保健室は、静かでした。
体育館のざわめきも、廊下の足音も、少し遠くに聞こえます。
白いカーテン。
消毒液の匂い。
窓の外を流れる冬の雲。
ベッドの横には、愛先輩が座っています。
そして、愛先輩の手には、わたしのチョコがあります。
受け取ってもらえました。
食べてもらえました。
おいしい、と言ってもらえました。
義理ではないです、とも言えました。
ここまで来たら、もう今日は十分です。
わたしにしては、人生最高得点です。
だから、ここで終わってほしい。
何も起きないでほしい。
そう思った瞬間でした。
チョコが、ふわっと光りました。
「……え?」
わたしの声が裏返りました。
愛先輩も、手の中のチョコを見下ろします。
ハート型のチョコの表面から、小さな金色の光が浮かび上がっていました。
粉雪みたいに細かくて、蛍みたいにやわらかい光。
それが、ゆっくりと空中にほどけていきます。
「あ、あの、違います!」
何が違うのか、自分でもわかりません。
でも、反射的に言っていました。
「これは違うんです!」
「落ち着いて、那々美」
「落ち着けません! チョコが光ってます!」
「見えている」
「見ないでください!」
「光っているから、目に入る」
「正論を言わないでください!」
光は止まりません。
むしろ、少しずつ形になっていきます。
文字でした。
小さな光の文字。
『愛先輩が好きです』
わたしは固まりました。
愛先輩も黙りました。
保健室の空気が、完全に止まりました。
「…………」
「…………」
終わりました。
全部終わりました。
世界も人生も宇宙も終わりました。
しかも、光の文字は一つでは終わりませんでした。
『笑った顔が好きです』
『名前を呼ばれると心臓が大変です』
『かっこよすぎて直視できません』
『チョコを受け取ってくれてうれしいです』
『本当は好きですって言いたかったです』
「わあああああああああっ!」
わたしは布団を引っつかみ、頭からかぶりました。
「見ないでください! 読まないでください! 消えてください! あ、消えてはだめです! でも見ないでください!」
布団の外で、愛先輩の声がしました。
「那々美」
「いません!」
「いるだろう」
「今のわたしは布団です!」
「布団にしては、よくしゃべる」
「布団にも事情があります!」
光の文字は、布団の上にもぽんぽん浮かんできました。
『布団になりたい』
『でも愛先輩の前から消えたくない』
『どうしよう』
「もうやだぁ……」
わたしは布団の中で小さくなりました。
魔法禁止。
あれほど決めたのに。
最後の最後で、一番見られたくないものが出てしまいました。
好きです、と言えなかったから。
チョコに込めた気持ちが、代わりにしゃべってしまったのでしょうか。
最悪です。
いえ、最悪という言葉では足りません。
とても最悪です。
「那々美」
「……はい」
「出てこないのか?」
「出られません」
「なぜ?」
「恥ずかしいからです」
「そうか」
「笑いましたか?」
「笑っていない」
「本当ですか?」
「ああ」
「からかいませんか?」
「からかわない」
布団の中で、わたしは息を止めました。
愛先輩の声は、いつもと同じでした。
静かで、優しくて、少し低い声。
笑っていませんでした。
面白がってもいませんでした。
「那々美」
「はい……」
「見えてしまったものを、なかったことにはできない」
「うう……」
「でも、勝手に見えたからといって、君を責めるつもりはない」
「……本当に?」
「本当だ」
布団の端を、そっと持ち上げました。
目だけ出します。
愛先輩は、そこに座っていました。
わたしのチョコを、両手で大事そうに持っています。
光の文字は、まだ少しだけ周りを漂っていました。
でも、愛先輩はそれを笑っていませんでした。
「魔法かどうかは知らない」
愛先輩は言いました。
「でも、これは君が作ったものだろう?」
その言葉に、胸がぎゅっとなりました。
「……はい」
「君が材料を選んで、溶かして、固めて、包んで、持ってきた」
「はい」
「それなら、そこに込められた気持ちも、君のものだ」
「でも、勝手に見えてしまって……」
「見えたことには驚いた」
「ですよね……」
「だが、嫌ではなかった」
わたしは、布団の中で目を見開きました。
「嫌では、なかったんですか?」
「ああ」
「重くないですか?」
「重いというより、まっすぐだと思った」
「まっすぐ……」
「那々美は、魔法で私の気持ちを変えようとはしなかった。自分で作って、自分の手で渡した」
「それしか、できなかっただけです」
「それが一番難しいこともある」
愛先輩は、光の文字を一つ見上げました。
『本当は好きですって言いたかったです』
わたしはまた布団に隠れそうになりました。
でも、愛先輩が静かに言いました。
「言えなかった言葉があっても、渡したことは消えない」
「……はい」
「私は、それを受け取った」
目の奥が熱くなりました。
泣きそうです。
でも泣いたら、また何か魔法が出るかもしれません。
涙が星になったりしたら困ります。
いえ、この流れなら本当にあり得ます。
「泣くなとは言わないが」
愛先輩が言いました。
「泣きそうな顔をしている」
「愛先輩は、何でも見抜きすぎです」
「顔に出ている」
「そんなに?」
「かなり」
「恥ずかしいです」
「今日はずっと恥ずかしがっているな」
「今日はずっと恥ずかしいことが起きてるんです」
「それは、そうだな」
少しだけ、愛先輩が笑いました。
わたしも、布団の中から少しだけ笑いました。
その瞬間、漂っていた光の文字が、ふわっと形を変えました。
文字ではなく、小さな花になりました。
白くて、金色に光る花。
それが一輪、愛先輩の手の中のチョコの横に落ちました。
「また……」
「綺麗だ」
「そう言うと増えます」
「増えてもいい」
「だめです。保健室がお花畑になります」
「それは少し見てみたい」
「愛先輩、意外と好奇心ありますね」
「君を見ていると、そうなる」
「わたしのせいですか?」
「そうだ」
責めている言い方ではありませんでした。
むしろ、少し楽しそうでした。
わたしは布団から、少しだけ顔を出しました。
「あの、愛先輩」
「うん?」
「怖くないんですか?」
「何が?」
「わたしの魔法、というか、変な力というか……」
「怖がった方がいいのか?」
「普通は、怖いと思います」
「普通か」
愛先輩は考えるように、少しだけ目を伏せました。
「鏡星学園にいると、普通の基準が少しずれる」
「それは、たしかに」
「玉藻先生は可学製の恋愛チョコを売ろうとする。見上はバスケットボールを浮かせる。ベルバラ先生は薔薇をどこからでも出す」
「先生の薔薇は魔法なんでしょうか」
「私は、深く考えないようにしている」
「賢いです」
「その中で、君の魔法だけを怖がるのは、少し不公平だ」
「そういうものですか?」
「そういうものだ」
愛先輩はチョコを見ました。
「ただし、人の気持ちを変える力なら、使い方には気をつけた方がいい」
「はい」
「君はもう気をつけているようだが」
「気をつけていても、暴発します」
「暴発しても、止めようとしていた」
「止まりませんでした」
「それでも、止めようとした」
愛先輩の言葉は、わたしの失敗を、失敗だけにしませんでした。
朝からずっと、わたしは魔法に振り回されていました。
でも、愛先輩はそこだけを見ていませんでした。
わたしが何をしないようにしたか。
何を選ばなかったか。
そこを見てくれていました。
「那々美」
「はい」
「魔法で勇気を出すことは、悪いことだと思うか?」
わたしは少し考えました。
「……わかりません」
「うん」
「でも、魔法で相手の気持ちを変えるのは、違うと思います」
「そうだな」
「それに、今日、少しだけわかりました」
「何を?」
「魔法で出した勇気と、自分で出した勇気は、たぶん違います」
わたしは、バッグの方を見ました。
空っぽになったバッグ。
チョコはもう、愛先輩の手の中にあります。
「チョコが勝手に渡っていたら、きっとこんなに怖くなかったです。でも、こんなにうれしくもなかったと思います」
「うん」
「だから……」
わたしは布団を少し下げました。
ちゃんと、愛先輩の顔を見ました。
「恋だけは、魔法じゃない方がいいです」
言えました。
好きです、ほどはっきりした言葉ではありません。
でも、今のわたしには、大事な言葉でした。
愛先輩は、まっすぐ聞いてくれました。
そして、静かにうなずきました。
「君らしい答えだ」
「そうでしょうか」
「少し臆病で、でも誠実だ」
「臆病は余計です」
「では、慎重」
「そっちの方がいいです」
「わかった。慎重で、誠実だ」
愛先輩はそう言って、残りのチョコをもう一口食べました。
「やはり、おいしい」
「ありがとうございます……」
「来年も、もらえるだろうか」
「えっ」
わたしは固まりました。
今、何かすごいことを言われた気がします。
「ら、来年?」
「ああ。無理にとは言わないが」
「それは、その、えっと……」
顔が熱くなります。
今度こそ何か出そうです。
でも出ませんでした。
代わりに、胸の奥が静かに温かくなりました。
「……作ります」
「そうか」
「魔法なしで」
「楽しみにしている」
わたしは、もう限界でした。
恥ずかしいのに、嬉しくて、どうしていいかわかりません。
布団をもう一度かぶりたい。
でも、愛先輩の顔も見ていたい。
矛盾しています。
人間って大変です。
そのとき、保健室の時計が鳴りました。
チク。
チク。
チク。
音が妙にはっきり聞こえます。
壁の時計ではありません。
もっと近く。
でも、どこにもない場所から聞こえる音。
「那々美?」
愛先輩の声が、少し遠くなりました。
「愛先輩?」
視界が、ふわりと白くなります。
保健室の白いカーテンが、白いページみたいに広がっていく。
消毒液の匂いが薄れ、代わりに紙とインクの匂いがしました。
愛先輩の姿が遠ざかります。
でも、不安はありませんでした。
目を閉じる直前、声が聞こえました。
「やあ」
目を開けると、そこは真っ白な場所でした。
空も地面もない。
白いページの中のような場所。
そして、そこにウサギがいました。
水色のジャケット。
シルクハット。
ステッキ。
懐中時計。
夢で会った、あのウサギです。
「あなたは……」
「また会ったね」
「ここは夢ですか?」
「夢とも言えるし、目覚める前の余白とも言える」
「また難しいことを」
「君は少し慣れてきた」
「慣れたくはなかったです」
ウサギは楽しそうに耳を揺らしました。
「魔法使いの一日を過ごして、どうだった?」
「大変でした」
「楽しくはなかった?」
「……少しだけ」
「怖くはなかった?」
「とても」
「それで、まだ魔法使いになりたい?」
わたしは黙りました。
朝なら、答えに困ったと思います。
でも今は、少し違います。
「わかりません」
「正直だね」
「でも、魔法があっても、何でも叶えたいとは思いません」
「なぜ?」
「叶えちゃいけないものがあるからです」
「たとえば?」
「人の気持ちです」
ウサギは懐中時計を開きました。
針は、今度は止まっていませんでした。
ゆっくり、でも確かに動いています。
「君は魔法使いになった」
「はい」
「でも、魔法を使わないことも、魔法使いの選択だ」
その言葉は、不思議とすとんと胸に落ちました。
使えるから使う。
叶えられるから叶える。
それだけが魔法使いではない。
選ぶこと。
使わないこと。
自分の手でやること。
それも、魔法使いの選択。
「じゃあ、わたしは……」
「君は君のままでいい」
ウサギはステッキで、わたしの手元を指しました。
「ただし、忘れ物だ」
「忘れ物?」
見ると、わたしの手のひらに小さなチャームがありました。
懐中時計の形をした、金色のチャーム。
ウサギの持っている時計に少し似ています。
「これは?」
「お守り」
「魔法の道具ですか?」
「そうかもしれないし、ただの飾りかもしれない」
「どっちですか?」
「君が決めることだね」
「便利な言い方ですね」
「ウサギだからね」
「関係ありますか?」
「あるとも言えるし、ないとも言える」
ウサギは帽子を持ち上げました。
「よいバレンタインだったね」
「……はい」
「では、日常へ戻る時間だ」
「また会えますか?」
「時計が進めば、いつかは」
「それは、会えるんですか?」
「さあね」
ウサギはぴょんと跳ねました。
「でも、君が本を開くなら、道はどこかにつながる」
白い世界がほどけていきます。
ページがめくられるような音がしました。
わたしはチャームを握りしめました。
そして――。
「那々美」
愛先輩の声で、わたしは目を開けました。
保健室でした。
カーテン。
ベッド。
窓。
チョコを持った愛先輩。
さっきまでと同じ景色です。
でも、少しだけ違います。
手の中に、小さな金色のチャームがありました。
懐中時計の形をしたチャーム。
わたしはそれを見つめました。
「夢……?」
「眠っていたようには見えなかったが」
愛先輩が不思議そうに言いました。
「急にぼんやりしていた」
「そう、ですか」
「体調は?」
「大丈夫です」
「本当に?」
「はい。たぶん」
「たぶんか」
愛先輩は少し笑いました。
「それは?」
彼女は、わたしの手の中のチャームを見ました。
「えっと……お守り、です」
「いつから持っていた?」
「今から、です」
「不思議な答えだな」
「今日にぴったりです」
「たしかに」
愛先輩はチャームを見つめました。
「懐中時計か」
「はい」
「似合っている」
「またそういうことを言うと……」
わたしは慌てて周りを見ました。
花は咲きませんでした。
紙吹雪も出ませんでした。
羽根も舞いません。
ただ、チャームが小さく光った気がしました。
「……出ませんでした」
「少し残念だ」
「愛先輩?」
「冗談だ」
「本当ですか?」
「半分」
「半分」
わたしは思わず笑ってしまいました。
愛先輩も笑いました。
保健室の空気が、少しだけ軽くなりました。
遠くでチャイムが鳴ります。
授業の終わりを告げるチャイムです。
「戻れるか?」
愛先輩が聞きました。
「はい」
「無理はしないように」
「はい」
「チョコは、持っていてもいいか?」
「もちろんです」
「大切にする」
「食べてください」
「大切に食べる」
その言い方が優しくて、わたしはまた顔が熱くなりました。
でも、今度は魔法は出ません。
その熱は、ただのわたしの気持ちでした。
わたしはベッドから降りました。
少しふらつきましたが、愛先輩が手を差し出してくれます。
今度は、魔法ではなく、自分の手でその手を取りました。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
保健室を出る前に、わたしはチャームを制服のポケットにしまいました。
小さな重みが、そこにあります。
魔法使いになった証なのか。
ただの夢の名残なのか。
まだわかりません。
でも、一つだけわかりました。
魔法があっても、恋だけは魔法じゃない。
チョコを作る手も。
差し出す勇気も。
受け取ってもらえた嬉しさも。
全部、自分のものだから。
廊下へ出ると、佐藤さんが駆け寄ってきました。
「珠瀬さん! 大丈夫!?」
「はい。大丈夫です」
「魔法少女、大丈夫?」
「その呼び方はやめてください」
「じゃあ、バレンタインの魔法使い?」
「もっと恥ずかしいです!」
佐藤さんの後ろから、見上宙さんがひょこっと顔を出しました。
「……次、空中戦」
「しません」
「残念」
「残念じゃないです」
愛先輩が隣で小さく笑いました。
わたしはその笑顔を見て、胸の奥があたたかくなりました。
魔法は出ません。
出なくていいのです。
今日はもう十分、魔法みたいな日だったから。
ポケットの中で、小さな懐中時計のチャームが、ちく、と鳴った気がしました。
わたしはそれをそっと押さえて、いつもの教室へ戻っていきました。
魔法使いとしてではなく。
珠瀬那々美として。