夜明け前の名喰月見台は、ひどく静かだった。
つい先ほどまで月紐を鳴らしていた風も、白い札を揺らしていた気配も、いまは遠く退いている。
空には半月があった。
欠けた月。
暦どおりの月。
そして、名喰月見台の黒皿にも、同じ半月が映っていた。
満月ではない。
白い歯を持つ光もない。
皿の底から伸びてサヨの影を薄くするものもない。
ただ、夜明け前の青い闇の中に、欠けた月が静かに浮かんでいる。
イロハは、その黒皿をしばらく見つめていた。
月は、名を喰う口ではなかった。
けれど、喰われたことにされた名を映す鏡だった。
その言葉は、まだ胸の奥で冷たく光っている。
ならば、本当に喰っているものは何なのか。
札か。
制度か。
台帳か。
誰かの恐れか。
それとも、王朝の奥に隠された、もっと古い仕組みか。
答えはまだ出ない。
けれど、今夜ひとつだけ、確かに変わったものがある。
イロハは、両手の中の白い木片を見た。
無面原の木片。
まだ面ではない。
目もない。
口もない。
額の紋もない。
皇女を示す印もない。
ただ、一筋の彫り跡がある。
細く、浅く、けれど消えない線。
サヨが、保留されるためではなく、選ぶために立つと言った。
その言葉から生まれた、最初の線。
イロハは、その線を指でなぞりかけて、途中で止めた。
まだ触れすぎてはいけない気がした。
これは完成した答えではない。
まだ名のない始まりだ。
「まだ、面ではありません」
イロハは言った。
声に出して初めて、その事実の重さが胸へ落ちてきた。
直せたわけではない。
救い切れたわけではない。
サヨの面を完成させたわけでもない。
ただ、一彫り。
それだけ。
サヨは、イロハの隣でその木片を見つめていた。
夜明け前の光が、彼女の横顔を淡く照らしている。
影は、もう消えかけてはいない。
まだ薄い。
まだ揺らぐ。
けれど、彼女はそこに立っている。
サヨは静かに答えた。
「でも、もう空ではありませんね」
イロハは、その言葉を聞いて、胸の奥が少しだけ熱くなった。
空ではない。
第1話で、白影宮の面棚にあった空の場所。
第2話で、空の面箱に棲んでいた満月。
第5話で、役名保留候補とされた皇女。
第6話で、水桶に映らなかった顔。
第7話で、一歩を踏む前の足。
第8話で、戻してはいけない役を見送った沈黙。
第9話で、《ナギノオモテ》の救いと罪を見た無面原。
そのすべてを通って、サヨはまだ空ではなくなった。
面は完成していない。
けれど、空ではない。
アヤメ=シラハは、サヨの後ろに立っていた。
前ではない。
彼女はもう、サヨの代わりに立とうとはしていない。
サヨの背後に立ち、その一歩を支える距離にいる。
月見台へ来る前なら、アヤメは必ず前へ出ただろう。
白い光が伸びた時も、札がサヨを縛った時も、彼女は自分の身体で遮ろうとしたはずだ。
だが今は違う。
サヨが立つ場所を奪わず、退かず、ただ後ろで守っている。
アヤメは低く言った。
「お戻りになれますか」
サヨは頷いた。
「はい」
「お疲れでは」
「疲れました」
サヨは、少しだけ微笑んだ。
「でも、息はできます」
その一言に、イロハは思わずロウセツを見た。
ロウセツ=カガミは、少し離れた石段のそばに立っていた。
何も言わない。
いつもの軽口もない。
煙管もくわえていない。
ただ、イロハの手元を見ている。
白い木片。
最初の一彫り。
そして、その隣にある《ナギノオモテ》の面箱。
イロハは、ロウセツの視線の意味をすぐには読めなかった。
後悔か。
安堵か。
恐れか。
あるいは、そのすべてか。
ロウセツは、幼いイロハに選ばせなかった。
救うために。
生かすために。
息をさせるために。
そのことを、イロハはもう知っている。
だからこそ、今日はサヨに聞いた。
彫ってもいいか、と。
それは、ロウセツを裁くためではない。
同じことを繰り返さないためだった。
ロウセツは、最後まで何も言わなかった。
ただ、ほんのわずかに目を伏せた。
ハルマサ=アカツキは、月見台へ続く道の端で頭を下げていた。
刀は抜いていない。
封役中の戦面《アカツキノハ》も、まだ完全には戻っていない。
それでも、彼は立った。
資格ではなく、意思として。
「サヨ様」
ハルマサは、深く頭を垂れたまま言った。
「今夜のこと、忘れません」
サヨは、彼を見た。
「セイランが記録してくれました」
「はい。ですが、私自身も覚えておきます」
ハルマサは顔を上げる。
「刀を抜かずとも、守れる時があると知りました」
イロハは、彼の言葉に第3話の中庭を思い出した。
ここから先へ、月を通さない。
あの時抜いた刀は、今日は抜かれなかった。
けれど、その役は消えていない。
形を変えて、ここに立っていた。
セイラン=ナナツジは、文机の上の紙束を抱えていた。
紙はひどい有様だった。
反転した文字。
滲んだ墨。
星点。
方位記号。
ヒヨリの尾で押さえられた跡。
正式記録としては、到底整っていない。
それでも、そこには今夜起きたことが残っている。
セイランは、疲れた顔で言った。
「読みにくい記録になりました」
イロハは答えた。
「でも、読めますか」
「読めるまで写します」
セイランは、少しだけ笑った。
その袖口から、紙狐ヒヨリが顔を出す。
ヒヨリは、くしゃくしゃになった紙の端を前足で押さえたまま、尾で小さく床を叩いた。
とん。
その音が、少しだけ舞台板の足音に似ていた。
ユラ=シラビョウは、月見台の外縁に立っていた。
鈴祈舞面《ユラノスズ》の白札は、まだ剥がれていない。
公式舞台へ戻れるわけでもない。
神を迎える沈黙を完全に取り戻したわけでもない。
それでも、彼女の手の中の鈴は、かすかに鳴った。
りん。
かすれている。
途中で切れる。
けれど、鳴る。
ユラは、自分の鈴を見て、小さく呟いた。
「まだ、変な音ですね」
サヨは言った。
「でも、聞こえました」
ユラは顔を上げる。
泣きそうな、笑いそうな顔だった。
「はい」
彼女は鈴を胸元で握った。
「聞こえたなら、まだ降りていませんね」
名喰月見台の石の下で、何かが小さく笑ったような気がした。
ウズメ=ムゲン命の気配。
姿は見えない。
けれど、舞台の外で踏まれた一歩も、白札の外側で鳴った鈴も、封役中の武士が抜かなかった刀も、仮記録の陰陽師の紙を押さえた紙狐の足音も、きっとどこかで聞いていた。
笑いは、嘲りではなかった。
幕を閉じる前に、もう次の舞台板を鳴らすような、軽い笑いだった。
イロハは、黒皿へ目を戻した。
皿の底には、空と同じ半月が映っている。
もう満月ではない。
けれど、完全に何もなかったような顔もしていない。
黒皿の縁に、ふっと白いものが浮いた。
白い半面。
エル=ネフリド。
ほんの一瞬だった。
誰もが見たわけではない。
イロハと、サヨと、もしかするとアリノリだけが気づいた。
白い半面は、黒皿の縁でこちらを見ている。
目穴はない。
口もない。
それでも、声が聞こえた。
「一彫り目は、記録されました」
イロハは息を止めた。
その言葉は、祝福ではなかった。
救済でもない。
慰めでもない。
ただ、事実を告げる声。
起きたことは、映された。
映されたことは、記録された。
それだけ。
けれど今のイロハには、それだけで十分だった。
エル=ネフリドは消えた。
黒皿の縁に白い影はもうない。
残っているのは、半月と、夜明け前の薄青い空だけ。
アリノリ=シジョウは、少し離れた場所で《コトサダメ》を外していた。
彼の顔は疲れていた。
怒りではない。
敗北を認める顔でもない。
ただ、処理すべきものが増えたと知った官の顔。
サヨは封じられなかった。
だが、彼の審査は継続する。
未在、進行中。
その奇妙な判定は、これから仮面籍庁の中で波紋を呼ぶだろう。
イロハの宮中出入り制限も消えていない。
《ナギノオモテ》の登録確認命令も残っている。
灰札の査察も、白札も黒札も、この国からなくなったわけではない。
アリノリの正しさは、まだ王朝の中にある。
彼は、最後にサヨへ深く礼をした。
「本日の審査は、ここまでといたします」
サヨは礼を返した。
「はい」
敵としてではなく。
許したわけでもなく。
ただ、ここで一つの場が終わったことを受け止めるように。
アリノリは、イロハの手元の木片を一度だけ見た。
「面師イロハ」
「はい」
「その一彫りを、軽く扱わぬように」
イロハは、白い木片を抱え直した。
「はい」
「未在を進めるということは、王朝の外へ逃げることではありません。いずれ、名を問われます」
「わかっています」
「その時に、答えられなければ」
アリノリは言葉を止めた。
その先は言わなくてもわかる。
封じられる。
イロハは、まっすぐにアリノリを見た。
「その時は、サヨ様に聞きます」
アリノリの表情が、わずかに動いた。
「あなたが決めるのではなく」
「はい」
「サヨ様が答えられるようにする」
「そのために彫ります」
アリノリは、しばらくイロハを見ていた。
そして、静かに扇を閉じた。
「ならば、見届けましょう」
それは味方になる言葉ではなかった。
だが、今夜の彼にできる最大限の留保だった。
やがて、名喰月見台の東の空が白み始めた。
夜が薄くなる。
黒皿の半月も、空の半月も、朝の光に溶けていく。
月見台から降りる時、サヨは一度だけ空座を振り返った。
彼女が置かれるはずだった場所。
保護という名で封じられ、月より遠ざけられ、誰にも映らないようにされるはずだった場所。
サヨは、そこへは戻らない。
けれど、空座を憎むようにも見えなかった。
ただ、そこに置かれなかった自分を、静かに確かめているようだった。
「イロハ」
「はい」
「わたしの面は、いつか完成しますか」
イロハは、すぐには答えなかった。
白い木片を見る。
一彫りだけの、まだ名のない面。
いや。
まだ面ですらないもの。
けれど、もう空ではないもの。
「完成させる、とは言いません」
イロハは答えた。
「え?」
「サヨ様が選ぶたびに、追いつかせます」
サヨは、少し驚いたようにイロハを見た。
イロハは続ける。
「面が先にあなたを決めるんじゃなくて、あなたが立つたびに、面が追いついていくように」
サヨは、その言葉をゆっくり受け止めた。
「では、わたしは何度も選ばなければならないのですね」
「はい」
「少し、怖いです」
「私もです」
二人は、しばらく黙っていた。
それからサヨが、小さく笑った。
「でも、息はできます」
イロハも、ようやく笑った。
「はい」
夜明けの風が、月見台の石段を下りていく。
その風の中に、鈴のない鈴の音が混じった。
とん。
どこか遠くで、舞台板が鳴る。
ウズメの笑いが、ほんのかすかに朝へ溶けた。
イロハは、まだ名のない木片を抱え、石段を下りた。
白影宮へ戻る道は、これまでと同じではない。
仮面籍庁との対立は残る。
サヨの役名はまだない。
月喰いの本当の仕組みもわからない。
名を喰っているものの正体も見えていない。
ロウセツへ未在面を命じた者も、名喰月見台が何のために作られたのかも、まだ闇の奥にある。
けれど、第1部の夜は終わった。
サヨは、面がないから立てない皇女ではなくなった。
イロハは、欠けた面を直すだけの面師ではなくなった。
月は、喰う口ではなく、映す鏡だと知られた。
アリノリは、正しさで封じる者として、なお王朝の側に立っている。
そして、サヨの面には、最初の一彫りが入った。
まだ名はない。
まだ顔もない。
けれど、もう空ではない。
朝の光の中で、白い木片の一筋の線が、かすかに輝いていた。
第1部 了