EP 38

第4話 陰陽寮の月読み

第八節 ― 月は装置か

Source: 04_08.txt

 星見楼へ戻る道のりは、行きよりも長く感じられた。

 鏡水の庭を離れても、背中にまだ水の気配が貼りついている。

 水盆の中に浮かんだ、暦にない満月。
 その奥から現れた白い半面。
 目穴もないのに、こちらを見ていた客。

 鏡ノ客。

 アヤメがそう呼んだ存在は、斬りかかってくるわけでも、助けの手を差し伸べるわけでもなかった。

 ただ映した。

 ユラの止まった舞。
 カンナの香炉の前の沈黙。
 ハルマサの抜けない刀。
 そして、空の面箱を見つめるサヨ。

 星見楼に戻ると、吊るされた式札がまだ微かに揺れていた。

 さらさら。

 さらさら。

 誰かが紙の裏側から指で撫でているような音だった。

 セイラン=ナナツジは、長机の前に立つと、まず深く息を吐いた。

 彼の顔色は悪い。

 けれど、目は逃げていなかった。

 彼は、反転した記録紙を机の中央に置いた。鏡水の庭で書いたはずの文字は、まだ左右逆のままだった。

 半月の夜、鏡水に満月反応――

 その文は、こちら側からは読みにくい。

 けれど、鏡を通せば読める。

 誰かが反対側から読むために、そう書かれたように。

 セイランは、しばらくその文字を見つめていた。

 それから、新しい記録紙を取り出す。

 今度はすぐには筆を下ろさなかった。

 ヒヨリが机の端に座り、セイランを見上げる。

 命じる者ではない。
 読む者。

 その言葉を、セイラン自身も忘れていないのだろう。

 彼は筆を握ったまま、まず口に出した。

「月は原因ではなく、媒介かもしれません」

 イロハは顔を上げた。

「媒介?」

「はい」

 セイランは、机上に並んだ記録を指で示す。

 ユラの舞面。
 カンナの香役。
 ハルマサの戦面。
 自分の星読式面。
 サヨの白絹。
 鏡水の反応。

「これまで私たちは、月が役を喰っていると考えていました。少なくとも、そう見える現象が起きていた。月光に触れ、鏡水や刃や面の内側に満月が現れ、役の入口が白化する」

 彼は、少しだけ言葉を切った。

「しかし、鏡ノ客は言いました。月が喰っているのではない、と」

 アヤメの目が細くなる。

「あれを信じるのですか」

「信じるとは言っていません」

 セイランはすぐに答えた。

「ただ、仮説として採用する価値はあります」

「仮説」

「はい。月が原因ではなく、結果を映す媒介である可能性です」

 イロハは、机の上の白絹を見た。

 月が喰うのではない。

 喰われた役が、月に映っている。

 だが、そうなると疑問が残る。

「じゃあ、役を喰っているのは何なんですか」

 その問いに、セイランはすぐには答えなかった。

 答えを持っていない顔だった。

「まだ不明です」

 彼は正直に言った。

「ですが、少なくとも二つの可能性があります」

 筆先が紙へ落ちる。

 一、役を奪う別の仕組みがあり、月はその結果を映している。
 二、王朝儀礼のどこかに、役を月へ移す古い式が残っている。

 イロハは、その二行を見つめた。

「役を月へ移す……?」

「はい」

 セイランは、方位盤の中心を指した。

「仮面籍は、人の役を登録し、社会へ接続する制度です。皇族面は、王朝の中心に立つ者の役を示す。天帝宮は、その役の上位儀礼を管理する。白影宮は、皇女の居所でありながら、サヨ様の面を持たない」

 アヤメの表情が硬くなる。

 だが、セイランは続けた。

「これらが偶然とは思えません」

「王朝儀礼……」

 イロハは低く繰り返した。

「仮面籍、皇族面、天帝宮、白影宮。どこかに、月を使って役を処理する古い式が残っている可能性があります」

「処理?」

 アヤメの声が冷えた。

「人の役を、物のように言わないでください」

 セイランは目を伏せた。

「陰陽寮の術語です。不快にさせたなら訂正します」

「術語であれば許されるわけではありません」

「……承知しました」

 セイランは、記録紙に小さく追記した。

 役の処理、という表現は対象者の人格を損なう恐れあり。
 以後、「役の移送」「役の封置」「役の反映」と区分する。

 イロハは、その追記を見ていた。

 セイランは、やはり制度の人間だ。

 けれど、制度の言葉を絶対だとは思っていない。

 少なくとも今は、言葉が人を傷つけることを記録に入れようとしている。

 アヤメも、それを見て何も言わなかった。

 星見楼の中央で、方位盤の歯車がゆっくり回る。

 かちり。

 かちり。

 その音が、まるで王朝そのものの歯車のように聞こえた。

 これまでの事件は、どれも個人の悲劇だった。

 ユラは舞えなくなった。
 カンナは香を焚けなくなった。
 ハルマサは刀を抜けなくなった。
 セイランは式神に命じる前に読むことを忘れかけた。

 けれど、それだけではない。

 面。
 役。
 仮面籍。
 方位。
 暦。
 皇女の未在面。

 すべてが、同じ網の目の上に乗っている。

 もしその網そのものに、月を使って役を映す仕組みがあるのなら。

 名を喰う月は、怪異ではない。

 この国の制度の奥に埋め込まれた、古い装置かもしれない。

 イロハは、胸が重くなるのを感じた。

「じゃあ、面を直すだけじゃ足りない」

 自然と、その言葉が口から出た。

 セイランの筆が止まる。

 アヤメが、静かに答えた。

「制度の中に原因があるなら、制度が敵になる」

 星見楼が沈黙した。

 その言葉は重かった。

 制度が敵になる。

 それは、役所の誰かが悪いというだけの話ではない。

 仮面籍。
 宮中儀礼。
 陰陽寮の暦。
 白影宮の空の面箱。
 武家の月試し。
 神楽の奉納舞。

 この国で人が役を持ち、面をつけ、どこかに立つための仕組み。

 その全部が、月喰いとつながっているかもしれない。

 セイランは、黙っていた。

 彼は制度側の人間だ。

 陰陽寮の官衣を着ている。
 暦を読み、方位を定め、儀式の時刻を記録する。
 その手は、王朝の仕組みを支えるために動いてきた。

 その彼の前で、アヤメは「制度が敵になる」と言った。

 反発してもおかしくなかった。

 だが、セイランは反発しなかった。

 ただ、机の上の記録を見つめていた。

 イロハには、その沈黙がわかった気がした。

 彼はまだ、こちら側に来たわけではない。

 仮面籍庁や天帝宮を疑うと決めたわけでもない。
 陰陽寮の記録を捨てるつもりもない。
 王朝の制度を敵と断じる覚悟など、今の時点で持てるはずがない。

 けれど、疑いは生まれた。

 それは小さな罅だった。

 美しく整った暦の紙に、細い裂け目が入ったような。

「私は」

 セイランは、ようやく口を開いた。

「陰陽寮の人間です」

 アヤメは黙っている。

「私の役は、暦と方位を乱さぬことです。祭礼が正しく行われるように記録し、宮中儀礼に齟齬が出ないよう整えることです」

 彼は、自分に言い聞かせるように言った。

「ですから、制度そのものを敵と呼ぶことはできません」

「でしょうね」

 アヤメの声は硬い。

 けれど、責めているだけではなかった。

 セイランは続ける。

「ですが」

 筆先が、紙の上に落ちる。

「制度の中に、異常を生む古式が残っている可能性は記録します」

 イロハは顔を上げた。

「それは、大丈夫なんですか」

「大丈夫ではありません」

 セイランは即答した。

 あまりにも正直だった。

「場合によっては、私の上司に握り潰されます。仮面籍庁に渡れば、都合よく解釈される可能性もあります。天帝宮に触れる記述は、陰陽寮内でも慎重に扱われます」

「じゃあ」

「だから、書き方を考えます」

 セイランは、反転した記録紙を横に置いた。

 そして、新しい紙にこう記した。

 月喰い現象、王朝儀礼系統との関連疑い。
 ただし、月そのものを原因と断定せず。
 反射媒介を通じ、役の欠落または隠匿が可視化される現象として暫定整理。
 仮面籍未確定者、未成面所有者、役入口に揺らぎを持つ者への影響大。

 未成面所有者。

 その言葉に、イロハの指がまた鍵へ触れた。

 自分の《ナギノオモテ》も、きっとそこに含まれる。

 セイランは、それに気づいたようだった。

 だが、何も言わない。

 イロハも、聞かなかった。

 今ここで《ナギノオモテ》を開けるわけにはいかない。

 師匠の言葉が、頭の奥で響く。

 今日は開けるな。

 いや。

 あれは今日だけの話だったのか。

 それとも、月が近い場所では開けるな、という意味だったのか。

 イロハには、まだわからない。

 ヒヨリが、机の上へ飛び乗った。

 紙狐は、記録紙の端に尾で小さな丸を描いた。

 半月ではなく、満月でもない。

 丸になりかけた輪郭。

 サヨの白絹に浮かんだ、未完成の月に似ている。

「未成の月?」

 イロハが呟く。

 セイランはその図を見た。

「満ちる前の月、という意味でしょうか」

 ヒヨリは首を傾げる。

 否定ではない。
 だが、それだけではない、というように。

 アヤメが言った。

「サヨ様の面も、未成です」

「はい」

 イロハは頷く。

「でも、月は満月になろうとしていました。白絹の上で」

「未成の役を、満月として固定しようとしている?」

 セイランが呟く。

 その瞬間、彼の顔色が変わった。

 イロハも、その意味に気づいた。

 月は、役を喰うだけではない。

 未成のものを、満月として固定する。

 まだ選ばれていない役を、すでに完了した形として閉じる。

 それがもし、王朝儀礼の古い式なら。

 サヨの面は、作られる前に「ないもの」として定められてしまうかもしれない。

 未完成のものを、完成していないまま封じる。

 それは、役を喰うことと同じくらい恐ろしい。

「月は」

 イロハは、ゆっくり言った。

「満ちるものを待ってくれないんですね」

 アヤメが目を伏せる。

 セイランは、深く頷いた。

「未成のものを、満月として記録してしまう。あるいは、満月の形で封じてしまう」

 彼は筆を走らせる。

 未成役の満月化。
 成る前の役を、既成・完了・封置として扱う危険あり。

 書かれた文字が、かすかに揺れた。

 反転はしない。

 けれど、墨の縁が白くにじんだ。

 アヤメがそれに気づく。

「今の記述に、月が反応しています」

「そのようです」

 セイランは筆を止めない。

 怖くないはずがない。

 だが、彼は書ききった。

 これは仮説である。
 ただし、サヨ=ミカゲ様の未在面、および白影宮の空の面箱との関連が疑われる。

 そこまで書くと、墨の白いにじみは止まった。

 イロハは、喉の奥が乾くのを感じた。

 サヨの面を作る。

 それは、ただ一人の皇女を助けるための仕事だと思っていた。

 けれど違う。

 サヨの面は、この国で「まだない役」が本当に存在できるのかどうかを決めるものになりつつある。

 もしサヨの未在面が封じられれば、月は勝つ。

 まだ選ばれていない役を、未定義として処理する仕組みが、この国を覆ってしまう。

 その時、灰面長屋の子どもたちも。
 役を失った神楽師も。
 戦面を喰われた武士も。
 《ナギノオモテ》を持つ自分も。

 すべて、定められるか、封じられる。

 イロハは、道具袋を握った。

「私は、面師です」

 ぽつりと言った。

 アヤメとセイランが、こちらを見る。

「面を直すことはできます。少しなら、役を仮置きすることも。でも、制度の中に原因があるなら、私だけじゃ無理です」

 それは悔しかった。

 面のことなら、自分がどうにかしたかった。
 壊れた面を直し、欠けた役を繋ぎ、喰われかけた入口へ仮札を置く。

 それが自分の仕事だと思っていた。

 けれど、相手が制度なら。

 相手が王朝儀礼そのものなら。

 ひとつの面を直しても、別の場所でまた喰われる。

 アヤメが言った。

「だから、白影宮が動きます」

 静かな声だった。

「サヨ様を守るために。まだない役を、勝手に封じさせないために」

 セイランは、その言葉を聞いていた。

 しばらく沈黙してから、彼は低く言う。

「陰陽寮として、白影宮へ公式に協力することは、今は約束できません」

 アヤメの目が鋭くなる。

「でしょうね」

「ですが、私個人の記録として、月喰い現象の条件と危険性はまとめます」

「それは協力ですか」

「記録です」

 セイランはそう答えた。

 けれど、今度の「記録です」は、ただの逃げには聞こえなかった。

 制度の内側にいる彼が、制度に呑まれないために使える唯一の言葉。

 それが記録なのだ。

 ヒヨリが、机の上で小さく鳴いた。

 紙の擦れるような声。

 セイランは、初めて少しだけその頭を撫でた。

「それと」

 彼は言った。

「もし陰陽寮の上層がこの記録を握り潰した場合、別の写しを残します」

 アヤメが少し目を見開く。

「それは、規則違反では」

「はい」

 セイランは即答した。

「軽いものではありません」

「なら、なぜ」

 セイランは、反転した記録紙を見た。

「自分の書いた字が読めなくなる恐怖を、私は初めて知りました」

 彼の声は静かだった。

「記録が読めなくなる。自分が何を書いたのか、誰のために書いたのかもわからなくなる。それは、私にとって役を喰われることに近い」

 イロハは黙って聞いた。

「だから、読める形で残します。私が陰陽寮の人間である限り、それが私の役です」

 アヤメは、しばらくセイランを見ていた。

 そして、わずかに頭を下げた。

「その記録、白影宮にも写しをください」

「正式な手続きでは」

「正式な手続きでは間に合いません」

 セイランは苦い顔をした。

「……検討します」

「今のは、渡すという意味で受け取ります」

「白影宮の方は強引ですね」

「守る役ですので」

 その言葉に、セイランは少しだけ黙り、ヒヨリを見た。

 読む者。
 記録する者。
 守る者。
 直す者。

 それぞれの役が、少しずつ見え始めている。

 だが、それを月が見逃すとは思えなかった。

 星見楼の高窓の外には、まだ半月があった。

 暦どおりの月。

 けれど、もう誰もそれをただの半月とは見ていない。

 イロハは、白絹と《ナナツジノホシ》を見比べた。

 月は装置かもしれない。

 喰う口ではなく、映す鏡。
 あるいは、役を封じる古い器。

 ならば、次に来るのは月そのものではない。

 月に映った記録を利用する者。

 役を定め、未定義を封じ、制度の名で人の顔を決める者たち。

 イロハは、まだ見ぬ仮面籍庁の影を感じた。

 月の白さよりも、ずっと冷たいものが、すぐ近くまで来ている。