サーガ]W
 シビウの眼前で驚くべきことが起きた。
 〈混沌〉が、魔導壁によって封じられていた〈混沌〉が激しく脈打ち、魔導壁を破壊したのだ。
 魔導壁は硝子のように弾け飛び、中から〈混沌〉が現れた。
 全てを呑み込む闇色の〈混沌〉。それはまだ還らぬ<香[ゼンの身体を呑み込んでしまった。
 シビウは〈混沌〉に呑まれる前に急いでその場を離れたが、魔導士でない彼女には〈混沌〉を封じる術はない。
「ローゼンが!? どうなってんだい、何で〈混沌〉が!」
 〈黒無相の君〉はシビウを自分の後ろに押し退け守るようにすると、仮面の奥からくぐもった声が発せられた。
「見ていろ、すぐに――」
 〈混沌〉が固まっていく、形をつくっていく、二人の男女をつくっていく。
 抱き合う二人の男女。それは紛れない、キースとローゼンであった。〈混沌〉はキースとローゼンを生み出したのだ。
 還って来たキースは哀しい顔をしてローゼンを見つめた。
「過去の私がしたことは正しいことだったのかわからない。私の行いは、全ては君を苦しめていたように思える」
「わたくしにも何が正しいことなのかはわかりません。ただ、わたくしはあたなを愛しておりました」
「私もローゼンのことを愛している」
 〈混沌〉の内であった出来事を知らないシビウは、唖然としてしまって言葉も出せなかった。
 〈黒無相の君〉は幻のように揺らめきながら風に乗って移動し、ローゼンとキースの前に立った。二人は我に返って、多くの人たちに見られていることに気がつき、慌てて身体を離した。
 真っ赤な顔をしたローゼンはうつむきながら〈黒無相の君〉に声をかけた。
「あ、あなたはどなたでしょうか?」
「我が名は〈黒無相の君〉。世界の〈道標〉であり、おまえたちを導きに来たのだ」
 この声を聞いた時、ローゼンはあることを悟って顔を上げた。仮面の奥から発せられた声は、あの時に聞いた声――。
「あなた様がわたくしを精霊として生まれ変わらせたのですね!?」
「そうだ。全てを知りたくば、〈姫〉の御前に来るがよい」
 そう言い残して〈黒無相の君〉は消えた。
 〈姫〉の御前に来いと言われても、それがどこなのかわからない。ヴァギュイールも〈黒無相の君〉も、そして〈姫〉自信も同じことを言う。
 〈精霊の君〉は全てを知っている。
 キースは不快な表情をあらわにした。彼は〈姫〉について何も聞かされていなかったのだ。
「〈姫〉とは誰のことだ? ローゼンは知っているのか、その〈姫〉を?」
「〈姫〉は〈精霊の君〉と呼ばれる精霊の頂点に立つ者。今は何処にいらっしゃるのかわからないのです。ある日突然に眠りにつかれ、今現れた〈黒無相の君〉と共に姿を消してしまわれたのです」
 髪の毛をかき上げながらシビウが二人のもとへ近づいて来た。
「あのさあ、話をもっとわかりやすく。あんたたちが知ってること全部を話して、整理してくれないかねえ?」
 ローゼンは自分の知っていることを一通り話した。〈精霊の君〉が創った〈夢〉のことや、その〈夢〉の世界で〈精霊の君〉に出会い、〈夢〉消滅してしまったこと。そして、シビウには、フユが混沌に呑まれてしまったことを話し、キースにはヴァギュイールが消滅したことを話した。
 キースは自分の前世の話と、ローゼンと前世の自分が愛し合っていた話、〈混沌〉になってしまった後の話を全てした。
 全ての話を聞き終えてシビウは納得したようにうなずいた。
「フユがねえ……そうじゃないかと思ってたけど。ところでこれからどうするんだい、やっぱり〈精霊の君〉を探しに行くのかい?」
 〈精霊の君〉を探しに行かなくてはならない。だが、何も手がかりがないのだ。
 キースは自分の運命に何かを感じていた。
「私とローゼン、いや、この世界の全ての運命は誰かに操られているような気がする。私とローゼンがこうして再び出逢えたのも絶対に偶然ではない。だとするならば、このまま進めば〈精霊の君〉にも出逢えるだろう」
「だから、何処にいるかわかんないのに、どうやって探すのさ?」
「私たちが行こうとしていた場所、〈アムドアの大穴〉に何かがある――きっと」
 確信は何もないがローゼンもそれにうなずいた。
「わたくしも〈アムドアの大穴〉に何かがあるような気がします」
 向かう先は〈アムドアの大穴〉に決まった。しかし、キースにはひとつ気がかりなことがあった。
「シビウは私たちについて来たくなければ、来なくてもいいのだぞ。もともとは私の護衛をするため金で雇われたのだろうが、命を落とすかもしれない。そんな仕事は割に合わないだろう?」
「はあ、わかってないねえ、命をかけるのがあたしの仕事さ。まあ、この仕事が済んだら神官長様≠フお力で一生不住のない生活をさせておくれよ。それにここで引き下がったら……死んだマーカスと天国で会った時に顔向けできないしね」
 シビウは笑って見せたが、本当は今でもマーカスが死んだことを思うと涙が出そうになる。だが、泣くわけにはいかない、泣いたら死んだマーカスにからかわれてしまう。
 新しく気持ちを切り替えたシビウは父の形見のダンシングソードを背中に背負い、〈紅獅子の君〉の二対の魔剣を腰にさした。
「よっしゃ、さっさと仕事、片付けちまおうじゃないかい!」
「行こう、〈アムドアの大穴〉へ」
 キースの合図と共に三人は歩き出した。

 世界の北に位置する〈アムドアの大穴〉。大穴と呼ばれているが、実際には〈混沌〉の闇色が空間に穴を空けているように見えるだけだ。
 〈アムドアの大穴〉が今ある場所は、もともとは大きな都があった場所。その都には大きな城があり、地元の人間たちはその城のことを〈いばらの城〉と呼んでいた。その城が何故〈いばらの城〉と呼ばれているかというと、その名の通り城全体が薔薇の花によって守られているからだ。
 いつの時代からそこにあったのか誰も知らない〈いばらの城〉を見て、人々はいろいろな噂をした。幽霊や怪物が城には住んでいるのだと噂する者もいたが、人々が一番興味をそそられた噂は、世界一美しい姫が素敵な男性が現れるまで眠っているのだという噂だった。
 〈いばらの城〉と〈眠り姫〉の噂を聞きつけた男たちが、美しい姫と権力の両方を手に入れようと、我も我もとやって来たのだが、誰一人として生きて帰って来た者はいなかった。城に入ろうとした者を薔薇はまるで生きているように拒み、薔薇の蔓に巻きつかれ棘で刺された者は大量の血を流し死に、城の中に入った者はどうなったのかわからない。
 〈アムドアの大穴〉近くの魔導士たちのキャンプ地で、〈いばらの城〉の話をとある魔導士にしてもらったローゼンは、童謡を聞き入る子供のように目を輝かせていた。
「そんなにもお美しいお姫様が眠っていらっしゃるのですかぁ」
「まあ、噂話なんだけどねぇ。でも、僕はそんなお姫様がいたらドラマチックだと思うよ」
 魔導士たちのキャンプ地で知り合ったキロスは笑いながら話していた。
 このキャンプ地は〈アムドアの大穴〉を監視するために世界中から集まって来た魔導士たちの集まる場所だ。そこに到着したキースたちに最初に声をかけたのが、このキロスという若い魔導士だった。
「でもなぁ、まさか、こんなところで綺麗な女性二人と知り合えるなんて僕の人生も捨てたもんじゃない。でも、男連れってのが駄目だよね。もしかして、どっちかがこの魔導士君と付き合ってたりするわけ?」
 自分よりも明らかに年下の魔導士に君付けで呼ばれたキースは少し頭にきた。
「おまえのような魔導士に君&tけで呼ばれるような筋合いはない。それに私とローゼンは恋人同士だ」
 恋人同士と言われて顔を真っ赤にしたローゼンを見て、キロスはすぐにシビウの真横に座った。
「じゃあ、シビウ姐さんは僕のものにしていいんだね」
「あたしが!? 冗談じゃない。年下には興味ないね」
「そんな連れないこと言わないでよ。僕はシビウ姐さんみたいな、綺麗で姉御肌な感じのする女性に弱いんだよねぇ。もう、ひと目見た時から大好きになっちゃったよ」
 擦り寄って来るキロスに対して、怒りが頂点に来たシビウは素早く剣を鞘から抜いてキロスの首元に付きつけた。
「寒気がするから近づくんじゃないよ! この剣は全てのものを切り裂く魔剣でねえ、あんたの首なんて少し触れただけでぶっ飛ぶよ」
 キロスは手を上げて降参すると、冷や汗を流しながら後ろにゆっくりと下がった。
「そんな血の気の多いところも素敵だね」
 蒼い顔をしながらもキロスの減らず口はおさまらなかった。
 シビウはキロスに呆れてしまって剣を鞘に収めると、彼を無視することにして話題を変えた。
「ところで〈アムドアの大穴〉の近くまで来たのはいいけど、これからどうするんだい?」
「〈混沌〉の中に入ろうと思う」
 とんでもない発言をしたキースをシビウとキロスは変な目で見たが、ローゼンだけは違っていた。彼女もキースと同じで〈混沌〉の内に入ったのだから。
「わたくしもキース様と一緒に〈混沌〉の中に入ります」
 目を丸くして駈け寄って来たキロスは素っ頓狂な声をあげた。
「君たち自分たちが何言ってるかわかってるの? 〈混沌〉の中に入るなんてとんでもない。吸収されて、はい、お終いだよ」
 〈混沌〉のことを少しでも知る者ならばそう考えるのが普通だが、それはあくまで一般論であってキースの考えは違っていた。
「大丈夫だ、〈混沌〉の中に入っても、強い精神力を持ち自らをしっかりと感じることができさえすれば吸収されることはない。ただ、問題はどうやって外に出るかだ」
「どうして中に入っても大丈夫だなんて言えるのさ?」
「私は一度〈混沌〉になったことがあるからだ」
「うっそだー。そんなのないない。あり得ないよ」
「わたくしはキース様が〈混沌〉になった時、その中に入りました」
 真剣な顔をしているキースとローゼンを見てキロスはぼそりと呟いた。
「……マジ? 君たち何者なのさ?」
「私はメミスの都から来た神官長だ」
 メミス≠ニいう国の名を聞いてキロスの顔に暗い陰が差した。
「メミスの都がどうなったのか、君たちの耳には届いているのかい?」
 態度を一変させ神妙な面持ちをしたキロスを見てキースは不思議な顔をした。その質問は全く意図の掴めない質問だった。
「メミスがどうかしたのか? どうなったのかとは、メミスの都に何かが起きたとでもいうのか?」
 キースはキロスと顔を合わせようとしたが、キロスは顔を伏せて何も言おうとしなかった。
 もし、メミスに何かが起きていたとしたらキースとシビウにもただ事では済ませない。シビウはキロスの襟首を掴んで無理やり顔を上げさせた。
「メミスに何があったっていうんだい?」
「本当に知らないんだね、君たちは……メミスの都が〈混沌〉になってしまったことを――」
 シビウは掴んでいた襟首を思いっきり突き放し、キロスを地面に倒してしまった。
「悪い冗談はよしとくれ、メミスが〈混沌〉になるなんて話、誰が信じられるかい!」
「冗談でも何でもないよ、本当のことさ。ここから見える〈アムドアの大穴〉だって、もともとは大きな都だったんだから、メミスに同じことが起きても不思議じゃない」
 唇を噛み締めたキースは感情を押し殺して、キロスに手を貸して彼を立たせた。
「何故そのようなことが起きたのだ? 国の民はどうなった? どうして、そんなことが……」
「このキャンプに知らせが届いたのも今朝で、詳しい情報はまだわからない。今わかっていることは、メミスの都が〈混沌〉になってしまったのは二日ほど前、生き延びた人の話によると、巫女が突然〈混沌〉に変わり、魔導士たちが封じることもできず都は全て〈混沌〉に吸収されてしまったそうだよ」
 巫女が〈混沌〉に変わってしまった。――それはもしや、ソーサイアの仕業なのだろうか? だが、ここにソーサイアがいない限り、その問いは解けることがない。
 今、キースたちにできることは前に進むことだけだ。
「私はすぐにでも〈アムドアの大穴〉の中に入る。ローゼンとシビウはどうする?」
「わたくしはキース様と共にどこまでも」
「あたしだって行くに決まってるよ」
 二人の決意を聞いたところで突然キロスがキースの前に立って手を上げた。
「はいは〜い、僕のご一緒していいかな?」
 場違いな明るい雰囲気のキロスをシビウは睨み付けた。
「あんたは来なくていいよ」
「なんでさぁ、一様僕だって少しはお役に立てると思うけどなぁ〜」
「私は構わないが、〈混沌〉に吸収されてもいいのだな?」
「うっ、それはちょっぴり困るかも。でも、君は平気なんだろ、だったら僕も平気さ」
 腰に手を当てて自信満々のポーズをするキロスにシビウは呆れ声で呟いた。
「はあ、何だいこのガキは」
 ――結局キロスはキースたちの後を半ば強引について来て、一行は巨大な魔導壁の前まで来た。
 魔導壁の奥には巨大な〈混沌〉が封じられている。その巨大な〈混沌〉には未来の見えない闇のような印象を受ける。今からキースたちはその〈混沌〉の中に入ろうとしているのだ。
 キースは魔導壁に触れた。
「まずはこの魔導壁をどうにかしなくてはならんな」
 キロスは魔導壁をこんこんと軽く叩いてキースの方を振り向いた。
「じゃあ、どかーんと壊しちゃおうか?」
「それは、いい考えだが、〈混沌〉が外に出て来るぞ」
「だいじょぶ、だいじょぶ、少しの穴を空けて中に入ったらすぐに閉じれば済むことだよ」
 もの凄く安易な発想である。この巨大な〈混沌〉を封じるのに何人の魔導士の力が必要だったのか、このキロスという若者はそのことを知っていての発言なのか。とてもそうとは思えない。
 突然強大な魔導の波動がキロスを中心として巻き起こり、それは近くにいたキースたちの身体を吹き飛ばしてしまいそうなほどの勢いだった。
「いっちょ、いっちゃおうかなぁっとね」
 キロスの手から人間業とは思えぬほどの凄まじい魔導が放たれ、その魔導は魔導壁に直径二メティート(約二・四メートル)の穴を空けた。
「早く中に入ってくれないかな? 直ぐ閉めるから」
 迷っている暇はなかった。キースたちはすぐさま魔導壁の中に入り、その後を追ってキロスも魔導壁の中に入ると、いとも簡単に自分の空けた穴を塞いでしまった。
 〈混沌〉が外に出ることはなかった。それどころか〈混沌〉は全く動きもしなかったのだ。キロスという若者はいったい何者なのか?
「あんたいったい何者なのさ?」
「さぁね、何者でしょう? じゃ、お先に!」
 シビウの質問をはぐらかすようにして、さっさと〈混沌〉の中に飛び込んでいってしまった。
 得たいの知れないキロスにキースとローゼンは不安を覚えたが、二人は息を合わせたようにして〈混沌〉の中に入って行った。
「戻ったら酒でも飲みたいもんだねえ」
 最後に残されたシビウも混沌の中へ飛び込んだ。


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