EP 100

第10話 名喰月見台

第三節 ― 半月の夜の満月

 空には、半月があった。

 細くはない。
 けれど、満ちてもいない。

 夜の端を削り取ったような、静かな半月だった。

 イロハは、それを見上げる。

 たしかに、満月ではない。

 暦は間違っていない。
 陰陽寮の星読みも、方位も、月齢も、きっと間違っていない。

 だが、名喰月見台の中央に置かれた黒皿の底には、すでに満月があった。

 丸い。

 白い。

 あまりにも完全な円。

 黒漆の底に浮かんだそれは、水面に映る月ではなかった。
 空を映しているのではない。
 皿の底から、内側の月が浮き上がってきたように見えた。

 イロハの背筋が冷える。

 箱の中の月。
 鉄鉢の水面の月。
 方位盤の面裏の月。
 灰皿に浮かんだ白い半面。

 これまで見てきた異常が、ここでは儀礼の一部として整えられている。

 誰も驚かない。

 仮面籍庁の役人たちは、黒皿の満月を当然のように見ていた。
 月が空と違うことを、異常として扱っていない。

 ここでは、それが手順なのだ。

 アリノリ=シジョウは、定役面《コトサダメ》を着けていた。

 面越しの顔は穏やかだった。
 声も、まだ柔らかい。

 けれど、その柔らかさには、もう人の迷いがなかった。

「黒皿、満月反応」

 彼の背後に控えていた記録役が、静かに読み上げる。

「対象者、サヨ=ミカゲ様。皇族血統確認済み。皇族面台帳上、儀礼役名未登録」

 対象者。

 その言葉に、アヤメの肩がぴくりと動いた。

 さっきまで、アリノリはサヨを「サヨ=ミカゲ様」と呼んでいた。

 だが、儀式が始まった瞬間、彼女は名ではなく、対象になった。

 サヨは何も言わない。

 ただ、黒皿の満月を見ていた。

 アリノリが片手を上げる。

 四方の柱から垂れていた月紐が、風もないのに揺れた。

 白い紐の先に、小さな札掛けが下がる。
 そこへ、役人たちが一枚ずつ白い札を掛けていく。

 一枚目。

 ――役名保留者。

 白い札に墨の文字が浮かんだ瞬間、月見台の空気が少し変わった。

 イロハには、サヨの輪郭がほんのわずかに遠ざかったように見えた。

 距離は変わっていない。
 サヨは同じ場所に立っている。

 それなのに、誰かが彼女との間に薄い紙を一枚挟んだようだった。

 二枚目。

 ――未登録皇女。

 アヤメが一歩前へ出かける。

 しかし、止まった。

 サヨが、ほんのわずかに首を横へ振ったからだ。

 三枚目。

 ――封じるべき未在。

 ロウセツが低く舌打ちした。

「いい言葉を選びやがる」

 その声は小さかったが、イロハには聞こえた。

 封じるべき未在。

 まだないものを、まだないうちに閉じるための言葉。

 四枚目。

 ――白影宮外儀礼停止。

 五枚目。

 ――月喰い中心因子。

 その札が下がった瞬間、イロハの中で何かが弾けた。

「違います」

 思わず声が出た。

 役人たちの視線が、一斉にイロハへ向く。

 アリノリも、面越しにこちらを見た。

「何が違うのですか、面師イロハ」

 声は落ち着いている。

 その落ち着きが、イロハの怒りをさらに煽った。

「サヨ様は、中心因子なんかじゃありません」

「現象の中心に近い位置におられる、という意味です」

「言葉を変えても同じです」

「いいえ。違います。断罪ではなく、観測分類です」

 観測分類。

 また、言葉が整えられる。

 イロハは奥歯を噛んだ。

 アリノリにとっては、正しい表現なのだろう。
 責めていない。
 侮辱していない。
 ただ、記録し、分類し、保護するために必要な言葉を使っている。

 けれど、その言葉がサヨから何かを奪っていく。

 名前ではなく。
 顔でもなく。
 役を。

 月紐に吊られた札が、ゆらゆらと揺れる。

 そのたび、月見台にいる者たちの視線が少しずつ変わっていった。

 最初は、サヨを皇女として見ていた。

 白影宮の姫。
 面のない皇女。
 役名のない、けれど確かに尊ぶべき血筋の者。

 しかし札が下がるたび、その視線の中に別のものが混じり始める。

 役名保留者。
 未登録皇女。
 封じるべき未在。
 月喰い中心因子。

 言葉が人を塗り替えていく。

 誰かが小さく囁いた。

「中心因子……」

 別の役人が、目を伏せた。

「やはり白影宮の異常は……」

 さらに遠くで、誰かが言った。

「皇女様というより、審査対象なのだな」

 アヤメの手が刀の柄にかかった。

 けれど、抜かない。

 抜けば、サヨの審査は「危険」としてさらに強められる。
 ここでは、怒りさえ札にされる。

 イロハは、唇を噛んだ。

 第1話のユラを思い出す。

 あの子は、神楽師だったか。
 いや、ただの舞見習いでは。
 そもそも、あの演目に必要だったか。

 あの時と同じだった。

 いや、もっとひどい。

 あの時は、月に喰われた役を人々が忘れていった。
 今は、人々が自分の手で札を掛け、忘れる形を整えている。

 月だけではない。

 人も、札も、制度も、役を喰う。

 サヨの足元に、白い光が伸び始めた。

 黒皿の満月から漏れた光だった。

 水のように揺れ、石の床を這い、サヨの影へ触れる。

 その瞬間、サヨの影が薄くなった。

 影が消えたわけではない。
 だが、輪郭がにじむ。

 灰面長屋の濁った水桶を、イロハは思い出した。

 ミツの顔が映らなかった。
 サヨの顔も、はっきり映らなかった。

 あの時と同じだ。

 面を持たぬ者が、仮面構文の中で顔として認識されにくくなる。

 今度は、水面ではない。

 月見台そのものが、サヨを曖昧にしようとしている。

「サヨ様」

 アヤメが呼んだ。

 声には、わずかに震えがあった。

 サヨは振り向かない。

 代わりに、静かに言う。

「聞こえています」

 その声は、まだ消えていない。

 イロハは、そのことに少しだけ救われた。

 アリノリは、黒皿の前へ進んだ。

「満月反応、安定」

 記録役が続ける。

「月紐、役名札受理」

「対象者影、薄化開始」

 対象者影。

 イロハは、その言葉に耐えられなかった。

「影じゃありません」

 再び言う。

「それはサヨ様です」

 アリノリは、静かに返した。

「儀礼上の観測名です」

「人の影まで、観測名にしないでください」

「そうしなければ、何が起きているか共有できません」

「共有する前に、サヨ様が消えます」

 アリノリは黙った。

 ほんの一瞬だけ。

 だが、その沈黙のあと、彼は穏やかに言った。

「だから、進めます」

 イロハは息を呑んだ。

「これ以上、御身が月へ映らぬように」

 アリノリは、《コトサダメ》を着けた顔をサヨへ向ける。

「保護封役に移行します」

 その言葉と同時に、白い札がさらに下がった。

 今度は、札に文字がまだない。

 空白の札だった。

 イロハは、その空白を見た瞬間、ぞっとした。

 あれは、これから書き込むための札だ。

 サヨの代わりに。
 サヨより先に。
 サヨの役を、誰かが。

 サヨが、その札を見上げた。

 表情は静かだった。

 けれど、手がわずかに震えている。

 イロハは、それを見逃さなかった。

 怖いのだ。

 当然だ。

 自分の名前が消されるのではない。
 自分の血筋を否定されるのでもない。
 もっと深いところを、保留されようとしている。

 何者として息をするのか。

 それを、外から止められようとしている。

 アリノリが告げる。

「サヨ=ミカゲ様。御身を、役名保留者として月見台中央へお進めします」

 アヤメが耐えきれず声を上げた。

「サヨ様を空座へ置くつもりか」

「置くのではありません。御身と役名を一時的に分け、未定義役名を月より遠ざけるためです」

「同じことだ」

「違います」

 アリノリの声は揺れない。

「これは保護です」

 その言葉が、月見台の白い石に冷たく響いた。

 保護。

 守るために、中央へ置く。
 守るために、役を分ける。
 守るために、立つことを止める。

 サヨは一歩、中央へ向かって進んだ。

 アヤメが反射的に前へ出ようとした。

 だが、サヨは静かに言った。

「アヤメ」

 それだけで、アヤメは止まった。

「わたしの代わりに立たないで」

 アヤメの目が見開かれる。

「サヨ様……」

「わたしが行きます」

 サヨは、黒皿の満月と空座を見た。

 白い札が揺れている。

 役名保留者。
 未登録皇女。
 封じるべき未在。
 月喰い中心因子。

 それらが、彼女の上に降りかかろうとしている。

 けれどサヨは、下がらなかった。

 イロハは、喉の奥が熱くなるのを感じた。

 サヨは、保留されるために進んでいるのではない。

 自分が進む場所を、他人だけに決めさせないために進んでいる。

 黒皿の満月が、ひときわ白く光った。

 その光の中で、サヨの影がさらに薄くなる。

 月紐の札が鳴った。

 かさり、かさり、と。

 まるで、紙が人を食べる音だった。