空の面箱は、昼の光の中でも黒かった。
白影宮の奥、サヨの寝所に続く一室。
そこは昨夜、箱の中の月が満ちていた場所だった。今は御簾が半分だけ上げられ、庭の光が斜めに差し込んでいる。夜のような冷たさはない。沈香の残り香も薄くなり、かわりに昼の白木の匂いが部屋を満たしていた。
それでも、面箱だけは夜のままだった。
黒漆の箱。
白絹を貼られた内側。
そして、底に刻まれた白い月痕。
面は入っていない。
何度見ても、そこには何もない。
だがイロハには、その何もない場所が、ただの空白には見えなかった。
見えない面が、そこに伏せられているような気配がある。まだ彫られておらず、まだ顔もなく、まだ紐も通されていない。けれど、置かれるべき形だけが、うっすらと空気の中に残っている。
サヨは箱の前に座っていた。
アヤメはその少し後ろ。刀に手を掛けてはいないが、いつでも動ける位置にいる。
イロハは道具袋から白布と仮札を取り出した。
白木の小さな札。
第1話でユラの白化面に使ったものと同じ種類だ。失われた役を仮に支えるための、何も書かれていない札。だが今回は、あの時とは違う。
ユラの面には、消えかけた舞の線が残っていた。
袖の軌跡。
床を打つ足。
鈴が鳴る前の沈黙。
それをイロハはなぞり、一節だけ仮置きした。
けれどサヨの面箱には、なぞるべき線がない。
あるのは、線が生まれる前の空白だった。
「本当に置けるのですか」
アヤメが尋ねた。
「置けるかどうかを確かめます」
「危険なら中止してください」
「危険かどうかも、見なければわかりません」
アヤメの眉がわずかに寄った。
「無理をされると困ります」
「私が倒れるのが困るんですか。それとも、箱に何か起きるのが困るんですか」
「両方です」
即答だった。
イロハは少しだけ目を瞬かせた。
アヤメは表情を変えない。
「あなたはまだ信用しきれません。ですが、ここで倒れられても困ります。サヨ様が気に病まれます」
「それは……気をつけます」
妙に正直な言葉に、イロハは言い返し損ねた。
サヨが静かに微笑んだ。
「アヤメは、心配の仕方が少し硬いのです」
「サヨ様」
「でも、本当に心配しているのですよ」
アヤメは少しだけ黙った。
イロハは、ふたりの関係を横目で見た。
護衛と皇女。
主と近習。
守る者と守られる者。
けれど、それだけではない。
アヤメはサヨの空白を守っている。
サヨはアヤメの硬さの奥にある感情を、きちんと見ている。
イロハは息を整え、面箱へ向き直った。
「触れます」
サヨが頷く。
「お願いします」
イロハは白布を指に巻き、箱の内側へ手を伸ばした。
冷たい。
昨夜よりも、少しだけ冷たい。
昼なのに。
指先が白絹に触れると、まぶたの裏に月が浮かんだ。空の月ではない。箱の底に沈んだ満月。白い光の縁が、歯のように細く裂けている。
イロハは仮札を、月痕のそばへ置いた。
噛み跡の上ではない。
そのすぐ横。
ユラの時と同じように、傷口を塞ぐのではなく、残っている役が通れる場所を探す。
だが、仮札は沈まなかった。
面の内側に役の線が残っている時、仮札はほんの少しだけ重くなる。役の層に触れ、木や漆の奥へと馴染んでいく。ユラの白化面では、そうだった。
しかしこの箱では、仮札がただ浮いている。
白絹の上に置かれた小さな札。
それ以上にならない。
イロハは目を細めた。
「駄目です」
サヨの肩が、ほんの少しだけ動いた。
アヤメがすぐに尋ねる。
「置けないのですか」
「置けないというより、置く先がありません」
「役がない、ということですか」
「いいえ」
イロハは箱の内側を見つめた。
「役がないのではなく、まだ線になっていないんです」
サヨが静かに聞いている。
イロハは、もう一度仮札に触れた。
その瞬間、視界が白く裂けた。
月痕。
白い噛み跡。
その奥に、何かが見える。
喰われたような裂け目が、箱の底からさらに奥へ続いている。普通の面箱なら存在しない深さ。白絹の下に、もう一枚の空白があるようだった。
そこに、まだ彫られていない面の輪郭が浮かぶ。
白い面。
だが白化面の白ではない。
剥がされた白でも、死んだ白でもない。
まだ何にも染まっていない白。
そこには目の穴も、口の線も、頬の丸みもない。けれど面になるはずの曲面だけが、かすかにある。木の中に眠っている形のように。彫る前から、彫られることを待っている顔のように。
イロハの息が止まった。
その輪郭に、別の気配が重なる。
黒い小箱。
無面原の木の匂い。
師匠の手。
幼い自分の泣き声。
そして、まだ一度もきちんと見つめられていない、自分の面。
《ナギノオモテ》。
腰の鍵が、熱を持った。
イロハはびくりと肩を震わせた。
鍵は道具袋の奥に入れてある。布に包み、さらに紐で縛っている。それなのに、肌の近くで火が灯ったように熱い。
アヤメが気づいた。
「どうしました」
「何でもありません」
イロハはすぐに答えた。
早すぎる返事だった。
アヤメの目が鋭くなる。
「今、反応しましたね」
「箱の月痕です」
「違います。あなたの持ち物です」
イロハは道具袋を押さえた。
「違います」
「その面を出してください」
部屋の空気が固くなった。
サヨが顔を上げる。
アヤメは一歩前へ出ていた。
「あなたの面が、この箱に反応しています。サヨ様の未在面に関わる可能性があります。確認が必要です」
「できません」
イロハの声は、自分でも驚くほど硬かった。
アヤメの表情も険しくなる。
「なぜです」
「師匠に、今日は開けるなと言われました」
「ロウセツ=カガミの言葉を、白影宮より優先するのですか」
その言葉は、刃のように落ちた。
イロハは顔を上げた。
「これは、私の面です」
アヤメの目が細くなる。
「それがサヨ様の面と関わるなら、白影宮に確認する権利があります」
「権利?」
イロハの声が低くなった。
「私の面を、疑って開ける権利ですか」
「疑わざるを得ません」
「だから開けろと?」
「はい」
「嫌です」
短い拒絶だった。
アヤメの空気が変わる。
護衛としての顔になる。白影宮を守る者の顔。サヨのためなら、多少強引な手段も選ぶと決めている者の顔。
イロハは道具袋を抱えるようにした。
胸の奥が熱い。
怒りなのか、恐怖なのかわからない。
《ナギノオモテ》は、自分の足場だ。
その由来が怪しいことはわかっている。師匠が何かを隠していることも、皇女の未在面と響き合っているかもしれないことも、もう感じている。
けれど。
だからといって、ここで開けられたくはない。
白影宮のために。
皇女のために。
制度のために。
疑いを晴らすために。
そういう理由で、自分をこの世に立たせている面を覗かれたくない。
「それは、私がここにいるための面です」
イロハは言った。
「誰かの証拠品ではありません」
アヤメの目がかすかに揺れた。
だが、引かない。
「サヨ様に危険が及ぶ可能性があるなら、見過ごせません」
「私に危険が及ぶ可能性は、見過ごすんですか」
言ってしまってから、イロハは息を呑んだ。
アヤメも黙った。
その沈黙は、鋭かった。
サヨが、静かに口を開いた。
「アヤメ、今はよいのです」
「ですが」
「今はよいのです」
二度目の声は、柔らかいが、はっきりしていた。
アヤメは唇を結ぶ。
「サヨ様。その面が、あなた様の未在面に関わるなら――」
「だからこそです」
サヨは言った。
その目は、アヤメではなくイロハを見ていた。
「面は、無理に開けるものではありません。わたしは、それをよく知っています」
イロハの胸の奥で、何かがほどけた。
サヨは面を持たない。
自分の面箱はあるのに、面がない。
誰も作ってくれなかったのか、作れなかったのか、作られる前に喰われたのかもわからない。
だからこそ、面を無理に求められる痛みを知っている。
あるいは、面を持たないことを問い詰められ続ける痛みを。
アヤメはなおも何か言いたげだったが、サヨの表情を見て言葉を飲み込んだ。
「……承知しました」
短く答え、一歩下がる。
ただし、その視線はまだイロハの道具袋に向いていた。
完全に納得したわけではない。
イロハも、それはわかっている。
「ありがとうございます」
イロハはサヨに言った。
サヨは小さく首を振る。
「わたしが、そうしてほしかっただけです」
「それでも」
イロハは道具袋をそっと下ろした。
腰の鍵の熱は、まだ残っている。
だが、先ほどより少しだけ弱まっていた。
まるで《ナギノオモテ》自身も、開けられずに済んだことに息をついたようだった。
イロハは、再び空の面箱へ向き直った。
「仮置きはできません」
サヨは頷いた。
「では、何ができますか」
「今は、読むだけです」
「読む?」
「まだ役の線にはなっていません。でも、面の輪郭はあります」
アヤメが反応する。
「見えたのですか」
「少しだけ」
イロハは、箱の底に置いた仮札を回収した。
札は白いままだ。
何も写っていない。
だが、指先にはまだ、あの輪郭の感触が残っている。
「サヨ様の面は、失われた面ではありません」
イロハは慎重に言葉を選んだ。
「作られる前の面です」
サヨの目が静かに揺れた。
「作られる前に、喰われているのですか」
「たぶん」
イロハは箱の内側の月痕を見た。
「面がないから、面は喰えない。でも、そこに生まれるはずだった役の場所を、月が先に噛んでいる。だから、面がないのに痕だけがある」
部屋の空気が冷えた。
アヤメが低く言う。
「では、月はサヨ様が面を持つ前から、それを狙っていたということですか」
「そう見えます」
「なぜ」
「それは、まだわかりません」
イロハは正直に答えた。
わからないことが多すぎる。
無面原の木。
ロウセツの過去。
皇女の未在面。
自分の《ナギノオモテ》。
それらは全部、箱の底で絡まり合っている。
けれど今、無理に引っ張れば、きっと何かが破れる。
「でも」
イロハはサヨを見た。
「面の輪郭は、完全には消えていません」
サヨは、息を止めるようにして聞いていた。
「本当ですか」
「はい」
「まだ、あるのですね」
「あります。まだ彫られていないだけです」
その言葉を聞いた瞬間、サヨの表情がわずかに崩れた。
泣きそうになったのではない。
むしろ、泣くことを許されていない人が、胸の奥だけで涙を受け止めたような顔だった。
「そうですか」
それだけ言って、サヨは空の面箱を見た。
「まだ、あるのですね」
同じ言葉を、もう一度、小さく繰り返す。
イロハは頷いた。
「ただし、仮置きはできません。役を置くには、役の線が必要です。今はまだ、線になる前の輪郭しかない」
「では、どうすれば」
サヨの問いに、イロハはすぐには答えられなかった。
面師としてなら、素材を見ればよい。木目を読み、形を取り、彫り、磨き、塗り、紐を通す。
けれどこれは、ただの面ではない。
皇女の未在面。
この国にまだ存在しない役の面。
それを彫るには、おそらくサヨ自身の役を知らなければならない。誰かに与えられた役ではなく、サヨが何として立つのかを。
だが、それを今ここで言うには早い。
イロハは、箱に残る白い裂け目を見た。
「まずは、月が何を喰おうとしているのかを見ます」
「わたしの役を?」
「はい」
「わたしには、役がないのに」
「ないのではありません」
イロハは、先ほどの面棚を思い出した。
空の棚。
整えられた紐。
焚かれる香。
待っている場所。
「まだ、この国の形になっていないだけです」
サヨは、ゆっくりとイロハを見た。
その目は、先ほどより少し深くなっていた。
疑いではない。
期待でもない。
自分の空白を、初めて空白以外のものとして見てくれる相手を、確かめる目だった。
「イロハ」
「はい」
「あなたの面も、まだ形になっていないものを持っているのですか」
イロハは答えに詰まった。
道具袋の奥で、鍵がまた少しだけ熱を持つ。
《ナギノオモテ》は、自分の面だ。
そう言った。
そう信じている。
そう信じなければ、自分はここに立てない。
けれど、サヨの空の面箱に触れた時、確かに響いた。
似ている。
サヨの夢に出る面と、イロハの面は似ている。
その事実から、いつまでも目を逸らすことはできない。
「……わかりません」
イロハは答えた。
「私は、自分の面のことを、まだちゃんと知りません」
アヤメが少しだけ眉を動かす。
サヨは静かに頷いた。
「では、同じですね」
先ほど月見池のそばで聞いた言葉。
同じ。
面を持たない皇女。
面を持っているのに、その由来を知らない面師。
どちらも、自分の役をまだ探している。
イロハは、胸の奥が少し痛くなるのを感じた。
空の面箱の中で、白い裂け目がかすかに光る。
昼なのに。
夜はまだ遠いはずなのに。
月はもう、眠っていないのかもしれない。
アヤメが低く言った。
「今夜、また箱の中に月が出ますか」
イロハは箱から目を離さずに答えた。
「出ると思います」
「満月でしょうか」
「おそらく」
「空の月は、今夜も欠けています」
「箱の月には関係ありません」
サヨはゆっくり目を伏せた。
「では、今夜も誰かの役が喰われるのですね」
イロハは、何も言えなかった。
否定できない。
しかし、言葉を失ったままでもいられない。
「今夜は、見ます」
イロハは言った。
「何を?」
サヨが尋ねる。
「月が、どこから役に歯を立てるのかを」
アヤメの目が鋭くなる。
「止められますか」
「止める方法を探します」
「今は?」
「まだ、ありません」
正直すぎる答えだった。
アヤメは不満そうだったが、反論はしなかった。
サヨはむしろ、静かに頷いた。
「わかりました」
その声には、不思議な落ち着きがあった。
イロハは、空の面箱から仮札を完全に引き上げ、白布に包んだ。
仮置きは失敗した。
けれど、何も得られなかったわけではない。
月痕。
白い裂け目。
まだ彫られていない面の輪郭。
そして、《ナギノオモテ》との反応。
これらはすべて繋がっている。
だが、今はまだ結ばない。
無理に結べば、糸が切れる。
イロハは道具袋を閉じた。
その時、黒漆の面箱の内側で、白い月痕が一度だけ瞬いた。
まるで、箱の奥から誰かが小さく笑ったように。
イロハの背筋に冷たいものが走る。
サヨもそれを見ていた。
アヤメは刀に手を伸ばす。
しかし、何も起きなかった。
ただ、部屋の隅に置かれた香炉の煙が、不自然に細く揺れた。
箱の中の月は、昼のうちから目を覚ましている。
イロハはそう確信した。
そして同時に、道具袋の奥で静かに眠る《ナギノオモテ》が、今もまだ、箱の奥の何かに耳を澄ませているような気がした。