EP 21

第3話 抜けない刀の戦面

第一節 ― アカツキ家の武家屋敷

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 帝都カミザの東郭は、白影宮とはまるで別の都だった。

 同じ帝都の内にありながら、空気の重さが違う。

 白影宮の朝は、白木と沈香と閉じられた御簾の静けさでできていた。歩く者は足音を殺し、言葉は廊下の途中で薄くなる。あそこでは、夜がまだ壁の内側に残っていた。

 けれど東郭には、音があった。

 砂利を踏む音。
 木刀が打ち合う乾いた音。
 鉄具を磨く音。
 馬を引く者の低い掛け声。
 朝稽古を終えた若者たちの、荒い呼吸。

 武家の区画は、雅やかではなかった。

 門は黒鉄で補強され、柱には朱漆が厚く塗られている。白く整えられた宮の門とは違い、そこには傷があった。何度も手がかかり、雨に打たれ、刀の柄や鎧の袖がぶつかった痕がある。

 アカツキ家の門には、暁紋が掲げられていた。

 黒地に、朱の半円。
 夜を裂いて昇る朝の印。

 イロハは門の前で、思わず足を止めた。

 白影宮の月とは違う。

 ここにあるのは、朝の役だった。

 門番がアヤメを見ると、すぐに姿勢を正した。

「白影宮、アヤメ=シラハ様。お待ちしておりました」

 アヤメは短く頷く。

「案内を」

「はっ」

 門をくぐると、庭の奥から木刀の音が聞こえた。

 たん、と乾いた音。
 間を置いて、また、たん。

 稽古場だ。

 だが、音はどこかぎこちなかった。

 勢いのある打ち合いではない。場の空気を壊さぬよう、形だけ稽古を続けているような音だった。屋敷の中で起きた異変を、誰も口にはしないが、誰も無視できていない。

 廊下へ上がると、壁沿いに戦面棚が並んでいた。

 白影宮の面棚とは、まったく違う。

 こちらの棚は太く、硬い。黒漆ではなく、濃い朱と鉄金具で補強されている。面箱も実用一辺倒だった。角には金具、蓋には留め具。持ち運び、陣中に置き、時に雨や血の気配に晒されることを前提にした箱だ。

 面も、静かではない。

 牙を噛みしめた面。
 片目を細めた面。
 眉間に深い皺を刻んだ面。
 口元を閉じ、怒りではなく覚悟だけを残した面。

 どれも、人を脅かすための顔ではなかった。

 戦う時、人が自分を失わぬための顔だった。

 廊下の角には、水盆ではなく、浅い鉄鉢が置かれていた。刀を清めるためのものだろう。底には水が薄く張られ、朝の光が鈍く反射している。

 イロハはその水面を見ないようにした。

 水に月が映る。

 白影宮で、そう知ってしまったからだ。

 案内役の武士が、硬い声で言った。

「アカツキ家は、代々、帝都東郭の警護に関わってまいりました。もとは東方のアカツキ=ハラに根を持つ家です」

 アカツキ=ハラ。

 武家階級の中心に近い土地。
 役を帯びて戦う者たちの都市。

 そこでは、侍はただ刀を差す者ではない。戦面を帯び、名乗り、どの役として戦うかを定めてから刀を抜く。

 戦い方も。
 守り方も。
 死に方さえも。

 面によって変わる。

 イロハは、棚に並ぶ戦面を見ながら、その言葉を思い出した。

 ならば、戦面を白化されるということは、武士にとって何を意味するのか。

 面がなければ、役へ入れない。
 役へ入れなければ、刀はただの刃になる。

 そして、刀を抜けない武士は。

 イロハはそこまで考えて、足を止めた。

 廊下の奥から、低い声が聞こえた。

「臆したのではないのか」

 誰かが、抑えきれぬように言った。

「番衆には向かぬ」

「戦面に拒まれたのだ」

「声を落とせ」

「だが、任官の試しで刀を抜けなかったのだぞ」

「暁家の恥になる」

 アヤメの足が止まった。

 その横顔に、わずかな険しさが浮かぶ。

 白影宮で彼女自身が、刀を抜く理由を失いかけたばかりだった。だからこそ、この言葉がどれほど浅いかも、どれほど残酷かもわかるのだろう。

 案内役の武士は顔を伏せた。

「奥の稽古場におります」

 イロハたちは、さらに奥へ進んだ。

 稽古場は広かった。

 床は磨かれているが、白影宮のような滑らかさではない。何度も踏まれ、打ち込みの衝撃を受け、足裏の熱を吸った床だった。壁には木刀、槍、稽古用の面紐が掛けられている。奥には、鉄鉢と刀台が置かれていた。

 その中央に、若い武士が座っていた。

 ハルマサ=アカツキ。

 暁 晴政。

 年は、イロハやアヤメより少し上か。背筋は伸びている。武士らしい体つきで、肩も腕も鍛えられている。怪我をしている様子はない。顔色は悪いが、身体は動くはずだ。

 それでも、彼はまるで自分の一部を失った者のように、身じろぎもせず座っていた。

 彼の前に、白布に包まれた面が置かれている。

 戦面《アカツキノハ》。

 本来なら、深朱と黒漆を帯びた暁家の戦面なのだろう。

 だが今は、白布に包まれている。

 屋敷の者たちは、その布を見ない。

 見れば、そこにあるものを認めなければならないからだ。

 戦面が白化した。

 若い武士が刀を抜けなかった。

 その事実を。

 ハルマサは、イロハたちが来ても顔を上げなかった。

 怒っているのではない。
 泣いているのでもない。
 恥じているというより、もっと深い場所で、自分を見失っている。

 自分はまだ武士なのか。

 その問いに、答えられずにいる顔だった。

 アヤメが一歩前に出る。

「ハルマサ=アカツキ殿」

 ハルマサは、ゆっくり顔を上げた。

 目は濁っていない。
 だが、焦点が少し遠い。

「白影宮の……」

「アヤメ=シラハです。こちらは面師イロハ=ナギ」

 イロハは頭を下げた。

「面を診に来ました」

 ハルマサは、白布に包まれた戦面を見た。

「診ても、無駄かもしれません」

 低い声だった。

「刀を抜けぬ者に、戦面など」

 アヤメがわずかに眉を寄せる。

 イロハは、その前に言った。

「まだ、そう決めないでください」

 ハルマサの視線が、初めてイロハに向いた。

 不信。
 疲労。
 そして、少しの苛立ち。

「あなたに何がわかる」

「わかりません」

 イロハは正直に答えた。

 周囲の武士たちが、ざわりとする。

 だがイロハは続けた。

「だから、診ます」

 ハルマサは黙った。

 イロハは稽古場の空気を吸った。

 鉄の匂い。
 汗の匂い。
 朱漆と古い木の匂い。
 沈香では閉じられない、武家の朝の匂い。

 その中に、ひと筋だけ、白い月の匂いが混じっている。

 白化面の近くにある、あの冷たい匂い。

 イロハは白布へ近づいた。

 屋敷の者たちが、息を詰める。

 誰も止めない。
 けれど、誰も触れたくない。

 ハルマサだけが、白布を見つめている。

 まるでその中に、自分の死んだ顔が入っているとでも思っているようだった。

 イロハは膝をつき、白布の手前で止まった。

「開いても?」

 ハルマサは少し遅れて頷いた。

「お願いします」

 イロハは白布に手をかけた。

 布を開く前に、アヤメが低く言う。

「イロハ」

「はい」

「無理はしないでください」

 その声には、昨夜とは違う響きがあった。

 警戒だけではない。

 白影宮の面箱の前で、イロハが月に引き込まれかけたことを、アヤメは覚えている。

 イロハは小さく頷いた。

「気をつけます」

 白布を開く。

 戦面《アカツキノハ》が現れた。

 深朱の面だった。

 ただし、その右目元から頬にかけて、白い噛み跡のような月痕が走っている。

 その白は、塗料ではない。
 欠けでも、汚れでもない。

 月が触れた白。

 役を喰おうとする白。

 戦面の表情は、怒りではなかった。

 目元は鋭いが、荒々しくはない。口元は閉じられ、頬の線には静かな覚悟がある。敵を斬りたい顔ではない。刀を抜くべき時を知っている顔だ。

 だが、その右目だけが、白い痕によって迷って見えた。

 イロハは息を呑んだ。

「これは……」

 アヤメが問う。

「白化ですか」

「白化しかけています」

 イロハは面から目を離さなかった。

「でも、まだ完全ではありません」

 ハルマサの指がわずかに動いた。

「完全ではない?」

「はい」

 イロハは白布越しに、面の縁へ触れた。

 月の冷たさが指先に伝わる。

「この面は、まだ死んでいません」

 その言葉に、稽古場が静まった。

 ハルマサは、初めて深く息を吸った。

 彼は泣かなかった。
 怒りもしなかった。

 ただ、今にも崩れそうな顔で、白化した戦面を見つめていた。

 自分がまだ完全には武士でなくなったわけではない。

 その可能性が、どれほど彼にとって重いか。

 イロハにも少しだけわかった。

 だが、月痕は確かに深い。

 ユラの神楽面とは違う。
 カンナの香役面とも違う。
 アヤメの宮中札とも違う。

 この月痕は、抜く瞬間を噛んでいる。

 刀を抜く、その入口だけを。

 イロハは、まだ口には出さなかった。

 まずは本人を見なければならない。

 戦面だけではなく。

 その面によって、何として立つはずだったのかを。

 ハルマサ=アカツキは、白布の上の《アカツキノハ》を見つめ続けていた。

 怒るでもなく、泣くでもなく。

 ただ、自分が武士ではなくなったかのように。

 そしてイロハは、その沈黙の中に、月に噛まれた役の痛みを見た。