EP 06

第1話 白い面は月を覚えている

第五節 ― 師匠の警告

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 戸を叩く音は、もう一度響いた。

 こん、という乾いた音だった。

 強くはない。
 けれど、待つつもりのない音だった。

 面師小路の客は、たいてい遠慮がある。

 正規の店に断られ、最後に路地裏の工房へ来る者は、戸の叩き方からして少し弱い。助けを乞う者の手は、木戸に触れる前から迷っている。あるいは、恥や不安を怒りに変えて、乱暴に叩く者もいる。

 だが、今の音は違った。

 ここがどんな工房で、誰がいるかを承知した上で、開けろと命じている音だった。

 ロウセツは戸口を見ずに、煙管を拾った。

「おい、イロハ」

「開けます」

「まだ開けるな」

「でも」

「三度目までは客だ。四度目から役所だ」

 ふざけた言い方だった。

 けれど、その横顔は少しも笑っていなかった。

 イロハは戸へ向かいかけた足を止めた。視界の端では、白い月の残像がまだ薄く揺れている。作業台の上には、仮置きを終えたばかりの白化面。ユラはそれを胸に抱き、セイは庇うように立っている。

 戸の向こうにいる者が何者であれ、今この面を見せるのは危うい。

 三度目の音がした。

 こん。

 工房の中で、吊るされた面鈴がかすかに震えた。

 ロウセツはゆっくり立ち上がり、戸口へ向かわず、逆に作業台へ近づいた。

「その面、寄越せ」

 ユラが一瞬、腕に力を込めた。

「嫌です」

 ロウセツは片眉を上げる。

「おう。いい返事だ」

「これは、わたしの面です」

「ああ。だからだ」

 その声は、先ほどまでの軽さを少し失っていた。

「自分の面を守りたいなら、今は面師に預けろ。外の連中に見られたら、たぶん戻らねえ」

 ユラの顔が強張る。

「戻らない……?」

「役所に持っていかれる。検分だの封印だの言われてな。そうなれば、嬢ちゃんの舞は帳の上でいったん死ぬ」

 セイが息を呑んだ。

「そんな。白化しただけで」

「白化した“だけ”だと、役所が思ってくれりゃいいがな」

 ロウセツは白化面へ視線を落とした。

「こいつは壊れたんじゃない。喰われたんだ」

 工房の空気が、重く沈んだ。

 ユラは面を抱えたまま、かすかに震えている。

 イロハはロウセツを見た。

「月にか?」

 自分の声が、思ったより低く響いた。

 ロウセツは煙管をくわえ直し、火のついていない先を指で弾いた。

「ああ。名ではなく、役をな」

 その言葉は、工房の奥まで届いた。

 白い面にかけられた布が、ゆっくりと息をするように揺れた気がした。

 イロハは一歩近づいた。

「師匠。知っていたんですか」

「何を」

「白化のことです」

「面が白くなることくらい、古い面師なら知ってる」

「誤魔化さないでください」

 イロハの声に、セイとユラが顔を上げた。

 ロウセツはいつものように肩をすくめた。

「おっかねえ弟子だな。客の前で師匠を詰めるなよ。師匠の面子ってもんがある」

「師匠に残っている面子なんて、資格剥奪の時に役所へ置いてきたでしょう」

「痛いとこ刺すねえ」

「答えてください」

 ロウセツは笑った。

 口元だけで。

 目は、白化面の奥を見ていた。

「似た記録なら、宮廷にあった」

 その一言で、イロハの背筋が冷えた。

 宮廷。

 その言葉は、ロウセツが普段もっとも軽く扱うものだった。酒の肴にし、昔話の種にし、くだらない儀礼や高慢な役人を笑う時にだけ出す。

 けれど今の声は違った。

 捨てたはずの場所が、まだ彼の中で血を流しているような声だった。

「宮廷にも、面が白くなる事件があったんですか」

「事件ってほどじゃない」

「だったら何ですか」

「記録に残らなかった」

 イロハは黙った。

 記録に残らなかった。

 それは、何も起きなかったという意味ではない。

 この国では、記録に残らないものほど危ない。
 仮面籍庁の帳に載らない人間。
 宮廷の演目から消された役。
 家の奥にしまわれ、誰にも見せられない面。

 記されなかったものは、なかったことにされる。

 そして、なかったことにされたものほど、古い木目の奥で腐らず残る。

「いつの話ですか」

「忘れた」

「師匠」

「忘れたことにしてある」

 ロウセツは、軽く言った。

 けれどその軽さが、かえって重かった。

 戸の外で、四度目の音がした。

 こん。

 ロウセツは目だけを戸へ向けた。

「役所だな」

 セイが青ざめた。

「なぜ、こんなに早く」

「白化面を担いで朝の面師小路を走れば、そりゃ目立つ。しかもウズメの舞殿の面だ。面籍院の耳に入らねえほうがおかしい」

 イロハは白化面を見た。

「師匠、宮廷の記録には何があったんですか」

「今それ聞く?」

「今聞かないと、師匠はまた逃げます」

「逃げる役なら得意だ」

「真面目に」

 ロウセツは黙った。

 灯明皿の火が、小さく揺れる。

 沈黙の中で、外から人の気配がした。ひとりではない。足音は三つ、あるいは四つ。整った履物の音。金具の鳴る音。職人でも舞手でもない。役を執行する者の足音だった。

 ロウセツは白化面へ布をかけ直した。

「宮廷で白くなったのは、面じゃねえ」

 イロハは眉をひそめた。

「面じゃない?」

「面箱だ」

 ユラが小さく息を呑んだ。

 セイが聞き返す。

「面箱が白く?」

「中身のない面箱だ」

 ロウセツの声は低かった。

「あるべき面が入っていない。だが、箱だけはあった。黒漆の高位面箱だ。皇族の面を納めるためのな」

 イロハの胸の奥で、何かが軋んだ。

 皇族の面。

 その言葉は、路地裏の面師が軽く触れてよいものではない。

 天帝宮に仕える者、皇族、国家神楽に立つ者たちの面は、ただの役面ではない。家、血、国家、神前での役が重なった、もっとも重い面だ。そこに異常があったなら、普通は都中の御面師が集められる。

 けれど、記録に残っていない。

「それは、誰の面箱ですか」

 イロハが尋ねた。

 ロウセツは答えなかった。

 答えないことで、答えに近いものを示した。

 皇女。

 その語が、イロハの喉元まで上がってきた。

 けれど口にする前に、ロウセツが煙管の先で彼女を制した。

「言うな」

「でも」

「言えば、戸の外に聞こえる」

 イロハは口を閉ざした。

 戸の向こうで、誰かが咳払いをした。こちらの沈黙を聞いている。明らかにそういう間だった。

 ロウセツは、何でもないことのように続けた。

「その面箱には、月痕があった」

 イロハの視界の端で、白い月がまたちらついた。

「箱に?」

「ああ。面がないのに、箱の内側だけが噛まれていた。まるで、まだ作られていない面を、先に喰ったみたいにな」

 ユラが不安そうに白化面を抱きしめる。

 セイは何も言えない。

 イロハだけが、息を止めていた。

 まだ作られていない面。
 あるべきなのに存在しない面。
 役だけが先に喰われた面。

「師匠は、それを見たんですか」

「見てねえ」

「嘘です」

「じゃあ、見た」

「どっちですか」

「記録上は見てねえ」

 ロウセツは皮肉っぽく笑った。

「便利な言葉だろう。宮廷じゃ、そういうことがよくある。見た者がいても、見ていないことになる。作った者がいても、作らなかったことになる。壊した者がいても、最初からなかったことになる」

 イロハの手が、無意識に腰元へ触れた。

 そこには、道具袋の奥に隠した小さな鍵がある。

 その鍵で開ける黒い小箱。

 中にしまわれている、白布に包まれた面。

 《ナギノオモテ》。

 師匠が自分に与えた面。

 生面を失い、仮面籍もなく、どこにも属さなかった自分に、役を与えた面。

 けれど今、その面の由来を考えると、胸の奥がざわついた。

「私の面も、関係があるんですか」

 ロウセツの表情が、ほんの一瞬だけ消えた。

 それは、白化面のような空白ではなかった。

 隠していた痛みが、隠し布を裂いて覗いたような無表情だった。

「何の話だ」

「また誤魔化す」

「誤魔化される弟子に育てた覚えはねえな」

「なら答えてください」

 イロハは一歩詰めた。

「《ナギノオモテ》は何なんですか。私の生面だと、師匠は言いました。でも、普通の生面じゃない。役が入っている。家の面なのに、職面みたいに動く。職面なのに、神前の祈面みたいに反応する」

 言葉にすればするほど、ずっと見ないふりをしてきた違和感が形を持つ。

「今日の白化面を見た時、似ていると思いました。白さじゃない。空白の感じが」

 ロウセツは何も言わない。

「私の面は、何かを喰われた後の面なんですか。それとも、喰われる前に作られた面なんですか」

「イロハ」

 その声は、いつもの師匠の声ではなかった。

 ロウセツ=カガミという男の奥に、かつて宮廷御面師だった者の声が残っていた。

 静かで、硬く、こちらを遠ざける声。

「その問いは、まだ早い」

「早いって、いつならいいんですか」

「お前が、それを聞いても自分の面を外さずにいられる時だ」

 イロハは言葉を失った。

 外す。

 その一語が、胸の奥に冷たく落ちる。

 彼女は普段、《ナギノオモテ》を顔につけて歩いているわけではない。けれど、その面は彼女の存在を支えている。仮面籍の上で、イロハ=ナギがこの世に立つための根になっている。

 それを外すとは、ただ面を取ることではない。

 自分が何者として存在しているのか、その足場を外すことだ。

「私の面は、危ないものなんですか」

 ロウセツは、いつものように笑おうとした。

 失敗した。

「面なんざ、どれも危ねえよ」

「師匠」

「顔を与える道具だ。危なくないわけがねえ」

「そういう話では」

「そういう話だ」

 ロウセツの声が少しだけ強くなった。

「面は、人を救う。役を与え、居場所を与え、神前へ立たせる。だが、同じだけ人を縛る。役を間違えれば、そいつは一生、違う顔で生きることになる」

 イロハは黙った。

「俺は昔、それを少し甘く見た」

 戸の外で、金具が鳴る。

 待っている者が、苛立ち始めている。

 けれどロウセツは、もうそちらを見なかった。

「まだない役を、この世に呼べると思った。役を持たないやつに、役を与えられると思った。面師ってのは、そういうことができる職だと、うぬぼれた」

 イロハは息を詰めた。

 それは、初めて聞く師匠自身の罪の輪郭だった。

「それで、資格を剥奪されたんですか」

「表向きはな」

「表向き?」

「役所の帳に書ける罪と、書けねえ罪がある」

 ロウセツは指先で作業台を叩いた。

 こん、と小さな音がする。

 戸を叩く音と似ていた。

「俺が帳に書かれた罪は、手続きなしに面を作ったことだ。仮面籍庁を通さず、存在しないはずの子に面を与えたこと。まあ、そいつだけでも首が飛ぶには十分だな」

 イロハの手が震えた。

 存在しないはずの子。

 それは自分のことだ。

「じゃあ、書けない罪は?」

 ロウセツは、少しだけ目を伏せた。

「まだ言わねえ」

「師匠」

「今言えば、お前は白化面より先に自分の面を開ける」

 イロハは反論できなかった。

 その通りだったからだ。

 今すぐ黒い小箱を開け、《ナギノオモテ》の内側を確かめたい。月痕がないか。白化面と同じ噛み跡がないか。あるいは、まだない役の跡が刻まれていないか。

 確かめたい。

 だが、怖い。

 自分を救った面が、誰かの役から作られたものだったら。

 自分に与えられた役が、本来は別の誰かのものだったら。

 それが、皇女の面に関わるものだったら。

「……皇女の面箱と、私の面は関係があるんですね」

 ロウセツは答えなかった。

 その沈黙は、否定ではなかった。

 ユラとセイは、何か重大なことが話されているとわかりながらも、口を挟めずにいる。白化面を抱くユラの手に、また力が入っていた。

 ロウセツは、ようやく煙管を懐にしまった。

「いいか、イロハ」

 彼は低く言った。

「今日の白化面は、小さい裂け目だ。だが裂け目ってのは、布と同じでな。一度ほつれると、引っ張ったやつの手元まで裂けてくる」

「引っ張ったやつ?」

「月に決まってるだろ」

 ロウセツは、白い面を見た。

「名を喰う月。昔はそう呼んだ」

 その言葉を聞いた瞬間、イロハの視界に浮かぶ白い残像が、鋭く瞬いた。

 名を喰う月。

 それは初めて聞く言葉のはずだった。

 けれど、どこかで知っていたような気がした。

 《ナギノオモテ》を初めて顔に近づけた日。
 黒い小箱の内側に見えた、白い光。
 師匠があの日、妙に早く箱の蓋を閉めたこと。

 忘れていた記憶ではない。

 まだ意味を与えられていなかった記憶だった。

「月は、名を喰うんじゃなかったんですか」

 イロハが言うと、ロウセツは鼻で笑った。

「名なんて、いちばん外側だ」

「外側?」

「この国じゃ、名より役が重い。だから、月はまず役を喰う。役を喰えば、周りの記憶が揺らぐ。周りが揺らげば、面籍が揺らぐ。面籍が揺らげば、最後に名が浮く」

 彼は指を一本ずつ折った。

「役。面。帳。名。その順だ」

 イロハは、ユラを見た。

 彼女の名はまだ残っている。家も、顔も、周囲の一部の記憶も残っている。

 けれど舞台へ立つ役が抜けたことで、彼女の周りの人々は少しずつ迷い始めていた。

 あの子は神楽師だったか。
 ただの舞見習いでは。
 そもそも、その演目に必要だったか。

 そうして世界は、彼女の足元を削っていく。

「どうして、そんなものが今になって」

「さあな」

 ロウセツは軽く言った。

 けれどその目は、戸口のほうを向いていた。

「外に聞いてみるか?」

 五度目の音がした。

 今度は、木戸ではなく、金具で叩く音だった。

 こん、ではない。

 かん。

 役所の印を持つ者が、面師の戸を叩く時の音。

「開門を願う」

 戸の外から、整った声がした。

「仮面籍庁、検面方である。ロウセツ=カガミ、および中級面師イロハ=ナギ。白化面に関する届け出なき修復の疑いにより、面の検分を行う」

 ユラが震えた。

 セイが彼女を庇うように前に出る。

 イロハは歯を食いしばった。

「早すぎる」

「早いのが役所の唯一の取り柄だ」

 ロウセツはまた軽口を叩いた。

 だが目は笑っていない。

 彼は白化面を見て、ユラを見て、それからイロハを見た。

「よく聞け、弟子」

「はい」

「役所の前で、月の話はするな。白化と言うな。仮置きも言うな。ましてや皇女の面箱なんぞ、口が裂けても言うな」

「でも、ユラさんの面は」

「守りたいなら、言葉を選べ」

 ロウセツは言った。

「面師はな、面だけ直すんじゃねえ。言葉で役を壊さないようにするのも仕事だ」

 イロハは白い月の残像をまばたきで押し込めた。

 怖さは残っている。疑問も残っている。師匠への怒りも、胸の奥で熱を持っている。

 けれど今は、目の前の面を守る時だった。

 ユラの舞を、完全に消させないために。

 イロハは小さく頷いた。

「わかりました」

「いい返事だ」

 ロウセツは笑った。

 ようやく、いつもの軽さが少し戻った。

「じゃあ、役所相手の舞を始めるか」

 彼は戸へ向かった。

 その背中は、くたびれた路地裏の面師のものだった。

 けれど一瞬だけ、イロハには別の姿に見えた。

 宮廷の奥で、まだない面を前に立つ、若き日の御面師。

 禁じられた役に手を伸ばし、その罪を知りながら、それでも彫刻刀を置けなかった男。

 ロウセツは戸の前で立ち止まり、振り返らずに言った。

「イロハ」

「はい」

「自分の面箱は、今日は開けるな」

 イロハの手が、腰の鍵に触れた。

「なぜですか」

「月が、まだ見てる」

 その言葉が落ちた瞬間、視界の端の白い残像が、またちらついた。

 ロウセツは何事もなかったように戸を開けた。

 朝の光とともに、黒い官面をつけた検面官たちが、工房の中を覗き込んだ。