水盆の満月が、白く膨らんだ。
空の半月は、庭の上で変わらず欠けている。
けれど鏡水の中だけは、夜が別の暦を持っていた。
白い円の奥に、影が浮かぶ。
はじめは、月の染みかと思った。
次に、面だと思った。
けれど、それはただの面ではなかった。
白漆の半面。
顔の片側だけを覆うような、なめらかな白。
鼻筋は細く、頬の線は人に似ている。
けれど、その輪郭の端に、どこか獣の気配があった。
目穴はない。
それなのに、見ている。
水面の向こう側から、こちらを覗いている。
イロハは動けなかった。
白い半面の表に、自分の顔が薄く映っていた。
面師小路の裏工房で木粉にまみれていた自分。
白影宮の空の面箱を覗き込んだ自分。
《ナギノオモテ》の鍵を握ったまま、開けることを恐れている自分。
その全部が、白漆の面の上に重なっているように見えた。
アヤメが刀に手をかける。
刃はまだ抜かれていない。
しかし、いつでも動ける距離だった。
セイランは式札を構えた。
青符ではない。
白い符だ。
封じるためではなく、観測を切り離すための札なのだろう。
だが、その指先はわずかに震えている。
ヒヨリは、セイランの袖の中へ半分隠れた。紙の尾だけが外に出て、細かく震えている。
白い半面の客は、水面の中で傾いた。
こちらへ近づいているのか、ただ月の揺れに合わせているのかはわからない。
声がした。
「月が喰っているのではありません」
誰の声ともつかなかった。
男とも、女とも、老人とも、子どもともつかない。
遠い水面を通った声。
鏡の裏側で、紙に墨が染みるような声。
「あなたがたが、喰われた役を月に映しているのです」
イロハは息を呑んだ。
月が喰っているのではない。
その言葉が、胸の奥へ冷たく沈む。
では、月は何なのか。
噛み跡は確かにあった。
ユラの舞面にも、ハルマサの戦面にも、《ナナツジノホシ》にも。
白い歯のような光が、役の入口へ食い込んでいた。
それでも、この白い客は言う。
月そのものが喰っているのではない、と。
「あなたは誰ですか」
イロハは問いかけた。
声は少し掠れていた。
白い半面は答えなかった。
かわりに、その面の表に、別の影が映った。
朱塗りの舞台。
鈴の音が止まる。
袖が空中で途切れる。
神楽師ユラ=シラビョウが、舞い出す一歩手前で立ち尽くしている。
舞を忘れたのではない。
神を迎える沈黙を失った少女。
次に映ったのは、白影宮の廊だった。
香炉の前で、カンナ=ツキシロが手を止めている。
香木の名は知っている。手順も覚えている。けれど、なぜ今夜その香を焚くのかがわからない。
宮の夜を閉じる役を、月に映されてしまった女房。
白面の表が揺れる。
今度は、アカツキ家の中庭だった。
ハルマサ=アカツキが刀へ手をかけている。
柄に触れ、鯉口を切り、けれど抜けない。
その背後には、怯えた小姓や女中たちがいる。
ここから先へ、月を通さない。
彼がそう言う直前の姿だった。
アヤメの手が、刀の柄を握りしめる。
彼女にも見えているのだろう。
それらは過去の影ではなかった。
ただ思い出が映っているのでもない。
喰われた瞬間。
役が白く切り取られた、その境目が映っていた。
そして最後に、白面の上へ、静かな影が浮かぶ。
白影宮。
黒漆の空の面箱。
その前に座る少女。
サヨ=ミカゲ。
面のない皇女。
彼女は誰かに助けを求めているわけではない。
泣いてもいない。
叫んでもいない。
ただ、空の面箱を見つめている。
面を待つ箱。
まだない役を眠らせる器。
そこに浮かぶ月を、サヨだけが静かに見ている。
白面の客が、もう一度言った。
「映るものは、喰われたものとは限りません」
イロハの胸が鳴った。
白漆の面に、サヨの影が揺れる。
「隠されたものも、月は映します」
その瞬間、水面が割れた。
実際に水が裂けたわけではない。
けれど、鏡水の満月が硝子のようにひび割れ、白い線が走った。
アヤメが一歩踏み込む。
セイランが式札を投げる。
ヒヨリが袖の中で小さく鳴く。
だが、すべて遅かった。
白い半面は、割れた満月の奥へすっと退いていく。
最後に、面の表に映っていたイロハの顔だけが残った。
その顔は、イロハ自身よりも少しだけ白く、少しだけ知らない表情をしていた。
まるで、《ナギノオモテ》をつけた未来の自分を、先に見せられたように。
水面が大きく揺れた。
満月は崩れ、白い光は砕け、ただの波紋になる。
空にある半月だけが、ゆがんで水盆に戻った。
庭のほかの水盆も、ひとつ、またひとつと静まっていく。
青い石灯籠の火が、かすかに揺れた。
誰もすぐには言葉を発しなかった。
アヤメは刀から手を離さない。
セイランは投げた式札の先を見つめている。
ヒヨリは、ようやく袖口から顔を出した。
イロハは、水盆の縁に手をついた。
冷たい。
けれど、さっきまでの噛みつくような冷たさではない。
ただ水の冷たさだった。
「今のものは」
アヤメが低く言った。
「月ではありませんね」
イロハは頷いた。
「たぶん」
セイランは、水盆の底を見つめたまま呟いた。
「観測異常……いや、反射存在。鏡水に現れた白面状の影。発言内容、月喰い現象の原因仮説を否定」
彼はそこまで言って、筆を持っていないことに気づいた。
記録紙は星見楼に置いたままだ。
だが、今の言葉は記録ではなく、自分を落ち着かせるための確認にも聞こえた。
イロハは、水面を見た。
もう白面はいない。
けれど、言葉だけが残っている。
月が喰っているのではない。
あなたがたが、喰われた役を月に映している。
映るものは、喰われたものとは限らない。
隠されたものも、月は映す。
「隠されたもの……」
イロハは呟いた。
サヨの面は、失われたのではない。
まだ作られていない。
そう思っていた。
けれど、もしそれだけではないのだとしたら。
まだない役。
隠された役。
喰われたことにされた役。
その区別は、どこにあるのだろう。
アヤメがイロハを見た。
「サヨ様の面について、何か知っているものなのでしょうか」
「わかりません」
イロハは正直に答えた。
「でも、サヨ様を映しました」
「ユラ殿、カンナ、ハルマサ殿と同じように」
「はい。でも……」
「でも?」
イロハは言葉を探した。
白面に映った三人は、喰われた瞬間の姿だった。
舞が止まったユラ。
香炉の前に立ち尽くすカンナ。
刀を抜けなかったハルマサ。
だがサヨだけは違った。
サヨは何かを喰われている瞬間ではなかった。
空の面箱の前に、ただ座っていた。
まるで、喰われた後ではなく、喰われる前でもなく。
ずっと隠されているものの前で、待っているように。
「サヨ様だけ、映り方が違いました」
イロハは言った。
アヤメの表情が固くなる。
セイランも顔を上げた。
「どう違いましたか」
「ユラさんたちは、役を喰われた場面でした。でもサヨ様は……」
イロハは水盆の底を見た。
「何かを待っている場面でした」
星見楼のほうから、吊るされた式札の音がかすかに聞こえた。
さらさら。
風はない。
けれど、どこかで紙が揺れている。
セイランは、低く言った。
「隠されたものも、月は映す」
アヤメが続ける。
「ならば、サヨ様の面は、まだないだけではなく」
言葉が途中で止まる。
それ以上を、今ここで口にするのが怖いようだった。
イロハは、自分の腰の鍵に触れた。
《ナギノオモテ》。
師匠が、自分に与えた面。
サヨのものに似ていると言われた面。
無面原の木から作られた、役のない者に役を与えるための面。
もし月が隠されたものも映すのなら。
いつか、月はこの面の内側も映すのだろうか。
イロハがまだ知らないものを。
師匠が隠したものを。
自分の役が本当は何なのかを。
水盆の中で、半月が細く揺れた。
セイランはようやく息を整え、白絹へ近づいた。
「白絹に損傷はありません」
アヤメがすぐに確認する。
白絹は濡れてもいない。
月痕も増えてはいない。
《ナナツジノホシ》も、外見上は変わっていなかった。けれど、内側の星点がどうなっているかは、星見楼へ戻って確認しなければならない。
ヒヨリが、水盆の縁に近づいた。
尾で、濡れた石の上に小さく文字を書く。
客。
それだけだった。
「客?」
イロハが読むと、ヒヨリは頷いた。
アヤメが眉を寄せる。
「敵ではなく?」
ヒヨリは首を傾げた。
セイランが言う。
「ヒヨリの反応では、敵性封じの対象ではなかった、ということかもしれません」
「では、味方ですか」
「それも不明です」
セイランは水盆を見た。
「ただ、こちらを観測していました」
観測。
その言葉が、妙に重く響いた。
イロハは白面の客を思い出す。
目穴のない半面。
けれど、見ていた。
白漆の上に、自分たちの顔と役を映していた。
それは、喰うものではなかった。
救うものでもなかった。
ただ、映していた。
アヤメが静かに言った。
「鏡ノ客」
セイランが彼女を見る。
「何かご存じですか」
「東方の古い噂です」
アヤメは、水盆から目を離さずに言った。
「面を覗きすぎると、向こう側から覗き返す客が来る。鏡にも、水にも、面の裏にも現れる。名を名乗らず、助けもせず、ただ見返す」
「迷信ですか」
「白影宮では、迷信で済ませないものもあります」
イロハは、水盆の静かな半月を見つめた。
鏡ノ客。
名前を知らない白い半面。
けれど、その言葉は妙にしっくり来た。
こちらが月を見ているつもりで、向こうから見られている。
こちらが面を診ているつもりで、面の奥から診られている。
その気配。
セイランは、水盆の前で深く息を吐いた。
「戻りましょう」
彼は言った。
「今の現象を整理します。月が原因ではなく、媒介である可能性。鏡水に現れた観測者。反転文字。サヨ様の白絹と未成面反応」
それから、少しだけ言葉を切った。
「それと、隠された役」
イロハは頷いた。
鏡水の庭を離れる時、もう一度だけ水盆を振り返った。
そこには、ただ半月が映っている。
正しい月。
暦通りの月。
けれど、イロハにはもう、それが安全なものには見えなかった。
月は空にあるだけではない。
水に映り、面の裏に棲み、記録を反転させる。
そして時に、こちらが隠したものまで映してしまう。
白い半面の客は消えた。
けれど、その言葉は星見楼へ戻る三人の背中に、薄く貼りついて離れなかった。