EP 35

第4話 陰陽寮の月読み

第五節 ― 読めない皇女

Source: 04_05.txt

 アヤメ=シラハが取り出した白絹は、小さく折り畳まれていた。

 白影宮の香が、かすかに残っている。

 沈香。
 白檀。
 月除けの薄い香草。
 そして、どこか空の箱の内側に似た匂い。

 イロハは、それを見た瞬間、白影宮の奥に置かれていた黒漆の面箱を思い出した。

 棚はある。
 面紐もある。
 香も焚かれている。
 箱もある。

 けれど、皇女の面だけがない。

 その空の面箱の底に敷かれていた白絹。

 面を眠らせるための布。
 まだ来ない面を、ずっと待ち続けていた布。

 セイラン=ナナツジは、白絹を受け取る前に、手を止めた。

「確認します。これは、サヨ=ミカゲ様の面箱に敷かれていたものですね」

「はい」

 アヤメが答える。

「いつから」

「わたしが白影宮に入った時には、すでに」

「交換は」

「定期的にされています。ただし、これは昨夜、月が浮かんだ面箱に敷かれていたものです」

 セイランの表情がさらに硬くなった。

「月が浮かんだ箱の内敷きですか」

「ええ」

「危険物として封じるべきものです」

「だから持ってきました」

 アヤメの声は静かだった。

 だが、言葉の奥に棘があった。

「封じるためではなく、読むために」

 セイランは、少しだけ目を伏せた。

 先ほどのヒヨリの拒絶が、まだ彼の中に残っているのだろう。命じる前に読む。封じる前に読む。その言葉を、彼はもう無視できない。

「承知しました」

 セイランは白符を広げ、その上に白絹を置いた。

 ヒヨリが机の端から身を乗り出す。

 小さな紙狐の耳が、ぴんと立った。

 星見楼の中央にある方位盤が、低く鳴る。

 かちり。

 かちり。

 歯車が動き、外周の十二方位がゆっくり回り始めた。

 セイランは小瓶から星砂を取り出した。

 砂といっても、ただの砂ではない。淡く青白く光る細かな粒で、掌に載せると、空の星を砕いたように瞬いている。

「本来なら」

 セイランは説明しながら、星砂を方位盤の中央へ落とした。

「皇族に属する品は、天帝宮方位へ落ちます。白影宮に属する品であれば、白影宮方位へ偏る。個人に強く結びついた品なら、その者の仮面籍に対応する方位へ流れる」

 星砂は、方位盤の中央に落ちた。

 そこで一度、小さく光る。

 イロハは息を止めた。

 砂粒は、どこかへ流れるはずだった。

 天帝宮方位。
 白影宮方位。
 皇族の方位。
 少なくとも、どこかへ。

 けれど、星粒は落ちなかった。

 方位盤の上で、小さな円を描き始める。

 中央から外へ行かない。
 外から内へ沈まない。
 北にも、南にも、東にも、西にも落ちない。

 ただ、ぐるぐると回っている。

 白絹の周囲を囲むように。
 まるで、そこに見えない面の輪郭があるかのように。

 セイランの顔色が変わった。

「方位がありません」

 アヤメの目が鋭くなる。

「白影宮のものです」

「場所の話ではありません」

「では、何ですか」

 セイランは、回り続ける星粒を見つめた。

 声を出すまでに、わずかな間があった。

「この絹に触れた方の役が、どの方位にも属していない」

 星見楼の空気が、冷えた。

 アヤメの手が、腰の刀に触れたわけではない。

 だが、彼女の立ち姿そのものが刃のようになった。

「皇女様を、存在しない者のように言うな」

 低い声だった。

 怒鳴ってはいない。

 だからこそ、怒りが深い。

 セイランは、すぐに首を振った。

「違います。存在しないのではなく、割り当てられていない」

「同じことです」

「陰陽寮では、違います」

 アヤメの目がさらに冷たくなる。

「白影宮では、同じです」

 その一言に、セイランは答えられなかった。

 イロハは、ふたりの間にある緊張を感じながら、方位盤の星粒を見つめた。

 星粒は、まだ回り続けている。

 落ちない。

 留まらない。

 決まらない。

 それは、サヨそのもののようだった。

 皇女である。
 白影宮にいる。
 女房たちは彼女に仕え、アヤメは彼女を守っている。

 なのに、彼女の面はない。

 この国では、面こそが顔である。
 面こそが役である。
 面こそが、その人がどこに立つのかを示す。

 ならば、面のない皇女は、どこへ立てばいいのか。

 イロハは、空の面箱を思い出す。

 月が棲んでいた箱。

 けれど、あれは失われた面を納める箱ではなかった。

 面を待っている箱だった。

「方位がないんじゃありません」

 イロハは、気づけば口を開いていた。

 セイランとアヤメが、同時にこちらを見る。

 イロハは方位盤へ近づいた。

 星粒は、白絹のまわりを回り続けている。

 その動きは、ただ迷っているようにも見える。
 だが、面師の目で見れば、違う。

 これは探している。

 まだない輪郭をなぞっている。

「この星粒、落ちる場所がないんじゃなくて、落ちる場所がまだ作られていないんです」

 セイランが眉を寄せる。

「それを、陰陽寮では未割当と呼びます」

「面師小路では、違います」

 イロハは言い返した。

「これは、失くした場所を探している動きじゃありません」

 彼女は、白絹の周囲を回る星粒を指した。

「新しく彫る場所を探している動きです」

 アヤメの表情が、わずかに揺れた。

「イロハ殿」

「はい」

「それは、サヨ様の面が……」

「やっぱり、なくなった面じゃありません」

 イロハは、はっきり言った。

「サヨ様の面は、失われた面じゃない。どこかに隠されている面でもない。まだ、この国に作られていない面です」

 星粒の円が、少しだけ広がった。

 白絹の上に、薄い輪郭が浮かぶ。

 目に見えるほどではない。
 けれど、イロハにはわかった。

 面の輪郭だ。

 まだ彫られていない。
 まだ役として成立していない。
 けれど、何もないわけではない。

 そこには、待っている形がある。

 セイランは、方位盤へ身を寄せた。

「……星粒の運動が変わった」

 彼はすぐに筆を取る。

「未割当ではなく、未形成方位の探索反応……いや、仮説。面師イロハ=ナギの見立てにより、白絹周囲に未成面輪郭反応を確認」

「また難しくなりましたね」

「正確にしています」

「でも、その言い方だとサヨ様が物みたいです」

 セイランの筆が止まった。

 アヤメが、少し驚いたようにイロハを見る。

 イロハは続けた。

「面は物です。でも、役は物じゃありません。サヨ様が何者として立つのかは、星粒だけで決めるものじゃないと思います」

 セイランは沈黙した。

 それから、書いたばかりの一文を見下ろす。

 少し迷ったあと、彼はその横に追記した。

 ただし、対象者本人の選択未確認。
 未成の役は、外部観測のみで定義不可。

 イロハは、その文字を見て小さく息を吐いた。

 アヤメもまた、表情を少しだけ緩めた。

「ありがとうございます」

 セイランは顔を上げた。

「礼を言われることではありません。記録上、必要な注記です」

「それでもです」

 アヤメは静かに言った。

「その注記がなければ、サヨ様はまた、誰かに勝手に定められるところでした」

 セイランは、答えられなかった。

 ヒヨリが机から降り、方位盤のそばへ歩いていく。

 紙狐は、回る星粒を鼻先で追った。

 そして、白絹の前で止まる。

 尾で床に小さく文字を書く。

 まだない。

 それから、少し離れた場所にもう一つ書いた。

 けれど、ある。

 イロハはその文字を見て、胸の奥が熱くなった。

 まだない。

 けれど、ある。

 サヨの面そのものだった。

 存在しないのではない。
 割り当てられていないだけでもない。
 まだ作られていない。

 けれど、作られるべき輪郭はある。

 白影宮の空の面箱は、空っぽではなかった。

 あれは、待っていたのだ。

 サヨ自身が何者として立つのか。
 その役が、この国に初めて彫られる日を。

 その時、白絹の端がかすかに揺れた。

 風はない。

 方位盤の歯車も止まっている。

 それなのに、白絹の内側から、淡い白が滲んだ。

 イロハは息を詰めた。

 月痕か。

 そう思った瞬間、白絹の中央に小さな丸い光が浮かんだ。

 満月ではない。

 まだ、丸くなりきっていない。

 輪郭だけの月。

 けれど、それはすぐに膨らみ始めた。

 アヤメが一歩前へ出る。

「サヨ様の白絹から離れてください」

 セイランは符を取る。

 ヒヨリが低く身を伏せる。

 イロハは、白絹を見たまま動けなかった。

 月が来ている。

 だが、これまでの白い月痕とは少し違う。

 これは噛みつく月ではない。

 何かを映そうとしている。

 白絹の上の光が、淡く揺れる。

 そこに、一瞬だけ人影が映った。

 御簾の奥に座る少女。

 サヨ=ミカゲ。

 彼女は、こちらを見ていない。

 空の面箱を見つめている。

 その口元が、わずかに動いた。

 声は聞こえない。

 けれど、イロハにはなぜか、その言葉がわかった。

 わたしは、どこへ立てばよいのでしょう。

 胸が締めつけられた。

「サヨ様」

 アヤメが呟く。

 彼女にも見えたのだろう。

 次の瞬間、星粒が一斉に跳ねた。

 白絹の上の月が、急に強く光る。

 満月になろうとしている。

 セイランが叫んだ。

「白月反応、上昇!」

 ヒヨリが方位盤の上へ飛び乗る。

 イロハは、とっさに白絹へ手を伸ばした。

 アヤメが止めようとする。

 だが、その前に。

 イロハの指先が、白絹の端に触れた。

 冷たかった。

 月の冷たさではない。

 空白の冷たさだった。

 誰にも置かれなかった役。
 誰にも呼ばれなかった面。
 そこに長く敷かれていた布の冷たさ。

 イロハは、歯を食いしばる。

「まだです」

 誰に向けた言葉か、自分でもわからなかった。

 サヨへか。
 月へか。
 白絹へか。
 それとも、自分自身へか。

「まだ、決めないでください」

 白い光が揺れる。

「サヨ様の役は、まだ誰にも決めさせません」

 その瞬間、星粒の円がほどけた。

 満月になりかけていた光が、すっと薄くなる。

 白絹の上には、何も残らない。

 ただ、かすかな面の輪郭だけが、光の痕として揺れていた。

 セイランは息を呑んだまま、筆を取り落としていた。

 アヤメはイロハの肩を掴む。

「無茶をしないでください」

「すみません」

「謝るなら、する前にしてください」

「それは難しいです」

「でしょうね」

 短いやり取りのあと、アヤメは白絹を見つめた。

 その目には怒りではなく、深い痛みがあった。

「サヨ様は……今も、白影宮であの箱を見ておられるのでしょうか」

 イロハは答えられなかった。

 けれど、そうなのだと思った。

 サヨは今も、自分の面がない箱を見ている。

 自分がどこへ立てばよいのか、誰にも聞けずに。

 セイランは、落とした筆を拾った。

 手が震えている。

 だが、記録をやめなかった。

 彼はゆっくりと書いた。

 白影宮白絹、方位未落下。
 星粒は対象周囲を循環。
 未成面輪郭反応あり。
 白月反応上昇時、対象者サヨ=ミカゲ様らしき幻影を確認。
 面師イロハ=ナギの接触により、満月化は一時停止。

 そこまで書いてから、彼は最後に小さく追記した。

 未定義ではなく、未作成の可能性高し。

 イロハは、その一文を見た。

 胸の中に、確かなものが落ちた。

 サヨの面は、失われたのではない。

 まだ作られていない。

 ならば、直すのでは足りない。

 探すのでも足りない。

 作らなければならない。

 ただし、イロハが勝手に作って与えるのではない。

 サヨ自身が、どこへ立つのかを選ぶ必要がある。

 星見楼の高窓の向こうで、空の半月が薄く光っていた。

 方位盤の上には、満月の痕が消えている。

 けれど、イロハにはわかった。

 月はまだ近くにいる。

 サヨの空白が、月を映してしまう限り。