EP 11

第2話 月箱の皇女

第一節 ― 白影宮の朝

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 白影宮の朝は、目覚めたことに気づきにくい朝だった。

 面師小路ならば、朝は音で来る。

 隣の工房が戸板を開ける音。
 木地師が面材を運ぶ荷車の軋み。
 漆を研ぐ水音。
 表通りから聞こえる役面市の呼び声。
 ロウセツがまだ火の入っていない煙管をくわえたまま、茶が薄いだの朝飯が硬いだのと文句を言う声。

 そういうものが、朝を連れてくる。

 けれど白影宮では、何も鳴らなかった。

 イロハは、客間に敷かれた薄い布団の中で目を開けた。眠っていたのか、ただ目を閉じていただけなのか、自分でもよくわからない。まぶたの裏には、まだ白い月の残像が残っていた。

 箱の中の満月。

 空にはなかったはずの月。
 黒漆の面箱の底に浮かび、まだ作られていない面を喰っているように見えたもの。

 イロハはゆっくり息を吐いた。

 沈香の香りが、部屋の隅に薄く残っている。昨夜、カンナ=ツキシロが東廊で焚いた香だ。彼女が自分の役を喰われかけ、サヨがその役を呼び戻したあと、香は夜の宮を閉じるように廊下を満たした。

 その香りがまだ残っていることに、イロハは少しだけ安堵した。

 カンナの役は、完全には消えていない。

 少なくとも、今朝までは。

 起き上がると、客間の障子はすでに細く開いていた。外から差す光は白い。朝陽のはずなのに、あたたかさよりも薄さが先に立つ。白砂の庭に反射した光が、部屋の床板を淡く照らしている。

 置かれている調度は美しかった。

 低い文机。白木の衣桁。香炉。水差し。客用の小さな面掛け。どれも磨かれ、整えられ、過剰な装飾はない。面師小路の工房のように、欠けた面や削り屑や、塗りかけの器が転がっていることはない。

 なのに、落ち着かない。

 汚れがないからではない。
 乱れがないからでもない。

 ここには、使われている気配が薄い。

 人の手は入っている。掃除もされている。香も焚かれている。けれど、役が日々の中で擦れて生まれる温度がない。まるで、すべてが誰かのために整えられているのに、その誰かだけがずっと席に着いていないようだった。

 イロハは自分の道具袋へ手を伸ばした。

 筆、小刀、白布、仮札。
 どれも昨夜のままだ。

 そして、道具袋の奥の鍵。

 黒い小箱を開ける鍵。

 《ナギノオモテ》は、面師小路の工房に置いてきてはいない。イロハはそれを、いつも身近に置いている。身につけて歩くわけではない。けれど遠ざけることもできない。

 師匠は言った。

 白影宮で、自分の面箱を開けるな。

 月が、まだ見ている。

 イロハは鍵に触れかけた指を止めた。

 今は、開けない。

 それが自分の意思なのか、師匠の言いつけを守っているだけなのかは、まだわからなかった。

 障子の外に、人の気配がした。

「イロハ様。お目覚めでございますか」

 女房の声だった。

 礼儀正しい。
 けれど、声の奥が少し硬い。

「起きています」

 イロハが答えると、障子の向こうで女房が一礼する気配がした。

「朝餉とお湯をお持ちいたしました。入ってもよろしいでしょうか」

「お願いします」

 女房が静かに入ってきた。

 膳を運ぶ手つきは丁寧だった。味噌汁、白粥、漬物、薄く煮た根菜。豪華ではないが、宮中らしく整っている。湯を入れた手桶と手拭いも添えられた。

 女房は、イロハと目を合わせない。

 失礼にならないように、正しい角度で頭を下げる。
 必要なことだけを言う。
 不要な距離は詰めない。

 それは宮仕えの作法なのだろう。

 だがイロハには、警戒に見えた。

 路地裏の面師。
 資格剥奪者ロウセツ=カガミの弟子。
 宮廷面師でもない中級面師。
 昨日、皇女の空の面箱に触れた者。
 そしておそらく、由来の怪しい面を持つ者。

 白影宮の者たちにとって、イロハは客ではあるが、歓迎すべき客ではない。

 女房の視線が、一瞬だけイロハの道具袋へ向いた。

 すぐに逸らされた。

 イロハは気づかないふりをした。

「昨夜のカンナさんは」

 尋ねると、女房の手がわずかに止まった。

「今朝は、役を覚えております」

「香は?」

「東廊に残っております。今朝の片づけも、カンナが行いました」

「そうですか」

 イロハは少しだけ息を吐いた。

 女房はためらったあと、小さく言った。

「昨夜は、ありがとうございました」

「私は何もしていません」

「サヨ様のおそばに、いてくださいました」

 それだけ言うと、女房はまた深く頭を下げた。

 礼なのか、牽制なのか、判別しにくい。

 イロハが箸を取ると、女房は静かに退いた。戸が閉まる時、廊下の向こうで別の女房の声がした。

「路地裏の面師だとか」

「声を落として」

「でも、あのロウセツ殿の……」

 そこで声は途切れた。

 イロハは粥をひと口含んだ。

 味は薄く、温かかった。

 おいしいかどうかより先に、ここで食べ物を出されていること自体が奇妙に感じられた。昨日まで面師小路の裏工房で、白化面を抱えた神楽師と、仮面籍庁の検面官を相手にしていたのだ。

 今は白影宮の客間にいる。

 空の面箱を持つ皇女に、面を作れるかと問われた。

 自分の足元が、少しずつ別の舞台へ移されている。そんな感覚があった。

 朝餉を終えるころ、廊下に別の足音がした。

 今度の足音は、迷いがない。

 静かだが、弱くはない。白影宮の床板を知り尽くした者の歩き方だ。

「失礼します」

 障子が開く。

 アヤメ=シラハが立っていた。

 昨夜と同じ白に近い薄灰の羽織。濃紫の袴。腰の刀。髪は乱れなく結われ、目元には眠気の影がほとんどない。

 だが、完全に休んだ顔でもなかった。

 彼女もまた、夜を見張っていたのだろう。

「おはようございます、イロハ=ナギ」

「おはようございます」

 イロハは膳の前で軽く頭を下げた。

 アヤメは部屋へ入る前に、まず道具袋を見た。次にイロハの顔を見る。

 警戒は残っている。

 けれど昨日のような硬い疑いだけではない。

「眠れましたか」

 アヤメが尋ねた。

 イロハは少し考えてから答えた。

「眠れる宮ではありませんね」

 アヤメの眉が動いた。

「失礼です」

「でも、本当でしょう」

 アヤメはすぐには答えなかった。

 廊下の向こうから、沈香の残り香が流れてくる。遠くで女房が御簾を上げる音がした。その音もまた、どこか薄い。

「……否定はしません」

 アヤメはようやく言った。

「白影宮の夜は、眠るより見張るものです」

「朝も、あまり眠っているようには見えません」

「朝は、昨夜欠けた役を数える時間です」

 その言葉に、イロハは箸を置いた。

「昨夜、他にも?」

「小さなものがいくつか」

 アヤメは部屋の外へ視線を向けた。

「御簾守が、閉じる順を一度忘れました。庭番が、月見池の竹簾を上げる手を止めました。どれもサヨ様のお言葉で戻っています」

「毎晩、そうなのですか」

「近頃は」

 近頃。

 それは、以前から少しずつ悪化しているという意味だった。

「満月でなくても?」

「はい」

 アヤメの声は重い。

「暦の月と、箱の中の月は一致しません」

 イロハは、昨夜の面箱を思い出した。

 空は欠けていた。
 箱の中だけが満月だった。

 ならば白影宮では、暦が役に立たない。
 満月を避ければよいという単純な話ではない。

 月は、箱の中で勝手に満ちる。

「サヨ様は」

「今朝はお休みになっています。短い時間ですが」

「眠れたんですね」

「カンナの香が効いたのでしょう」

 アヤメの声が少しだけ柔らかくなった。

 イロハは、その変化を感じた。

 アヤメはサヨを守る者だ。
 だが、ただ命令で守っているのではない。

 サヨが眠れたことに、本当に安堵している。

「カンナさんの役は、今朝も残っていますか」

「はい。ただし、香役面の内側に浮いた傷は消えていません」

「月痕は、消えにくいです」

「治せますか」

「浅ければ。けれど、ただ面を直せばいいわけではありません」

「役も見る必要がある」

「はい」

 アヤメは小さく頷いた。

 昨日なら、すぐに疑いを返してきただろう。
 だが今朝は、いったん受け止めた。

 それだけでも、距離は少し変わっている。

「イロハ=ナギ」

「はい」

「白影宮を見ていただきたいのです」

「面箱ではなく?」

「面箱だけを見ても、サヨ様の面は作れないのでしょう」

 イロハは少し驚いてアヤメを見た。

「そう思うのですか」

「昨夜のあなたの顔を見れば、誰でもわかります」

「そんなに顔に出ていましたか」

「かなり」

 アヤメは淡々と言った。

 イロハは少しだけむっとした。

「面師は、面を見る時に顔を作る余裕がないだけです」

「顔を扱う職人なのに?」

「自分の顔は専門外です」

 アヤメが、ほんの少しだけ目を細めた。

 笑った、と言うには小さすぎる変化だった。

 けれどイロハには、それが笑みに見えた。

「では、専門の面を見てください」

 アヤメは踵を返した。

「白影宮の面棚を案内します」

 イロハは道具袋を肩にかけ、立ち上がった。

 客間を出ると、朝の廊下が広がっていた。

 美しい廊下だった。

 白木の柱は磨かれ、床板には歪みがない。庭へ向かって開いた格子から、柔らかな光が差し込んでいる。白砂の庭には、昨夜の痕跡など何もないように整えられた波紋が描かれていた。

 だが、歩く者の気配が薄い。

 女房たちはいる。
 庭番もいる。
 遠くで水を運ぶ者の影も見える。

 それなのに、誰もが少しずつ自分の足音を殺している。ここにいることを、宮そのものに知られないようにしているようだった。

 廊下の壁沿いには、面棚が続いていた。

 黒布を外された朝の面たちが、整然と並んでいる。女房の面、庭番の面、香役の面、御簾守の面、夜警の面。どれも清潔で、役の線も保たれている。

 だが、イロハには見えた。

 いくつかの面の内側に、浅い白い傷がある。

 まだ白化していない。
 けれど月が触れた痕だ。

 面たちは役を保っている。
 保っているが、少しずつ削られている。

 イロハは歩きながら、その傷の数を数えそうになった。途中でやめた。数えれば、白影宮そのものがどれだけ喰われているのかを知ってしまう気がした。

 庭に面した角へ差しかかった時、月見池が見えた。

 昼の池だった。

 黒松の影と白い空を映しているだけの、静かな水面。

 それでも、イロハには見えた。

 水の底に、淡い月が沈んでいるように。

 空には太陽がある。
 夜は明けた。
 香は焚かれ、面棚の布は外され、白影宮は朝の役を取り戻している。

 それなのに、池だけはまだ夜を忘れていない。

 イロハは足を止めた。

「どうしました」

 アヤメが振り返る。

「この池は、昼でも月を映すんですか」

 アヤメの表情がわずかに強張った。

「……そう見えますか」

「はい」

「宮廷面師は、水面の反射だと言いました」

「昼の反射にしては、冷たすぎます」

 アヤメは黙った。

 やがて、小さく言う。

「サヨ様も、同じことをおっしゃいました」

 イロハは池を見つめた。

 月は、空だけにいるのではない。

 面箱の中。
 水面の底。
 面の内側。
 そして、人の役が薄くなる場所。

 どこにでも、入り込んでくる。

「白影宮は、美しいですね」

 イロハは言った。

「ええ」

「でも、美しすぎます」

 アヤメが彼女を見る。

「どういう意味ですか」

「欠けているものを、きれいに隠しているように見えます」

 アヤメは怒らなかった。

 ただ、少しだけ目を伏せた。

「……それは、白影宮に対する侮辱です」

「すみません」

「ですが」

 アヤメは前を向いた。

「否定はしません」

 ふたりは再び歩き出した。

 廊下の先に、他よりも大きな面棚が見えてくる。

 中央に置かれた棚。

 黒漆の縁。白絹の敷布。左右には、面紐を掛けるための金具が整えられている。香炉もある。埃はない。毎日手入れされているのだろう。

 だが、そこだけが空いていた。

 面を置くための場所。
 誰よりも重い役を置くための場所。
 白影宮の主の面があるはずの場所。

 そこには、何もない。

 イロハは、その空白の前で立ち止まった。

 背後で、女房たちの気配がわずかに揺れた。

 歓迎されていない。

 疑われている。

 けれど今は、それよりも強く、その空の棚がイロハを見ていた。

 面がないのに。

 まるで、まだ来ない面が、そこからこちらを見返しているようだった。