EP 07

第1話 白い面は月を覚えている

第六節 ― 仮面籍庁の使い

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 戸が開くと、朝の光が工房の土間まで差し込んだ。

 その光の中に、黒い面が三つ立っていた。

 仮面籍庁、検面方。

 帝都カミザにおいて、面の登録、破損、継承、剥奪を検める役人たちである。彼らの面は、表情を持たない。怒ってもいないし、笑ってもいない。ただ、目の部分だけが細く空いており、そこから人ではなく帳面が覗いているように見える。

 先頭に立つ男は、黒漆の検面をつけ、額に銀の細線を一本入れていた。中位以上の検面官だ。後ろには記録役がひとり、封箱を持った若い役人がひとり。

 彼らは工房の中へ入る前に、まず軒先の割れた小面を見た。

 それから、ロウセツを見た。

「ロウセツ=カガミ」

 検面官の声は、よく磨かれた板のように平らだった。

「旧宮廷御面師。現、面師資格剥奪者。無認可修復行為の常習として、仮面籍庁に記録あり」

 ロウセツは軽く頭を掻いた。

「久しぶりだな。俺の経歴紹介から始まる客は」

「客ではない」

「じゃあ、押し売りか」

「検分である」

 検面官は一歩、工房へ入った。

 その瞬間、ユラが白化面を抱く手に力を込めた。セイが彼女の前へ立つ。イロハは作業台の横に移動し、面と役人のあいだへ半身を入れた。

 検面官の目が、イロハの腰の面師札に向いた。

「イロハ=ナギ」

「はい」

「中級面師。登録あり。ただし所属工房は正規認可を受けていない。師事先、ロウセツ=カガミ。資格剥奪者との継続的作業関係あり」

 言葉のひとつひとつが、針のようだった。

 イロハは唇を結んだ。

 中級面師の札は、確かに彼女の努力で得たものだ。試験を通り、型を覚え、祈面と職面の修復許可も一定範囲で認められている。

 けれど、この工房は正規の工房ではない。

 師匠は資格を剥奪されている。

 その事実を突かれると、イロハの足元は少しだけ揺らぐ。

 どれだけ腕があっても、制度の帳の上では、彼女は常に灰色だった。

「届け出なき祈面修復の疑いで、検分を行う」

 検面官は言った。

「対象面を提示せよ」

 ユラが一歩下がった。

「これは、わたしの面です」

 検面官の黒い目穴が、少女へ向く。

「氏名」

「ユラ=シラビョウ。ウズメの舞殿、見習い神楽師です」

 記録役が巻紙を開いた。

「シラビョウ家、仮面籍あり。生面登録あり。職能補助面登録なし。ウズメ舞殿所属、見習い舞手。奉納演目補助登録……」

 そこで、記録役の筆が止まった。

 彼は巻紙を覗き込み、眉をひそめる。

「呼び笑い一節担当、記載が薄い」

「薄い?」

 セイが思わず声を上げた。

「昨日までは、そこにきちんと書かれていたはずです。ユラは今年の月迎えで――」

「発言を求めていない」

 検面官はセイを遮った。

「帳の記載が薄い場合、役の確定性は低い。祈面の異常によって登録役に混濁が生じた可能性がある」

「混濁じゃありません」

 イロハは言った。

 検面官が彼女を見る。

「何か」

「ユラさんは舞えます。さっきも一節を通しました。役は完全には消えていません」

「仮置きを行ったのか」

 その一言で、工房の空気が凍った。

 イロハは息を詰めた。

 ロウセツが、わずかに目を細める。

 検面官は淡々と続けた。

「届け出なき仮置きは、祈面修復規定に抵触する。まして白化の疑いがある面に対し、無認可工房内で仮の役を置く行為は、面籍汚染を招く危険がある」

「汚染……?」

 ユラの声が震えた。

 自分の面を抱いている少女の前で、その言葉を使う冷たさに、イロハの腹の奥が熱くなる。

「汚染ではありません」

「では何と呼ぶ」

「まだ残っている役を、通しただけです」

「登録外の役を通した時点で、仮面籍庁の検分対象となる」

「登録が薄れているのは、月痕のせいです」

 言った瞬間、ロウセツがわずかに顎を引いた。

 しまった、とイロハは思った。

 だがもう遅い。

 検面官の黒い面が、ほんの少し傾いた。

「月痕」

 記録役の筆が止まる。

 封箱を持つ若い役人が、無意識に箱の蓋へ手をかけた。

「今、月痕と言ったか」

 ロウセツが割り込んだ。

「うちの弟子は比喩が好きでな。若い面師はすぐ詩人ぶる」

「ロウセツ=カガミ。発言を許可していない」

「許可されなきゃ喋れねえ面なら、俺はとっくに死んでる」

「資格剥奪者の軽口は記録しない」

「ありがたいねえ。記録されたら照れるところだ」

 検面官はロウセツを無視し、ユラへ向き直った。

「対象面を提出せよ」

 ユラは首を振った。

「嫌です」

「提出せよ」

「これは、わたしの面です」

「現在、その面は祈面としての機能に異常を起こしている。持ち主の手元に置けば、役の混濁が進行する恐れがある。仮面籍庁で封印し、登録状態を確認する」

「封印したら、舞はどうなるんですか」

 ユラの声はかすれていた。

「白化が確認された場合、該当祈面は使用停止。持ち主の舞役は一時保留となる」

「保留……」

「演目上、代替舞手の登録を推奨する」

 ユラの顔が白くなった。

 セイが前に出る。

「待ってください。ユラは舞えます。さっき確かに――」

「仮置きによる一時的反応は、正式な舞役復帰の証明にならない」

「でも、本人はここにいるんです。役を失いかけて苦しんでいるんです。まず助けるべきでしょう」

「我々の職務は救済ではない」

 検面官は言った。

「登録の保全である」

 その言葉が、工房の板床に冷たく落ちた。

 救済ではない。
 登録の保全。

 イロハは拳を握った。

 わかっていた。

 仮面籍庁は、面を人のために見るのではない。帳のために見る。役が正しく登録されているか、面が適切に管理されているか、制度に異常がないか。それを確かめるのが彼らの役だ。

 けれど目の前に、泣きそうな神楽師がいる。

 舞台に立とうとして膝から崩れた少女がいる。

 自分の面を奪われれば、何を失ったのか確かめる道さえ閉ざされる少女がいる。

 それを帳の都合で封じるのか。

「登録が何ですか」

 イロハの声が低く出た。

 ロウセツが視線だけで制したが、止まらなかった。

「帳に線が薄くなったからって、その人の役がなかったことになるんですか。舞えなくなった本人を前に、代替舞手の登録を推奨するって、それが検面方の仕事ですか」

 検面官は、わずかに沈黙した。

 怒ったのではない。

 イロハの感情を、記録すべき異常反応として見ている沈黙だった。

「中級面師イロハ=ナギ」

 彼は平板な声で言った。

「面師の職分を誤解している」

「誤解?」

「役は個人の感情によって保持されるものではない。家、職、神前、そして仮面籍によって承認される。持ち主が望むか否かは、登録上の役の維持とは別問題である」

「別じゃありません」

「別である」

 検面官は断じた。

「この国において、役とは制度である。制度から外れた役は、無役に等しい」

 イロハの喉が詰まった。

 無役。

 その言葉は、彼女の古い傷を正確に踏んだ。

 灰面長屋の隅。
 誰の帳にも載っていない子。
 生面を失い、家の役もなく、職の役もなく、ただ呼ばれれば振り向くだけの存在。

 無役。

 その言葉を、役人は何の痛みもなく使う。

「……無役でも、人はいます」

 イロハは絞り出すように言った。

 検面官は答えた。

「制度上は存在が不安定である」

 その冷たさに、イロハは言葉を失った。

 怒りはある。
 けれど、その怒りを制度の言葉で返せない。

 彼女は中級面師だ。腕はある。面を見る目もある。けれど正規工房に属していない。師匠は資格剥奪者。自分の面の由来すら、完全には説明できない。

 正面から言い争えば、ユラの面だけでなく、この工房ごと押さえられる。

 それがわかるから、悔しいほど強く出られない。

 ロウセツが、軽い調子で割って入った。

「まあまあ、お役人様。若い弟子が熱くなりましてね。こいつは腕は悪くねえが、口の漆がまだ乾いてねえんです」

「ロウセツ=カガミ。対象面を提出せよ」

「出したら、どう扱う」

「封箱に納め、仮面籍庁へ移送する。白化または不正修復が確認されれば、持ち主の舞役を一時凍結。面は調査完了まで返却不可」

 ユラの体が震えた。

「返ってこないんですか」

「調査次第である」

「どのくらい」

「定めはない」

 その答えに、ユラの目からまた涙が落ちた。

 定めはない。

 役所の言うその言葉は、たいてい「戻らない」に近い。

 ロウセツの口元から、笑みが消えた。

「その面は今、封じると死ぬぞ」

「面に生死はない」

「あるんだよ。わからねえやつが検面なんぞしてるから、白くなる」

 検面官の後ろにいた若い役人が、わずかに身を固くした。

 先頭の検面官は動じない。

「資格剥奪者の私見は不要である」

「資格があった頃から、俺の私見はよく当たってたぜ」

「その私見により禁じられた面を作り、処分を受けた者の発言として記録しておく」

 工房の空気が張り詰めた。

 禁じられた面。

 イロハの手が、また腰の鍵へ触れそうになる。

 ロウセツは目だけでそれを止めた。

「記録するなってさっき言ったじゃねえか」

「必要な発言は記録する」

「都合のいい耳だ」

 検面官は封箱を持つ役人へ合図した。

「対象面を収容せよ」

 若い役人が前へ出る。

 ユラは面を抱え込んだ。

「嫌です」

「拒否はできない」

「嫌です!」

 その声は、初めてはっきりと工房に響いた。

「これは、わたしの舞です。わたしが何を忘れたのか、やっと少しだけわかったんです。持っていかないで」

 若い役人は一瞬、動きを止めた。

 その隙に、イロハはユラの前へ出た。

「この面は、まだ検分できる状態ではありません」

「退け」

「退きません」

「中級面師の権限では、仮面籍庁の封印命令を拒否できない」

「それでも、今渡したら戻せなくなる」

「戻す必要があるかどうかは、登録状態を見て判断する」

「登録じゃなくて、本人を見てください!」

 叫んだ瞬間、工房の中が静まり返った。

 イロハ自身も、自分の声に驚いた。

 検面官は、黒い面の奥から彼女を見ている。

 その視線は、冷たい。
 正しい形をしている。
 だからこそ、余計に残酷だった。

「イロハ=ナギ」

 検面官は言った。

「君自身の仮面籍にも不審点があることを、こちらは把握している」

 ロウセツの表情が変わった。

 イロハの息が止まる。

「中級面師資格は有効。しかし生面の由来に、戦災消失後の再登録処理がある。師事先は資格剥奪者。現在の面師札も、監査対象となりうる」

 視界の端で、白い月がちらついた。

 怒りが、一瞬で冷やされる。

 それは脅しだった。

 ユラの面を守ろうとすれば、自分の仮面籍を掘り返される。

 《ナギノオモテ》の由来を問われる。

 師匠の罪まで、ふたたび帳に引き出される。

 イロハは言葉を失った。

 悔しい。

 悔しいのに、言えない。

 制度の前では、自分の足元もまた不安定なのだと思い知らされる。

 ロウセツが、静かに一歩前へ出た。

「おい」

 その声は低かった。

「弟子を脅すなら、俺を通せ」

「資格剥奪者に仲介権はない」

「腕は残ってる」

「資格がない」

「目も残ってる」

「登録がない」

「なら、お前らには何が残ってる」

 ロウセツの言葉に、検面官の周囲の空気が少しだけ硬くなった。

 その時だった。

 工房の外から、別の足音が近づいた。

 軽い足音ではない。

 しかし役所の足音とも違う。

 静かで、迷いがなく、床板に触れる前から空気を切るような歩き方。刀を持つ者の足音だ。けれど武家の粗さはない。宮中の廊下を歩き慣れた者の、抑えた歩幅。

 戸口に影が差した。

「その面に、手を触れないでいただきたい」

 声は若い女のものだった。

 検面官が振り返る。

 工房の入り口に、ひとりの少女が立っていた。

 白に近い薄灰の羽織。内側には濃い紫の袴。腰には細身の刀。襟元には、白羽の紋をあしらった小さな宮中札が下がっている。髪は高く結われ、目元は涼しい。年はイロハとそう変わらないように見えるが、立ち方が違った。

 誰かに守られるためではなく、誰かの前に立つための姿勢。

 アヤメ=シラハ。

 白影宮付き近習にして、皇女サヨ=ミカゲの護衛役。

 検面官は一瞬だけ沈黙した。

「白影宮の方か」

 アヤメは静かに宮中札を掲げた。

「白影宮預かりの件により、仮面籍庁の通常検分を差し止めます」

 工房の空気が変わった。

 ユラは何が起きたのかわからない顔で、アヤメを見ている。セイも息を呑んだまま動けない。

 イロハは、ただその少女を見た。

 白影宮。

 その名は、帝都の奥にある離宮の名だった。

 皇女の住まう場所。

 ロウセツの目が、ほんの一瞬だけ細くなる。

 アヤメは工房の中へ一歩入った。

 白化面を見た。

 ユラを見た。

 そして最後に、イロハを見た。

 その視線は、検面官のものとは違った。

 冷たくはある。
 だが、人を帳として見ている冷たさではない。

 何かを確かめる目だった。

「あなたが、イロハ=ナギですね」

 イロハは喉の奥が乾くのを感じた。

「……はい」

「その面を見たのは、あなたですか」

「はい」

「月痕を?」

 ロウセツがわずかに息を止めた。

 検面官が反応する。

「白影宮は、月痕の報告を把握しているのですか」

 アヤメは検面官へ向き直った。

「その問いに答える権限は、私にはありません」

「ならば、通常検分を続行する」

「できません」

 アヤメの声は静かだった。

「この件は、白影宮の異常と照合されます。対象面は仮面籍庁ではなく、白影宮預かりの参考面として扱います」

「正式な差し止め状は」

 アヤメは袖から折り畳まれた書状を取り出した。

 黒漆ではなく、白い封紙。そこには白羽の紋と、月影を象った印が押されていた。

 検面官が受け取り、目を通す。

 黒い面の下で、彼の表情は見えない。

 だが、沈黙が長くなった。

 やがて彼は書状を返した。

「白影宮の要請であれば、本件の封印は保留する」

 ユラの肩から、少し力が抜けた。

 だが検面官は続けた。

「ただし、対象面および持ち主の役状態は、仮面籍庁の監視下に置く。無断使用、無断修復、追加の仮置きは禁止する」

 イロハが言い返そうとした瞬間、アヤメが先に言った。

「白影宮の立ち会いのもとであれば?」

 検面官は少しだけ沈黙した。

「再申請を要する」

「承知しました」

 アヤメはさらりと受け止めた。

 そのやり取りの速さに、イロハは悔しさとは別の驚きを覚えた。

 制度の言葉で、制度を止めている。

 自分にはできなかったことを、この少女は迷いなくやっている。

 検面官は最後にロウセツを見た。

「ロウセツ=カガミ。無認可工房への監査は、後日改めて行う」

「茶くらい出すぜ」

「不要だ」

「いい茶じゃないからな」

 検面官は反応しなかった。

 次にイロハを見る。

「イロハ=ナギ。中級面師としての立場を忘れぬように」

 その言葉は、忠告ではなく釘だった。

 役所の三人は、黒い面を揃えて工房を出ていった。

 足音が遠ざかる。

 工房に残った者たちは、しばらく誰も動かなかった。

 ユラが白化面を抱いたまま、深く息を吐く。

 セイが彼女の肩に手を置いた。

 ロウセツは煙管を取り出そうとして、やめた。

 イロハは、アヤメを見ていた。

 白影宮から来た少女は、黒い役人たちが去った戸口に立ったまま、静かにこちらを向く。

「助かりました」

 イロハは言った。

 だが、アヤメは礼を受け取らなかった。

「まだ助かっていません」

 その声は冷静だった。

「この面と同じ異常が、白影宮でも起きています」

 ユラが顔を上げる。

 ロウセツの目が細くなる。

 イロハの視界の奥で、白い月がまたちらついた。

 アヤメは続けた。

「イロハ=ナギ。白影宮へ来てください」

「私が?」

「はい」

「誰の面を直すんですか」

 アヤメは少しだけ沈黙した。

 それから言った。

「直す面は、ありません」

 イロハは眉をひそめる。

「どういう意味ですか」

 アヤメの視線が、白化面からイロハへ移る。

「皇女様には、初めから面がないのです」