イロハは、白布を畳んだ。
墨を吸った布は、もう真白ではない。
役名保留者。
未登録。
面なき者。
危険因子。
封じるべき。
それらの言葉は、布の繊維に薄く滲み、まだ消えてはいなかった。
外れたからといって、なかったことにはならない。
貼られた痛みは残る。
人々がそう見た時間も残る。
制度がそう記した事実も残る。
けれど、それはもうサヨの肌に食い込んではいない。
サヨは、空座の前に立っていた。
影は戻っている。
まだ薄い。
けれど、そこにある。
イロハは、道具袋の奥へ手を入れた。
指先に触れたのは、小さな白い木片だった。
無面原から持ち帰った木片。
まだ面ではない。
輪郭もない。
目穴もない。
口もない。
役名もない。
ただ、白い。
白化面の白ではない。
灰の白でもない。
札の白でもない。
まだ、何にでもなれる白。
イロハは、その木片を両手で持った。
月見台にいる者たちの視線が集まる。
アリノリが低く言った。
「面材ですか」
「まだ面材とも呼べません」
イロハは答えた。
「ただの木片です」
「無許可の面材を、審査場へ持ち込んだのですか」
「面ではありません」
イロハは、サヨを見た。
「まだ」
その一言に、《コトサダメ》の役名符がかすかに震えた。
まだ。
仮面籍庁にとって、扱いにくい言葉だった。
未登録でもない。
完成でもない。
剥奪でもない。
封役でもない。
まだ。
それは、決定前の余白だった。
イロハは、サヨの前へ進む。
アヤメは動かない。
けれど、目だけはサヨの背を守っている。
ハルマサは入口に立ったまま、下役たちの動きを見ている。
刀は抜かない。
ユラの鈴は、もう鳴っていなかった。
だが、その余韻が月見台の石の下に残っている。
セイランは筆を止めず、木片が取り出されたことを書き留めた。
ヒヨリが紙の端を押さえている。
エンジュは、ただ静かに見ていた。
イロハは、サヨの前で膝をついた。
白い木片を差し出す。
「サヨ様」
「はい」
「あなたは、何者として立ちたいですか」
月見台が静まった。
その問いは、役名を求めるものではなかった。
仮面籍庁の台帳へ記すための問いではない。
皇族面の型へ当てはめるためでもない。
イロハが面を完成させるために、答えを急がせているわけでもない。
それでも、問いだった。
サヨ自身が、答えなければならない問い。
アリノリが口を開きかける。
「その問いは――」
「典役卿」
サヨが、静かに言った。
アリノリの言葉が止まる。
サヨは、彼を責めなかった。
怒鳴りもしなかった。
ただ、自分の声で続けた。
「これは、わたしへの問いです」
アリノリは沈黙した。
《コトサダメ》の面の奥で、何かが読み取れずにいるようだった。
サヨは、イロハの手の中の白い木片を見る。
そこにはまだ何も彫られていない。
だからこそ、恐ろしい。
誰かが彫れば、形になる。
誰かが名づければ、役になる。
誰かが急げば、また押しつけになる。
サヨは、長く息を吸った。
そして、ゆっくり吐く。
「まだ、名はありません」
その言葉に、イロハは頷いた。
急かさない。
言い換えない。
書き留めるように、ただ聞く。
サヨは続けた。
「けれど、保留されるためではなく、選ぶために立ちます」
黒皿の満月が、静かに波打った。
白い半面が、その奥でサヨを映している。
「わたしは、誰かに決められるまで息を止めて待つ者ではありません」
月紐の札が揺れる。
役名保留者の札が、かさりと鳴った。
だが、もうサヨへは絡みつかない。
「失われた役を覚え」
サヨの声は、少しだけ遠くを見るように変わった。
白影宮の香役カンナ。
忘れられかけた小さな役。
誰も覚えていない儀礼。
「終わった役を見送り」
冥祀社の白い面。
火留職面《ヒドメ》。
帰る子を呼んだ者の最後の役。
「まだ名のない者の一歩を見届けるために」
灰面長屋の子どもたち。
ユラの白札の外側の舞。
ハルマサの刀を抜かぬ守り。
セイランの仮記録。
アヤメが代わりに立たず、場所を空けたこと。
サヨは、まっすぐに黒皿の満月を見た。
「ここに立ちます」
言い終えた瞬間、月見台の空気が変わった。
大きな音はしない。
奇跡のように光が降ったわけでもない。
札が一斉に燃えたわけでもない。
黒皿の満月が消えたわけでもない。
けれど、確かに何かが変わった。
イロハの手の中の白い木片が、かすかに温かくなる。
木目が浮かんだ。
細い線。
顔の輪郭ではない。
目でもない。
口でもない。
皇女面の定型紋でもない。
それは、足跡に似ていた。
第7話、ウズメの舞殿でサヨが稽古板に踏み出した時、イロハが紙に引いた線。
灰面長屋の子どもたちの不揃いな足音。
封じられるためではなく、選ぶために立つという一歩。
その線が、白い木片の中に浮かび上がっている。
イロハは、息を呑んだ。
これだ。
役名ではない。
完成された顔でもない。
サヨの未在面に彫るべき最初のものは、表情ではなかった。
方向だった。
待つのではなく、選ぶために立つ方向。
失われたものを勝手に戻さず、終わったものを無理に縛らず、まだ名のないものを見捨てない方向。
イロハは、木片を胸の前に抱いた。
勝手に彫ってはいけない。
けれど、もう見えている。
サヨ自身が踏んだ一歩から、線が生まれた。
アリノリが、低く言う。
「それは、役名ではありません」
サヨは彼を見た。
「はい」
「台帳へ登録できる名ではありません」
「はい」
「儀礼上の立場を保証するものでもありません」
「今は、まだ」
その「まだ」に、イロハは胸が震えた。
アリノリは沈黙する。
《コトサダメ》は、サヨの答えを判定できない。
救う皇女。
見届ける皇女。
未在の皇女。
そうした名を与えれば、判定できたかもしれない。
だが、サヨは役名を言わなかった。
方向だけを示した。
だから、《コトサダメ》には定めきれない。
定めきれないものは、アリノリにとって危険だった。
しかし今、それを即座に封じるには遅すぎた。
なぜなら、その方向はもう、一人の少女の中だけにあるものではなくなっていたからだ。
ユラが見届けた。
ハルマサが守った。
セイランが書いた。
アヤメが立つ場所を空けた。
エンジュが縛りのほどき方を示した。
イロハが木片に受け取った。
黒皿の白い半面が、映した。
サヨの選択は、もう完全には消せない。
セイランの筆が走る。
――サヨ=ミカゲ様、役名を名乗らず。方向を示す。
文字が反転しかける。
ヒヨリが押さえる。
セイランは、もう一度書く。
――保留されるためではなく、選ぶために立つ、と発言。
今度は、文字が残った。
黒皿の満月が、わずかに欠けたように見えた。
いや、違う。
空の月に近づいたのだ。
完全な満月だった皿の中の月が、ほんの一部だけ影を持ち始めた。
半月の夜に、満月であり続けようとしていた黒皿が、現実の月を思い出したかのようだった。
イロハはそれを見た。
月は口ではない。
ならば、映るものが変われば、月も変わる。
サヨが保留される者としてではなく、選ぶ者として立った。
だから、黒皿の満月も、その姿を映し返し始めている。
アリノリは、その変化を見逃さなかった。
「黒皿、満月反応に揺らぎ」
記録役が震える声で告げる。
「揺らぎではありません」
セイランが、文机の端から言った。
アリノリが見る。
セイランは、反転しかけた記録紙を押さえながら続けた。
「観測対象が変化したため、反射が変わったのだと思われます」
「仮説です」
「はい」
セイランは頷いた。
「仮記録として残します」
イロハは、白い木片を見つめた。
浮かび上がった線は、消えない。
まだ彫っていない。
けれど、彫るべき場所はわかった。
サヨは、静かにイロハへ言った。
「それは、わたしの面になりますか」
イロハはすぐには答えなかった。
木片を見て、サヨを見た。
「まだ、面ではありません」
「はい」
「まだ、あなたの役名もありません」
「はい」
「でも」
イロハは、白い木片を両手で差し上げるように持った。
「最初の線は、見えました」
サヨは、微笑んだ。
その笑みは小さかった。
けれど、初めて空座の前で浮かんだ、サヨ自身の表情だった。
黒皿の白い半面は、何も言わない。
ただ、その笑みを映していた。