EP 105

第10話 名喰月見台

第八節 ― 仮解き

 イロハは、黒皿の満月から目を離した。

 月は口ではない。

 鏡。

 ならば、今ここで喰っているのは月ではない。

 月紐に下げられた札。
 記録役の筆。
 《コトサダメ》の判定。
 周囲の視線。
 そして、守るという名でサヨの上に重ねられていく言葉。

 それらが、サヨの輪郭を薄くしている。

 イロハは一歩、前へ出た。

 下役がまた止めようとする。

「面師イロハ殿。儀礼中です」

「わかっています」

 イロハは答えた。

 声は震えていた。

 けれど、足は止まらなかった。

「だから、ほどきます」

 下役が眉をひそめる。

「何を」

「サヨ様ではないものを」

 イロハは腰の道具袋を開いた。

 取り出したのは、彫刻刀ではなかった。

 第8話、冥祀社で《ヒドメ》の役解きに使った白布。
 焼け残った木目のような細い跡が、まだ布の端に残っている。

 直すための布ではない。
 戻すための札でもない。

 ほどくための布。

 それを見て、月見台の端に立っていたエンジュ=クラモリが、静かに目を細めた。

 彼は冥祀社から立会人として呼ばれていた。
 名喰月見台の儀礼において、戻らぬ役、終わった役、封じられる役が出た時に備えるためだ。

 ここまで、彼は沈黙していた。

 弔う場ではない。
 送る場でもない。
 だから、口を出さなかった。

 けれど今、イロハが白布を手にした瞬間、エンジュは低く言った。

「縛りなら、ほどけます」

 その声は、月見台に静かに落ちた。

 アリノリが《コトサダメ》越しにエンジュを見る。

「冥祀僧エンジュ=クラモリ。これは役解きの儀ではありません」

「はい」

 エンジュはうなずいた。

「死者を送る場でもありません」

「ならば、口を挟むべきではない」

「ですが」

 エンジュは、サヨの足元に伸びる白い光を見た。

「縛られているものが、生者であるなら、なおさら慎重にほどくべきです」

 アリノリの面が、わずかに強張ったように見えた。

「封役は縛りではありません。保護です」

「保護と縛りは、時に同じ形をしています」

 エンジュの声は穏やかだった。

 だが、その穏やかさはアリノリとは違う。

 終わった役を見送ってきた者の静けさだった。

 イロハは白布を両手に持ち、サヨへ近づいた。

 サヨの輪郭は、まだ薄い。
 影も弱い。
 黒皿の満月から伸びる光が、足元に絡んでいる。

 月紐の札が、かさりと鳴った。

 ――役名保留者。

 その札から伸びた白い糸のようなものが、サヨの肩へ掛かっている。

 イロハには、それが見えた。

 実際の紐ではない。
 だが、仮面構文の中では確かにサヨへ触れている。

 イロハは、白布でその糸を受けた。

 引きちぎらない。

 切らない。

 無理に剥がせば、サヨ自身の輪郭まで傷つける。

 第8話で学んだ。

 戻すことが救いとは限らない。
 終わらせるには、壊すのではなく、ほどく必要がある。

 イロハは小さく息を吸った。

「これは」

 白布が、かすかに震える。

「あなたの役ではありません」

 月紐の札が揺れた。

「これは、あなたを待たせるために貼られた札です」

 白い糸が、少し緩む。

 アリノリが声を上げた。

「面師イロハ。勝手な儀礼干渉は認められません」

「儀礼じゃありません」

 イロハは振り向かない。

「診ています」

「何を」

「サヨ様に貼られたものが、本当にサヨ様の役なのかを」

 イロハは、白布をゆっくり回す。

 役名保留者の糸が、布に巻き取られるようにしてほどけていく。

 完全に消えるのではない。

 札はまだ月紐に下がっている。

 だが、それがサヨの肩へ直接触れる感覚だけが、薄れていった。

 サヨの影が、ほんの少し濃くなる。

 ユラの鈴が、月見台の外で小さく鳴った。

 りん。

 その音に合わせて、ウズメの舞殿で感じた笑いの気配が、遠くで揺れたような気がした。

 嘲笑ではない。

 始まりを見つけた時の、あの笑い。

 イロハは次の札を見た。

 ――未登録皇女。

 その文字は、奇妙だった。

 皇女という語は、サヨの血を示している。
 だが、未登録という墨が、その言葉の上に重くかぶさっている。

 血はある。
 けれど儀礼がない。
 存在する。
 けれど台帳にない。

 その矛盾が、サヨの胸元へ白い線となって絡んでいた。

 イロハは手を止めた。

 これをすべて外してよいのか。

 サヨが皇女であることまで、外してしまわないか。

 その迷いを見たのか、サヨが静かに言った。

「イロハ」

「はい」

「わたしは、皇女であることを捨てたいわけではありません」

「……はい」

「けれど、登録されていないから皇女ではない、と言われるのは違います」

 イロハは頷いた。

「わかりました」

 白布を、そっと胸元の線へ当てる。

「これは、あなたの血ではありません」

 布が淡く光った。

「これは、あなたを台帳の外から測るための札です」

 未登録皇女の線が、少しずつほどける。

 皇女という言葉は消えない。
 サヨの中にあるものだから。

 だが、未登録という外側の墨だけが、布へ移るように薄くなった。

 サヨは息をついた。

 ほんの小さな息。

 けれど、それは確かに彼女自身の息だった。

 セイランが、震える筆で記録する。

 ――面師イロハ、外部役名札の仮解きを開始。対象者ではなく、サヨ=ミカゲ様本人への影響を観測。

 文字が反転する。

 ヒヨリが押さえる。

 セイランは書き直す。

 正式でなくても、残すために。

 次の札が揺れた。

 ――面なき者。

 それを見た瞬間、イロハの胸に痛みが走った。

 灰面長屋の水桶。
 ミツの映らなかった顔。
 サヨのぼやけた輪郭。
 幼い頃の自分。

 面がないことは、事実かもしれない。

 けれど、それを人のすべてにしてはいけない。

 イロハは、白布を強く握った。

「これは」

 声が少し震えた。

「あなたの顔ではありません」

 サヨが、イロハを見る。

 イロハは続けた。

「これは、面がないことだけで、あなたを見るための札です」

 白い糸が、サヨの顔の輪郭へ触れていた。

 イロハは慎重に布を差し入れる。

 サヨの輪郭まで削らないように。

 面なき者という札だけを、外側からほどくように。

「面は、顔を奪うためのものじゃありません」

 イロハは言った。

「あなたの一歩が失われないようにするための器です。まだ追いついていないだけです。ないことを、あなたそのものにしないでください」

 白い糸が、ふっと緩んだ。

 サヨの頬の線が、ほんの少しだけはっきりする。

 アヤメが、唇を噛んだ。

 彼女は前には出ない。

 けれど、その目はサヨから離れない。

 見届けている。

 代わりに立たずに。

 守っている。

 次の札。

 ――危険因子。

 この札は、他の札よりも強かった。

 黒皿の満月から伸びる白い光と深く結びつき、サヨの影へ食い込んでいる。

 イロハが触れた瞬間、指先が冷えた。

 危険。

 それは否定しにくい言葉だ。

 サヨの周囲で異常は起きている。
 月見台に満月も出ている。
 面がないことと月喰いが結びついている可能性もある。

 だが、危険であることと、その人を危険そのものとして扱うことは違う。

 第8話の《ヒドメ》を思い出す。

 火事場に向かった面。
 だが、最後の役は火を消すことではなかった。
 帰る子を呼んだことだった。

 表に見える役と、最後に果たされた役は違うことがある。

 サヨも同じだ。

 危険に近い場所にいる。
 だが、危険そのものではない。

 イロハは白布を当てた。

「これは、あなたの役ではありません」

 危険因子の線が、硬く抵抗する。

 ほどけない。

 アリノリの声が響く。

「それは観測上の分類です。外せば被害認識が乱れます」

「乱れているのは、見方です」

 イロハは答えた。

「危険があることは否定しません。でも、サヨ様を危険そのものにする札は、違います」

 ハルマサが、入口で静かに言った。

「危険があるからこそ、守る者が立つのです」

 封役中の武士の声。

 刀を抜かない守り。

 その言葉に、危険因子の糸が少し緩んだ。

 ユラの鈴が鳴る。

 りん。

 セイランの筆が走る。

 ヒヨリが紙を押さえる。

 アヤメが、サヨの後ろで静かに息を整える。

 いくつもの未登録の役が、サヨの周りに集まっていく。

 危険因子の線が、ついに白布へ移った。

 サヨの影が、また濃くなる。

 最後の札が残る。

 ――封じるべき未在。

 イロハは、その札を見上げた。

 これが一番深い。

 未在。

 まだないもの。

 まだ役名になっていないもの。

 それを、封じるべき、と決めている札。

 イロハは、無面原の白い木を思い出した。

 面になる前の場所。
 まだ何も与えられていない白。
 自分の《ナギノオモテ》に混ざっていた救いと罪。

 未在は、危うい。

 それは本当だ。

 誰かが勝手に彫れば、改変になる。
 誰かが恐れて封じれば、始まりが失われる。

 だから、未在は扱いが難しい。

 けれど。

 封じるべき、と決めるのは違う。

 イロハは、白布を持つ手を下ろした。

 そして、サヨに向き直る。

「サヨ様」

「はい」

「これは、私だけではほどけません」

 サヨは、静かにイロハを見た。

「なぜですか」

「未在そのものは、あなたのものだからです」

 イロハは、月紐の札を見上げる。

「封じるべき、という外側の言葉はほどけます。でも、未在を消してはいけない。まだない役を、なかったことにしてはいけない」

 サヨは、ゆっくりと頷いた。

「では、どうすれば」

「選んでください」

 イロハの声は、小さかった。

 だが、はっきりしていた。

「今はまだ、役名を決めなくていい。面も完成していません。けれど、その未在を、封じられるものとしてではなく、あなたがこれから選ぶものとして持つかどうか」

 サヨは、黒皿の満月を見る。

 その奥で、白い半面が静かに映っている。

 何も言わない。

 救わない。

 ただ、映す。

 サヨは、自分の薄さを知っている。
 面がないことも。
 役名がないことも。
 月に映ることの危うさも。

 それでも、彼女はここまで来た。

「わたしは」

 サヨが口を開いた。

 月紐が揺れる。

 空白の札が、まだ彼女を待っている。

「まだ、何者として立つのかを、すべては知りません」

 アリノリが、黙って聞いている。

「けれど、知らないからといって、封じられることは望みません」

 サヨは、一歩、黒皿の方へ進んだ。

 白い光が足元で震える。

「わたしは、未在を持ったまま立ちます」

 その言葉が落ちた瞬間、イロハは白布を掲げた。

「これは、あなたの役ではありません」

 封じるべき未在の札から伸びる太い白糸へ、布を掛ける。

「これは、あなたが選ぶ前に、あなたを止めるために貼られた札です」

 ユラの鈴が鳴る。

 りん。

 ウズメの気配が、月見台の床下からふっと笑ったように揺れた。

 ハルマサが立つ。

 アヤメが見届ける。

 セイランが書く。

 エンジュが低く告げる。

「焦らずに。縛りの結び目だけを」

 イロハは頷いた。

 白布を、ゆっくり回す。

 切らない。
 破らない。
 奪わない。

 ほどく。

 封じるべき、という墨が、布へ移っていく。

 未在という白だけは、サヨの足元に残った。

 それはもう、薄くする光ではなかった。

 まだ形を持たない、白い余白だった。

 サヨの影が戻る。

 完全ではない。

 だが、もう消えかけてはいない。

 月紐に下がった札たちは、まだそこにある。
 仮面籍庁の記録から消えたわけではない。
 アリノリの審査が終わったわけでもない。

 けれど、それらはもうサヨの身体へ直接絡みついてはいなかった。

 外側に貼られた名として、揺れているだけだ。

 イロハは、白布を胸の前で握った。

 そこには、いくつもの墨が移っていた。

 役名保留者。
 未登録。
 面なき者。
 危険因子。
 封じるべき。

 サヨを止めるために貼られた言葉たち。

 イロハはそれを見て、静かに言った。

「サヨ様」

「はい」

「あなたは、まだ定まっていません」

「はい」

「でも、封じられるものでもありません」

 サヨは、ほんの少しだけ微笑んだ。

「では、わたしは」

 言葉を探すように、彼女は胸に手を当てた。

「まだ、選べるのですね」

 イロハは頷いた。

「はい」

 黒皿の満月が、静かに波打った。

 その中の白い半面は、何も言わない。

 ただ、今起きたことを映していた。

 月は口ではない。

 鏡。

 ならば今、そこに映っているのは。

 封じられる皇女ではなく。

 貼られた札をほどかれ、未在を自分の余白として抱え直したサヨの姿だった。