EP 32

第4話 陰陽寮の月読み

第二節 ― 星読式面《ナナツジノホシ》

Source: 04_02.txt

 星読式面《ナナツジノホシ》は、静かに箱の中へ納まっていた。

 白木の面だった。

 神楽面のような艶やかさも、戦面のような重さもない。けれど、軽いわけではなかった。表に刻まれた淡青の星図が、灯火ではなく星の光を吸っているように見える。

 額に七つの星点。

 それぞれの星点から細い線が伸び、頬、鼻筋、顎へ向かって交差している。辻文様だ。道が分かれ、また結び、どの方位へ進むべきかを面そのものが問いかけているようだった。

 面紐は青銀の星糸で編まれている。

 布ではない。金属でもない。光を撚ったような糸だった。動かさなくても、見る角度によって細く明滅する。

 イロハは、思わず息を止めた。

 美しい面だと思った。

 ただ顔につける道具ではない。
 空を読むために、顔を空へ近づける面。

 面師小路の裏工房では、こういう面は滅多に触れない。職面や生面、欠けた神楽面なら何度も直してきた。けれど陰陽寮の式面は、役所の管理下にある。持ち主の家から気軽に持ち込まれるようなものではない。

 セイランは、面へ触れる前に手を清めた。

 青い符を指先に挟み、短く息を吹きかける。符は燃えずに、薄い光だけを残して消えた。

「星読式面《ナナツジノホシ》」

 彼は静かに言った。

「七方と交差方位を読むための式面です。通常の方位面よりも、個人の星筋に寄せて調整されています」

「星筋」

「生まれた時刻、家の方位、師から受けた式の系譜、使役する式神との経路。それらを総合したものです」

 セイランは淡々と説明する。

 イロハは頷いた。

「つまり、かなりあなた用の面なんですね」

「簡略化すれば、そうです」

「簡略化しないと?」

「三刻はかかります」

「簡略化でお願いします」

 セイランは少しだけ眉を寄せた。

 冗談が通じなかったのか、通じたうえで処理に困ったのかはわからない。

 アヤメは横で表情を変えずに見ていたが、ほんの少しだけ肩の力が抜けたように見えた。

 ヒヨリは机の端に座り、青い尾で星砂の瓶を軽く叩いていた。

 セイランは面を持ち上げた。

「表には異常が見られません」

 確かに、表は美しいままだった。

 淡青の星図にも乱れはない。
 七つの星点も揃っている。
 交差する辻文様も、欠けてはいない。

 もし表だけを見れば、これは完璧に整えられた陰陽寮の式面だった。

 だが、イロハにはわかる。

 月は、表に噛みつかないことがある。

 ユラの神楽面も、内側に噛み跡があった。
 ハルマサの《アカツキノハ》も、外側の白化より内側の傷が深かった。

 役に触れる場所。

 息が当たる場所。

 面が持ち主を呼ぶ場所。

 そこを、月は喰う。

「裏を見ます」

 イロハが言うと、セイランはすぐに頷いた。

「どうぞ。ただし、直接触れるなら白符越しに」

「はい」

 イロハは差し出された白符を指に巻いた。

 いつもの白布とは感触が違う。陰陽寮の符は、紙なのに繊維の奥に冷たい光を含んでいる。触れると、指先の脈が少し遅くなるような感覚があった。

 面を裏返す。

 その瞬間、星見楼の空気が細く鳴った。

 吊るされた式札が、さらさらと揺れる。

 イロハは、面の内側を見た。

 そこにも星図があった。

 表の星図より淡く、使用者の息に触れるためか、木肌の奥に沈むように刻まれている。七つの星点が、内側にもある。

 だが、そのうちの一つが白く濁っていた。

 右上。
 額の裏にあたる場所。

 そこに、満月のような丸い月痕が浮かんでいる。

 丸い。

 白く、完全で、空の半月とはまるで違う形。

 ただの染みではない。
 星点のひとつを飲み込み、周囲の線まで白く滲ませている。

 イロハの指先が、冷えた。

 星読式面の内側から、こちらを覗く月。

 それは、戦面の月痕とは少し違った。

 《アカツキノハ》の月痕は、抜刀の瞬間を横から噛んでいた。鋭い歯で裂くような痕だった。

 だが《ナナツジノホシ》の月痕は、丸く塞いでいる。

 星が見えるはずの場所を、月が覆っている。

 読むための点が、白い満月に塗り潰されている。

「この面も、噛まれています」

 イロハは言った。

 セイランの目が細くなる。

「式面がですか」

「いいえ」

 イロハは月痕から目を離さなかった。

「読む役が」

「読む役……?」

「星を読む入口です」

 セイランはすぐには答えなかった。

 彼は面の内側を覗き込み、白い月痕を確認する。それから机の上に置いた記録紙を一枚めくった。

「昨夜の初期反応は子の刻三つ。方位盤の北東部に白月反応。星砂の沈降は通常の二倍。式札は東南へ二度傾きました。月齢、方角、時刻、使用者、式神反応。すべて記録しました」

「でも、何を失ったかは書いてありません」

 イロハが言うと、セイランの筆が止まった。

「記録されていないものは、判定できません」

「記録される前に喰われたんです」

 その言葉に、セイランの表情が硬くなった。

 星見楼の歯車が、かちりと鳴る。

 アヤメは黙っていた。

 ヒヨリは尾を揺らしている。

 セイランは、ゆっくり息を吐いた。

「あなたは、先ほどから“喰われた”と表現します」

「はい」

「比喩ですか」

「半分は」

「半分?」

「見えるんです。噛み跡みたいに」

 イロハは《ナナツジノホシ》の内側を示した。

「ここ。星点のまわりが、ただ白くなっているんじゃありません。内側から食い込まれている。星を読む線が、そこで止まっている」

「線?」

「役の線です」

 セイランは、明らかに納得していなかった。

「役の線という用語は、陰陽寮の記録にはありません」

「でしょうね」

「では、どう記録すればよいのですか」

 イロハは少し考えた。

 面師小路なら、客にこんな説明はしない。

 欠けています。
 息が通っていません。
 役が薄くなっています。
 仮に置きます。

 それで伝わることもある。

 けれど、セイランは違う。

 彼は記録しなければ動けない人だ。
 そして、記録できないからこそ今、困っている。

「星点のひとつが、月痕によって遮断されている」

 イロハは言った。

「遮断」

「はい。星を読むための入口が、満月の形をした白化で塞がれている。たぶん、星が見えないんじゃなくて、星を見る前に月を見せられている」

 セイランの筆が動いた。

「星を見る前に、月を見せられている……」

 彼は書きかけて、眉をひそめる。

「これは比喩ですか」

「たぶん比喩じゃないです」

「困ります」

「私も困っています」

 アヤメが小さく目を伏せた。

 笑う場面ではない。
 だが、あまりにも二人の噛み合わなさが露わだった。

 セイランは、記録紙に丁寧な字で書き込んだ。

 星読式面内側、第一星点に白月状痕。
 星読入口の遮断と推定。
 観測者イロハ=ナギ曰く「星を見る前に月を見せられている」。

 そこまで書いてから、彼は顔を上げた。

「この場合、失われているのは何ですか」

 イロハは《ナナツジノホシ》を見た。

 白い満月。
 塞がれた星点。
 その周囲で途切れる淡青の線。

 ユラは、神を迎える沈黙。
 カンナは、宮の夜を整える役。
 ハルマサは、刀を抜く入口。

 では、セイランは。

 この式面は、何を喰われているのか。

「星を読む前に、空へ聞くところ」

 イロハは呟いた。

 セイランの目がわずかに動く。

「空へ聞く?」

「はい。星って、ただ見るだけじゃないんでしょう」

 彼女は、うまく言葉を探した。

「面を直す時も、いきなり削るわけじゃありません。まず見る。触る。前にどんな人がつけたか、どんな息が残っているかを聞く。面が何を言おうとしているかを待つ」

 セイランは黙っている。

「星を読むのも、たぶん同じです。いきなり命じたり、決めたりするんじゃなくて、星がどう並んでいるか、何を示そうとしているかを聞く」

「陰陽寮では、それを観測と呼びます」

「なら、その観測の入口が噛まれています」

 セイランの筆が止まった。

 ヒヨリが、机の上で小さく鳴いた。

 紙が擦れるような、かすかな声だった。

 セイランはヒヨリを見る。

「どうした」

 ヒヨリは答えず、《ナナツジノホシ》の内側をじっと見ている。

 イロハは、その様子を見逃さなかった。

「その子、何か知っているんじゃないですか」

「ヒヨリは式神です。知っているというより、式の乱れに反応しているのでしょう」

「またそういう言い方をする」

「正確に言っています」

「でも、その子は嫌がってます」

「嫌がる、という感情設定はしていません」

 ヒヨリの尾が、ぺしりとセイランの手首を叩いた。

 今度はアヤメも少しだけ目を細めた。

 セイランは咳払いをする。

「……反応が強い、という意味では、あなたの指摘は否定しません」

 イロハはもう一度、面の内側へ視線を戻した。

 白い月痕の縁が、わずかに揺れている。

 満月の中に、かすかな線が見えた。

 星図ではない。

 丸い月の奥に、別のものが映りかけている。

 イロハは近づこうとして、アヤメに腕を押さえられた。

「無理はしないでください」

「少しだけ」

「その“少しだけ”で、あなたはよく戻れなくなりかけます」

 イロハは言い返せなかった。

 第2話の空の面箱。
 第3話の《アカツキノハ》。
 どちらも、深く見すぎれば月に引かれた。

 セイランがそれを聞き、眉を寄せる。

「戻れなくなりかけた?」

「白影宮で一度。アカツキ家でも一度」

 アヤメが代わりに答えた。

「月痕を深く読むと、意識を持っていかれる危険があります」

 セイランの表情が変わった。

「その情報は、先に共有してください」

「共有する前に、あなたが面を開けました」

「……以後、注意します」

 彼はすぐに記録紙へ書き足した。

 月痕深読時、観測者に意識牽引の危険あり。

 イロハは、その字の細かさを見て、少しだけ感心した。

 この人は、本当に記録する。

 嫌味でも、形式でもなく、必要だから。

「セイランさん」

「はい」

「あなたは、月痕を見た時、何かできなくなりましたか」

 その質問に、彼はすぐ答えなかった。

「できなくなった、とは」

「ハルマサさんは、剣術は覚えていました。でも刀を抜けなかった。ユラさんは舞を覚えていました。でも神を迎える沈黙だけが抜けていた。あなたは?」

 セイランは、面箱の前で沈黙した。

 視線が、一瞬だけヒヨリへ向く。

「……式神への命令が、一部通りにくくなっています」

「一部?」

「命令そのものは出せます。符も切れます。方位も指定できます」

「でも?」

 セイランは、答えたくなさそうに唇を結んだ。

 けれど、記録の人間だからだろう。

 彼は嘘をつかなかった。

「ヒヨリが、従いません」

 ヒヨリは机の上で、前足を揃えて座っていた。

 まるで、最初からそのつもりだったというように。

「なぜ従わないのかは」

「不明です」

 セイランは即答した。

 そして少し遅れて、低く付け加える。

「通常なら、ありえません」

 イロハは《ナナツジノホシ》の白い月痕を見た。

 星を見る入口。
 空へ聞く入口。
 それが月に塞がれている。

 なら、セイランが失いかけているのは、式神を従わせる力ではない。

 従わせる前に、聞く力だ。

「たぶん」

 イロハは言った。

「命じる前のところが、噛まれています」

「また入口ですか」

「はい」

「何の入口です」

 イロハはヒヨリを見た。

 紙狐は、じっとセイランを見ている。

 主人を見る目ではなかった。

 何かを待っている目だった。

「星や式神が何を言おうとしているか、聞く入口です」

 セイランは、はっきりと不服そうな顔をした。

「陰陽師が式神に命じるのは当然です」

「でも、今は命じても動かない」

「異常のせいです」

「はい。その異常が、そこを噛んでいるんです」

 セイランは口を開きかけ、閉じた。

 理屈では納得していない。

 けれど、現象として否定しきれない。

 その顔だった。

 アヤメが静かに言う。

「セイラン殿。今は、イロハ殿の言葉を一度仮説として置いてください」

「仮説」

「陰陽寮の記録にないなら、仮説として記録すればよいのでは」

 セイランは少しだけ目を見開いた。

 それから、ゆっくり頷く。

「……妥当です」

 彼は筆を取った。

 星読式面異常仮説。
 失われているのは、星を読む技術ではなく、星・式神の反応を受け取る入口。
 命令経路ではなく、観測前段階の応答経路に白月干渉あり。

 イロハは、その言葉を覗き込んで首を傾げた。

「難しいですね」

「正確です」

「私の言葉のほうが短いです」

「短さより誤解の少なさを優先します」

「でも、月はたぶん読んでくれませんよ」

 セイランは筆を止めた。

 それから、真面目な顔で言った。

「月に読ませるために書いているのではありません」

 イロハは、思わず少し笑った。

「それもそうですね」

 ヒヨリが小さく尾を振った。

 その時、《ナナツジノホシ》の内側に浮かぶ白い満月が、かすかに明るくなった。

 星見楼の式札が、一斉に揺れる。

 セイランはすぐに面へ手を伸ばした。

「反応が上がっています」

 アヤメが刀へ手を近づける。

 イロハは、面の内側を見た。

 満月の白が、星点をさらに深く覆おうとしている。

 まるで、こちらの会話を聞いて、塞いだ場所を広げようとしているようだった。

「離れてください」

 セイランが言う。

 イロハは一歩下がった。

 だが、目は逸らさなかった。

 この面も、まだ死んでいない。

 星を読む入口は噛まれている。
 けれど、ヒヨリはまだセイランを見ている。
 式札も、方位盤も、完全には止まっていない。

 喰われたのは全部ではない。

 なら、まだ読める。

 ただし、セイラン自身が、命じる前に聞くことを思い出せれば。

 星読式面《ナナツジノホシ》は、箱の中で淡く青く光っている。

 その内側に棲みついた満月が、静かに白い歯を隠していた。