EP 22

第3話 抜けない刀の戦面

第二節 ― 抜けない刀

Source: 03_02.txt

 イロハは、すぐには戦面へ手を入れなかった。

 《アカツキノハ》の月痕は深い。
 白い噛み跡は、右目元から頬へかけて走っている。
 けれど、面だけを見てもわからないことがある。

 面は、その者の役を映す器だ。

 ならば、面がどう喰われたのかを知るには、その面を帯びる者が、どこで立ち止まっているのかを見なければならない。

 イロハは白布をいったん戻し、ハルマサの前へ向き直った。

「確認させてください」

 ハルマサは静かに頷いた。

 顔色は悪い。
 しかし、こちらの言葉を聞く力は残っている。

「名前は」

「ハルマサ=アカツキ」

「家は」

「アカツキ家」

「役は」

 そこで、わずかに間が空いた。

 ハルマサの指が、膝の上で握られる。

「……東暁番衆見習い」

 声は低かった。

「帝都東郭の警護」

 言えた。

 イロハはそれを聞き逃さなかった。

 名は残っている。
 家も残っている。
 役名も、言葉としては残っている。

 完全に奪われたわけではない。

 ただ、その役へ入る道が塞がれている。

「剣術は」

 イロハが尋ねると、ハルマサは自嘲するように笑った。

「試せばわかります」

 アヤメが一歩前へ出た。

「木刀を」

 周囲の武士がすぐに木刀を二本差し出す。
 一本をハルマサへ。もう一本をアヤメへ。

 ハルマサは、ためらいながら木刀を受け取った。

 その手は震えていなかった。

 握りも正しい。
 腕に力が入りすぎている様子もない。
 木刀の重さを、身体が覚えている。

 アヤメは稽古場の中央へ進み、静かに構えた。

「軽く合わせます」

「承知」

 ハルマサも立ち上がる。

 足取りに乱れはなかった。

 先ほどまで、自分が武士ではなくなったかのように座り込んでいた若者とは思えないほど、立ち姿は整っている。腰は落ち、肩は固すぎず、目は相手の全体を見る。

 アヤメが一歩踏み込む。

 木刀が走る。

 ハルマサは、半歩ずれて受けた。

 乾いた音が稽古場に響く。

 たん。

 次の打ち込み。
 さらに次。

 ハルマサは崩れない。

 受ける。
 流す。
 間合いを外す。
 踏み込む気配を見て、先に体をずらす。

 型は生きている。

 足運びも自然だ。

 目も死んでいない。

 アヤメが横へ回ろうとすると、ハルマサはすぐに距離を取り直した。無意識に、相手の抜け道を塞ぐ立ち方をする。

 稽古場の隅で見ていた武士たちが、息を呑んだ。

「動けるではないか」

 誰かが小さく呟く。

 だが、その声に喜びは少なかった。

 むしろ、困惑に近い。

 動ける。
 剣術は失っていない。
 ならば、なぜ刀を抜けなかったのか。

 ハルマサの苦しみは、そこでさらに深くなる。

 アヤメが打ち込みを止めた。

「十分です」

 ハルマサは木刀を下ろす。

 呼吸は少し上がっていたが、動きに破綻はない。怪我もない。怯えで身体が固まっているわけでもない。

 アヤメはイロハを見る。

「剣は使えます」

「はい」

 イロハは頷いた。

「型も、間合いも、足も残っています」

 ハルマサは木刀を握ったまま、唇を噛んだ。

「なら、なおさらです」

「何がですか」

「剣を忘れていないのに、刀が抜けない」

 彼は低く言った。

「それは、わたしが臆したということでしょう」

 その言葉に、稽古場の空気が固くなった。

 本人の口から出たため、誰もすぐには否定できない。

 イロハは首を振った。

「まだ、そうとは言えません」

「慰めは不要です」

「慰めではありません。診断前に決めつけると、見えるものも見えなくなります」

 ハルマサの目が、わずかに動いた。

 アヤメが静かに言う。

「真剣を」

 屋敷の者たちが、目を見合わせる。

 緊張が走った。

 真剣。

 木刀とは違う。
 役を通すための、本物の刃。

 やがて年長の武士が、刀台から一振りを持ってきた。ハルマサの刀だろう。鞘は黒く、鍔には暁紋が刻まれている。手入れは行き届いていた。

 ハルマサは、その刀を見た瞬間、息を止めた。

 先ほどまで動いていた身体が、静かに硬くなる。

 イロハはそれを見逃さなかった。

 刀が怖いわけではない。
 刃物そのものへの恐怖ではない。
 彼は武士だ。刀の重さも、鋼の冷たさも、血の匂いがつく可能性も、知らないわけではない。

 けれど、その刀を手にする瞬間だけ、何かが抜け落ちる。

 ハルマサは刀を受け取った。

 手は柄に届く。

 そこまでは、できる。

 腰に差す。
 姿勢を整える。
 足を開く。

 アヤメが正面に立った。

 今度は木刀を構えず、ただ相手として立つ。攻撃はしない。ただ、抜くべき場面を作るために。

「ハルマサ=アカツキ」

 アヤメが言った。

「抜いてください」

 ハルマサの手が、柄へ伸びる。

 鞘を左手で押さえる。
 親指が鯉口へかかる。

 かちり、と小さな音がした。

 鯉口は切れた。

 刀身は、あと少しで鞘から出る。

 その瞬間、ハルマサの指が凍った。

 ぴたりと止まる。

 腕の筋肉は動こうとしている。
 目は開いている。
 呼吸も止まっていない。

 それなのに、抜けない。

 身体が拒んでいるのではない。

 もっと奥で、刀を抜くための言葉が消えている。

 ハルマサの顔から、血の気が引いた。

「……見たでしょう」

 声が震えていた。

「身体は動く。型も覚えている。鯉口も切れる」

 彼は必死に指へ力を入れようとした。

 だが、刀身は動かない。

「抜けばよいのは、わかっています」

 かすれた声だった。

「いつ抜くべきかも、わかります」

 アヤメの目が、静かに変わった。

 昨夜の自分を見るような目だった。

「敵がどこにいるかも、見えています」

 ハルマサは、アヤメを見ていた。

 相手の位置。間合い。呼吸。踏み込める距離。すべて見えているはずだ。

 なのに、刀は抜けない。

「なのに……」

 彼の手が震えた。

「わたしは、何のために刀を抜く者だったのかが、わからない」

 その言葉が、稽古場に落ちた。

 誰も、すぐには口を開けなかった。

 年長の武士たちも、さきほどまで陰口を漏らしていた者たちも、黙っている。

 臆病。

 その一言で片づけるには、ハルマサの顔はあまりにも苦しかった。

 彼は刀から手を離した。

 力を抜いたというより、耐えきれずに離れたようだった。

 刀は鞘に収まったまま。

 抜かれなかった刃は、静かにそこにある。

 ハルマサは、稽古場の床へ片膝をついた。

「申し訳ありません」

 誰に謝ったのか、わからなかった。

 家にか。
 役にか。
 刀にか。
 戦面にか。
 それとも、自分にか。

 イロハは、ゆっくりと彼へ近づいた。

「ハルマサさん」

 彼は顔を上げない。

「あなたは、剣を忘れていません」

 ハルマサの肩がわずかに動いた。

「刀の扱いも、敵の見方も、間合いも、失っていません」

「ならば」

「失われているのは、そこではありません」

 イロハは、鞘に収まった刀を見た。

 黒い鞘。
 暁紋の鍔。
 抜かれることを待つ刃。

「刀を抜く、その入口です」

 アヤメが静かに息を呑んだ。

 イロハは、自分の中で診立てが形になるのを感じていた。

 ユラは、舞を忘れたのではなかった。
 袖の動きも、足運びも、鈴の扱いも覚えていた。

 けれど、神を迎える沈黙だけが抜け落ちていた。
 舞が舞として始まる、その入口を喰われていた。

 ハルマサも同じだ。

 剣を忘れたのではない。

 刀を抜く者として、役へ入る入口を喰われている。

「入口……」

 ハルマサが呟いた。

「はい」

 イロハは頷く。

「あなたが刀を抜けないのは、刀があなたを拒んでいるからではありません」

 ハルマサの目が揺れた。

「では」

「戦面が、あなたを武士として呼び出せなくなっている」

 言葉にした瞬間、稽古場の奥に置かれた白布が、かすかに揺れた。

 風はなかった。

 白布の下にある《アカツキノハ》が、イロハの言葉に反応したように見えた。

 アヤメがそちらを見る。

 ハルマサも、ゆっくり振り返った。

 白布に包まれた戦面。

 彼の役を呼ぶはずだった面。

 それが今、月に噛まれている。

「面が……わたしを呼べない」

 ハルマサは低く繰り返した。

 その声には、先ほどまでの絶望とは少し違うものが混じっていた。

 自分が臆したのではないかもしれない。
 刀が自分を見捨てたのでもないかもしれない。
 ならば、まだ診る余地がある。

 そのわずかな隙間に、彼はすがるようだった。

 しかし、周囲の武士たちはすぐには納得しなかった。

「面が呼べぬなど」

「そのような診立てがあるのか」

「白化面の者を、任官に戻せるのか」

 低い声が広がる。

 イロハは振り返らなかった。

 今、向き合うべきは家の面目ではない。

 役を喰われた本人だ。

 アヤメが一歩前に出た。

「静かに」

 その一言で、武士たちは黙った。

 白影宮の近習としての声ではない。
 刀を持つ者としての声だった。

「診立てを聞きます」

 アヤメはイロハを見る。

 その目には、信頼とまではいかないが、昨夜までより深い理解があった。

 イロハは頷き、再び白布の前に膝をついた。

「次は、戦面を見ます」

 ハルマサは、まだ片膝をついたままだった。

 けれど、顔は上がっている。

 白布の向こうに、自分を呼べなくなった面がある。

 その面が完全に死んでいないのなら。

 もう一度、呼ばれることはできるのか。

 その問いが、稽古場の静けさの中で、抜かれなかった刀よりも重く横たわっていた。