EP 102

第10話 名喰月見台

第五節 ― 刀を抜かぬ守り

 ユラの鈴が、もう一度鳴った。

 りん。

 細く、震える音。

 それは正式な奉納舞の鈴ではなかった。
 白札の貼られた神楽師が、許された舞台の外で鳴らした、かすかな音だった。

 けれど、その音は名喰月見台に届いた。

 月紐が揺れる。

 空白の札へ向かっていたアリノリの筆が、わずかに止まる。

 黒皿の満月が、ひと呼吸ぶんだけ波打った。

「儀礼外の音です」

 仮面籍庁の下役が低く言った。

「止めなさい」

 数人の役人が、月見台の外縁へ動く。

 ユラは肩を震わせた。

 けれど、逃げなかった。

 白札の貼られた鈴祈舞面《ユラノスズ》は、彼女の手元にない。
 正式な舞台へ立つ資格もない。
 それでも、彼女は鈴を握っている。

 イロハは、その姿を見た瞬間、足が前へ出た。

「ユラさんに触らないでください」

 しかし、すぐに別の下役がイロハの前へ立った。

「面師イロハ=ナギ殿。儀礼進行中です。指定位置へお戻りください」

「今、止めたらだめなんです」

「判断は典役卿が行います」

「これは判断じゃありません。始まった一歩です」

 下役の表情は変わらない。

 丁寧で、冷たい。

「白札対象者による未許可の儀礼音です。月喰い現象への影響が不明なため、制止します」

 また言葉が整えられる。

 未許可。
 対象者。
 影響不明。
 制止。

 それだけで、ユラの鈴が危険なものにされていく。

 イロハは歯を食いしばった。

 ここでも同じだ。

 誰かがやっと踏み出した一歩を、制度が危険として分類する。

 その時だった。

 石段の下から、低い声が響いた。

「ここから先へは通しません」

 役人たちの足が止まった。

 月見台の入口に、ひとりの若い武士が立っていた。

 ハルマサ=アカツキ。

 暁刃戦面《アカツキノハ》は着けていない。
 面箱も、正式な番衆装束もない。
 腰には刀がある。
 だが、刀には封紐が巻かれていた。

 黒縁の白札。

 封役中であることを示す札が、鞘の側に結ばれている。

 ハルマサは、その札を隠していなかった。

 むしろ、見せたまま立っていた。

 下役のひとりが眉をひそめる。

「ハルマサ=アカツキ。貴殿は暁刃戦面《アカツキノハ》封役中のはずです」

「はい」

 ハルマサは静かに答えた。

「番衆任官も停止されている」

「はい」

「ならば、何の資格でここに立つ」

 その問いは、鋭かった。

 資格。

 役札。

 許可。

 この場では、それがすべてだった。

 誰が上座へ立てるか。
 誰が発言できるか。
 誰が守ることを許されるか。
 誰が舞えるか。
 誰が面を扱えるか。

 すべて札で決まる。

 ハルマサは、自分の封紐に一度だけ目を落とした。

 そして、顔を上げる。

「資格ではありません」

 月見台の空気が、わずかに揺れた。

「私の意思です」

 下役たちは、すぐに反応できなかった。

 その言葉は、彼らの台帳に載りにくいものだった。

 資格ではない守り。
 役札によらない立ち位置。
 面を着けず、刀も抜かず、それでも通さないという意思。

 アリノリが、面越しにハルマサを見る。

「ハルマサ=アカツキ」

 《コトサダメ》を通した声が響いた。

「貴殿の戦面は封役中です。武士としての公的行使は認められていません」

「承知しています」

「ならば退きなさい」

「退きません」

 ハルマサの声は震えていなかった。

 彼は刀を抜かない。

 柄に手もかけない。

 ただ、立っている。

 第3話の夜、彼は刀を抜けなかった。
 剣術を忘れたわけではない。
 敵が見えなかったわけでもない。
 ただ、何のために刀を抜くのかがわからなくなっていた。

 その彼が今、刀を抜かずに立っている。

 イロハは、胸の奥が熱くなるのを感じた。

 ハルマサは、刀で守るために来たのではない。

 抜かないことで守るために来たのだ。

「ここから先へは通しません」

 ハルマサはもう一度言った。

「ユラ殿の鈴を止めに行く者を、私は通しません」

「封役中の身で、仮面籍庁の儀礼進行を妨げるつもりか」

「妨げます」

 下役が息を呑む。

 ハルマサは続けた。

「ただし、刀は抜きません」

 彼は両手を下げたまま、そこに立っていた。

「斬るためではありません。害を通さないために、立っています」

 それは、第3話で彼が見つけた答えだった。

 敵を斬る役ではない。
 人々の前に立ち、ここから先へ害を通さない役。

 あの時は、鉄鉢の満月を断つために一度だけ刀を抜いた。

 だが今は違う。

 今ここで刀を抜けば、すべてがアリノリの言う「不安定」の証になる。
 封役中の武士が暴れたと記録される。
 サヨの周囲は危険だと、白札にさらに文字が増える。

 だから、抜かない。

 抜かずに、立つ。

 ハルマサはそれを選んだ。

 アヤメが、サヨの後ろで静かに彼を見た。

 以前なら、彼女は厳しく断じただろう。

 守るべき時に刀を抜けぬ者。
 護衛に値しない者。
 役として不安定な者。

 けれど今、アヤメは何も言わなかった。

 ただ、ほんのわずかに目を伏せた。

 それは、認めたというより、見届けた仕草だった。

 サヨの薄くなった輪郭が、かすかに揺れる。

 彼女も、ハルマサを見ていた。

「ハルマサ殿」

 サヨが呼んだ。

 ハルマサは、月見台の入口から深く頭を下げた。

「サヨ様。私は番衆ではありません。今は、封役中の身です」

「はい」

「ですから、あなたを公的にお守りする資格はありません」

「はい」

「それでも」

 ハルマサは、頭を上げた。

「あなたが自分で立とうとしている場所へ、他人が踏み込んでくるなら、私はその前に立ちます」

 サヨの瞳が、静かに揺れた。

「それは、役ですか」

 ハルマサは一瞬、黙った。

 そして答えた。

「まだ、役札にはなっていません」

 イロハは、その言葉を聞いて息を吸った。

 まだ役札にはなっていない。

 でも、ある。

 ユラの白札の外側の舞。
 サヨのまだ名のない一歩。
 灰面長屋の子どもたちの足音。
 そして、ハルマサの刀を抜かぬ守り。

 制度に登録されていなくても、人は動ける。

 役名がなくても、守る意思は消えない。

 アリノリの《コトサダメ》が、わずかに震えた。

 面の裏で、役名符が擦れるような音がした。

 定まった役ではない。
 既存の分類に入らない。
 だから読めない。

 けれど、読めないからといって、存在しないわけではない。

 ユラが、もう一度鈴を鳴らした。

 りん。

 今度は少しだけ、音が澄んだ。

 白札の外側の舞。

 その音を止めるために動こうとしていた役人たちは、ハルマサの前で足を止めたままだった。

 刀を抜かれたわけではない。
 脅されたわけでもない。

 ただ、通れない。

 そこに立つ者の意思が、道をふさいでいた。

 アリノリは、静かに言った。

「封役中の者が、未許可の意思によって儀礼を妨げる。これもまた、不安定役の拡大です」

 イロハは、アリノリを見た。

「違います」

「何が違うのですか」

「拡大じゃありません」

 イロハは、ハルマサとユラを見た。

 そして、薄くなりながらも中央に立ち続けるサヨを見る。

「戻ってきているんです」

 アリノリは黙った。

「月に喰われた役が、札の外側から戻ろうとしているんです」

 黒皿の満月が、また揺れた。

 空白の札へ向かっていた筆先に、墨が一滴落ちる。

 だが、その墨は札に触れる前に、宙でにじんだ。

 月紐が震える。

 サヨの影が、ほんの少しだけ濃くなった。

 イロハはそれを見た。

 まだ、完全ではない。

 けれど、消えてはいない。

 ハルマサの立つ姿。
 ユラの鈴。
 アヤメが一歩引いて空けた場所。

 それらが、サヨの輪郭を少しずつ引き戻している。

 サヨは、黒皿の満月を見つめたまま、静かに言った。

「わたしは、ひとりで立つのではないのですね」

 イロハは答えた。

「はい」

 サヨは少しだけ首を傾ける。

「けれど、誰かに代わってもらうのでもない」

「はい」

 その答えが、月見台の上に落ちた。

 空白の札が、ゆっくりと揺れる。

 まだ何も書かれていない。

 けれど、もう簡単には書けない。

 サヨの周りに、未登録の役が集まり始めていた。

 白札の外側の舞。
 封役中の守り。
 代わりに立たない護衛。
 勝手に彫らない面師。

 それらは、まだ王朝の言葉になっていない。

 だからこそ、今この場で、強かった。