EP 20

第3話 抜けない刀の戦面

序節 ― 早馬、東郭より来る

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 刀は、人を斬るためだけのものではない。

 この国では、刀もまた役を通す器である。

 鞘に眠る鉄は、ただの鉄にすぎない。
 けれど、面をつけ、名乗りを上げ、定められた場で抜かれた時、刀は役となる。

 守る役。
 退ける役。
 道を断つ役。
 時に、誰かの命を終わらせる役。

 だから武士は、ただ刀を持つ者ではない。

 面を帯び、役を背負い、その役として刀を抜く者を、武士と呼ぶ。

 ならば、抜けない刀とは、臆病の証か。

 それとも、世界がその者に「まだ戦うな」と告げた痕なのか。

 白影宮に早馬が来たのは、夜明けがまだ完全には明けきらない頃だった。

 空の端が白く滲み、黒松の影がようやく形を取り戻し始める。月見池の竹簾には夜露が降り、御簾の結び目はまだ解かれていない。東廊には、カンナ=ツキシロの焚いた沈香が薄く残っていた。

 白影宮は、夜を越えたばかりだった。

 完全に守りきれたわけではない。

 空の面箱の月は消えた。
 女房たちの役の揺らぎも、ひとまず収まった。
 アヤメ=シラハも、刀を抜く理由を失いかけたところから戻ってきた。

 けれど、面箱の底に刻まれた月痕は昨夜より深くなっている。

 イロハ=ナギは、その白い噛み跡を見たあと、まだ指先に残る痺れを握り込んでいた。

 サヨ=ミカゲの面は、なくなった面ではない。

 まだ、この国に作られていない面。

 それを言葉にしたばかりだった。

 直すのではない。
 作る必要がある。
 そのためには、サヨ自身がどんな役としてこの国に立ちたいのかを知らなければならない。

 その会話の余韻が、奥の間にまだ残っていた。

 そこへ、馬の蹄が飛び込んできた。

 白影宮の外門で、急停止する音。
 砂利が跳ねる音。
 門番が誰何する声。
 それに被さるように、荒い息を吐く使者の声。

 アヤメはすでに立ち上がっていた。

 昨夜、彼女の宮中札には月痕が浮いた。まだ薄く白い傷が残っている。けれど、その手は迷わず刀の近くへ伸びた。

 今度は、揺らがない。

 そう自分に言い聞かせるように、アヤメは一礼した。

「確認してまいります」

 サヨは静かに頷いた。

「お願いします」

 アヤメは廊下へ出た。

 イロハも、遅れて顔を上げる。道具袋はまだ開いたままだった。白布、焼け残った仮札、月痕を写した紙。どれも片づけきれていない。

 早馬。

 白影宮へ夜明け前に駆け込むほどの急報。

 胸の奥が、いやな形に沈んだ。

 月は、もう白影宮の中だけを見ているわけではない。

 その予感が、まぶたの裏に残る白い満月と重なる。

 やがて、廊下の向こうからアヤメが戻ってきた。

 歩みは速い。
 だが、乱れてはいない。

 ただ顔色だけが、夜の疲労とは別の色に変わっていた。

「サヨ様」

 アヤメは奥の間の入口で膝をついた。

「帝都東郭、アカツキ家より急報です」

 サヨの表情がわずかに引き締まる。

「東郭の武家屋敷から?」

「はい」

「内容は」

 アヤメは一度、イロハを見た。

 その視線だけで、イロハは次の言葉が自分に関わるものだと悟った。

「若い武士の戦面が、白化しました」

 沈香の香りが、急に冷えたように感じられた。

 サヨは目を伏せない。

「詳細は」

「戦面、白化」

 アヤメの声は簡潔だった。

「本人、剣術の記憶あり。ただし、抜刀不能。番衆任官の試しにて、刀を抜けず」

 言葉が落ちるたび、白影宮の空気が重くなっていく。

 戦面。

 それは、神楽師の舞面とも、香役の職面とも違う。

 武士が刀を抜く時、ただの人から「戦う役」へ入るための面だ。
 怒りを顔にするものではない。
 恐怖を押し殺すものでもない。
 その者が、私怨ではなく役として刀を抜くための器。

 それが白化した。

 しかも、刀が抜けない。

 イロハは、昨夜のアヤメを見た。

 アヤメは刀を抜こうとして、一瞬だけ止まった。

 私は、何を守る役でしたか。

 その声を、イロハはまだ覚えている。

 アヤメもまた、同じものを思い出していたのだろう。顔色がさらに硬くなる。

「抜刀不能……」

 イロハは呟いた。

 それは、ただの技術喪失ではない。

 剣術の記憶はある。
 刀の扱いも覚えている。
 けれど抜けない。

 おそらく、失われているのは刀の抜き方ではない。

 刀を抜く役へ入るための入口だ。

 サヨは静かに尋ねた。

「その方は、逃げたのではないのでしょう」

 イロハは顔を上げた。

 サヨは、面箱ではなくイロハを見ていた。

 夜を越えたばかりの皇女の顔。
 疲れている。
 それでも、誰かの役が喰われたと聞いて、自分の恐怖より先にその者の痛みへ手を伸ばす顔。

「おそらく」

 イロハは答えた。

「逃げたのなら、刀を抜けなかったとは違うはずです」

「なら、そう伝えてください」

 サヨの声は、静かだった。

「役を喰われた者は、自分が何を失ったのかも言えませんから」

 イロハは息を呑んだ。

 昨夜のカンナ。
 御簾守。
 庭番。
 アヤメ。

 彼女たちは皆、自分が何を失いかけているのかを言えなかった。
 サヨが呼ぶまで。
 誰かがその役を覚えていると示すまで。

 今、東郭の武家屋敷にいる若い武士も、きっと同じだ。

 臆病者ではない。
 逃げたのではない。
 ただ、自分が何のために刀を抜く者だったのかを、喰われた。

 その違いを、誰かが言葉にしなければならない。

「行きます」

 イロハは道具袋を閉じた。

 指先はまだ痺れている。昨夜の仮読みで見た白い未完成の面も、無面原の木も、若き日のロウセツの姿も、胸の奥でまだざわめいていた。

 だが、足を止める理由にはならない。

 月は待ってくれない。

 アヤメも立ち上がる。

「私も同行します」

「白影宮は」

 イロハが言うと、アヤメはわずかにサヨを見る。

 昨夜のことがある。

 アヤメはサヨの前に立つ刀ではない。
 サヨが面を持たないままでも、ここにいてよいと証明する役。

 その役を、今ここで離れてよいのか。

 迷いが、一瞬だけ彼女の目に浮かんだ。

 サヨはそれを見逃さなかった。

「アヤメ」

「はい」

「行ってください」

「ですが」

「あなたが見てきてくれたほうが、わたしは安心できます」

 アヤメの唇がわずかに動いた。

 サヨは続ける。

「それに、その方の戦面が白化したのなら、昨夜のあなたのことも無関係ではないのでしょう」

「……はい」

 アヤメは静かに頭を下げた。

「必ず戻ります」

「ええ」

 サヨは微笑んだ。

「戻ってきてください。あなたの役は、ここにもありますから」

 アヤメは答えず、深く礼をした。

 その姿を見て、イロハは思った。

 役とは、ひとつの場所に縛られるだけのものではないのかもしれない。
 誰かを守るために外へ出ることも、その役の一部なのだ。

 白影宮の門前では、早馬の使者がまだ息を整えていた。

 馬の首には汗が浮き、鼻息が白く朝の冷気に溶けている。使者の衣は東郭の武家筋のものだった。肩には暁紋。額には泥が跳ねている。

 彼はアヤメを見ると、すぐに膝をついた。

「白影宮より御同行くださるのですか」

「私と、面師イロハ=ナギが向かう」

 使者は一瞬、イロハを見た。

 路地裏の面師。
 中級面師。
 宮廷面師ではない若い女。

 その目に驚きと不安が浮かんだ。

 アヤメが冷たく言う。

「この方が診る」

 それだけで、使者は頭を下げた。

「承知いたしました」

 イロハは道具袋を握り直した。

 白影宮の門が開く。

 夜明けの帝都カミザが広がっていた。

 東の空が淡く朱に染まり始めている。屋根瓦はまだ夜露を残し、遠くの天帝宮の楼閣には朝の光が薄く触れていた。雅やかな都は、何事もなかったかのように目覚めようとしている。

 だがイロハには、その美しい朝の底に、白い月の影が残って見えた。

 月は沈んでいない。

 箱の中にいた月。
 池の底にいた月。
 面の内側に噛み跡を残す月。

 それが今度は、東郭の武家屋敷で刀の鞘に触れている。

 イロハとアヤメは、使者に導かれて歩き出した。

 白影宮の門が背後で閉まる。

 サヨは門の内側に立ち、ふたりを見送っていた。

 面を持たない皇女。
 まだない役を探し始めた少女。

 その姿は、朝の薄明かりの中でひどく小さく見えた。

 けれど、イロハの耳には、彼女の声が残っていた。

 役を喰われた者は、自分が何を失ったのかも言えませんから。

 ならば、言葉にしに行くのだ。

 刀を抜けなかった若い武士が、臆したのではないと。

 その役が、まだ完全には死んでいないと。

 帝都東郭へ向かう道の上で、イロハは自分のまぶたの裏に、昨夜の満月がまだ消えずに残っているのを感じた。

 白い月は、次の面を見ている。

 今度は、戦面を。