EP 16

第2話 月箱の皇女

第六節 ― 白影宮の夜支度

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 夕暮れが近づくと、白影宮は音を変えた。

 朝の静けさとも、昼の薄明るさとも違う。
 何かが来る前に、宮全体が息を詰めていくような音だった。

 女房たちが、いっせいに動き始める。

 誰かが大声で命じたわけではない。太鼓が鳴ったわけでもない。ただ、陽が西へ傾き、白砂の庭に黒松の影が長く伸びた頃から、白影宮の者たちはそれぞれの役へ戻っていった。

 面箱には、黒布をかける。

 それはただの布ではなかった。深い墨染めの布地に、ほとんど見えないほど細い銀糸で、月除けの雲紋が縫われている。女房たちはひとつひとつの面箱に手を合わせ、蓋が閉じていることを確かめ、黒布を二重に掛けた。

 水盆は伏せる。

 廊下の角や客間に置かれた水盆は、昼のあいだ涼を取るためのものだった。けれど夜になると、そこに月が映る。たとえ空の月が欠けていても、水は月を呼び込む。だから、夕暮れ前にすべて伏せられる。

 月見池には竹簾を下ろす。

 庭番たちが、池の縁に渡した細竹の簾をゆっくりと引いていく。昼のあいだ黒松を映していた水面が、少しずつ覆われる。完全には隠さない。水を閉じすぎれば、池は息を失う。けれど開けたままにすれば、月が沈む。

 御簾の隙間は、白い絹紐で結ばれる。

 御簾守の女房たちは、廊下ごとに下げられた御簾の端を確かめ、光が通る細い隙間を塞いでいく。隙間を閉じる順にも決まりがあった。東から西へ。高い御簾から低い御簾へ。寝所に近いものほど最後に。

 面棚の前には、月除けの香が焚かれる。

 沈香を主に、白檀をほんの少し、月除け草を砕いたものを一つまみ。香の煙は面の表ではなく、面箱の周囲を囲むように流される。

 それらすべてが、あまりに自然だった。

 イロハは、白影宮の廊下に立って、その支度を見ていた。

 誰かが特別な儀式として行っているのではない。白影宮の者たちにとって、これは毎夜の作業なのだ。夕餉の支度をし、灯を入れ、戸締まりをするのと同じように、月を避ける。

 異常は、すでに日常になっていた。

 それが、イロハには怖かった。

 最初の夜、どれほど怯えただろう。

 最初に面箱が鳴った時。
 最初に水盆へ空にない月が映った時。
 最初に誰かが、自分の役を忘れた時。

 その恐怖は、いつしか手順に変わる。

 黒布を掛ける。
 水盆を伏せる。
 竹簾を下ろす。
 御簾を結ぶ。
 香を焚く。

 そうすれば、夜を越えられる。完全には防げなくても、少しはましになる。そう信じて、人は異常を生活に組み込んでいく。

 面師小路でも似たことはある。

 欠けた面を持つ子どもに、親が毎朝紐を結び直す。剥がれかけた職面に、職人が布を巻いて仕事場へ向かう。面籍からこぼれた者が、古い面片を懐に入れて通りを歩く。

 壊れたものを抱えながら、今日も続けるための手順。

 白影宮もまた、そうして夜を越えてきたのだ。

「イロハ」

 声をかけられ、イロハは振り返った。

 サヨが廊下の奥に立っていた。

 昼の衣から、夜用の薄墨色の衣に替えている。襟元には白い細紐が結ばれ、袖には月除けの雲紋が淡く刺繍されていた。けれど、やはり面はない。

 そのことが、夜の支度の中ではいっそう目立った。

 女房たちは面箱を守る。
 庭番は池を守る。
 御簾守は隙間を守る。
 香役は夜を閉じる。

 では、サヨは何を守るのか。

 あるいは、誰に守られるためにここにいるのか。

 それを示す面が、どこにもない。

「支度は、いつもこのように?」

 イロハが尋ねると、サヨは頷いた。

「ええ。近頃は、以前より早く始めるようになりました」

「以前は?」

「月が見えてからで間に合いました。でも今は、日が沈む前から閉じないと、間に合わないことがあります」

「箱の中の月が、早く起きるからですか」

「そうです」

 サヨは奥の間の方へ目を向けた。

 あの空の面箱だけは、黒布を掛けられていない。

 むしろ、今夜はあえて開かれている。

 イロハが見るために。
 月がどこから役を喰うのかを、確かめるために。

 他の面箱を隠し、あの箱だけを開ける。

 それは、白影宮に穴をひとつ残すことでもあった。

「怖くありませんか」

 イロハは思わず聞いた。

 サヨは少しだけ考えた。

「怖いです」

 素直な答えだった。

「でも、見なければ、今夜も誰かが忘れます」

 その声に、揺らぎはなかった。

 イロハは何も言えなくなった。

 サヨは面を持たない。
 正式な祭礼にも立てない。
 自分の役すら言えない。

 それでも、誰かが忘れられることを見過ごせない。

 そこへ、東廊から小さな声が上がった。

「あの、これは……」

 御簾守の女房だった。

 アヤメがすぐに動く。

 イロハとサヨも後を追った。

 東廊では、御簾守の女房が白絹の紐を手にしたまま立ち尽くしていた。三枚の御簾が並んでいる。右から閉じるのか、左から閉じるのか。彼女は目の前の御簾を見上げたまま、動けなくなっていた。

「どうしました」

 アヤメが問う。

 女房は震える声で答えた。

「順が……どの御簾から閉じるのでしたか」

 別の女房が言いかける。

「東から……いえ、西からだったかしら」

「高い御簾からでは」

「寝所に近いものを先に……?」

 言葉が揺れる。

 さきほどまで自然に行われていた支度が、一瞬で不確かになる。

 サヨは迷わず言った。

「東の御簾からです」

 御簾守が顔を上げる。

「サヨ様」

「東から西へ。高い御簾から低い御簾へ。寝所に近いものは最後。あなたはいつも、最初の紐を結ぶ前に、結び目を一度指でならします。結びが固くなりすぎないように」

 御簾守の手が動いた。

 白紐を指でならす。

 その瞬間、彼女の目に焦点が戻った。

「……そうでした」

 彼女は息を吐いた。

「そうです。固く結びすぎると、朝に開ける時、御簾が傷むから」

 サヨは頷いた。

「ええ」

 御簾守は深く頭を下げ、作業へ戻った。

 その場の空気が少し緩む。

 けれど、安心する間もなかった。

 今度は庭から、竹簾の軋む音が止まった。

 庭番が、月見池の縁で立ち尽くしている。

 竹簾は半分まで下ろされていた。残り半分を下ろせば、水面は夜の月から守られる。だが庭番は、その先へ進めないようだった。

 アヤメが縁側へ出る。

「何をしている」

 庭番は振り返った。

 顔色が悪い。

「池に、近づいてよいのでしたか」

 その問いに、廊下にいた者たちは凍りついた。

「わたしは、月見池を避ける役では……」

「違います」

 サヨが言った。

 その声は、今度もまっすぐだった。

「あなたは、池を避ける役ではありません。月を避けるために、池を整える役です」

 庭番の目が揺れる。

「池を、整える」

「はい。竹簾は水面に触れないよう、石の二つ手前で止める。完全に覆えば池が息を失うから。あなたはそれを誰よりも知っています」

 庭番は竹簾の端を見た。

 手が震えながらも、動く。

「石の、二つ手前」

「そうです」

 竹簾が、ゆっくり下りた。

 水面が隠れる。

 月見池の奥に沈んでいた白い気配が、わずかに薄くなった。

 イロハは、それを見ていた。

 サヨが言葉にするたび、役は完全ではないが戻る。喰われかけた部分が、一時的に縫い止められる。

 サヨは、白影宮の全員の役を覚えている。

 御簾守の結び方。
 庭番の竹簾の止め方。
 香役カンナの沈香の意味。
 夜警がどの角に立つのか。
 女房がどの部屋に仕えるのか。

 全部、覚えている。

 けれど。

「サヨ様」

 イロハは小さく呼んだ。

 サヨは振り返る。

「サヨ様の夜支度は、何ですか」

 その問いに、周囲の空気が止まった。

 アヤメが鋭くイロハを見る。

 不用意な問いだったかもしれない。

 だが、イロハは聞かずにいられなかった。

 白影宮の者たちは、それぞれ夜支度の役を持つ。
 月から宮を守るため、全員が何かをする。

 ならば、この宮の主であるサヨは、夜に何をするのか。

 サヨはしばらく黙っていた。

 それから、自分の胸元に手を置いた。

「わかりません」

 静かな答えだった。

 誰も何も言わない。

「わたしは、皆の役は覚えています。けれど、自分が夜に何をすべきなのかは、思い出せないのです」

「記録には」

 イロハが尋ねかけ、途中でやめた。

 記録にはない。

 聞かなくてもわかる。

 サヨは微笑んだ。

「記録にはありません」

 その微笑みは、少しだけ寂しかった。

「面もありません。だから、わたしの夜支度もありません」

「そんなことは」

 イロハが言おうとした時、アヤメの足が一歩乱れた。

 本当に小さな乱れだった。

 だが、イロハは気づいた。

 アヤメ自身も気づいたのだろう。彼女はすぐに姿勢を正し、刀の柄へ手を置いた。

「アヤメ?」

 サヨが呼ぶ。

「問題ありません」

 アヤメは即答した。

 けれど、その声がほんの少し遅れた。

 サヨが近づく。

「アヤメ」

「問題ありません」

「本当に?」

 アヤメの指が、刀の柄を握ったまま止まっていた。

 抜くわけではない。
 警戒しているのでもない。
 ただ、手を置いたまま、動けない。

 イロハは息を呑んだ。

 アヤメほど役の強い者にも、月は触れる。

 サヨを守る役。
 白影宮の近習。
 皇女の側に立つ刀。

 その役に、白い指先が触れている。

 アヤメの目が、わずかに迷う。

「わたしは」

 彼女の声が低く落ちた。

「誰を、守る役でしたか」

 廊下にいた者たちの表情が変わった。

 カンナが口元を押さえる。

 御簾守が白紐を取り落としそうになる。

 イロハは道具袋を握った。

 アヤメが揺らぐのは、危険だ。

 彼女は白影宮で、サヨのそばを守る柱のひとつだ。もしその役が薄れれば、夜の箱の前でサヨを守る者がいなくなる。

 だが、サヨは慌てなかった。

 彼女はアヤメの前へ立った。

「アヤメ」

 その声は、とても静かだった。

「あなたは、わたしを守る役ではありません」

 アヤメの目が揺れた。

 周囲が息を呑む。

 イロハも、思わずサヨを見る。

 守る役ではない?

 アヤメの顔に、痛みが走った。

「では、わたしは」

「あなたは、わたしが面を持たないままでも、ここにいてよいと証明する役です」

 白影宮の空気が、深く震えた。

 アヤメは動かなかった。

 だが、その目に焦点が戻っていく。

「サヨ様……」

「あなたは、わたしの前に立つ刀ではありません。わたしの隣に立ち、ここにいることを誰よりも疑わなかった人です」

 サヨは、アヤメの手にそっと触れた。

「だから、わたしはあなたを覚えています」

 アヤメの指が、刀の柄からゆっくり離れた。

 彼女は深く息を吸った。

「……失礼いたしました」

 その声は、まだわずかに震えていた。

 サヨは首を振る。

「戻ってきてくれて、よかった」

 アヤメは唇を引き結んだ。

 泣きそうになったわけではない。
 けれど、その顔には、これまで見せなかった弱さが一瞬だけ浮かんでいた。

 イロハは、何も言わなかった。

 言葉を挟むべき場面ではなかった。

 ただ、サヨの言葉を胸の奥で反芻する。

 守る役ではない。
 ここにいてよいと証明する役。

 役とは、肩書きだけではない。
 帳に書かれた職分だけでもない。
 誰かとの関係の中で生まれる役もある。

 それを、サヨは知っている。

 自分の役を言えないのに、他者の役の本質を呼ぶことができる。

 それは、あまりにも切ない力だった。

 その時、奥の間から、かたり、と音がした。

 全員が振り返る。

 空の面箱だ。

 黒布を掛けず、蓋を開けたままにしてある、あの箱。

 夕暮れの光が薄れ、夜の最初の影が白影宮へ入ってきた、その瞬間。

 箱の中の月が、目を開けた。

 まだ空には、月は見えていない。

 けれど、奥の間から白い光が漏れた。

 女房たちがざわめく。

 アヤメが刀を引き寄せる。

 今度は迷わない。
 サヨの言葉によって、彼女の役は戻っている。

 イロハは道具袋を肩に掛けた。

「始まりました」

 声が、自分でも思ったより落ち着いていた。

 サヨは奥の間を見つめる。

 その顔に恐怖はある。

 けれど、逃げる気配はなかった。

「行きましょう」

 サヨが言った。

 誰も、彼女自身の役を言えない。

 サヨ本人も言えない。

 それでも彼女は、喰われかけた者たちの役を胸に抱えて、空の面箱へ向かって歩き出した。

 白影宮の夜支度は、終わらなかった。

 むしろ、本当の夜は、そこから始まった。