EP 30

第4話 陰陽寮の月読み

序節 ― 暦にない満月

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 暦とは、月を縛るための帳面ではない。

 人が、夜を恐れすぎぬように、月の顔を数えた約束である。

 今宵は細い。
 明日は少し太る。
 やがて満ち、やがて欠け、また戻る。

 そう数えることで、人は夜に名前を与えてきた。

 けれど、帳面にない満月が面の裏に棲むならば、恐れるべきは空ではない。

 恐れるべきは、月を映してしまう顔のほうである。

 アカツキ家の中庭には、まだ水の匂いが残っていた。

 鉄鉢の水面に映っていた、空にない満月は、ハルマサ=アカツキの一閃によって断たれた。

 けれど、それで月が消えたわけではない。

 暁刃戦面《アカツキノハ》の右目元には、白い月痕が残っている。深朱の奥に戻った熱は確かにあった。だが、その熱の縁に、白い噛み跡はまだ食い込んでいた。

 イロハ=ナギは、白布に包まれた戦面を見下ろしていた。

 一度だけ刀は抜けた。

 ハルマサ自身の言葉で。

 ここから先へ、月を通さない。

 その言葉によって、面は彼を呼び戻した。

 しかし、一度だけだ。

 完全に戻ったわけではない。
 月痕は消えていない。
 面紐の白化も残っている。

 役は、まだ噛まれている。

 そんな中で、陰陽寮からの急使がもたらした報せは、さらに重かった。

 暦が合わぬ。

 昨夜は半月のはず。

 しかし、方位盤の式面の内側に、満月が出た。

 アヤメ=シラハは、その報告を聞いた瞬間から表情を変えていなかった。

 白影宮の近習としての顔。
 刀を持つ者としての顔。
 そして、サヨ=ミカゲの身に迫るものを察した者の顔。

 どれも重なって、彼女の横顔を硬くしていた。

「陰陽寮へ向かいます」

 アヤメは短く言った。

 アカツキ家の年長者が眉を寄せる。

「夜分に、ですか」

「今が夜分だからです」

 アヤメの声には迷いがなかった。

「半月の夜に満月が出た。その満月が、面の内側に現れている。ならば、夜が明けてからでは遅い」

 イロハは道具袋を閉じた。

 指先には、まだ仮札を通して受けた白い痺れが残っている。

 ユラの神楽面。
 白影宮の空の面箱。
 カンナの香役。
 アヤメの宮中札。
 ハルマサの戦面。
 そして今度は、陰陽寮の式面。

 月は、ひとつの場所に留まっていない。

 水にも映る。
 鞘口にも映る。
 面の内側にも映る。

 ならば、方位盤にも映るのだ。

 イロハとアヤメは、陰陽寮の急使に導かれ、アカツキ家を出た。

 帝都カミザの夜は静かだった。

 けれど、その静けさは白影宮の夜とも、武家屋敷の夜とも違っていた。

 都全体が、息を潜めているようだった。

 黒漆の門が閉じられた商家。
 月除けの布を掛けた面屋。
 水盆を伏せた家々。
 戸口に吊るされた小さな祈面。
 役面市の通りには、昼間あれほど並んでいた面箱がひとつも見えない。

 誰もが、何かを恐れ始めている。

 けれど、その恐れにまだ名前はない。

 名を喰う月。

 その言葉が、都の隅々まで届くのは時間の問題だった。

 東郭を抜け、官庁の区画へ入ると、空気が変わった。

 陰陽寮は、帝都の北東寄りにある。

 白影宮ほど奥まっておらず、武家屋敷ほど開けてもいない。高い塀の中に、星見楼、暦殿、式札庫、方位庭が配置されている。門には黒と青銀の紋があり、中央に七つの星点を結ぶ辻文様が刻まれていた。

 門前には、篝火が焚かれている。

 火の上には、火除けではなく月除けの符が吊るされていた。青い紙に墨で方位が書かれ、その上から朱で斜めの線が引かれている。

 急使が門番へ声をかけると、門はすぐに開いた。

 中に入った瞬間、イロハは墨の匂いを感じた。

 紙。
 墨。
 乾いた木。
 星砂。
 そして、わずかな水の気配。

 陰陽寮の夜は、音が少なかった。

 けれど静かなのではない。

 紙が擦れる。
 筆が走る。
 小さな歯車が回る。
 吊るされた式札が、風もないのにかすかに揺れる。

 白影宮が沈黙の宮なら、ここは記録の夜だった。

 何かを測り、書き、封じ、位置づけるための場所。

 イロハは、自然と肩に力が入るのを感じた。

 面師小路の裏工房とは違う。
 ここは制度の内側だ。

 しかも、ただの役所ではない。

 暦と方位を読む者たちの場所。
 この国の祭礼や儀式が、いつ、どこで、どの向きに行われるべきかを定める場所。

 もしここが月に噛まれているなら、異常はもう個人の役だけでは済まない。

 陰陽寮の奥、星見楼へ通される。

 楼と呼ばれてはいるが、派手な建物ではない。細い柱と青銀の梁、星を読むための高窓、中央には大きな方位盤が据えられている。周囲には、大小さまざまな式面が並んでいた。

 神楽面や戦面とは違う。

 式面は、顔を作るというより、方向を合わせるための面に見えた。

 表情は薄い。
 だが、額や頬に方位線、星点、暦符が刻まれている。
 目元には、見るためというより、読まれるための細い孔がある。

 その中央で、若い陰陽師が待っていた。

 セイラン=ナナツジ。

 七辻 青嵐。

 年若いが、衣の着方に乱れはない。青黒い陰陽寮の官衣に、白い式札を幾枚も差している。髪はきっちり結ばれ、目元には疲労と緊張が浮かんでいた。

 彼の肩には、小さな紙狐が乗っていた。

 白い紙を折って作ったような狐。耳と尾に淡い青の線が走っている。紙なのに、呼吸をしているように見えた。

 セイランは、アヤメを見ると礼をした。

「白影宮、アヤメ=シラハ様。お待ちしておりました」

「状況は」

「悪化はしていません。ですが、消えてもいません」

 彼の視線が、次にイロハへ向く。

「あなたが、面師イロハ=ナギ殿ですね」

「はい」

「白影宮とアカツキ家の白化面を診たと聞いています」

「診ました」

 セイランの目は鋭かった。

 敵意ではない。

 ただ、まだ信じてはいない目だった。

「こちらへ」

 彼は方位盤の前へ案内した。

 大きな盤だった。

 木と金属と紙符を組み合わせた、複雑な円。外側には十二方位、内側には星辰、さらにその奥に小さな式面が嵌め込まれている。式面は人の顔ほど大きくはない。掌より少し大きい程度の小面で、盤の中心へ向かって伏せられている。

 セイランが、慎重にそれを取り外した。

「これが、異常を示した方位盤の式面です」

 彼は小面を裏返す。

 イロハは息を止めた。

 内側に、満月があった。

 白い。

 丸い。

 完全な満月。

 空には半月しかないはずなのに、式面の裏には、月が棲みついたように浮かんでいた。

 ただ描かれているのではない。

 光っている。

 内側から、淡く。
 面の奥に、別の夜があるかのように。

 アヤメの手が、わずかに刀へ近づく。

 イロハは、その満月を見つめた。

 白影宮の面箱の月。
 アカツキ家の鉄鉢に映った月。
 鞘口に潜んだ月。

 同じだ。

 けれど、これは水ではない。刃でもない。面の内側だ。

 月はまた、入口を見つけている。

 セイランが言った。

「昨夜は半月でした」

 声は落ち着いている。
 だが、その奥に強い緊張があった。

「暦も、星も、間違っていません」

 彼は机の上に、数枚の記録紙を並べる。

 月齢表。
 天測記録。
 星見楼の観測符。
 夜半の方位記録。

 どれも同じ結果を示していた。

 半月。

「陰陽寮の暦に誤りはありません。天測も一致しています。空の月は、半月でした」

 セイランは、式面の内側を見た。

「けれど、式面の内側だけが満月を示しています」

 イロハは、満月の縁へ触れようとして、手を止めた。

 触れれば、また見える。

 だが今は、まだ早い。

「いつからですか」

「昨夜、アカツキ家より急使が出る少し前です。方位盤が北東へ勝手に回転し、式面が熱を持ちました。内側を確認したところ、これが」

「北東」

 アヤメが呟く。

「鬼門ですか」

「通常なら、そう判断します」

 セイランは答える。

「しかし、鬼門面には反応がありません。反応したのは、方位盤の式面と、私の星読式面です」

「あなたの面も?」

 イロハが見ると、セイランは一瞬だけ口を閉ざした。

 それから、腰に下げた面箱へ手をやる。

「後ほどお見せします」

 イロハは頷いた。

 焦ってはいけない。

 今はまず、この式面だ。

「この満月は、外側には出ていないんですね」

「はい。表面には異常なし。内側だけです」

「役に触れる側だけ」

 イロハが呟くと、セイランの眉が動いた。

「役に触れる側?」

「面の内側は、顔や息に触れる場所です。戦面なら、抜刀の呼び声が通る。神楽面なら、舞い出す入口が通る」

 イロハは式面を見た。

「この面なら、方位を読む入口が通るんじゃないですか」

 セイランは、少しだけ沈黙した。

「……陰陽寮では、式面を『意識を方位へ合わせる器』と定義しています」

「同じことです」

「ずいぶん簡単に言いますね」

「難しく言えば、月は待ってくれるんですか」

 セイランの表情が変わった。

 アヤメが小さく息を吐く。

 イロハは、言ってから少しだけ後悔した。

 だが、撤回はしなかった。

 月痕は待たない。

 白化は、役所の定義が整うまで止まってくれない。

 セイランは感情を押さえるように目を伏せた。

「失礼しました。記録と定義に頼らなければ、陰陽寮は機能しません」

「それは、わかります」

 イロハは言った。

「でも、記録される前に喰われるものもあります」

 その言葉に、セイランは顔を上げた。

 方位盤の式面の内側で、満月が淡く揺れた。

 まるで、その言葉を聞いていたかのように。

 肩の紙狐が、小さく尾を震わせた。

 セイランはそれに気づき、そっと指を添える。

「ヒヨリ?」

 紙狐は返事をしなかった。

 ただ、式面の内側に浮かぶ満月をじっと見ている。

 イロハの胸に、冷たい予感が降りた。

 この月は、ただ方位を狂わせているだけではない。

 陰陽寮の誰かの役にも、もう触れている。

 アヤメが静かに言った。

「セイラン殿。白影宮、アカツキ家、そして陰陽寮。現象は広がっています」

「承知しています」

「では、隠さず見せてください」

 セイランは、しばらく黙った。

 それから、腰の面箱を外し、机に置く。

「私の星読式面《ナナツジノホシ》にも、異常が出ています」

 面箱の蓋に刻まれた七辻の紋が、篝火の光を受けて青く光った。

 イロハは、その箱を見た。

 新しい事件が始まった。

 神楽でも、白影宮でも、武家でもない。

 暦と方位を読む場所で。

 帳面にない満月が、面の裏に棲みついている。