EP 26

第3話 抜けない刀の戦面

第六節 ― 鞘口に映る月

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 原因を探るため、イロハたちは稽古場の奥へ案内された。

 そこは、普通の稽古場とは少し違っていた。

 板敷きの床の中央に、低い刀台が置かれている。
 その前には、浅い鉄鉢。
 壁には古い暁紋の布が掛けられ、左右には戦面を一時的に置くための小さな棚があった。

 ここだけは、稽古の場というより、儀礼の場だった。

 アヤメが周囲を見渡す。

「ここで、昨夜の試しを?」

 ハルマサは頷いた。

「はい。番衆任官前の月試しです」

 その言葉に、イロハは鉄鉢を見た。

 月試し。

 武家の古い儀礼だと、ハルマサは語った。

 任官前の夜、戦面を面箱から出す。
 刀を前に置く。
 鉄鉢の水で刃を清める。
 そして戦面をつけ、初めて正式な番衆として刀を抜く。

 ただ抜くのではない。

 私怨で抜くのではなく。
 怒りで抜くのでもなく。
 恐怖をごまかすために抜くのでもなく。

 役として刀を抜く。

 その誓いのための儀礼だった。

「月試しという名ですが、満月の儀ではありません」

 年長の武士が補足した。

「月が満ちていようと欠けていようと、己の心に映る刃を見誤るな、という教えです。水に映る月を見て、なお刀が己のものではなく役のものだと知るための試し」

「水に映る月」

 イロハは呟いた。

 白影宮の月見池。
 伏せられた水盆。
 空の面箱の中に浮かんだ、空とは形の違う満月。

 水は月を呼び込む。

 その言葉が、胸の奥で冷たく鳴った。

 イロハは鉄鉢へ近づいた。

 水はもう替えられていた。朝の光を薄く映し、底には鉄の暗い色が沈んでいる。昨夜の満月は、もちろんそこにはない。

 だが、鉢の縁に白いものが残っていた。

 月痕ほど濃くはない。
 けれど、水位の跡のように、鉢の内側へ淡い白線が走っている。

「この水は、昨夜のものではありませんね」

「明け方に捨てさせました」

 年長の武士が答える。

「不吉であるゆえ」

 イロハは少しだけ眉を寄せた。

 残しておいてくれれば、もっと読めたかもしれない。だが、責めても仕方がない。白化した戦面を見た直後に、月を映した水を置いておくほうが難しい。

「昨夜、空の月はどうでしたか」

 イロハが尋ねると、ハルマサが答えた。

「半月でした」

「確かに?」

「はい。わたしも見ました。雲はありましたが、満月ではありません」

 アヤメが低く言う。

「白影宮でも同じでした。空には半月しかありませんでした」

 だが、面箱の中には満月がいた。

 イロハは、刀台の上に置かれたハルマサの刀を見る。

 黒い鞘。
 暁紋の鍔。
 鞘口は磨かれている。

「昨夜、何が見えたのか、順に教えてください」

 ハルマサは少し目を伏せた。

 思い出すこと自体が苦しいのだろう。

 けれど、逃げなかった。

「戦面を面箱から出しました」

 彼は言った。

「その時は、まだ白化していませんでした。少なくとも、わたしにはそう見えました」

「月痕も?」

「ありません」

「続けてください」

「刀を前に置き、鉄鉢の水で刃を清めました。手順通りです。面をつける前に、刃の曇りを見るため、鞘口へ月光を当てます」

「月光を?」

「はい。刃そのものではなく、鞘口の影を見るのです。刀を抜く前に、己の影が歪んでいないかを確かめるためだと教わりました」

 イロハは鞘口を見た。

 狭い黒の奥。

 そこに月が映る。

 水ではない。鏡でもない。
 だが、磨かれた鞘口と刃の気配は、確かに光を受ける。

「その時です」

 ハルマサの声が、少し低くなった。

「鉄鉢の水面に、満月が映りました」

 稽古場の空気が冷えた。

「空は半月だったのに」

「はい」

「鞘口には?」

 ハルマサの指が、刀の鞘へ触れた。

「同じ満月が、映りました」

 アヤメの表情が厳しくなる。

「白影宮の面箱と同じですね」

「おそらく」

 イロハは頷いた。

 空の月とは別の満月。

 箱の中に浮かぶ月。
 池の底に沈む月。
 鉄鉢の水面に映る月。
 鞘口に宿る月。

 月は、空にあるものだけではない。

 映る場所があれば、そこに満ちる。

 そして、満ちた月が役の入口を喰う。

「その後、どうなりましたか」

 イロハが尋ねる。

「戦面をつけました」

 ハルマサは、ゆっくりと言葉を続けた。

「面の内側が、ひどく冷たかった。けれど、儀礼の緊張だと思いました。刀へ手をかけ、名乗ろうとしました」

「名乗り?」

「東暁番衆、ハルマサ=アカツキ。役として刀を抜く、と」

 そこで、ハルマサは言葉を止めた。

「言えなかったのですね」

 イロハが言うと、彼は頷いた。

「名は言えました。家も。番衆見習いであることも。けれど、役として刀を抜く、の部分だけが……」

「白くなった」

 ハルマサは目を見開いた。

 イロハは、白化した《アカツキノハ》を見た。

「言葉が出なかったのではなく、そこだけ切り取られたのだと思います」

 月試しの場。
 戦面。
 刀。
 鉄鉢の水。
 鞘口に映る満月。
 まだ正式任官前の、役が確定しきっていない若い武士。

 条件が重なっている。

 イロハは、自分の中でひとつずつ並べた。

 月光。
 鏡のような水。
 役へ入るための舞台。
 役が未確定な者。
 仮面籍に、まだ仮の線が残る者。

 ユラの神楽面もそうだった。

 奉納舞の稽古中。
 本番前の舞台。
 神を迎える入口。
 満月の光。

 サヨの面箱もそうだ。

 皇女の面がまだ存在しない。
 役が未確定。
 空の箱に、空にはない満月が浮かぶ。

 ハルマサもまた、番衆見習いだった。

 正式な役へ入る直前。

 月は、その入口を狙った。

「イロハ」

 アヤメが呼ぶ。

「わかったのですか」

「少しだけです」

 イロハは鉄鉢を見た。

「月は、空にあるものだけではありません。映る場所に入り込むんです。水、面の内側、鞘口。たぶん、光を受けて役を映すものに」

「役を映すもの」

「はい」

 イロハはハルマサを見る。

「そして、役がまだ定まりきっていない時ほど、噛みやすい」

 ハルマサの顔が強張った。

「わたしが、見習いだったからですか」

「それもあると思います」

 イロハは言葉を選んだ。

「ただ、未熟だからという意味ではありません。役へ入る直前だったからです」

 アヤメが静かに言った。

「扉が開きかけていた」

「はい。その隙間に、月が入った」

 稽古場の外で、風が通った。

 暁紋の布が揺れる。

 ハルマサは、鉄鉢の前に立った。

 水面を見下ろす。
 今は、朝の光しか映っていない。

 だが、彼には昨夜の満月が見えているのかもしれなかった。

「わたしは、その時、何を思っていたのでしょう」

 彼はぽつりと言った。

「任官の試しで失敗してはならぬ。家の名に恥じぬように。番衆として正しくあらねば。そう、そればかり考えていました」

 アヤメは何も言わない。

 イロハも、すぐには口を開かなかった。

「だから、月に隙を見せたのでしょうか」

「隙というより」

 イロハは言った。

「あなた自身の答えが、まだそこになかったのかもしれません」

 ハルマサは目を伏せる。

 責める言葉ではなかった。

 だが、優しいだけの言葉でもない。

 役は、与えられる。
 家から、番衆から、制度から、面から。

 けれど、その役へ入る瞬間だけは、本人の声が必要になる。

 それがなければ、月はそこを白くする。

 アヤメが鉄鉢を見た。

「月は、刃にも映るのですね」

「水にも、刃にも、面の内側にも」

 イロハは頷いた。

「それから、たぶん暦にも」

 アヤメがこちらを見る。

「暦?」

「白影宮の箱の月も、昨夜の鞘口の月も、空の月とは合っていませんでした。空は半月だったのに、面箱も水面も満月だった」

 イロハは、昨夜の満月を思い出した。

 空にないのに、満ちている月。

「暦がずれているのか、月が暦を無視しているのかはわかりません。でも、満月ではない夜に満月が出るなら、暦を見る人たちも何か気づいているかもしれません」

 アヤメは低く呟いた。

「陰陽寮」

 その名が、稽古場に落ちた。

 年長の武士が眉を動かす。

「陰陽寮まで関わると?」

「まだわかりません」

 イロハは答えた。

「でも、月の満ち欠けが狂っているなら、いずれ無関係ではいられません」

 鉄鉢の水面が、小さく揺れた。

 風ではない。

 イロハは身を固くする。

 水面に、ほんの一瞬だけ白い円が浮かんだ気がした。

 すぐに消える。

 朝の光だけが戻る。

「見えましたか」

 アヤメが問う。

「少し」

 イロハは鉄鉢から目を離さなかった。

「水を伏せたほうがいいです」

 アヤメはすぐに家臣へ命じた。

「鉄鉢を下げてください。水はそのまま流さず、黒布で覆って保管を」

 年長の武士が一瞬、不満げな顔をしたが、昨夜の異常を思い出したのだろう。すぐに頷き、家臣へ合図した。

 水は、ただの水ではない。
 月を映したものは、すでに月の通り道になっている。

 イロハは鞘口へ視線を戻した。

 黒い鞘の奥は、今は静かだった。

 だが昨夜、そこに満月がいた。

 刃へ入る直前の、狭い入口に。

 ハルマサが刀を抜けなくなったのは、そのためだ。

 月は、役へ入る入口を知っている。

 舞台の始まり。
 香を焚く手。
 御簾を閉じる順。
 刀を抜く瞬間。

 人が自分の役へ移る、その境目に歯を立てる。

 イロハは、白布の上の《アカツキノハ》を見た。

「今夜、もう一度試す必要があります」

 ハルマサが顔を上げる。

「月試しを?」

「いいえ」

 イロハは首を振った。

「月に試されるのではなく、こちらから見るんです。どこで噛まれるのか。どうすれば噛ませずに、刀を抜けるのか」

 ハルマサの喉が動いた。

 怖いのだろう。

 当然だった。

 昨夜、自分から刀を抜く役を奪ったものに、もう一度向き合うのだから。

 アヤメが静かに言う。

「逃げるなら、今です」

 厳しい言葉だった。

 ハルマサはアヤメを見た。

「逃げれば、どうなりますか」

「面は深く喰われるでしょう」

 アヤメは淡々と答えた。

「番衆札も、おそらく返上です。仮面籍庁に届ければ、封役の対象になる可能性もあります」

 ハルマサは目を伏せた。

「なら、逃げる道はありませんね」

「いいえ」

 アヤメの声は冷たいままだった。

「あります。ただし、その道を選んだ時、あなたは自分で役を手放すことになります」

 それは、イロハが先ほど言ったことと同じだった。

 ハルマサはしばらく沈黙した。

 やがて、胸元の番衆札を握る。

「今夜、試します」

 声は震えていた。

 だが、逃げてはいなかった。

「わたしが、何のために刀を抜くのか。それを、見つけます」

 イロハは頷いた。

 鉄鉢の水は、黒布で覆われて運び出されていく。

 その布の下で、まだ何かが白く揺れているように見えた。

 月は空にだけあるのではない。

 刃にも、水にも、面の内側にも映る。

 そして、映った満月が、役の入口を喰う。

 その理解が、イロハの胸の奥に、冷たい形を持って沈んだ。