EP 18

第2話 月箱の皇女

第八節 ― まだない役を読む

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 箱の中の満月は、消えなかった。

 アヤメの役を喰い損ねたあとも、白絹の底に浮かぶ月は、じっとこちらを見ているようだった。光は少し弱まっている。だが、それは眠った弱さではない。

 次の噛みどころを探している沈黙だった。

 イロハは、焦げた仮札を道具袋へしまったあとも、しばらく手を動かせなかった。

 指先が痺れている。

 月の光に触れた場所が、冷たいのに熱い。火傷ではない。凍傷でもない。役の線に触れた場所だけを、白く抜かれたような感覚だった。

 アヤメは立ち上がっていた。

 顔色は悪いが、刀を握る手に迷いはない。サヨの言葉によって、彼女の役は戻っている。完全ではないかもしれない。けれど、少なくとも今は、サヨの前に立つ意味を見失ってはいない。

 サヨは、まだ面箱を見つめていた。

 恐れている。
 それは、イロハにもわかった。

 だが、サヨは目を逸らさない。

 箱の中に月がいる。
 自分の面を喰い続けているかもしれない月が。

 それでも彼女は、そこに座っている。

 面のない皇女として。

 喰われた役を覚えている者として。

「もう一度、見ます」

 イロハは言った。

 アヤメがすぐに反応した。

「先ほどの札は焼かれました。危険です」

「だから、同じことはしません」

「では、何を」

「仮置きではなく、仮読みをします」

 アヤメは眉をひそめた。

「仮読み?」

「役を置くのではありません。まだ存在しない役が、どちらへ伸びようとしているのか。その方向だけを読むんです」

 サヨが静かに問う。

「それで、わたしの面がわかるのですか」

「全部は、わかりません」

 イロハは正直に答えた。

「でも、失われた面の修復ではないことは、もうわかっています。なら、次に見るべきなのは、失われたものではなく、まだ生まれていないものです」

「まだ、生まれていないもの」

 サヨはその言葉を、そっと胸の中へ置くように繰り返した。

 イロハは新しい仮札を取り出した。

 先ほどより薄い札だった。役を支えるためのものではなく、面の気配を写すための白札。師匠からは、滅多に使うなと言われている。理由は、何度聞いてもはぐらかされた。

 使う者の内側まで読まれるからだ、とだけ言われたことがある。

 今になって、その意味が少しわかる気がした。

 これは、面を見る札ではない。

 面と自分のあいだにあるものを、開いてしまう札だ。

 イロハは白札を指に挟んだ。

「サヨ様」

「はい」

「もし私が戻れなくなりそうなら、名を呼んでください」

 アヤメの表情が険しくなる。

「戻れなくなるとは、どういう意味ですか」

「見すぎるかもしれません」

「なら中止を」

「今夜見なければ、次に誰が喰われるかわかりません」

 アヤメは言葉を詰まらせた。

 その沈黙の間に、サヨが頷いた。

「わかりました」

 彼女はまっすぐイロハを見た。

「呼びます。必ず」

 その声があまりに静かで、イロハは少しだけ安心した。

 イロハは面箱の前に膝を進める。

 黒漆の縁に、白札を置いた。

 今度は底に置かない。月痕へ直接触れない。役の線もない場所に無理に押し込まない。

 箱の縁。

 まだこちら側にある場所。

 そこから、箱の中を読む。

 白札が、ふっと軽くなった。

 先ほどとは違う。

 焼かれるのではなく、吸い込まれる。
 紙そのものが薄くなり、月の光へ透けていく。

 イロハは息を止めた。

 面箱の中の満月が、ゆっくりと広がる。

 白絹の底が遠ざかる。
 黒漆の縁が消える。
 部屋の灯も、香の煙も、サヨとアヤメの気配も薄くなる。

 代わりに、匂いがした。

 木の匂い。

 湿った森の匂いではない。
 伐られた木の匂いでもない。

 まだ役を持たない木の匂い。

 無面原。

 名を持たぬ木々が立ち、枝にも葉にも、どの家の役も、どの神の印も宿していない場所。面材になる前の木。何にでもなれるがゆえに、誰のものでもない木。

 イロハは、その森を見た。

 白い霧の中に、一本の木が立っている。

 木肌は淡く、月のように白い。けれど月の白ではない。喰われた白でもない。何も書かれる前の、紙のような白。

 その木に、若い男が手を触れていた。

 ロウセツだった。

 今よりずっと若い。髪も少し短く、目つきは鋭いが、今ほどくたびれていない。宮廷御面師の装束を着ている。背筋はまっすぐで、腰には正規の面師札が下がっていた。

 若いロウセツは、誰かに向かって言う。

 声は聞こえない。

 だが唇の形だけが見える。

 ――まだない役なら、まだない面を作るしかねえだろ。

 次の瞬間、場面が変わった。

 宮廷の御面庫。

 白木と黒漆で囲まれた、重い扉の奥。棚には皇族の面が並んでいる。天帝の儀面、后の礼面、親王の式面、神前に立つための祈面。それぞれの面には、名札と役札が添えられている。

 その奥に、ひとつだけ布のかかった作業台があった。

 若いロウセツが、そこに白い面材を置く。

 未完成の面。

 まだ目も口もない。
 ただ、なめらかな曲面だけが彫り出されている。

 その白い未完成の面を見た瞬間、イロハの胸が痛んだ。

 知っている。

 知らないのに、知っている。

 その曲線。
 額から頬へ落ちる白い面の光。
 まだ誰の顔にもなっていないのに、誰かを待っている形。

 それは、箱の奥で見た皇女の面に似ていた。

 そして、《ナギノオモテ》にも似ていた。

 視界がまた変わる。

 泣き声が聞こえた。

 幼い子どもの泣き声。

 暗い工房。
 雨の音。
 割れた生面の破片。
 ロウセツの手。
 小さな面箱。

 幼いイロハが泣いている。

 自分の声だと、気づくのに少し時間がかかった。

 寒い。
 怖い。
 誰も自分を呼ばない。

 名前はあるのかもしれない。
 けれど、呼ばれても世界に届かない。

 生面がない。
 家の面がない。
 役の面がない。

 どこにも置かれない子ども。

 ロウセツが、何かを混ぜている。

 白い面材の削り粉。
 割れた面の欠片。
 古い面師の面片。
 そして、小さな子どもの失われた生面の破片。

 だめだ、と誰かが言っている。

 そんなことをすれば、役を持たない子に、最初から役を入れてしまう。

 生まれを、書き換えてしまう。

 けれどロウセツは、手を止めない。

 彼の声が、今度は聞こえた。

「役がねえまま死なせるより、ましだ」

 イロハの胸が、強く締めつけられた。

 これは、見てはいけないものだ。

 そう思った。

 自分の面の由来。
 師匠が隠してきたもの。
 自分が今ここにいる理由。

 その入口に、触れてしまっている。

 白い月が、また広がった。

 面箱の中。

 黒漆の箱の底で、月が白い面を喰っている。
 まだできていない面。
 まだサヨのものにも、イロハのものにもなっていない面。

 月の歯が、何度もそこへ噛みつく。

 噛んでも、面はない。
 だから月は、輪郭を喰う。
 役が生まれる前の場所を喰う。

 そのたびに、白影宮の誰かの役が揺れる。

 御簾守。
 庭番。
 香役。
 アヤメ。

 サヨを支える役から、順に。

 イロハは理解しかけた。

 月は、サヨの面を直接喰えない。

 面がないから。

 だから、サヨを支える周囲の役を喰っている。
 サヨがこの宮にいることを証明する役を、ひとつずつ削っている。

 そうすれば、サヨの面は永遠に生まれない。

 空白は、空白のままになる。

 白い月の奥で、声がした。

 サヨの声だった。

 遠い。

 けれど、はっきり聞こえる。

 ――わたしは、役を持たないのに、失われた役だけは覚えているのです。

 次に、別の声。

 誰のものかわからない。

 男とも女ともつかない、古い声。

 ――この国に、まだない役。

 その言葉が、月の中で響いた。

 この国に、まだない役。

 皇女でありながら、面を持たない者。
 面を持たないまま、喰われた役を覚える者。
 既存の皇女面では収まらない者。
 定められた役ではなく、失われた役を呼び戻し、まだない役を選ぶ者。

 サヨの面は、失われた皇女面の復元ではない。

 昔あった儀礼をそのまま戻すだけでもない。

 この国にまだ存在しない皇女の役を、形にしなければならない。

 その瞬間、白い月が振り返った。

 イロハは、見られた。

 満月の中に目はない。

 けれど、確かに視線があった。

 月が、イロハの中の《ナギノオモテ》を見つけた。

 白い歯が伸びる。

 箱の中からではない。
 記憶の奥から。
 無面原の木の影から。
 幼いイロハの泣き声の隙間から。

 月の歯が、イロハの面へ向かってくる。

 開けてはいけない。

 開けてはいけない。

 師匠の声が、遠くで叫んでいる。

 けれど、鍵が熱い。

 道具袋の奥で、黒い小箱が開こうとしている。
 まだ自分の手は触れていないのに、箱の中から白い面が起き上がろうとしている。

 イロハは息ができなくなった。

 自分がどこにいるのかわからない。

 白影宮か。
 無面原か。
 御面庫か。
 師匠の工房か。

 幼い自分の泣き声が近づいてくる。

 面がなければ、人ではない。
 役がなければ、ここにいられない。
 なら、自分は何として立っているのか。

 白い月が、目の前いっぱいに広がった。

 その時だった。

「イロハ=ナギ」

 名を呼ばれた。

 まっすぐに。

 帳の名ではない。
 役所の呼び名でもない。
 疑いのために呼ばれた名でもない。

 サヨの声だった。

「イロハ=ナギ」

 二度目の声で、世界に線が戻った。

 イロハは息を吸った。

 白い月がひび割れる。

 無面原の木が遠ざかる。
 若いロウセツの背が消える。
 御面庫の扉が閉まる。
 幼い泣き声が、夜の奥へ沈んでいく。

 最後に、白い未完成の面だけが残った。

 それは、サヨのものでもあり、イロハのものではなかった。
 似ている。
 けれど同じではない。

 イロハは、そこへ手を伸ばしかけた。

 面はまだ顔を持たないまま、静かに言った気がした。

 ――彫れ。

 そこで、意識が戻った。

 イロハは奥の間の床に片手をついていた。

 呼吸が荒い。額に汗が滲んでいる。指先は白く冷えていた。白札は面箱の縁で半分ほど焦げ、しかし完全には焼け落ちていない。

 サヨが、すぐ目の前にいた。

 彼女はイロハの手首を握っている。

 強い力ではない。
 けれど、離さない力だった。

「戻りましたか」

 サヨの声が聞こえる。

 イロハは何度か瞬きをした。

「……戻りました」

 自分の声が、遠く聞こえた。

 アヤメは刀を抜いていなかったが、片膝をつき、いつでもイロハを引き戻せる位置にいた。その顔には、明らかな緊張がある。

「何を見たのですか」

 アヤメが尋ねた。

 イロハはすぐには答えられなかった。

 見たものをすべて言えば、自分の面の秘密へ触れる。ロウセツの罪にも触れる。サヨの未在面と《ナギノオモテ》の関係にも。

 まだ、言葉にできない。

 けれど、ひとつだけは言える。

 イロハは、空の面箱を見た。

 箱の中の満月は、先ほどより暗い。

 白い歯のような光は引いている。だが、月痕の奥にはまだ、あの輪郭が残っている気がした。

「サヨ様の面は」

 イロハは、ゆっくり言った。

「失われた面の修復ではありません」

 サヨは息を止めた。

「既存の皇女面の復元でもありません」

 アヤメの目が細くなる。

「では、何だというのです」

 イロハは、サヨを見た。

 面を持たない皇女。
 誰よりも喰われた役を覚えている少女。
 自分の役を言えないのに、他者の役を呼び戻す者。

「この国にまだ存在しない、皇女の役を作る必要があります」

 沈黙が落ちた。

 白影宮の奥の間が、深く静まる。

 サヨは、まるでその言葉を胸の奥で何度も確かめるように、ゆっくり瞬きをした。

「まだ存在しない、役」

「はい」

「わたしは、それを持てるのでしょうか」

 その問いは、あまりにも小さかった。

 皇女の問いではない。
 ただ、ずっと面を持てなかった少女の問いだった。

 イロハは、まだ痺れる指を握った。

「持てるかどうかは、わかりません」

 アヤメが何か言おうとしたが、イロハは続けた。

「でも、作ることはできます」

 サヨの目が揺れる。

「面師として?」

「はい」

 イロハは、焼け残った白札を見た。

「ただし、それは私が勝手に彫って渡せる面ではありません。サヨ様が、何としてこの国に立つのか。それを見つけなければ、彫れません」

 サヨは、空の面箱を見た。

 その表情に、恐怖と困惑と、ほんの少しの光が混じる。

「わたしが、選ぶのですか」

「たぶん」

「皇女の役を?」

「サヨ様の役を」

 その違いに、サヨは黙った。

 アヤメも何も言わない。

 箱の中の月が、かすかに揺れた。

 その光は、先ほどより弱い。けれど消えない。まるで、話を聞いているかのようだった。

 イロハは、道具袋の奥でまだ熱を持つ鍵を感じた。

 《ナギノオモテ》は、沈黙している。

 だが、もう無関係ではいられない。

 サヨの未在面を読むことは、自分の面の秘密を読むことでもある。

 そのことを、イロハははっきり理解した。

 怖い。

 けれど、目を逸らせない。

 第1話では、イロハがユラの失った舞を、一節だけ繋いだ。

 今夜は、サヨがイロハの名を呼び、月の中から引き戻した。

 その事実が、イロハの胸に静かに残る。

 サヨは無力な依頼人ではない。

 イロハを戻した声を持つ人だ。

 その声があるなら、まだない役も、いつか形を持つかもしれない。

 白影宮の夜は、まだ終わらない。

 けれど箱の中の満月は、ほんの少しだけ遠くなっていた。