EP 101

第10話 名喰月見台

第四節 ― 封役の儀

 アリノリ=シジョウの顔に、《コトサダメ》が深く重なった。

 それは、面を着けたというより、面の側が人の顔を内側へ沈めたように見えた。

 額の朱印が、黒皿の満月を受けて鈍く光る。
 右頬の金の矩形線が、月紐の揺れに合わせて細く震える。
 左目の下の黒い細線は、まるで判を引く前の墨筋のように静まり返っていた。

 アリノリはもう、アリノリだけではなかった。

 典役卿。
 王朝の声。
 仮面籍庁の手。
 定まらぬ役を、定めるか、保留するか、封じるかを告げる者。

 イロハは、喉が詰まるのを感じた。

 第5話の臨時審査所で見た《コトサダメ》よりも、今のそれは重い。

 あの時は、面と人の間にまだ隙間があった。
 アリノリが考え、アリノリが判断していた。

 けれど今は違う。

 名喰月見台という場そのものが、《コトサダメ》に力を与えている。

 月紐。
 黒皿。
 空座。
 古い面棚。
 白い札。

 それらすべてが、アリノリの声を儀礼に変えていく。

 アリノリが、黒皿の前に立った。

 そして告げる。

「サヨ=ミカゲ」

 その声は、先ほどまでと違っていた。

 低く、柔らかいままなのに、人の温度だけが抜け落ちている。

 裁く声ではない。
 怒る声でもない。
 記録に刻む声だった。

「皇族血統、確認済み」

 記録役が、後ろで筆を走らせる。

「白影宮居住、確認済み」

 月紐が揺れる。

「皇族面台帳上、役名未登録」

 その瞬間、空座の前の石床に白い線が浮かんだ。

 細い。

 けれど、切れ目のない線だった。

 まるで、サヨの立つ場所と、それ以外の場所を分ける境界のように。

 アヤメの手が、刀の柄へ伸びる。

 イロハは息を呑んだ。

 だが、サヨは動かない。

 黒皿の満月を見つめたまま、ただ立っている。

 アリノリの声が続く。

「白影宮外儀礼参加、停止」

 月紐に掛けられた札の一枚が、白く光った。

 白影宮外儀礼停止。

 墨で書かれたはずの文字が、月光を吸って浮き上がる。

 その光が、細い糸のようになって、サヨの足元へ伸びた。

「未在役名、保護封役」

 黒皿の満月が、大きく脈を打った。

 白い光が石床を這う。

 水のように。
 紐のように。
 誰かの指のように。

 それはサヨの足首へ触れ、影へ触れ、裾の縁へ触れた。

 サヨの影が、薄くなる。

 イロハは、灰面長屋の濁った水桶を思い出した。

 ミツの顔が映らなかった水面。
 サヨの顔も、輪郭だけになった水面。

 あの時は、水が顔を映せなかった。

 今は、月見台そのものがサヨの輪郭を薄くしている。

 白い光が伸びるたび、サヨの影は石床から剥がされていくように滲んだ。

「サヨ様!」

 アヤメが、ついに前へ出た。

 その動きは速かった。

 護衛としての身体が、考えるより先に動いたのだ。

 サヨの前へ立つ。
 光を遮る。
 封役の儀を斬る。

 そうしようとした。

 けれど、その足が一歩目を踏み出した瞬間、サヨの声が落ちた。

「アヤメ」

 静かな声だった。

 けれど、月紐の音よりもはっきり届いた。

 アヤメの身体が止まる。

 サヨは振り返らない。

 黒皿の満月を見つめたまま、言った。

「わたしの代わりに立たないで」

 アヤメの目が見開かれた。

「ですが――」

「お願いです」

 サヨの声は震えていなかった。

 しかし、冷たいわけでもなかった。

「ここであなたがわたしの前へ立てば、わたしはまた、誰かに守られる場所へ戻されます」

「それは、私の役です」

「ええ」

 サヨは小さく頷いた。

「あなたは、わたしを守る役です」

 その言葉に、アヤメの表情が揺れた。

 第2話の夜。
 箱の中の満月に照らされ、自分が何を守る役なのかわからなくなった時。
 サヨは、アヤメの役を呼び戻した。

 あなたは、わたしが面を持たないままでも、ここにいてよいと証明する役です。

 それは、アヤメにとっての支えだった。

 けれど今、サヨは続けた。

「でも、守ることは、わたしの代わりに立つことだけではありません」

 アヤメは息を呑む。

 白い光が、なおもサヨの足元に伸びている。

 影は薄い。

 今にも空座の方へ引かれそうに見える。

 それでもサヨは、一歩も下がらない。

「わたしが立つ場所を、空けてください」

 その言葉に、アヤメの指が柄から離れた。

 とてもゆっくりと。

 苦しそうに。

 まるで、自分の役の一部をほどくように。

 アヤメは一歩、引いた。

 その一歩は、敗北ではなかった。

 サヨの後ろへ立つための一歩だった。

「……承知しました」

 声は低かった。

「お進みください、サヨ様」

 アヤメは、深く頭を下げた。

「ここから先は、私が代わる場所ではありません」

 イロハの胸が熱くなった。

 アヤメは守ることをやめたのではない。

 守り方を変えたのだ。

 前に立つのではなく、後ろで支える。
 サヨの代わりに役を引き受けるのではなく、サヨが自分で立つために場所を空ける。

 それは、小さく、けれど大きな変化だった。

 アリノリは、そのやり取りを面越しに見ていた。

「護衛役、後退確認」

 記録役が書き留める。

 イロハは眉を寄せた。

 それさえも記録される。

 アヤメの選択も、サヨの言葉も、ここではすぐに儀礼上の事象へ変えられていく。

 アリノリの声が再び響く。

「対象者、空座前へ」

「対象者ではありません」

 イロハが言った。

 今度は、前よりも静かに。

 アリノリがこちらを見る。

「面師イロハ。儀礼中の発言は、許可を得てからにしてください」

「サヨ様です」

 イロハは言った。

「対象者じゃありません」

 アリノリは、少しだけ沈黙した。

「儀礼上の呼称です」

「儀礼上、そう呼ぶから、みんながそう見るんです」

 イロハは黒皿の満月を見た。

 そこには、半月の夜にあり得ない満月が浮かんでいる。

 けれど今、怖いのは月だけではなかった。

 言葉だ。

 対象者。
 未登録。
 保護封役。
 停止。
 中心因子。

 ひとつひとつが、白い札になる。

 人の目を変える。

 サヨをサヨではないものへ、少しずつ置き換えていく。

「月が喰うんじゃない」

 イロハは呟いた。

「こういう言葉も、喰うんだ」

 アリノリは何も言わなかった。

 代わりに、《コトサダメ》の額の朱印が淡く光った。

 白い札が、さらに一枚、月紐から下がる。

 そこにはまだ文字がない。

 空白の札。

 イロハの背筋が凍る。

 空白は、恐ろしい。

 何も書かれていないからではない。
 これから、誰かが書けるからだ。

 アリノリが、空白の札へ手を伸ばす。

「未在役名、仮記載準備」

 記録役が告げる。

 サヨの影が、また薄くなった。

 今度は輪郭だけではない。

 御簾の内側にある顔の線まで、どこか遠くなる。

 イロハは思わず踏み出した。

「やめてください」

 仮面籍庁の下役が、すぐに前を塞ぐ。

「儀礼中です。面師イロハ殿は控えてください」

「今、止めないと――」

「本審査は、典役卿の権限により進行しています」

 下役の声もまた、冷静だった。

 誰も怒鳴らない。

 誰も乱暴に押さえつけない。

 けれど、動けない。

 制度は、叫ばずに人を止める。

 イロハの指が震えた。

 面箱の中の《ナギノオモテ》が、かすかに熱を持つ。

 開けるべきか。

 いや、違う。

 まだ違う。

 ここで開ければ、自分の面の力をサヨへ重ねてしまう。

 第9話で決めたはずだった。

 サヨ様には、同じことをしない。

 勝手に役を置かない。

 なら、今できることは何か。

 イロハは息を吸う。

 サヨを見る。

 サヨはまだ、立っている。

 薄くなりながらも、そこにいる。

 空座の前で。
 白い光に足元を絡め取られながら。
 それでも、誰かに代わらせずに。

 アリノリが空白の札へ筆を向けた。

「サヨ=ミカゲ。未在役名、保護封役。仮称――」

 その瞬間。

 遠くで、小さな鈴が鳴った。

 りん。

 かすれていた。

 正式な奉納鈴の音ではない。
 整った神楽の音でもない。

 けれど、確かに鳴った。

 イロハは振り向く。

 名喰月見台の外縁。
 役人たちの後方。
 白札を貼られたままの神楽師ユラ=シラビョウが立っていた。

 鈴祈舞面《ユラノスズ》は着けていない。

 正式な舞ではない。

 けれど、彼女は小さく鈴を持ち、震える手で、もう一度鳴らした。

 りん。

 月紐が揺れた。

 黒皿の満月が、一瞬だけ波打つ。

 アリノリの筆が、空白の札の前で止まった。

 サヨは、その音を聞いた。

 そして、薄くなりかけた影のまま、ほんの少しだけ顔を上げた。

 イロハは気づく。

 封役の儀は、まだ終わっていない。

 サヨはまだ、空座に置かれていない。

 ならば、まだ間に合う。