EP 02

第1話 白い面は月を覚えている

第一節 ― 面師小路のイロハ

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 白い面が運び込まれる少し前、その朝は、いつもの朝だった。

 面師小路の裏工房には、木粉の匂いが満ちていた。

 乾いた白木。古い漆。磨き布に染み込んだ油。昨日塗った朱が、まだ棚の隅でわずかに湿っている。天井近くには、修理待ちの面がいくつも吊るされていた。片目だけ欠けた戦面、口元の漆が剥がれた商家の職面、紐穴の裂けた神楽面、子どもの成長に合わなくなった生面。

 どの面も、眠っているように見えた。

 けれどイロハには、ただの物には見えない。

 面は、持ち主の役を覚えている。

 長く家の奥にしまわれていた生面には、家族の声が染み込む。
 毎朝の店開きに掲げられた職面には、銭の音と客の気配が移る。
 神前で舞われた祈面には、床を踏んだ足の重みや、袖が空気を切った軌跡が残る。

 だから面を直す時、イロハはまず耳を澄ませる。

 木が鳴る音。
 漆が乾く沈黙。
 面の裏に残った、役の呼吸。

「おい、面師の嬢ちゃん。これ、今日中に何とかならねえか」

 朝一番の客は、役面市の表通りで乾物屋を営む男だった。

 太い指で差し出されたのは、小ぶりな職面である。商人が店を開ける時に、店先へ掲げる面だった。顔に着けるためというより、その店がどういう役を持つかを示すためのものだ。口元は柔らかく笑い、目尻には客を逃さない細い線が刻まれている。

 だが、その口元に小さな亀裂が入っていた。

 イロハは面を受け取り、白布の上に置いた。

「落としました?」

「落としてねえよ。いや、ちょっとだけだ。棚からな」

「棚から落としたんですね」

「だから、ちょっとだけだって言ってるだろ。けど困るんだよ。今日は西の隊商が入る日だ。職面なしじゃ、表の店を開けられねえ」

 男は困ったように頭を掻いた。

「名札は出せるでしょう」

「名だけじゃ駄目なんだよ、嬢ちゃん。この都じゃ、商人は商人の面を掲げて初めて商人だ。名前を書いた木札なんざ、旅の宿場なら通るかもしれんが、カミザじゃ通らねえ」

 イロハは薄く頷いた。

 それは彼女も知っている。

 この国では、名前だけでは足りない。
 名は個人を呼ぶためのもの。
 面は、その者がこの世で何をしてよいかを示すもの。

 乾物屋の男は、生まれた時には家の生面を持っていた。商家に生まれた子として、家の奥で守られる面だ。だが店に立つには、それとは別に職面がいる。商いを許され、客と値を交わし、品を売る役を受け取るための面。

 面を失えば、店は開けられない。

 たとえ本人がそこにいても。
 金を数える手を持っていても。
 毎日同じ暖簾を掲げていても。

 役がなければ、社会はその者を見ない。

「亀裂は浅いです。漆を継いで、口元の線を戻せば今日の昼には使えます」

「本当か」

「ただし、落とした面をそのまま掲げるのはやめてください。商いの口が割れます」

「縁起でもねえこと言うなよ」

「割ったのはそちらです」

 男は返す言葉に詰まり、それから苦笑した。

「相変わらず愛想がねえな、イロハちゃんは」

「面を直す仕事なので」

「人の機嫌は直さねえってか」

「必要なら別料金です」

 工房の奥で、ロウセツが低く笑った。

「取れるところからは取れ、イロハ。それが商いの役ってもんだ」

「師匠は黙っていてください」

「へいへい」

 イロハは小筆を取り、亀裂の奥に薄く下地を入れた。手つきは早い。けれど雑ではない。口元の笑みに沿って、割れた線を戻していく。商人の面にとって、笑みは飾りではない。値を決め、客を迎え、品を渡すための所作そのものだ。

 役の線を間違えれば、面はただの作り物になる。

 イロハは筆先を止め、面の裏を指で軽く叩いた。

 乾いた音がした。

「大丈夫。まだ商う気があります」

「面がか?」

「あなたが、です」

 男は一瞬きょとんとして、それから鼻を鳴らした。

「そりゃあるさ。うちには食わせる口が五つもあるんだ」

「なら、昼に取りに来てください」

「助かる」

 男は深々と頭を下げ、表通りへ戻っていった。

 入れ替わるように、母親に手を引かれた小さな子が入ってきた。まだ六つか七つほどの女の子で、胸元に布で包まれた小さな面箱を抱いている。

「面師さま、この子の生面を見ていただけますか」

 母親は遠慮がちに言った。

「昨夜から、箱の中でかたかた鳴るんです。割れてはいないと思うのですが……」

 イロハは少女の目線に合わせて膝をついた。

「見てもいい?」

 少女は少し迷ってから、小さく頷いた。

 面箱を開けると、淡い木地の子ども面が収められていた。表情はまだ定まっていない。笑っているようにも、眠っているようにも見える。家に生まれた子へ与えられる生面は、その子自身の顔というより、その家の根に結ばれるための面である。

 だから普段は着けない。
 家の奥にしまわれ、節目の日にだけ出される。

 子どもはその面によって、この家に生まれた者として認められる。

「七つの祝いが近いんですね」

 イロハが言うと、母親は驚いたように目を瞬いた。

「わかるんですか」

「面が少し緊張しています」

「面が……緊張?」

 少女が不安そうに母親の袖を握る。

 イロハは子ども面の紐穴を確かめた。片側が少し硬い。木が乾きすぎて、紐を通した時に音を立てているだけだった。

「大丈夫。怖がっているわけではありません。少し窮屈なだけ」

「わたしが、悪い子だから?」

 少女が小さな声で尋ねた。

 イロハは首を振った。

「面は、悪い子だから鳴るんじゃない。大きくなったから鳴るの」

 少女は面箱の中を覗き込んだ。

「大きくなったら、面も変わるの?」

「少しずつ。あなたが家の中でどう呼ばれて、何を覚えて、誰に手を引かれたかを、面も覚えていくから」

「じゃあ、この子もわたしのこと知ってる?」

「たぶん、あなたが夜中に布団を蹴ることも知っています」

 少女ははっとして、母親を見上げた。母親は思わず笑った。

「そこまで面に知られていたら困りますね」

「生面は家の面ですから。家のことは、よく覚えます」

 イロハは紐穴の内側を少し削り、白い布で磨いた。それだけで、箱の中のかたかたという音は収まった。

 母親はほっと息を吐いた。

「ありがとうございます。正規の工房に持っていくほどではないと言われてしまって」

「生面に、持っていくほどではないものなんてありません」

 イロハの声は静かだった。

 母親はその言葉に、少し目を伏せた。

「……あなたに見てもらえてよかった」

 その一言に、イロハは返事をしなかった。

 ただ面箱の蓋を閉め、少女に返した。

 少女は両手で面箱を抱きしめる。

「ありがとう、面師さん」

「落とさないように」

「うん」

 親子が出ていくと、工房には少しだけ柔らかな空気が残った。

 だが、それも長くは続かない。

 次に入ってきたのは、年老いた神楽師だった。

 痩せた背をまっすぐ伸ばし、両手で古い面を持っている。面は女神楽に用いられる祈面だった。白い頬に薄く紅が差され、目元は伏せられている。だが、左の頬から顎にかけて、古い漆が浮いていた。

「ロウセツ殿はいるか」

 老人は工房の奥へ声をかけた。

「いるが、今日は手が震える日だ」

 ロウセツが煙管をくわえたまま答える。

「ならば弟子でよい」

「弟子でよい、だそうだぞ。イロハ」

「聞こえています」

 イロハは祈面を受け取った。

 重い面だった。木の重さではない。何度も神前に立ち、何度も舞われ、何度も祈りを受けてきた面特有の重みがある。

「神前で、息が通らなくなった」

 老人は言った。

「着けると、舞手が途中で止まる。足は覚えている。袖も間違えない。だが、神を迎える前の沈黙だけが抜ける」

 イロハは手を止めた。

「いつからですか」

「三日前だ。いや……もっと前から兆しはあったのかもしれん。若い者は、型だけなら舞える。だが、祈面は型だけでは受け取らぬ」

 老人は面の頬を見つめる。

「祈面とは、人が神に顔を貸すためのものだ。面が息を閉じれば、神は降りぬ」

 イロハは頷いた。

 祈面は、職面とも生面とも違う。
 それは日々の役ではなく、神前で一時的に人ではない役を受け取るための面だった。

 舞手は面をつけることで、ただの人間ではなくなる。神を迎える器になる。自分の名を少し横へ置き、神の貌を演じる。

 だから祈面が傷めば、舞は舞でなくなる。
 ただの動きになる。
 祈りの形をした空白になる。

「頬の漆は直せます。でも、それだけではないです」

 イロハは面の裏に指を添えた。

 かすかに、ざらつきがある。

「この面、最近、月光に当てましたか」

 老人の眉が動いた。

「昨夜、月迎えの稽古があった。舞殿の縁に置いた」

 工房の奥で、ロウセツの煙管を回す音が止まった。

 イロハは顔を上げない。

「長く?」

「半刻ほどだ」

「……そうですか」

 祈面の裏には、まだはっきりした傷はなかった。ただ、漆の下を何かが舐めたような、薄い冷たさがある。

 イロハは白布をかけた。

「今日は使わないでください」

「今夜も稽古がある」

「使わないでください」

 今度は、少し強く言った。

 老人はイロハを見た。

 若い面師の言葉を、ただの臆病と片づけることもできただろう。だが彼は長く神楽に仕えた者だった。祈りの道具が発する小さな異変を、軽んじる者ではなかった。

「理由を聞いてもよいか」

 イロハは答えに迷った。

 月に噛まれかけている。

 そう言えばよかったのかもしれない。

 だが、その言葉はまだ形になっていなかった。名づけてしまえば、何かが始まる。そういう予感があった。

「面が、休みたがっています」

 代わりに、そう言った。

 老人はしばらく黙り、それから深く息を吐いた。

「面が休みたがるなら、舞手も休むべきだな」

「はい」

「よかろう。今夜は稽古を止める」

 老人は祈面を置いて帰った。

 戸が閉まったあと、工房には少し長い沈黙が落ちた。

 イロハは祈面の上の白布を見つめていた。

「師匠」

「なんだ」

「最近、月に当てた面ばかり来ます」

「月は昔から空にある」

「そういう話ではありません」

 ロウセツは煙管を口元から外した。

「じゃあ、どういう話だ」

 イロハは答えなかった。

 面師小路の外からは、役面市の声が聞こえてくる。

 職面の値を尋ねる声。
 紐の色を選ぶ女たちの笑い声。
 子どもが面鈴を鳴らして叱られる声。
 正規面師の店先で、今日の修理番を告げる札が掛け替えられる音。

 都はいつもどおり動いている。

 誰もが自分の役を持ち、自分の面に支えられている。
 そのことに疑いを持つ者は少ない。

 イロハは、自分の腰の道具袋に触れた。

 そこに吊るされた小さな面師札は、彼女が中級面師であることを示している。正規の試験を通った証だ。武士の戦面も、神楽師の舞面も、陰陽師の式面も、一定の範囲なら扱うことを許されている。

 けれど、その札に触れるたび、彼女は少しだけ息が浅くなる。

 自分には、生まれた家の面がない。

 戦の火で失われた生面。
 幼すぎて持てなかった職面。
 祈るための祈面も、死者として送られるための冥面もなかった頃のことを、体より先に面が覚えている気がする。

 師匠が与えた面がなければ、自分は今も、この都のどこにも属していなかった。

 救われたのだと思う。
 けれど、作り変えられたのではないかとも思う。

「イロハ」

 ロウセツが呼んだ。

「手が止まってるぞ」

「止めています」

「客の前でそれをやるなよ。腕が悪く見える」

「腕が悪いのは師匠の手の震えです」

「言うようになったなあ」

 ロウセツは笑ったが、やはり目は笑っていなかった。

 その時だった。

 工房の戸が、強く叩かれた。

 一度。
 二度。
 三度目は、叩くというより縋る音だった。

 イロハは顔を上げた。

 戸の外に立っていた若い男は、息を切らしていた。腕の中には、白布で包まれた面箱がある。その白布の端から、異様な白さが漏れていた。

 朝の光よりも白い。
 白木よりも白い。
 祈りの白ではない。

 何かを失ったあとの白だった。

「助けてください」

 男は言った。

「昨夜までは、確かに舞えていたんです。あの子は、ウズメの舞殿で――」

 イロハは立ち上がった。

 工房に吊るされた面たちが、かすかに揺れた。

 そして、面師小路のいつもの朝は、その瞬間に終わった。