EP 10

第2話 月箱の皇女

序節 ― 箱の中の月

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 面箱とは、本来、面を眠らせるための器である。

 昼に受けた人の声を鎮め、舞台で浴びた視線を落とし、神前でまとった役の熱を、夜のうちに静かに冷ます。

 だから面箱は、暗くなければならない。
 だから面箱は、閉じられていなければならない。
 だから面箱の内側には、余計な光を入れてはならない。

 けれど、空の箱に月が棲むならば、そこに眠っているのは面ではない。

 まだ与えられなかった役の、喰い残しである。

 白影宮の夜は、帝都カミザのどの夜よりも静かだった。

 天帝宮のほうでは、まだかすかに人の声がしている。夜番の役人が交わす短い言葉。廊下を行き来する衣擦れ。遠い神楽殿から、稽古の終わりを告げる鈴が一度だけ鳴る。

 だが白影宮の奥には、そのどれも届かない。

 白砂の庭は月を待つように冷え、黒松は風を受けても大きく揺れない。月見池には竹簾が半ば下ろされ、水面は細い影に裂かれている。御簾は深く閉じられ、面棚には黒布が掛けられていた。

 白影宮では、夜になる前に面を隠す。

 女房たちはそれを、月除けの支度と呼んでいた。

 面箱には布をかける。
 水盆は伏せる。
 鏡は裏返す。
 月の入る隙間は、戸の目地に至るまで絹で塞ぐ。

 けれど、たったひとつだけ、隠されない箱がある。

 サヨ=ミカゲの寝所の奥。

 白い御簾の向こうに、黒漆の面箱が置かれていた。

 蓋は開いている。

 中は、空だった。

 空であるはずだった。

 サヨは、眠らずにその箱を見つめていた。

 寝所に灯された燭は少ない。火の明かりは低く、ほとんど床に近いところで揺れている。衣を重ねたサヨの横顔は、昼よりもさらに白く見えた。長い黒髪は肩から流れ、膝の上に置かれた手は動かない。

 彼女の前の面箱だけが、夜の中で淡く光っている。

 箱の内側に、月が浮かんでいた。

 空の月ではない。

 今夜の空に出ている月は、まだ満ちきっていない。雲の向こうに細く欠け、白影宮の屋根の端にかかっているだけだ。けれど面箱の中の月は、丸かった。

 満月だった。

 白絹を貼った箱の底に、薄い水を張ったような光がある。そこに、まるい月が沈んでいる。波紋はない。水面ではないのだから揺れるはずもない。それでもサヨには、その月が息をしているように見えた。

 眠っているのではない。

 待っている。

 夜が深くなり、白影宮の役が薄くなる時を。

 サヨはそっと手を伸ばしかけた。

 御簾の外から、アヤメの声がした。

「サヨ様」

「触れません」

 サヨは手を止めた。

「見ているだけです」

 アヤメ=シラハは御簾の外に控えていた。昼間と同じように背筋を伸ばし、刀を傍らに置いている。けれど、その手は柄の上に重ねられていた。夜の白影宮では、何が起こるかわからない。

「お休みになられませんか」

「眠ると、箱の中の月が夢に来ます」

 アヤメは言葉を失った。

 サヨは微笑んだ。

「目を開けて見ているほうが、まだましです」

「……イロハ=ナギは、客間に下がらせています」

「眠れているかしら」

「どうでしょう。あの方も、あまり眠りの深そうな人には見えません」

「そうね」

 サヨは小さく笑った。

 その笑みが消えると、部屋はまた静かになった。

 空の面箱の中の月が、少しだけ明るくなる。

 サヨは息を止めた。

 月の輪郭から、白い糸のような光が伸びる。
 それは光というより、細い歯に似ていた。

 箱の底に浮かんだ月痕が、かすかに疼く。

 遠くで、香炉の蓋が鳴った。

 ちいさな音だった。

 けれどサヨはすぐに顔を上げた。

 アヤメも立ち上がる。

「東廊です」

 サヨは言った。

 アヤメが御簾を上げる前に、廊下の向こうから乱れた足音が近づいてきた。

「サヨ様」

 女房の声だった。

 声は押し殺されていたが、恐怖が混じっている。

 アヤメが戸を開けると、二人の女房がひとりの若い女房を支えるように立っていた。若い女房は、淡い月白の小袖に香役の細い面札を下げている。名はカンナ=ツキシロ。東廊の香を替える役を持つ女房だった。

 だが今、彼女の手は空中で止まっていた。

 指先には小さな香匙。
 袖の内には、沈香を包んだ紙。
 目の前には、夜の香炉。

 必要なものはすべて揃っている。

 それなのに、カンナは香炉の前で立ち尽くしていた。

「カンナ」

 アヤメが呼ぶ。

 カンナはゆっくり顔を上げた。

 自分の名はわかっている顔だった。

 けれど、足元の床が見えなくなった者の顔でもあった。

「アヤメ様」

「どうしました」

 カンナは、手に持った香匙を見た。

 それが何であるかはわかっている。
 香木の名もわかる。
 香炉の扱いも覚えている。

 けれど、喉から出た言葉は別のものだった。

「わたくしは、ここで何をする役でしたか」

 廊下にいた女房たちが、息を呑んだ。

 ひとりが言った。

「あなたは……」

 そこで、声が止まる。

 もうひとりの女房も眉を寄せた。

「東廊の……何でしたか」

「香を……いえ、違う? 灯を替える役では」

「いいえ、灯はミツネの役ですわ。では、水差しを……」

「カンナは、何の役でしたか」

 言葉が、廊下の上でほどけていく。

 カンナの顔が青ざめた。

「わたくし、昨日もここに来ました。毎夜、来ていたはずです。香炉の灰をならして、香を選んで、それから……」

 彼女は香炉の前に立ったまま、震えた。

「それから、なぜ香を焚くのですか」

 誰も答えられなかった。

 女房たちは互いに顔を見合わせる。

 香を焚く手順は知っている。香の名も知っている。東廊に香炉があることも知っている。

 けれど、なぜその時刻に、その香を焚くのか。
 その役が、誰のために、何を整えるためのものだったのか。

 それだけが、白く抜け落ちていた。

 サヨは立ち上がった。

 アヤメが止めようとする。

「サヨ様、箱が」

「大丈夫です」

 サヨは、空の面箱から目を離さずに言った。

「今、喰われているのは箱ではありません」

 その言葉に、廊下の空気が震えた。

 サヨは裸足のまま、東廊へ向かった。

 女房たちが慌てて道を開ける。アヤメがすぐ後ろにつく。寝所の奥では、空の面箱の中の月が淡く明滅していた。

 客間に控えていたイロハも、廊下の騒ぎで目を覚ましていた。

 眠っていたわけではない。横になってはいたが、白影宮の静けさに体が慣れず、まぶたの裏ではずっと白い月がちらついていた。

 戸の外の足音を聞き、イロハは道具袋を掴んで出た。

 東廊に着いた時、サヨはすでにカンナの前に立っていた。

 イロハは足を止める。

 カンナの香役面は、顔につけられていない。腰に下げられた小さな面札と、香箱に収められた職面だけがある。白化はしていない。少なくとも、表からは異常が見えない。

 それなのに、役が抜けている。

 第1話のユラと同じだ。

 いや、もっと静かで、日常に近いぶん、かえって恐ろしい。

「カンナ」

 サヨが呼んだ。

 その声は、夜の廊下にまっすぐ通った。

 カンナは涙を浮かべた目で、皇女を見た。

「サヨ様。わたくし、何をするはずだったのでしょう。手順は覚えているのです。香木の名も、灰のならし方も。けれど、わたくしがここに立つ理由が……」

「あなたは、東廊の香を替える役です」

 サヨは静かに言った。

 女房たちが顔を上げる。

「白檀ではなく、今夜は沈香を焚く日。白檀は昼の香。沈香は夜の香。東廊の香は、白影宮の夜を閉じるためのものです」

 カンナの瞳が揺れた。

「夜を、閉じる……」

「そうです」

 サヨは香炉へ視線を向ける。

「東廊から香が流れなければ、白影宮の夜は開いたままになります。月が入りやすくなる。だから、あなたは毎夜、沈香で廊下を閉じてくれていました」

 カンナの手が震えた。

 香匙を持つ指先に、少しだけ力が戻る。

「わたくしが」

「あなたが」

「わたくしは、ただ香を替えるだけの役では……」

「いいえ」

 サヨは首を振った。

「あなたの香がなければ、わたしたちは眠れません」

 カンナの目から、涙がこぼれた。

 それは悲しみの涙だけではなかった。
 自分が何を失いかけていたのか、ようやくわかった者の涙だった。

 カンナは膝から崩れ落ちた。

「思い出しました」

 彼女は香匙を胸に抱いた。

「わたくし、昨夜も、この香を……サヨ様が眠れるようにと」

「ええ」

 サヨは膝を折り、カンナの目線に合わせた。

「覚えています」

「皆は」

 カンナは周囲の女房たちを見た。

「皆は、覚えていませんでした」

 女房たちは目を伏せた。

 責められているわけではない。けれど、忘れてしまったことの痛みが、廊下の空気を重くした。

 サヨは言った。

「忘れたのではありません」

 その声は穏やかだった。

「喰われかけただけです」

 イロハは、思わずサヨを見た。

 その言葉は、ロウセツが使ったものと同じだった。

 壊れたのではない。
 失くしたのでもない。
 喰われた。

 けれどサヨが言うと、その言葉は恐怖だけでは終わらなかった。

 喰われかけたなら、まだ残っている。
 残っているなら、呼び戻せるかもしれない。

 カンナは何度も頷き、震える手で香炉に向かった。

 灰をならす。
 沈香を置く。
 火を移す。

 手つきはまだ危うい。だが、完全には止まらない。

 細い煙が、夜の廊下に立ち上った。

 香りが、ゆっくりと広がる。

 白影宮の空気が、少しだけ閉じた。

 遠く、寝所の奥で、空の面箱が低く鳴った気がした。

 イロハは振り返る。

 箱は見えない。
 けれど、わかる。

 箱の中の月が、今の香を嫌がった。

 カンナの役が、完全には喰われなかったからだ。

「イロハ=ナギ」

 サヨが呼んだ。

 イロハは我に返り、頭を下げた。

「はい」

「今のものも、月痕ですか」

 問われて、イロハはカンナの香箱へ近づいた。

 小さな香役面が収められている。白化はしていない。頬の線も、口元の薄い笑みも残っている。だが面の内側、ちょうど鼻筋の裏あたりに、細い白い傷が浮かんでいた。

 ユラの神楽面ほど深くない。

 けれど、確かに噛み跡だ。

「浅いですが、あります」

 イロハは言った。

「香役の面にも、月痕が」

 女房たちがざわめいた。

 カンナは涙を拭いながら、香役面を見つめる。

「では、また忘れるのでしょうか」

 イロハは答えようとして、言葉を探した。

 完全に大丈夫とは言えない。
 けれど、ただ恐怖だけを渡すこともしたくなかった。

 その前に、サヨが言った。

「今夜は、もう大丈夫です」

 カンナが顔を上げる。

「本当ですか」

「ええ。あなたの香で、夜が閉じました」

 それは医学的な診断ではない。
 面師の診立てでもない。
 皇女の言葉だった。

 けれど、その言葉を聞いた瞬間、カンナの肩から力が抜けた。

 役を覚えている者が、その役を名指す。

 それだけで、喰われかけたものが一時的に縫い止められる。

 イロハはそれを見ていた。

 サヨは無力な皇女ではない。

 面を持たないから、正式な役には立てない。
 けれど彼女は、失われかけた役を覚えている。
 そして、それを言葉にすることで、ほんの少しだけこの世界につなぎ止める。

 役を持たない皇女が、他者の役を呼び戻している。

 それは奇妙で、痛ましく、そして美しいことだった。

 アヤメが静かに近づいた。

「サヨ様、お戻りを。箱が」

 サヨは頷いた。

 寝所へ戻る途中、イロハも呼ばれた。

 空の面箱は、先ほどよりも強く光っていた。

 箱の中の月は、相変わらず満月だった。

 だが、その輪郭がほんの少しだけ欠けている。

 まるで、今喰いそこねた役の味を、まだ惜しんでいるかのように。

 サヨは箱の前に座り直した。

 イロハはその隣に膝をつく。

 アヤメは御簾の外で警戒している。

 しばらく、誰も喋らなかった。

 沈香の香りが、廊下の奥からゆっくり流れ込んでくる。先ほどまで開いていた夜が、少しずつ縫い合わされていくようだった。

 サヨは、箱の中の月を見たまま言った。

「わたしだけが、覚えているのです」

 イロハは顔を上げた。

「喰われた役を、ですか」

「ええ」

 サヨの声は静かだった。

「皆が忘れても、わたしだけは覚えている。カンナが香を替える役だったことも、庭番が月見池の水を整える役だったことも、御簾守がどの順で御簾を閉じるかも」

「いつからですか」

「幼い頃から」

 サヨは小さく笑った。

「でも、わたし自身の役だけは、誰も覚えていません。わたしにも、わかりません」

 イロハは、空の面箱を見た。

 中の月が、白く光っている。

 月は、サヨの面を喰っている。
 まだない役を、ずっと喰い続けている。

 けれどサヨは、他者の喰われた役を覚えている。

 それは、ただの被害者ではない。

 この異常の中心にいる者。

 月が喰ったものを見失わない、白影宮ただひとりの記憶。

 サヨは、面のない皇女ではなかった。

 空の面箱の前で、喰われた役の名を覚え続ける皇女だった。

 イロハは、まぶたの裏にちらつく白い月を感じながら、そっと息を吸った。

 夜は、まだ始まったばかりだった。