EP 03

第1話 白い面は月を覚えている

第二節 ― 白化した神楽面

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 白布が、工房の作業台の上に置かれた。

 それだけで、空気が変わった。

 乾いた木粉の匂いも、漆の甘い匂いも、朝の表通りから流れ込む人の声も、すべてが一歩遠のいたように思えた。面師小路の裏工房には、これまでいくつもの傷んだ面が運び込まれてきた。割れた面。焼けた面。役を受け取らなくなった面。死者の顔から外せなくなった冥面。

 けれど、その白布の下にあるものは、そうした壊れ方とは違っていた。

 イロハは、すぐには布を解かなかった。

 まず、運んできた若い男の顔を見た。

 いや、正確には、顔ではなく襟元の面札を見た。細い朱紐に吊るされた小さな札には、ウズメの舞殿に属する見習い神楽師の印が入っていた。男自身も舞手なのだろう。だが、今は舞台に立つ者の背筋ではない。肩が崩れ、息が乱れ、何かを抱えて走ってきた者の必死さだけがある。

「持ち主は」

 イロハが尋ねると、男は戸口を振り返った。

 そこに、ひとりの少女が立っていた。

 年は十五、六ほどだろうか。イロハと同じくらいか、少し下かもしれない。淡い緋色の稽古袴に、白い小袖。髪は舞の邪魔にならないよう高く結われていたが、結び目が少しほどけている。足袋の先には、舞殿の床で擦れた跡があった。

 神楽師の少女だった。

 けれど、その姿はひどく心許なかった。

 顔色が悪い。
 目は開いているのに、どこを見ればよいのかわからないように揺れている。
 両手は胸元で固く結ばれ、指先が小刻みに震えていた。

 何より異様だったのは、その少女が面箱を持っていないことだった。

 神楽師は、稽古であっても面を粗末にしない。自分で運び、自分で開き、自分でしまう。それができないほどの状態なのだと、イロハにはすぐわかった。

「中へ」

 イロハが言うと、少女は一歩踏み出そうとして、足を止めた。

 右足を前に出す。
 けれど、次の左足が出ない。

 ほんの小さな動作だった。普通の人間なら気にも留めない。だが神楽師の足運びは、歩くことさえ舞の延長である。片足を出した時、その次に体がどう流れるかを、身体が覚えているはずだった。

 少女は、自分の足元を見下ろした。

「……あれ」

 小さな声が落ちた。

「今、どうやって入ればいいんだっけ」

 男が痛ましげに顔を歪める。

「ユラ」

 名を呼ばれた少女は、はっとしたように顔を上げた。

「ごめん、セイ。わたし、変だね」

「変じゃない。面が悪いんだ」

「面が……」

 ユラと呼ばれた少女は、作業台の白布を見た。見た瞬間、肩がびくりと跳ねる。

「いや」

 その声は、拒絶というより恐怖だった。

「見たくない。わたし、それを着けてたの?」

 工房の奥で、ロウセツが煙管を置いた。

 普段なら軽口のひとつも挟むところだが、今は黙っている。

 イロハは少女を椅子に座らせ、白布の横へ水を置いた。

「名前は」

「ユラ」

 少女は答えた。

「ユラ=シラビョウ。ウズメの舞殿の、見習い神楽師です」

 答え方はしっかりしていた。少なくとも、自分の名と所属は覚えている。

 イロハは頷いた。

「昨夜、何がありましたか」

 ユラはすぐには答えなかった。

 代わりに、面を運んできた男――セイと呼ばれた若い舞手が口を開いた。

「月迎えの奉納舞の稽古でした。今月の満月は、ウズメ=ムゲン命へ新しい演目を奉じる前の、型合わせの日で……本舞台ではなく、舞殿の外庭で行っていました」

「外庭?」

「はい。月を背に受けて舞う型です。まだ正式な奉納ではありません。けれど、ユラはその一節を任されていました」

 セイは、白布の下にある面から目を逸らした。

「月が高くなった時です。雲が切れて、光が舞台に差しました。その瞬間、ユラの面が……白く」

 イロハはセイを見た。

「塗りが剥げた?」

「いいえ」

「割れた?」

「いいえ」

「誰かが触れた?」

「誰も」

 セイの喉が鳴った。

「月が、触れたように見えました」

 その言葉に、工房の空気がさらに冷えた。

 イロハは、白布へ手を伸ばした。

 布を解く。

 中から現れた面を見て、セイが息を呑んだ。ユラは目を伏せ、両手で膝の布を握った。

 それは、女神楽に使う若い舞面だったはずだ。

 もとは、ウズメの舞殿らしい明るさを持っていたのだろう。額には笑みを呼ぶ細い弧があり、目元は開きすぎず閉じすぎず、舞手の感情を受け止める余白を残している。口元には、神をからかうような微笑の気配があったはずだ。

 だが今は、何もない。

 白い。

 ただ白い。

 漆が剥げたのではない。色が失われたのでもない。面の表情を作っていた線、その線が受け止めていた役、その役に結ばれていた舞の意味だけが、きれいに抜き取られている。

 目も、鼻も、口も残っている。
 なのに、見る者の心に何も返さない。

 面は、人を見返すものだ。

 どんなに古びていても、どんなに欠けていても、よい面は必ず見る者へ何かを返す。怒り、笑い、悲しみ、眠り、祈り、拒絶、誘い。役の残っている面には、目がある。

 だが、この面は見返してこない。

 見ているのはこちらだけ。
 向こう側には、誰もいない。

「……これ、本当にわたしの面?」

 ユラの声は震えていた。

 セイが言う。

「昨夜まで、お前が使っていた面だ。ウズメの『呼び笑い』の一節で」

「呼び笑い……」

 ユラはその言葉を繰り返した。

 だが、意味が結びついていない顔だった。

「わたし、そんな一節を舞ってた?」

 セイの目が見開かれる。

「覚えてないのか」

「型は、少し覚えてる。右の袖を上げて、左足を引いて、それから……鈴を鳴らす。でも」

 ユラは自分の手を見た。

「その前に、何を待つんだっけ」

 誰もすぐには答えなかった。

 イロハは、ユラの言葉を静かに聞いていた。

 それは技術の欠落ではない。

 足の出し方は覚えている。
 袖の上げ方も覚えている。
 鈴を鳴らす動作も覚えている。

 抜け落ちているのは、その前にあるものだ。

 舞が神に届くための、最初の空白。

 神を迎える沈黙。

「稽古の続きを、ここでできますか」

 イロハが尋ねると、ユラは不安げに顔を上げた。

「面なしで?」

「面なしで。動きだけでいい」

 セイが止めようとした。

「イロハさん、今は――」

「面を見るためです」

 イロハは短く言った。

 ユラは迷った末に立ち上がった。

 工房の中央には、作業台と面棚のあいだにわずかな空きがある。神楽を舞うには狭すぎる。だが一節の足運びを見るだけなら足りる。

 ユラは右手を胸元へ添え、左手を袖の内に滑らせた。

 深く息を吸う。

 その所作は美しかった。

 見習いとはいえ、身体には神楽師としての訓練が入っている。肩の力を抜き、首をわずかに傾け、視線を床から少し先へ置く。右足が半歩出る。袖が静かに上がる。鈴を持たない指が、鈴を持つ時の形を覚えている。

 だが、そこで止まった。

 沈黙が来ない。

 本来なら、舞手はそこで一度、世界を空ける。

 息を止めるのではない。
 音を消すのでもない。
 自分という役を少し下ろし、神が入るだけの余白を作る。

 その一瞬がなければ、次の動きはただの踊りになる。

 ユラの足は動こうとした。
 けれど、動けなかった。

「……違う」

 少女は呟いた。

「ここで、何かあったはずなのに」

 イロハは面を見た。

 白い面は、作業台の上で何も言わない。

「もういいです」

 イロハが言うと、ユラは力が抜けたように椅子へ戻った。

 セイが水を差し出す。ユラは両手で受け取ったが、飲まずに見つめている。

「わたし、舞えなくなるのかな」

 その問いは、誰に向けたものでもなかった。

 だが工房の面たちは、その声を聞いていた。

 イロハは白布を片手に取り、面を裏返した。

 内側を覗く。

 そこに、あった。

 薄い噛み跡。

 表面からは見えない。普通の面師なら、木目の揺らぎか、乾燥による小さな歪みと見間違えるかもしれない。だがイロハにはわかる。

 月痕だった。

 面の裏、ちょうど舞手の額が触れる位置から、左頬の内側へかけて、白い細線が走っている。線はひとつではない。細かな弧が重なり、まるで何かが面の内側に歯を立て、そこから役を啜ったように見えた。

 イロハの瞳の奥に、薄い白月の反射が灯る。

 同時に、耳鳴りがした。

 ちり、と鈴が鳴るような音。

 次の瞬間、イロハは見た。

 昨夜の舞殿。

 朱塗りの縁。白砂の庭。風に揺れる灯籠。月を仰ぐ若い神楽師たち。ユラが面をつけて立っている。袖が上がる。足が引かれる。舞が始まる前の沈黙が、ふわりと場を包む。

 その沈黙に、月光が落ちた。

 光はまっすぐではなかった。

 細い顎のように曲がり、白い歯のように割れ、面の額へ触れた。触れた、というより噛んだ。

 ユラの面が、一瞬だけ笑った。

 それはウズメの笑みではない。

 空にいる何かが、地上の役を見つけた時の笑みだった。

 イロハは息を詰め、面から手を離した。

 白布がわずかに揺れる。

「見えたか」

 ロウセツが低く言った。

 イロハは師匠を振り返らなかった。

「月痕があります」

 セイが顔を上げる。

「月痕?」

「面の内側に、役を抜かれた跡が残っています」

「役を……抜かれた?」

 ユラが震える声で言った。

「それは、わたしの舞が下手だったからですか。わたしが、神様を迎え損ねたから」

「違います」

 イロハはすぐに否定した。

 思ったより強い声になった。

 ユラが驚いて目を上げる。

 イロハは少しだけ息を整え、言い直した。

「これは、稽古不足の傷ではありません。舞手の失敗でもない。面が、外から何かに触れられています」

「外から……」

「昨夜の月です」

 工房の中で、誰かが息を呑んだ。

 それがセイだったのか、ユラだったのか、イロハ自身だったのかはわからなかった。

 言葉にした瞬間、白い面の表面がほんのわずかに光った気がした。

 ロウセツが煙管を置いた。

「言ったな、イロハ」

「隠しても仕方ありません」

「仕方がある時もある」

「この子は、理由がわからないまま自分を責めています」

 イロハは静かに言った。

「それよりは、ましです」

 ロウセツは何も返さなかった。

 ユラは膝の上で指を握りしめていた。

「戻りますか」

 その声は、泣く寸前のものだった。

「わたしの舞は、戻りますか」

 イロハはすぐに答えられなかった。

 白化した面から、失われた役を完全に戻す方法を、彼女は知らない。

 だが、完全に消えているわけではない。
 月痕の周囲に、かすかな余韻が残っている。

 袖の軌跡。
 足裏が床を待つ感覚。
 鈴が鳴る前の沈黙。

 消えたのではない。
 喰われたあと、わずかにこぼれたものがある。

「今すぐ元通りにはできません」

 イロハは言った。

 ユラの顔が沈む。

「でも、一節だけなら、思い出せるかもしれません」

 セイが身を乗り出した。

「本当ですか」

「仮置きです。戻すのではなく、抜けた場所に短いあいだだけ役を置く。面も舞手も負担が大きい。失敗すれば、余計に傷が深くなる」

「それでも」

 ユラが言った。

 その声は震えていたが、さっきよりも少しだけ芯があった。

「それでも、確かめたいです。わたしが何を忘れたのか」

 イロハは、少女を見た。

 神楽師としての恐怖。
 自分の舞が失われる恐怖。
 けれどそれ以上に、自分が何を大切にしていたのかを忘れてしまった恐怖。

 それはイロハにも、少しわかった。

 自分が何者だったのか、わからない。
 何を失ったのかさえ、わからない。

 その空白は、ただの欠落ではない。生きている者の足元を、静かに削っていく穴だ。

 イロハは白い面の前に座り直した。

「面を、ここに」

 セイが布を整える。

 ユラが震えながら近づく。

 ロウセツは工房の奥から、古い灯明皿を持ってきた。火はつけない。ただ面のそばに置く。神楽面を診る時の、古い作法だった。

「師匠」

「やるんだろう」

「止めないんですか」

「止めたらやめるのか」

 イロハは答えなかった。

 ロウセツは、短く鼻で笑った。

「なら聞くな」

 イロハは白布を片手だけ外し、素手の指先で面の内側に触れた。

 冷たい。

 木ではなく、月に触れているようだった。

 月痕の噛み跡が、指の腹にぴたりと重なる。

 その瞬間、面の白さが、ほんのかすかに震えた。

 まるで、喰われた役の残り香が、まだどこかで息をしているかのように。

 イロハは目を閉じた。

 探すのは、色ではない。
 形でもない。
 この面が昨夜まで受け取っていた、神を迎えるための沈黙。

 ウズメの舞は、笑いから始まるのではない。

 笑いの前には、必ず沈黙がある。
 神を隠す岩戸のような沈黙。
 誰もが息を潜め、次に何が起こるのかを待つ沈黙。
 その待つ時間を破るからこそ、笑いは神を動かす。

 ユラの面から抜け落ちたのは、それだった。

 イロハの指先に、白い痛みが走った。

 面の奥で、何かがこちらを見返した気がした。

 白い月。
 噛み跡。
 消えた役。

 そして、どこか遠くで、誰かが笑った。

 それは少女の笑いではなかった。
 老いた神の笑いでもなかった。
 舞台裏から観客の反応を窺う、名もない演者のような笑い。

 ウズメ=ムゲン。

 その名を、イロハは声には出さなかった。

 ただ、胸の奥で思った。

 この舞は、まだ終わっていない。

 白い面の内側に、細く、細く、消えかけた線が浮かんだ。

 袖の軌跡だった。

 イロハは目を開けた。

「ユラさん」

「はい」

「今から、面に仮の役を置きます。あなたは思い出そうとしないでください」

「え?」

「思い出そうとすると、自分の記憶で隙間を埋めてしまう。そうではなく、面が覚えているものを待ってください」

 ユラは唇を噛み、頷いた。

 イロハは白い面を両手で持ち上げた。

 その面は相変わらず無表情だった。

 けれど、今だけは、その奥にわずかな気配がある。

 まだ完全には喰われていない。
 まだ、呼べる。

 工房の外では、役面市の朝が続いていた。

 誰も知らない。
 この裏工房で、ひとりの神楽師が自分の役を失いかけていることを。

 誰も知らない。
 昨夜の満月が、面を白くしたことを。

 誰も知らない。
 名を喰う月が、すでに帝都カミザの舞台に歯を立てていることを。

 イロハは、白い面の内側へそっと息を吹きかけた。

 面が、かすかに震えた。