EP 28

第3話 抜けない刀の戦面

第八節 ― 一度だけ抜けた刀

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 その夜、アカツキ家の中庭に鉄鉢が置かれた。

 稽古場ではなかった。

 稽古場は、刀を学ぶ場所だ。
 型を繰り返し、足を運び、敵の間合いを知る場所。

 だが、今必要なのは型ではない。

 ハルマサ=アカツキが、何のために刀を抜くのか。

 それを問うには、閉じた稽古場では足りなかった。

 中庭には、白砂が敷かれている。庭石の脇には低い松があり、奥には小さな灯籠が並んでいた。昼には武家屋敷の硬さを少しだけ和らげていた庭も、夜になると影が深い。

 空には、半月が出ていた。

 昨夜と同じ。

 欠けた月。
 細く、静かな月。

 けれど、中庭の中央に置かれた浅い鉄鉢の水面には、満月が映っていた。

 空にない月。

 白く、丸く、あまりにも完全な月。

 それを見た瞬間、屋敷の者たちが息を呑んだ。

 黒布で覆って保管していた水は、イロハの指示で再び鉄鉢へ戻された。危険は承知の上だった。月がどこから噛むのか、どうすればその入口を断てるのかを確かめるには、昨夜と同じ通り道を開く必要があった。

 ただし、今回は違う。

 ハルマサはひとりではない。

 イロハがいる。
 アヤメがいる。
 そして《アカツキノハ》の内側には、焦げかけた仮札が置かれている。

 完全な修復ではない。

 ほんの一度、面がハルマサを呼べるようにするための仮の橋。

 ハルマサは、中庭の端に立っていた。

 戦面《アカツキノハ》を帯びている。

 深朱の面は夜の中で沈んだ色を帯び、右目元から頬へかけて走る白い月痕だけが、不気味に浮かんで見えた。面紐の一部にも、まだ淡い白化が残っている。

 だが、面は眠っていない。

 昼に見た時よりも、わずかに熱が戻っている。

 イロハにはそう感じられた。

 ハルマサの手は、刀の柄に近いところで止まっている。

 触れてはいない。
 まだ。

 アヤメは少し離れた位置に立っていた。

 もし役なき抜刀が起きれば、止めるために。

 だが、彼女の刀も抜かれてはいない。

 ハルマサを疑っているのではない。
 けれど、甘く見てもいない。

 その距離だった。

 屋敷の者たちは、縁側や廊下の奥から中庭を見守っている。年長の武士たち。家臣たち。若い稽古衆。誰も大きな声は出さない。

 そのさらに奥に、幼い小姓たちと女中がいた。

 本来なら、こんな場に出てくるべきではなかったのだろう。だが異変は屋敷中に知れ渡っている。彼らは柱の陰に身を寄せ、怯えた目で鉄鉢の満月を見ていた。

 イロハは、その姿を見た。

 そして、ハルマサも見た。

 面の奥で、彼の視線がわずかに揺れる。

 鉄鉢の水面に、空にない満月が浮かんでいる。

 白い月は、静かに光を強めた。

 水面から、細い歯のような光が伸びる。

 白影宮の面箱で見たものと同じ。
 《アカツキノハ》の内側を噛んだものと同じ。

 月は、今度も抜刀の入口を探している。

 ハルマサの戦面の月痕が、白く光った。

 彼の手が、柄へ伸びる。

 鯉口へ触れる。

 その瞬間、指が止まりかけた。

 イロハは声を出した。

「家のためではなく」

 ハルマサの肩が動く。

「番衆のためでもなく」

 イロハは鉄鉢の水面を見た。

 満月が、こちらを見ているようだった。

 月には目などない。
 それでも、見られている。

「今、誰を通したくないのかを見てください」

 ハルマサの呼吸が乱れた。

 月痕がさらに白く光る。

 面の右目が、迷う。

 アヤメが続けた。

「守る役は、誰かに命じられるだけでは戻りません」

 その声は厳しかった。

 けれど、そこには昨夜サヨに呼び戻された者だけが知る重みがあった。

「家が命じたから。番衆札があるから。帝都の秩序だから。その答えだけでは、月に噛まれます」

 ハルマサは動かない。

 だが、逃げてもいない。

 アヤメは静かに言った。

「あなたが、何を通したくないのか。それを見てください」

 中庭の奥で、幼い小姓が小さく肩を震わせた。

 女中がその子を抱き寄せる。

 彼らは、ハルマサを責めてはいなかった。

 ただ怯えていた。

 鉄鉢に映る満月に。
 白く光る戦面に。
 刀が抜けるかもしれないこの場に。

 そしておそらく、刀が抜けなければ月が屋敷の奥へ入ってくることにも。

 ハルマサの視線が、そこへ向いた。

 面の奥で、彼の呼吸が変わる。

 イロハは、仮札が熱を持つのを感じた。

 《アカツキノハ》の内側に置いた仮札が、月痕と朱の役の線の間で震えている。白い歯がそこへ噛みつこうとしている。けれど、まだ折れていない。

 ハルマサの手が、柄を握った。

 鯉口を切る。

 かちり、と音がした。

 そこで、また止まる。

 月が強く光った。

 鉄鉢の水面から、満月が浮き上がるように見えた。実際に水から離れたわけではない。だが、白い光だけが薄く立ち上がり、ハルマサの面へ伸びる。

 右目元の月痕が、白く裂ける。

 イロハは息を詰めた。

 危ない。

 このままでは、月が仮札を通って抜刀の形だけを引き出す。

 役なき抜刀になる。

 アヤメの手が、刀の柄へ近づいた。

 だが、その前に。

 ハルマサが、言った。

「ここから先へ」

 声は小さかった。

 だが、借り物の言葉ではなかった。

 彼の目は、家紋を見ていない。
 番衆札も見ていない。
 年長の武士たちの顔も見ていない。

 中庭の奥で怯える、小姓と女中たちを見ていた。

「ここから先へ、月を通さない」

 その瞬間。

 《アカツキノハ》が、息をした。

 深朱の面の奥で、仮札が赤く光る。
 白い月痕の縁に、細い朱が戻る。

 ハルマサの手が動いた。

 今度は止まらなかった。

 刀が抜けた。

 派手な音はしなかった。

 叫びもない。
 踏み込みも大きくない。
 怒りもない。

 ただ、静かに。

 黒い鞘から、刃が一筋の光として現れた。

 中庭の空気が、まっすぐに裂ける。

 ハルマサは人を斬らなかった。

 誰にも向けなかった。

 刃は、鉄鉢の水面だけへ向かった。

 静かな一閃。

 水面に浮かんでいた満月が、真横に断たれた。

 ぱしゃり、と水が跳ねる。

 鉄鉢の水が白砂へ散り、そこに映っていた満月が崩れた。丸い光は二つに割れ、波紋に飲まれ、形を失っていく。

 中庭に、朝ではないのに朝のような静けさが落ちた。

 ハルマサは、刀を抜いた姿勢のまま止まっていた。

 刃の先から、水滴が落ちる。

 一滴。

 また一滴。

 それだけの音が、やけに大きく聞こえた。

 イロハは《アカツキノハ》を見た。

 右目元の白い月痕が、少しだけ薄くなっている。

 消えてはいない。

 まだ、はっきり残っている。

 けれど、深朱が戻った部分がある。迷いに覆われていた右目の奥に、静かな覚悟がかすかに戻っている。

 ハルマサは、ゆっくり刀を下ろした。

 その手は震えていた。

 けれど、先ほどまでの凍ったような震えではない。

 自分の意志で刀を抜いた者の震えだった。

「抜けた……」

 誰かが縁側で呟いた。

 それが合図のように、屋敷の者たちの間にざわめきが広がる。

「刀が」

「満月を断った」

「戦面が……」

 ハルマサは振り返らなかった。

 彼は、まず刀を鞘へ戻した。

 納刀の音が、静かに響く。

 それから、鉄鉢を見た。

 水面はもう満月を映していない。波紋が残るだけだ。やがてそれも消え、欠けた空の月だけが、ほんの歪んだ形で揺れている。

 ハルマサは、その場に膝をついた。

 倒れたのではない。

 深く、頭を下げたのだ。

 誰へ向けてかは、すぐにはわからなかった。

 刀へか。
 面へか。
 中庭の奥で怯えていた者たちへか。

 あるいは、ようやく戻ってきた自分の役へか。

 イロハは駆け寄ろうとして、足を止めた。

 今は、彼が自分で立つまで待つべきだと思った。

 アヤメも動かなかった。

 ただ、ハルマサを見ている。

 その目には、先ほどまでの厳しさが残っている。
 けれど、そこに少しだけ認める色が混じっていた。

「一度だけです」

 イロハは言った。

 ざわめきが静まる。

 年長の武士たちが、こちらを見る。

「今、刀は抜けました。でも、完全に戻ったわけではありません」

 ハルマサも顔を上げた。

 イロハは《アカツキノハ》の月痕を見た。

「月痕は残っています。面紐の白化も消えていません。仮札で、一度だけ入口をつないだ状態です」

 誰も、すぐには声を上げなかった。

 喜びが、そこで止まる。

 元通りになったわけではない。

 このまま番衆として何事もなかったように戻れるわけでもない。

 それでも。

 ハルマサは、自分の意志で刀を抜いた。

 借り物の答えではなく、自分の言葉で。

 ここから先へ、月を通さない。

 その言葉で、《アカツキノハ》は彼を呼んだ。

 アヤメが静かに言った。

「それでも、大きな一度です」

 ハルマサは彼女を見る。

「一度、あなたは自分の答えで刀を抜きました」

 アヤメの声は、硬いままだ。

 だが、そこには確かな重みがある。

「次に抜けるかは、まだわかりません。けれど、今の一度は、あなたが役を手放していない証です」

 ハルマサは、胸元の番衆札に触れた。

 返上しようとした札。

 月に喰い残された役を、自分で手放しかけた札。

 彼はそれを、今度はしっかりと握った。

「はい」

 声は小さかった。

 けれど、もう空ではなかった。

 中庭の奥で、幼い小姓が、女中の袖を握ったままハルマサを見ていた。

 その目から、少しだけ恐怖が薄れている。

 ハルマサは、それを見た。

 そして、また深く頭を下げた。

 イロハは、鉄鉢の水面に目を向けた。

 満月は崩れた。
 けれど、水はまだ白く濁っている。

 月は完全に退いたわけではない。

 《アカツキノハ》も、完全に治ったわけではない。

 ただ、ハルマサが一度だけ、自分の意志で面を呼び戻した。

 それで十分ではない。

 けれど、それがなければ、何も始まらなかった。

 夜の中庭で、深朱の戦面がかすかに光る。

 白い月痕の奥に、ほんの少しだけ戻った朱。

 それは、失われた役が完全に戻った印ではなかった。

 まだ喰われていないものがある、という印だった。