EP 01

第1話 白い面は月を覚えている

序節 ― 月の翌朝

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 面は、顔を隠すものではない。

 この国では、面こそが顔である。

 生まれた家を示す面。
 職を許す面。
 神前に立つための面。
 死者を黄泉へ送るための面。

 人は名を持つ前に、面を持つ。
 名は呼ばれ、忘れられ、書き換えられる。けれど面は、その者がこの世で何を演じるべきかを、沈黙のうちに定めている。

 ならば、面を喰われた者は――まだ人と呼べるのだろうか。

 帝都カミザの朝は、白木の匂いから始まる。

 夜露を吸った回廊の柱が、朝陽を受けて淡く光っていた。天帝宮へ続く大路には、まだ人影もまばらで、黒漆の門扉には薄い金の縁取りが静かに浮かんでいる。朱塗りの舞台では、夜明けの神楽に備えた下働きたちが、布で床板を磨いていた。磨かれた板には、まだ誰の足跡もなかった。今日、そこへ最初に乗る者の役を待っているかのように、舞台はひっそりと息をひそめている。

 カミザは、美しい都だった。

 屋根瓦は月白に光り、軒先には小さな面鈴が吊るされている。風が吹くたび、鈴は声にならないほど細い音を立てた。役人町の門には官面の紋が掲げられ、武家屋敷の塀には戦面を象った金具が打たれている。神楽師の家では、朝の稽古の前に面箱へ香を焚き、商家では店を開ける前に職面へ軽く額を寄せる。

 素顔のまま歩いている者も多い。

 けれど、この都において素顔とは、裸の顔ではない。
 誰もがどこかの家に属し、何かの役に結ばれ、神前で認められた面を持っている。

 顔に着けていなくとも、面はその者の背にある。
 腰に下げた面札に。
 家の奥に仕舞われた生面に。
 役所の帳に記された仮面籍に。
 あるいは、誰かがその者を見るまなざしの中に。

 この国では、面を持つことが存在することだった。

 役面市は、朝早くから動き始めていた。

 表通りには認可を受けた面師の店が並び、軒先には新しい役面が整然と掛けられている。武士のための戦面は、頬の線が鋭く、目元には怒りではなく覚悟が刻まれていた。神楽師の舞面は、笑っているようにも眠っているようにも見える。商人の職面は控えめで、けれど口元だけに抜け目のない柔らかさがある。陰陽師の式面は、白と黒の線が方位盤のように交わり、見る角度によって表情を変えた。

 木地師が荒削りの面材を運び、漆職人が乾き具合を確かめ、紐師が絹紐を結い、面箱職人が黒漆の小箱に金具を打つ。

 そこには、朝の営みがあった。
 人が今日も、自分の役を演じるための支度があった。

 だが、その朝の明るさの底に、ひとつだけ薄い翳りが沈んでいた。

 昨夜は、満月だった。

 カミザの者は、満月を嫌わない。むしろ多くの神楽は月の光を受けて舞われる。月白の瓦、湖面に映る月、面の内側に宿る反射の祈り――それらは東方の舞と仮面の信仰に深く結びついている。

 けれど、昨夜の月は少し違っていた。

 いつもより白すぎた。
 いつもより近すぎた。
 まるで都の上に浮かぶのではなく、屋根のすぐ裏側から、ひとつひとつの面を覗き込んでいるようだった。

 それに気づいた者は少ない。

 気づいた者も、口にはしなかった。

 朝が来てしまえば、夜の異変などたいてい忘れられる。人は明るいものを信じたがる。まして帝都カミザの朝は、あまりに美しかった。

 だから、面師小路の奥へ、その面が運び込まれた時も、最初に騒いだ者はいなかった。

 表通りから一本外れ、さらに細い路地へ折れた先に、古い工房がある。看板は出ていない。軒の端に、割れた小面がひとつ吊るされているだけだ。知らぬ者なら、廃屋か古道具屋と思って通り過ぎるだろう。

 けれど、正規の面師に断られた者たちは知っている。

 剥がれた職面。
 割れた生面。
 役を受け取らなくなった舞面。
 死者に持たせるはずだったのに、どうしても目を閉じてくれない冥面。

 そういう面は、最後にこの路地へ来る。

 朝の光がまだ届ききらない工房の戸口で、誰かが強く戸を叩いた。

 一度。
 二度。
 三度目は、叩くというより縋る音だった。

 戸の向こうで、乾いた木が軋む。

 運び込まれたのは、ひとつの面だった。

 白い面だった。

 白木の面ではない。
 塗る前の面でもない。
 祭礼用の白面でもない。

 それは、色を失っていた。

 漆も、墨の線も、頬に差されていたはずの紅も、額に刻まれていた役紋も、すべてが薄く削がれていた。表面は滑らかで、傷ひとつない。割れてもいない。焼けてもいない。水に濡れた跡もない。

 ただ、何もなかった。

 目の形は残っている。
 鼻筋も、口元も、輪郭もある。

 けれど表情がない。

 笑っていない。
 泣いていない。
 怒っていない。
 眠ってもいない。

 それは面でありながら、面ではなかった。

 役を受け取る器でありながら、何の役も宿していなかった。

 運んできた若い男は、息を切らしながら言った。

「助けてください」

 声は震えていた。

「昨夜までは、確かに舞えていたんです。あの子は、ウズメの舞殿で――月迎えの稽古をしていて、それで、月が、面に」

 言葉は途中で崩れた。

 工房の奥では、朝の木粉がまだ空気に浮いていた。壁には無数の面が掛けられている。笑う面、怒る面、眠る面、泣く面、何かを待つ面。どれも静かだった。けれど白い面が置かれた瞬間、そこに掛けられた古い面たちが、いっせいに息を止めたように見えた。

 その白さは、雪に似ていた。

 だが、雪ならば朝陽に溶ける。
 これは溶けない。

 月に噛まれたものは、朝になっても戻らない。

 工房の奥から、ひとりの少女が出てきた。

 濡羽色の黒髪を低く結び、生成りの小袖に墨色の作業袴を合わせている。腰には小筆と彫刻刀、磨き布を入れた道具袋。袖は赤茶の組紐で留められていた。指先には細かな傷があり、爪の端には落としきれない漆の跡が残っている。

 少女は、運び込まれた面を見た。

 その瞬間、表情が変わった。

 驚いたのではない。
 怖がったのでもない。

 ただ、目の奥だけが静かに鋭くなった。

 彼女は名を、イロハ=ナギという。

 面師小路の裏工房で働く、中級面師である。

 そして、役を持たなかった子が、面を作る者になった少女だった。

 イロハは白い面へ手を伸ばしかけ、途中で止めた。直接触れず、まず白布を取る。面の下にそっと敷き、両手で持ち上げる。その所作は若い職人のものだったが、雑さはなかった。面を物としてではなく、まだ息の残る誰かの顔として扱う手つきだった。

 白い面の内側を覗いた時、イロハの瞳に、淡い月白の反射が走った。

 そこに、傷があった。

 外側には何もない。
 けれど内側には、確かに痕がある。

 細い歯形のようなもの。
 月光で焼いたような、白い裂け目。
 面に刻まれていた役が、そこから引き抜かれた跡。

 イロハは小さく息を呑んだ。

 工房の隅で、老人が笑った。

「朝っぱらから、面白くねえもんを持ってきたな」

 白髪混じりの黒髪を雑に結んだ男だった。くたびれた黒茶の羽織を肩に引っかけ、片目は薄く白濁している。口元には皮肉な笑みがあったが、目だけは笑っていなかった。

 ロウセツ=カガミ。

 かつて宮廷に仕えた御面師。
 今は資格を剥奪された、路地裏の面師。

 彼は煙管を指先で回しながら、白い面を見た。

「割れたんじゃねえ。剥げたんでもねえ。……喰われたな」

 運んできた男が、顔を上げる。

「喰われた?」

 ロウセツは答えなかった。

 イロハも、すぐには言葉を出せなかった。

 白い面は、工房の朝の光の中で静かに横たわっていた。
 何の表情も持たず、何の役も持たず、ただ、そこにあった。

 昨夜の満月が何をしたのか。
 その面から何を奪ったのか。

 まだ誰も、正しく名づけられない。

 けれどイロハには見えていた。

 面の内側に残る、薄い月の噛み跡が。

 そしてその白さが、自分の持つ黒い小箱の奥――白布に包まれた未在生面《ナギノオモテ》の静けさに、どこか似ていることも。

 帝都カミザの朝は、なお美しかった。

 白木の回廊は輝き、朱塗りの舞台は神を迎える支度を続け、役面市では今日も人々が自分の役を選んでいた。

 その都の片隅で、ひとつの面だけが、何者でもなくなっていた。

 月の翌朝。

 名を喰うものは、まだ空に残っている。