EP 39

第4話 陰陽寮の月読み

終節 ― 反転する報告書

Source: 04_09.txt

 星見楼の夜は、深くなっていた。

 高窓の外には、まだ半月がある。

 暦どおりの月。
 欠けたままの月。
 陰陽寮の記録に従うならば、何ひとつおかしくない夜。

 けれど、もう誰もその月を信じきることはできなかった。

 水に映れば満ちる。
 面の裏に入れば白く噛む。
 方位盤の内側では、暦を裏切る。
 記録紙の上では、文字を反転させる。

 空の月は正しい。

 だが、正しい月だけが月ではない。

 セイラン=ナナツジは、長机の前に座っていた。

 彼の前には、新しい報告書が広げられている。
 先ほど反転した記録紙は、すでに別の白符で押さえられ、机の端に置かれていた。

 触れればまた何かが起こるかもしれない。

 けれど、捨てることもできない。

 それもまた、記録だからだ。

 ヒヨリは、セイランの肩ではなく、机の隅に座っていた。さっきまでなら命令を待つ式神の位置だった。だが今は違う。紙狐は、セイランが筆を走らせるたび、文字を見守るように小さな目を動かしていた。

 イロハは、少し離れた場所で白絹を見ていた。

 白影宮の空の面箱に敷かれていた布。

 今は静かだ。

 月も浮かんでいない。
 面の輪郭も消えている。
 ただの白い絹のように見える。

 それなのに、その白さが怖い。

 白とは、何もない色ではないのだと、イロハは知り始めていた。

 喰われた痕も白い。
 未完成の面も白い。
 隠された役も、まだ名を与えられる前は白く見える。

 アヤメは、白絹の近くに立っている。

 彼女の立ち位置は、最初から変わらない。

 サヨに関わるものと、月の異常との間に身を置く。

 それが今のアヤメの役だった。

 セイランは、ゆっくりと筆を走らせた。

 報告書の内容は、慎重だった。

 暦上の月齢と異なる満月反応。
 式面内側における白化。
 方位盤における皇女関連物の未定義反応。
 ただし、未定義と未作成は区別を要す。
 鏡水における不明反射。
 白面状の観測異常。
 月そのものを原因と断定せず、反射媒介としての性質を疑うこと。
 役を喰う現象は、技術の喪失ではなく、役へ入る入口の欠落として現れること。

 彼は、ひとつひとつ言葉を選んでいた。

 強すぎる言葉を書けば、上層に握り潰される。
 弱すぎる言葉を書けば、仮面籍庁に都合よく使われる。
 曖昧に書けば、サヨの空白が「危険」として処理される。

 記録とは、ただ事実を並べるものではないのだと、イロハは初めて実感した。

 書き方ひとつで、人は守られる。
 書き方ひとつで、人は封じられる。

 セイランは筆を止めずに言った。

「この報告は、陰陽寮の正式記録として上げます」

 アヤメが問い返す。

「上に渡せば、仮面籍庁へ流れる可能性があります」

「あります」

「ならば」

「ですが、上げなければ、陰陽寮は何も知らなかったことになります」

 セイランは、顔を上げなかった。

 声だけが静かに続く。

「知らなかったことにすれば、白化面は個別の事故として処理される。神楽師の舞面は使用停止。戦面は封役。星読式面は不具合として交換。白影宮の白絹は危険物として封じられる」

 イロハの胸が冷えた。

 それは、ありそうな未来だった。

 そして、あまりにも役所らしい未来だった。

 壊れたものは取り上げる。
 不安定なものは封じる。
 未定義なものは定める。
 定まらないものは、存在しなかったように扱う。

「だから、書きます」

 セイランは言った。

「ただし、白影宮にも写しを渡します。陰陽寮内の写しとは別に」

 アヤメはわずかに目を細めた。

「それは、規則違反ですね」

「はい」

「先ほどより、答えが早くなりました」

「事実ですから」

 ヒヨリが、机の端で尾を小さく振った。

 イロハは、少しだけ息を吐いた。

 セイランは、完全に味方になったわけではない。

 彼は今も陰陽寮の人間だ。
 制度の内側にいる。
 王朝の暦と方位を守る役を持っている。

 けれど、その制度の中で、記録を隠さず残そうとしている。

 それは、彼なりの抵抗なのだろう。

 セイランは最後の一文を書き始めた。

 ――本件は、月光そのものによる単純な怪異ではなく、仮面籍・王朝儀礼・皇族面の未成状態に関わる、役反映現象の可能性あり。

 筆が、そこで止まった。

 墨が紙に落ちたまま、じわりと滲む。

 イロハは、嫌な気配に顔を上げた。

「セイランさん?」

 セイランは動かない。

 筆を持つ手が、固まっている。

 ヒヨリが机の上で身を低くした。

 アヤメが白絹の前へ一歩出る。

 報告書の最後の一文。

 その下に、墨が勝手に伸びた。

 セイランは筆を動かしていない。

 それなのに、文字が生まれていく。

 左右が反転した文字だった。

 鏡に映さなければ読めないはずの文字。

 だが、イロハには読めてしまった。

 未在を定めよ。
 定まらぬ役は、封じよ。

 星見楼の空気が、凍った。

 セイランの顔から血の気が引く。

「私は……書いていません」

 掠れた声だった。

 だが、その筆跡はセイランのものだった。

 線の癖。
 払いの角度。
 墨の置き方。

 全部、彼の字だ。

 けれど、彼の意思ではない。

 イロハは、反転した二行を見つめた。

 未在を定めよ。
 定まらぬ役は、封じよ。

 それは月の言葉なのか。

 鏡ノ客の言葉なのか。

 それとも、もっと別のもの――この国の制度そのものが、紙の裏側から吐き出した命令なのか。

 アヤメが低く言った。

「破棄してください」

 セイランは動かなかった。

「セイラン殿」

「破棄できません」

 彼は、青ざめた顔で答えた。

「これも、現象です」

「その紙が仮面籍庁へ渡れば」

「渡しません」

 セイランの声が、初めて強くなった。

「この反転部分は、陰陽寮への正式報告からは外します」

「改竄ですか」

「違います」

 セイランは、震える手で白符を取り、その反転文字の上へ重ねた。

「観測異常として別紙に分けます。現象そのものは隠しません。ただし、命令文として利用されない形で記録する」

 ヒヨリが、尾で机を軽く叩いた。

 肯定のようだった。

 イロハは、反転文字から目を離せなかった。

 未在を定めよ。

 サヨのことだ。

 定まらぬ役は、封じよ。

 ハルマサの戦面も、ユラの神楽面も、セイランの星読式面も、そして自分の《ナギノオモテ》も。

 すべて、その言葉の中に入ってしまう。

 月より恐ろしいのは、白い歯ではないのかもしれない。

 恐ろしいのは、喰われた痕を見て「ならば定めよう」と言う人間の手だ。

 その時、星見楼の外で足音がした。

 複数の足音。

 規則正しく、乱れのない歩き方。

 陰陽寮の者ではない。

 アヤメがすぐに気づく。

 彼女の手が刀へ触れた。

 扉の向こうで、低い声がする。

「仮面籍庁より、使者にございます」

 セイランの顔色が、さらに悪くなった。

 イロハの喉が詰まる。

 早すぎる。

 まるで、報告書が書き終わるのを待っていたかのようだった。

 扉が開く。

 入ってきたのは、灰白の官衣を着た男だった。

 面はつけていない。

 だが、胸元には仮面籍庁の札が下がっている。四角い札の中央に、閉じた面箱の紋。役を収め、役を定める役所の印。

 男は、室内を一瞥した。

 イロハ。
 アヤメ。
 セイラン。
 白絹。
 星読式面。
 押さえられた反転文字。

 見たはずなのに、何も見なかったような顔をした。

「夜分に失礼いたします」

 声は丁寧だった。

 丁寧すぎるほどに。

「仮面籍庁より、陰陽寮および白影宮関係者へ通達をお持ちしました」

 アヤメが前へ出る。

「白影宮関係者とは、どなたを指しますか」

「サヨ=ミカゲ様に関わる面および役面の件にございます」

 アヤメの目が冷えた。

「皇女様の件を、役面の件と呼ぶのですか」

 使者は、表情を変えなかった。

「庁内分類では、そのように扱われます」

 イロハの胸の奥が、かっと熱くなった。

 庁内分類。

 その言葉ひとつで、サヨは人ではなく案件にされる。

 空の面箱も、白絹も、まだない役も、分類の中に押し込められる。

 使者は、封書を差し出した。

 灰白の封。
 黒い紐。
 封蝋には、閉じた面箱の印。

 セイランが受け取る。

 手つきは慎重だった。

 開くと、中には短い通達があった。

 白化面および不安定役面の再検査について。
 定役面《コトサダメ》による臨時審査を行う。

 それだけだった。

 だが、その短さがかえって冷たい。

 ユラの神楽面。
 ハルマサの戦面。
 セイランの式面。
 サヨの白絹。
 イロハの《ナギノオモテ》。

 不安定役面。

 その一語で、すべてを並べられてしまう。

 アヤメが低く言った。

「仮面籍庁が動きました」

 セイランは、通達を持ったまま沈黙している。

 ヒヨリが、彼の袖を小さく引いた。

 イロハは、机の上の星読式面《ナナツジノホシ》を見た。

 表は美しいままだ。

 白木に淡青の星図。
 七つの星点。
 交差する辻文様。
 青銀の星糸。

 けれど、内側には白い月痕が残っている。

 星を読む入口を塞いだ、丸い噛み跡。

 あれは月の傷だ。

 だが、今この場に届いた封書は違う。

 月ではない。

 人間の手で書かれたものだ。

 人間の役所が、人間の制度で、人間の役を定めに来た。

 イロハは、静かに言った。

「月より先に、人が役を決めに来るんですね」

 誰もすぐには答えなかった。

 星見楼の高窓の外で、半月が雲に隠れた。

 室内には、紙と墨と星砂の匂いだけが残る。

 だが、イロハにはもう、月の白さよりも、封書の灰白のほうが恐ろしかった。

 未在を定めよ。
 定まらぬ役は、封じよ。

 反転した報告書の文字と、仮面籍庁の通達が、同じ意味を持ち始めている。

 サヨの面は、まだ作られていない。

 だが、その前に。

 この国は、彼女の役を決めようとしている。

 第四話 ― 陰陽寮の月読み
 了