EP 104

第10話 名喰月見台

第七節 ― 月は口ではない

 黒皿の満月が、ひび割れるように揺れた。

 水ではない。
 けれど、波紋が立った。

 漆黒の底に浮かんでいた完全な円が、内側から押し広げられる。
 白い光が、薄い膜のように伸び、月の表面を覆っていく。

 イロハは、息を止めた。

 そこに、面が映った。

 白い半面。

 目穴はない。
 けれど、見ている。
 口はない。
 けれど、語る。

 鏡ノ客。

 エル=ネフリド。

 黒皿の底に映ったそれは、これまでよりもはっきりしていた。

 鏡水の中では揺らいでいた。
 《コトサダメ》の裏では一瞬だった。
 灰皿では灰に紛れていた。
 無面原の木肌では木目に溶けていた。

 だが今、名喰月見台の黒皿の中で、白い半面は月そのものの裏から浮かび上がっているように見えた。

 仮面籍庁の役人たちが、息を呑む。

 アヤメは刀に手をかけた。
 ハルマサは抜かぬまま、さらに足を踏みしめた。
 ユラの鈴が、震える手の中で小さく鳴った。
 セイランは筆を止めず、震える文字で記録を続ける。
 ヒヨリは紙の上で耳を伏せた。

 そして、アリノリも見ていた。

 《コトサダメ》を着けたまま。

 面越しに。

 彼もまた、その白い半面を見ていた。

 イロハは黒皿へ一歩近づいた。

 下役が止めようとしたが、ハルマサがわずかに身を入れる。

 刀は抜かない。
 ただ、そこに立つ。

 下役は動けなかった。

 イロハは、黒皿の中の白い半面を見つめる。

「あなたは」

 声がかすれた。

「ずっと、何を映していたんですか」

 白い半面は答えない。

 ただ、黒皿の満月の中で、わずかに傾いた。

 その表面に、いくつもの影が流れる。

 ユラの止まった一歩。
 カンナが香炉の前で失った手つき。
 ハルマサの抜けなかった刀。
 セイランの反転した文字。
 ミツの映らなかった顔。
 《ヒドメ》の中に残った足音。
 無面原の白い木。
 《ナギノオモテ》の内側の空白。
 そして、空座の前に立つサヨ。

 それらが、黒皿の中を巡っていく。

 まるで、月が喰ったものの記録のように。

 けれど、違う。

 イロハは、違和感を覚えた。

 喰われたものだけではない。

 隠されたものも映っている。
 札で保留されたものも映っている。
 終わったはずの役も映っている。
 まだ始まっていない一歩も映っている。

 ならば。

 イロハは、喉の奥から問いを押し出した。

「月が、喰っているんじゃないんですか」

 名喰月見台が、静まり返った。

 半月の夜。
 黒皿の満月。
 白い半面。

 すべてが、イロハの問いを待っているようだった。

 白い半面が、ようやく答えた。

「月は、名を喰う口ではありません」

 その声は、誰の声でもなかった。

 男にも女にも聞こえる。
 老いた者にも、子どもにも聞こえる。
 近くから響いているようで、どこまでも遠い。

 イロハは瞬きを忘れた。

 アリノリの肩が、ほんのわずかに揺れる。

 白い半面は続けた。

「月は、喰われたことにされた名を映す鏡です」

 黒皿の満月が、音もなく震えた。

 場が凍った。

 誰もすぐには言葉を出せなかった。

 月は、口ではない。

 喰っているのではない。

 喰われたことにされたものを、映している。

 イロハの頭の中で、これまでの出来事が逆向きに流れ始める。

 ユラは、月に舞の入口を喰われたのだと思っていた。
 けれど、もしかしたら誰かが、あるいは何かが、その入口を「喰われたこと」にしたのではないか。

 カンナの香役。
 ハルマサの抜刀。
 セイランの読む役。
 サヨの皇女としての役。

 失われたのではなく。
 奪われたのでもなく。
 消されたことにされた。

 そして月は、それを映していただけだとしたら。

 では、本当に喰っているのは誰なのか。

 イロハは、月紐に吊られた札を見る。

 役名保留者。
 未登録皇女。
 封じるべき未在。
 白影宮外儀礼停止。
 月喰い中心因子。

 紙が人を変えていく。
 呼び名が視線を変えていく。
 制度が役を奪い、その奪われた痕を、月が映す。

 イロハの背筋に、冷たいものが走った。

 サヨは、黒皿を見つめていた。

「喰われたことにされた名……」

 彼女は小さく呟く。

 その声は、誰に聞かせるものでもなかった。

 けれど、イロハには聞こえた。

 サヨの面がない理由。

 それは、ただ存在しなかったからなのか。
 それとも、存在しないことにされたのか。

 アリノリの筆が止まっていた。

 《コトサダメ》の面が、わずかに震えている。
 裏に貼られた役名符が擦れ合う音が、かすかに聞こえた。

 アリノリも揺らいだのだ。

 その一瞬だけ、確かに。

 彼の前提がずれた。

 月が喰う危険。
 だから未在を封じる。
 だからサヨを遠ざける。
 だから役名を保留する。

 その論理の土台に、白い半面が亀裂を入れた。

 月は口ではない。

 鏡だ。

 ならば、封じるべきは月ではない。
 サヨでもない。

 もっと別の何かだ。

 イロハは、そう思った。

 だが。

 アリノリは、ゆっくりと筆を握り直した。

 揺らぎは、一瞬で消えた。

「なるほど」

 彼は言った。

 声は再び整っていた。

「月が喰うのではなく、喰われたことにされた名を映す」

 《コトサダメ》越しの声が、月見台に落ちる。

「ならば、なおさら封じるべきです」

 イロハは、息を呑んだ。

「どうして」

「映るものが危険なら、映らぬよう保護する」

 アリノリは、迷わなかった。

「誰が喰ったのか、何が喰わせたのか。それは後に調べればよい。ですが今、名喰月見台に満月が現れ、サヨ様の未在役名が映されている事実は変わりません」

「サヨ様を封じても、原因は止まりません」

「原因調査と被害拡大防止は別です」

 その言葉は正しかった。

 だからこそ、冷たかった。

「火がどこから出たかを調べる前に、人を火元から遠ざける。疫が何によるものか解明する前に、感染地を閉じる。役喰いも同じです」

「サヨ様は火元じゃありません」

「火元かどうかが未確定である以上、近づけるわけにはいきません」

「未確定だから封じるんですか」

「未確定だからこそです」

 イロハは、言葉を失った。

 アリノリは強い。

 真相の一部を見ても、壊れない。

 むしろ、それを自分の論理へ組み込む。

 月が口でないなら、鏡を伏せればよい。
 映るものが危険なら、映らぬようにすればよい。
 喰われたことにされた名があるなら、その名がさらに広がらぬよう保護すればよい。

 彼の中では、すべてが「守る」へ戻る。

 封じることが守ることなのだ。

 黒皿の白い半面は、何も言わなかった。

 イロハは、思わず叫びそうになる。

 何か言ってください。

 違うと言ってください。

 この人が間違っていると、はっきり言ってください。

 けれど、白い半面は何もしない。

 エル=ネフリドは救わない。

 弔わない。
 始めさせない。
 止めない。

 ただ、映すだけ。

 その残酷さを、イロハはここで改めて知った。

 エンジュの言葉が脳裏に蘇る。

 あれは弔う神ではありません。
 映すだけのものです。

 アリノリは黒皿へ視線を落とす。

「白面の観測異常、確認」

 記録役が、ためらいながら筆を走らせる。

 セイランもまた、別の紙へ同じことを書いた。

 ただし、彼はそこに一文を加えた。

 ――月は口ではなく、鏡である可能性。

 文字はすぐに反転しかけた。

 ヒヨリが尾で押さえる。

 セイランは、もう一度書く。

 反転しても、消えても、写す。

 アリノリは空白の札へ向き直った。

「本儀、継続」

 その声が響いた瞬間、黒皿の満月が再び白く強まる。

 サヨの影が、また薄くなった。

 イロハは叫んだ。

「待ってください!」

 だが、アリノリは止まらない。

「サヨ=ミカゲ様。月が口でないとしても、御身が映される危険は消えておりません」

 サヨは、黒皿の中の白い半面を見つめている。

 その顔は、青ざめていた。
 けれど、目は逸らさない。

「映されることが、危険なのですか」

 サヨが問う。

 アリノリは答える。

「映ったものが他者の役を揺らがせるなら、危険です」

「では、誰にも見られなければ、わたしは安全なのですか」

「少なくとも、被害は抑えられます」

「それは」

 サヨの声が、少しだけ震えた。

「生きていることと、同じですか」

 アリノリは、答えなかった。

 白い半面が、黒皿の底でわずかに傾く。

 その面の表面に、サヨの顔が映った。

 薄く、揺らぎながら。

 面のない皇女。
 役名保留候補。
 未登録皇女。
 封じるべき未在。

 そして、そのどれでもない、一人の少女。

 サヨは、自分の映った顔を見た。

「わたしは」

 彼女は静かに言った。

「映されることを、恐れたくありません」

 月紐が鳴った。

 白い札が揺れる。

 アリノリは、低く告げる。

「恐れなくても、危険は存在します」

「はい」

「ならば封じます」

「いいえ」

 サヨは、初めてはっきりと否定した。

「わたしは、映らないように守られるのではなく」

 彼女は、黒皿の満月を見た。
 その奥の白い半面を見た。
 月紐の札を見た。
 イロハを見た。
 ユラを、ハルマサを、セイランを、アヤメを見た。

「何が映っても、わたしがわたしであると見届けられる場所に立ちたい」

 イロハの胸が熱くなった。

 それは、まだ役名ではない。

 けれど、確かな一歩だった。

 アリノリは沈黙する。

 《コトサダメ》の白い面が、わずかに揺れる。

 読めないのだ。

 既存の役名にはない。
 台帳にもない。
 でも、そこにある。

 黒皿の中で、白い半面が静かに映っている。

 月は口ではない。

 鏡だ。

 ならば今、月見台に映っているものは。

 サヨが喰われる瞬間ではなく。

 サヨが、自分を封じる言葉に抗って、初めて自分の立つ場所を言葉にした瞬間だった。