EP 15

第2話 月箱の皇女

第五節 ― 《ナギノオモテ》の反応

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 空の面箱は、昼の光の中でも黒かった。

 白影宮の奥、サヨの寝所に続く一室。

 そこは昨夜、箱の中の月が満ちていた場所だった。今は御簾が半分だけ上げられ、庭の光が斜めに差し込んでいる。夜のような冷たさはない。沈香の残り香も薄くなり、かわりに昼の白木の匂いが部屋を満たしていた。

 それでも、面箱だけは夜のままだった。

 黒漆の箱。
 白絹を貼られた内側。
 そして、底に刻まれた白い月痕。

 面は入っていない。

 何度見ても、そこには何もない。

 だがイロハには、その何もない場所が、ただの空白には見えなかった。

 見えない面が、そこに伏せられているような気配がある。まだ彫られておらず、まだ顔もなく、まだ紐も通されていない。けれど、置かれるべき形だけが、うっすらと空気の中に残っている。

 サヨは箱の前に座っていた。

 アヤメはその少し後ろ。刀に手を掛けてはいないが、いつでも動ける位置にいる。

 イロハは道具袋から白布と仮札を取り出した。

 白木の小さな札。

 第1話でユラの白化面に使ったものと同じ種類だ。失われた役を仮に支えるための、何も書かれていない札。だが今回は、あの時とは違う。

 ユラの面には、消えかけた舞の線が残っていた。

 袖の軌跡。
 床を打つ足。
 鈴が鳴る前の沈黙。

 それをイロハはなぞり、一節だけ仮置きした。

 けれどサヨの面箱には、なぞるべき線がない。

 あるのは、線が生まれる前の空白だった。

「本当に置けるのですか」

 アヤメが尋ねた。

「置けるかどうかを確かめます」

「危険なら中止してください」

「危険かどうかも、見なければわかりません」

 アヤメの眉がわずかに寄った。

「無理をされると困ります」

「私が倒れるのが困るんですか。それとも、箱に何か起きるのが困るんですか」

「両方です」

 即答だった。

 イロハは少しだけ目を瞬かせた。

 アヤメは表情を変えない。

「あなたはまだ信用しきれません。ですが、ここで倒れられても困ります。サヨ様が気に病まれます」

「それは……気をつけます」

 妙に正直な言葉に、イロハは言い返し損ねた。

 サヨが静かに微笑んだ。

「アヤメは、心配の仕方が少し硬いのです」

「サヨ様」

「でも、本当に心配しているのですよ」

 アヤメは少しだけ黙った。

 イロハは、ふたりの関係を横目で見た。

 護衛と皇女。
 主と近習。
 守る者と守られる者。

 けれど、それだけではない。

 アヤメはサヨの空白を守っている。
 サヨはアヤメの硬さの奥にある感情を、きちんと見ている。

 イロハは息を整え、面箱へ向き直った。

「触れます」

 サヨが頷く。

「お願いします」

 イロハは白布を指に巻き、箱の内側へ手を伸ばした。

 冷たい。

 昨夜よりも、少しだけ冷たい。

 昼なのに。

 指先が白絹に触れると、まぶたの裏に月が浮かんだ。空の月ではない。箱の底に沈んだ満月。白い光の縁が、歯のように細く裂けている。

 イロハは仮札を、月痕のそばへ置いた。

 噛み跡の上ではない。
 そのすぐ横。

 ユラの時と同じように、傷口を塞ぐのではなく、残っている役が通れる場所を探す。

 だが、仮札は沈まなかった。

 面の内側に役の線が残っている時、仮札はほんの少しだけ重くなる。役の層に触れ、木や漆の奥へと馴染んでいく。ユラの白化面では、そうだった。

 しかしこの箱では、仮札がただ浮いている。

 白絹の上に置かれた小さな札。
 それ以上にならない。

 イロハは目を細めた。

「駄目です」

 サヨの肩が、ほんの少しだけ動いた。

 アヤメがすぐに尋ねる。

「置けないのですか」

「置けないというより、置く先がありません」

「役がない、ということですか」

「いいえ」

 イロハは箱の内側を見つめた。

「役がないのではなく、まだ線になっていないんです」

 サヨが静かに聞いている。

 イロハは、もう一度仮札に触れた。

 その瞬間、視界が白く裂けた。

 月痕。

 白い噛み跡。

 その奥に、何かが見える。

 喰われたような裂け目が、箱の底からさらに奥へ続いている。普通の面箱なら存在しない深さ。白絹の下に、もう一枚の空白があるようだった。

 そこに、まだ彫られていない面の輪郭が浮かぶ。

 白い面。

 だが白化面の白ではない。
 剥がされた白でも、死んだ白でもない。

 まだ何にも染まっていない白。

 そこには目の穴も、口の線も、頬の丸みもない。けれど面になるはずの曲面だけが、かすかにある。木の中に眠っている形のように。彫る前から、彫られることを待っている顔のように。

 イロハの息が止まった。

 その輪郭に、別の気配が重なる。

 黒い小箱。
 無面原の木の匂い。
 師匠の手。
 幼い自分の泣き声。
 そして、まだ一度もきちんと見つめられていない、自分の面。

 《ナギノオモテ》。

 腰の鍵が、熱を持った。

 イロハはびくりと肩を震わせた。

 鍵は道具袋の奥に入れてある。布に包み、さらに紐で縛っている。それなのに、肌の近くで火が灯ったように熱い。

 アヤメが気づいた。

「どうしました」

「何でもありません」

 イロハはすぐに答えた。

 早すぎる返事だった。

 アヤメの目が鋭くなる。

「今、反応しましたね」

「箱の月痕です」

「違います。あなたの持ち物です」

 イロハは道具袋を押さえた。

「違います」

「その面を出してください」

 部屋の空気が固くなった。

 サヨが顔を上げる。

 アヤメは一歩前へ出ていた。

「あなたの面が、この箱に反応しています。サヨ様の未在面に関わる可能性があります。確認が必要です」

「できません」

 イロハの声は、自分でも驚くほど硬かった。

 アヤメの表情も険しくなる。

「なぜです」

「師匠に、今日は開けるなと言われました」

「ロウセツ=カガミの言葉を、白影宮より優先するのですか」

 その言葉は、刃のように落ちた。

 イロハは顔を上げた。

「これは、私の面です」

 アヤメの目が細くなる。

「それがサヨ様の面と関わるなら、白影宮に確認する権利があります」

「権利?」

 イロハの声が低くなった。

「私の面を、疑って開ける権利ですか」

「疑わざるを得ません」

「だから開けろと?」

「はい」

「嫌です」

 短い拒絶だった。

 アヤメの空気が変わる。

 護衛としての顔になる。白影宮を守る者の顔。サヨのためなら、多少強引な手段も選ぶと決めている者の顔。

 イロハは道具袋を抱えるようにした。

 胸の奥が熱い。

 怒りなのか、恐怖なのかわからない。

 《ナギノオモテ》は、自分の足場だ。

 その由来が怪しいことはわかっている。師匠が何かを隠していることも、皇女の未在面と響き合っているかもしれないことも、もう感じている。

 けれど。

 だからといって、ここで開けられたくはない。

 白影宮のために。
 皇女のために。
 制度のために。
 疑いを晴らすために。

 そういう理由で、自分をこの世に立たせている面を覗かれたくない。

「それは、私がここにいるための面です」

 イロハは言った。

「誰かの証拠品ではありません」

 アヤメの目がかすかに揺れた。

 だが、引かない。

「サヨ様に危険が及ぶ可能性があるなら、見過ごせません」

「私に危険が及ぶ可能性は、見過ごすんですか」

 言ってしまってから、イロハは息を呑んだ。

 アヤメも黙った。

 その沈黙は、鋭かった。

 サヨが、静かに口を開いた。

「アヤメ、今はよいのです」

「ですが」

「今はよいのです」

 二度目の声は、柔らかいが、はっきりしていた。

 アヤメは唇を結ぶ。

「サヨ様。その面が、あなた様の未在面に関わるなら――」

「だからこそです」

 サヨは言った。

 その目は、アヤメではなくイロハを見ていた。

「面は、無理に開けるものではありません。わたしは、それをよく知っています」

 イロハの胸の奥で、何かがほどけた。

 サヨは面を持たない。

 自分の面箱はあるのに、面がない。
 誰も作ってくれなかったのか、作れなかったのか、作られる前に喰われたのかもわからない。

 だからこそ、面を無理に求められる痛みを知っている。

 あるいは、面を持たないことを問い詰められ続ける痛みを。

 アヤメはなおも何か言いたげだったが、サヨの表情を見て言葉を飲み込んだ。

「……承知しました」

 短く答え、一歩下がる。

 ただし、その視線はまだイロハの道具袋に向いていた。

 完全に納得したわけではない。

 イロハも、それはわかっている。

「ありがとうございます」

 イロハはサヨに言った。

 サヨは小さく首を振る。

「わたしが、そうしてほしかっただけです」

「それでも」

 イロハは道具袋をそっと下ろした。

 腰の鍵の熱は、まだ残っている。

 だが、先ほどより少しだけ弱まっていた。

 まるで《ナギノオモテ》自身も、開けられずに済んだことに息をついたようだった。

 イロハは、再び空の面箱へ向き直った。

「仮置きはできません」

 サヨは頷いた。

「では、何ができますか」

「今は、読むだけです」

「読む?」

「まだ役の線にはなっていません。でも、面の輪郭はあります」

 アヤメが反応する。

「見えたのですか」

「少しだけ」

 イロハは、箱の底に置いた仮札を回収した。

 札は白いままだ。

 何も写っていない。

 だが、指先にはまだ、あの輪郭の感触が残っている。

「サヨ様の面は、失われた面ではありません」

 イロハは慎重に言葉を選んだ。

「作られる前の面です」

 サヨの目が静かに揺れた。

「作られる前に、喰われているのですか」

「たぶん」

 イロハは箱の内側の月痕を見た。

「面がないから、面は喰えない。でも、そこに生まれるはずだった役の場所を、月が先に噛んでいる。だから、面がないのに痕だけがある」

 部屋の空気が冷えた。

 アヤメが低く言う。

「では、月はサヨ様が面を持つ前から、それを狙っていたということですか」

「そう見えます」

「なぜ」

「それは、まだわかりません」

 イロハは正直に答えた。

 わからないことが多すぎる。

 無面原の木。
 ロウセツの過去。
 皇女の未在面。
 自分の《ナギノオモテ》。

 それらは全部、箱の底で絡まり合っている。

 けれど今、無理に引っ張れば、きっと何かが破れる。

「でも」

 イロハはサヨを見た。

「面の輪郭は、完全には消えていません」

 サヨは、息を止めるようにして聞いていた。

「本当ですか」

「はい」

「まだ、あるのですね」

「あります。まだ彫られていないだけです」

 その言葉を聞いた瞬間、サヨの表情がわずかに崩れた。

 泣きそうになったのではない。

 むしろ、泣くことを許されていない人が、胸の奥だけで涙を受け止めたような顔だった。

「そうですか」

 それだけ言って、サヨは空の面箱を見た。

「まだ、あるのですね」

 同じ言葉を、もう一度、小さく繰り返す。

 イロハは頷いた。

「ただし、仮置きはできません。役を置くには、役の線が必要です。今はまだ、線になる前の輪郭しかない」

「では、どうすれば」

 サヨの問いに、イロハはすぐには答えられなかった。

 面師としてなら、素材を見ればよい。木目を読み、形を取り、彫り、磨き、塗り、紐を通す。

 けれどこれは、ただの面ではない。

 皇女の未在面。

 この国にまだ存在しない役の面。

 それを彫るには、おそらくサヨ自身の役を知らなければならない。誰かに与えられた役ではなく、サヨが何として立つのかを。

 だが、それを今ここで言うには早い。

 イロハは、箱に残る白い裂け目を見た。

「まずは、月が何を喰おうとしているのかを見ます」

「わたしの役を?」

「はい」

「わたしには、役がないのに」

「ないのではありません」

 イロハは、先ほどの面棚を思い出した。

 空の棚。
 整えられた紐。
 焚かれる香。
 待っている場所。

「まだ、この国の形になっていないだけです」

 サヨは、ゆっくりとイロハを見た。

 その目は、先ほどより少し深くなっていた。

 疑いではない。
 期待でもない。

 自分の空白を、初めて空白以外のものとして見てくれる相手を、確かめる目だった。

「イロハ」

「はい」

「あなたの面も、まだ形になっていないものを持っているのですか」

 イロハは答えに詰まった。

 道具袋の奥で、鍵がまた少しだけ熱を持つ。

 《ナギノオモテ》は、自分の面だ。

 そう言った。
 そう信じている。
 そう信じなければ、自分はここに立てない。

 けれど、サヨの空の面箱に触れた時、確かに響いた。

 似ている。

 サヨの夢に出る面と、イロハの面は似ている。

 その事実から、いつまでも目を逸らすことはできない。

「……わかりません」

 イロハは答えた。

「私は、自分の面のことを、まだちゃんと知りません」

 アヤメが少しだけ眉を動かす。

 サヨは静かに頷いた。

「では、同じですね」

 先ほど月見池のそばで聞いた言葉。

 同じ。

 面を持たない皇女。
 面を持っているのに、その由来を知らない面師。

 どちらも、自分の役をまだ探している。

 イロハは、胸の奥が少し痛くなるのを感じた。

 空の面箱の中で、白い裂け目がかすかに光る。

 昼なのに。

 夜はまだ遠いはずなのに。

 月はもう、眠っていないのかもしれない。

 アヤメが低く言った。

「今夜、また箱の中に月が出ますか」

 イロハは箱から目を離さずに答えた。

「出ると思います」

「満月でしょうか」

「おそらく」

「空の月は、今夜も欠けています」

「箱の月には関係ありません」

 サヨはゆっくり目を伏せた。

「では、今夜も誰かの役が喰われるのですね」

 イロハは、何も言えなかった。

 否定できない。

 しかし、言葉を失ったままでもいられない。

「今夜は、見ます」

 イロハは言った。

「何を?」

 サヨが尋ねる。

「月が、どこから役に歯を立てるのかを」

 アヤメの目が鋭くなる。

「止められますか」

「止める方法を探します」

「今は?」

「まだ、ありません」

 正直すぎる答えだった。

 アヤメは不満そうだったが、反論はしなかった。

 サヨはむしろ、静かに頷いた。

「わかりました」

 その声には、不思議な落ち着きがあった。

 イロハは、空の面箱から仮札を完全に引き上げ、白布に包んだ。

 仮置きは失敗した。

 けれど、何も得られなかったわけではない。

 月痕。
 白い裂け目。
 まだ彫られていない面の輪郭。
 そして、《ナギノオモテ》との反応。

 これらはすべて繋がっている。

 だが、今はまだ結ばない。

 無理に結べば、糸が切れる。

 イロハは道具袋を閉じた。

 その時、黒漆の面箱の内側で、白い月痕が一度だけ瞬いた。

 まるで、箱の奥から誰かが小さく笑ったように。

 イロハの背筋に冷たいものが走る。

 サヨもそれを見ていた。

 アヤメは刀に手を伸ばす。

 しかし、何も起きなかった。

 ただ、部屋の隅に置かれた香炉の煙が、不自然に細く揺れた。

 箱の中の月は、昼のうちから目を覚ましている。

 イロハはそう確信した。

 そして同時に、道具袋の奥で静かに眠る《ナギノオモテ》が、今もまだ、箱の奥の何かに耳を澄ませているような気がした。