」
 ケータイの着信がどこからか鳴った。――演歌だ。
「アタクシのだわ」
 ボソッと呟き美獣はポケットからケータイを取り出した。ナンバーディスプレイに『メールの着信アリ』を表示してある。
 メールを開いてみると、そこには『学校に侵入者アリ』と書かれていた。
 学校に張られた結界が破られる、もしくは進入されると、美獣のケータイにメールが届くようになっていたのだ。
 美獣はケータイを学校に取り付けられていた隠しカメラに接続し、次々とチャンネルを変えていく。その手が止まった。ケータイの液晶画面に映し出された廊下を歩く二人の人影。
「……目的の子(やっぱり目的はアタクシに関係あることかしら。緋色の一族の末裔かもしれない子供。あの子供がそんな大層な存在には見えないわ。魔王の力を盗んだペテン師の末裔だなんて)」
 魔族たちの間で噂になっている〈アッピンの赤い本〉にまつわる事件。それは偉大なる魔族の君主バアルの最大の失態である事件の話。
 ときに人の姿をし、ときに猫の姿をし、ときに蛙の姿をし、ときにそれら三者が融合した姿で現れる魔族。一説には蟹の頭を持つともされ、悪魔に関する書物として有名なプランシー著の〈悪魔の辞典〉では、蜘蛛の脚を持つ姿としても描かれている。
 果たしてバアルの真の姿とは、いったいどのような姿なのだろうか?
 〈アッピンの赤い本〉を奪われて以来、バアルは身を潜め隠れてしまったので、その真の姿を知るの容易ではないだろう。
 魔導書〈アッピンの赤い本〉は遥か昔、幼い子供に騙し取られてしまったのだ。たかが本を奪われだけで、なぜ身を潜めなくてはいけないのだろうか。それは、その魔導書にはバアルに忠誠を誓った魔族の名が書かれており、〈アッピンの本〉を正しく読み解き魔族の名を正しく発音できれば、その悪魔を使役することができてしまうからだ。そして、その魔導書にはバアル自身の〝真の名前〟が書かれているのだ。
 長い間、行方不明になっていた〈アッピンの赤い本〉、それを緋の一族が持っているというのだ。
 〈アッピンの本〉を狙っているのは、バアル本人だけではない。バアルの力を我がものしようとする者たち、魔族の間で派閥争いをしている者たちもまた、バアルを味方に引き入れようと必死になっているのだ。
 その中の一人である〈暁の明星〉の異名を持つ魔族の君主も、〈アッピンの赤い本〉を探している一人だった。その君主こそが美獣が仕える君主なのだ。
 美獣は下級悪魔であるが、下級だからこそ人間界に来ることができ、〈暁の明星〉の勅令を受けて緋の一族の行方を捜していたのだ。
 校内に侵入してきた緋色の瞳を持つ子供たちを、ケータイの液晶画面越しに見ながら、美獣は対策を練った。
「アタクシから出向くべきなのかしら?(でも自分から出向くなんて遣い走りのやることだわ。どこかで待ち構えているのが大物よね。けれど、どこで待ってればいいのかしらね。あの子たちの目的がはっきりしないから、どこで待っていればいいかわからないわ」
 美獣があれやこれやと考えているうちにも、緋色の瞳を持つ子供たちは校内を着々と探索し続けているのだった。

 深夜の学校と言えば、怖い場所の定番だ。そこがトイレだったらなおグッド!
 残念なことにここは理科室だった。それはそれで怖いけど。
「よくそこの窓が割れてるって知ってたね」
 感心したように華那汰が言った。
 それにたいしてヒイロが『ふふーん』と自慢げに鼻を鳴らした。
「まあな、情報を征す者が世界を征すのさ!(俺様が今日の授業で割ったなんて言えん)」
 華那汰の家で相談をし、夕飯までご馳走になって、のんびりテレビを見てから、学校に侵入することになった。理由は美獣の手がかりを探すことで、教員名簿でもなんでも手がかりになる物を見つけようとなったのだ。
 そして、修理待ちでダンボールによって覆い隠された、割れた窓ガラスから理科室に進入したのだ。
 華那汰が辺りを見回していると、その背中に背負っていたリュックから猫の顔がちょこんと飛び出した。
「なんでハルカも来なくちゃいけなかったのぉ?」
 リュックの中に納まっていたのはハルカだった。
 華那汰はめんどうくさそうに答えた。
「さっきも言ったじゃん。だってお姉ちゃん〝大魔王〟なんだから、なにか役に立つでしょ?」
 疑惑の眼差しでヒイロはハルカを見ていた。しかもウッカリ〝大魔王〟を聞き逃している。
「(本当に役に立つのか?)」
 不安を抱える者がいる中、とりあえず三人は理科室を出た。
 廊下の空気は冷たく、懐中電灯の光だけでは心もとない感じだ。
 懐中電灯で遠くの方まで照らしながら、ヒイロは辺りを見回した。
「行くか(やっぱり怖いな)」
 向かうは職員室だ。
 廊下を歩き出してしばらくして、リュックの中に入っているハルカが頻繁に後ろを振り向くようになった。
「華那汰ぁ、なにかいるような気がするんだけど」
「お姉ちゃん変なこと言わないでよ(幽霊だなんてオチなしだよ)」
 華那汰はワザと気にしないように前を向いて歩き続けた。しかし、横を歩いていたはずのヒイロの姿がない。ヒイロは後ろで足を止めたままだった。
「覇道くん?」
 ヒイロは華那汰に背を向けたまま動かない。懐中電灯で遠くを照らしたまま動かない。動けないというほうが正しいかもしれない。
 懐中電灯が照らされた先にいる四つ足の影。二つある眼がギラギラと輝いている。
 四つ足の獣が廊下を蹴り上げ、引き締まった筋肉が躍動する。
 犬だ、黒い犬が廊下を駆けてくる。
 恐怖で足が竦みヒイロは動けなかった。
 一メートル以上もある巨大なブラックドッグがヒイロの喉元に飛び掛る。ここでやっとヒイロは反射的に身体を動かした。だが、もう襲い。勢いよく飛び込んできたブラックドッグに押し倒されてしまった。
 どうにか眼前でブラックドッグを押さえたヒイロの胸元に、ブラックドッグの口から垂れる唾液が落ちる。
 ガルルルルと喉を鳴らし、ブラックドッグは空を噛み切る。何度も何度も。
 なぜ校内に犬が放し飼いになってるかなんて関係ない。
 華那汰の蹴りブラックドッグの腹に炸裂した。
 蹴りとはいえ女子の力では巨躯を追い飛ばす力はない。だが、華那汰の蹴りはただの蹴りではなかった。類稀なる運動能力を持つ華那汰の蹴りは、威力も凄まじかったのだ。
 大の大人以上もあるブラックドッグがヒイロの上から飛ばされた。
 ブラックドッグは壁に叩きつけられながらも、すぐに体勢を整えて華那汰に襲い掛かる。
 風を切り、華那汰の上段蹴りがブラックドッグの首に入った。パンツがチラリン♪
 骨が折れる音が響きブラックドッグは再び壁に叩きつけられた。今度は受身もなにも取れないまま、ブラックドッグはぐったり廊下の上で動かなくなった。
 冷や汗ダラダラでヒイロがやっと立ち上がった。
「マジ殺されるかと思った」
「覇道くんしゃがんで!」
 華那汰が叫ぶ。だが、なにを言われているのかわからず、ヒイロ動かずにいる。そんなヒイロの頭を華那汰は無理やり下に押し込め、華那汰がパーンチ!
 襲い掛かってきたブラックドッグの鼻先に華那汰のパンチが入った。飛び込んできた勢いと華那汰のパンチ力がプラスされ威力倍増だ!
 再び骨の折れる音が鳴り響く。
 鼻が潰れ見た目では明らかにダメージがあるように思える。
 ブラックドッグの骨は確かに折れていた。あばら骨と鼻の骨が折れている。にも関わらず、ブラックドッグは平然としているのだ。
 ヒイロの脳裏に浮かんだ言葉。
「ゾンビドッグか!」
 かどうかはわからないが、とにかく骨が折れても平気にしているのは間違いない。
 こんな犬となんか戦っても勝ち目がない。そーなったら手段はひとつでヒイロが叫ぶ。
「逃げろ!(なんでこんな犬が学校にいんだよ!)」
 冷たい床に足音が反響する。
 とにかく当てもなく走って逃げる。後ろなんて振り向いてる暇などない。犬とかけっこをして人間が勝てるわけがないのだ。
 だが、ブラックドッグは一向に追いついてこない。それどころか、ヒイロたちの方が足は速かった。
 幸運なことに、このときブラックドッグは足の骨をやられており、うまく走れなかったのだ。たとえ痛みを感じないとしても、骨が正常な状態でなければ思うようにスピードが出せないのだ。
 事情を知らないヒイロたちは不安を覚えつつも、ブラックドッグがなかなか追ってこないことに好機を覚えていた。
 廊下を走っていたヒイロたちの足が止まった。しまった行き止まりだ。
 横の教室は理科室だった。スタート地点に戻ってきてしまった。
 逃げてきた道を戻るわけにもいかず、理科室の中に飛び込むドアを閉め、教室の内カギもかけた。
 ここで安堵からか、疲れが一気に来たヒイロは呼吸を急に荒くして膝に両手を付いた。
「なんだよあの犬」
「あたしに聞かないでよ、お姉ちゃんならわかるでしょ?」
「ハルカに聞かれても困るよぉ。ハルカだって怪物研究家でもなんでもないもん」
 ドン!
 理科室のドアが強く叩かれた。
 二人と一匹はビクッと身体をこわばらせ、ドアから離れる。
 ブラックドッグがドアにタックルしているのだ。
 ドン!
 揺れるドアを見ながら、ヒイロの脳裏に幼い頃の借金取りの思い出が浮かぶ。よーく考えたら、借金取りのほうがよっぽど怖かったような気がした。
 廊下には敵いる。ここから校外に逃げ出すのは簡単にできる。
 ヒイロは理科準備室のドアノブをガチャガチャと回した。
「やっぱカギかかってるな」
 そう言ってすぐにドアにタックルした。
 ドアを壊そうとするヒイロを見て華那汰が眼を丸くする。
「なにしてるの!?」
「武器になるものがあるだろ!」
 科学薬品イコール武器。考えが安直だ。
 二度三度とヒイロはドアにタックルしたが、ビクともはするが開かない。
 この間にも、理科室のドアは激しく揺さぶられ、ブラックドッグの猛タックルは続いている。ドアが壊されるなんて考えられないが、それでも突進音が聞こえる度に不安が過ぎる。
「あたしがやるから退いて!」
 ヒイロがドアの前から退き、華那汰がドアにタックルした。
 硝子が割れ飛び、立て続いてドアのカギが外れた。
 ドアを破った華那汰は後ろを振り向こうとしたが、その前にヒイロに抱きかかえられ科学準備室に押し込まれた。
 準備室のドアを閉め、ヒイロが華那汰に命じる。
「そこのドア押さえとけ!」
「えっ!?」
 ドン!
 華那汰は背中に衝撃を受けて、前のめりになり舌を噛みそうになってしまった。
 準備室のドアが何者かによって叩かれている。
 カギの壊れたドアを必死に押さえながら、華那汰は今にも押し倒されそうだった。
「な、なに!?(まざか、さっきのバケモノが?)」
 その予想は的中していた。先ほど華那汰がカギを壊したと同時に、ブラックドッグは理科室のドアに付いた覗き窓を壊して、室内に進入していたのだ。
 ブラックドッグは力任せにドアにタックルし、そのたびに華那汰の身体は強い衝撃を受けて倒されそうになる。
「覇道くん早く!」
「もうちょっと待ってろ、アルミニウムが見つかんねーんだよ!(空いてるガラス瓶もないし、プラスチックの容器で平気か?)」
 いったいヒイロはなにをやっているのだろうか?
 そんなことが気になったりもするが、華那汰はドアを押さえるので精一杯だ。こんな中、余裕があったりしちゃったりするのは、リュックの中で身を潜めているハルカだけだった。
「華那汰がんばれ!」
「お姉ちゃんも手伝ってよ!」
「ハルカ猫だから無理だも……華那汰足元!(グ、グロイよぉ)」
 床を侵食しようとしている赤い液体。それはドアの下の隙間から流れ出ている。ヌメリとした赤い、それはブラックドッグの流した血だった。
 血に気づくのに遅れた華那汰は、ヌメリに足をすくわれてバランスを崩してしまった。その隙を突いて、ブラックドッグがドアに向かって力いっぱい突進した。
「きゃっ!」
 短い悲鳴といっしょに華那汰は押し飛ばされ、ドアの外からブラックドッグが理科準備室の中に!
「華逃げるぞ!」
 ヒイロが叫んだ。その姿はすでに別の出入り口を抜けようとしていた。
「あたしのこと置いて逃げる気!(最低な男!)」
「うるさい、お前もさっさと逃げろ!」
 廊下にいち早く飛び出したヒイロのあとを追って華那汰も廊下に飛び出した。
 すぐにヒイロの横に追いついた華那汰は怒り爆発寸前だった。
「なんであたしのこと置いて逃げようとするわけ!」
「うるさい、その曲がり角を曲がって伏せろ!」
 なにを言われてるのかわからなかったが、このとき華那汰はヒイロが手に持っている容器に気が付いた。
「なにそれ?」
 答える前にヒイロは導火線にマッチで火を点け、後ろから追ってくるブラックドッグに向かって投げつけていた。
「隠れ――」
 ヒイロの声は途中で爆発音によって掻き消されてしまった。
 空気を巻くように炎が唸り、窓硝子が木っ端微塵に砕け飛ぶ。
 硝煙は曲がり角を曲がってヒイロたちのもとまで届き鼻を刺激した。
「げほっ……やべー分量多すぎた(目分量でやったのが間違えだったか)」
「な、なななんなのあれ!?」
 華那汰は眼を丸くし、ハルカは呑気にこんなことを言う。
「魔法みたいでカッコイイ!」
「俺様特製の手投げ爆弾だぜ!」
 理科準備室で華那汰が必死になっていたとき、ヒイロはなんと爆弾を作っていたのだ。
 良い子のみんなは決して真似をしてはいけません!
「なんで覇道くんがそんなのの作り方知ってるの!?(まさかテロ!?)」
 華那汰の言うことはごもっとも、一般人が爆弾の製作方法なんて知っているはずがない。というか、知ってはイケナイことだ。
「祖父ちゃんに作り方教えてもらったんだよ(実際に作ったのは今日がはじめてだったけど、材料がたまたまあってよかったぜ)」
 廊下にへたり込み、危機を乗り越えた華那汰はだんだんと冷静になってきて、顔から血の気が引いてきた。
「あーっ! 学校であんなもの爆発させてどうすんのよ、見つかったら捕まるじゃん。しかも爆弾なんて使って、重罪であたしたち牢屋に入れられちゃう!」
「仕方ないだろ、そんなこと気にしてたら俺様たち殺されてたんだぞ(俺様に感謝しろよな)」
「だって他に方法があったでしょ!」
「にゃーっ!」
 二人が求めている間に割って入ってハルカが叫んだ。
「なにお姉ちゃん!」
 と言った直後、華那汰はすでに逃げる準備をしていた。
 燃え盛る炎に包まれた四つ足の獣。
 あの爆発の中で、ブラックドックは生き残ったのだ。もともと生きてるかどうかは、わからないけど。
 今度は華那汰がヒイロを置いて先に逃げた。
 ヒイロは腰を抜かしてしまって、廊下から尻が上がらない。
 ゆっくりと歩き、ブラックドックが近づいてくる。その全身は業火に包まれ、黒い煤を舞い上げていた。
 一度は走りかけた華那汰は引き返し、ヒイロの腕を掴んで立たせようとする。
「早く立って!」
「殺される!」
 ブラックドッグがヒイロに飛び交った。
 舞い上がる黒い煤。
 足が崩れた。
 ヒイロに飛びつく寸前、ブラックドッグの身体が崩れはじめたのだ。
 飛び上がっていたブラックドッグは途中で力尽き、床に落ちてバラバラに崩れてしまった。
 身体を取り巻いていた炎はやがて治まり、そこには黒い灰だけが残ったのだった。
「あー助かったー!」
 安堵からヒイロは廊下に大の字になって倒れた。

 職員室に着いたが、やはり暗く人の気配もない。だが、職員室の奥にある扉から、微かだが光が漏れている。校長室のある場所だ。
 誰かいるのかも知れない。罠かもしれない。それでも手がかりを掴むためには、自ら罠に掛かることも必要だった。
 ヒイロと華那汰は顔を見合わせ、深く頷き合った。
 このときハルカは時おり、なにかを感じて辺りを見回していた。猫の耳にしか聞こえないよう物音を感じたのだ。
 校長室のドアがそっと開かれる。
 ヒイロが先に入り、あとに華那汰が続いた。このときもハルカは辺りを見回し続けている。
 校長室に入ったのははじめてだった。
 大きなデスクに校長が座っているのもはじめて見た。
 校長が座っている?
 ヒイロが喚く。
「なーっ校長先生ごめんなさい! まさかこんな夜更けに校長がこんなところにいるなんて思ってみなかたんです!(つーか、なんでいんだよ!)」
 ヒイロの反応で華那汰もデスクに座っていた校長に気が付いた。
「ごめんなさい、忘れ物を取りに来ただけなんです!(あたしのばか、なんでもっとマシな嘘付けないかなぁ)」
 だが、校長は項垂れたまま顔を上げることもなくピクリともしない。
 華那汰の背負っているリュックから、ハルカがちょこんと顔を出して、華那汰の肩越しから校長の姿を見る。
「懐かしぃ、校長先生の姿久しぶりに見たよぉ。でもさぁ、思いついたこと言ってもいいかなぁ。校長先生寝てるんじゃないのぉ?」
 それにしても、ピクリとも動かないのはなにか変だ。
 これまで校内で起きたことを考えると、ここにいる校長にも疑惑が湧き上がってくる。
 触らぬ神に祟りなし。
 だが、好奇心も押さえられない。
 ヒイロは校長の横にそっと近づき、とりあえず肩をトントンとノックしてみる。
 ――反応ゼロ。
 続いてヒイロは校長のほっぺたを軽く突付いてみた。
 やけに冷たい。
 ヒイロの脳裏に悪い考えが過ぎる。
 冷や汗が噴出してきて、手が震えだしたが、それでもヒイロは校長の垂れた首を起こして見た。
「ぎゃーっ!」
 白目を剥く校長の顔。
 じつは屍のようだ。
「死んでる、絶対死んでるぞ!」
 ヒイロが叫び、華那汰はすぐに駆け寄って校長の脈を測った。
「脈がない……え、ええーっ!?(死んでる!?)」
 夜の学校と屍体。取り合わせが非常に悪い。
 ヒイロと華那汰は驚いて、壁際まで後ろ歩きで後退した。
 顔を真っ青にして華那汰は姉に助けを求める。
「お姉ちゃんどうしよう!」
「ハルカに言われても困るよぉ。とりあえず一一八番じゃないのぉ?」
 それを言うなら一一〇番だ。
 そこにヒイロが静止に入った。
「駄目だ、俺様たちは学校に不法侵入してるんだぞ。それにさっきに怪物たちのこともあるし、なんて警察に説明するんだよ」
「……でも、人が死んじゃってるわけだし」
 華那汰の呟きにハルカも同意する。
「あとでバレたら、余計に面倒なことになると思うケド?」
 二人に言われてもヒイロは断固として意見を曲げなかった。
「駄目だ駄目だ、絶対駄目だ。ようはバレなきゃいんだよ!」
 閉めたはずの校長室のドアが開き、人の気配がした。
「おーほほほほっ、バレなきゃいいですって。アタクシ見ちゃったわよー」
 振り向いた先にいたのは、毛皮のコートのゴージャスビューティー美獣アルドラだった。
 殺害現場を見られた!
 じゃなくって、殺害なんてしてないけど、とにかく見られた!
 でもなくて、ヒイロが叫ぶ。
「見つけたぞ美獣!」
 学校に侵入したのも、元はといえば美獣の手がかりを得るためだった。その美獣が向こうからやって来てくれたのだ。
「おーほほほほっ、学校なんかに侵入してなにをしようとしていたのかしら?」
「お前の手がかりを見つけるためだ!」
 ヒイロが声を上げながら美獣に飛び掛った。
 だが、ヒイロの目の前に立ちはだかる木の壁――ではなくて、突然美獣の前で閉まる校長室のドア。
 ドン!
 顔面からドアに激突するヒイロ。鼻を強打して、大ダメージを受けた。かなり痛い。
 ドアが再び開き、美獣は開けたドアの前でうずくまるヒイロを見下した。
「やっぱりただの虚けだわ(探してる子供とは思えない)」
 しかし、美獣にはひとつ気になることがあった。
「ところでアナタたち、学校には結界が張ってあったのだけれど、誰が破ったのかしら?」
 美獣の目はヒイロに向けられ、華那汰に向けられ、華那汰の肩越しに顔を出した黒猫に向けられた。
「はぁい、ハルカです。ハルカが破っちゃいましたぁ」
 しゃべる黒猫を見て、美獣の脳ミソがネバーエンディングに駆け巡る。そんな猫のことを知っているような気がする。だが、度忘れで思い出せない。
 そして、ハッとした美獣が声をあげた。
「ま、まさか、アナタも魔族!」
「えっ!?」
 瞳をまん丸にして驚くハルカ。
 もう一回り美獣の脳ミソが回転した。
「あーっ、わかった偽大魔王ハルカね!(……まずいわ、仮にも大魔王を名乗る猫。戦ったらどうなるのかしら?)」
 つい数時間前、美獣は大魔王ハルカの腹心と言われている魔女カーシャを倒したには倒したが、先日に正面切って戦ったときにはコテンパンにやられてしまっている。腹心のカーシャがあの強さならば、大魔王ハルカはもっと強いかもしれない。
 美獣の脳裏に不安が過ぎる。
「(アタクシに仕返しに来たんだわ!)」
 カーシャの仇討ちに来たのだと美獣は思い込んだのだ。
 動揺している美獣の前にヒイロが立った。
「ミサ先輩はどうした!」
 そこにハルカが補足する。
「あのぉ、おまけでカーシャさんのことも教えてください」
「知りたければ、アタクシのことを倒してみなさい!(しまった、ノリで言っちゃったわ。でも、こんなセリフ言ってみたかったのよね)」
 しまったと思いながらも、美獣は顔をニヤつかせていた。
 倒してみろと言われたほうは言われたほうで、こちらは困惑顔だった。戦闘タイプの人間がいないのだ。運動神経抜群の華那汰ならいるが、できれば戦いたくないのが華那汰の本音だ。
 とりあえず二人と一匹で輪になって作戦会議――ジャンケンポン!
 パー!
 パー!
 パー?
 ヒイロと華那汰が出したのは明らかに『パー』なのだが、ハルカが出したのが『パー』だか『グー』だか微妙だ。よーく考えたら猫のハルカにじゃんけんなんてできるわけないじゃん!
 猫の手を見ながらヒイロが頷く。
「こりゃグーだろ」
「にゃー! 違うよぉ、パーだよ!」
 ハルカは反論するが、猫の手では説得力がない。
 目の前で堂々とじゃんけんをはじめる二人と一匹に業を煮やし、美獣は不意打ちでハルカに襲い掛かった。
 鋼鉄をも切り裂く鋭い爪が、小さなハルカに的を絞った。一撃でも受ければ、その衝撃から肉が裂けれるだけではなく、身体が四散してしまう。
 巨獣が歯を食いしばるような音が響き渡った。
 振り下ろしたはずの美獣の手が、ハルカの目の前で止まってしまっている。いくら力を込めても、込めただけ跳ね返される。まるでそこに見えない壁があるように、ハルカに触れることすら叶わない。
「な、なんなの……この力は!」
 柳眉を歪めながら美獣は歯を食いしばっていた。
 鋭い爪を眼前で見ながら、ハルカは苦笑いを浮かべている。
「にゃはは、大丈夫だってわかってても怖いよぉ」
 大魔王ハルカの出現により、関東周辺を覆い隠すように張られた大結界。その力により外国との接触を制限され、日本は一部鎖国状態に置かれてしまっている。その結界からエネルギーをもらっているハルカは、結界の中にいる限り外敵からの攻撃を弾き返し、万が一攻撃を受けた場合も不死性を発揮できるのだ。
 いくら力を込めても爪が届かないことを悟り、美獣は飛び退いてハルカとの距離をとった。
「さすがは魔王を名乗るだけのことはあるわね!(攻撃が当たらないなんて、どうすればいいのよ)」
 焦る美獣だが、ハルカはハルカで焦っていた。
「(負けないけど、勝てないよぉ)」
 攻撃を喰らうことはないが、ハルカの攻撃力は猫レベルだった。
 どうするハルカ!
 どうする美獣!
 対峙したまま一歩も動かない二人と一匹。先に仕掛けたほうが勝つのか、それとも先に仕掛けたほうが負けるのか。
 仕掛けたのは、美獣の背後に近づいていた人影だった。
 ゴツン!
 硝子の灰皿が美獣の後頭部にクリーンヒット!
 頭を押さえながら振り向いた背後には、唖然と口を開けるヒイロの姿があった。
「痛いじゃないのよ!」
「……げっ(殴ったのにあんま効いてねえ)」
 殴ることをためらって力を抜いたわけではない。もうどうにもでもなれと、マジで殴ったのだ。
 眼に怒りを露にする美獣の爪が振られた。狙うはヒイロの咽喉だ!
 華那汰が叫ぶ!
「覇道くん!」
 その手にはハルカが掴まれている。
 華那汰、第一球投げた!
 もちろん投げられたのは他でもない、ハルカだ。
「にゃー!?(なんでハルカが!?)」
 剛速球でストレートにぶっ飛んだハルカに、美獣の鋭い爪が振り下ろされた。これが狙いだったのだ!
 ハルカの結界が発動し、自分の加えた力の反動により、美獣の身体は弾かれて後ろにあった戸棚の硝子を砕け飛ばした。
 校長室に獣の咆哮が木霊した。それは美獣の叫びだった。
「アナタたち許さないわよ!」
 獣ように咽喉を鳴らす美獣は、指を動かし金属音にも似た禍々しい爪音を鳴らした。獲物を定め、八つ裂きにしてやる。
 舌なめずりをして、美獣が狙ったのは一番近くいた華那汰だった――のだが、その動きが突然止まった。
 どこかから聴こえる甲高いアラーム音。
 急いでケータイを取り出す美獣。
「しまった、時間だわ!」
 ケータイでアラームをセットしていたらしい。なんの時間なのだろうか?
「勝負はお預けよ!」
 校長室を駆け出していく美獣の後姿。
 あっ、逃げた!?

 美獣が校長室を飛び出して行ってしまって数秒。
 華那汰が叫ぶ!
「逃げられた!」
 または『助かった!』とも言う。
 早く追わなければ、ミサやカーシャのことも聞けてない。
 いち早くヒイロが校長室を飛び出した。
「追うぞ!」
 暗い廊下に鳴り響いている足音。
 窓から差し込む月明かりが人影を映し出した。
 ヒイロを抜いて、夜目の利くハルカが美獣を追う。
 本気で走ったハルカは人間よりもしなやかに早く走る。だが、追いついたところで、猫のハルカになにができるのだろうか?
 なんてことは考えてはいけない。考えるより行動だ!
 逃げる美獣のスピードは速く、曲がり角で姿を消した。すぐにハルカがその場所にたどり着き、その先の廊下を見る。この高校に通っていたハルカは知っていた――体育館に続く連絡通路だ。
 その場に立ち尽くしていたハルカに華那汰が追いついた。
「体育館って舗装工事で使用禁止になってたはずだけど?」
 最後に追いついてきたのは最初に校長室を飛び出したヒイロだった。
「お前ら足早すぎ」
 三人揃ったところで、校舎を出て外にある屋根つきの連絡通路に駆け出した。
 だが、突如として起こった激しい揺れと唸るような地響きに行く手を阻まれてしまった。
 揺れでバランスを崩されて手をついたコンクリの床に亀裂が奔る。
 いったいなにが起こったのか?
 床についてしまった手の近くまで達している亀裂の先を、ヒイロは恐る恐る眼で追った。そこで起きようとしていた驚愕の事態。
 体育館が、体育館が宙に浮いたのだ!
 揺れは収まったが、あまりの事態に二人はその場に立ち尽くしてしまった。羽もない建物が空に向かって上がっていくのだ。
 連絡通路の先に巨大な穴ができ、大地まで根こそぎ奪った体育館が土塊を落としながら浮上していく。
 異世界帰りのハルカは多少の驚きはしたが、この手のことに慣れているのか、すぐに立ち直って浮上していく体育館を見つめていた。
「どんどん上がっていくよぉ。ヘリでもない限りあんな場所行けそうもないね(カーシャさんがいれば、箒で飛んでいきそうだけど)」
 もうすでに体育館は高度一〇〇メートルには達してしまっただろうか。ハルカのいうとおり、ヘリコプターでもない限りたどり着けそうもない。
 我に返った華那汰が叫ぶ。
「どうすんの? あんなとこ行けるわけないじゃん!」
 華那汰の声でヒイロも我に返った。
「どうするって、そんなこと聞かれてもわかんねえよ!」
「わかんないなんて言わないで考えてよ、あそこに月詠先輩とカーシャさんがいるかもしれないでしょ!」
「他のところにいるかもしんないし……(最悪の場合、もう殺されてるかもな)」
 途中まで覇気のあった声が途中で沈んだ。それは考えたくもないことだった。
 どうすることもできず、華那汰は唸って頭を抱えながらしゃがみこんでしまった。なにもできないことが、悔しくて悲しい。
 悩む妹の姿に眼差しを向けるハルカ。
「(……華那汰……パンツ見えてる)」
 猫の視線からはしゃがむ華那汰のパンツが丸見えだった。今日は純白だ。
 頭を抱えていた華那汰が怒りながら飛び上がって立ち上がった。
「もぉどうすればいいの!」
 あまりの怒鳴り声にヒイロは眼を丸くした。いや、違う。それで眼を丸くしたのではなかった。
「……華……浮いてるぞ」
 話しける相手の顔を見ないで、ヒイロの目線は華那汰の足元に向けられていた。
「浮いてる?」
 なんのことだかわからず、華那汰はヒイロの視線を追った。
 そこで華那汰が眼にしたものは!?
「ええっ浮いてる!? あたし浮いてる!?」
 社会から浮いてるなんて生易しいものじゃなかった。華那汰はほんとに浮いていた――地面から。
 その距離は二〇センチほど、華那汰の足は床から浮いていたのだ。
 ここにいる誰にもわからなかった。けれど、ここにミサがいたら教えてくれただろう。
 ――華ちゃんのクラスは〈子供は風の子〉。あのときは黙っていたけれど、そのクラスの持つスキルは空を飛ぶことよ……ふふっ。
 って教えてくれたに違いない、たぶん。
 宙に浮く華那汰を見て、ヒイロの頭の上で電球がピカーンと閃いた。
「それで行けるんじゃないか!」
 ヒイロは乗り気だが、華那汰は嫌そうな顔をしている。
「無理。たぶん無理」
「無理とか言うなよ、やってみなきゃわかんないだろ!(無理って思ったら負けなんだぞ)」
 それでも乗り気じゃない華那汰の足元でハルカがしゃべる。
「ハルカが近づいたら、華那汰が浮いてるのがちょっとだけど上がったよ。ハルカが出してるエネルギーをうまく利用すれば、華那汰もっと高く飛べるかもよ?」
 ハルカが華那汰の足元に近づくと、五〇センチほど華那汰の高度が上がっていた。
 先日、カーシャが月詠邸で美獣と戦ったとき、魔法を使おうとしたカーシャが魔法をうまく使えなかったことがあった。あのときのカーシャのぼやき、『やはり近くにエネルギーソースのハルカがおらねば』。魔法を使うためのエネルギーであるマナを、実はハルカが体内に蓄積して溜め込んでいるのだ。
 少し考えた華那汰は、背負っていたリュックをヒイロに渡した。
「覇道くんがお姉ちゃんを背負ってあげて、覇道くんのことをあたしが背負うから(でもうまくいくのかなぁ)」
「おう、任せとけ!」
 リュックを受け取ったヒイロは、その中に入るようにハルカに促し、ハルカの入ったリュックを背負って深く頷いた。
「行こうぜ!」
「うん」
 華那汰は頷き、ヒイロを背負った。
 一歩足を引いて手を握り締め、息を吐いて気持ちを整える。
 華那汰ゴーダッシュ!
 連絡通路を駆け抜ける間も華那汰の身体は徐々に浮上していた。これならいけるかもしれない。
 体育館が浮上してできた穴が迫ってくる。
 華那汰がジャンプした――落ちた。
「あーーーーーっ!」
 穴に落ちそうになった華那汰が叫び、足をじたばたさせて再び浮上した。
 それはまるで見えない階段を駆け上がるように、加速しながら華那汰が天に昇っていく。
 ひと一人と猫一匹を背負って空を飛ぶ少女。ご近所さんに見られたら、明日から声をかけてもらえなくなりそうだ。
 体育館が近づいてくる。
 見えてきたのは来客用の正面玄関だった。
 あと少し、あと少し手を伸ばせば届きそうだ。
 体育館の正面玄関にあと少しで手が届くところまできていた。
 しかし、空を走ることは想像以上に華那太の体力を蝕んでいた。それに加え、まっすぐ空に昇ることができないらしく、螺旋階段を上るようにグルグル回っていたのも体力を消耗させてしまった要因だ。ヒイロを背負っているというものだいぶある。
 あと少しだというのに、華那太たちは緩やかに降下してしまっていた。
 華那太の耳元で悪魔が囁く。
「(覇道くんのこと落したら届くかも)」
 けれどそれは無理な話だ。華那太が空を走るためのエネルギーを供給しているのはハルカだ。そのハルカは空を走る前にヒイロに預けられていたのだ。ヒイロを落したらハルカまで落ち、結局は華那太も落ちることになってしまう。
「覇道くん、あたしの身体を登ってあそこに手をかけて!」
「おう、任せとけ!」
 華那太に背負われていたヒイロが、華那太の身体をよじ登ろうと手足を動かす。
 ふにゅっふにゅっと、二度ほどヒイロの足が華那太の柔らかなふくらみに当たったが、顔を赤くしながらも華那太はグッと怒りを堪えた。こんなところでヒイロに制裁を加えたら、地上にまっ逆さまで潰れたトマトになることぐらいわかっている。
「やったぞ!」
 ヒイロが歓喜の声をあげた。
 肩車状態になり、ついにヒイロの手が入り口の出っ張りに届いたのだ。
 ヒイロは懸垂の要領で上がろうとするが上がらない。腕がぷるぷるしてこのままでは落ちる危険がある。
「あたしが登るから、覇道くんはそのまま頑張って!」
 今度は華那太がヒイロの身体をよじ登る番だった。
 足をじたばたさせ、空走りをしながら自分が落ちないように、華那汰は肩車をしているヒイロの股間から頭を抜いた。
 これからヒイロの身体をよじ登ろうとして、顔を上に向けた華那汰の目にリュックに入ったハルカが映った。
「お姉ちゃん邪魔、先に登って!」
「あぅ、ハルカ高所恐怖症なんだけどぉ(リュックの中から一歩も動けないよぉ)」
 リュックの中でハルカは身体をブルブル震わしながら小さくなっていた。
「お姉ちゃんが邪魔であたしが登れないでしょ!」
「華那汰はもう誰も背中に背負ってないんだから、空走りで簡単に登れるでしょ?」
「あ、そっか」
 華那汰のうっかりさん♪
 そうと気づけば華那汰はヒイロから手を離し、空走りを使って簡単に玄関にたどり着くことができた。
 自力で玄関の出っ張りに掴まっているヒイロは限界ギリギリだった。腕がプルプルして今にも落ちそうだ。早く引き上げなければ!
「早く俺様を……引っ張ってくれ……落ちる」
「今引き上げ――きゃっ!?」
 華那汰の目の前でヒイロの片手が滑り落ち、その衝撃でヒイロの身体が大きく傾いた。
 ヒイロが落ちる!
「覇道くん!」
 ガシッ!
 間一髪のところで華那汰がヒイロの手首を掴み、ヒイロも華那汰の手首を掴み交差させた。だが、悲劇は起きてしまった。
 ヒイロが体制を崩した衝撃で、背負われていたリュックの中にいたハルカが大きく揺れ、リュックのジッパーが大きく開きハルカの身体が住宅街に向かってダイビング!
「にゃぁぁぁっ!(なんでこーなるのぉぉぉぉぉん!)」
 キラリーンと輝き、ハルカは住宅街のど真ん中に落ちていった。
 落ちゆくハルカを見ながら二人は声もでなかった。
 サッと華那汰は自慢の運動能力でヒイロを引き上げ、二人で下の景色を覗き込んだ。
 ハルカの姿はとっくに見当たらない。今頃は住宅街のど真ん中に隕石っぽく落下して、お茶の間を騒がしているに違いない。
 顔を見合わせる二人。
 華那汰は目線を泳がせながら苦笑いを浮かる。
「あはは、えっとぉ、ああ見えてもお姉ちゃん不死身だから、へーきへーき(……たぶん)」
 関東周辺に張られた大結界の中にいる限り、ハルカは不死身だったりするのだ。何人たりともハルカに危害を加えることはできない。しかし、事故はどうなるのだろうか?
 華那汰は能天気に笑いながら考えないことにした。
「あはは、へーきへーき♪」
「……マジかよ」

 もはやここは体育館と呼べる場所ではない。異界の名に相応しい場所へと変貌していたのだ。
 まず目に飛び込んできたものは、七色に輝く大小の石だった。小さな物でも人の頭ほど、大きな物になると大人が姿を隠せるほど、そんな物が宙をふわふわと飛んでいる。
 普段のフローリングの床はどこにいったのか、幾何学模様の描かれた紅い絨毯がどこまでも続いている。あまりに鮮やかな紅い色にずっと見ていると気が狂いそうだ。
 館内の中心には分厚い金属板が円を成すように五枚並べられている。その中心に輝くガイアストーンが煌く粒子を振りまきながら回転していた。
 ヒイロと華那太は身を寄せ合いながら、辺りを見回した。
 人影はどこにもない。
 突然、灰色の蒸気が壁から噴出した。部屋の壁に血管のように張り巡らされていたパイプから出たものだ。
 ヒイロはビクッとしながらも、華那太に顔を覗き込まれたことによって、気丈な態度で振舞う。
「別に怖くないからな、俺様の母ちゃんのほうが怖い」
「言い訳が情けなさ過ぎる(なんでこんな頼りない奴と二人なんだろ)」
「うるさい!」
「はいはい」
 華那太はいつもどおりに振舞っているように見せた。けれど、先ほどから続く悪寒が治まらない。
 マイクから漏れるノイズ音が微かに響いた次の瞬間。
「おーほほほほっ、よくここまで来れたと褒めてあげるわ!」
 頭にキンキン響く笑い声――美獣に間違えない。だが、声はスピーカーからしたもので姿が見当たらない。
「どこだ!」
 ヒイロは辺りを隈なく見渡した。
「おーほほほほっ、アタクシ人よりも高いところが好きなのよ!」
 前方にある壇上の閉じていた幕が左右に開き、ゴージャスな毛皮のコートを着た美獣が姿を見せた。手にはしっかりマイクが握られている。
 すぐにヒイロと華那太は壇上に上がろうとしたのだが、巨獣の咆哮が館内に響き渡る。
 本能的に負けてしまったヒイロと華那太は、すくみ上がって足が止まってしまった。
「まるで蛇に睨まれた蛙ね。アタクシ弱いものいじめが大好きなのよ」
 完全に見下した目で美獣はヒイロと華那太を見ている。
 ここはカッコよく言い返してやりたいところだが、ヒイロにそんな勇気はない。華那太もできれば出たくない。
 相手を笑いながら美獣は一歩一歩と、ヒイロたちとの距離を詰めてくる。そして、壇上の淵に差し掛かったところで、天井を指差したのだ。
「あれを見なさい!」
 美獣がビシッとバシッと指差した先にスポットライトが当たり、天井に吊り下げられた人影が二人見えた。
「月詠先輩とカーシャさん!」
 華那太が叫んだ。その眼に飛び込んできたのは、間違いなくミサとカーシャであった。
 腕を縛られ、口を縛られ、ミサとカーシャは体育館の天井から細いロープによって吊るされていたのだ。よくこんなシーンでは、縛られた口で『助けてー』なんて言って足をじたばたされるものだが、二人は死んだように動かない。もちろん死んでいるのでも、気を失っているのでもない、二人とも冷めた人間なのでヤル気の欠片もないのだ。
 そんなことよりも!
 今なら真下からミサとカーシャのパンツが覗けるぞ!
「(ミサ先輩のパンツ……何色なんだ)」
 マジに妄想が駆け巡ってしまったヒイロを置いておいて、華那太は真剣な顔をして美獣を睨みつけていた。
「二人を降ろして!」
「やーよ。どうにかしたいのなら、まずはアタクシを倒しなさい。アナタ方がアタクシに殺される前にね!(こんなセリフ言ってみたかったのよ!)」
 美獣の身体に突如変化が起きた。着ていた衣服が下着ごと弾け飛ぶように破れ、乳が揺れ、尻が振られる。そして、なんと裸体となった体に白銀の毛が這うように生えはじめたのだ。
 この時点でヒイロは鼻を押さえながらしゃがみ込んでしまった。鼻を押さえる指の隙間から、赤い血が滲んでいる。意外にウブなヒイロは、美獣の悩殺変身シーンでダメージを受けてしまったのだ。
 美獣の変化は続いていた。
 身体を覆う白銀の毛がきわどい水着のようになって、肌と毛の境目を作り上げる。今まで厚着でわからなかった爆乳が激しく揺れ動いて強調されたぞ!
 肉を抉るために手の爪が鋭く伸び、髪の毛の間から尖った耳が突き出る。最後は肉付きのいいヒップから尻尾が伸びた。これこそ美獣の真の姿――獣人の姿だ。
「おーほほほっ、アタクシの真の姿を見て驚いたかしら?」
 驚く前にヒイロは鼻血が止まらなくて大変なことになっていて、華那太はヒイロにティッシュを渡すのに必死だった。誰も美獣なんか見てない。そんなヒマなかった。
「覇道くん馬鹿じゃないの。鼻血出すなんてカッコ悪すぎ(高校生にもなって女の人の裸で鼻血なんて、ダサすぎ)」
「出したくて出したんじゃねぇよ!(駄目だ……揺れる山と秘境アマゾンが頭から離れん)」
 仕方ない。美獣はそれほど前にナイスバディだったのだから。今夜のヒイロは悶々とした夜を過ごすに違いない。頑張れヒイロ、負けるなヒイロ!
「ちょっとアナタたち、アタクシのこと無視しないでよ!(一番の見せ場だったのよ!)
 毛と尻尾を立てて怒る美獣。感情が尻尾に出てくれるので一目瞭然だ。
 ようやく鼻血が止まったのか、やっとヒイロが立ち上がった。
「無視なんかしてねぇよ、今から相手になってやるぜ!」
 鼻に丸めたティッシュを突っ込みながら言っても、ぜんぜんカッコよくない。むしろカッコ悪い。
「アタクシの相手をするのは、どっち? それとも二人で掛かってくる?(こんなセリフにも憧れていたのよ。スゴク悪役っぽいわ、感動だわ!)」
 ヤル気――殺る気満々の美獣が壇上からストンと降り、爆乳が縦揺れに見舞われた。
 ブハッ!
 ヒイロの鼻からティッシュが飛ぶ。止まっていた鼻血がまた出たのだ。これじゃあ、まったく勝負にならない。
 それでもヒイロはめげずに鼻を押さえながら、どうにかこうにか持ち堪えた。
「待て、お前の相手をするのは俺様じゃない!(なんか、頭がスーッとしてきたぞ)」
 美獣の視線が華那太に向けられた。
「あたしじゃないです。あたし平和主義者なんで、ケンカ反対でーす♪(こんなところまで来ちゃったけど戦って勝てるわけないじゃん)」
 華那太苦笑い。完全に顔を引きつっている。
 では、果たして美獣の相手は誰がするのか?
 ここまで来て、新キャラ登場か!?
「はーはははっ、お前の相手はこいつがしてくれるぜ!」
 ヒイロが学ランの裏から取り出したのは、なんと工作だった!
 小学生の工作としか見えないそれは、お菓子の缶に割り箸を通して手と足にしたシンプルなもの。缶には油性マジックで顔が描かれていて、その額には『Z』の文字が。
 ま、まさか!?
「お前の相手は、この超合金ニャンダバーZがしてやるぜ!」
 はぁっ?
 思わず美獣は『はぁっ?』という顔をしてしまった。仲間の華那太ですら『はぁっ?』という顔をしている。
 それはヒイロが幼き日に憧れていたロボットヒーロー。昔はお菓子の箱と枯れ枝で作ったが、今回はお菓子の缶と割り箸にグレードアップだ。しかも、マジックで顔まで描いてある。だからどうしたって感じだ!
 とにかく、電気屋さんのテレビで見たはじめてのニャンダバーZの放映。その幼き日の思い出が、なんかそんな感じで、えっと、その、とりあえずなんかなったのだ!
 だって、工作なんかいきなり出されても言葉に困る。
 唖然とする美獣を前に、ヒイロは自信満々の笑みを浮かべていた。そんなに工作のできがよかったのだろうか?
 ヒイロはニャンダバーZ人形を床に置いた。そして、声高らかに叫んだのだ。
「弱気を守り、強気をくじく、ニャンダバーZ発進!」
 それはあっという間のできごとだった。気づいたときには美獣がおでこを抑えながら喚いていた。
「よくもやってくれたわね!(不意打ちよ、不意打ちだわ、不意打ちをしていいのは悪役だけよ!)」
 おでこを抑える美獣の足元にはニャンダバーZ人形があった。そう、ニャンダバーZが美獣へヒットを喰らわせたのだ。
 再びニャンダバーZが動き出す。
 宙に浮き、美獣の眼前で静止すると、一気に勢いをつけて缶の蓋部分で美獣の頭にアタック!
「痛っ!」
 再び美獣はおでこを抑えてよろめいた。
「こんなガラクタに二度も殴られるなんて、屈辱だわ!(仲間に知られたら笑いものよ!)」
 目を血走らせて美獣はニャンダバーZを捕まえようとするが、なかなかすばしっこくて捕まらない。必死な美獣が躍らされ、まるで盆踊りを踊っているような手の動きをしてしまう。
「はーはははっ、ニャンダバーZの力を思い知ったか!」
「こんなガラクタすぐに破壊してやるわ!(あーっ腹立つ!)」
 子供のおもちゃに遊ばれ、美獣の怒りは頂点に達しようとしていた。
「ウザイわ、ウザイのよ! こんなガラクタに使いたくないけど、仕方ないわ」
 美獣の身体が大きく回転する。
「円舞必殺撃!」
 出たーっ!
 美獣の必殺技だ!
 足先を回転軸にして、腕を大きく広げながら鋭い爪を振り上げ、振り下げる。
 その威力もスピードも以前カーシャと戦ったときの比ではない。獣人化した美獣はその筋力や瞬発力を向上させ、一撃で像をも仕留める爪を振るった。言い過ぎた、像はたぶん無理だ。
 ――が。
 ビュン、ビュン、ビュンと風を切る音だけが虚しく響き渡る。
 ニャンダバーZに手も足も出せない美獣を見て、ヒイロの気分はすでに有頂天だった。
「手も足も出ないのか、口ほどにもない奴だな!(これなら勝てる、勝てるぞ!)」
 悪役みたいなセリフだ。
 勝つ気満々のヒイロだが、実はさっきから美獣の攻撃を避けているだけで、攻撃を繰り出していない。これでは勝つもなにもない。
 ヒイロはニャンダバーZに念を込めながら、ついに攻撃を仕掛けた。
 しかし、避けから攻撃に入ったときに隙ができてしまったのだ。
「甘いわよ!」
 グウォォォォン!
 風が唸り、美獣の鋭い爪が缶を抉り、そのまま床に叩き付けた。
 機体をへこませ、見るも無残な姿になってしまったニャンダバーZ。
「ニャンダバーZ!」
 ヒイロの悲痛な叫びが木霊した。
 ヒーローは決して負けない。
 けれど、ニャンダバーZはヒイロがいくら念を込めても立ち上がることはなかった。

 美獣の必殺撃を受けたニャンダバーZは動かない。
「おほほ、やったわ。手こずらせてくれたけど、次はアナタの番よ!」
 だが美獣は目が回って、足元ふらふらでそれどころではなかった。
「ニャンダバーZは絶対負けなんだ!(立ってくれ、立ってくれニャンダバーZ!)」
 緋色の瞳に熱いものが滲む。
 心を汗は頬を伝わり、床に落ちて四散した。
 その思いが通じたのか、ニャンダバーZの機体が微かに動く。
「お前はまだやれる。行けニャンダバーZ!」
 ヒイロの声に反応して、再びニャンダバーZの機体が微かに動いた。でも駄目だ、ニャンダバーZには、もう立ち上がる力は残っていなかった。
 しかし、ニャンダバーZにはとっておきの切り札があったのだ。
「ニャンダバーZ! お前の力を見せてくれ。行け、超合金ロケットパーンチ!」
 ヒイロの熱い思いが奇跡を起こした。
 ニャンダバーZの機体から超合金ロケットパーンチが発射されたのだ。実際は超合金ではなく、割り箸だが、突っ込んではいけない。
 シュン!
 風を突き、超合金ロケットパンチが美獣の腹を突き刺した。
 顔を歪めて腹を押さえる美獣の指の間には、割り箸と、そこから滲み出す鮮血が!
 本当に刺さっちゃったよ!
 これにはやった本人のヒイロも引いてしまった。まさか、刺さるとは思ってもみなかったのだ。
「まさか、刺さるとは思ってなかったんだけど……いや、そのぉ(ヤバイ刺さっちゃったよ、血が出てるよ!)」
「よ、よくもやってくれたわね……アタクシの身体に傷をつけるなんて……こんな傷痛くも痒くもないけど、もう容赦しないわよ!」
 腹に刺さっていた割り箸が血を噴出しながら抜かれ、その傷は見る見るうちに再生してしまった。
 そして、怒りに燃える美獣はゆっくりと歩くと、床に落ちていたガラクタを力強く踏み潰したのだった。
「ニャンダバーZ!」
「うるさわよ!」
 幼き日の公園での思い出がヒイロの脳裏を駆け巡る。。
 ニャンダバーZは今度こそ本当に再起不能になってしまった。もうただのガラクタのゴミだ。缶だから分別して捨てなければならない。
 感傷に浸るヒイロの前に立つ美獣。その手が素早く伸びた。
「うっ!?(息が、息が……)」
 美獣の片手がヒイロの首を絞めていた。
 少しずつ、少しずつ、ヒイロの首を絞める美獣の手に力が加わり、鋭い爪が柔らかい皮膚に食い込んでいく。
 血が滲む。
 一思いに首をへし折ることなど簡単にできた。それなのに美獣はヒイロを弄びながら、相手に死の恐怖を味あわせようとしたのだ。
「どう、苦しいわよね?」
「……くっ……く……(こ、殺される)」
「簡単には殺さないわよ。まずは四肢に釘を刺し、爪を剥ぎ、指を折り、全身の皮も剥いであげるわ(煮込み料理がいいかしら、それとも揚げ物にしようかしらね)」
 舌なめずりをする美獣の顔は、肉食獣の顔になっていた。口の中から尖った歯が覗き、紅い舌が物欲しそうに動いている。怒りでヒイロを生け捕りにする目的などすっかり忘れてしまったようだ。
 ヒイロ絶体絶命のピンチだ!
 誰かヒイロを助けてくれる者はいないのか!
 あ、そう言えば華那太はどこに行ったんだーっ!
 華那太は天井のライトを降下させるスイッチを押していた。
「こっちに▽マークがついてるか、これでいいのかな?(ポチっと)」
 天井に吊り下げられていたミサとカーシャは、これまた天井に吊り下げられていた吊り下げ式のライトにロープを結んでつけて、そこから吊り下げられていたのだ。
 降下してくる人質の姿を見て、美獣は甲高い咆哮をあげた。
 ヒイロのことなど今はどうもいい。美獣はヒイロをゴミのように投げ捨て、空中に浮かんでいる石々を足場にして、宙を飛び人質のもとに向かった。
「今すぐ叩きとしてやるわ!」
 軽やかに石から石へと飛び移り、美獣はミサとカーシャを吊るしていたロープを鋭い爪で切ってしまった。
 もう駄目だ!
 ミサとカーシャが床に激突してしまう!
 ――だが、ミサとカーシャはストンと軽やかに地面に着地した。じつは、美獣がロープを切ったときには、すでに地面との距離は二~三メートルほどしかなかったのだ。
 美獣痛恨のミス!
 頭に血が昇りすぎていて、まともな判断能力がなかったのだ。
 ついでに気が抜けて、美獣は乗っていた石から足を滑らせ、床に落下し尻餅をついてしまった。
「痛いわよ、痛いじゃないよ、最悪だわ!」
 最悪なことはこれから起こるのだった。
 尻餅を付きながら、美獣が視線を上げると、視線を合わしたくない人物を合ってしまった。
「妾のことを後ろからフライパンで殴ってくれたそうだな?(ふふふっ……仕返しはさせてもらうぞ)」
 そこに立っていたのは、今の今まで吊るされていたカーシャだった。しかも、すでに縛られていた手の縄を解いている。彼女にしてみれば縄抜けぐらいできて当たり前なのだ。
 カーシャのすぐ後ろにはミサも控えていた。
「(お婆様……自分だけ縄抜けできるなんて……酷いわ)」
 こちらは縄抜けを習得していないらしく、手も口も縛られたままだった。
 強敵を前にして美獣は――背を向けて逃走した。
「逃がすか犬めが!」
 カーシャが叫び後を追う。
 館内中央に設置されていた円形に並ぶ金属板の中に美獣が逃げ込み、追いかけて中に入ろうとしたカーシャだったが、強力な結界により火花を散らしながら後ろに飛ばされてしまった。
 金属板に囲まれたガイアストーン。
 その結果の中に入った美獣は妖しく笑っていた。
「本当はアナタたちを始末してからのつもりだったけど、もう段取りなんてどうでもいいわ。この石の力を使って魔界とのゲートを拡張してやるわ!」
 美獣の目的。それはガイアストーンの力を使い、魔界とこの世界との入り口を広げることだったのだ。体育館の中を別世界に変えた数々の品は、そのための装置だったのだ。
 ガイアストーンが暗黒の光を放ち、金属板に描かれていた文様が蒼白く輝く。
 壁に這うパイプから灰色の霧が大量に吐き出される。
 霧に肺をやられて咳き込みながらも、華那太はミサの手や口を縛っていたロープを解いていた。
「月詠先輩、今すぐ解きますから」
 華那太は先に目に付いた口から解き、口を開放されたミサがすぐに叫んだ。
「私はあとでいいから、私のペンダントをカーシャお婆様に渡して!」
「は、はい!」
 華那太はミサに言われたとおり、ミサのペンダントを取り、それを持ってカーシャのもとに駆け寄った。
「カーシャさん!」
「早くそれを渡せ!」
 カーシャは華那太からペンダントを奪い取るように受け取り、すぐさま結界の前に立った。
 淡く輝くフレアがカーシャの周辺に浮かび、巨大な塊を抱えるようにして、カーシャはそれを一気にそれを解き放つ。
「ライララライラ、障壁を破壊する力を我に与えたまえ――流星鳳凰波!」
 蒼白い流星にも似た輝きが尾を引きながらカーシャの身体から放たれた!
 轟々と空気を巻き込みながら、流星鳳凰波が結界に激突する。
 その刹那、閃光が弾け飛び、遅れて爆風と衝撃が広がった。
 結界はどうなったのか!?
 そこには何事もなかったように笑う美獣の姿があった。
「おーほほほほっ。無駄よ無駄よ無駄よ、結界を破るには装置で増幅されたこの石を上回るエネルギーが必要なのよ!」
 唇を噛み締めるカーシャは無言のまま動かなくなってしまった。
「……くっ(ハルカがおればな。こんなちっぽけなガイアストーンの欠片では歯が立たん。絶体絶命……ふふっ……笑えん)」
 勝利を確信した美獣はゲートを開く最終段階に入ろうとしていた。
「我が愛しき君主、魔界の大魔王ルシファー様。アタクシにお力をお貸しください(これで絶対アタクシの株が上がるわ。そしたら、愛しの君にいい子いい子してもらえるかもだわ!)」
 建物そのものが激しく揺れた。
 闇色に染まってしまったガイアストーンから、大量の暗黒フレアが撒き散らされる。
 そして、ガイアストーンの真上の空間が渦を巻きながら歪みはじめた。
 その歪みは徐々に大きさを増し、中から奇声や叫び声が波のように押し寄せてくる。魔界の住人たちが、今か今かとゲートが開くのを待っているのだ。
 このままでは大量の魔族たちがこの世界に解き放たれてしまう。これを食い止める術はないのか!
「おーほほほほっ、これで今までこちらに来れなかった力を持つ仲間が来れ……えっ?(な、なにが起きたのよ!?)」
 渦を巻いていた空間が巻き戻しのように急激に縮まっていく。
 美獣の視線が背後に向けられた。
「なんでアナタが!?」
 驚きのあまり美獣はその場に立ち尽くしてしまった。
 そこに立っていたのは、なにやらプラグを持っているヒイロだった。
「あー、気づいたらこの中にいてさぁ。とりあえずそこら辺にあったコードを抜いてみたんだが、まずかったか?」
 先ほど美獣に放り投げられたヒイロは、偶然にもガイアストーンの近くに投げ飛ばされ、結界発動後も中にいたのだ。
 装置のプラグを抜かれてしまい、空中に開いていたゲートは針の穴ほどになってしまっていた。
 ヒイロが世界の危機をまぐれで救ってしまったのだ!
 結界も消滅し、ガイアストーンが激しく回転しはじめた。ガイアストーンが今まで吐き出していたフレアを吸い込んでいる。
 危険をいち早く感じたカーシャが叫ぶ。
「小僧、そこを離れろ!」
「えっ!?」
 わけのわからぬままヒイロはその場を走って逃げた。次の瞬間、強烈な風が吹き、空気がガイアストーンの中に吸い込まれていく。
 ゲートを開くために使ったエネルギーを取り戻すため、ガイアストーンにエネルギーが逆流しはじめたのだ。
 後ろに吸い込まれそうになるヒイロは必死な形相で走る。だが、その足は動いても動いても先に進まない。
「覇道くん掴まって!」
 華那太の手がヒイロに伸ばされた。
 ガシッと温かい華那太の手が掴まれ、ヒイロの身体は力強く華那太の胸に抱き寄せられた。
 自慢の瞬発力を生かし、ヒイロの手を引きながら華那太が体育館の隅まで走る。
 いち早く体育館の隅に避難していたミサが華那太たちに手を伸ばしている。あそこまで行けば助かりそうだ。
 ガイアストーンは宙に浮かんでいた七色の石を吸い込み、辺りにあたった装置を次から次へと吸い込んでいく。
 もうちょっと頑張れば、伸ばされたミサの手に手が届く。
「あっ!」
 後ろを振り返った華那太が目を丸くした。
 二人を結んでいた手が、ヒイロの手が華那太の手を離れていく。
「た、たたた助けてくれ!」
 情けない声をあげるヒイロの足が浮き、ガイアストーンに向かって一直線で飛んでいく。
「覇道くん!」
 華那太の悲痛な叫びまでも吸い込まれそうだった。
 しかし、ヒイロが突然床に腹から落ちた。痛そうだ。
「うぐっ!」
 床に落ちて腹を押さえながら転がって痛がるヒイロを見て、華那太はポカンとしてしまった。
「あれ? 治まった?」
 風が治まっている。
 ガイアストーンは白く透き通り、淡い輝きを放ちながら緩やかに回転していた。
 危機は去ったのだ。
 惹かれるようにして、華那太たちはガイアストーン近づいた。痛そうにしているヒイロは放置で。
 安らかに輝くガイアストーンの光を見て、ミサは静かに微笑んだ。
「もう心配なさそうね」
 ガイアストーンを眺めていた華那太が少し下に目を向けると、ガイアストーンの影から小さな影が現れた。
「ワンワン!」
 それは白銀の仔狗だった。
 華那太たちを威嚇して吠える狗の首根っこ掴み、カーシャが低く笑いながら狗を持ち上げた。
「ほう、さっきの狗女か。ガイアストーンに力を吸われ、だたの仔狗になったと見えるな(あとでたっぷり仕置きしてくれる……ふふふっ)」
 なんと物陰から現れた仔狗は美獣の変わり果てた姿だったのだ。きっとこのあと、美獣はカーシャにあ~んなことやこ~んなことをされていじめられるに違いない。かわいそうな美獣だ。
 これで全てが終わった……のか?
 まあ、とりあえずミサとカーシャを助け出し、ガイアストーンも奪還し、美獣はただの狗になってしまった。
 あとは家路に着くだけだ。
 やっと安心して家に帰れると、華那太は意気揚々と体育館のドアを開けた。次の瞬間、強風が体育館の中に吹き込んできた。
 外を見ると満天の星空がすぐそこに。下を見ると住宅街の明かりが綺麗だった。体育館は上空に浮かんでいたのだ。
「どうやって帰ったらいいの!?」
 声をあげる華那太にミサが普通に笑って答えた。
「大丈夫よ、さっき迎えに来るように言ったから、ヘリで迎えが来ると思うわ」
 金持ちって偉大だなと、華那太は改めて実感するのだった。

「早くしないと遅刻するよぉ」
 姉に見送られて家の中を飛び出した。
 ぴーちくぱーちくスズメがさえずり、せせらぎのように爽やかなそよ風、朝日がサンサン眩しい日差し、そして住宅街を駆ける爆走少女。
「遅刻遅刻ぅ~っ!」
 今朝も遅刻街道まっしぐらの華那汰は、口にキツネ色のトーストをくわえ、ブレザーの袖に腕を通しながら走っていた。
 相変わらず毎朝の強制的早朝マラソンを欠かさない華那太であった。
 ツインテールの髪をフリフリさせながら、華那太はコーナーを曲がろうとしていた。相変わらず減速しないのがポリシーだ。
 コーナーを曲がったところで華那多の目に突然飛び込んできた人影!?
「危ない!」
 ドン!
 口にくわえていたトーストが宙に舞い、華那汰はアスファルトに尻餅を付いた。
「アイターッ!(ったく、いきなり飛び出して来たの誰よ!)」
 あられもない声をあげて、華那汰はお尻を擦りながら目の前にいる人影を見る。
 するとそこに立っていたのは陽の光を背中に浴びる白い学ランの青年。
「覇道くん!?」
「よっ、おはよーさん」
 華那太とぶつかったのはヒイロだった。
「なんで覇道くんとなんかぶつかんなきゃいけないわけ!」
「ぶつかって来たのはお前だろ。それより、お前――」
 ヒイロの人差し指と目線が一箇所に向けられ、ボソッと呟く。
「パンツ見えてるぞ(水色か)」
「…………っ!?」
 地面でM字開脚してしまっていた華那太はすぐにスカートを押さえながら立ち上がり、持っていた鞄を大きく振りかぶった。
「えっち、痴漢、変態!」
 ズゴーン!
 通学鞄の平らの部分がヒイロの顔面にクリティカルヒット!
 ヒイロはそのまま頭に星を回しながら地面に沈んだ。
 勝者、華那汰!
 勝利のゴングが鳴り響く……じゃなくって。
「あーっ!? ごめん、大丈夫覇道くん!(また殺っちゃった)」
 意識がないか華那太はヒイロの腹をローファーのつま先で突付いた。
 反応ゼロ!
 今日こそ本当に殺ってしまったかもしれない。
 殺害現場を見られないうちに華那太は自慢の俊足で爆走しようとした。だが、その背中に動物の鳴き声が浴びせられた。
「ワンワン!」
 冷や汗を掻きながら華那太の首がゼンマイ仕掛けのおもちゃのように、カクカクカクと後ろに向けられた。
 そこには、今日もサングラス、黒い私服で仔狗の散歩をしていたミサの姿があった。
「華ちゃん、おはよう(朝からお激しいお二人さんだこと……うふっ)」
「月詠先輩おはよーございまーす♪(み、見られた!?)」
 精一杯の笑顔で華那太は対応するが、やっぱりその笑顔は引きつっている。
「華ちゃん、ひとつ言っていいかしら?」
「な、なんですかーセンパイ♪」
「なんで制服なのかしら?」
「へっ?」
「だって今日は学校お休みよ」
「ええーっ!?」
「あの騒ぎの収拾で学校は臨時休校になったのよ、聞いてないの?」
「あは、あははは……そーでしたね……さ、さよなら!(は、恥ずかしいぃ!)」
 華那太はミサに背を向けて、猛ダッシュで住宅街を失踪して行った。
 いつもと変わらぬ平和な日常。
 平和すぎて平和ボケをするくらい、みんな普段の生活に戻っていた。
 ヒイロや華那太、ミサやその他いろんな人たちの冒険はひとまず幕を閉じる。
 だが、ヒイロの冒険はまだまだ終わっていない。
 だって、彼の夢は大魔王遣いになること。
 そして、いつの日か、先祖代々の野望だった世界征服をすること。
 果たしてヒイロが大魔王遣いになれる日は訪れるのだろうか?

 あ、そうそう、なんで今朝も華那太だけでなく、ヒイロも制服姿だったかって?
 それは――白い学ランがヒイロの戦闘服だからです!
 決して貧乏だからなんて言っちゃいけません(笑)

 おしまい♪