EP 29

第3話 抜けない刀の戦面

終節 ― 方位盤の満月

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 中庭の水は、しばらく白く濁っていた。

 鉄鉢の中で断たれた満月は、もう形を結ばない。波紋が消えたあとも、水面には薄い白が残り、底の黒鉄をぼんやりと曇らせていた。

 ハルマサ=アカツキは、刀を抜いた。

 その事実は、アカツキ家の者たちの間に静かな動揺を残していた。

 抜けなかった刀が、一度だけ抜けた。
 鉄鉢の水面に映った、空にない満月だけを断った。
 誰も斬らず、誰も傷つけず、ただ月の入口を断った。

 けれど、それで終わりではなかった。

 暁刃戦面《アカツキノハ》の右目元には、まだ白い月痕が残っている。昼よりはわずかに薄くなった。迷いに覆われていた目元にも、深朱の色が少し戻った。

 だが、消えてはいない。

 面紐の白化も、そのままだ。

 イロハは白布の上に戦面を戻し、内側に置いた仮札をそっと外した。

 札は半分ほど焦げていた。

 黒く焼けたのではない。
 白く焼けていた。

 紙の端が、月光に噛まれたように薄く欠けている。

 仮札を長く置き続ければ、今度は札を通して面そのものがさらに喰われるかもしれない。仮置きは、あくまで橋だ。橋を架けたままにすれば、向こう側からも渡ってくる。

 イロハは焦げた札を白布に包み、道具袋へしまった。

 ハルマサは、その様子を黙って見ていた。

 面は戻ったのか。
 自分は戻ったのか。

 その問いが、彼の顔に浮かんでいる。

 けれど、イロハは安易に頷けなかった。

「この面は、まだ治っていません」

 イロハは言った。

 ハルマサは静かに頷いた。

「はい」

 その声には、落胆はある。
 しかし、昼間のような絶望ではなかった。

 一度だけでも刀を抜いた。

 それが、彼の背をほんの少し支えている。

 年長の武士が低く言った。

「仮面籍庁への届け出は避けられぬ」

 中庭の空気が再び重くなる。

「戦面の白化。抜刀不能。役の不安定。これだけ揃えば、届けぬわけにはいかぬ」

 別の家臣が続ける。

「預かり処分になるやもしれません」

「番衆勤務も停止であろう」

「封役の判断が出る前に、こちらから申告すべきだ」

 封役。

 今度は、その言葉がはっきり場に出た。

 ハルマサの手が、胸元の番衆札へ伸びる。

 昼間のように外そうとはしなかった。

 ただ、そこにあることを確かめるように、指先で握った。

「処分は、受けます」

 彼は言った。

 声は静かだった。

「戦面に月痕が残っている以上、番衆として立てる状態ではありません。届け出が必要なら、従います」

 アヤメは黙って聞いていた。

 その横顔は厳しい。

 彼女は、ハルマサが一度刀を抜いたことを認めている。けれど、それだけで帝都警護に戻せるほど甘くもない。

 イロハにも、それはわかった。

 守る役は、美しい言葉だけでは立てない。

 人を守る役を持つ者が、役の入口を喰われたまま前線に戻れば、本当に誰かが傷つく。

 しかし。

「この面は、まだ死んでいません」

 イロハは言った。

 ハルマサが顔を上げる。

「戻るのですか」

「戻す、というより」

 イロハは《アカツキノハ》を見た。

 深朱の戦面。
 白く噛まれた右目。
 その奥に、まだ消えていない覚悟。

「あなたが、もう一度呼べるようにするんです」

「わたしが」

「はい。面はあなたを覚えています。でも、呼ぶ声を噛まれている。だから、次はあなたのほうから呼び返す必要があります」

 ハルマサは、白布の上の戦面を見つめた。

「呼び返す」

「今日、あなたは一度だけ、それをしました」

 イロハは、鉄鉢の水面を見た。

 もう満月はない。
 欠けた空の月だけが、歪んで映っている。

「ここから先へ、月を通さない。あれは、あなた自身の言葉でした」

 ハルマサの喉が、わずかに動いた。

 その言葉を口にした瞬間を、彼自身も思い返しているのだろう。

 家のため。
 番衆のため。
 帝都の秩序のため。

 どれも正しい。

 けれど、そのどれでも刀は抜けなかった。

 小姓と女中たちを見て、月をここから先へ通したくないと思った時、初めて刃は鞘を離れた。

「処分を受けることと、役を手放すことは違います」

 イロハは言った。

「仮面籍庁へ届けることになっても、番衆勤務が止まっても、この面を死んだものとして扱わないでください」

 年長の武士が眉を寄せる。

「面師殿。それは役所の判断次第では」

「役所の判断は、役所の判断です」

 イロハは振り返った。

 怖くないわけではなかった。

 仮面籍庁という名だけで、胸の奥に重いものが生まれる。ロウセツの資格剥奪。自分の面の秘密。制度の外側に立つ者への冷たい目。

 けれど、言葉を止めなかった。

「でも、面がまだ役を覚えているかどうかは、面を診なければわかりません」

 アヤメが、わずかにイロハを見た。

 その目には、昨夜よりはっきりした評価があった。

 無鉄砲だと思っているのかもしれない。
 危ういと思っているのかもしれない。

 それでも、今の言葉を否定はしなかった。

 その時、庭の外から足音が近づいた。

 白影宮の使いだった。

 アヤメがすぐに反応する。

「白影宮から?」

「はい」

 使いの女房は息を整え、丁寧に膝をついた。

「サヨ様より、ハルマサ=アカツキ様へ」

 差し出されたのは、小さな文だった。

 白い紙。
 月除けの雲紋が、淡く端に刷られている。
 封には白影宮の印。

 ハルマサは一瞬、戸惑った。

「わたしへ?」

 アヤメが頷く。

「受け取ってください」

 ハルマサは両手で文を受け取った。

 封を開く手は、少し震えていた。

 中に記されていた言葉は、短かった。

 あなたは逃げたのではありません。
 刀を抜こうとして、役を奪われたのです。

 ただ、それだけだった。

 だが、ハルマサはその文を長く見つめていた。

 まるで、その二行の中に、自分が一日中探していた答えの入口があるかのように。

 サヨ=ミカゲは、この場にはいない。

 ハルマサの刀を見たわけでもない。
 戦面《アカツキノハ》を診たわけでもない。
 鉄鉢の満月を断つ一閃を見届けたわけでもない。

 それでも、彼女は知っていた。

 役を喰われた者が、何を言われると一番苦しいのかを。
 自分が逃げたのではないと、誰かに言ってもらえなければ、喰われた役を自分で手放してしまうことを。

 ハルマサは、文を畳まなかった。

 そのまま、額に近づける。

 そして、深く頭を下げた。

 忠誠ではない。

 まだ、そう呼ぶには早い。

 彼は白影宮の皇女に仕えると誓ったわけではない。サヨのために刀を抜くと決めたわけでもない。

 けれど、その文を受け取った瞬間、彼の中に静かな敬意が生まれた。

 面を持たない皇女。

 それなのに、役を喰われた者の痛みを知っている人。

 ハルマサは、低く言った。

「この御言葉、忘れません」

 アヤメは何も言わなかった。

 ただ、その横顔がわずかに柔らかくなる。

 イロハは、その変化を見ていた。

 サヨは、白影宮にいながら、人の役を呼ぶ。

 それは面を持つ者の力ではない。

 まだない役へ向かう彼女自身の力なのかもしれない。

 その時、アカツキ家の外門で、また蹄の音がした。

 夜の中庭に、緊張が戻る。

 今度は白影宮の使いではなかった。

 門番の声が響く。

「陰陽寮より急使!」

 その名に、イロハは顔を上げた。

 陰陽寮。

 第六節で、彼女自身が口にしたばかりの名だった。

 暦を見る者たち。
 星と方位を読む者たち。
 月の満ち欠けを記録する者たち。

 そこから、夜のうちに急使が来る。

 良い知らせであるはずがなかった。

 アカツキ家の者が使者を中庭へ通す。

 陰陽寮の使いは、息を切らしていた。衣の裾には夜露がつき、手には封じ紐の巻かれた小さな筒を抱えている。顔色は青い。

 彼はアヤメを見て、次に年長の武士を見た。

「白影宮の方がこちらにおられると聞き、急ぎ参りました」

 アヤメが問う。

「何があったのですか」

 使いは、喉を鳴らした。

「暦が合いません」

 その一言で、イロハの背が冷たくなった。

「昨夜は半月のはず」

 使いは続ける。

「陰陽寮の暦でも、天測でも、半月に相違ありません」

 アヤメの目が鋭くなる。

「しかし?」

 使いは筒を開け、中から薄い紙を取り出した。

 そこには、方位盤の写しが描かれていた。中央に方位、周囲に星辰、そして式面の内側を示す小さな円。

 その円の中に、白く満ちた月が描かれている。

 使いの声が震えた。

「しかし、方位盤の式面の内側に、満月が出ました」

 中庭の空気が止まった。

 鉄鉢の水面。
 刀の鞘口。
 白影宮の空の面箱。
 そして、陰陽寮の方位盤。

 満月ではない夜に、満月が出る。

 役の入口を喰う月が、とうとう暦の裏へまで入り込んだ。

 アヤメが低く言った。

「今度は、陰陽寮ですか」

 その声には、疲れではなく、覚悟があった。

 イロハは《アカツキノハ》を見た。

 白く残った月痕。

 少しだけ薄れたとはいえ、まだ面の右目に食い込んでいる。その白は、まるで次の場所を示す印のようだった。

 月は、舞台だけを見ているわけではなかった。
 宮の箱だけを見ているわけでもない。
 武家の刀だけでもない。

 暦。

 方位。

 式面。

 この国が役を定める、さらに奥の仕組みにまで、月は歯を立て始めている。

 イロハは、まだ冷たい指先を握った。

「月は、刀の鞘の中にも、暦の裏にもいるんですね」

 誰もすぐには答えなかった。

 空には、欠けた半月が静かに浮かんでいる。

 けれど鉄鉢の底にも、戦面の内側にも、方位盤の写しにも、満月の痕が残っている。

 ハルマサは、サヨからの文を胸元にしまい、《アカツキノハ》へ手を添えた。

 刀を抜けた。

 けれど、月はまだ終わっていない。

 イロハは白布をかけた戦面を見つめた。

 まだ喰われていないものがある。

 その事実だけを頼りに、次の月痕へ向かわなければならない。

 第三話 ― 抜けない刀の戦面
 了