試合開始の笛が鳴りました。
きゅっ、きゅっ、と体育館の床をシューズがこする音。
だん、だん、とボールが弾む音。
「こっち!」「パス!」という声。
体育館は、一瞬で戦場になりました。
わたしはその戦場の端っこにいました。
正確には、赤チームの一員としてコートに立っていました。
でも、気持ちは完全に見学者です。
「珠瀬さん、動いて!」
佐藤さんが叫びます。
「動いてます!」
「足が!」
「心は動いてます!」
「心じゃボール取れない!」
正論です。
でも無理です。
バスケットボールは速いんです。
人も速いし、ボールも速いし、展開も速いです。
わたしは本を読むのは好きですが、目の前で人とボールが高速移動する情報量にはついていけません。
「那々美!」
反対側から、愛先輩の声がしました。
白チームの愛先輩は、体育着姿でもかっこよかったです。
黒を基調にした普段のクラシカルな装いとは違って、白い体操着にジャージ姿。
それだけなのに、立っているだけで絵になります。
「ボールを見るんだ。怖がらなくていい」
「はい!」
わたしは元気よく返事をしました。
そして、飛んできたボールから反射的に逃げました。
「珠瀬さん!?」
佐藤さんが悲鳴を上げました。
「す、すみません! ボールを見るのと受け止めるのは別問題です!」
「別にしないで!」
ボールはそのまま白チームに渡りました。
愛先輩が受け取ります。
ああ、受け取り方まで綺麗です。
片手で軽くボールを制し、身体をひねって、味方へパス。
無駄がありません。
美しいです。
「鳴海先輩、かっこいい……」
「珠瀬さん、敵! 今、敵だから!」
「敵なんて言わないでください!」
「試合だから!」
佐藤さんが必死です。
わたしも必死です。
でも、必死の方向が違いました。
「よし、そこだ!」
ベルバラ先生の声が体育館に響きます。
「愛! その切り返し、美しい! まるで戦場に咲く白薔薇!」
「先生、試合中です」
愛先輩は落ち着いて答えました。
「そうだった! 続けたまえ!」
ベルバラ先生は無駄に感動していました。
この先生は、体育の授業を見ているのか、舞台を見ているのかわからなくなることがあります。
そのとき、わたしはある人と目が合いました。
見上宙さんです。
同じ学年の女子で、いつも少し眠そうな顔をしています。
髪は長く、前髪で目元が少し隠れていて、どこか不思議な雰囲気があります。
そして今、見上さんはコートの隅にいました。
体育座りで。
「…………」
「…………」
目が合いました。
見上さんは、にやりと笑いました。
わたしは少しだけ安心しました。
あ、仲間です。
戦力外仲間です。
そう思った次の瞬間、見上さんが立ち上がりました。
「……そろそろ」
見上さんが小さくつぶやきました。
「え?」
わたしが聞き返す前に、コートの空気が変わりました。
佐藤さんがドリブルしていたボールが、ふわりと浮いたのです。
「えっ?」
佐藤さんが固まりました。
ボールは誰の手にも触れられていないのに、空中へ上がっていきます。
そして、ふわふわと移動しました。
まるで見えない手で運ばれているみたいに。
「ちょっと、ボール!?」
佐藤さんが追いかけます。
ボールはするりと逃げました。
白チームの生徒も手を伸ばします。
ボールはまた逃げました。
体育館全体がざわつきます。
「何あれ?」
「風?」
「体育館で?」
「玉藻先生の実験?」
「また?」
違うと思います。
たぶん、見上さんです。
見上さんはコートの隅で片手を軽く上げ、指先をくるりと動かしていました。
ボールはその動きに合わせて、空中をすいっと進みます。
「見上さん……」
わたしがつぶやくと、見上さんはもう一度にやりと笑いました。
完全に確信犯です。
ボールはそのまま、見上さんの手元に落ちました。
見上さんは両手でボールを持ち、なぜか床に置きました。
「え、何する気?」
佐藤さんが言いました。
見上さんは低い姿勢になり、ボーリングのようにボールを転がしました。
「バスケですよ!?」
わたしは思わず叫んでしまいました。
でも、転がったボールは、ただ転がったわけではありませんでした。
床の上をすべるように進み、人と人の間をぬって、相手チームの足元を避け、最後に急に跳ね上がりました。
ぽん。
ボールはリングに当たり、きれいにゴールへ入りました。
しゅぱっ、という音。
赤チーム得点。
体育館が静まり返りました。
見上さんは小さくピースしました。
「……やった」
佐藤さんがぽつりと言いました。
「やった、じゃないよね?」
わたしも、こくこくうなずきました。
「今の、バスケットボールじゃないです」
ベルバラ先生は笛をくわえたまま固まっていました。
そして、ゆっくり笛を外します。
「見上」
「はい」
「今のは……」
「シュートです」
「そうか。シュートか」
「はい」
「ならば得点だ!」
「いいんですか!?」
わたしと佐藤さんが同時に叫びました。
ベルバラ先生は薔薇を取り出し、無駄にポーズを決めました。
「青春には、時として常識を超える瞬間がある!」
「先生、超えすぎです!」
愛先輩が冷静に言いました。
「先生。今のは反則では?」
「ルールブックに、超能力でボールを動かしてはいけないとは書いていない!」
「超能力と認めるんですか」
「いや、まだ認めてはいない!」
「では何ですか」
「気合いだ!」
「気合いでボールは浮きません」
愛先輩の正論がきれいに突き刺さりました。
でも、ベルバラ先生は強いです。
「とにかく、授業を続ける! ただし見上、次からはもう少しバスケらしく!」
「はい」
見上さんは素直にうなずきました。
でも、絶対またやる顔でした。
わたしは心の中で思いました。
この学校、おかしいです。
いや、前から知っていました。
知っていましたけど、今日ほど強く思ったことはありません。
「珠瀬さん」
佐藤さんがわたしの肩をつかみました。
「はい」
「見上さんに負けてられないよ」
「何をですか?」
「珠瀬さんも何かやろう」
「無理です」
「大丈夫。気合いで!」
「気合いでわたしは動きません」
「でも、さっき紙吹雪出してたし」
「あれは忘れてください!」
忘れてほしいです。
本当に。
でも、そう言われたせいで、わたしはまた思い出してしまいました。
魔法。
朝から暴発している、よくわからない力。
制服。
眼鏡。
テレビ。
花。
紙吹雪。
次は何が起きるかわかりません。
だから、使ってはいけません。
絶対に。
「魔法禁止。魔法禁止……」
「珠瀬さん、また言ってる」
「自己管理です」
「自己管理、大変そうだね」
「はい。とても」
試合が再開しました。
ボールは赤チームからです。
佐藤さんがドリブルで進みます。
見上さんは今度はちゃんと立っています。
ただ、目がボールを追っています。
たぶん、また何かする気です。
わたしはコートの端をうろうろしました。
邪魔にならないように。
目立たないように。
ボールが来ないように。
でも、こういうときに限って来るんです。
「珠瀬さん!」
佐藤さんの声がしました。
見ると、ボールが飛んできています。
わたしの方へ。
まっすぐ。
「ひゃあっ!」
避けようとしました。
でも、なぜか身体が動きません。
いえ、違います。
逃げたらまた迷惑をかけると思ったんです。
だから、目をつぶって、両手を前に出しました。
ぽすん。
ボールが手の中に収まりました。
「取れた!」
自分で驚きました。
佐藤さんが叫びます。
「珠瀬さん、そのままシュート!」
「シュート!?」
見れば、わたしはいつの間にかゴール下にいました。
なぜここにいるのか、自分でもわかりません。
目の前にはリング。
手の中にはボール。
周りには人。
そして。
「那々美」
愛先輩が、わたしの前に立っていました。
白チームのディフェンスです。
あまりにもかっこよくて、わたしは心臓が止まりそうになりました。
「え、あの、愛先輩」
「来い」
「来い!?」
「全力で来るんだ」
「無理です!」
「無理じゃない。ボールを持っているなら、君は今、攻める側だ」
「攻める側……」
言葉が強いです。
愛先輩が言うと、何でも名言に聞こえます。
でも、わたしは攻める側に向いていません。
できれば一生守る側でいたいです。
というか、今すぐベンチに戻りたいです。
「珠瀬さん、打って!」
佐藤さん。
「那々美、落ち着け」
愛先輩。
「珠瀬、青春の一投だ!」
ベルバラ先生。
「……飛べば入る」
見上さん。
いろんな声が聞こえます。
わたしは混乱しました。
リングが高いです。
ボールが重いです。
愛先輩が近いです。
顔が熱いです。
心臓が変です。
そして、最悪なことを思ってしまいました。
届けばいいのに。
ほんの少しだけ。
リングまで、届けば。
その瞬間、足元が軽くなりました。
「あ」
床を蹴りました。
自分でも信じられないくらい、身体が浮きました。
高い。
高いです。
体育館の天井が近づいている気がします。
リングが目の前に来ました。
愛先輩の驚いた顔が、下に見えました。
佐藤さんの口が開いています。
ベルバラ先生が薔薇を落としました。
見上さんだけが、なぜか楽しそうに笑っていました。
「え、ええええええっ!?」
叫びながら、わたしはボールをリングに叩き込みました。
どんっ。
ダンクシュート。
というやつだと思います。
バスケット漫画で見たことがあります。
現実のわたしがやるものではありません。
でも、やってしまいました。
しかも、勢いでリングにつかまってしまいました。
ボールは床に落ちました。
しゅぱっ、ではなく、どん、でした。
体育館は完全に静まり返りました。
わたしはリングにぶら下がったまま、足をぶらぶらさせていました。
「…………」
「…………」
「…………」
沈黙。
長い沈黙。
そのあと、佐藤さんが小さく言いました。
「珠瀬さん、すご」
それを合図に、体育館が爆発しました。
「今の何!?」
「ダンク!?」
「珠瀬さんが!?」
「魔法少女?」
「いや、玉藻先生の実験だろ!」
「やっぱり?」
「朝から花咲いてたし!」
「バレンタイン体質じゃなかったの!?」
全部聞こえています。
やめてください。
わたしは泣きそうでした。
なぜなら、問題はダンクをしたことではありません。
降りられないことです。
「あの……」
わたしは小さく言いました。
誰も聞いていません。
「あの!」
今度は少し大きく言いました。
全員が見上げました。
「降りられません……」
また沈黙が来ました。
佐藤さんが両手を口に当てました。
「珠瀬さん、かわいい……」
「かわいくないです! 助けてください!」
ベルバラ先生が我に返りました。
「よし、私が受け止めよう!」
「先生は嫌です!」
「なぜ!?」
「勢いが怖いです!」
「ならば、愛!」
ベルバラ先生が振り返りました。
「君が受け止めたまえ!」
「はい」
愛先輩が即答しました。
わたしの心臓が、また変な音を立てました。
「え、あ、愛先輩!?」
愛先輩はリングの下に立ち、両腕を広げました。
「那々美、手を離せ。私が受け止める」
「む、無理です!」
「大丈夫だ」
「そういう意味じゃなくて!」
愛先輩の腕の中に落ちる。
それは危険です。
わたしの心臓にとって、とても危険です。
でも、腕が限界でした。
手が汗で滑ります。
指がしびれます。
「那々美、こっちを見ろ」
愛先輩の声は落ち着いていました。
わたしは恐る恐る下を見ました。
愛先輩が、まっすぐこちらを見ています。
「大丈夫。受け止める」
「本当に……?」
「ああ。約束する」
その言葉を聞いた瞬間、少しだけ怖さがほどけました。
でも、別の意味で怖さが増えました。
愛先輩に受け止められるなんて。
そんなことが現実に起きたら。
わたしはきっと、たぶん、絶対。
「じゃ、じゃあ、いきます」
「来い」
わたしは目をつぶりました。
手を離します。
身体が落ちる。
浮遊感。
空気。
そして、あたたかい腕。
愛先輩が、わたしを受け止めてくれました。
思っていたより、ずっと安定していました。
思っていたより、ずっと近かったです。
愛先輩の顔がすぐそばにありました。
「大丈夫か?」
「あ、あ、あ……」
「那々美?」
「だ、大丈夫、です」
「顔が真っ赤だ」
「そ、それは……」
愛先輩の腕の中です。
いわゆる、お姫様抱っこです。
体育館の真ん中で。
クラスメイト全員の前で。
ベルバラ先生の前で。
見上さんの前で。
世界が終わりました。
でも、少しだけ、終わってもいいと思いました。
「鳴海先輩、保健室!」
佐藤さんの声で、わたしは現実に戻りました。
「珠瀬さん、顔真っ赤だし、今のジャンプ絶対おかしいし、休ませた方がいいです!」
「そうだな」
愛先輩はうなずきました。
「先生、那々美を保健室へ連れていきます」
「許可する!」
ベルバラ先生はなぜか感極まった顔をしていました。
「愛が乙女を抱いて退場する……美しい! これぞ青春の名場面!」
「先生、そういうのではありません」
「わかっているとも!」
「たぶんわかってません」
愛先輩はわたしを抱えたまま歩き出しました。
「お、下ろしてください! 歩けます!」
「本当に?」
「歩け……たぶん、歩けます」
「たぶんでは困る」
「でも、みんな見てます!」
「見ているな」
「恥ずかしいです!」
「落ちた直後だ。無理をさせる方がよくない」
「愛先輩……」
優しいです。
優しすぎます。
このままだと、また魔法が暴発しそうです。
お願いです。
花も紙吹雪も出ないでください。
今ここでハートなんて出たら、本当に生きていけません。
でも、わたしの願いは少し遅かったようです。
愛先輩が体育館の出口へ向かう途中、わたしの周りに、ふわっと小さな白い羽根が舞いました。
どこからともなく。
きらきらと。
完全に演出みたいに。
体育館がまたざわめきました。
「やっぱり魔法少女だ」
「玉藻先生の実験だろ」
「いや、バレンタイン体質」
「どれ?」
わたしは愛先輩の腕の中で、両手で顔を隠しました。
「違います……違うんです……」
愛先輩が小さく笑った気がしました。
「那々美」
「はい……」
「君は本当に、不思議な子だな」
「すみません……」
「謝ることじゃない」
その声が優しすぎて、わたしは顔を上げられませんでした。
体育館を出る直前、見上さんの声が聞こえました。
「……珠瀬さん」
振り返ると、見上さんが口元だけで笑っていました。
「次は空中戦しよ」
「しません!」
わたしは全力で叫びました。
愛先輩の腕の中で。
白い羽根が、また一枚、ひらひらと落ちました。
魔法禁止のバレンタインは、どう考えても失敗していました。