EP 34

第4話 陰陽寮の月読み

第四節 ― 役喰いの条件

Source: 04_04.txt

 星見楼の長机に、四つの記録が並べられた。

 ひとつは、神楽師ユラ=シラビョウの白化舞面についての聞き取り。

 満月の夜。
 ウズメの舞殿近く。
 奉納舞の稽古中。
 舞の技術は残っていたが、「神を迎える沈黙」だけが抜け落ちた。

 ふたつめは、白影宮の香役カンナ=ツキシロの異常記録。

 名も家も覚えている。
 香木の種類も、香を扱う手順も覚えている。
 けれど、なぜその香をその夜、その廊に焚くのかがわからなくなった。

 三つめは、ハルマサ=アカツキの暁刃戦面《アカツキノハ》。

 剣術は残っていた。
 木刀も振れる。
 間合いも読める。
 しかし、真剣を抜く直前だけ、指が止まる。

 そして四つめ。

 セイラン=ナナツジの星読式面《ナナツジノホシ》。

 星を読む術は残っている。
 方位も、暦も、記録も扱える。
 だが、式神に命じる前に、星と式の声を読む入口が白く塞がれている。

 セイランは、机の中央に大きな紙を広げた。

 細く整った筆跡で、事例ごとの項目を書き出していく。

 月齢。
 時刻。
 場所。
 媒介。
 失われた役。
 周囲への影響。
 仮面籍の状態。
 白化の部位。

 イロハは、その字を横から見ていた。

 美しい字だった。

 けれど、紙の上に並べられた言葉は、どれも痛々しかった。

 ユラは、舞台に立つ入口を喰われた。
 カンナは、宮の夜を整える入口を喰われた。
 ハルマサは、刀を抜く入口を喰われた。
 セイランは、星を読む入口を喰われかけている。

 人は、役を名乗るだけでは役へ入れない。

 舞う前の沈黙。
 香を焚く理由。
 刀を抜く覚悟。
 星へ聞く間。

 その小さな境目を、月は正確に噛む。

 セイランは筆を止め、紙の端に大きく見出しを書いた。

 ――共通条件。

 それから、ひとつずつ書き出していく。

「一、月光に触れている」

 筆先が紙を滑る。

「二、水、刃、面の内側、方位盤など、反射する媒介がある」

 イロハは、アカツキ家の鉄鉢を思い出した。

 水面に浮かぶ、空にない満月。
 鞘口に映った、抜刀の入口を塞ぐ月。

 白影宮では、空の面箱の中に月がいた。

 陰陽寮では、式面の内側に月が棲んでいる。

 セイランは続けた。

「三、役へ入る瞬間に異常が起きる」

 ユラが舞い出す瞬間。
 カンナが香炉の前に立つ瞬間。
 ハルマサが刀を抜く瞬間。
 セイランが式神に命じる瞬間。

 どれも、ただの行為ではない。

 その人がその役になるための、境目だった。

「四、失われるのは技術ではなく、役の入口」

 その言葉を書いた時、セイランは一瞬だけ筆を止めた。

 自分自身のことも書いているのだと、気づいたのだろう。

 ヒヨリは机の端で、静かに尾を揺らしていた。

「五、周囲の記憶にも影響する」

 アヤメが低く言った。

「ユラ殿の時ですね」

「はい」

 イロハは頷いた。

「あの子は神楽師だったか、と周りが思い出せなくなっていました」

「白影宮でも似たことがありました」

 アヤメは続ける。

「カンナが香役であることを、女房たちが曖昧にしか思い出せなくなった。サヨ様だけが覚えておられた」

 セイランは記録へ書き足した。

 周囲記憶の希薄化。
 役の社会的認識にも干渉。

 その字を見て、イロハの胸が重くなる。

 月が喰うのは、本人の中だけではない。

 周囲からも、その人の役が薄れていく。

 本人がどれほど覚えていたくても、周囲が忘れれば、その役は世界から削られていく。

 そして、最後の項目。

 セイランは筆先を少し浮かせた。

 書くのをためらったようにも見えた。

 だが、彼は書いた。

「六、仮面籍に未確定、矛盾、不安定がある場合、発症しやすい」

 イロハは黙った。

 その一文が、紙の上でやけに黒く見えた。

 未確定。

 矛盾。

 不安定。

 それは、サヨのことだった。

 皇女でありながら、面がない。
 白影宮にいながら、どの方位にも属していない。
 皆が忘れた役を覚えているのに、自分自身の役だけは言えない。

 そして。

 イロハの手が、無意識に自分の腰へ触れた。

 そこには、《ナギノオモテ》の鍵がある。

 師匠が開けるなと言った面。

 自分に与えられた、生面でありながら生面ではないもの。
 役を持たない子どもに、役を与えるために作られた面。
 皇女の未在面に似ていると言われた面。

 未確定。

 矛盾。

 不安定。

 そのどれにも、触れている。

 イロハは、息を浅くした。

 アヤメが、そのわずかな変化に気づいた。

「イロハ殿?」

「……いえ」

 ごまかそうとした声は、自分でも弱かった。

 アヤメの目が、紙の六番目へ落ちる。

 そして、すぐに理解したようだった。

「サヨ様も、条件に入るのですか」

 その問いは、セイランへ向けられていた。

 星見楼の空気が止まる。

 ヒヨリの尾も止まった。

 セイランは、すぐには答えなかった。

 答えたくなかったのではない。

 どう言えば、白影宮の近習を怒らせずに済むかを考えている顔だった。

 だが、アヤメは待たなかった。

「答えてください」

 セイランは、静かに息を吸った。

「理論上は……最も危険です」

 アヤメの表情が硬くなる。

 イロハも、胸の奥が冷えた。

「最も?」

「はい」

 セイランは紙の六番目を指した。

「仮面籍に未確定がある者は、役へ入る入口が定まりにくい。矛盾がある者は、面と役の経路に歪みが生じやすい。不安定な者は、媒介に映った満月の影響を受けやすい」

「サヨ様は皇女です」

 アヤメの声は低かった。

「存在しない者のように扱わないでください」

「存在しないとは言っていません」

 セイランはすぐに返した。

 だが、その声には慎重さがあった。

「むしろ、存在が強すぎるのかもしれません」

「どういう意味です」

「役が割り当てられていないのに、周囲の失われた役を覚えている。通常ならありえません」

 セイランは、言葉を選びながら続けた。

「面がない者は、役の経路を持たない。だから本来、他者の役喰いを正確に記憶することも難しいはずです。けれどサヨ様は、それができる」

 イロハは、白影宮の月見池のそばで聞いたサヨの言葉を思い出した。

 わたしは、役を持たないのに、失われた役だけは覚えているのです。

 それは、悲しい告白だった。

 けれど今、セイランの言葉を聞くと、別の意味を持ち始める。

 サヨはただの被害者ではない。

 役を喰われた者を覚えていられる、特異な存在。

 だからこそ、月にとって危険なのか。
 それとも、月が最も狙いやすい存在なのか。

 イロハにはまだわからなかった。

「セイラン殿」

 アヤメが言った。

「陰陽寮では、サヨ様をどう判定しますか」

 セイランは、明らかに答えに詰まった。

 その沈黙が、答えに近かった。

 アヤメの目が細くなる。

「危険な空白、とでも?」

「……陰陽寮の正式判定ではありません」

「では、あなた個人の見立ては」

 セイランは、机の上の記録紙を見た。

 そこには、条件が六つ並んでいる。

 どれも、サヨに触れている。

 彼は低く言った。

「未定義の中心です」

 その言葉に、イロハの指が小さく震えた。

 未定義の中心。

 それは冷たい言い方だった。

 だが、間違いではないのかもしれない。

 サヨは、面を持たない。
 役を持たない。
 けれど、失われた役を覚えている。
 空の面箱に、暦にない満月を宿す。

 月喰いの条件が集まる場所。

 それが、白影宮の皇女。

 アヤメはしばらく黙っていた。

 怒りを飲み込んでいるのがわかった。

 やがて、彼女は静かに言った。

「その言葉を、仮面籍庁の前で軽々しく口にしないでください」

 セイランは顔を上げる。

「なぜです」

「彼らは、未定義を保護しません」

 アヤメの声が、少しだけ冷たくなった。

「定めるか、封じます」

 その言葉で、星見楼の中がさらに静まった。

 仮面籍庁。

 第1話で白化した神楽面を、不正修復や工房の事故として処理しようとした役所。
 ハルマサの戦面も、不安定役面として届け出れば、預かりや封役の対象になる可能性がある。

 もし、サヨが「未定義の中心」と記録されたら。

 仮面籍庁は、どう動くか。

 イロハは、それを考えたくなかった。

 だが、考えないわけにはいかなかった。

 セイランは、筆を握ったまま黙っている。

 理論上は書くべきだ。
 記録者としては、危険性を記すべきだ。
 けれど、書けばそれが制度の刃になる。

 彼は初めて、記録が人を守るだけではないことに直面しているようだった。

 イロハは、そっと言った。

「サヨ様は、危険な空白じゃありません」

 アヤメがイロハを見る。

 セイランも視線を上げた。

「まだ面がないだけです」

 イロハは続けた。

「失われた面じゃない。壊れた面でもない。まだ、この国に作られていない面なんです」

 その言葉に、星見楼の式札がかすかに揺れた。

 セイランは、紙の上に書かれた六番目を見つめる。

「未定義と、未作成は違う……」

「違います」

 イロハははっきり言った。

「陰陽寮の言葉では、どう違うのかわかりません。でも、面師としては違います」

「どう違うのですか」

「未定義は、まだ帳面にないものです。でも未作成は、これから彫れるものです」

 セイランは黙った。

 ヒヨリが、机の上で小さく尾を振った。

 アヤメの表情が、ほんの少しだけ和らぐ。

 サヨの面は、まだない。

 だが、ないことは、終わりではない。

 イロハはそう信じたかった。

 信じなければ、あの白影宮の空の面箱も、自分の《ナギノオモテ》も、すべて月に差し出されてしまうような気がした。

 セイランは、筆を動かした。

 六番目の横に、小さく追記する。

 未定義と未作成は区別を要す。
 面師イロハ=ナギの見立て。
 未作成の役は、封じる対象ではなく、成立過程にある可能性。

 イロハは、その字を見て少し驚いた。

「書くんですね」

「記録ですから」

 セイランは言った。

「私が納得していないことも、仮説として記録します」

「納得していないんですか」

「完全には」

「正直ですね」

「記録ですから」

 同じ言葉を繰り返しただけなのに、先ほどより少し違って聞こえた。

 記録は、封じるためだけにあるのではない。

 少なくともセイランは今、そう使おうとしている。

 アヤメは、深く息を吐いた。

「では、次はサヨ様に関わるものを読んでください」

 セイランの顔が引き締まる。

「白影宮から、何かお持ちですか」

「はい」

 アヤメは懐から、白く折り畳まれた絹を取り出した。

 それは、空の面箱に敷かれていた白絹だった。

 サヨの面が置かれるはずだった箱。

 けれど、面はない。

 その空白を長く受け止めてきた絹。

 星見楼の光の下で、その白絹は月を含んでいるように見えた。

 セイランは、それを見て表情を固くした。

「これを方位盤に?」

「お願いします」

 アヤメの声には、決意があった。

 イロハは白絹を見つめた。

 次に読まれるのは、サヨの空白だ。

 そしておそらく。

 その空白は、この六つの条件のすべてに触れている。