EP 04

第1話 白い面は月を覚えている

第三節 ― 役を失うということ

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 面が震えた。

 それは、目に見えるほど大きな揺れではなかった。白布の端がほんの少しだけ波打ち、面の内側で何かが浅く息をしたように見えただけだ。

 けれど、イロハはその震えを見逃さなかった。

 彼女はすぐに指を離した。

 白い面は、ふたたび何の表情も持たないものへ戻る。

「今は、まだ置けない」

 イロハは低く言った。

 ユラが顔を上げる。

「どうしてですか」

「どこが失われているのか、もう少し見ないと危ないです。無理に役を置けば、残っているところまで剥がれるかもしれない」

 ユラの唇から、かすかに息が漏れた。

 セイが彼女の肩に手を添える。

「ユラ、大丈夫だ。焦るな」

「でも」

 ユラは自分の膝を見た。

「焦らないと、どんどん遠くなる気がするの」

 その言葉に、工房の面たちが沈黙したように見えた。

 イロハは白い面に布をかけ直し、立ち上がった。

「舞台へ立てますか」

「え?」

「ここではなく、外で。実際に舞台へ上がろうとした時、どこで止まるのか見たい」

 セイが眉を寄せた。

「今のユラに舞台は――」

「舞う必要はありません。立とうとするだけでいい」

「立つだけ?」

 ユラは戸口のほうを見た。

 工房の外には、面師小路へ続く細い石畳がある。その先には、役面市の裏に設けられた小さな稽古舞台があった。正式な神楽を奉納する場ではない。面の調整や舞手の足合わせに使われる、裏職人たちのための簡素な板敷きだ。

 それでも舞台は舞台だった。

 踏み込む者の役を、足元から問い返す場所である。

 ユラはゆっくり立ち上がった。

 名は覚えている。
 家も覚えている。
 自分がウズメの舞殿に通っていたことも、師匠の名も、稽古場の匂いも、朝の足慣らしも覚えている。

 けれど、立ち上がったその姿には、ひどく不安定なものがあった。

 少女は自分の体を持て余しているようだった。

 面を失った顔ではない。
 役を失いかけている体だった。

 イロハは作業台の白い面を小箱に入れ、布で包んだ。直に持たせるのは危険だと判断した。セイがその箱を抱えようとしたが、イロハは首を振る。

「私が持ちます」

「でも」

「今は、持ち主に近づけすぎないほうがいい」

 ユラが肩を震わせた。

「わたしの面なのに?」

 イロハは一瞬、答えに詰まった。

 面は持ち主のものだ。

 けれど今、その面はユラを守るものではなく、ユラの失われた部分へ繋がる傷口になっている。

「戻すためです」

 そう言うしかなかった。

 ユラは小さく頷いた。

 工房の戸を開けると、朝の光が一気に差し込んだ。

 面師小路は、すでに騒がしくなっていた。表通りの店からは、客を呼ぶ声が聞こえる。子どもが面鈴を鳴らし、紐師の店先では色とりどりの組紐が風に揺れていた。古面商の老人が、買い取ったばかりの冥面を布で拭いている。漆職人が乾き具合を確かめるため、板に指を当てている。

 いつもの朝。

 けれど、ユラが路地へ出た瞬間、何人かが振り返った。

 最初は心配そうな視線だった。

 ウズメの舞殿の稽古袴を着た少女が、青ざめた顔で歩いている。隣には同じ舞殿の若い舞手。後ろには裏工房の面師。何かあったと考えるには十分だった。

 だが、数歩進むうちに、その視線の質が変わった。

「あれ、誰だ?」

 紐師の女が小声で言った。

「ウズメの舞殿の子じゃないかい」

「そうだったかね。見たことはあるような気もするけど」

 ユラの足が止まりかけた。

 セイが振り返る。

「ユラだよ。シラビョウのユラ。去年の春祭りで、呼び笑いの控えを舞っただろ」

「ああ……そうだったかねえ」

 紐師の女は、悪気なく首を傾げた。

「でも、あの子は鈴持ちじゃなかったかい? 神楽師というより、舞台の脇で鳴らす子だったような」

 ユラの顔から、さらに血の気が引いた。

「違う」

 声が小さく漏れる。

「わたし、舞ってた」

 女は慌てたように手を振った。

「ああ、悪いね。年を取ると物覚えが曖昧で」

 その言葉は慰めのつもりだったのだろう。

 だがイロハにはわかった。

 これは、ただの物忘れではない。

 白化面から失われた役が、周囲の記憶の中でも薄くなり始めている。

 名は残っている。
 顔も残っている。
 だが、その者が何者として世界に立っていたのかが、少しずつ見えなくなっている。

 それが、役を喰われるということだった。

 小さな稽古舞台の前には、すでに数人の職人と舞手が集まっていた。面師小路の裏舞台は、朝のうちに調整を済ませる者たちがよく使う。今日は、古い鬼面の重さを確かめる武舞の男と、祭面の紐を直している神楽師の女がいた。

 女神楽師は、ユラを見るなり近づいてきた。

「ユラ、無事だったの」

 その声には本物の心配があった。

 ユラの表情が少しだけ明るくなる。

「サナ先輩」

「昨夜は大変だったって聞いて……」

 サナと呼ばれた女は、そこで言葉を切った。

 眉をひそめる。

「昨夜、あなた……何をしていたんだっけ」

 セイの顔が強張った。

「サナさんまで」

「違うの。覚えているのよ。月迎えの稽古だった。外庭にいた。面が白くなった。それは覚えている」

 サナは自分の額に手を当てた。

「でも、あなたがどの一節を任されていたのかが、思い出せない。呼び笑いは、たしか……」

 彼女は舞台の板を見る。

「誰が舞うはずだった?」

 沈黙が落ちた。

 ユラは口を開いた。

「わたしです」

 サナはユラを見た。

 その目には、信じたいという気持ちがあった。けれど同時に、記憶がその言葉を支えられずにいる戸惑いがあった。

「そう、だったわね。あなたが……そうよ。そうだったはず」

 だが言葉の最後が揺れた。

 揺れた瞬間、ユラの体も揺れた。

 イロハは小箱を抱え直した。

 役は、本人だけの中にあるものではない。

 商人が商人であるのは、自分が商うからだけではない。客がその者を商人として見、役所が職面を認め、家がその仕事を受け継がせ、街がその店を店として扱うからだ。

 神楽師も同じだった。

 舞を覚えているだけでは神楽師ではない。舞殿が舞手として認め、観る者がその役を受け取り、神前に立つ面がその者を器として許す。そうして初めて、ひとりの舞手は神楽師になる。

 月は、そこを喰う。

 名だけを消すのではない。
 記憶だけを奪うのでもない。
 その人が世界で担っていた役を、関係ごと削っていく。

「舞台へ」

 イロハは言った。

 ユラは頷いた。

 稽古舞台は、三段ほどの低い板敷きだった。朱塗りの正式な舞台とは違い、ところどころ傷があり、板の継ぎ目には古い漆が詰まっている。けれど、舞手が足を置く場所だけは磨かれていた。幾人もの足が、そこに役を刻んできたからだ。

 ユラは舞台の前に立った。

 右足を上げる。

 板へ乗せようとする。

 止まった。

 ほんの一寸のところで、足が空中に留まった。

 ユラの額に汗が滲む。

 セイが息を呑んだ。

「ユラ」

「わかってる」

 ユラの声は震えていた。

「上がればいいだけ。いつも通り。右足から、板の目を見て、袖を乱さないように、息を浅くしないで」

 言葉は出る。

 知識はある。

 体も覚えているはずだった。

 だが足は下りない。

 舞台が、彼女を受け入れないのではない。
 彼女自身が、舞台へ立つ役を見つけられなくなっている。

「普通に歩いてください」

 イロハが言った。

 ユラは戸惑いながら、舞台の横を通って裏へ回った。そこには板を磨くための低い踏み台がある。舞台としてではなく、作業場としてなら上がれる場所だ。

 ユラは、そこには簡単に足を置けた。

 何の抵抗もない。

 セイが呆然とした。

「歩けるのに」

「歩く役は失っていません」

 イロハは答えた。

「でも、舞台へ立つ役が抜けています」

 ユラは踏み台の上で立ち尽くした。

 目の前に舞台がある。

 ほんの少し先に、彼女が何度も立ったはずの板がある。

 けれど、そこが遠い。

 ただの木の板なのに。
 毎日踏んでいたはずなのに。
 今は、橋の向こう岸のように遠い。

 ユラは笑おうとした。

 失敗した。

「わたし、神楽師じゃなくなったの?」

 誰も答えられなかった。

 サナが口元を押さえる。

 セイが一歩近づきかけるが、何を言えばいいかわからないまま止まる。

 周囲にいた職人たちも、気まずそうに目を逸らした。だがその目の逸らし方が、イロハの胸を冷やした。

 哀れみではない。
 恐れでもない。

 まるで、関係のない者を見るような目だった。

「あの子は、神楽師だったか?」

 鬼面を調整していた武舞の男が、隣の職人に小声で尋ねた。

「いや、ただの舞見習いでは?」

「そもそも、あの演目に必要だったか?」

 その言葉は小さかった。

 けれど、ユラに届いた。

 少女の肩が震えた。

「必要、だった」

 声がほとんど息になった。

「わたし、必要だったよ。セイ、そうだよね。サナ先輩、わたし、呼び笑いの――」

 言葉の途中で詰まる。

 呼び笑いの、何だったのか。

 役名が出てこない。

 自分が任された一節の名前が、喉の奥で白く崩れていく。

 ユラは両手で口を押さえた。

「言えない」

 セイが彼女の名を呼んだ。

「ユラ」

「名前はあるのに」

 少女の目から、涙がこぼれた。

「名前はあるのに、何だったのかわからない」

 イロハの胸の奥が、鈍く痛んだ。

 それはユラだけの恐怖ではなかった。

 名前はある。
 呼ばれれば振り向ける。
 家も、年も、過去も語れる。

 それなのに、世界の中でどこに立てばよいのかわからない。

 それは、イロハが幼い頃に知っていた感覚に似ていた。

 戦災孤児として灰面長屋の隅にいた頃、誰も彼女を何者として扱わなかった。名前を尋ねられても、面がなければ帳には載らない。家の面がなければ、どこの子でもない。職面がなければ、何をしてよい子でもない。

 腹は減る。
 泣けば声は出る。
 手を伸ばせば物に触れられる。

 けれど制度の上では、いない。

 あの頃、世界はイロハから目を逸らしていた。

 ユラは今、その場所へ落ちかけている。

 生まれも名もある少女が、面を喰われただけで、存在の足場を失いかけている。

「戻ります」

 イロハは言った。

「工房へ」

 セイが頷き、ユラを支えようとする。

 だがユラは舞台を見つめたまま動かなかった。

「待って」

 彼女は涙を拭わず、舞台の前へもう一度立った。

「一回だけ」

「ユラ、無理だ」

「一回だけでいい。上がれたら、まだ大丈夫だって思えるから」

 セイは止められなかった。

 イロハも、止めなかった。

 ユラは右足を上げた。

 空気が張り詰める。

 足袋の先が舞台の縁に触れる。
 触れた瞬間、白い面を収めた小箱が、イロハの腕の中でかすかに鳴った。

 かた、と。

 ユラの体が強張る。

 次の瞬間、彼女は膝から崩れ落ちた。

「ユラ!」

 セイが抱き止める。

 ユラは意識を失ってはいなかった。ただ、舞台へ上がろうとした瞬間、自分の体がどこへ向かえばいいのかわからなくなったのだ。

 イロハは小箱を見下ろした。

 白布の隙間から、白い面の端が見えている。

 何の表情もないはずのそれが、わずかに笑ったように見えた。

 いや、面が笑ったのではない。

 月痕が疼いたのだ。

 ロウセツの声が、背後から低く届いた。

「見たか、イロハ」

 いつの間にか、師匠が工房の戸口に立っていた。

「これが白化だ。面が白くなるだけじゃねえ。役が抜ける。役が抜ければ、本人の足も、周りの目も、その役を支えられなくなる」

 イロハは答えなかった。

 ユラはセイに支えられながら、かすかに震えている。

 サナは泣きそうな顔で、けれどまだ完全には思い出せない目で、ユラを見ていた。

 武舞の男たちは、気まずげに散っていく。彼らは悪人ではない。ただ、役を失いかけた者をどう見ればよいのかわからなかった。

 見えなくなりつつあるものを、見続けるのは難しい。

 それがこの国の残酷さだった。

 役ある者には、美しい都。
 役を失った者には、誰も視線を置かない都。

 イロハは小箱を抱きしめた。

「月は、名前を喰うんじゃない」

 ぽつりと呟いた。

 セイが顔を上げる。

 ユラも、涙に濡れた目でイロハを見た。

 イロハは白い面を見ずに言った。

「その人が、この世界で何として立っているのかを喰うんです」

 だから恐ろしいのだ。

 名を失えば、呼ばれなくなる。
 だが役を失えば、見られなくなる。

 人は、誰かに見られ、認められ、役を渡されて初めて、社会の中に立てる。

 月が喰うのは、その足場だった。

 ユラは自分の手を見つめた。

「じゃあ、わたしは」

 声が細く震える。

「このまま、誰でもなくなるの?」

 イロハは、今度はすぐに答えた。

「まだです」

 その言葉に、ユラの目が揺れた。

「まだ、面の内側に残っています。あなたが舞っていた一節も、神を迎える沈黙も、全部消えたわけじゃない」

「本当に?」

「本当です」

 イロハは小箱を抱えたまま、工房へ向かって歩き出した。

「だから、戻します」

 ロウセツが片眉を上げる。

「戻す、ねえ」

「完全には無理です」

 イロハは振り返らなかった。

「でも、仮に置くことはできます」

 風が吹いた。

 面師小路の軒に吊るされた面鈴が、細く鳴った。

 その音に、ユラが少しだけ顔を上げる。

 たぶん彼女は、鈴の音を覚えている。
 神楽師としてではなく、ひとりの少女として。

 イロハはそれで十分だと思った。

 全部を一度に戻すことはできない。
 けれど、残っているものがあるなら、そこに手を伸ばせる。

 工房の戸口に戻る直前、イロハは帝都の空を見上げた。

 朝の青空には、もう月は見えない。

 けれど、見えないだけだ。

 昨夜、面に歯を立てたものは、まだどこかに残っている。

 白い光の奥で、次の役を探している。

 イロハは唇を結んだ。

 そして、白化した神楽面を抱えたまま、薄暗い工房の中へ戻った。