Remake Episode 05

第5話 恋だけは魔法じゃない

IF~魔法使いになったら~

 保健室は、静かでした。

 体育館のざわめきも、廊下の足音も、少し遠くに聞こえます。

 白いカーテン。

 消毒液の匂い。

 窓の外を流れる冬の雲。

 ベッドの横には、愛先輩が座っています。

 そして、愛先輩の手には、わたしのチョコがあります。

 受け取ってもらえました。

 食べてもらえました。

 おいしい、と言ってもらえました。

 義理ではないです、とも言えました。

 ここまで来たら、もう今日は十分です。

 わたしにしては、人生最高得点です。

 だから、ここで終わってほしい。

 何も起きないでほしい。

 そう思った瞬間でした。

 チョコが、ふわっと光りました。

「……え?」

 わたしの声が裏返りました。

 愛先輩も、手の中のチョコを見下ろします。

 ハート型のチョコの表面から、小さな金色の光が浮かび上がっていました。

 粉雪みたいに細かくて、蛍みたいにやわらかい光。

 それが、ゆっくりと空中にほどけていきます。

「あ、あの、違います!」

 何が違うのか、自分でもわかりません。

 でも、反射的に言っていました。

「これは違うんです!」

「落ち着いて、那々美」

「落ち着けません! チョコが光ってます!」

「見えている」

「見ないでください!」

「光っているから、目に入る」

「正論を言わないでください!」

 光は止まりません。

 むしろ、少しずつ形になっていきます。

 文字でした。

 小さな光の文字。

『愛先輩が好きです』

 わたしは固まりました。

 愛先輩も黙りました。

 保健室の空気が、完全に止まりました。

「…………」

「…………」

 終わりました。

 全部終わりました。

 世界も人生も宇宙も終わりました。

 しかも、光の文字は一つでは終わりませんでした。

『笑った顔が好きです』

『名前を呼ばれると心臓が大変です』

『かっこよすぎて直視できません』

『チョコを受け取ってくれてうれしいです』

『本当は好きですって言いたかったです』

「わあああああああああっ!」

 わたしは布団を引っつかみ、頭からかぶりました。

「見ないでください! 読まないでください! 消えてください! あ、消えてはだめです! でも見ないでください!」

 布団の外で、愛先輩の声がしました。

「那々美」

「いません!」

「いるだろう」

「今のわたしは布団です!」

「布団にしては、よくしゃべる」

「布団にも事情があります!」

 光の文字は、布団の上にもぽんぽん浮かんできました。

『布団になりたい』

『でも愛先輩の前から消えたくない』

『どうしよう』

「もうやだぁ……」

 わたしは布団の中で小さくなりました。

 魔法禁止。

 あれほど決めたのに。

 最後の最後で、一番見られたくないものが出てしまいました。

 好きです、と言えなかったから。

 チョコに込めた気持ちが、代わりにしゃべってしまったのでしょうか。

 最悪です。

 いえ、最悪という言葉では足りません。

 とても最悪です。

「那々美」

「……はい」

「出てこないのか?」

「出られません」

「なぜ?」

「恥ずかしいからです」

「そうか」

「笑いましたか?」

「笑っていない」

「本当ですか?」

「ああ」

「からかいませんか?」

「からかわない」

 布団の中で、わたしは息を止めました。

 愛先輩の声は、いつもと同じでした。

 静かで、優しくて、少し低い声。

 笑っていませんでした。

 面白がってもいませんでした。

「那々美」

「はい……」

「見えてしまったものを、なかったことにはできない」

「うう……」

「でも、勝手に見えたからといって、君を責めるつもりはない」

「……本当に?」

「本当だ」

 布団の端を、そっと持ち上げました。

 目だけ出します。

 愛先輩は、そこに座っていました。

 わたしのチョコを、両手で大事そうに持っています。

 光の文字は、まだ少しだけ周りを漂っていました。

 でも、愛先輩はそれを笑っていませんでした。

「魔法かどうかは知らない」

 愛先輩は言いました。

「でも、これは君が作ったものだろう?」

 その言葉に、胸がぎゅっとなりました。

「……はい」

「君が材料を選んで、溶かして、固めて、包んで、持ってきた」

「はい」

「それなら、そこに込められた気持ちも、君のものだ」

「でも、勝手に見えてしまって……」

「見えたことには驚いた」

「ですよね……」

「だが、嫌ではなかった」

 わたしは、布団の中で目を見開きました。

「嫌では、なかったんですか?」

「ああ」

「重くないですか?」

「重いというより、まっすぐだと思った」

「まっすぐ……」

「那々美は、魔法で私の気持ちを変えようとはしなかった。自分で作って、自分の手で渡した」

「それしか、できなかっただけです」

「それが一番難しいこともある」

 愛先輩は、光の文字を一つ見上げました。

『本当は好きですって言いたかったです』

 わたしはまた布団に隠れそうになりました。

 でも、愛先輩が静かに言いました。

「言えなかった言葉があっても、渡したことは消えない」

「……はい」

「私は、それを受け取った」

 目の奥が熱くなりました。

 泣きそうです。

 でも泣いたら、また何か魔法が出るかもしれません。

 涙が星になったりしたら困ります。

 いえ、この流れなら本当にあり得ます。

「泣くなとは言わないが」

 愛先輩が言いました。

「泣きそうな顔をしている」

「愛先輩は、何でも見抜きすぎです」

「顔に出ている」

「そんなに?」

「かなり」

「恥ずかしいです」

「今日はずっと恥ずかしがっているな」

「今日はずっと恥ずかしいことが起きてるんです」

「それは、そうだな」

 少しだけ、愛先輩が笑いました。

 わたしも、布団の中から少しだけ笑いました。

 その瞬間、漂っていた光の文字が、ふわっと形を変えました。

 文字ではなく、小さな花になりました。

 白くて、金色に光る花。

 それが一輪、愛先輩の手の中のチョコの横に落ちました。

「また……」

「綺麗だ」

「そう言うと増えます」

「増えてもいい」

「だめです。保健室がお花畑になります」

「それは少し見てみたい」

「愛先輩、意外と好奇心ありますね」

「君を見ていると、そうなる」

「わたしのせいですか?」

「そうだ」

 責めている言い方ではありませんでした。

 むしろ、少し楽しそうでした。

 わたしは布団から、少しだけ顔を出しました。

「あの、愛先輩」

「うん?」

「怖くないんですか?」

「何が?」

「わたしの魔法、というか、変な力というか……」

「怖がった方がいいのか?」

「普通は、怖いと思います」

「普通か」

 愛先輩は考えるように、少しだけ目を伏せました。

「鏡星学園にいると、普通の基準が少しずれる」

「それは、たしかに」

「玉藻先生は可学製の恋愛チョコを売ろうとする。見上はバスケットボールを浮かせる。ベルバラ先生は薔薇をどこからでも出す」

「先生の薔薇は魔法なんでしょうか」

「私は、深く考えないようにしている」

「賢いです」

「その中で、君の魔法だけを怖がるのは、少し不公平だ」

「そういうものですか?」

「そういうものだ」

 愛先輩はチョコを見ました。

「ただし、人の気持ちを変える力なら、使い方には気をつけた方がいい」

「はい」

「君はもう気をつけているようだが」

「気をつけていても、暴発します」

「暴発しても、止めようとしていた」

「止まりませんでした」

「それでも、止めようとした」

 愛先輩の言葉は、わたしの失敗を、失敗だけにしませんでした。

 朝からずっと、わたしは魔法に振り回されていました。

 でも、愛先輩はそこだけを見ていませんでした。

 わたしが何をしないようにしたか。

 何を選ばなかったか。

 そこを見てくれていました。

「那々美」

「はい」

「魔法で勇気を出すことは、悪いことだと思うか?」

 わたしは少し考えました。

「……わかりません」

「うん」

「でも、魔法で相手の気持ちを変えるのは、違うと思います」

「そうだな」

「それに、今日、少しだけわかりました」

「何を?」

「魔法で出した勇気と、自分で出した勇気は、たぶん違います」

 わたしは、バッグの方を見ました。

 空っぽになったバッグ。

 チョコはもう、愛先輩の手の中にあります。

「チョコが勝手に渡っていたら、きっとこんなに怖くなかったです。でも、こんなにうれしくもなかったと思います」

「うん」

「だから……」

 わたしは布団を少し下げました。

 ちゃんと、愛先輩の顔を見ました。

「恋だけは、魔法じゃない方がいいです」

 言えました。

 好きです、ほどはっきりした言葉ではありません。

 でも、今のわたしには、大事な言葉でした。

 愛先輩は、まっすぐ聞いてくれました。

 そして、静かにうなずきました。

「君らしい答えだ」

「そうでしょうか」

「少し臆病で、でも誠実だ」

「臆病は余計です」

「では、慎重」

「そっちの方がいいです」

「わかった。慎重で、誠実だ」

 愛先輩はそう言って、残りのチョコをもう一口食べました。

「やはり、おいしい」

「ありがとうございます……」

「来年も、もらえるだろうか」

「えっ」

 わたしは固まりました。

 今、何かすごいことを言われた気がします。

「ら、来年?」

「ああ。無理にとは言わないが」

「それは、その、えっと……」

 顔が熱くなります。

 今度こそ何か出そうです。

 でも出ませんでした。

 代わりに、胸の奥が静かに温かくなりました。

「……作ります」

「そうか」

「魔法なしで」

「楽しみにしている」

 わたしは、もう限界でした。

 恥ずかしいのに、嬉しくて、どうしていいかわかりません。

 布団をもう一度かぶりたい。

 でも、愛先輩の顔も見ていたい。

 矛盾しています。

 人間って大変です。

 そのとき、保健室の時計が鳴りました。

 チク。

 チク。

 チク。

 音が妙にはっきり聞こえます。

 壁の時計ではありません。

 もっと近く。

 でも、どこにもない場所から聞こえる音。

「那々美?」

 愛先輩の声が、少し遠くなりました。

「愛先輩?」

 視界が、ふわりと白くなります。

 保健室の白いカーテンが、白いページみたいに広がっていく。

 消毒液の匂いが薄れ、代わりに紙とインクの匂いがしました。

 愛先輩の姿が遠ざかります。

 でも、不安はありませんでした。

 目を閉じる直前、声が聞こえました。

「やあ」

 目を開けると、そこは真っ白な場所でした。

 空も地面もない。

 白いページの中のような場所。

 そして、そこにウサギがいました。

 水色のジャケット。

 シルクハット。

 ステッキ。

 懐中時計。

 夢で会った、あのウサギです。

「あなたは……」

「また会ったね」

「ここは夢ですか?」

「夢とも言えるし、目覚める前の余白とも言える」

「また難しいことを」

「君は少し慣れてきた」

「慣れたくはなかったです」

 ウサギは楽しそうに耳を揺らしました。

「魔法使いの一日を過ごして、どうだった?」

「大変でした」

「楽しくはなかった?」

「……少しだけ」

「怖くはなかった?」

「とても」

「それで、まだ魔法使いになりたい?」

 わたしは黙りました。

 朝なら、答えに困ったと思います。

 でも今は、少し違います。

「わかりません」

「正直だね」

「でも、魔法があっても、何でも叶えたいとは思いません」

「なぜ?」

「叶えちゃいけないものがあるからです」

「たとえば?」

「人の気持ちです」

 ウサギは懐中時計を開きました。

 針は、今度は止まっていませんでした。

 ゆっくり、でも確かに動いています。

「君は魔法使いになった」

「はい」

「でも、魔法を使わないことも、魔法使いの選択だ」

 その言葉は、不思議とすとんと胸に落ちました。

 使えるから使う。

 叶えられるから叶える。

 それだけが魔法使いではない。

 選ぶこと。

 使わないこと。

 自分の手でやること。

 それも、魔法使いの選択。

「じゃあ、わたしは……」

「君は君のままでいい」

 ウサギはステッキで、わたしの手元を指しました。

「ただし、忘れ物だ」

「忘れ物?」

 見ると、わたしの手のひらに小さなチャームがありました。

 懐中時計の形をした、金色のチャーム。

 ウサギの持っている時計に少し似ています。

「これは?」

「お守り」

「魔法の道具ですか?」

「そうかもしれないし、ただの飾りかもしれない」

「どっちですか?」

「君が決めることだね」

「便利な言い方ですね」

「ウサギだからね」

「関係ありますか?」

「あるとも言えるし、ないとも言える」

 ウサギは帽子を持ち上げました。

「よいバレンタインだったね」

「……はい」

「では、日常へ戻る時間だ」

「また会えますか?」

「時計が進めば、いつかは」

「それは、会えるんですか?」

「さあね」

 ウサギはぴょんと跳ねました。

「でも、君が本を開くなら、道はどこかにつながる」

 白い世界がほどけていきます。

 ページがめくられるような音がしました。

 わたしはチャームを握りしめました。

 そして――。

「那々美」

 愛先輩の声で、わたしは目を開けました。

 保健室でした。

 カーテン。

 ベッド。

 窓。

 チョコを持った愛先輩。

 さっきまでと同じ景色です。

 でも、少しだけ違います。

 手の中に、小さな金色のチャームがありました。

 懐中時計の形をしたチャーム。

 わたしはそれを見つめました。

「夢……?」

「眠っていたようには見えなかったが」

 愛先輩が不思議そうに言いました。

「急にぼんやりしていた」

「そう、ですか」

「体調は?」

「大丈夫です」

「本当に?」

「はい。たぶん」

「たぶんか」

 愛先輩は少し笑いました。

「それは?」

 彼女は、わたしの手の中のチャームを見ました。

「えっと……お守り、です」

「いつから持っていた?」

「今から、です」

「不思議な答えだな」

「今日にぴったりです」

「たしかに」

 愛先輩はチャームを見つめました。

「懐中時計か」

「はい」

「似合っている」

「またそういうことを言うと……」

 わたしは慌てて周りを見ました。

 花は咲きませんでした。

 紙吹雪も出ませんでした。

 羽根も舞いません。

 ただ、チャームが小さく光った気がしました。

「……出ませんでした」

「少し残念だ」

「愛先輩?」

「冗談だ」

「本当ですか?」

「半分」

「半分」

 わたしは思わず笑ってしまいました。

 愛先輩も笑いました。

 保健室の空気が、少しだけ軽くなりました。

 遠くでチャイムが鳴ります。

 授業の終わりを告げるチャイムです。

「戻れるか?」

 愛先輩が聞きました。

「はい」

「無理はしないように」

「はい」

「チョコは、持っていてもいいか?」

「もちろんです」

「大切にする」

「食べてください」

「大切に食べる」

 その言い方が優しくて、わたしはまた顔が熱くなりました。

 でも、今度は魔法は出ません。

 その熱は、ただのわたしの気持ちでした。

 わたしはベッドから降りました。

 少しふらつきましたが、愛先輩が手を差し出してくれます。

 今度は、魔法ではなく、自分の手でその手を取りました。

「ありがとうございます」

「どういたしまして」

 保健室を出る前に、わたしはチャームを制服のポケットにしまいました。

 小さな重みが、そこにあります。

 魔法使いになった証なのか。

 ただの夢の名残なのか。

 まだわかりません。

 でも、一つだけわかりました。

 魔法があっても、恋だけは魔法じゃない。

 チョコを作る手も。

 差し出す勇気も。

 受け取ってもらえた嬉しさも。

 全部、自分のものだから。

 廊下へ出ると、佐藤さんが駆け寄ってきました。

「珠瀬さん! 大丈夫!?」

「はい。大丈夫です」

「魔法少女、大丈夫?」

「その呼び方はやめてください」

「じゃあ、バレンタインの魔法使い?」

「もっと恥ずかしいです!」

 佐藤さんの後ろから、見上宙さんがひょこっと顔を出しました。

「……次、空中戦」

「しません」

「残念」

「残念じゃないです」

 愛先輩が隣で小さく笑いました。

 わたしはその笑顔を見て、胸の奥があたたかくなりました。

 魔法は出ません。

 出なくていいのです。

 今日はもう十分、魔法みたいな日だったから。

 ポケットの中で、小さな懐中時計のチャームが、ちく、と鳴った気がしました。

 わたしはそれをそっと押さえて、いつもの教室へ戻っていきました。

 魔法使いとしてではなく。

 珠瀬那々美として。