EP 19

第2話 月箱の皇女

終節 ― 作るべき面

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 夜が明ける前、箱の中の月は消えた。

 消える時も、月は静かだった。

 白絹の底に浮かんでいた満月が、薄い水に溶けるように輪郭を失い、白い歯のような光も、ひと筋ずつ箱の奥へ引いていった。

 最後に残ったのは、黒漆の面箱と、白絹の内底。

 そして、そこに刻まれた月痕だけだった。

 夜の間、白影宮を満たしていた緊張も、少しずつほどけていく。

 御簾守は、閉じた御簾の結び目を確かめ直した。
 庭番は、竹簾の前で長く息を吐いた。
 カンナ=ツキシロは、東廊の香炉の前に座り込み、まだ震える手で沈香の包みを畳んでいた。
 アヤメ=シラハは、刀を抜かなかった手をじっと見つめていた。

 役は、戻った。

 完全ではない。
 けれど、今夜は誰も完全には喰われなかった。

 そのことだけが、白影宮に薄い安堵をもたらしていた。

 だがイロハは、面箱の底から目を離せなかった。

 月は消えた。
 けれど月痕は、昨夜より深くなっている。

 白い噛み跡のような裂け目が、内底の白絹からさらに奥へ沈み込んでいる。爪で引っ掻いた傷ではない。光に焼かれた痕でもない。まるで、そこに存在していない面を、何度も何度も噛み続けた跡だった。

 イロハは白布を指に巻き、月痕の縁へ触れた。

 もう月の光はない。

 それなのに、指先は冷えた。

「深くなっています」

 イロハが言うと、アヤメの表情が険しくなった。

「昨夜よりも?」

「はい」

 サヨ=ミカゲは、箱の前に座ったまま動かなかった。

 顔色は白い。ほとんど眠っていない。夜を通して、彼女は喰われかけた者たちの役を呼び戻し続けた。アヤメを呼び戻し、カンナを支え、御簾守と庭番を縫い止めた。

 けれど、自分の役だけは呼べなかった。

 サヨは静かに尋ねた。

「それは、わたしの面がまた喰われたということですか」

 イロハは、すぐには答えられなかった。

 面がない。

 だから、喰われたと言ってよいのかもわからない。

 だが、月は確かに噛んでいた。サヨの面が生まれるはずだった場所を。彼女がこの国に立つための、まだ形になっていない役の座を。

「面そのものではありません」

 イロハは、慎重に言葉を選んだ。

「でも、面になるはずの場所が削られています」

 アヤメが低く言った。

「それは、悪化しているということですね」

「はい」

 嘘はつけなかった。

 サヨは目を伏せた。

 その横顔は、泣いてはいなかった。悲鳴を上げることもない。ただ、長く予想していた答えを、ようやく言葉として受け取った人の顔だった。

「そうですか」

 彼女は小さく言った。

「やはり、待っているだけでは、喰われていくのですね」

 その言葉は、面箱の底に落ちるように響いた。

 イロハは白布を外し、焦げ残った白札と、月痕の写しを並べた。

 昨夜、仮読みで見たものが、まだ胸の奥に残っている。

 無面原の木。
 若き日のロウセツ。
 宮廷の御面庫。
 白い未完成の面。
 幼い自分の泣き声。
 面箱の中で喰われ続ける月。
 そして、サヨの声。

 この国に、まだない役。

 あれは幻ではない。

 月の見せた罠も混じっているかもしれない。だが、すべてが嘘ではなかった。

 イロハは顔を上げた。

「皇女様の面は、なくなった面ではありません」

 サヨがイロハを見る。

「では、何ですか」

「まだ、この国に作られていない面です」

 部屋の空気が止まった。

 アヤメも、カンナも、近くに控えていた女房たちも、誰も言葉を挟まなかった。

 まだ、この国に作られていない面。

 それは、サヨがただ不運にも面を失った皇女ではないということだった。
 誰かが隠した面を探せば済む話でもない。
 古い目録を調べれば出てくるものでもない。
 御面庫の奥から引き出せるものでもない。

 サヨの面は、まだ存在していない。

 だから誰も見つけられなかった。

 サヨは、ゆっくりと息を吸った。

「だから、誰も見つけられなかったのですね」

 その声は、不思議なほど落ち着いていた。

 絶望していないわけではない。

 けれど、長く「ない」とだけ言われ続けてきた空白に、初めて理由が与えられたようでもあった。

 ないのではない。
 まだ作られていない。

 その違いは、小さく見えて、決定的だった。

「はい」

 イロハは頷いた。

「だから、直すだけでは足りません。作る必要があります」

 サヨの指が、膝の上でわずかに動いた。

「作れますか」

 静かな問いだった。

 第1話の終わりにも、彼女は同じように問うた。

 面師イロハ。
 わたしの面を、作れますか。

 あの時、イロハは答えられなかった。

 今も、簡単には答えられない。

「今は、まだ」

 イロハは言った。

 アヤメの目がわずかに厳しくなる。

 だがサヨは、責めなかった。

「では、何が必要ですか」

 イロハは、空の面箱を見た。

 そこには月痕がある。
 けれど、サヨの面そのものはない。

 面師は、ただ木を彫る者ではない。

 役を読む者。
 役の器を作る者。
 人がこの世に立つための顔を、形にする者。

 ならば、サヨの面を作るには、サヨが何として立つのかを知らなければならない。

 皇女として。
 白影宮の主として。
 喰われた役を覚える者として。
 面を持たないまま、それでもここにいる者として。

「あなたが、どんな役としてこの国に立ちたいのか」

 イロハは言った。

「それを知る必要があります」

 サヨは黙った。

 今まで、彼女は役を与えられなかった。

 皇女でありながら、皇女の面がない。
 祭礼に出られない。
 帳に載らない。
 中央の棚は空のまま。
 皆が役を持つ白影宮で、彼女だけが自分の夜支度を言えない。

 けれど今、イロハは言った。

 役を知る必要がある、と。

 それは、誰かが勝手に決めるものではない。

 サヨ自身が、何として立つのか。

 彼女の面は、イロハが一方的に彫って与えるものではない。
 古い皇女面を複製して済むものでもない。
 サヨが選ばなければ、面は顔を持たない。

 サヨは、面箱の空白を見つめた。

「わたしが、選ぶのですか」

「はい」

「皇女なのに?」

「皇女だから、ではありません」

 イロハは少しだけ言葉を切った。

「サヨ様だからです」

 サヨの目が揺れた。

 アヤメが、静かに顔を伏せる。

 カンナは、香炉のそばで涙をこらえていた。

 その場にいる誰もが、白影宮の空白を知っている。サヨの面がないことを知っている。けれど、サヨ自身が役を選ぶなど、誰も口にしたことがなかった。

 それは、あまりに危うい考えだった。

 この国では、役は与えられる。
 家により、職により、神前により、仮面籍により、面によって定められる。

 サヨが自ら役を選ぶなら、それは王朝のあり方そのものへ触れることになる。

 けれど、そうしなければ、サヨの面は作れない。

「わたしに、できるでしょうか」

 サヨが尋ねた。

 イロハは、すぐに「できます」とは言わなかった。

 言えば、慰めになる。
 けれど面師として、嘘は言えない。

「わかりません」

 イロハは答えた。

「でも、サヨ様は今夜、アヤメさんの役を呼び戻しました。カンナさんの役も、御簾守の役も、庭番の役も」

 サヨは静かに聞いていた。

「自分の役がまだ見えなくても、誰かの役を覚えて、呼べる人です」

 イロハは、月痕の残る空の面箱を見た。

「だから、探せると思います」

 サヨの表情が、ほんの少しだけ変わった。

 大きな希望ではない。
 夜明け前の、空の端に出る白みのようなものだった。

「探す」

「はい」

「わたしの役を」

「一緒に」

 その言葉を口にした瞬間、イロハ自身も少し驚いた。

 一緒に。

 それは、面師と依頼人の関係を少し越えていた。

 だがサヨは、その言葉を拒まなかった。

「では」

 彼女は小さく頷いた。

「お願いします、イロハ」

 敬称のない名。

 それは昨夜、月の中からイロハを呼び戻した声と同じだった。

 イロハは深く頭を下げた。

「はい」

 その時、遠くで朝鳥が鳴いた。

 白影宮の外、まだ暗い空の端がわずかに白んでいる。夜が終わろうとしていた。御簾の外で、女房たちが朝支度のために動き始める気配がある。

 夜を越えた。

 完全には守れなかった。
 月痕は深くなった。
 イロハの中にも、まだ白い月の残像がある。

 それでも、誰の役も完全には喰われなかった。

 サヨの面についても、ひとつだけわかった。

 直すのではない。

 作るのだ。

 まだない役を、この国に彫り出すために。

 イロハは道具を片づけようとした。

 その時、白影宮の門の方から、鋭い音が走った。

 馬の蹄の音だった。

 夜明け前の宮へ、早馬が駆け込んでくる音。

 アヤメがすぐに立ち上がる。

 刀ではなく、まず宮中札を手にした。昨夜、月に噛まれかけた白羽の札。そこにはまだ薄い月痕が残っている。だが彼女の手は迷わなかった。

「確認してまいります」

 サヨが頷く。

 アヤメは一礼し、廊下を駆けた。

 白影宮の朝の静けさが、一気に破られる。

 女房たちが戸を開ける音。
 門番の声。
 馬を止める音。
 濡れた息を吐く使者の声。

 やがて、アヤメが戻ってきた。

 その表情は硬い。

 昨夜の疲れも、安堵も、すべて消えていた。

「サヨ様」

「何があったのですか」

「帝都東郭、アカツキ家の武家屋敷から急報です」

 イロハは顔を上げた。

 アカツキ。

 武家の名だ。

 アヤメは続けた。

「若い武士の戦面が、白化しました」

 部屋の空気が冷えた。

 カンナが息を呑む。

 サヨは静かに目を伏せる。

「症状は」

 サヨが尋ねた。

 アヤメは一瞬だけイロハを見た。

「刀を抜けなくなったそうです」

 イロハの指先に、昨夜の白い痺れが戻った。

 舞台。
 香。
 御簾。
 池。
 護衛。
 そして、武士の戦面。

 月は、白影宮の中だけを見ているのではない。

 帝都全体へ、歯を伸ばし始めている。

 アヤメが低く言った。

「今度は、武家の面です」

 イロハは、まだ消えない白い月の残像を見た。

 まぶたの裏に、箱の中の満月が残っている。
 その奥に、未完成の皇女面の輪郭。
 そして、それに似た《ナギノオモテ》の気配。

 彼女はゆっくり息を吸った。

「月は、舞台だけを見ているわけではないんですね」

 誰も答えなかった。

 夜明けの光が、白影宮の床へ薄く差し込む。

 けれど、その光の中にも、イロハにはまだ白い月の影が見えた。

 第二話 ― 月箱の皇女
 了