EP 31

第4話 陰陽寮の月読み

第一節 ― 星見楼の若き陰陽師

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 星見楼の中は、夜でありながら明るかった。

 灯火の明るさではない。

 紙の白。
 墨の黒。
 星砂の淡い青。
 青銀の糸に吊られた式札の反射。
 方位盤の歯車に残る、磨かれた金属の光。

 それらが、月光を使わずに夜を照らしている。

 白影宮の光は、御簾や白木に沈む。
 アカツキ家の光は、朱漆と黒鉄に弾かれる。
 けれど陰陽寮の光は、紙の上に留まる。

 記録されるための光だった。

 壁には、何枚もの暦図が掛けられている。
 月齢、星辰、方角、禁忌日、祭礼の吉凶。細かな文字と線が、夜の天を帳面に押し込めるように並んでいた。

 天井からは、青銀の糸で吊られた式札が下がっている。
 札は風もないのに、ときおり小さく揺れた。

 そのたびに、さらさら、と紙の触れ合う音がする。

 イロハは、無意識に自分の道具袋を握り直した。

 ここは面師小路ではない。

 木粉の匂いも、漆の匂いも、削り屑の温かさもない。
 欠けた面を膝に乗せ、客の声を聞きながら直す場所ではない。

 ここでは、面は数字と方位で測られる。

 どちらが正しいという話ではない。

 ただ、イロハの足裏には、妙な居心地の悪さが残った。

 セイラン=ナナツジは、机の上に面箱を置いたまま、すぐには開けなかった。

 彼は若い。

 だが、若さに任せて慌てるような人間ではなかった。
 緊急の異常が起きているにもかかわらず、机の上に置かれた紙は整えられ、筆は同じ向きに並べられ、星砂の入った小瓶には蓋がされている。

 恐れていないのではない。

 恐れているからこそ、整えている。

 イロハはそう見た。

 セイランは、まずイロハへ向き直った。

「面師小路の方ですね」

「はい」

「陰陽寮の式面は、通常の職面とは構造が違います」

 彼の声は丁寧だった。

 けれど、そこには距離があった。

 面師小路の面師。
 資格剥奪者ロウセツ=カガミの弟子。
 白影宮に呼ばれたとはいえ、陰陽寮の内側から見れば、まだ素性のはっきりしない職人。

 そう見られていることは、イロハにもわかった。

「見ればわかります」

 イロハが答えると、セイランの眉がわずかに動いた。

「……見れば、ですか」

「はい」

「式面は、外見だけでは判定できません。材、刻まれた方位線、使用者との連結、式神への命令経路、暦との同期。見るべき項目は多い」

「だから、見ます」

 セイランは一瞬、言葉を止めた。

 肩の紙狐が、小さく耳を動かす。

 アヤメが横から静かに言った。

「イロハ殿は、白影宮とアカツキ家の白化面を診ています」

「承知しています」

 セイランはすぐに答えた。

 だが、その目はイロハから逸れない。

「だからこそ、感覚ではなく記録が必要です」

 イロハは、その言葉に少しだけ胸を刺された。

 感覚。

 そう言われれば、確かにそうなのかもしれない。

 面の内側に触れ、息の残りを読む。
 月痕の冷たさから、喰われた役の位置を探す。
 仮札を置いて、失われかけた入口へ橋をかける。

 そのどれも、陰陽寮の帳面に載るようなものではない。

 けれど、それでユラの舞は一節だけ戻った。
 カンナは香の役を思い出した。
 ハルマサは一度だけ、自分の言葉で刀を抜いた。

 記録されていなくても、そこにあるものはある。

「記録は大事です」

 イロハは言った。

 セイランが意外そうに目を細める。

「否定しません。ただ、記録に残っていないから存在しない、とは思いません」

「陰陽寮では、記録できないものは扱えません」

「扱えないものが、人を喰っているんです」

 その言葉に、星見楼の空気が少し冷えた。

 アヤメは止めなかった。

 セイランも怒らなかった。

 ただ、机の上の記録紙へ視線を落とした。

「……あなたの言うことは、乱暴です」

「よく言われます」

「しかし、完全に間違っているとも言えない」

 セイランは、方位盤の中心に置かれた小式面を見る。

 内側に満月を宿した式面。

「昨夜から、陰陽寮の記録は矛盾しています。暦は半月。天測も半月。星の配置も半月の夜として整っている。にもかかわらず、式面の内側には満月が出た」

 彼は机上の紙を一枚取った。

 細かな字で、時刻、方位、温度、式札反応、星砂の沈み方まで書き込まれている。

「私は、起きたことを可能な限り記録しました。ですが、記録すればするほど、原因から遠ざかっている気がする」

 イロハは、セイランを見た。

 彼は嫌味な役人ではなかった。

 記録を信じている。
 理屈を信じている。
 方位や暦や式の積み重ねによって、世界を読めると信じている。

 だからこそ、記録できない異常に怯えている。

 その怯えを、整った字と丁寧な言葉で抑えている。

「セイラン殿」

 アヤメが言った。

「今、陰陽寮で異常が出ているのは、この方位盤の式面だけですか」

「いいえ」

 セイランは短く答えた。

「星読式面《ナナツジノホシ》にも出ています」

 彼は面箱へ手を置いた。

 白木ではなく、濃い青に塗られた細長い箱。角には銀の金具。蓋には七つの辻が交差する紋が描かれている。

 開ける前に、セイランは言った。

「先に断っておきます。陰陽寮の式面は、職面や戦面とは違います」

「先ほども聞きました」

「重要なので、もう一度言います」

 イロハは少し目を瞬いた。

 セイランは真剣だった。

「式面は、社会的な役を示すだけのものではありません。方位、暦、星、式神の経路へ、自分の意識を合わせるための器です。誤って触れれば、あなた自身の方位感覚にも影響が出る可能性があります」

「私が月に引かれるかもしれない、ということですか」

「その可能性があります」

 アヤメの表情が硬くなる。

「ならば、私が先に確認します」

「いけません」

 セイランは即座に言った。

「式面の内側を見ること自体が危険です。役に揺らぎのある方ほど、影響を受けやすい」

 アヤメの手が、腰の札へ触れた。

 第2話の夜、彼女の役も揺らいだ。
 自分が誰を守る役なのか、一瞬だけ見失った。

 セイランはそれを知っているわけではないだろう。

 けれど、言葉は正確に刺さった。

 アヤメはわずかに目を伏せた。

「……では、イロハ殿が適任だと?」

「適任とは言っていません」

 セイランは正直に言った。

「ただ、白化面を診た経験がある。現時点では、最も異常に近い見立てを持っている」

「ずいぶん遠回しな評価ですね」

 イロハが言うと、セイランは真顔で答えた。

「評価ではなく、状況整理です」

 アヤメが小さく息を吐いた。

 少しだけ、張りつめていた空気が緩む。

 肩の紙狐が、セイランの袖から机へ降りた。

 白い紙でできた小さな足が、星砂のこぼれた机を踏む。足跡は残らない。ただ、青い尾がひらりと揺れた。

「その子は?」

 イロハが尋ねる。

「紙狐《ヒヨリ》です。私の式神です」

 ヒヨリは、イロハをじっと見た。

 紙の狐なのに、目だけは妙に生きている。描かれた墨の点が、こちらを測るように動いた気がした。

「式神にも、面があるんですか」

「式神そのものに面はありません。ただし、式面を通して命令経路を整えます」

「命令」

 イロハが繰り返すと、ヒヨリの耳がぴくりと動いた。

 セイランは、それに気づかないふりをした。

「陰陽師と式神の関係は、契約と命令で成り立ちます。無秩序に動かせば、式は乱れる」

「でも、その子は嫌そうですよ」

「ヒヨリは紙狐です。嫌そう、という判断は不要です」

 ヒヨリの尾が、ぺしりと机を叩いた。

 セイランは少しだけ咳払いをした。

「……時に、反応が過剰なだけです」

 イロハは、ほんの少し笑いそうになった。

 けれど、すぐに表情を戻す。

 ここで笑えるほど、状況は軽くない。

 星見楼の中央の方位盤は、静かに歯車を鳴らしている。

 かちり。

 かちり。

 外の月は半月。

 けれど、式面の内側には満月。

 陰陽寮の理論も、面師の感覚も、まだこの異常を完全には掴めていない。

「では、見せてください」

 イロハは言った。

「星読式面を」

 セイランは頷いた。

 面箱の蓋に手をかける。

 その直前、彼はもう一度だけ言った。

「感覚で見たことでも、必ず言葉にしてください。記録します」

「わかりました」

「比喩ではなく」

「たぶん、比喩にしないと伝わらないものもあります」

 セイランは困ったように眉を寄せた。

「では、比喩である箇所は比喩と明記します」

「律儀ですね」

「記録ですから」

 そう言って、彼は面箱を開けた。

 青銀の光が、箱の内側から薄く広がる。

 星読式面《ナナツジノホシ》。

 その面が現れた瞬間、星見楼の式札が一斉に揺れた。

 さらさら、と紙が鳴る。

 ヒヨリが、セイランの袖の中へ半分だけ隠れた。

 イロハは、息を吸った。

 感覚と記録。

 木粉と星砂。

 面師小路と陰陽寮。

 その二つが、今、同じ白い月痕を見ようとしていた。