EP 33

第4話 陰陽寮の月読み

第三節 ― 紙狐ヒヨリの拒絶

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 星見楼の空気が、細く張り詰めた。

 星読式面《ナナツジノホシ》の内側で、白い満月が光を強めている。

 それは灯火の光ではなかった。
 月光ですらない。

 面の裏に閉じ込められたはずの白が、木肌の奥から滲み出し、七つの星点のひとつをさらに深く覆っていく。淡青の星図は、その一点を境に途切れ、青銀の面紐がかすかに震えていた。

 セイラン=ナナツジは、すぐに動いた。

 恐れていても、手順は崩れない。

 彼は机の端に置かれた青符を三枚取り、方位盤の北東、東、中央へ滑らせる。指先は迷わず、符の角度も正確だった。

「白月反応、上昇。星点一、濁度増加。方位盤、北東へ偏移」

 彼は自分で記録するように呟きながら、袖口へ手を入れた。

「ヒヨリ」

 白い紙狐が、セイランの袖からするりと出てきた。

 紙で折られたような細い身体。
 耳の縁に走る青い線。
 尾の先に描かれた、小さな方位紋。

 軽いはずなのに、机へ降り立った瞬間、星砂がわずかに跳ねた。

 ヒヨリは、セイランを見た。

 次に、《ナナツジノホシ》を見る。

 その小さな紙の身体が、わずかに強張ったように見えた。

 イロハは、息を潜めた。

 紙狐の顔に、人のような表情はない。
 けれど、今のヒヨリは明らかに警戒していた。

 月を怖がっているのか。
 それとも、セイランがこれから出す命令を怖がっているのか。

 セイランは気づいていないのか、気づいていても認めないのか、淡々と方位盤へ手をかざした。

「ヒヨリ、北東の白月を封じろ」

 その命令が、星見楼に落ちた。

 青符が淡く光る。

 方位盤の歯車が、かちりと鳴る。

 通常なら、式神は命令に従うのだろう。

 紙狐が方位盤へ走り、北東に浮かぶ白月反応を符で押さえ、式面の異常を一時的に封じる。セイランの手順は、そういうものだったはずだ。

 けれど、ヒヨリは動かなかった。

 机の上で、じっと座っている。

 青い尾だけが、ゆっくり揺れた。

 セイランの眉がわずかに寄る。

「ヒヨリ」

 もう一度、彼は言った。

「北東の白月を封じろ」

 ヒヨリは、動かない。

 アヤメの視線が鋭くなる。

 イロハは、セイランの顔を見た。

 彼の表情は、わずかに強張っていた。

 怒りではない。
 戸惑いだった。

 命令が通らない。

 それは、彼にとって異常なのだ。

「式神経路、再接続」

 セイランは袖から細い糸状の符を取り出し、指先に巻いた。

 青銀の糸が、ヒヨリの尾へ伸びる。

「ヒヨリ。北東、白月、封じ」

 言葉を短く区切り、命令として整える。

 それでも、ヒヨリは動かなかった。

 かわりに、紙狐は机から降りた。

 方位盤の縁へ歩く。

 そして、ゆっくりと盤の上を一周した。

 北東。
 東。
 南東。
 南。
 南西。
 西。
 北西。
 北。

 すべての方位を辿る。

 まるで、白月を封じるのではなく、方位そのものを確かめているようだった。

 セイランは声を低くした。

「ヒヨリ、勝手な観測をするな。命令を実行しろ」

 ヒヨリは、方位盤の中央で止まった。

 白い紙の頭を、ゆっくり上げる。

 それから、セイランの足元へ戻った。

 尾の先が、床に触れる。

 青い墨が滲むように、文字が浮かんだ。

 けれど、その文字は読めなかった。

 左右が反転している。

 鏡に映したような、逆さの文字。

 セイランは一瞬、眉をひそめた。

 アヤメが近づこうとすると、イロハが小さく言う。

「待ってください」

 イロハは、床の文字を横から覗いた。

 反転した字。

 だが、面師は時に、内側から彫りを見る。
 表から読めない線を、裏から読むことがある。

 イロハには、なんとか読めた。

「あなたは……命じる役ではない」

 声に出した瞬間、セイランの顔色が変わった。

「何を」

 ヒヨリは、尾をもう一度動かす。

 今度は、文字ではなく短い線を三つ描いた。

 主ではない。
 命じる者ではない。
 読む者。

 イロハには、そう読めた。

 セイランは、信じられないものを見るようにヒヨリを見下ろした。

「……何を言っている。私は、お前の主だ」

 ヒヨリは首を振った。

 紙の身体が、かさりと鳴る。

 尾がまた床を叩く。

 主ではない。

「私は、お前を折り、名を与え、式札に結んだ」

 命じる者ではない。

「陰陽師が式神に命じるのは当然だ」

 読む者。

 その文字が床に浮かんだ時、星見楼の式札が一斉に揺れた。

 さらさらさら、と紙の雨のような音が降る。

 《ナナツジノホシ》の内側に浮かぶ満月が、ふっと明るくなった。

 イロハは、指先が冷えるのを感じた。

 月が反応している。

 セイランの中の、揺らいだ役に。

「違う」

 セイランは低く言った。

「私は陰陽師だ。式神へ命じ、方位を定め、星を読む。命令も役の一部だ」

 ヒヨリは動かない。

 ただ、セイランを見ている。

 紙の狐の目に、墨で描かれただけの小さな点がある。
 それなのに、その目はどこか哀しげだった。

 イロハは、ハルマサの姿を思い出した。

 刀へ手をかける。
 鯉口を切る。
 けれど抜けない。

 ハルマサは剣を忘れていたのではない。

 型も、間合いも、足運びも残っていた。
 失われていたのは、刀を抜く理由。
 武士として立つ入口。

 今のセイランも同じだ。

 彼は陰陽師としての技術を忘れていない。

 符を切れる。
 方位を読める。
 記録も取れる。
 式神の命令文も正確に組める。

 けれど、その前にあるものが揺らいでいる。

 命じる前に、何を読むのか。

 式神が何を拒み、何を示しているのかを聞く役。

 そこを、月に塞がれている。

「セイランさん」

 イロハは静かに言った。

「ヒヨリは、命令を聞いていないんじゃありません」

 セイランはイロハを見る。

「では、何だと言うのです」

「命令の前に、あなたに読んでほしいんだと思います」

「式神の意思を読む、という意味ですか」

「たぶん」

「式神に意思など」

 セイランは言いかけて、止まった。

 足元で、ヒヨリがじっと彼を見ていたからだ。

 その視線を、彼は初めて正面から受けた。

 イロハは続けた。

「白月を封じろ、では動けないんです。たぶん、その月が何なのかをまだ読めていないから」

「白月反応です」

「それは記録名でしょう」

 セイランは黙った。

「ヒヨリは、それを封じる前に、あなたに見てほしいんじゃないですか」

「何を」

「その満月が、何を塞いでいるのか」

 星読式面《ナナツジノホシ》の内側で、白い月痕が揺れる。

 星点のひとつを覆う満月。

 星を見る前に月を見せられている。

 セイランは、面の内側へ目を向けた。

 これまでも見ていたはずだ。

 だが、今の彼は、記録するためではなく、初めて読むために見ていた。

 ヒヨリが一歩近づく。

 尾で、また床を叩く。

 読む者。

 その文字だけが、もう一度浮かんだ。

 セイランの手が、ゆっくり下がった。

 青符の光が弱まる。

 命令の式が解けていく。

 アヤメが警戒を強めた。

「封じないのですか」

「封じる前に、確認します」

 セイランの声は、少し掠れていた。

「白月反応の性質を」

 イロハは、小さく頷いた。

「それがいいと思います」

「あなたの感覚判断ですか」

「はい」

「……では、記録します」

 こんな時でも、セイランは筆を取った。

 けれど、その手は先ほどより少し柔らかかった。

 ヒヨリの拒絶により、命令式を中断。
 式神は反転文字にて「命じる役ではない」「読む者」と表示。
 命令経路ではなく、観測入口の再確認を要す。

 そこまで書いた瞬間、筆跡が一部揺れた。

 最後の「読む者」という文字だけが、紙の上で左右反転しかける。

 セイランは息を呑んだ。

 イロハも見た。

 今度は床ではなく、記録紙の上。

 誰かが反対側から読んでいるように、文字の向きが揺らいだ。

 アヤメが低く言う。

「今のは」

「月痕ではありません」

 イロハは答えた。

 なぜそう思ったのかは、自分でもわからない。

 ただ、違うと感じた。

 月の白さではない。

 もっと薄く、もっと冷たく、鏡の向こうから息を吹きかけられたような感覚。

 ヒヨリが怯えたようにセイランの足元へ寄った。

 セイランは、反射的に命令しかけた。

 だが、言葉を止めた。

 命じるのではなく、膝をついた。

「ヒヨリ」

 紙狐が彼を見る。

「お前には、何が見えている」

 初めて、命令ではない言葉だった。

 ヒヨリの耳が動いた。

 紙の尾が、床に小さな円を描く。

 半月。

 その隣に、もうひとつの円。

 満月。

 そして、その二つを挟むように、小さな面の形。

 イロハは目を凝らした。

「空の月と、面の中の月……?」

 ヒヨリは頷いた。

 セイランは、床の図を見つめる。

「空は半月。面の中は満月。方位盤も、鞘口も、水面も」

 彼の声が、少しずつ陰陽師のものへ戻っていく。

 ただし、命じる者ではなく、読む者として。

「つまり、月齢そのものが変化しているのではない。反射・内面・媒介面において、満月相が発生している」

「難しいです」

 イロハが言う。

「空の月じゃなくて、映った月が危ない、ということですよね」

 セイランは、少しだけ黙った。

「……簡略化すれば、そうです」

 ヒヨリが尾を振った。

 イロハは、紙狐が少し得意げに見えた。

 《ナナツジノホシ》の白い月痕は、まだ消えていない。

 けれど、光の強まりは止まっていた。

 セイランが命じることをやめ、読むことへ戻ったからだろうか。

 完全にはわからない。

 だが、少なくとも月は広がるのをやめた。

 アヤメが言った。

「セイラン殿。あなた自身にも、月が触れていますね」

 セイランは否定しなかった。

 彼は、床に描かれた反転文字と、面の内側の満月を見比べる。

「そのようです」

 静かな声だった。

 恐れはある。
 だが、認めた。

「私は、式神を使う技術を失ったわけではない。命令文も組める。符も切れる」

 彼は、自分で確認するように言った。

「しかし、命じる前に読むべきものを、見落としていました」

 ヒヨリが、そっと彼の袖に鼻先を寄せた。

 紙の鼻先が、布に触れてかすかに鳴る。

 セイランは、その小さな頭に触れようとして、少し迷った。

 それから、指先で軽く撫でた。

 ヒヨリは逃げなかった。

 イロハは、その光景を見て息を吐いた。

 ひとつ、わかったことがある。

 月は、ただ大きな役を喰うのではない。

 神楽師の舞。
 武士の抜刀。
 宮の香。
 陰陽師の読解。

 どれも、その人が役へ入るための入口だ。

 月はそこに歯を立てる。

 セイランは立ち上がった。

 さきほどより、顔色は悪い。

 けれど目は戻っていた。

「整理が必要です」

 彼は言った。

「これまでの事例を、すべて並べます」

 アヤメが頷く。

「白影宮の記録も出します」

「アカツキ家の件も必要です」

「私が説明します」

 イロハは《ナナツジノホシ》を見た。

 白い月痕の奥に、ほんのかすかに青い星点が残っている。

 完全には、喰われていない。

 ヒヨリが拒んだから。

 セイランが、命令する前に読むことを思い出したから。

 そう考えていいのかは、まだわからない。

 けれど、ひとつだけ確かだった。

 星見楼の若き陰陽師もまた、月に役の入口を噛まれた者だった。

 そして彼は、まだ自分の役を手放していない。