EP 09

第1話 白い面は月を覚えている

終節 ― 空の面箱

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 白影宮は、音の少ない宮だった。

 帝都カミザの奥。天帝宮の華やかな舞殿や、政務の声が行き交う回廊から離れた場所に、その宮はあった。高い塀に囲まれ、白砂の庭と黒松の影を抱き、昼であるのにどこか夜の匂いを残している。

 宮車が止まった時、イロハはまず、風の音が違うと思った。

 面師小路の風は、木粉と漆と人の声を運ぶ。役面市の鈴、職人の呼び声、荷車の軋み、子どもの足音。そこでは、誰もが何かの役を持ち、その役が音になっていた。

 だが白影宮の風は、何も運ばない。

 ただ、白い砂の上を滑り、黒松の針葉を揺らし、池の水面に映る空を少しだけ乱していく。

 アヤメは先に降り、宮車の簾を上げた。

「こちらへ」

 イロハは道具袋を抱え直し、車を降りた。

 門は美しかった。

 白木の柱に、黒漆の横木。金具は控えめで、朱はほとんど使われていない。天帝宮の正面門のような威圧はなく、むしろ静かな離宮の趣がある。だが、その静けさは穏やかさではなかった。

 誰かを守るための静けさ。
 あるいは、誰かを隠すための静けさ。

 門番の女官が、アヤメの宮中札を見て一礼した。イロハには一瞬、訝しむような視線が向けられたが、何も言わずに道を開ける。

 白影宮の中へ入ると、廊下には面を飾る棚が並んでいた。

 客を迎えるための礼面。
 女房たちの役面。
 御簾を上げる者の仕面。
 香を替える者の小さな職面。
 庭の月見池を清める者の水面。
 夜の祈りに用いる細い祈面。

 どれも丁寧に手入れされている。

 塵ひとつない。
 紐は整えられ、面箱には札が付けられ、棚の間隔も正しい。

 けれど、イロハはすぐに違和感を覚えた。

 多すぎるのではない。
 少なすぎるのでもない。

 中心がない。

 宮に仕える者たちの面はある。
 廊下に立つ者、庭を掃く者、香を焚く者、御簾を守る者。周囲の役は整えられている。

 だが、この宮の主の面が見当たらない。

 まるで、舞台の脇役たちの面だけが並び、主役の面だけが最初から用意されていないようだった。

 アヤメは、イロハの視線に気づいた。

「わかりますか」

「……ここには、宮の中心になる面がない」

 アヤメは小さく頷いた。

「白影宮に初めて入った者の多くは、美しい宮だと言います。静かで、整っていて、何も欠けていないと」

「欠けています」

 イロハは言った。

「大きく」

 その言葉に、アヤメは何も返さなかった。

 廊下を進む。

 白砂の庭に面した回廊は、磨かれた板が月光を待つように淡く光っていた。まだ昼だというのに、庭の池には薄い月の影が沈んでいるように見える。水面は静かで、黒松の影と白い空だけを映している。

 その池を見た瞬間、イロハの視界の端で、また白い月がちらついた。

 仮置きの代償として残った残像。

 だが、ここではそれが強くなる。

 まるで白影宮そのものが、月の気配を閉じ込めているようだった。

「大丈夫ですか」

 アヤメが尋ねた。

「大丈夫です」

「顔色が悪い」

「面師は、面を見る前から顔色をよくしておくものではありません」

「そういうものですか」

「たぶん」

 アヤメは少しだけ眉を寄せた。

「あなたは、変わった方ですね」

「師匠ほどではありません」

「それは安心しました」

 冗談とも本音ともつかない声だった。

 やがて、ふたりは奥の間へ着いた。

 御簾が下りている。

 その前に、黒漆の面箱が置かれていた。

 ただし、閉じられてはいない。

 蓋は横に置かれ、箱の内側がこちらへ向けられている。白絹が貼られた内底には、薄い傷が浮かんでいた。

 写し布で見たものより、ずっと生々しい。

 細い弧状の噛み跡。
 月光で焼かれたような白い裂け目。
 そこに面はない。

 ないはずなのに、痕だけがある。

 イロハは足を止めた。

 喉が乾く。

 この傷は、ユラの白化面の内側にあったものと似ている。けれど深さが違う。ユラの面は、役を喰われた面だった。まだ持ち主がいて、面があり、舞の一節が残っていた。

 だがこの箱は違う。

 ここには、喰われた面そのものが存在しない。

 イロハは、箱の前に膝をついた。

「触れても?」

 アヤメは少しだけ迷った。

「皇女様のお許しを」

 その言葉のあと、御簾の向こうから、静かな声がした。

「よい」

 柔らかい声だった。

 高すぎず、低すぎず、まだ少女の響きを残している。けれどその声には、誰かに守られているだけの幼さはなかった。長い間、何かを見続けてきた者の静けさがある。

 アヤメが膝をついた。

「サヨ様。イロハ=ナギをお連れしました」

「ご苦労さま、アヤメ」

 御簾が、ゆっくりと上がった。

 その向こうに、少女が座っていた。

 サヨ=ミカゲ。

 白影宮の皇女。

 年はイロハと同じくらいに見える。月白の衣を重ね、上から淡い薄墨色の羽衣をかけている。黒髪は長く、肩から背へ静かに流れていた。飾りは少ない。金も朱もほとんどない。ただ、髪に挿された小さな白羽の簪だけが、光を受けて淡く揺れている。

 美しい少女だった。

 だが、その美しさには、どこか欠けたところがあった。

 顔立ちが欠けているのではない。
 衣が足りないのでもない。
 むしろすべてが整いすぎている。

 けれど、彼女の前には面がない。

 皇女としての面が。
 神前に立つための面が。
 この宮の中心となるはずの面が。

 だから、その姿はどこか、まだ舞台へ上がる前の空白のように見えた。

 サヨは静かにイロハを見た。

「あなたが、白い面を見た面師?」

 イロハは頭を下げた。

「イロハ=ナギと申します。中級面師です」

「中級」

「はい」

「宮廷面師ではないのね」

「違います」

「では、ここへ来るのは怖かったでしょう」

 思いがけない言葉だった。

 イロハは顔を上げかけ、途中で止めた。

「……少し」

「正直ね」

 サヨの口元に、ごく淡い笑みが浮かんだ。

 その笑みは、ユラの舞に戻った笑みとは違う。人をからかうものでも、神を迎えるものでもない。自分の空白を知っている者が、相手の怯えを責めずに受け止める笑みだった。

 イロハは、少しだけ息をしやすくなった。

 サヨは、空の面箱へ視線を落とした。

「これを見て」

「はい」

 イロハは白布を指に巻き、面箱の内側へそっと触れた。

 冷たい。

 ユラの面に触れた時よりも、さらに冷たい。

 木でも漆でも絹でもない。
 そこにないはずの面の、内側へ触れているような冷たさだった。

 触れた瞬間、視界が白く弾けた。

 月。

 近い。

 あまりにも近い。

 白影宮の庭。夜。水面に映る月。黒漆の面箱。誰も入れていないはずの箱の中に、白い光が満ちる。光は牙のように曲がり、箱の内側へ噛みつく。

 だが、噛まれる面はない。

 ないのに、何かがある。

 まだ形を得ていない役。
 誰にも演じられていない皇女の顔。
 この国のどの帳にも記されていない、けれど確かに求められている面。

 それを、月が喰っている。

 イロハは息を呑み、手を離した。

 白い残像が、今度は消えない。

 まばたきをしても、月が残る。
 白い噛み跡が残る。
 そして、その噛み跡の奥に、一瞬だけ見えた。

 白い面。

 まだ完成していない面。

 顔を持たない皇女のために作られるはずだった、未在の面。

 その輪郭が、イロハの胸の奥に沈んでいる何かと重なった。

 腰の鍵が、熱を持ったように感じる。

 《ナギノオモテ》。

 黒い小箱の奥で眠る、師匠が自分に与えた面。

 イロハは反射的に道具袋を押さえた。

 サヨが、それを見た。

 その目が、ほんの少しだけ見開かれる。

「あなた」

 静かな声だった。

「面を持っているのね」

 イロハの肩が強張った。

「面師ですから」

「生面?」

「……そう聞いています」

 同じ答えを、つい先ほどアヤメにもした。

 だが、サヨの前で口にすると、その曖昧さがひどく頼りなく聞こえた。

 サヨは、じっとイロハの腰元を見ている。

 面そのものは見えていない。箱も見せていない。鍵に触れただけだ。

 それなのに、サヨは何かを感じ取っている。

「見せて」

 アヤメがすぐに顔を上げた。

「サヨ様」

「だめ?」

 サヨはアヤメへ視線を向けた。

「ロウセツ=カガミから、今日は開けるなと言われています」

 イロハが先に答えた。

 アヤメが少しだけ驚いたように彼女を見る。

「師匠が?」

「はい」

「なぜ」

 サヨの問いに、イロハは息を整えた。

「月が、まだ見ているからだと」

 白影宮の奥に、沈黙が落ちた。

 庭の水面が、かすかに揺れる。

 サヨはその言葉を怖がらなかった。むしろ、ずっと知っていたことを誰かがようやく口にしたように、静かに目を伏せた。

「やっぱり」

 彼女は小さく言った。

「見ているのね」

「皇女様は、月を見たことがあるのですか」

 イロハが尋ねると、アヤメがわずかに身を固くした。

 だがサヨは答えた。

「毎夜、見ています」

「空の月を?」

「いいえ」

 サヨは、空の面箱を見た。

「箱の中の月を」

 イロハの背筋に、冷たいものが走った。

「この箱に、月が映るんですか」

「映るのではないわ」

 サヨはゆっくりと言った。

「中に、あるの」

 イロハは言葉を失った。

 白影宮の池。空の面箱。そこに浮かぶ月。喰われる未在の面。

 この宮では、月は空から見下ろしているだけではない。箱の内側に入り込み、まだない役へ歯を立てている。

「皆は、わたしの面がないと言う」

 サヨは静かに続けた。

「でも、ないのではないと思うの」

「では、どこに」

「喰われている」

 その一語は、イロハの胸を強く打った。

 サヨは、ロウセツと同じ言葉を使った。

 壊れたのではない。
 紛失したのでもない。
 喰われた。

「わたしには、少しだけ覚えがあります」

 サヨは、自分の手を見た。

 白い指。細い手首。どんな舞の型にも、まだ完全には結ばれていない手。

「わたしが何の役として生まれたのか。誰も言わない。帳にもない。宮廷面師も知らないふりをする。でも時々、夢で面を着けている自分を見るのです」

「どんな面ですか」

 イロハは思わず尋ねた。

 サヨは少し考えた。

「白い面」

 イロハの喉が詰まる。

「でも、白化した面とは違います。何もない白ではなくて、まだ何にでもなれる白。月ではなく、夜明けの前の白」

 その言葉に、イロハの腰の鍵がまた熱を持った気がした。

 《ナギノオモテ》。

 無面原の木。
 まだ役を持たない素材。
 師匠が与えた、禁じられた面。

 サヨはイロハを見つめていた。

 そして、ゆっくりと言った。

「その面は……わたしのものに似ています」

 イロハの心臓が、一瞬止まったように感じた。

 アヤメが息を呑む。

「サヨ様」

「見えてはいないわ」

 サヨは静かに言う。

「けれど、わかるの。あなたのそばにある面は、わたしが夢で見る面と似ている」

 イロハは立ち上がりかけて、止まった。

 手が震える。

「違います」

 自分でも驚くほど早く、否定していた。

「これは、師匠が私にくれた面です。私の生面だと」

 言いながら、声が揺れた。

 生面だと聞いている。
 そう聞いているだけだ。

 自分は、その由来を知らない。

 ロウセツは言わなかった。
 聞いてもはぐらかした。
 今日、白化面を見てようやく、皇女の面箱と関わりがあるかもしれないと知ったばかりだ。

 その面は、わたしのものに似ています。

 サヨの言葉が、胸の奥で繰り返される。

 もしそうなら、自分は何を持っているのか。

 自分をこの世に立たせてくれた面が、皇女の未在面に似ているなら。

 自分の役は、誰の役なのか。

「イロハ=ナギ」

 サヨが名を呼んだ。

 その呼び方は、役人のものとも、客のものとも違った。

 名を確かめる呼び方だった。

「あなたは、その面で立っているのね」

 イロハは答えられなかった。

 立っている。

 確かにそうだ。

 師匠の工房で働き、中級面師として札を持ち、客の面を直し、役を仮置きする。そうして自分は生きている。

 けれど、その足場の下に何があるのかは知らない。

「怖い?」

 サヨが尋ねた。

 イロハは唇を噛んだ。

「怖いです」

 正直に言うしかなかった。

 サヨは微笑んだ。

「わたしも」

 その言葉で、イロハは初めて皇女を遠い人ではなく、ひとりの少女として見た。

 面を持たない皇女。
 役を与えられないまま、宮の奥に置かれている少女。
 周囲の者の欠けた役を、ひとりだけ覚えてしまう少女。

 そして自分もまた、かつて役を持たなかった子だった。

 ふたりの間に、空の面箱があった。

 そこには面がない。

 けれど月痕がある。

 喰われた役の痕がある。

 サヨは、ゆっくりと箱の縁に手を置いた。

 アヤメが止めようとしたが、サヨは首を振った。

「大丈夫。今は噛まれないわ」

「今は?」

 イロハが聞く。

「昼だから」

 サヨは微笑んだ。

 その笑みは、あまりに静かで、かえって痛々しかった。

「夜になると、箱の中の月が起きます」

 イロハは箱の内側を見た。

 白い噛み跡が、昼の光の中でひっそりと沈んでいる。

 今は眠っている。

 けれど夜になれば、また起きる。

 まだない面を喰い続けるために。

「面師イロハ」

 サヨは姿勢を正した。

 皇女としてではなく、依頼人として。

 その声に、イロハの背筋も自然と伸びた。

「はい」

「わたしは、自分の面を知りません。誰も作ってくれなかったのか、作れなかったのか、それとも作られる前に喰われたのかもわかりません」

 サヨは空の面箱を見つめる。

「でも、わたしはここにいます。名もあります。声もあります。覚えている役もあります。けれど、この国では、それだけでは足りないのでしょう」

 イロハは何も言えなかった。

 足りない。

 この国では、名だけでは足りない。
 声だけでも足りない。
 存在しているだけでは、制度はその者を認めない。

 面がいる。

 役がいる。

 神前で、この世で、誰かとして立つための器がいる。

 サヨは、イロハを見た。

「面師イロハ」

 その声は、先ほどよりも少しだけ震えていた。

 けれど、逃げてはいなかった。

「わたしの面を、作れますか」

 白影宮の奥で、風が止まった。

 庭の水面も、黒松の影も、御簾の縁も、すべてがその問いを聞いていた。

 イロハは答えられない。

 作れる、と簡単には言えない。

 皇女の面など、本来なら宮廷面師が作るものだ。まして、初めから存在しない面。喰われ続ける未在の面。自分の《ナギノオモテ》と似ているかもしれない面。

 それを作ることは、ただの修復ではない。

 まだない役を、この世に呼ぶことだ。

 師匠が昔、罪として問われたこと。

 禁じられた面を作ること。

 イロハの視界の端で、白い月がまたちらついた。

 月が見ている。

 ロウセツの声が、遠く耳の奥で蘇る。

 自分の面箱は、今日は開けるな。
 宮廷の面は、こっちを見返してくる。
 見すぎるなよ。

 けれど、サヨの前にある箱は空だった。

 見返してくる面すらない。

 それでも、そこには確かに誰かが待っている。

 まだ役を与えられない少女が。
 喰われた役を覚えている皇女が。
 そして、かつて役を持たなかった自分自身が。

 イロハは、ゆっくりと息を吸った。

「……今は、作れるとは言えません」

 アヤメの目がわずかに動く。

 サヨは、静かにその言葉を受け止めた。

 イロハは続けた。

「でも、見ます。何が喰われているのか。何が残っているのか。あなたの面が、どこにあったはずなのか」

 彼女は空の面箱を見た。

「それを見つけるところからなら、できます」

 サヨの表情が、ほんの少しだけ緩んだ。

 それは安堵というには小さく、希望というにはまだ弱い。

 けれど、白影宮に初めて灯った小さな火のようだった。

「では、お願いします」

 サヨは頭を下げた。

 皇女が、路地裏の面師に頭を下げた。

 アヤメが目を伏せる。

 イロハは慌てて膝をつき、深く礼を返した。

 空の面箱の内側で、白い月痕がかすかに光った。

 まるで、そこにない面が、今のやり取りを聞いていたかのように。

 昼の白影宮には、まだ月は出ていない。

 けれどイロハは知っていた。

 夜になれば、月はまた起きる。

 そして、喰いかけの役を探すだろう。

 皇女の面を。
 イロハの面を。
 まだこの国に存在しない、誰かの役を。

 白影宮の庭で、風が戻った。

 黒松が鳴り、池の水面が揺れ、御簾の端が淡く震える。

 それはまるで、見えない舞台の幕が、ようやく上がり始めた音のようだった。

 第一話 ― 白い面は月を覚えている
 了