EP 107

第10話 名喰月見台

第十節 ― 最初の一彫り

 イロハは、白い木片を膝の上に置いた。

 名喰月見台の中央。
 黒皿の満月の前。
 月紐に吊られた札の下。
 空座のすぐそば。

 本来なら、ここで面を彫ることなど許されない。

 まして、皇女の未在面に関わるものを、典役卿の審査中に彫るなど、仮面籍庁の規定から見れば、ほとんど反逆に近い行為だった。

 けれど、イロハは彫刻刀を抜いた。

 細い刀。

 面師小路の裏工房で、何度も握ってきた道具。
 子どもの生面を直し、商家の職面を整え、欠けた祈面の縁を磨いてきた刀。

 その刃先が、今はひどく重く感じる。

 イロハは、白い木片を見た。

 そこに、顔はない。

 目もない。
 口もない。
 皇女の紋もない。
 王朝の承認印もない。

 あるのは、先ほど浮かび上がった細い線だけ。

 足跡のような線。
 方向のような線。
 まだ役名にならない、けれど確かに踏み出された一歩の線。

 イロハは、息を整えた。

 脳裏に、第6話の灰面長屋が浮かぶ。

 濁った水桶に映らなかったミツの顔。
 輪郭だけが揺れていたサヨの姿。
 面が追いついていないだけだと、自分は言った。

 次に、第7話のウズメの舞殿。

 正式な神楽ではない不揃いな一歩。
 白札の外側で鳴ったユラの鈴。
 サヨが稽古板に立った時に見えた、動きの線。

 さらに、第8話の冥祀社。

 戻してはいけない役。
 終わった役を無理に面へ縛らないための余白。
 直すことだけが救いではないと知った夜。

 そして、第9話の無面原。

 《ナギノオモテ》の内側にあった、救いと罪。
 ロウセツが自分を救い、同時に自分に選ばせなかったという事実。
 サヨの面になれたかもしれないものが、自分をここに立たせているという重さ。

 それらを、答えにしてはいけない。

 イロハはそう思った。

 これは、結論を彫る刀ではない。

 サヨの役名を、ここで定める刀ではない。

 ただ、消されないための最初の線。

 選ぶために立つ、とサヨが言った。
 その一歩を、月にも札にも制度にも、喰われたことにさせないための線。

 イロハは、刃先を木片へ当てた。

 アリノリの声が響く。

「面師イロハ。その行為は許可されていません」

 イロハは顔を上げない。

「面を完成させるわけではありません」

「未許可の皇族面作成行為と見なされます」

「皇族面ではありません」

 イロハは、白い木片から目を離さずに答えた。

「まだ、面ですらありません」

 アリノリの沈黙。

 《コトサダメ》の役名符が、かすかに擦れ合う音がした。

「では、何をするのですか」

 イロハは、刃先を動かす寸前で止めた。

 そして、サヨを見た。

「サヨ様」

「はい」

「彫っても、いいですか」

 サヨは、ほんの少し目を見開いた。

 その問いが、この場でどれほど大きな意味を持つのか、彼女にもわかったのだ。

 ロウセツは、イロハに選ばせなかった。
 救うために、先に面を与えた。

 イロハは、同じことをしない。

 たとえ一彫りだけでも。

 たとえ、今すぐ彫らなければサヨが封じられるとしても。

 それでも、問う。

 サヨは、静かに頷いた。

「お願いします」

 その声は、かすかだった。

 けれど、誰かに言わされたものではなかった。

 イロハは深く息を吸う。

「はい」

 そして、彫った。

 一彫り。

 ただ、それだけだった。

 刃が白い木へ入り、細い木屑が月見台の石の上へ落ちる。

 音は小さかった。

 けれど、その瞬間、黒皿の満月が大きく揺らいだ。

 白い円の輪郭が、ふっと乱れる。

 完全な満月が、わずかに崩れた。

 皿の中の月は消えない。
 名喰月見台の異常も消えない。
 月紐の札も落ちない。

 けれど、満月の輪郭が歪んだ。

 まるで、そこに映すべきものが変わったことに、月のほうが遅れて気づいたかのように。

 サヨの足元に伸びていた白い光が、細く震えた。

 彼女の影が戻る。

 完全ではない。

 石床に落ちた影は、まだ薄い。
 縁も少し揺れている。

 それでも、もう消えない。

 サヨは、自分の影を見た。

 そして、ゆっくりと足を引く。

 白い光は追ってこなかった。

 空座へ引こうとしていた力が、そこで止まっている。

 アヤメが、息を吐いた。

 ハルマサの肩が、ほんのわずかに下がる。

 ユラの鈴が、小さく鳴った。

 りん。

 それは、もう震えるだけの音ではなかった。

 セイランは、筆を走らせる。

 ――面師イロハ=ナギ、サヨ=ミカゲ様の許可を得て、無面原由来と思われる木片へ一彫り。
 ――黒皿満月反応、輪郭に乱れ。
 ――サヨ=ミカゲ様の影、再定着傾向。

 文字が反転しかける。

 ヒヨリが押さえる。

 セイランは、迷わずもう一度書いた。

 イロハは、彫った線を見つめた。

 たった一本。

 顔ではない。
 表情ではない。
 紋でもない。
 承認印でもない。

 けれど、そこにはサヨの一歩があった。

 待つのではなく、選ぶために立つ一歩。

 白い木片の中で、その線だけが、かすかに光っている。

 黒皿の白い半面が、その一彫りを映していた。

 エル=ネフリドは何も言わない。

 ただ、映す。

 そこに起きたことを。

 イロハが勝手に役を置かなかったこと。
 サヨが自分で許したこと。
 面が完成したのではなく、始まったこと。

 そのすべてを、黒皿の底に映していた。

 アリノリは、長い間、黙っていた。

 《コトサダメ》の役名符が、静かに震えている。

 彼は、サヨを見る。
 木片を見る。
 黒皿を見る。
 そして、空白の札を見る。

 筆を上げる。

 記録役たちが身構えた。

 アリノリは、低く告げた。

「役名、未定」

 その声に、まだ儀礼の重みはあった。

 だが先ほどまでのような、一方的に封じる響きではなかった。

「皇族面台帳への登録、不可」

 イロハの指が、木片を強く握る。

 アヤメの眉が動く。

 しかし、アリノリは続けた。

「ただし……」

 月見台の空気が止まる。

 《コトサダメ》の面が、判定できないものを前にしたように、かすかに軋んだ。

「未在、進行中」

 その言葉が落ちた瞬間、月紐の空白札に、細い墨が走った。

 役名ではない。

 封役でもない。

 保留でもない。

 未在、進行中。

 それは、仮面籍庁の言葉としては奇妙だった。

 定めたのではない。
 認めたのでもない。
 許可したのでもない。

 だが、完全には封じなかった。

 アリノリの小さな敗北だった。

 イロハは、それを理解した。

 サヨは完全に救われたわけではない。
 面も完成していない。
 王朝が認めたわけでもない。

 だが、今日この場で、サヨを「役名保留者」として閉じ込める儀式は失敗した。

 未在は、封じられなかった。

 進行中になった。

 サヨは、静かに目を伏せた。

 それは安堵にも見えた。
 だが、勝利に酔う顔ではなかった。

 まだ終わっていないことを、彼女も知っている。

 アリノリは、筆を下ろした。

「審査は、継続とします」

 その一言で、月見台に冷たい現実が戻る。

「サヨ=ミカゲ様の白影宮外儀礼参加制限は、一部継続。未在面材の管理については、仮面籍庁への報告義務を課す。面師イロハ=ナギ殿による今後の作業は、監督下での確認対象とします」

 アヤメが眉を寄せる。

「まだ縛るのですか」

 アリノリは、《コトサダメ》越しに答えた。

「守るためです」

 その言葉は、変わっていなかった。

 アリノリの論理は壊れていない。

 彼はなお、未在を危険と見ている。
 制度の外にあるものを放置できないと考えている。
 王朝を守るために、管理し、審査し、必要なら封じるつもりでいる。

 けれど、今日の彼は、サヨを完全には封じられなかった。

 それだけは確かだった。

 イロハは、白い木片を抱えた。

 指先に、一彫りの感触が残っている。

 軽くはない。

 これは、始まりだ。

 完成ではない。
 解決でもない。
 けれど、なかったことにはされなかった始まり。

 サヨが、イロハの隣へ歩いてきた。

 白い光は、もう彼女を引かない。

 サヨは、木片を見つめる。

「これが、わたしの面の最初ですか」

 イロハは頷いた。

「はい」

「まだ、顔はありませんね」

「はい」

「役名も」

「ありません」

 サヨは、小さく微笑んだ。

「でも、始まったのですね」

 イロハは、胸の奥が詰まるのを感じながら答えた。

「はい。あなたが、始めました」

 その言葉に、サヨは少しだけ目を閉じた。

 月見台の上を、夜風が通る。

 月紐の札が揺れる。

 黒皿の中の月は、もう完全な満月ではなかった。
 半月にも戻っていない。
 乱れた、不完全な月。

 けれど、それは初めて、嘘の完全さを失っていた。

 白い半面は、その揺らいだ月の奥で、静かに消えかけている。

 消える直前、イロハには、その面がこちらを見たように思えた。

 声はなかった。

 ただ、映された事実だけが残る。

 サヨの未在は、封じられなかった。
 イロハは、勝手に役を置かなかった。
 最初の一彫りは、許しを得て入れられた。

 それだけで、第1部の夜は、確かに変わった。

 イロハは白い木片を抱えたまま、黒皿の揺らぐ月を見た。

 月は口ではない。

 鏡。

 ならば、これから自分たちが何を映すかで、月の意味も変わっていくのだろう。

 アリノリの声が、最後にもう一度落ちる。

「本日の審査は、ここまでとします」

 封役の儀は終わった。

 だが、対立は終わらない。

 白札も、黒札も、灰札も、まだこの国にある。

 未在を恐れる者もいる。

 映ることを危険と呼ぶ者もいる。

 それでも、サヨは空座に置かれなかった。

 イロハは、白い木片の一彫りを指でなぞる。

 そこには、まだ名のない線がある。

 これから面になるかもしれない線。

 サヨが選ぶために立った、その最初の一歩の線だった。