EP 103

第10話 名喰月見台

第六節 ― 仮記録の陰陽師

 月見台の端で、紙の擦れる音がしていた。

 ユラの鈴。
 ハルマサの立つ足音。
 月紐の揺れる音。

 そのすべてに混じって、筆が走る音がある。

 セイラン=ナナツジは、星見楼の陰陽師として、そこにいた。

 正式な審査員ではない。

 第4話の報告書は、仮記録扱いに落とされた。
 鏡水に現れた白い半面も、反転文字も、式面の内側に出た満月も、正式記録としてはまだ認められていない。

 だから、彼はこの場で重い発言権を持たない。

 それでも、来た。

 記録するために。

 セイランは、月見台の外縁に小さな文机を置き、膝をついて筆を走らせていた。

 白い紙の上に、墨の線が流れる。

 名喰月見台。
 半月の夜。
 黒皿、満月反応。
 サヨ=ミカゲ様、空座前に立つ。
 月紐、役名札を受理。
 封役儀、進行。
 ユラ=シラビョウ、白札外より鈴音。
 ハルマサ=アカツキ、封役中、抜刀せず立つ。

 そこまで書いた瞬間、文字が反転した。

 紙の上の墨が、鏡に映したように左右を裏返す。

 セイランは息を詰めた。

 まただ。

 第4話の鏡水の実験と同じ。
 自分で書いたはずの文字が、自分には読みにくいものへ変わっていく。

 まるで、誰かが反対側から読んでいる。

 あるいは、こちら側の記録を、向こう側の記録へ移そうとしている。

 セイランの手が、一瞬止まった。

 その隙に、紙の端が白く滲む。

 書いたはずの文字が、薄くなりかけた。

 サヨの影と同じように。

「ヒヨリ」

 セイランが低く呼ぶ。

 袖口から、小さな白い紙狐が飛び出した。

 耳と尾に青い線が入った式神。
 折り紙のような身体が、ひらりと文机の上へ乗る。

 ヒヨリは、逆さになりかけた紙の端を前足で押さえた。

 尾で、墨が滲む場所を軽く叩く。

 すると、消えかけた文字が、かろうじて紙に留まった。

 セイランは息を吐く。

「助かります」

 ヒヨリは返事をしない。

 ただ、尾で紙の余白に小さく書いた。

 ――読め。

 セイランは苦笑した。

「わかっています」

 そして、筆を持ち直す。

 反転した文字の隣に、もう一度同じことを書く。

 今度は、右から左へ。
 次に、左から右へ。
 それでも駄目なら、行を変えて、符号を付ける。
 漢字が反転するなら、星点で記す。
 星点がずれるなら、方位で補う。
 方位が狂うなら、時刻と証人名を添える。

 読みにくくなるなら、読めるまで写す。

 セイランは、そう決めていた。

 アリノリの声が、月見台の中央から響く。

「陰陽寮セイラン=ナナツジ」

 《コトサダメ》を通した声だった。

「儀礼中の記録は、典役院の許可を得て行われるものです。貴殿の報告は、現在も仮記録扱いです」

 セイランは筆を止めなかった。

「承知しています」

「ならば、その記録は正式な審査記録にはなりません」

「それも承知しています」

 アリノリの面が、わずかにこちらを向く。

「正式記録とならぬものを、なぜ書くのですか」

 セイランの筆先が、紙の上を滑った。

 今度は反転しない。

 彼は静かに答える。

「正式記録にならずとも、記録されなかったことにはしません」

 その声は大きくなかった。

 けれど、月見台に届いた。

 イロハは、セイランを見る。

 彼の額には汗が滲んでいる。
 反転文字を追い、消えかける墨を押さえ、ヒヨリと共に紙へ事実を縫い留めている。

 第4話で、ヒヨリは彼に告げた。

 あなたは、命じる役ではない。
 読む者。

 そして今、セイランは命じていない。

 止めてもいない。
 斬ってもいない。
 鈴を鳴らしてもいない。

 ただ、読む。

 そして書く。

 見たものを、なかったことにしないために。

 アリノリは言った。

「読めぬ記録は、混乱を招きます」

 セイランは筆を走らせながら答えた。

「読めるようにします」

「反転し、崩れ、正式様式を満たさぬ記録は、後世に誤解を残します」

「残らないよりはいい」

 その言葉に、月見台の空気が少しだけ変わった。

 セイラン自身も、自分がそんな言い方をしたことに驚いたようだった。

 普段の彼なら、もっと整った言葉を選んだだろう。

 陰陽寮の様式。
 記録の形式。
 正式な証明。
 読み手への配慮。

 それらを重んじる者だからだ。

 だが今は、違った。

 形式を整える前に、消えようとしているものがある。

 サヨの影。
 ユラの鈴。
 ハルマサの抜かぬ守り。
 アヤメが一歩引いたこと。
 イロハが勝手に彫らないと決めたこと。

 それらが、正式記録になるまで待っていたら、月か札か制度に喰われる。

 だから、まず書く。

 読みにくくても。
 反転しても。
 仮記録でも。

「私は」

 セイランは、ようやく顔を上げた。

「この場で起きたことを、なかったことにはしません」

 ヒヨリが、紙の上で尾を立てた。

 小さな紙狐の影が、半月の光に揺れる。

 セイランは続ける。

「サヨ=ミカゲ様が、自ら空座前へ進んだこと」

 筆が走る。

「アヤメ=シラハ殿が、代わりに立たず、後ろへ引いたこと」

 また一行。

「ユラ=シラビョウ殿が、白札外より鈴を鳴らしたこと」

 文字が一瞬反転する。

 ヒヨリが紙を押さえる。

 セイランは書き直す。

「ハルマサ=アカツキ殿が、刀を抜かずに道を遮ったこと」

 墨が滲む。

 彼は、上から星点を打つ。

「面師イロハ=ナギ殿が、サヨ様の役を勝手に定めぬと表明していること」

 イロハは息を止めた。

 そんなことまで書くのかと思った。

 だが、セイランは書いた。

 記録とは、起きたことを残すもの。

 なら、言葉になりにくい決意も、ここでは起きたことなのだ。

 アリノリは沈黙していた。

 《コトサダメ》の面は、何も読めないものを前にした時のように、わずかに白く揺れている。

 セイランの記録は、正式な役名ではない。
 台帳にもない。
 定役面で判定しにくい。

 だが、確かにそこにある。

 仮記録。

 まだ正式には認められないが、消されてもいない記録。

 それは、今のサヨに似ていた。

 まだ役名になっていない。
 面もない。
 だが、いないことにはできない。

 黒皿の満月が、ふたたび波打った。

 今度は白い歯のような光が、皿の底から伸びかける。

 セイランの紙に書かれた文字が、一斉に薄くなる。

「消える」

 イロハが叫ぶ。

 セイランは、すぐに筆を置いた。

 両手で紙を押さえる。

 ヒヨリも全身で紙へ貼りつく。

 それでも、墨が白く抜けていく。

 記録そのものが、月へ吸われそうになっている。

 セイランは歯を食いしばった。

「ヒヨリ」

 紙狐が、尾で自分の胸を叩く。

 紙の身体から、小さな青い線がほどけた。

 それが、セイランの筆に絡む。

 式神の力を、筆へ通したのだ。

 セイランは、その筆で消えかけた文字の上から、もう一度線を引く。

 反転するなら反転ごと。
 崩れるなら崩れた形ごと。
 白く抜けるなら、抜けた部分の輪郭ごと。

 記録する。

 きれいな文字ではない。

 だが、そこに何かがあったことだけは残る。

「読みにくいなら」

 セイランは、低く言った。

「読めるまで写します」

 筆が走る。

「正式記録にならずとも」

 また一行。

「記録されなかったことにはしません」

 その瞬間、紙の白抜けが止まった。

 完全に戻ったわけではない。

 文字は反転し、ところどころ滲み、星点と方位記号が混ざっている。
 正式な報告書としては、ひどく読みにくい。

 けれど、残った。

 サヨの影が、ほんの少し濃くなる。

 イロハは、それを見た。

 鈴がサヨの輪郭を呼んだ。
 ハルマサの立つ姿が、札の進行を止めた。
 セイランの仮記録が、サヨの選択を「なかったこと」にさせない。

 ひとつひとつは小さい。

 どれも、制度から見れば不完全だ。

 白札の外側の鈴。
 封役中の武士。
 仮記録の陰陽師。

 けれど、その不完全なものたちが、サヨのまわりに集まり始めている。

 サヨは、黒皿の満月を見たまま、そっと口を開いた。

「わたしは、記録されていますか」

 セイランは、即座に答えた。

「はい」

「正式ではなくても」

「はい」

「読みにくくても」

「読めるまで、写します」

 サヨは、ほんの少しだけ目を伏せた。

 その表情は、泣きそうにも見えた。

 けれど彼女は泣かなかった。

 代わりに、静かに言った。

「ありがとう」

 月紐が揺れる。

 空白の札は、まだ空白のままだ。

 アリノリは、筆を持つ手を下ろしていない。

 封役の儀は止まっていない。

 けれど今、サヨの選択は、少なくとも一枚の紙の上に残された。

 仮の記録として。

 それはまだ弱い。

 しかし、喰われなかった。