EP 14

第2話 月箱の皇女

第四節 ― 皇女の記憶

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 月見池の水面は、昼になっても夜を残していた。

 白砂の庭を抜ける風は明るい。黒松の枝には朝露が光り、池の縁に置かれた石灯籠も、今はただの石として静かに立っている。

 それなのに、池だけが違った。

 水面は空を映している。
 雲を映している。
 廊下の影を映している。

 けれど、その奥にもうひとつ、白い円が沈んでいるように見える。

 月だった。

 昼の月ではない。空にある月でもない。昨夜、空の面箱の中に浮かんでいた、あの満月の気配に似ていた。

 イロハは池の前で足を止めた。

「やはり、見えますか」

 隣で、サヨ=ミカゲが静かに言った。

 アヤメは少し離れた廊下の端に控えている。完全にふたりきりにする気はないらしい。けれど、声が届きすぎない程度の距離を置いていた。

 サヨの気遣いなのか、アヤメの判断なのかはわからない。

 白影宮の月見池のほとりに置かれた低い縁台へ、サヨは腰を下ろした。イロハも少し迷ってから、その端に座る。

 皇女の隣に座るなど、本来なら路地裏の面師に許されることではない。

 だがサヨは、何も言わなかった。

「見えます」

 イロハは答えた。

「水底に、月の気配があるように」

「皆には、ただの水面だと言われます」

「宮廷面師にも?」

「ええ。水は光を映すものだから、と」

 サヨは池を見つめた。

「でも、夜に月が出ていない時でも、この池には月が沈んでいることがあります」

「空の面箱と同じですね」

「似ています。けれど、箱の月のほうが近い」

「近い?」

「箱の月は、こちらを見ます」

 サヨの声は穏やかだった。

 けれど、その穏やかさがかえって痛々しい。恐怖を長く見つめすぎて、もう叫ぶことをやめた者の声だった。

 イロハは膝の上で手を握った。

「いつから、こういうものを見ていたのですか」

「幼い頃からです」

 サヨは少しだけ目を細めた。

 思い出しているのだろう。

「最初は、皆も覚えているものだと思っていました」

「喰われた役を?」

「はい」

 池の水面に、黒松の影が揺れる。

「たとえば、幼い頃、わたし付きの女房がひとり、自分がどの部屋に仕える者だったかを忘れたことがありました。名も家も覚えている。女房としての作法もわかる。けれど、どの御簾の前に立つべきかがわからなくなったのです」

「白化に近い」

「その時、わたしは言いました。あなたは西の小部屋付きでしょう、と。夕方になると、わたしの衣を畳んでくれる人でしょう、と」

 サヨは小さく笑った。

「その女房は泣きました。助かったと。でも周りの者は、わたしを変な目で見ました」

「なぜ」

「誰も、その女房が西の小部屋付きだったことを覚えていなかったからです」

 イロハは黙った。

 昨夜のカンナと同じだ。

 本人の役が揺らぎ、周囲の記憶も曖昧になる。
 だがサヨだけは覚えている。

「庭番もありました」

 サヨは続けた。

「月見池の水面を毎朝整える役の者が、ある日、池に近づけなくなりました。水の揺れを見ても、何をすればよいかわからないと言って」

 サヨは池を見る。

「でも、わたしは覚えていました。その人が毎朝、竹の柄で水面の浮葉を寄せ、黒松の影がきれいに映るようにしていたことを」

「それを伝えたのですか」

「伝えました」

「戻りましたか」

「少しだけ」

 その返事は、カンナの時と同じだった。

 完全ではない。
 少しだけ。

 それでも、何もないよりはずっといい。

「祭礼でも?」

 イロハが尋ねると、サヨの表情が少し沈んだ。

「ええ」

 池の向こうで、女房がひとり通り過ぎる。ふたりを見て一礼し、すぐに去っていった。礼儀正しい動きだったが、その目にはやはり警戒がある。

 サヨは、それに気づいていないふりをした。

「白影宮にも、小さな祭礼がありました。大きな国家祭祀ではなく、宮の内だけで行うものです。月見池の水を汲み、香を焚き、御簾を半分だけ上げ、女房たちが白い紐を結ぶ。そういう小さな所作が、少しずつ消えていきました」

「記録には?」

「ありません」

「誰も?」

「誰も」

 サヨは静かに言った。

「でも、わたしは覚えています。白い紐を三度結ぶ時、最後の結び目だけは緩くしておくのです。月を完全に閉じ込めないために。香は沈香だけではなく、ほんの少し白檀を混ぜる。夜を閉じるだけでなく、朝に開けるために」

 イロハはその言葉を聞きながら、目の前に見えない祭礼の姿を思い描いた。

 御簾。
 香。
 白い紐。
 池の水。
 月を閉じるのではなく、夜と朝の境を整える儀礼。

 それは、白影宮に必要な所作だったはずだ。

 けれど、消えた。

 帳から。
 人の記憶から。
 祭礼の中から。

 残ったのは、サヨの記憶だけ。

「そして」

 サヨは、そこで少し言葉を切った。

 イロハは急かさなかった。

 池の水面が、小さく揺れる。

「誰も覚えていない皇女の儀礼もあります」

 イロハは顔を上げた。

「皇女様の?」

「はい」

 サヨは自分の手を見た。

「わたしは、正式な祭礼には出られません。皇女の面がないからです。面のない皇女は、神前へ出る役を持たない。そう言われてきました」

 その声に、はじめて微かな怒りのようなものが混じった。

 強い怒りではない。
 けれど、長く胸の奥に沈めてきたものが、水底から少し浮かび上がったような声だった。

「けれど、わたしは知っているのです。知らないはずの所作を」

「どんな所作ですか」

「夜明け前、まだ月が残っている時に、皇女は面をつけずに池の前へ立つ」

 イロハは眉をひそめた。

「面をつけずに?」

「ええ」

「でも、正式な祭礼では面が必要なのでは」

「だから、誰も信じません」

 サヨは少しだけ笑った。

 諦めに似た笑みだった。

「皇女はまず、面をつけずに池を見る。水面に映った月へ、まだ名を持たない役を返す。それから初めて、面を受け取る。そういう儀礼があったように思うのです」

 イロハの胸が、静かに鳴った。

 面をつけずに立つ。
 まだ名を持たない役を返す。
 それから面を受け取る。

 まるで、サヨのためにあるような儀礼だった。

 いや、違う。

 サヨが覚えているから、そこに意味があるのだ。

「その儀礼を、誰かに話したことは?」

「あります」

「何と言われましたか」

 サヨは池から目を離さなかった。

「なぜ皇女様がそんなことを覚えているのですか」

 その声は、誰かの真似だった。

 女房か、役人か、宮廷面師か。わからない。けれど、サヨは何度もその言葉を聞いたのだろう。

「その役は記録にありません」

 次の声は、もっと冷たかった。

「存在しないことを、まるであったように言わないでください」

 イロハは、思わず手を握りしめた。

 それは、鋭い刃ではない。

 だが何度も言われれば、人の内側を削る言葉だった。

 存在しないことを、あったように言うな。

 つまり、あなたの記憶は間違っている。
 あなたの見ているものは異常だ。
 あなたが覚えている役など、初めからなかったのだ。

 そう言われ続けてきたのだ。

 面を持たない皇女に。

「それでも、覚えているんですね」

 イロハが言うと、サヨは頷いた。

「忘れられないのです」

「忘れたいと思ったことは」

「あります」

 即答だった。

 サヨは、淡く微笑む。

「忘れたほうが楽でしょう。皆と同じように、記録にないものはないのだと思えたなら、白影宮はもっと美しく見えるかもしれません」

「でも」

「でも、忘れたら、その役は本当に消えてしまう」

 風が、池の水面を撫でた。

 昼の光が揺れる。

 水底の月の気配が、一瞬だけ薄くなった。

「わたしは、役を持たないのに、失われた役だけは覚えているのです」

 サヨは静かに言った。

 その言葉には、自嘲も嘆きも少しずつ混じっていた。

 だが、それだけではなかった。

 覚えていることを、手放さない意志もあった。

 イロハは、その横顔を見つめた。

「それは、つらいですね」

 言ってから、少し足りない言葉だったかもしれないと思った。

 けれどサヨは、責めるような顔をしなかった。

「ええ」

 サヨは頷いた。

「けれど、忘れられた人のほうが、もっとつらいでしょう」

 イロハは、返す言葉を失った。

 サヨの目は、池を見ている。
 だが、その向こうにいる誰かを見ているようでもあった。

 自分が何の役だったかを忘れた女房。
 水面を整えられなくなった庭番。
 香炉の前で立ち尽くしたカンナ。
 そして、舞台へ立つ入口を失ったユラ。

 役を喰われた者は、自分が何を失ったのかすらわからなくなる。

 それは、自分の痛みに名前をつけられないということだ。

 サヨは、その名前を覚えている。

 だから、呼べる。

 だから、救えることがある。

 けれど同時に、そのすべての欠落を見続けなければならない。

「サヨ様は」

 イロハはゆっくり言った。

「無力ではありません」

 サヨがこちらを見る。

 驚いた顔だった。

 そんなことを言われるとは思っていなかったのだろう。

「面がないのに?」

「はい」

「正式な祭礼にも出られないのに?」

「はい」

「自分の役もわからないのに?」

 その問いに、イロハは少しだけ言葉を選んだ。

「自分の役は、まだ見つかっていないだけです」

 サヨは黙った。

「でも、誰かの役を覚えている。それを呼べる。それは、白影宮で今、サヨ様にしかできないことです」

 池の水面がまた揺れた。

 サヨはイロハの言葉を受け止めるように、長い沈黙を置いた。

「それは、役なのでしょうか」

「わかりません」

 イロハは正直に答えた。

「でも、面師として見れば、そこには面の種があります」

「面の種?」

「はい。役になる前の、形のないものです」

 サヨは自分の胸元に手を置いた。

「わたしの中に?」

「少なくとも、私はそう見ます」

 サヨの目に、ほんの少しだけ光が差した。

 それは希望というにはまだ危うい。
 けれど、ずっと閉じ込められていた小さな息が、初めて外へ出たような光だった。

 遠くの廊下で、アヤメがこちらを見ていた。

 彼女は何も言わない。

 だが、その表情は先ほどより少しだけ和らいでいた。

「イロハ」

 サヨが初めて、敬称なしで名を呼んだ。

 イロハは少し驚き、すぐに頭を下げた。

「はい」

「あなたは、自分の役を知っていますか」

 問いは静かだった。

 けれど、イロハの胸に深く入った。

 面師。
 中級面師。
 ロウセツの弟子。
 路地裏の工房で面を直す者。
 《ナギノオモテ》によって、存在を与えられた者。

 それらは、自分の役なのだろうか。

 それとも、誰かに与えられた面の上に立っているだけなのか。

「……まだ、知っている途中です」

 イロハは答えた。

 サヨは少しだけ微笑んだ。

「では、同じですね」

 同じ。

 皇女と路地裏の面師。
 面を持たない少女と、禁じられた面で立つ少女。

 立場は何もかも違うのに、その言葉は不思議と嘘ではなかった。

 月見池の水面に、昼の光が広がる。

 底に沈んでいた月の気配は、少しだけ遠くなっていた。

 完全に消えたわけではない。

 けれど、今この瞬間だけは、池はただ静かな水に見えた。

 サヨはそれを見て、小さく息を吐いた。

「不思議です」

「何がですか」

「この池が、少し軽く見えます」

 イロハは池を見た。

「香のせいかもしれません」

「それだけではないと思います」

 サヨはイロハを見る。

「誰かに話したからかもしれません」

 イロハは答えに迷い、それから小さく頷いた。

「なら、また話してください」

「聞いてくれますか」

「面を見るために必要なら」

 そう言ってから、少し冷たい返しだったかもしれないと思った。

 だがサヨは笑った。

 今度の笑みは、先ほどより少しだけ年相応だった。

「面師らしいですね」

「よく言われます」

「ロウセツ殿に?」

「主に、嫌味として」

 サヨは小さく笑った。

 その声を聞いて、遠くのアヤメがわずかに目を細めた。

 白影宮の朝に、ほんの少しだけ人の音が戻った気がした。

 だがその時、池の水面が、不自然に揺れた。

 風は止んでいる。

 鳥もいない。

 それなのに、水底の月が、薄く瞬いた。

 イロハは身を固くした。

 サヨの表情も、静かに戻る。

「……見ましたか」

「はい」

 昼の月見池の底で、白い円が一度だけ明滅した。

 それはまるで、ふたりの会話を聞いていた何かが、こちらを見返したようだった。

 アヤメがすぐに近づく。

「サヨ様」

「大丈夫です」

 サヨは言った。

 けれど、その声には先ほどまでの柔らかさはなかった。

 イロハは、道具袋の紐を握った。

 サヨの記憶。
 失われた役。
 まだ見つからない皇女の面。
 そして、池の底で目を開けた月。

 白影宮の昼は、もう完全な昼ではなかった。