EP 05

第1話 白い面は月を覚えている

第四節 ― 仮置き

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 工房へ戻ると、朝の光は少し傾いていた。

 つい先ほどまで満ちていた木粉の匂いが、妙に遠い。壁に吊るされた面たちは、何も言わずにこちらを見ている。笑う面も、怒る面も、眠る面も、今は息を潜めていた。

 作業台の上に、白い神楽面が置かれる。

 ユラはその前に座った。

 セイは彼女の少し後ろに立ち、何度も何度も何かを言いかけては、言葉を飲み込んでいる。慰めたいのだろう。けれど、慰めの言葉が役を戻すわけではないと、彼自身もわかっている。

 ロウセツは工房の奥で、古い灯明皿に小さな火を入れた。

 明るい朝に灯すには、頼りない火だった。けれど面の修復において、火はただ照らすためのものではない。面の内側に残った役の影を、浮かび上がらせるためのものだ。

「イロハ」

 ロウセツが低く呼んだ。

「やるなら、面だけ見るな。舞手の息も見ろ」

「わかっています」

「わかってねえやつほど、そう言う」

「師匠は黙っていてください」

「黙る役は持ってねえな」

「今だけ作ってください」

 ロウセツは、ふっと笑った。

 その笑いは軽かったが、目はやはり笑っていなかった。

 イロハは道具袋から、小筆を一本取り出した。普段使う修復用の筆ではない。柄は黒檀、穂先は細く、金ではなくくすんだ銀の留め具がついている。面に色を入れるためではなく、面の内側に残った役の線をなぞるための筆だった。

 次に、小さな白木の札を取り出す。

 何も書かれていない札。

 まだ名も役も持たない、空白の札だ。

 セイが不安そうに尋ねる。

「それは?」

「仮札です」

「仮札……?」

「失われたところに、一時的な足場を置くためのものです。正式な面籍にはなりません。役を戻すものでもありません」

 イロハは白い面の内側に視線を落とした。

「ただ、残っているものを一度だけ通す」

 ユラは膝の上で手を握りしめた。

「一度だけ」

「はい」

「それが終わったら、また忘れるんですか」

 イロハは筆を持つ手を止めた。

 答えにくい問いだった。

 完全に戻る、と言えればよかった。大丈夫だと、何も怖くないと、言えればよかった。

 けれど、面は嘘を嫌う。

 特に壊れかけた面は、慰めの嘘をすぐに拒む。

「忘れるというより、遠くなります」

 イロハは静かに言った。

「でも、一度通せば、道は残ります。今は何も見えなくても、足跡がつく」

 ユラは涙の跡が残る顔で、じっとイロハを見た。

「わたし、足跡を覚えていられるかな」

「覚えようとしなくていいです」

「え?」

「舞は、思い出すものではなく、通るものだから」

 イロハは面へ向き直った。

「たぶん、あなたはそれを知っていたはずです」

 ユラの目が揺れた。

 その言葉の意味を、今の彼女は完全には受け取れない。けれど、体のどこかが覚えていたのだろう。結んでいた指が、少しだけほどけた。

 イロハは仮札を白い面の内側に置いた。

 月痕の上ではない。
 噛み跡のすぐ横。

 傷口を塞ぐのではなく、傷口のそばに立つ。失われたものを無理に戻すのではなく、残っているものが通るだけの橋を置く。

 イロハは筆の先を水に浸した。

 墨ではない。朱でもない。

 ただの水だ。

 役を仮に置く時、色は使わない。色を入れれば、その役は形を持とうとしてしまう。今必要なのは、形ではなく、通り道だった。

 筆先が、面の内側に触れる。

 その瞬間、イロハの視界が白くちらついた。

 月だ。

 昨夜の満月の残響が、面の奥にまだ残っている。白く、薄く、けれど鋭い。眼を閉じても見える光だった。

 イロハは歯を食いしばった。

 月痕の噛み跡が、筆先を拒むように冷たく疼く。

 それでも彼女は線を引いた。

 一線。

 袖が上がる軌跡。

 二線。

 足が床を待つ沈黙。

 三線。

 鈴が鳴る前の、世界が息を止める瞬間。

 面の内側に、水の線が浮かんでは消えていく。消えたはずの線は、木に染み込んだのではない。もっと奥、面が記憶している役の層へ沈んでいく。

 ユラが小さく息を吸った。

「……あ」

 その声は、驚きではなかった。

 遠くから呼ばれた者が、ふと振り返るような声だった。

 イロハは面を持ち上げた。

「着けられますか」

 ユラは怖がるように首を振りかけた。

 けれど、その途中で止まった。

 白い面を見つめる。

 何の表情もない面。自分から舞を奪った面。自分が何者なのかを曖昧にした、恐ろしい白。

 それでも、その奥に何かが戻りかけている。

 ユラは両手を差し出した。

「着けます」

 セイが思わず前に出た。

「ユラ、無理は」

「大丈夫」

 ユラは震えながらも、面から目を逸らさなかった。

「怖いけど、わたしの面だから」

 イロハは、ゆっくりと面を渡した。

 ユラの指が白い面に触れる。触れた瞬間、彼女の肩が跳ねた。冷たかったのだろう。だが手は離さない。

 面紐を結ぶ時、セイが手伝おうとした。

 ユラは首を振った。

「自分で」

 その声には、細いけれど確かな意志があった。

 彼女は面を顔へ近づける。

 白い面が、少女の顔を覆った。

 その瞬間、工房の中の火が小さく揺れた。

 何も起こらなかった。

 少なくとも、最初はそう見えた。

 だが、次の息で変わった。

 ユラの背筋が、すっと伸びた。

 崩れていた肩の線が整う。指先が柔らかくほどける。膝の力が抜ける。彼女の足が、自分の重さを思い出していく。

 セイが息を呑んだ。

「ユラ」

 ユラは答えない。

 答える代わりに、一歩下がった。

 工房の板床を、足袋の裏が静かに撫でる。狭い。舞台ではない。作業台があり、面棚があり、吊るされた古面が頭上に並ぶ。神楽を舞うには、あまりに不十分な場所。

 けれど、ユラはそこを舞台にした。

 右手が胸元へ添えられる。

 左の袖が、ゆっくりと持ち上がる。

 先ほど外で止まった動きだった。

 今度は止まらない。

 袖が上がるにつれて、白い面の奥に、淡い色が戻ったように見えた。頬に紅が差したのではない。目元に墨が戻ったのでもない。面の奥で、消えかけた役の線が、ほんの一瞬だけ呼吸を取り戻したのだ。

 イロハは見た。

 袖の軌跡が、空気に残る。

 見えないはずの鈴の紐が、ユラの指にかかる。

 彼女の足が床を打った。

 とん。

 軽い音だった。

 けれど、その一音で工房の空気が変わった。

 木粉の匂いも、漆の匂いも、古い面の沈黙も、すべてが一瞬だけ舞台の気配へ変わる。

 ユラは動いた。

 右足を引き、袖を返し、首をわずかに傾ける。面の白さはそのままなのに、その白さの内側に何かが宿っていく。笑っていないはずの口元が、笑いを待っているように見える。閉じていない目が、まだ現れぬ神を迎えるように伏せられる。

 そして、沈黙が来た。

 深い沈黙だった。

 音が消えたのではない。

 工房の外では役面市の声がしているはずだった。車輪の音、職人の会話、面鈴の揺れ。すべては存在している。

 けれど、その一瞬、世界はユラの周りだけを空けた。

 神が入るための余白。

 誰も動けなかった。

 セイは息を止めていた。ロウセツでさえ、煙管に手を伸ばしかけたまま止まっている。壁に掛けられた面たちもまた、ユラの舞を見ているようだった。

 ユラの指が、何もない空中を弾いた。

 鈴が鳴った。

 そこには鈴などなかった。

 けれど、確かに鳴った。

 ちりん、と。

 音は細く、透明で、朝の光の中に溶けていった。

 ユラの白い面が、ほんの一瞬だけ笑った。

 それは月の笑みではない。
 喰うものの笑みではない。

 神を迎える前に、人が世界へ仕掛ける、最初の笑みだった。

 ウズメの気配が、工房の梁のあたりを掠めたように思えた。

 笑うことは、隠されたものをこじ開ける。
 舞うことは、まだない役を一瞬だけこの世へ呼ぶ。
 ならば、失われた役もまた、舞の中で一度だけ帰ってくることがある。

 ユラは最後の一歩を踏んだ。

 袖がゆっくりと落ちる。

 沈黙が解けた。

 世界の音が戻る。

 役面市の声。外を通る荷車の軋み。遠くで鳴る朝の鐘。灯明皿の火が、ぱちりと小さく鳴った。

 ユラは立っていた。

 面をつけたまま、両手を下ろし、肩で息をしている。

 セイの目に涙が浮かんでいた。

「ユラ……今の」

 ユラはゆっくりと面に手をかけた。

 外す。

 その下の顔は、泣いていた。

「思い出した」

 声が震えている。

「少しだけ。でも、思い出した。わたし、ここで待つんだ。笑う前に、神様が隠れている場所を、みんなで見つめるんだ」

 彼女は胸を押さえた。

「その沈黙が、好きだった」

 イロハは頷いた。

 だが同時に、白い面の奥で、さきほど浮かんだ線がまた薄れていくのも見えていた。

 仮置きは、仮置きでしかない。

 水で引いた役の線は、長くは残らない。

 ユラの手の中で、白い面はふたたび表情を失い始めていた。ほんの一瞬だけ宿った笑みが、朝霧のように薄れていく。袖の軌跡も、鈴の音も、神を迎える沈黙も、また面の奥へ沈んでいく。

 ユラもそれに気づいたのだろう。

 彼女は面を抱きしめた。

「消えちゃう」

「完全には消えません」

 イロハは言った。

「今、通った道は残ります。細くても、残る」

「じゃあ、また舞える?」

「すぐには無理です。でも、辿れるようになります」

 ユラは涙を拭き、何度も頷いた。

「よかった」

 その言葉は、とても小さかった。

「わたし、何を失くしたのかもわからないままじゃなかった」

 イロハは、その言葉を胸の奥で受け止めた。

 何を失くしたのかわからないこと。

 それが、どれほど人を不安定にするか、彼女は知っている。

 ロウセツが静かに近づき、白い面を覗いた。

「仮置きは成功だな」

「一節だけです」

「一節でも上等だ」

「でも、月痕は残っています」

「ああ」

 ロウセツの声は重かった。

「一度噛まれた面は、また狙われる」

 ユラの肩が強張る。

 イロハは師匠を睨んだ。

「言い方」

「優しく言えば月が遠慮するのか」

「そういう問題ではありません」

「そういう問題だ。怖いものは怖いと知っておいたほうがいい」

 ロウセツは白い面から目を離さずに言った。

「嬢ちゃん、その面を今夜、月に当てるな。舞殿にも戻すな。面箱に入れ、黒布をかけろ。月の光が差す部屋にも置くな」

 ユラは真剣に頷いた。

「はい」

 セイも頭を下げる。

「ありがとうございます。ユラを……舞を、戻してくれて」

「戻してはいません」

 イロハは静かに訂正した。

「まだ、繋いだだけです」

 そう言った瞬間、視界が白く揺れた。

 イロハは作業台に手をついた。

 目の前に、白い月がちらつく。

 朝の工房にいるはずなのに、まぶたの裏に満月が浮かんでいた。丸く、白く、近い。昨日の夜空にあったものではない。面の内側から見た月だ。喰うために近づいてきた月。

 白い歯のような光が、視界の端を噛む。

「イロハ?」

 ユラの声が遠く聞こえた。

 イロハは目を閉じ、息を整える。

 視界の白は、すぐには消えなかった。

 仮置きは、失われた役の道を一時的に開く技だ。

 だが道を開けば、こちらもまた、その喰われた場所を覗くことになる。

 月が見たものを、こちらも見てしまう。

 月に見返される。

「大丈夫です」

 イロハは目を開けた。

 工房は元の工房だった。

 木粉の匂い。漆の匂い。灯明皿の小さな火。白い面を抱くユラ。心配そうに覗き込むセイ。腕を組んだロウセツ。

 けれど、視界の奥にはまだ白い月の残像がある。

 薄く、ちらちらと。

 まるでまばたきのたびに、誰かが空からこちらを覗いているようだった。

 イロハはその残像を無理に追い払わなかった。

 追い払えば、恐怖になる。

 見据えれば、痕跡になる。

 彼女は白い面を見た。

 面は再び無表情に戻りかけている。けれど、完全な空白ではない。内側に、細い水の線が残っていた。

 袖の軌跡。

 床を打つ足。

 鳴らなかったはずの鈴。

 それは、失われた役がまだ世界から完全には消えていない証だった。

 ユラは面を胸に抱き、深く頭を下げた。

「ありがとうございます、イロハさん」

 イロハは少し迷い、それから言った。

「次は、ちゃんと直します」

 ユラは涙の残る顔で笑った。

「はい」

 その笑みを見て、イロハはようやく少しだけ息を吐いた。

 だが、安堵は長く続かなかった。

 工房の外で、面鈴が一斉に鳴った。

 風のせいではない。

 誰かが、表の通りからこちらへ向かって来ている。

 整った足音。
 迷いのない歩幅。
 腰に下げた金具が、かすかに鳴る音。

 ロウセツが眉を上げた。

「客だな」

「この流れで、いい客ですか」

「いい客がうちに来ると思うか?」

 イロハは返事をしなかった。

 白い月の残像が、視界の端でまたちらついた。

 次に戸を叩いた音は、縋るものではなかった。

 命じる者の音だった。