戸が開くと、朝の光が工房の土間まで差し込んだ。
その光の中に、黒い面が三つ立っていた。
仮面籍庁、検面方。
帝都カミザにおいて、面の登録、破損、継承、剥奪を検める役人たちである。彼らの面は、表情を持たない。怒ってもいないし、笑ってもいない。ただ、目の部分だけが細く空いており、そこから人ではなく帳面が覗いているように見える。
先頭に立つ男は、黒漆の検面をつけ、額に銀の細線を一本入れていた。中位以上の検面官だ。後ろには記録役がひとり、封箱を持った若い役人がひとり。
彼らは工房の中へ入る前に、まず軒先の割れた小面を見た。
それから、ロウセツを見た。
「ロウセツ=カガミ」
検面官の声は、よく磨かれた板のように平らだった。
「旧宮廷御面師。現、面師資格剥奪者。無認可修復行為の常習として、仮面籍庁に記録あり」
ロウセツは軽く頭を掻いた。
「久しぶりだな。俺の経歴紹介から始まる客は」
「客ではない」
「じゃあ、押し売りか」
「検分である」
検面官は一歩、工房へ入った。
その瞬間、ユラが白化面を抱く手に力を込めた。セイが彼女の前へ立つ。イロハは作業台の横に移動し、面と役人のあいだへ半身を入れた。
検面官の目が、イロハの腰の面師札に向いた。
「イロハ=ナギ」
「はい」
「中級面師。登録あり。ただし所属工房は正規認可を受けていない。師事先、ロウセツ=カガミ。資格剥奪者との継続的作業関係あり」
言葉のひとつひとつが、針のようだった。
イロハは唇を結んだ。
中級面師の札は、確かに彼女の努力で得たものだ。試験を通り、型を覚え、祈面と職面の修復許可も一定範囲で認められている。
けれど、この工房は正規の工房ではない。
師匠は資格を剥奪されている。
その事実を突かれると、イロハの足元は少しだけ揺らぐ。
どれだけ腕があっても、制度の帳の上では、彼女は常に灰色だった。
「届け出なき祈面修復の疑いで、検分を行う」
検面官は言った。
「対象面を提示せよ」
ユラが一歩下がった。
「これは、わたしの面です」
検面官の黒い目穴が、少女へ向く。
「氏名」
「ユラ=シラビョウ。ウズメの舞殿、見習い神楽師です」
記録役が巻紙を開いた。
「シラビョウ家、仮面籍あり。生面登録あり。職能補助面登録なし。ウズメ舞殿所属、見習い舞手。奉納演目補助登録……」
そこで、記録役の筆が止まった。
彼は巻紙を覗き込み、眉をひそめる。
「呼び笑い一節担当、記載が薄い」
「薄い?」
セイが思わず声を上げた。
「昨日までは、そこにきちんと書かれていたはずです。ユラは今年の月迎えで――」
「発言を求めていない」
検面官はセイを遮った。
「帳の記載が薄い場合、役の確定性は低い。祈面の異常によって登録役に混濁が生じた可能性がある」
「混濁じゃありません」
イロハは言った。
検面官が彼女を見る。
「何か」
「ユラさんは舞えます。さっきも一節を通しました。役は完全には消えていません」
「仮置きを行ったのか」
その一言で、工房の空気が凍った。
イロハは息を詰めた。
ロウセツが、わずかに目を細める。
検面官は淡々と続けた。
「届け出なき仮置きは、祈面修復規定に抵触する。まして白化の疑いがある面に対し、無認可工房内で仮の役を置く行為は、面籍汚染を招く危険がある」
「汚染……?」
ユラの声が震えた。
自分の面を抱いている少女の前で、その言葉を使う冷たさに、イロハの腹の奥が熱くなる。
「汚染ではありません」
「では何と呼ぶ」
「まだ残っている役を、通しただけです」
「登録外の役を通した時点で、仮面籍庁の検分対象となる」
「登録が薄れているのは、月痕のせいです」
言った瞬間、ロウセツがわずかに顎を引いた。
しまった、とイロハは思った。
だがもう遅い。
検面官の黒い面が、ほんの少し傾いた。
「月痕」
記録役の筆が止まる。
封箱を持つ若い役人が、無意識に箱の蓋へ手をかけた。
「今、月痕と言ったか」
ロウセツが割り込んだ。
「うちの弟子は比喩が好きでな。若い面師はすぐ詩人ぶる」
「ロウセツ=カガミ。発言を許可していない」
「許可されなきゃ喋れねえ面なら、俺はとっくに死んでる」
「資格剥奪者の軽口は記録しない」
「ありがたいねえ。記録されたら照れるところだ」
検面官はロウセツを無視し、ユラへ向き直った。
「対象面を提出せよ」
ユラは首を振った。
「嫌です」
「提出せよ」
「これは、わたしの面です」
「現在、その面は祈面としての機能に異常を起こしている。持ち主の手元に置けば、役の混濁が進行する恐れがある。仮面籍庁で封印し、登録状態を確認する」
「封印したら、舞はどうなるんですか」
ユラの声はかすれていた。
「白化が確認された場合、該当祈面は使用停止。持ち主の舞役は一時保留となる」
「保留……」
「演目上、代替舞手の登録を推奨する」
ユラの顔が白くなった。
セイが前に出る。
「待ってください。ユラは舞えます。さっき確かに――」
「仮置きによる一時的反応は、正式な舞役復帰の証明にならない」
「でも、本人はここにいるんです。役を失いかけて苦しんでいるんです。まず助けるべきでしょう」
「我々の職務は救済ではない」
検面官は言った。
「登録の保全である」
その言葉が、工房の板床に冷たく落ちた。
救済ではない。
登録の保全。
イロハは拳を握った。
わかっていた。
仮面籍庁は、面を人のために見るのではない。帳のために見る。役が正しく登録されているか、面が適切に管理されているか、制度に異常がないか。それを確かめるのが彼らの役だ。
けれど目の前に、泣きそうな神楽師がいる。
舞台に立とうとして膝から崩れた少女がいる。
自分の面を奪われれば、何を失ったのか確かめる道さえ閉ざされる少女がいる。
それを帳の都合で封じるのか。
「登録が何ですか」
イロハの声が低く出た。
ロウセツが視線だけで制したが、止まらなかった。
「帳に線が薄くなったからって、その人の役がなかったことになるんですか。舞えなくなった本人を前に、代替舞手の登録を推奨するって、それが検面方の仕事ですか」
検面官は、わずかに沈黙した。
怒ったのではない。
イロハの感情を、記録すべき異常反応として見ている沈黙だった。
「中級面師イロハ=ナギ」
彼は平板な声で言った。
「面師の職分を誤解している」
「誤解?」
「役は個人の感情によって保持されるものではない。家、職、神前、そして仮面籍によって承認される。持ち主が望むか否かは、登録上の役の維持とは別問題である」
「別じゃありません」
「別である」
検面官は断じた。
「この国において、役とは制度である。制度から外れた役は、無役に等しい」
イロハの喉が詰まった。
無役。
その言葉は、彼女の古い傷を正確に踏んだ。
灰面長屋の隅。
誰の帳にも載っていない子。
生面を失い、家の役もなく、職の役もなく、ただ呼ばれれば振り向くだけの存在。
無役。
その言葉を、役人は何の痛みもなく使う。
「……無役でも、人はいます」
イロハは絞り出すように言った。
検面官は答えた。
「制度上は存在が不安定である」
その冷たさに、イロハは言葉を失った。
怒りはある。
けれど、その怒りを制度の言葉で返せない。
彼女は中級面師だ。腕はある。面を見る目もある。けれど正規工房に属していない。師匠は資格剥奪者。自分の面の由来すら、完全には説明できない。
正面から言い争えば、ユラの面だけでなく、この工房ごと押さえられる。
それがわかるから、悔しいほど強く出られない。
ロウセツが、軽い調子で割って入った。
「まあまあ、お役人様。若い弟子が熱くなりましてね。こいつは腕は悪くねえが、口の漆がまだ乾いてねえんです」
「ロウセツ=カガミ。対象面を提出せよ」
「出したら、どう扱う」
「封箱に納め、仮面籍庁へ移送する。白化または不正修復が確認されれば、持ち主の舞役を一時凍結。面は調査完了まで返却不可」
ユラの体が震えた。
「返ってこないんですか」
「調査次第である」
「どのくらい」
「定めはない」
その答えに、ユラの目からまた涙が落ちた。
定めはない。
役所の言うその言葉は、たいてい「戻らない」に近い。
ロウセツの口元から、笑みが消えた。
「その面は今、封じると死ぬぞ」
「面に生死はない」
「あるんだよ。わからねえやつが検面なんぞしてるから、白くなる」
検面官の後ろにいた若い役人が、わずかに身を固くした。
先頭の検面官は動じない。
「資格剥奪者の私見は不要である」
「資格があった頃から、俺の私見はよく当たってたぜ」
「その私見により禁じられた面を作り、処分を受けた者の発言として記録しておく」
工房の空気が張り詰めた。
禁じられた面。
イロハの手が、また腰の鍵へ触れそうになる。
ロウセツは目だけでそれを止めた。
「記録するなってさっき言ったじゃねえか」
「必要な発言は記録する」
「都合のいい耳だ」
検面官は封箱を持つ役人へ合図した。
「対象面を収容せよ」
若い役人が前へ出る。
ユラは面を抱え込んだ。
「嫌です」
「拒否はできない」
「嫌です!」
その声は、初めてはっきりと工房に響いた。
「これは、わたしの舞です。わたしが何を忘れたのか、やっと少しだけわかったんです。持っていかないで」
若い役人は一瞬、動きを止めた。
その隙に、イロハはユラの前へ出た。
「この面は、まだ検分できる状態ではありません」
「退け」
「退きません」
「中級面師の権限では、仮面籍庁の封印命令を拒否できない」
「それでも、今渡したら戻せなくなる」
「戻す必要があるかどうかは、登録状態を見て判断する」
「登録じゃなくて、本人を見てください!」
叫んだ瞬間、工房の中が静まり返った。
イロハ自身も、自分の声に驚いた。
検面官は、黒い面の奥から彼女を見ている。
その視線は、冷たい。
正しい形をしている。
だからこそ、余計に残酷だった。
「イロハ=ナギ」
検面官は言った。
「君自身の仮面籍にも不審点があることを、こちらは把握している」
ロウセツの表情が変わった。
イロハの息が止まる。
「中級面師資格は有効。しかし生面の由来に、戦災消失後の再登録処理がある。師事先は資格剥奪者。現在の面師札も、監査対象となりうる」
視界の端で、白い月がちらついた。
怒りが、一瞬で冷やされる。
それは脅しだった。
ユラの面を守ろうとすれば、自分の仮面籍を掘り返される。
《ナギノオモテ》の由来を問われる。
師匠の罪まで、ふたたび帳に引き出される。
イロハは言葉を失った。
悔しい。
悔しいのに、言えない。
制度の前では、自分の足元もまた不安定なのだと思い知らされる。
ロウセツが、静かに一歩前へ出た。
「おい」
その声は低かった。
「弟子を脅すなら、俺を通せ」
「資格剥奪者に仲介権はない」
「腕は残ってる」
「資格がない」
「目も残ってる」
「登録がない」
「なら、お前らには何が残ってる」
ロウセツの言葉に、検面官の周囲の空気が少しだけ硬くなった。
その時だった。
工房の外から、別の足音が近づいた。
軽い足音ではない。
しかし役所の足音とも違う。
静かで、迷いがなく、床板に触れる前から空気を切るような歩き方。刀を持つ者の足音だ。けれど武家の粗さはない。宮中の廊下を歩き慣れた者の、抑えた歩幅。
戸口に影が差した。
「その面に、手を触れないでいただきたい」
声は若い女のものだった。
検面官が振り返る。
工房の入り口に、ひとりの少女が立っていた。
白に近い薄灰の羽織。内側には濃い紫の袴。腰には細身の刀。襟元には、白羽の紋をあしらった小さな宮中札が下がっている。髪は高く結われ、目元は涼しい。年はイロハとそう変わらないように見えるが、立ち方が違った。
誰かに守られるためではなく、誰かの前に立つための姿勢。
アヤメ=シラハ。
白影宮付き近習にして、皇女サヨ=ミカゲの護衛役。
検面官は一瞬だけ沈黙した。
「白影宮の方か」
アヤメは静かに宮中札を掲げた。
「白影宮預かりの件により、仮面籍庁の通常検分を差し止めます」
工房の空気が変わった。
ユラは何が起きたのかわからない顔で、アヤメを見ている。セイも息を呑んだまま動けない。
イロハは、ただその少女を見た。
白影宮。
その名は、帝都の奥にある離宮の名だった。
皇女の住まう場所。
ロウセツの目が、ほんの一瞬だけ細くなる。
アヤメは工房の中へ一歩入った。
白化面を見た。
ユラを見た。
そして最後に、イロハを見た。
その視線は、検面官のものとは違った。
冷たくはある。
だが、人を帳として見ている冷たさではない。
何かを確かめる目だった。
「あなたが、イロハ=ナギですね」
イロハは喉の奥が乾くのを感じた。
「……はい」
「その面を見たのは、あなたですか」
「はい」
「月痕を?」
ロウセツがわずかに息を止めた。
検面官が反応する。
「白影宮は、月痕の報告を把握しているのですか」
アヤメは検面官へ向き直った。
「その問いに答える権限は、私にはありません」
「ならば、通常検分を続行する」
「できません」
アヤメの声は静かだった。
「この件は、白影宮の異常と照合されます。対象面は仮面籍庁ではなく、白影宮預かりの参考面として扱います」
「正式な差し止め状は」
アヤメは袖から折り畳まれた書状を取り出した。
黒漆ではなく、白い封紙。そこには白羽の紋と、月影を象った印が押されていた。
検面官が受け取り、目を通す。
黒い面の下で、彼の表情は見えない。
だが、沈黙が長くなった。
やがて彼は書状を返した。
「白影宮の要請であれば、本件の封印は保留する」
ユラの肩から、少し力が抜けた。
だが検面官は続けた。
「ただし、対象面および持ち主の役状態は、仮面籍庁の監視下に置く。無断使用、無断修復、追加の仮置きは禁止する」
イロハが言い返そうとした瞬間、アヤメが先に言った。
「白影宮の立ち会いのもとであれば?」
検面官は少しだけ沈黙した。
「再申請を要する」
「承知しました」
アヤメはさらりと受け止めた。
そのやり取りの速さに、イロハは悔しさとは別の驚きを覚えた。
制度の言葉で、制度を止めている。
自分にはできなかったことを、この少女は迷いなくやっている。
検面官は最後にロウセツを見た。
「ロウセツ=カガミ。無認可工房への監査は、後日改めて行う」
「茶くらい出すぜ」
「不要だ」
「いい茶じゃないからな」
検面官は反応しなかった。
次にイロハを見る。
「イロハ=ナギ。中級面師としての立場を忘れぬように」
その言葉は、忠告ではなく釘だった。
役所の三人は、黒い面を揃えて工房を出ていった。
足音が遠ざかる。
工房に残った者たちは、しばらく誰も動かなかった。
ユラが白化面を抱いたまま、深く息を吐く。
セイが彼女の肩に手を置いた。
ロウセツは煙管を取り出そうとして、やめた。
イロハは、アヤメを見ていた。
白影宮から来た少女は、黒い役人たちが去った戸口に立ったまま、静かにこちらを向く。
「助かりました」
イロハは言った。
だが、アヤメは礼を受け取らなかった。
「まだ助かっていません」
その声は冷静だった。
「この面と同じ異常が、白影宮でも起きています」
ユラが顔を上げる。
ロウセツの目が細くなる。
イロハの視界の奥で、白い月がまたちらついた。
アヤメは続けた。
「イロハ=ナギ。白影宮へ来てください」
「私が?」
「はい」
「誰の面を直すんですか」
アヤメは少しだけ沈黙した。
それから言った。
「直す面は、ありません」
イロハは眉をひそめる。
「どういう意味ですか」
アヤメの視線が、白化面からイロハへ移る。
「皇女様には、初めから面がないのです」