白影宮の面棚は、廊下のもっとも奥まった場所にあった。
それは、ただの棚ではなかった。
宮そのものの縮図だった。
右の棚には、女房たちの面が並んでいる。薄く紅を差したもの、目元を伏せたもの、口元に柔らかな線を持つもの。どれも華やかではない。けれど、宮中で人の気配を乱さず立つための、静かな品を備えていた。
その隣には、庭番の面。
額に水紋が刻まれ、目元には朝露を払うような細い線がある。月見池を清める者の面には、頬のあたりに淡い青灰の塗りが残っていた。白砂の波紋を整える者の面は、口を閉じている。庭とは喋るものではなく、整えるものだとでも言うように。
さらに奥には、香役の面。
昨夜、カンナが持っていたものと同じ系統の面がいくつか収められている。鼻筋は細く、目は半ば閉じ、口元は香の煙を乱さぬよう静かに結ばれている。面の近くには、小さな香包みと銀の香匙が添えられていた。
御簾守の面は、目の線が横に長い。
見張るためではなく、開け閉めの時を読むための目だった。朝の光を入れる時、夜を閉じる時、皇女の姿をどこまで外へ見せるかを決める役。面の裏には、細い紐が幾重にも巻かれている。
夜警の面は、他のものより硬かった。
黒漆に近い濃い色。口は引き結ばれ、目の奥には影がある。夜の廊下に立ち、月の入り込む隙間を見つける役。白影宮の夜が眠らないことを、その面は知っている。
どの面も、整っていた。
役がある。
置かれる場所がある。
手入れする者がいる。
使われる時がある。
白影宮は、面のない宮ではない。
むしろ、面に満ちた宮だった。
ただひとつを除いて。
中央の棚。
そこだけが空いている。
黒漆で縁取られた、ほかの棚より少し高い場所。敷かれている白絹は新しく、毎日替えられているのか、皺ひとつない。左右には、面紐を掛けるための金具がある。細い白紐と、銀の飾り紐がきちんと揃えられていた。
棚の下には、黒漆の面箱。
蓋は閉じられている。昨夜見た、あの空の面箱とは別のものだろう。けれど形は似ている。箱の上には白い布が掛けられ、布の上には月除けの香が焚かれていた。
香炉から上る煙は、まっすぐではない。
中央の空白を避けるように、左右へ細く流れていく。
イロハは、その棚の前で膝をついた。
女房たちが遠巻きに見ている。
誰も口を出さない。
けれど視線だけは集まっている。
路地裏の面師が、皇女の棚を見る。
それがどれほど異例なのか、イロハにもわかった。
アヤメはすぐ隣に立っていた。
彼女の手は刀に触れていない。だが、いつでも間に入れる距離にいる。
まだ信用されていない。
それでも、ここまで案内した。
イロハは白布を指に巻き、棚には触れずに空白を見た。
触れる前から、わかることがある。
ここは、ただ空いている場所ではない。
誰かが片づけた跡ではない。
面が盗まれた跡でもない。
壊れた面を取り払った棚でもない。
空白そのものが、役を持っている。
待つという役を。
「面を失った棚ではありません」
イロハはぽつりと言った。
アヤメがわずかに顔を向ける。
「どういう意味ですか」
「面を待っている棚です」
廊下の空気が、ほんの少し揺れた。
女房のひとりが、小さく息を呑む。
アヤメは、すぐには言葉を返さなかった。
イロハは棚を見つめたまま続ける。
「面があったなら、痕が残ります。紐の擦れ、香の染み、置かれていた重み、外された時の乱れ。どれだけ丁寧に整えても、面のいた場所には面の跡が残る」
彼女は白絹の敷布を見た。
「でも、ここにはそれがありません」
「では、やはり皇女様の面は存在しなかったと?」
アヤメの声は硬い。
宮廷面師や仮面籍庁が口にした言葉を、なぞるような響きだった。
イロハは首を振った。
「違います」
アヤメの眉が動く。
「存在しなかった場所と、存在する前に待っている場所は違います」
「……待っている場所」
「はい」
イロハは、棚の左右に掛けられた面紐を見る。
白紐は少しも古びていない。
けれど新品ではない。
何度も確かめられ、整えられ、結び直されている。使われたことはないのに、使う日のために手入れされている紐だ。
「この紐は、ただ飾られているわけではありません。誰かがずっと、使える状態に保っています」
女房のひとりが、目を伏せた。
おそらく、彼女たちが毎朝整えているのだろう。
ないとわかっている面のために。
来るかどうかもわからない面のために。
「面箱も同じです。空なのに、箱として扱われている。香も焚かれている。布も替えられている。これは、失われたものを弔っているのではなく、まだ来ないものを迎える支度です」
アヤメは棚を見た。
それまで彼女は、この空白を守るべき異常として見ていたのだろう。
皇女の面がない証拠。
白影宮の弱点。
誰にも触れさせてはならない、痛み。
だがイロハは、同じ空白を別のものとして見ている。
待っている場所。
まだない面を迎えるために、宮が空けている座。
「宮廷面師たちは、何と言いましたか」
イロハが尋ねると、アヤメはしばらく黙った。
やがて、低く答える。
「紛失記録なし」
その声には、淡い苦みがあった。
「盗難記録なし。破損記録なし。製作記録なし。仮面籍上、皇女サヨ=ミカゲ様に対応する皇女面は確認できず。したがって、異常なし」
「異常なし」
イロハは、言葉を反復した。
なんて冷たい言葉だろうと思った。
ここまで丁寧に整えられた空白を前にして、異常なし。
面がないことではなく、記録にないことだけを見る。
棚が何を待っているのかは見ない。
紐がなぜ整えられ続けているのかも見ない。
「面がなければ、面の異常ではない。そういうことですか」
「仮面籍庁の判断では」
「便利ですね」
イロハの声には、思わず棘が混じった。
アヤメは咎めなかった。
「ええ」
短い肯定だった。
その一語で、アヤメもまた同じ苛立ちを抱えていたのだと、イロハにはわかった。
女房たちは、遠巻きにこちらを見ている。
彼女たちも、きっと何度も同じ言葉を聞いたのだろう。
異常なし。
記録なし。
該当なし。
対応面なし。
そのたびに、中央の棚だけは空のまま、朝ごとに布を替え、香を焚き、紐を整えてきた。
イロハは、そっと頭を下げた。
誰に対してなのか、自分でもわからなかった。
棚か。
面箱か。
まだ来ない面か。
それとも、この空白を守り続けてきた白影宮の人々にか。
「この棚には、面がありません」
イロハは言った。
「でも、役の座はあります」
アヤメが静かに息を呑む。
「役の座?」
「面は、ただ作れば置けるものではありません。置かれる場所がなければ、面は役を受け取れない。この棚は、ずっとその場所を保っている」
「では、サヨ様の役は」
「完全には喰われていません」
言いながら、イロハ自身もその言葉に驚いた。
だが、確かにそう感じた。
もし完全に喰われていたなら、この棚はただの空棚になっていたはずだ。誰も気に留めず、別の面を置き、いつの間にか用途を変えていただろう。
けれど白影宮は、そうしなかった。
この棚を、空け続けている。
それは、サヨの役がまだどこかで待たれている証だ。
アヤメは、中央の棚を見つめたまま動かない。
その横顔には、いつもの厳しさがある。けれど、ほんの少しだけ違うものが混じっていた。
希望と言うには早すぎる。
だが、長く閉ざしていた戸の隙間に、外の空気が触れたような表情だった。
「あなたは」
アヤメはゆっくりと言った。
「本当に、変わった見方をするのですね」
「そうですか」
「宮廷面師たちは、記録を見ました。仮面籍庁は、帳を見ました。白影宮の者たちは、空白を見て怯えました」
彼女はイロハを見る。
「あなたは、待っていると言う」
「面師ですから」
「面師は、そういうものですか」
イロハは少し考えた。
ロウセツなら、ここで煙管をくわえながら「面師ってのは、面がない場所まで見るもんだ」とでも言うだろう。あるいは、もっとひどい軽口を叩くかもしれない。
イロハは、そういう言い方はしなかった。
「面は、顔だけではありません」
彼女は言った。
「面が置かれる箱、掛けられる紐、拭く布、焚かれる香。それを扱う人の手。全部が、面の一部です」
イロハは空の棚を見上げる。
「だから、面がなくても、面の気配が残ることがあります」
アヤメは、しばらく黙っていた。
それから、わずかに頭を下げた。
「覚えておきます」
その言葉は、礼ではない。
だが、拒絶でもなかった。
イロハは少しだけ息を吐いた。
距離が、わずかに縮まった気がした。
その時、棚の下の面箱が、小さく鳴った。
かた。
とても小さな音だった。
女房たちが一斉に身を固くする。
アヤメの手が刀の柄へ走る。
イロハは、膝をついたまま箱を見た。
黒漆の蓋は閉じている。白布も乱れていない。香炉の煙も変わらない。
けれど、箱の中で何かが動いた。
面は入っていないはずなのに。
「今のは」
アヤメが低く言った。
「面が鳴りました」
イロハは答えた。
「中は空です」
「だからです」
イロハは、箱から視線を逸らさなかった。
「空の面が、待ちきれなくなっている」
その言葉に、廊下が凍った。
アヤメが一歩近づく。
「危険ですか」
「今すぐではありません」
イロハは、視界の端に白いちらつきを感じた。
月の残像。
昨夜より薄い。
だが、確かにある。
「でも、夜まで待てないかもしれません」
「何が」
「月が」
アヤメの表情が変わった。
イロハは空の棚を見た。
面を待っている棚。
空の面箱。
整えられた紐。
焚かれ続ける香。
白影宮は、美しい空白を抱えている。
けれど空白は、長く空白のままではいられない。
そこに面が来ないなら、月が先に入ってくる。
イロハは、そう感じた。
遠くで、カンナの沈香がまた少し強く香った。
その香りに守られるように、面箱の音はもう鳴らなかった。
だが、中央の棚の空白だけは、先ほどより深くなっているように見えた。